2002年10月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




10 月 27 日 (日)  



 冷え込みの厳しい朝でした。でも境内は地形の関係か風も無く温暖でした。
 4〜5人の小さい団体が多くありました。本殿の前で相手構わずの絶叫型ガイドをしないで、案内プレートを興味深く読んでいる等の聞いてくれそうな人々にガイドをしました。

 宮崎からお出でになったとの親子夫婦の4人連れ、母親が一行をリードしており、歴史が好きとの事で自己主張や質問の連続でした。殿様はどなたでしょうかとお尋ねしたら、「アキヅキ」との事、高鍋藩三万石・初代藩主秋月種長公。宮崎市から北に約50キロの所でした。仙台に来たいと永年思っていて漸う実現したが、昨晩のホテルは酷いホテルで此で金を取るのかと、仙台の印象を悪くしていたが、伊達様・桃山文化等に丁寧なガイドがあり満足した。やはり仙台に来てよかったと上機嫌でバス停に向かわれました。公子廟入り口迄丁々発止をしなながらのご案内てした。仙台の印象を良くされたと喜ばれた事は、一仙台市民としても喜ばしい事です。

 欧米人を案内して2組がありました。
 一組はブリガリア共和国のご婦人を仙台の名所として案内された方でした。質問されて政宗公のお墓としか知識の持ち合わせがなく、難渋している様子なので涅槃門から本殿迄ガイト致しました。通訳するのに日常使わない用語があり、少々難儀していました。でも勉強になったと喜ばれ、来客案内の際にお願いしたいと名刺を求められました。
 今一組は5人くらいの男性を女性2人で案内していました。英文パンフを持参し自信ありげに涅槃門を潜って行きました。直ぐに出てきて、今何時何分ですかと時を私に尋ねて、バス時間だとせき立てて去って行きました。如何なる一行かは推測出来ませんでしたが、国際化が叫ばれている時代に、日本文化・桃山文化を紹介する良い機会なのに、時間の浪費をしたのみと見ました。十分な時間をとり、自分の知識不足は現地人を活用するだけの度量があればと思いました。

 10人ほどのオジサンの団体、出口から無料入場しました。現役のオジサンの1回の酒代にもならない入場料を誤魔化さなくともと 思いますか。

 瑞鳳殿地区の紅葉はこれからです。お待ちしております。



10 月 23 日 (水)  



 在仙留学生に日本文化を理解して貰う趣旨で、瑞鳳殿の見学と瑞鳳寺の大茶会に参加を案内する有志の集いに、あかとんぼも国際交流の一助にもなればと、瑞鳳殿ガイドを引き受けました。
 在仙留学生20人位に、通訳されるボランティアの方が10人位。通訳される方々は予習をされて来たようですが、日常馴染みの無い言葉があり、些か難儀されていました。例えば「涅槃」「極楽」「赤珊瑚」「麒麟」等の言葉です。
 皆様 手水鉢で清め、本殿で合掌されました。あかとんほは嬉しかった。本殿でも弔魂碑でも合掌をしない日本人が多いからです。
 時間が限定されている、通訳を介する、異文化の人々である、この厳しい条件なのでポイントを絞りガイドしたつもりですが、如何ほどご理解頂けたものか。主催者のまとめた感想を聞くのが楽しみです。

 飯田からのバスに東照宮に至る道を聞かれました。本日のコースは仙台城に、瑞鳳殿に、最後は東照宮をお参りして本日中に帰宅されるのだそうです。大崎八幡宮は解体修理中の為外したのか。伊達・桃山文化を堪能するコースです。企画された方に敬意を表します。

 9時に駐車場に入って9時15分には発車したバスがありました。紺の背広40人位の集団、乗車の前に一斉に喫煙しました。本当に瑞鳳殿を参拝して来たのでしょうか。階段を上って境内一週して来ただけの様に感じます。時間と経費の無駄を省く会議の一行でしょうか。あまりの早さに駐車場の管理人も驚いていました。



10 月 17 日 (木)  



 快晴。最高の小春日和。「シニアネット仙台・サロンわいわい」主催のハイキング。瑞鳳殿を拝観し、評定川原で昼食し、続いて東北大学片平構内を散策し近代建築等を楽しむコースです。
 常日頃、サロンわいわい・PCサロンでお世話になっている16人の方々を瑞鳳殿ガイド致しました。1945年7月10日の戦災で焼失した瑞鳳殿をご存じの方を含め、仙台の地理・歴史を含め博学の方々で、些か緊張し、はじめはペロも硬直しました。
 90分と時間を限定し、1分たりとも延長は駄目との厳しい規制がかかり、ゆっくりと十分にお伝えできなかった点は残念でした。でも、石垣。石段。扁額。天女さんの足・背中等のガイドには、初めて知ったとのお声もありました。早速に天女さんに倣って足裏や背中を見ようと試みたとのメールを頂きました。
 皆様全員は手水鉢で清め、本殿で合掌をされました。又涅槃門の敷居を踏んだ方は一人も居られませんでした。シニアネット仙台の皆様は知識・行動とも一致した知識人とあらためて認識し感服致しました。

 東北の観光ボランテイアガイドの実態を卒論のテーマにしている宮城大学生の同行取材を受けました。昼食時に皆様にアンケートをしておりました。孫娘かわりに会話を楽しんで居られる方もおりました。
 取材は ナゼガイドをするのか、その評価はどうしているのか等の当然の質問の外に、★どこで、どんな団体で、ガイドしているか行政に行ったが、情報は全くなかった。ホームページを検索したが無かった。ガイドしている人々や団体の横の連絡はないのか。★仙台ではガイドの居る場所も要員はナゼ少ないのか。★行政の支援は無いのか。助成金を貰っているのでは無いか。★瑞鳳殿参拝者は市内の人々が大半か。等がありました。どの様に回答したか知りたい方はメールを下さい。
 卒論を提出したら、東北の観光ボランテイアガイドの実態を披露して欲しいです。



10 月 13 日 (日)  



 小春日和。全国各地から開門早々切れ間無く参拝の方々が続きました。

 観光タクシーの運転手氏、ループルバスの運行と不景気の影響で観光タクシーの利用者が減った。今日は瑞鳳殿から仙台城を経由松島を案内し、3時迄に古川に送る。定年後は自分もここでボランティアガイドをしたい。等をお客様が資料館を見学している間、色々話しかけてきました。定年は10年先に見える方でした。

 丁寧に合掌する方もおいでですが、今日は合掌をしない方々が多い日でした。信仰の自由ですからとやかく申す事では無いと自問していら、どの様に拝礼すれば宜しいでしょうかのお尋ねがありました。ご自由にと申したら困った顔をしておいででしたので、仏式でと申しましたら、安堵され丁寧に参拝されていました。

 涅槃門に至る途中の手水鉢の水槽に硬貨が入っています。鍾乳洞でも、どこでも硬貨を投げ入れて祈願される方がおいでです。ここもその様なものですが、今日は若い女性の方々が、アッお金がある、貰っていこうーと叫んでいました。奉納されたお賽銭を頂いていこうと云う発想には驚きました。札幌で買っていない肉代金を4千万円以上も払戻しさせて、詐欺容疑で警察が調べるかの話題が先日ありましたが、今日のこの方々はいずこからおいでになったのでしょうか。

 拝殿の扁額の説明を聞かれた年輩の母娘の方に、涅槃門の前の敷石を指さして「雄勝石」ですと申した途端、「あの硯の雄勝石、高いのヨー、紙も墨も筆も今は高いけど雄勝石の硯はそれ以上に高いのヨー」と力説されました。書道の趣味をお持ちとか、父親は自分の書で襖を作っていたと申し、最後に「此処は金目のものがゴロゴロしているのネ、さすが伊達様はお金持ちネ」と洩らしていました。

 涅槃門の彫刻の作者は誰かのご質問がありました。現在の彫り物は宮城県美術協会彫刻部理事の林鳳雲氏の作ですが、1636年の創建当時の作者は何方かは知りません。聞かれた方は「左甚五郎」の答えを期待している様子でした。
そばに居たH代表に聞いたら、やはり何方かは知らない、各地で良い彫り物があれば「左甚五郎」と云っているが果たしてその真偽は不明です、と教えてくれました。

 感仙殿の前で、竹に雀の紋所の雀は此処や瑞鳳殿の雀と資料館の雀と、背と腹の位置が逆転しているが、どっちが正しいのかのご質問がありました。「アツ、良く気づきましたネ。どっちが間違いとは申されません。竹に雀の紋、竹の葉は52枚「内側に22枚、外側に30枚」露は16露「内側に4露、外側に12露」節は8節、雀は左が開口し腹を、右が口締し背を、を一応正式としています。時代によって変化しています、かくあらねばならないとの厳しい定めが無いので、異なるから間違いとは言えないようです。」とお答えしました。
 このお客様、先ほど18代当主が賓客を案内されているのを望見した。お歳は幾らかと聞かれました。亡くなられた17代当主貞宗様は私と生年が同じですと、帽子を取り頭髪を見せましたら納得されました。でも、どうして現在の他人の歳が気になるのでしょうか。聞かれた方の頭は光っていました。



10 月 6 日 (日)  



 
 昨日市役所前広場でシニアいきいきまつりがありました。シニアネットのメンバーとともに、瑞鳳殿ガイドの様子をA4の4倍大の写真製版のポスターで展示しました。「ぐるーぷよっこより」の広報になったのか、13日に10人近くの来客を案内する予定なので、その節は頼むとのお声がありました。

 朝開門早々の親娘2人連れは名古屋から紅葉を楽しむにお見えになったとの事でした。旅の始まりは、瑞鳳殿の参拝からにしたかったと、親娘でもお賽銭の貸し借りは出来ませんとのお話をしながら愉しそうに参拝されていました。そして階段ではさりげなく手をさしのべておられました。高齢者対応の見事さに感心をしました。

 28人の健康な顔色の高齢者の団体、案内していた女性にガイドはしないのーと聞いたら、わたしは添乗員ですからの答え。代わりにガイドをしたら、「アアここはお墓ネー」と云われました。北海道北見市からの一行との事。北見に入植したのはいずこの地の方であったのか伊達家とは関係がないから知らないと云われればそれまで。でもバスの中で次ぎの見学先は何かと説明しないのか、不思議です。

 本殿の彫刻をレイザーポインターで照射しながら同行の人々に説明している方がおりました。本殿は繧繝塗と称する塗りで、間違いなくとメモしたかと確認してきました。ガイトをしてくれと云いながら、途中で殉死等で自説を述べられました。そして鹿児島地方騒擾の際に鎮圧にあたった会津地方出身者、戊辰の争乱における烏(細谷)十太夫、それぞれの活躍振り等を「講釈師見てきたような○○」的な話し方をしていました。最後に瑞鳳殿地区は仙台城を補完する山城説を唱え、石段を洋々を下って行きました。私には日本人の歴史観の一つとしての勉強になったと感じた愉しいいっときでした。

 メモ
 殉死15人は多いか。
 1663年5月23日将軍家綱は武家諸法度を改正し、殉死禁止の条項を加えた。それまでの間にこれほど多数の殉死者を出したのは、1655年佐賀・鍋島勝茂、1641年肥後・細川忠利の両藩主にすぎない。
 徳川家康、佐竹義宣、保科正之、水戸頼房らは生前に殉死を禁止した。
 「政宗は主君としての古さと人間としての弱さとを認めざる得ない」と小林清治博士は記している。
 以上は吉川弘文館刊行 人物叢書 伊達政宗 小林清治著等に依りました。





inserted by FC2 system