2002年11月の日誌
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11 月 30 日 (土)  



 天気予報は晴れでしたが、昼近く迄雨の為か参拝者は数える程でした。

 「ぐるーぷ・よっこより」にガイド依頼のありました、宮城県桃生町のアル村の高齢者の歴史勉強会の方々を1時間ばかりガイド致しました。瑞鳳殿にお出でになる前に北山・輪王寺を参拝され、伊達家の家紋等についてはご住職から拝聴されておりました。
 伊達藩領内の方々なので、常とは趣をかえて、長い石段を数えながら登って頂きました。ほぼ全員62段と正解でした。何故62段かはガイドすることなくご理解頂けました。ゲートのそばに掲示している瑞鳳殿再建芳名録に桃生町名と寄付額を確認して頂きました。当時の町長が他町以上に寄付すれば、今日肩身が広いのにの声もありました。皆様のムラの殿様はどなただったでしょうかとお尋ねしたら、政宗公の大叔父にあたる村田様ですと瞬時にお答えがありました。伊達藩内からの方々は、100年以上前のムラの殿様を直ぐお答えなれる率が、他藩の方々に比較し高い率と常に感じます。他藩の方には藩主さえ知らない方がいます。これは270年余の長期間の伊達家の善政を物語っているのでしょうか。
 ムラに関係ある方のご先祖が殉死されていると、政宗公の寶篋印塔の芳名簿を探され無い、確かに殉死している不思議だと申す方がおりました。二代藩主忠宗公の感仙殿の寶篋印塔を一緒に探しましたところありました。大喜びされ同行の皆様に説明されておられました。
 初めての方に何回か参拝された方々でしたが、分かり易く、面白かった、次回ガイドを指名出来るか等の感想を洩らされ、仙台城に向かわれました。

メモ
 感仙殿に寶篋印塔のあった方は、俗名「田中勘左衛門良長」法名「圓福天然会通西堂」没年「万治元(1658)年八月五日」行年「四七歳」殉死場所「輪王寺」でした。
 伊達家譜代の家臣田中惣左衛門 「樫崎・太田(現桃生町)等882石を領」の弟「田中勘左衛門」が1645年寺崎宿(現桃生町)を町割をした。との記録にあります。この方と殉死した方と同一の方かは、確認の必要があります。



11 月 24 日 (日)  



 寒気を感ずる曇りの天候の為か人出は遅く 昼近くになってそれなりの人出となりましたた。

 高価そうな厳寒期の防寒衣料の淑女の小団体がお出でになりました。南国沖縄からお出でになったそうです。納得しました。博物館で勉強されてからおいでになられたと、通常のループルバスのお客様とは逆コースをとられており、伊達家は黒色がベースになっている等は既にご承知の上でした。そして沖縄は深紅がベースである等、人生経験からのあふれるお話をされ、ガイドを聞いたから資料館は見なくともよろしいとのお言葉もありましたが、時間に余裕が有れば是非と申しましたら入館されました。

 山形のお祖父さんが、仙台城の石垣の組み立てに参加された小学生のお孫さんを連れて三世代がお出でになりました。涅槃門の石垣は仙台城の第何期石垣か話題になった時、石垣組立年次の指標になる石垣ですとガイドをしたら喜んでいました。祖父は最上家に愛着があり、政宗公の生母義姫の最上家の出と孫に語っていました。

 メモ
義姫は1548年山形城主最上義守の娘として生まれた。1567年政宗公を米沢城にて出産。1623年7月17日仙台城にて76歳で没。保春院殿花窓久栄尼大姉と法諡された。北山・覚範寺にて火葬「灰塚が残っている」。三百人町の小林山保春院に葬られた



11 月 17 日 (日)  



 夏に2回紅葉したモミジを含め 全山一斉に紅葉しました。紅に黄色にと、お日様に照らされキラキラ輝いています。

 名古屋からのヤングレディ。昨日は瑞巌寺を参拝してきたそうです。名古屋からの若い女性の2〜3人つれは多いです。仙台・名古屋間の交流はフェリーに空路とあり、私の予想以上に緊密のようです。名古屋の若い人々から見た、仙台の魅力はなんなのでしょうか。期待に応えているのでしょうか。

 会社の慰安旅行と見受けられる団体が朝早くから連続しました。手水鉢で冷たい水を飲んで、ウーマィーと歓声を上げていました。昨晩の酒も、今朝の水も美味いとは極楽です。極楽を参拝されてと三重の喜び、どの様に感じたでしょうか。

 家紋を見て歓声を上げているオジサンがいました。四国宇和島の出身で現在、東京で活躍しているそうで懐かしがっていました。この方は仙台と宇和島の関係を存じなかった様で、ガイドをしたら二重に喜んでいました。

 CDを聞いているのか両耳にイヤホーンで耳栓した美しい方がおられました。私はガイドしませんが、拝殿での音声ガイドも聞こえないでしょう。見ただけで全てを理解しているのでしょうか。聴覚障害者はガイドを聞きたくとも聞こえないで苦労されているのに、不公平・もったいないと感じました。



11 月 13 日 (水)  



 3日と10日の日誌表現「龍頭」に注意を頂きましたので修正いたしました。
龍頭については、写真または龍頭のページもご覧頂ければ幸いです。



11 月 10 日 (日)  



 昨夜来の初雪は5センチほどの積雪となり、路面はシャーベット状態でした。参拝の方々がお見えにならないのではと心配しましたが、八戸、横浜、名古屋、大阪、韓国からと続々、お出で頂きました。

 3日の日誌に「本殿屋根の阿吽の龍の配列は上から下に阿吽と配置されています。親娘連れの娘さんから阿の龍は水を吐くのであるから、軒先に配置すれば防火になるのでは、置き方が間違いでないかとのご指摘がありました。婦人消防士なのでしょうか。」と記載したところ、H代表から配置に誤りありませんと、焼失前の龍と改修前の鬼瓦が写った写真を下さいました。早速のご教示に感謝致します。

 殉死者の子孫・関係者の方々が瑞鳳殿の近くにお住いしているとのお話がありました。確認出来、承諾が得られれば焼失以前の瑞鳳殿の姿等のお話をお聞きしたいものです。

 缶ビールを手にした若者達、お話が夢中なのか、入場券を求め、瑞鳳殿に向かわず、直に感仙殿地区に向かいました。先日は出口から無料入場したオジサンの団体がありましたが、その息子達でしょうか。親の不始末を帳消しに来たのでしょうか。
 
 



11 月 4 日 (月)  



 文化の日振り替え休日です。事務所に顔を出した途端、受付からガイドいませんか、東○○放送ですと大きい声。今日、取材があるとは代表から聞いておらず、取材があれば代表が駆けつける筈で、変だなと思いながら、NPOシニアネット仙台「よっこより」で毎土日ガイドしています、ドウゾと返事しました。腑に落ちない顔をしていました。「市の文化財課が実施する1日限りのガイドは下の瑞鳳寺です」と申したら電話を掛け、重いカメラを肩に一行は降りて行きました。行き先を確かめないで行動するチーフに、62段の石段の往復に機材の重みが肩に効いた部下はナント呟いたのでしょうか。幻のテレビ取材でした。

 湘南・茅ヶ崎からお出でになった人生の先輩に、本殿の前でこの豪華絢爛の装飾は極楽を表していますと申したら、政宗公は死後の世界をどの様に考えて、どの様に部下に指示のかと、考えこまれました。

 本殿の前に立った人々は極彩色の彫刻に目を奪われます。これは○○美術工芸の施工ですネと、つぶやきながら下部の黒漆塗りを凝視している方がおりました。確かに黒漆塗りの柱面に垂れ滴の様な汚れが目立ってきました。その方の解説によりますと、コンクリートに亀裂が出来て中から染み出ている、ニキビの様なものは気泡でしょうとの事でした。柱に触ってみましたが、手で落ちる汚れではありませんでした。化粧直し1年で皮膚病では困りものです。
 「よっこより」のページの写真 あかとんぼの場面に壁面を凝視している人が写っています。

 記念撮影している人々を無視し、柵を越えて天女さんや家紋を接写した教授風の方がおられました。プレデーションに使用するのだと申していましたが、業の場・公開の場で使用するのであれば事務所に断り、人出の無い時に撮影するのが礼儀ではないでしょうか。片仮名を使えば万能とする一見教授風には納得いきませんでしたが、制止する権限も無く、傍観しました。

 本殿前の砂利に足を取られて腰まで一気に転倒されたご婦人がおいででした。砂利が薄い為に起きる事故です。事務所でも了知されていますが、なかなか砂利が厚くなりません。大事に至らない事を政宗公に祈るのみです。

 岩手県からおいでになったとの事で、南部領ですか、伊達領ですかとお尋ねしたら、一行全員で顔を見合わせていました。北東北3県の合併が論議されている時代ですから、南部領とか、伊達領とかは意識の外なのでしょうか。でも、郷土の歴史、先人の努力を知らないで未来があるのでしょうか。

 文化の日の振り替え休日は、日々の振り替えになり有意義でした。



11 月 3 日 (日)  



 昨日は秋田・青森の市内で初雪が積もったとのお話、境内も紅葉が始まり、肌寒くなりましたが沢山の方が参拝に見えました。

 殉死者入生田三右衛門元康 法名功翁知全 六月二〇日殉死 六十歳の関係者親子孫の三世代六人が北海道・苫小牧からお見えになりました。入生田三右衛門元康翁の寶篋印塔の前で一同深く頭をたれておられました。案内されたのは祖母さまで、孫にその歴史を良く伝えなければと、又1941年の参拝以来61年振りと感激のあまり、お話はとどまる事無く息子さんに注意されていました。整備管理担当の○○さんとあかとんぼと皆様6人と記念写真を撮りました。

 本殿屋根の阿吽の龍の配列は上から下に阿吽と配置されています。親娘連れの娘さんから阿の龍は水を吐くのであるから、軒先に配置すれば防火になるのでは、置き方が間違いでないかとのご指摘がありました。婦人消防士なのでしょうか、なるほどごもっともとも面白く聞きました。手元に焼失する以前の本殿の屋根を撮した写真が無くて確認できませんが、史実に乗っ取って復元していますので間違いは無いと思います。何方か焼失する以前の本殿の屋根を撮した写真をお持ちで確認出来る方お出ででしたら、教えて下さい。

 若い女性多数にオジサンもいる団体。添乗員氏に聞いたら都銀都内支店の一行40人余のとの事。昨日は瑞巌寺を参拝され、宴会の席上にか、瑞巌寺を参拝して瑞鳳殿を参拝しない事には、片手落ちと予定を変更して急遽お参りに来たとの事でした。本殿はH代表とYさんが、あかとんぼは感仙殿地区をガイドしました。最近は社内旅行は若手から敬遠されている聞いていましたが、かくも一糸乱れぬ行動はどの様に分析していいものか、愉しくなります。

 入り口の瑞鳳殿再建芳名録を見ていたヤングペァ。歓声を上げました。川崎市からお出でになったそうで、市内で一番のデパートの名前があり、1977年当時で30万円の寄付しているとの事でした。当時の店長は伊達藩ゆかりの方だったのでしょう。現在も盛業中の故にヤングペァの歓声となったのでしょう。これも政宗公のご遺徳でしょうか。

 Yさんがあかとんぼがガイドをしている様子の写真を撮ってくれました。「よっこより」紹介の頁に載せたいと思います。
今日は文化の日。愉しい出会いがありました。





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