2003年4月の日誌
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4 月 29 日 (火)  



 あたたかくなりました。今日はみどりの日です。以前は「天皇誕生日」。昭和天皇即位(1925年)から「天長節」として祝日でした。78回目の休日、経ケ峰歴史公園は全山緑となりました。黄金週間前半の最終日、遠来の方は既に帰路につかれたのか、参拝客は伊達領内である近隣の方々が多数でした。第二駐車場も開放されました。

 中堅のご婦人、7〜8人連れで見えました。「どちらから」「モニワから」「福島の」「いや」「太白区?」「イヤ、松山です」と申して、宝筺印塔に進まれ、在ったあったと云いながら茂庭采女兼綱公とその殉死者東海林茂傳次と横山各兵衛の宝筺印塔に全員で頭を垂れていました。確かに宮城県志田郡松山町は1603年から幕末1867年まで茂庭氏1萬3000石の知行地でした。既に140年近く経過しても、旧領主を慕い自慢されるこの方々に敬服致します。
 正月2日の拝礼式と5月24日御命日の法要に興味を示されました。何時からどの様に営まれたか、営まれるかのご質問には、あかとんぼのホームページをご覧いたたければとURLをお知らせ致しました。御命日の法要には是非参列したいとの事でした。お待ち致しております。

 今一組はやや高齢のご夫妻、宮城県亘理町から来られたと。亘理町は1602年から幕末1867年まで伊達成実を始祖として2萬3000石の知行地でした。この方も旧領主を慕い自慢されました、成実公の廟所等にはお参りしているが、政宗公を初めて参拝したと感激しておりました。夫人は感激からか、社会訓練不足からか、ガイドの途中でも構わず質問をして、とかく話しの腰を折りたがりました。でも熱心に聴いて呉れる熱意にあかとんぼも誠心誠意応えました。

 「登り口の石柱は国宝なのか」のご質問がありました。怪訝な思いで現物を確認したところ、「國寶伊達忠宗公霊廟の碑」と達筆を篆刻した石柱があり、その前のプレートに「昭和六年、政宗公、忠宗公、綱宗公の廟所が国宝指定、祝賀し高橋是清書之石柱を建立した旨」記載してあり、早とちりの読み方をされたものと判りました。瑞鳳殿の扁額の書も宜しいですが、是清翁の書も見事です。国宝と勘違いも当然かもと思いました。

 駐車場整理担当に春の挨拶に訪れたら、主任から貴方の事を新人に伝達していた処であったと、新人の方を紹介してくれました。
 



4 月 28 日 (月)  



 あかとんぼが瑞鳳殿で観光ボランティアガイドをする為の組織「ぐるーぷ・よっこより」の総会がありました。
 代表から、仙台圏のガイド要望があり、この期待に応えたい。ついては先ずは瑞鳳殿ガイドに参加して欲しいとの要望がありました。
 不定期ながらガイドに参加しているのは4・5名程の現状では 代表の要望は当然です。

 仙台市を訪れる観光客の為には、平日も常時ガイドがいるのが望ましいと思います。参拝客も管理事務所も歓迎すると思います。 
 日曜日は万難を排して行っています。平日も考えましたがこれまでは、色々競合し実行に至りませんでした。出来る限りの努力をしたいと思いした。

 代表から本ホームページと「ぐるーぷ・よっこより」の2本のホームページ、計3本の紹介がありましたが、反応は今ひとつでした。興味を持たれた方はトップページのリンクからご覧頂ければ幸いです。



4 月 27 日 (日)  



暖かい天候です。新緑が眩しくなりました。

 開門と同時にお出でのご夫妻、プレートの前で「ナンデーカーナ」と呟いていました。政宗公の御霊屋を訪れたのに、「これは家康公の肖像画ではないか」と云うことでした。豊田市からお出でになったとの事、隣接の岡崎市は徳川家発祥に等しい地で、常に家康公の肖像画を拝する機会があってとの事でした。「この肖像画の原画は仙台市博物館所蔵です。狩野派の狩野安信の画で、狩野派の特徴で描かれた人の個性が埋没しています」「政宗公は美男子でありました」と本殿に鎮座している御木像の写真を見て頂きました。「是は発掘調査の際の骨格に肉付けをしたものを基本に作られていますので、限りなくご本人に近いです」とガイトしましたら納得していました。
 瑞鳳殿に感仙殿、善応殿、妙雲界廟に、最終的に登り口迄ご一緒しました。仙台港に上陸され、10日間の行程で仙台、松島、平泉、山寺等の社寺仏閣を巡る予定との事でした。確かにループルバス30分観光の人々とは異なり、瑞鳳寺境内の鹿児島県人墓地を初めとして時間に余裕をとられ、丁寧にお参りされていました。
 瑞鳳殿の魅力をご自宅でモット楽しんで頂こうと思い、パソコンはとお尋ねしたら、触らないとのことでした。このページを見て頂けないとは残念です。

 若い女性、登り口から本殿までガイドしました、石段62段を数えて頂きました。間違いなく数えてくれました。種明かしと申しましょうか、62段のコダワリをガイドしました。本殿で、「此処は伊達家関係者のご芳志で再建されたものです、ところでどちらからお出ででしょうか」「札幌白石区から」「アーおじいさんが寄付されているかも」「イヤー先祖は屯田兵として入植したと聞いているが、伊達家中とは聞いていません」との事でした。寄付の有無は全く別問題として、先祖に誇りを持って素直に応える、この生き方に共感を覚えます。
 政宗公の御木像拝見に仙台七夕に又来たいと洩らしながら、参拝されました。

 管理事務所の次長に、清掃担当も新人に交替していました。ご挨拶申し上げました。



4 月 20 日 (日)  



 瑞鳳殿に行くのをチョット躊躇する気持ちになる大雨でした。
先週13日はまだ咲いていなかった櫻、敷石に花柄絨毯のようにに、一杯に広がっていました。僅か7日なのに咲いて散る、誠に早い花盛りに、残念無念を感じました。

 出足は遅く、帰ろうかなと思ったら続々と見えました。鹿児島、茨城、長野、津軽に品川と全国から参拝にお出でになりました。

 鹿児島からの夫婦娘の方々、途中に鹿児島県人の墓地があった。お参りしなくてはと碌々参拝をされませんでした。岐阜では立派な石碑があったと申され、それは仙台の人は冷たいと云うニァンスに聞こえました。
 それで、次の要旨「岐阜の石碑は幕府の命令で木曽・長良・揖斐の三川の治水工事、特に有名な1754年の宝暦治水工事は薩摩藩の御手伝普請となり、難工事であり、犠牲者は割腹53名病死33名と総額40万両近い工事費の負担となり、これは薩摩藩の年貢米収入に相当するもので新税を取り立てる等になり、直接の利益の無い人々の人的財政的負担の、この犠牲に対するものでしょう。
 瑞鳳寺の墓地は1877年の鹿児島地方騒擾の国事犯が宮城監獄に収容され、病死した人々の墓地であり、政宗公の御霊屋近くに葬られ、墓まで建立された事は1868年戊辰の役の際の薩長軍の行動に比較すれば正に恩讐を超越した暖かい行為であると思う」と伝えました。 
 仙台の人は決して冷たくない事をご理解頂けたかは ?です。

 ご婦人の方、ガイドお願いしますと本殿前で申されました。「どちらから」「東京から」「東京のどちらから」「品川から」「それでは伊達家と縁が無い訳でもないから詳しくガイドしましょう」とガイドしました。現在の東新橋地区に伊達家の上屋敷があって、再開発で数々の重要な遺跡・遺物が発見されたとガイドしたら、初めて知ったと驚いていました。
 この方は途中でサヨナラしないで一段落するまで聞いてくれました。中にはスパーの試食の気分で、只のものは使わなくてはと声をかける方がおります。その様な方はガイドを始めた途端「ハイサヨナラ」です。ボランテイァを活動させる為のボランテイァ活動なのでしょうか。あまりにも正直な行動には付いていけません。



4 月 13 日 (日)  



 夜来の雨も上がり春の陽光が燦々と輝きました。
瑞鳳殿は三春です。政宗公のご正室「愛姫」様は磐城の國、田村の郡(こうり)、三春の生まれです。三春の地名は梅、櫻、桃と一斉に花開く、三っの春が一度に訪れるに由来するそうです。今日の瑞鳳殿は梅、櫻、椿の花が一緒に咲きまして瑞鳳殿の三春です。
 表紙の写真をご覧頂ければ幸いです。

 鹿児島の学校の同窓会を仙台で開催した御一行様。本殿等は昭和の技術、躯体はコンクリートで、塗装は伝統の漆ですの説明に、建築関係らしい方から「コンクリートの灰汁が出ないか」のご質問がありました。「1979年完成したが、肌・化粧荒れがあり2000年から約1年間の化粧直しをしています。現在もニキビの様なものが見られます」の答えに満足したのか頷いて資料館に向かわれました。

 大阪からの4人娘、名古屋からの親娘、豪華絢爛のお霊屋に驚きの歓声を上げていました。「これは桃山様式で、その始まりは織豊時代です。秀吉公の時代の文化です。この様な桃山様式の豪華絢爛な建造物は大阪・名古屋には一杯有るでしょう」と申したら、「無い、見たことが無い」の答えでした。いささかしょんぼりしてしまいました。
 涅槃門で「菊と桐」の紋章をさして、秀吉公から頂いたものですとガイドをしたら、俄然元気を取り戻し、礼の発しながら感仙殿等に向かわれました。
 確かに大阪・名古屋は大東亜戦争で米国の空襲で焼失しています。でも桃山様式の建物で焼失を免れたり再建したのがあるのでは。大阪城内に再建された豊國神社は桃山様式ではないのでしょうか。調べてみます、お待ち下さい。

 臥龍梅の下で写真を撮れ、説明版を読まれる方はそれなりに居ます。でも文禄の役(1592年)・慶長の役(1597年)、政宗公の渡海、日本文化えの影響等について興味を示される方は皆無に等しいです。中学校の歴史の教科書に一頁に亘り記載されています。義務教育修了で終わりでしょうか。

 



4 月 6 日 (日)  



 夜来の雨は上がり青空です。でも冷たい突風が時折吹きます。

 臥龍梅が満開となりました。表紙に今月の写真として掲載しました。参拝客の皆様が梅花の下で撮影をしていました。

 中国大陸から以前に東北大学に留学したと称する方が見えました。扁額を指し、中国語で読み上げ、その後日本語でその意味は、誰の命名か、又此処は仏教か等の質問をし、敦煌の遺跡に相似したものがあったと語られました。天女さんの足裏の源は紀元前200年秦の時代の遺跡に至るとガイドすると、知らなかった、良く勉強していますネ、論文を書かれましたかと返ってました。

 事務室を訪れ、伊達家ご当主に記念写真をお願いしたご婦人連れがおりました。どのようにして事務室にご当主が居られると知ったのか、又 写真をお願いする度胸には驚きました。かって「オバタリアン」なる言葉がありました。こんな人達を指したのではないでしょうか。

 拝殿と本殿との間にあります香炉。日曜日は炭火があり線香を立てられます。オバタリアン風でない連れの方、線香を上げ、本殿を背にとんでもない方角に向かって一心に祈っておりました。そして本殿の前では拝礼もありませんでした。祈る行為は祈る方の内面の問題ですから、何れの方向を向いても宜しいわけです。外国に多い宗教の方は座してある方向に向かって祈ります。この連れの方々は外国に多い宗教の方でも無いようです。なんか腑に落ちません思いで傍観しました。





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