2003年3月の日誌
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3 月 30 日 (日)  



 春です。臥龍梅もほころび始めました。
参拝客の中にも写真を撮している方がいました。撮影ポジションで難儀していました。青空の背景で梅が点々、写真になりません。私はお供所跡の資料館を背景になる箇所で撮しました。私はこの様にしましたと申し上げたら、これから孫に会うのに、良いお土産になったと喜んでいました。今はデジカメですから、直ぐ確かめられます。結構な事です。

 福井からのお嬢さん、歴史の先生なのか熱心に聞いてくれましたので、妙雲界まで90分ばかりガイド致しました。天女さんをゆっくり見たいとの事でこのHPのURLを教えましたが、果たして見てくれるでしょうか。

 金沢からの家族での方々、涅槃門で、あれは何でしょうと指さしたら、一発回答「麒麟」と答えられました。一発正解は今年初めてです。以後快調に丁寧に本殿までガイド致しました。加賀・前田家の墓所「高岡・野田山」について配置。構成等を語られ、再度前田家を中心にお出で下さいと誘われました。

 先日の富山と今日の福井に金沢と 連続して加賀前田家の領民が伊達家墓所にお参り頂けるのはどうしてでしょう。

 高齢の方から「伊達家の出自はどこだ」と大きい声で聞かれました。「常州真壁郡伊佐荘中村邑です。ところでお客様はどちらの方で」と答えましたら「俺、なんぶー」「ハァー」
日本で南部とはどの辺か考えていたら「俺 南部・八戸。甲斐武田の出だー」と返ってきました。南部家のご当主は盛岡でロタリークラブの会長職をされていました。その時の写真の方とこの方は違うようです。南部家当主であれば、伊達家当主がご案内します。又、今更出自を聞く筈もありません。春の陽炎のようなお話でした。
 伊達家の系譜について、詳しくお知りになりたい方は「仙台市史・古代中世」をご覧ください。「奥州伊達氏の系譜」として24頁にわたり詳しく記載されています。

 私「あかとんぼ」は自分でまたはツァーで沖縄県と静岡県を除く各県を訪れました。お城や城址は案内されました、しかし日光を除いて、殿様、領主の墓所を案内された記憶はありません。瑞鳳殿は観光バスの行き先の1番です。仙台の個性と表現すればそれまでですが、訪れる方々に違和感はないでしょうか。

 表紙の写真「新旧の龍の対比、忠宗公の書なる扁額も鮮明」。熱心な愛読者のYさんから対象・構図も宜しいと褒められました。嬉しくなりA4版に出力し差し上げました。またまた喜ばれました。



3 月 22 日 (土)  



 土曜日の午後。三連休の中日なのに意外と参拝客は少なかったです。Nさんと初めて一緒になりました。先輩のガイドを勉強しようと思ったら、早々に見えなくなりました。

 富山からのお嬢さん3人連れで見えられました。越中の国、富山・前田家は1639年利家の四男で三代藩主利常の次男・利次に10万石を分封創家されました。富山・前田家の廟所は何処に如何なる様式で所在していかも知らない様子、他国の殿様のお霊屋を参拝して怪訝な顔をしておられました。仙台の人々も瑞鳳殿を参拝されていない方が遙かに多く、他県や他国に観光旅行して、感激して帰ってくるケースがままあります。余所に出て初めて自分の所の良さを知る。怪訝の思いもマアよろしいのでは。

 市内定期観光バスで20人ばかりみえました。ガイトさんは手水鉢の家紋から本殿まで、簡潔丁寧にガイドしていました。本殿まで引率して終わりのガイドがいる中で、客の立場からすれば親切なガイドさんです。でも、今日のお客さんは当たりが良かった事、わかったでしょうか。

 夕方、肌寒くなり帰ろうカナと思っていたところ、沢山の方が見えられ、バスガイドさんを手本に簡潔丁寧にガイドしていましたら、最後に拍手を頂きました。暫くぶりです。
 「今晩の泊まり、秋保温泉にはどう行けば」と道を聞かれました。政宗公の墓石室は秋保石とも云われていますので、流れとして秋保温泉にお泊まりですかと尋ねる事がしばしです。ても「ハイ」の答えが少ないのに、泊まりですと道を聞かれて嬉しくなりました。

 明日23日は政宗公時代の城下の配水・利水についての勉強会「仙台・水の文化史研究会」がありますのでガイドを休みます。



3 月 21 日 (金)  



 春分の日・お彼岸です。三連休の方も居られるでしょう。沢山の方が参拝に見えました。中にはお彼岸であることを忘れておられ、先祖の墓参りをしないで、よその殿様の墓参りになったと、大きい声を上げられた方もおりました。お彼岸のさなか、ようこそと申し上げるとお賽銭は別として、大方の方はこうべをたれました。

 仙台で1・2のタクシーの運転手さんから、8人20分でお願いと頼まれました。小田原市からお出でになられ、3月に放映されたNHKTV「その時歴史は動いた・秀吉の小田原攻め」を見られましたか尋ねましたら、【政宗公が奥羽の覇者・地方区から全国区に登場したきっかけ。1590年7月に小田原の秀吉の陣に政宗公が「命を預けます」を意味する白城装束で参着した画面】を見たとのことで、これをお客様との接点に瑞鳳殿についてガイド致しました。
 天女さんのガイドで、三保の松原は近いですヨネと申しあげたら、怪訝な顔をしていました。羽衣伝説の三保の松原は静岡市で、小田原は神奈川県で、間に「天下の嶮・箱根」がありました。でも、それ相当の年齢の方は羽衣伝説・天女さんを思い浮かべてくれました。

 札幌からの一団に、再建の際のご寄付を札幌白石区・・・・宇和島市等の伊達家関係者のご寄付でと申し上げたら、伊達市もあると声があり、また、○○の伊達氏を知っているかと訪ねられましたので、存じ上げませんとお答えしたら なんかガッカリしていました。
 涅槃門で麒麟麦酒の麒麟ですとガイドしたら、サッポロビールしか飲まないと返ってきました。ご立派です。かって秋田の酒屋では県産酒のみ販売しており、僅かデパートの棚飾りに他県産の酒が飾られているとの話しを聞いたことがあります。札幌の人はサッポロビール以外は本当に飲まないのでしょうかナー。

 「どちらからお出でですか」とお尋ねをして、政宗公・伊達家となんらかの関係・接点の有る所からお出でになられると、ホットします。接点を核にガイドをしますと興味を持って聞いて頂けます。折角です、政宗公に親しんで頂きたいと思っています。

 朝一番、高齢者の小団体からガイドしてくれの声がかかり、始めたら、それではと去っていきました。居合わせた若い人々は残って一連のガイドを聞いてくれました。この高齢者は先が極端に短いので急いでいるのか、それとも元気な高齢者と思いからかったのか、不可解な人々でした。

 表紙の竜頭と本殿の写真。4度目の取り直しをしました。創建当時の龍と屋根の上の新しい龍、又、忠宗公直筆の扁額も一緒に見える構図です。

 



3 月 16 日 (日)  



 本日のガイドは所用で上京しましたので休みました。上京に併せて「日比谷公園」を、特に政宗公の終焉の地とも云われています、野外音楽堂付近を丹念に散策してまいりました。

 政宗公は徳川幕府の成立する以前の1601年10月に
外桜田(現・千代田区日比谷公園)の上屋敷、
山下門内(現・千代田区内幸町一丁目・帝国ホテル)の本屋敷、
愛宕下(現・港区新橋五、六丁目)の中屋敷、
芝(港区東新橋一丁目)の下屋敷 を拝領しました。

 外桜田の上屋敷は1661年までの60年間、時代的に三代綱宗公の時代までです。政宗公の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠・三代将軍家光が各四度この屋敷を訪れ、数寄屋で饗応をうけています。

 1661年から1676年までは、愛宕下(現・港区新橋五、六丁目)が上屋敷となり以後中屋敷となりました。
 1676年から1870年8月までの上屋敷は、芝(港区東新橋一丁目)にあって、「浜屋敷・芝口海手屋敷」とも云いました。面積は、25819坪(1841年現在)です。
 この屋敷跡は1872年に我が国最初の鉄道始発駅「新橋駅」の敷地に、1914年汐留駅と改称されました。都市再開発の進行で、汐留遺跡として湿地の造成技術、藩主から家臣にいたる生活臭を感じさせる物が発掘されて、その方面では有名であります。

 伊達家の江戸屋敷とその変遷は、仙台市史・近世2に詳細に記載されています。今回は本図書によりました。

 



3 月 10 日 (月)  



 幾分風は冷たい様です。表紙に用いる写真を撮るに参りました。参拝のお客様にご迷惑をかけないようにと、月曜日のこの天気では人出が無いだろうと思って出掛けましたが、それなりにおりました。
 写真だけで返る訳にはいかず、ガイドしました。岩手県二戸郡、神戸、若い女性の東京からの人々でした。涅槃門、石段、拝殿、本殿の順で簡潔にガイド致し、記念写真のポイントも紹介致しました。昨日は両手と肩に旅行バック等を背負っての重そうな方がおりました。さすが今日の方々は手ぶらでした。
 



3 月 9 日 (日)  



 昨日迄の悪天候に、参拝者の人出を心配しましたが、春一番、途切れることなく湧き上がる様に参拝の方が見えました。

 東京と東京近郊の方が大部分でした。静岡からの親娘の方がおられ、静岡からは珍しいと申したら、仙台は新幹線の乗り換えがあり不便だのお答えがありました。名古屋・広島からの方が意外に多いのは飛行機の便が良いからでしょうか。となると、仙台空港発着の航路の拡大が必要となる。航空会社は多くの乗客を望めないと航路を開設しない。どちらが先か「鶏と卵」の関係に陥ります。

 どちらからですか。とお尋ねすると「東京」とお答えになる方が多いです。埼玉、神奈川とお答えになる方もいますが、一般に東京と返ってきます。私が何処かとお尋ねしているのは、ガイドを印象深く聞いて頂き、政宗公により関心を持って頂く様にガイドをしたいとお尋ねをしているのです。
 東京は広いです。奥多摩町も青梅市も、東京です。私は東京と云われれば、23区を連想します。そして、政宗公終焉の地、当時の江戸屋敷、現在の日比谷公園・音楽堂付近、又、瑞鳥に関連して上野動物園・多摩動物園、等の地名を申します。ても反応が今一の事が多々あります。仙台市に居住していても、勾当台公園や八木山動物園を知らない人も居る事になるなと納得しています。

 高齢のご婦人100人ほどの団体がおいでになりました。瑞鳳殿はH代表やUさんがガイドをしていましたので、善応殿でガイドをしようと待っていましたが、いつまで待ってもお出でになりません。裏の木立を見ますと、影絵の様に木立の中に移動する人影が見えました。戻ってきませんでした。そのまま抜けて、善応殿地区を参拝されないで帰った訳です。狐の嫁入りを見ていた様な感じでした。高齢のご婦人には広い路より細い山道を好まれる習性があるのでしょうか。でも団体で見学コースを外れるとは、この団体のリーダーの道を誤っても突き進む指導力に敬意を表します。リーダーの責任は重大です。

 涅槃門で透かし彫りをガイドをしたら、指物師の女房と称する方が、彫り物について講釈をしてくれました。謹んで拝聴しました。最後に「此の柱は青森檜葉で、横木は橡です。焼失前は白檀を用いていました」と申し上げたら「それ ナンダ」と返ってきました。「弘法筆を選ばずの指物師さんでしょうか」



3 月 2 日 (日)  



 夜来からの強風は家を出る時刻になっても収まりません。又、腰痛が酷く歩行困難な為、本日のガイドは休みました。
 昨日は航空管制のトラブルから飛行機は大幅に欠航になったそうで、又今日のこの強風も飛行機の運航に支障があるのでは、この悪条件にもかかわらず、遠方からおいでになった方々には 申し訳ないと思います。

 この日誌の一部を「・抄」として仙台市某市民センターの生涯学習の集いの文集に掲載致しました。このセンターは所謂城下に所在しており、参加者には伊達家の家臣等の末裔の方々が多くおいでです。早速 反応がありました。81歳の方から祖父は1868年の戊辰の役の犠牲者1266人の1人で、「弔魂碑」に姉妹でお参りに行った際のトラブルを話されました。早い機会に焼失前の様子を尋ねたいと思っています。

参考
 強風は仙台市で8時4分 最大瞬間風速26.8メートルを記録しました。場所によっては公認記録以上の強風があったでしょう。仙山線は速度規制の外に運休が2本ありました。





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