2002年5月の日誌
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5 月 26 日 (日)  



 多くのお客様がお見えになりました。
 24日は政宗公の367回忌でした。本殿の前には18代当主、殉死者後裔者、藩士会、財団法人瑞鳳殿の献花が飾られていました。又20人の殉死者の供養碑「寶篋印塔ホウキョウイントウ」にも供花されていました。
 18代当主は仙台にお住いなのか、寶篋印塔はお墓なのか等のご質問が相次ぎました。

 1966年に○○仙台病院の看護学校を卒業されたご婦人50人。政宗公は伊達男とガイドしたら、全員で私をみて「ナットク」との声。紅一点ならぬ黒一点はたじたじでした。36年前の寮生活の青春の思い出を楽しげに滔々と語られました。オバサンではなく 皆さん生き生きしておられました。青春万歳。

 岐阜県下から今朝の飛行機でおいでの団体。案内のガイド嬢。「アッ専門のガイドさん居る、お願い」 嬢は30分ガイドしてとの事でしたが、政宗公に馴染みのない他藩の方々に興味深く聞いて頂けるのは15分が限度でした。

 瑞鳳殿の瑞は おめでたいの意味ですとガイドしていたら、「瑞希」と書いて「みずき」と読む名前ですと、聞いて居たお嬢さんが云われました。途端に「それはオメデタイですネ」と言いかけて口を閉じました。お嬢さんオメデタイですねと申せば誤解されますよネ。

 5月14日の日誌に、瑞鳳殿公園地区の入り口の案内板の表示が「鳳凰の向きが異なっているのでは」と記載しました。H代表と精査しました所、異なっていませんでした。今一つ「3ケ国語」で表示は4ケ国語で表示されていました。従前は日・英の2ケ国語でした。2000年のお付き合いのある国々を大切する事はよろしい事とおもいます。
私たちが精査をしていたら、観光タクシーのプロから2・3聞かれお答えしましたら、これで自信を持って案内出来ると云われました。まじめな方です。釈迦に説法の感じもあります。

 本殿の前で私とH代表に、観光タクシーのプロ2組と計4人の競演になった一瞬がありました。
今日もガイドあってヨカッタの一声ありました。満足です。



5 月 19 日 (日)  



 あおばまつり の日です。青葉祭りは青葉神社の祭典で、本来は政宗公のご命日の24日で、学校も金融機関も休んでお祭りを祝ったと聞いておりました。

 1620年代に政宗公は城下に飲料水・生活用水を供給する目的で、四ツ谷用水を築造しました。近代上・下水道の布設まで活用されていました。現在は大崎八幡宮付近に痕跡を残すのみです。国家100年の大計と申しますが、これは政宗公400年の大計です。この歴史的遺産を後世に伝えるのみならず、情緒のある街並みを期待して、ついては瑞鳳殿と同じ年代に創建された桃山様式の豪華華麗な大崎八幡宮の境内に復活できればの思いから、「四ッ谷の水を街並みに」の会に入会しました。昨日は大崎八幡宮付近の皆様の「四ッ谷用水を語る会」の設営要員に参加致しました。

 青葉祭りの日ですから、瑞鳳殿でガイトすべきでしたが、お休みしました。でも、政宗公に関わった日でした。



5 月 17 日 (金)  



 雨です。入梅に入った感じです。柏木市民センターの講座で、同地区の寺院を訪れました。

 称念寺さんの1812年建築の本堂正面の欄間の柱間に三枚の見事な透かし彫りの紅白の牡丹の花がありました。涅槃門の内側の紅白の牡丹の花にも、勝るとも劣らない見事なものです。ご住職は「お寺ですから蓮の花です」との事。ご住職の許しを得て撮影して参りました。涅槃門と相似しております。蓮の花であれば、涅槃門でのガイドが誤っていたことになります。仏門と牡丹の関係について、あらためて宗門の方に教えをお願いする事に致します。

 昌繁寺さんでは、1692年に完成した8963人の毛髪で刺繍した「毛縫曼陀・ケヌイマンダラ」の拝観を特別に許して頂きました。白髪も茶毛もありした。当時の城下の大多数の老若の町人が参加したのではと思われます。お釈迦様を中心に、池に蓮の花が咲き、又天女さんが舞って、極楽の様子が描かれておりました。
 瑞鳳殿の正面には、お釈迦様は描かれておりませんが、瑞鳥に天女さんに蓮が描かれています。正に極楽の様子を表しています。

 5月13日の日誌について、代表のHさんから、次の様にご教示頂きました。
瑞鳳寺は管理寺、瑞巌寺は菩提寺「位牌寺」です。
瑞巌寺について「権力の誇示のみならず民心の安定への思いが込められていたのではないでしょうか。」
 日誌は訂正しました。ご教示ありがとうございました。

みなさま 外にもお気づきの所ありましたら、お知らせ頂ければ幸いです。
 



5 月 15 日 (水)  



 昨日の勉強会の続きとして、
 Oさんから、臥龍梅に実が1ケ程度しか実っていないのは剪定しないからでは。諺に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」あります。枝きりをすれば実はなる筈、でもここは実を採らないで、花のみを観賞するのが目的であれば、それはそれ致し方ない事でしょうと。そうですネ、私の実生の夢は実現困難の様です。

 今一つ、瑞鳳殿の再建の際に県内の町村で只一ケ所のみ寄付を断った処があるとの風評があると洩らしたところ、帰宅後の家族への報告会で1591年6月の事件に関係する所ではの暗示がありましたと話をしてくれました。これは風評が本当かの確認は、まず協賛名簿と町村な突合でしょう。近々突合しましょう。

 私のガイドを聞き流す事無く、ご家族に話しをし、又、その結果ヒントになる事をすぐ教えくださるとは有り難い事です。



5 月 14 日 (火)  



 晴れ間がでました。
 よっこよりの仲間のAさんとOさんにYさんが、ガイドの為の写真を主体とするガイドブックを作る事を企画し、現地勉強会を今日開催しました。
下馬石から始まり、六十二段の石段を数え、瑞鳳殿・感仙殿・善応殿・妙雲界廟・公子公女御廟まで、約三時間かけ丹念に回りました。
 Yさんは特に熱心で写真を撮り、資料と突合し質問をされました。私も勉強になりました。写真を主体とするガイドブックの完成が楽しみです。

 瑞鳳殿公園地区の入り口の案内板がカラー版になり、ワールドカップ対応でしょうかハングル文字でも解説していました。これからは3ケ国語できれば4ケ国語での案内板があれば最高と思います。

 案内板に戦災焼失前の瑞鳳殿本殿正面の拡大写真がありました。現在はほぼ100パーセント近く復元されたと聞いていまして、その様にガイドしておりました。
でも、全体としてはそうですが正確に復元されているとは言い得ない様です。鳳凰の向きが異なります、上段瑞鳥に蟇股が見えません。精査してみたいと思います。現在の天女さんは豊満で肌を露わ出しています。現代風です。370年前にこんなに進歩的であったのかいささか疑問を感じていましたので。



5 月 13 日 (月)  



 今日は気温11度と肌寒く、城下はグリム童話の魔女の様なコートを着た方々が闊歩しておりました。

 昨日、観光タクシーのお客さんが「誰が瑞鳳殿と名付けたのか。瑞鳳寺、瑞巌寺と瑞の文字が多いが何故か」とガイド兼運転手氏に問いかけていました。答えは聞き漏らしました。

 誰が瑞鳳殿と名付けたのかは。
施主である18世2代藩主忠宗公以外には居ないでしょう。では原案を提示したのは誰か。瑞巌寺住職と推定しますが、確証には至っておりません。おわかりの方教えてください。

 政宗公の戒名は「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」です。

 瑞鳳寺、瑞巌寺と瑞の文字が多いが何故かは。
大修館現代漢和辞典・角川漢和辞典・岩波国語辞典・広辞苑によれば、
瑞とは「めでたい」の意味でありました。
鳳とは「想像上の瑞鳥で、雄のおおとり」の意味でありました。雌は凰「オウ」との事です。
殿とは、「貴人の住まい、宮殿」の意味でありました。
 これらから瑞鳳殿とは、「めでたい しるし の雄のおおとり の住まいする宮殿」の意味になるようです。

参考まで、平凡社「宮城県の地名」等によれば、
 
 瑞巌寺は。
 正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」読み方は(ショウトウセイリュウザンズイガンエンプクゼンジ)といい、臨済宗妙心寺派です。寺伝よれば828年に始まるそうです。
1605年に政宗公によって、用材を紀州・熊野から伐り出し、山名・紀州の名工約130人、丸4年の歳月をかけ、完成・復興されました。
1636年に政宗公の師である雲居和尚が中興開山となりました。以来1862年まで伊達家累代の菩提寺でした。

 瑞鳳寺は。
 政宗公の追善に1936年9月に創建され、覚範寺三世清岳を開山とした。以来、伊達家の香華所となっていた。1896年火災により廃寺同様となり、1926年本堂が完成、以後逐次復興し現在に至りました。

 上記のこれからすれば、瑞巌寺があり、瑞鳳殿が創建され、管理寺の瑞鳳寺が創建された事がはっきりします。瑞の文字が多い訳はこの辺にありと理解されませんでしょうか。正解は別でしょうか、教えてください。

 



5 月 12 日 (日)  



 はしり入梅か、暖かくない曇りの天候。参拝の方々は少なかった。観光タクシーでの参拝者が目立ちました。

 運転手氏に「昼食はどんな処に案内しているのですか」と聞いたら、「寿司屋か牛タン屋が多いが、時間を惜しんで観光される方も結構おいでになり、内心難しいところ」との返事でした。
 空港から瑞鳳殿等に直行するお客さん、それも予約なしに、が結構います。仙台市内観光は先ず、瑞鳳殿に、博物館に、仙台城址にが定番コースで、あとはお客様の希望で美術館に、大崎八幡宮に、等が加わります。と資料館を見物中のお客様を待つ運転手氏からの情報でした。

 敷居は踏んではならない。これは華道や茶道の作法と云うまでなく、日常生活のマナーとして、私は躾られた。これは敷居に異物が入って戸障子の開閉に支障を来さない様にとの合理的考えによるものと理解していました。涅槃門に入退出の際に敷居部分をわざわざ踏んでいる人がいます。洋風の住居で慣れた人かなとも思いましたが、そのようにも見らけられませんでした。

 「ガイドして頂けますか」と50代と20代後半の3人連れに声をかけられ」ました。
本殿前でのガイドが終わり、香炉の前に来た処で、「東北大学史学科です」と申されました。。「お人が悪い」と申したら、「建物は詳しくないから」とのことでしたが、プロにガイドするほど勉強はしておらず、内心あわてました。



5 月 6 日 (月)  



 GW最終日。昨日までの怒濤のごとくの参拝客は夢のごとし、早春のつららの溶けた水の様にポツリポツリでした。

 欧米系の若者男女10人の参拝客、熱心に瑞鳳殿本殿をカメラに納めていました。ポイントを手振りで示し、他の参拝客にも協力を依頼したところ、アリガトウと日本語で数人からお礼を云われ、恐縮してしまいました。
 彼らは先人に敬意を表してから、鑑賞・撮影します。便宜供与には礼を言います。この礼儀ある行為を好しく感じました。

 今日の定期観光バスのガイド嬢は丁寧に案内していました。今1台の貸し切りバスは入り口でお客さんを放置してしまいました。お客様には残念です。私はプロに一目おいております、依頼されない限り、仁義としてガイドする訳にはいきません。

 拝殿に腰を掛けて缶ビールを飲んでいる男がおりました。本殿の極楽を見ながらのビールは美味しいでしょう。私は不快でしたが何も言いませんでした。

 4月27日から5月6日までの11日間の要望がありましたが、半分の5日間しか出来ませんでした。又毎日曜日午前はガイドするつもりです。よかったらお出かけください。



5 月 5 日 (日)  



 夜来の雨も上がり、新緑がまぶしく光り輝いております。
今日もガイドブックを持参された観光客、特にファミリーが多かったように感じました。

 自分も観光ボラガイドを角館町でしているとのファミリーが見えられました。さすが質問をするタイミングを心得ておられ、話の腰を折られる事もなく、満足頂けるガイドが出来たと思いました。
 伊達家の家紋を本殿でガイドをしている際、息子さんが我が家の家紋があると軒をさした事から、先祖は会津の葦名家に仕えていたが故あり、佐竹家・北家に仕え以来現在の角館に居住している。何故、我が家の家紋が瑞鳳殿本殿に表示されているか、非常に不思議かられていました。私にもわかりません。
 政宗公が仙台を開府する以前に、統治していた国分氏は事情があって、常陸の佐竹家を頼り、後に横手の城代となり、同城下の寺に葬られたと話をしたら、昔は色々あったのだなと 、何となく理解した様です。
 角館のガイドは予約制の有料との事でした。
わかりやすく、楽しい一時でしたとの世辞を残していきました。

 今日は幾分日差しが強かった為か、飲料ボトルを本殿前まで、ぶらぶらさせながらの方を何人と無くお見かけ致しました。ご自分の菩提寺・墓前なら、それも結構でしょうが、先人政宗公の前では失礼ではないかと思います。でも、何とも申し上げません。

 今日は3人から5人の団体に主にガイドしました。なんか一番ガイドが楽しくなる人数の様です。



5 月 4 日 (土)  



 連休の中日、兄弟・親戚一同や老いた親を案内しての小団体がかず見かけられました。

 涅槃門から拝殿までの階段は段差が厳しくて、バリァーフリー化されておらず膝の具合の悪い高齢の方には難儀です。息子さん夫妻等が両方から抱えて登られて居られるのを数組、お見受け致しました。「3段登って一休みする様になっています。殿様や重臣になった気分でゆっくり登られたらよろしいですよ」とお声かけ致しました。

 「参道の六十二段の石段の踏みしろの奥いきが長いのは何故か、殿様の乗った籠が傾かない様にからか」のご質問がありました。
坂の遙か下に下馬石があります。家来はここで馬から下り、殿様のみは籠で登ったものなのか、石段の傾斜は結構あり、縦に登れば殿様はずり落ちそうになります、と申して殿様の権威からして四国金比羅宮の籠の様に横向きでは登らないと思います。と以上の思いを申して正解はわかりませんとお答え致しました。

 家紋のガイドから、本殿前の豪華な鎚起銅製大香炉と香炉舎各一対は 仙台最古の老舗が古来の伝統技法の銅板を叩いて作ったものであるとガイドしたところ、仙台在住の方がおられて「ああ」と申しました。私は店名を申し上げなかったのですが、結びついたようです。さて、この古来の伝統技法は伝承されているのでしょうか。

 「門が傾いていると書いたものを読んで来た。どの門か」のご質問がありました。
傾いた門は無く、聞き返しました。でも、同様にお尋ねになります。傾いた門はありませんと、お答えしたら不満な様子でお帰りになりました。
 帰宅して色々考えました。瑞鳳殿の対の動物は総てが右側は口を開いています、左側は口を締めています。処が本殿の扉の家紋の雀だけは左右反対です。ハタと気づきました、この竹に雀の家紋の事をお尋ねになったのかと。

 瑞鳳殿の再建に際しては再び戦火で焼失したくない、昭和の技術を後世に伝えたいの思いから当時の最新の技術で復元されました。本体に鉄骨・コンクリート等が使用されました。現在の風潮では完全木造での復元が基本となるでしょう。と申しましたら、軒を指してあの光るのはステンレスかの、ご質問がありました。

 感仙殿に至る道で、「この先には、あの土蔵がまだあるのか」と声をかけられました。桃山様式の豪華華麗なご廟を「土蔵」と呼ぶ習わしの処があるのか、ハタと考え込みました。

 今日は沢山の参拝の方がおいでになり、色々勉強になるご質問を頂きました。
今日の出会いも楽しいものでした。



5 月 3 日 (金)  



 憲法記念日。何の日か考えることなく、絶好の行楽日和と理解している人が多いように見受けられます。
 
 定期観光バスは定員一杯のお客でした。観光ハイーでの参拝?の方も多数てした。今日はハイヤーの運転手さんは自分でご案内をされていました。

 今日は涅槃門の内・外を丁寧に見られる方、それなりに居られ、創建当時の素晴らしい美術工芸の技術に驚嘆され、また目線から外した処に豪華華麗な彫刻等を配置した妙味にこれまた感嘆されていました。
涅槃門の柱に触れられて、やはり木材の感触は暖かみがあると長野県からおいでの方が洩らされておいででした。木に関わるお仕事の方でしょうか。

 昨秋、非常に雰囲気が良い少人数のご婦人の団体での参拝がありました。雰囲気の良さに、感仙殿・善応殿・妙雲界廟に、そして御子様廟迄ガイドをしたことがありました。御子様廟迄ガイドしたのはこの時 只1回だけです。その時の方がご夫妻で見えられました。今日は涅槃門・拝殿・本殿までをガイドしましたが、この限られた箇所で 総て前回と同じ話にならない様に、如何に昨秋にガイドしなかった事を加えるか、いささか苦労しました。でも再来は有り難いです。(*^_^*)

  仙台市文化財課の講座受講生の数人が瑞鳳寺の門前で政宗公の事績等を詳細にガイドをしていました。



5 月 2 日 (木)  



瑞鳳殿の新緑は生き生きとしております。

 仙台西高等学校の1年生240人の課外学習として瑞鳳殿・感仙殿・善応殿をガイドしました。
120人が6班に分かれて貰い、午前・午後の2回、よっこよりの仲間のべ13人でガイドしました。

 両親の何れか、または祖父母が仙台生まれの人は皆無に等しく、生徒自身も瑞鳳殿が初めて訪れたが大部分でした。正に100万都市仙台です。新・仙台人がどんどん主流になっていると実感しました。

 我々の孫にも等しい年齢の生徒に、短時間でのガイドで、どれだけ理解をしてくれたのか。我々の思いがどれだけ伝わったか不安が残りました。でも楽しい出会いのひとときでした。

 一番 嬉しかったことは、最後に握手を求めてきた生徒が数人いたことです。拍手されたことはありましたが握手は初めてです。感謝・喜びの表現として握手があることを知りました。彼らの前途に栄光が輝くことを期待したい。

 





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