2002年9月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




9 月 30 日 (月)  



 「ぐるーぷよっこより」の移動現地勉強会が政宗公の股肱の臣「片倉小十郎景綱」の居城であった白石城を中心にありました。

 外堀跡に駐車をして、沼の丸、中の丸、二の丸、本丸と進み、眼下に三の丸、外曲輪を望見し、又、木造で完全復元された大櫓を仰見しました。この間H代表から城内の大きさ、配置、給水、石垣等について詳細な解説がありました。続いて、外堀の機能を示した沢端川沿いを、そして白石の地名の起源になった「白い石」を見学し城下町の佇まいを実感しました。

 景綱公は1602年に白石城主になり、1605年に入城、大阪冬の陣1615年の9月4日病床にあって、仙台に帰城途中の政宗公のお見舞い受け、10月14日59歳でなくなりました。時に政宗公49歳でした。

 片倉家廟所は至近の位置にありながら、今回の勉強会の箇所から外れました。瑞鳳殿をガイドしている者としては残念でした。



9 月 29 日 (日)  



 夜来の雨で濡れていました境内は、昼にはすっかり乾いておりました。眼下の広瀬川のセコイヤ類化石林のある付近の川原で数組が「芋煮会」を楽しんでいました。

 若い女性から、聞きにくそうにご質問がありました。「この華麗な色彩は大陸や台湾と関係がありますか。私は中国人で、先日台湾に行って来ました、なんか似ている様に感じますが」驚いて「私のガイドは理解できますか。中国人は台湾に自由に渡航出来るのですか」と尋ねましたら「日本人と結婚して日本人ですから」と返ってきました。続いて「桃山文化との事ですが、ナゼ桃山文化と云うのですか、それ以前の文化は何文化と云うのですか。」「パンフに62万石(いし)とあるが、この石は何か」でした。なかなかのご質問でした。受験に仙台に来たで、その前に散歩に来ましたとの事でしたが、パンフを後で見ましたら62万石は書かれていませんでした。私をテストをしたのかなと思いました。

 ガイドの糸口にどちらからとお尋ねしたら、今日の人々は全員東京の人でした。
感仙殿までガイドをした4人連れのご婦人も「東京の女」との事でした。「仙台は初めて、意外と近いのよネ」とのことで「ハイ東京駅の次の停車駅は仙台です。2時間切れています」と返事をしたら「私たち大宮から乗ったの」との事でした。サイタマ都民は決して埼玉県から来たとは申さないようです。
 一般的に自分の県の県庁所在地名を申される傾向を感じます。北海道なら札幌、神奈川なら横浜、石川なら金沢と。
 ガイドをして1年半余になり、お会いした人々の県をチェックしておりますが、西の方がまだチェックついてない県が多数あります。全部チェックで埋まるのがいつになるのかが楽しみです。

メモ
 広瀬川のセコイヤ類化石林とは
約300万年に生息していた森林が火山灰に埋まり桂化木や埋木になったもの。完全な姿で残っている例は珍しく、仙台市の記念物に指定されている。
 



9 月 22 日 (日)  



 朝一番の参拝客の方々にどちらからお出ででしょうかとお尋ねしたら、清水市からとの事。先日は高齢の方々が清水市からお出でになりました。今日は日本を背負っている現役バリバリの男女の団体でした。清水市は静岡市との合併を目前に政宗公ブームがナ起きているのかナと思いました。その後サッカー応援の七つ道具を持参された方々の参拝が続きましてハタと思い当たりました。サッカーJ1の昨晩の仙台スタジアムの試合の応援の方々でした。この現象をJ1効果と呼ぶのでしょうか。

 3連休の中日で、観光バスは皆無で観光タクシーは数台でした、個人のバス利用の方々が多数でした。本殿の扉は正月2日と御命日の5月24日に開かれますと申したところで、お嬢さんから歓声がほとばしり、お連れと笑みを交わされていました。ガイドを終わった時にお尋ねしたら、政宗公の御命日と自分の誕生日が同じなのでツイと申されました。

 涅槃門で、門を潜れば涅槃の世界に入ったと考えているとガイドしたら、中年の姪達を引率した感じの方から、さすれば「彼岸」と同じなのかと聞かれました。御彼岸には墓参をするものと心得てはいましたが、彼岸の正確な意味を理解していませんでしたので、教えて下さいと申しました。教えて頂けませんでした。でも、御一行様は菊の紋所、透かし彫り等のガイドを聞いて大変にご満悦な様子でした。

メモ
 彼岸とは、この世「此岸シガン」に対して、煩悩の世界を超えた悟りの境地。涅槃の境地。
 以上は、大修館現代漢和辞典によりました。
以上は岩波・国語辞典に依りました。



9 月 16 日 (月)  



 振り替え休日。参拝客は果たしてどうかなと思っていたら、昨日曜日以上の人出、昼から大雨となり腕や爪先が濡れ放題となり、また傘や合羽越しのガイドはお聞き取り難い様なので終わりにしました。事務所では来週の3連休の天候と人出を心配していました。

 宇和島・伊達家の家臣の末裔と称するご夫妻がお見えになりました。宇和島六代藩主の次男の宗コ公から拝領した「三引両の家紋いりの木杯」を長兄から相続をしました。木杯は伊達家とのつながりを示す貴重なものでしょう。宇和島藩祖秀宗公に随行した筈の祖先の資料収集に今回来仙しました。資料館長伊達様から良い図書を紹介されました。これから本屋にて購入をします。実りある旅となりました。宇和島も空襲で資料や宝物が焼失しています。由緒ある寺に墓地があったのだが・・・等のお話を大雨を避け拝殿で熱く語られました。
 父や兄から祖先のことをもっと聞いて置けばよかったと最後に洩らしていました。あかとんぼも同感です。

 各地の観光地で遭遇する旅行会社近○ツリ○のバッチの団体が朝一番に見えました。群馬支店だそうです。この会社の添乗員の適切な誘導に感心をします。

 壮年の男性、こんな観光資源の無い処には長居は出来ないと叫びながら降りて行きました。御廟をお参りしていて観光資源が無いと叫ぶのは、自分の事前調査不良・知識の欠陥の発露ではないでしょうか。この方現役として日常業務の処理は大丈夫でしょうか。

 雨で乱反射が無く、御霊屋全体がしっとりとした美しい輝きを見せていました。

 

 



9 月 15 日 (日)  



 ガイド80日回目にして初めて傘をさしました。間もなく爽やかな日差しが照りました。8日は全員欠席で、今日はH代表に、Uさん、Yさんの4人でガイドしました。参拝客の皆様としては、ガイド不在となる事なく常時数人居て欲しいと思うでしょう。

 新潟・長岡からバスで参拝された方々から、何故ここが空襲されたのか、長岡は山本五十六元帥の生誕の地なので全市街地が空襲された。仙台に山本元帥に匹敵する人はいたのか。のご質問がありました。匹敵する人となれば今村均大将でしょう。今でも崇拝する人々は墓参をしております。なせ墓地が空襲されたかはわかりませんとお答えしました。暫くお客様同士で爆撃地選定について討議しておりました。被爆地の人々が討議してもむなしい話ではないでしょうか。

 欧米系の3人に日本女性1人の一行が本殿を見上げて、ナゼと語り合っていましたので、話中に入りパンフレットに記載の無い事柄をガイドしました。本殿から拝殿に、涅槃門と逆コースでご案内を致しました。ペアの動物は全て阿吽になっています。阿は修行の始まり、吽は修行の終わり、阿吽は悟りの境地を示すと申したら、修行とは何か、悟りの境地とは何かとなりました。又、正面は極楽を表現していると申したら極楽とは何かとなりました。これは天国で理解した様です。殉死者の供養碑の前で殉死をいかに理解して貰えるかと思っていたら「おー自殺ネ」と返ってきました。欧米で殉死はあるだろうかとなったら、エジプトはピラミットでネの答えでした。これにすかさず日本女性から「あれは強制的にあの世に連れて行かれたのでしょう。殉死は尊敬する人に自発的に随行したのです」と答えました。
 この欧米系の人々は中学校の英語の先生として来日した人々で米国人ではなく、2人は来日して日が浅いが、1人は1年になりある程度日本語を理解出来るとの事でした。NHK朝ドラ「さくら」の主人公と同じような人達でした。
 今日は来日1年で理解出来る日本語の語彙でのガイドの楽しさを味わいました。

 観光客の流れが途切れる事無くスムースでした。ループルバスが15分間隔で運行した成果でしょうか。七夕期間中は30分間隔で、乗せ切れなく30〜40分も炎天下で待たせた事について、先日にシニァネット仙台を訪れた市議員にその実態を話し致しました。早速行動に移し改善が実現したのでしょうか。



9 月 1 日 (日)  



 久々の夕陽で雲を赤く染めています。日中は心地よい暑さでした。
参拝の方々は幾分少なめになったように感じました。

 朝一番に観光バスの一行、秋保温泉に宿泊された関東の会社の方々、続いて津軽からの一行、ガイドもガイドしないし、ではと思ったらいらないと云われました。バスは後は続きませんでした。
 タクシーで運転手さんに案内をされてが10組近くおりました。、何れも初めてお会いする運転手さんで、常連の方はいませんでした。涅槃門は七夕の時に開かれるとガイドをしていた方がいましたが、常連の方以外の皆さんも良く勉強されていて要領よくガイドされます。瑞鳳殿に限らず仙台市内から周辺部まで案内するのですから、エライと感心します。

 それ相当の年齢のペアの方、「イクラもらっているー」と大きい声で叫んで涅槃門を入っていきました。ボランティアと申し上げてもご理解頂ける方とは見えませんでしたので無視しました。この方はこの世は全て金だと理解して行動しているのでしょうか。それとも有料ガイドに見えたのでカラカッタのでしょうか。

 有料のガイドなら一発で答えられるかどうか、私には答えられなかった質問がありました。
一つは福島・梁川から来たと申す方で、伊達家の始祖朝宗公の墓所はマンショウジと聞いているが、福島県伊達郡の何処にあるのか。でした。
今一つは、涅槃門の麒麟は日本に伝来した年代はいつ頃かでした。
 この2問には即答出来ませんとお答えしました。

 聴覚に障害を持たれた盛年男女6人の方々が参拝に訪れました。本殿脇の案内板で、創建年に、空襲による焼失を知りショックを受けたようでした。龍頭の所で「ボガンー」身振りで話していました。案内板・バンフレットを直ぐ読みますので、書いてない事をガイドすれば宜しいわけです。一般の方々はパンフは貰ってただけで、後で読むと読まない方々でガイドを頼りにします。ここが違いです。手話を習得していないので、次回からは筆談でのガイドを試みたいと思いました。
 竜頭の案内板に制作年が元号のみで西暦が表示してありませんでした。指で「寛永14年は1637年」と教えましたら、直ぐ逆算をしていました。全て西暦を併用表示してあれば、日本人のみならず参拝に訪れる全ての人に親切だなと感じました。この日誌でも そのように務めます。

 2人連れのご婦人。県外からの友人をいつも案内してくるが、長い厳しい石段と豪華な御廟との印象だけで帰していた。今日聞いたガイドで次回から友人を案内をすると喜んでおられました。極めて短時間のガイドで、お役にたてられる事は嬉しいのですが、本当は宜しいのかなとも思います。この方もパンフは読んでいないようでした。

 表紙の写真の紅葉したモミジが参拝客の話題になっていました。

メモ
 伊達家の始祖朝宗公の墓所はマンショウジについて。
 朝宗公は1199年10月2日71歳で亡くなり、福島県桑折町・下万正寺に葬られ、満勝寺殿淨光念西大居士とおくりなされた。1283年4世政依が廟所に満勝寺を建立した。伊達五山と称された。1617年仙台・北山に移転し、1667年現在地「仙台市青葉区柏木3−5−13」に移転をした。
以上は「伊達政宗公ゆかりの寺院 」宮城文化協会刊によりました。

 麒麟は日本に伝来した年代はいつ頃かについて
 H代表から頂いた資料によれば、「麒麟は聖王の治世にのみ出現するという想像上の瑞獣。漢代以降は神秘的、空想的要素が濃くなる。絵画・装飾文様として用いられる。正倉院の沈香木画水精箱、鏡、牙尺などの文様として用いられる」とあります。」正倉院の始まりは756年6月21日に聖武天皇の遺品を東大寺に献納されたのが始まりとのことです。となると8世紀奈良時代・天平文化の時代となるでしょうか。正倉院の御物については手持ち資料が無く、これ以上に正確な事は今日はわかりませんでした。
 





inserted by FC2 system