2003年6月の日誌
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6 月 29 日 (日)  



 五月雨もやみ、雨上がりの暑い日となりました。1689年5月4日(現在の暦で6月23日)松尾芭蕉は仙台城下に投宿しています。4日間滞在して歌枕の地を訪れているようです。でも瑞鳳殿にお詣りしたとの記述はないようです。どうしてでしょう。政宗公を無視したのでしょうか。それとも一俳諧師では警備が厳しく瑞鳳寺迄も辿り着けなかったのでしょうか。
 今日も世界各地からお詣りに見えていました。

 最遠はミャンマーからの三人娘でした。入り口のプレートを見ていました、話しをかけましたら通じました。黒髪ですが日本人離れを感じましたので「お国は?」と聞いたら「ミャンマー」との返事でした。チケット売り場でも外国人とは思わず日本語のパンフを渡され、プレートの英文解説を読んでいたのでした。自由に見るからと涅槃門を入って行きました。間もなく感仙殿地区の広場のベンチに上がり背もたれに腰を掛け、樹間からみえる雲の流れを思い思いの格好で眺めていました。異国の地で、異国の領主の墓地を訪れ何を見て、何を思ったのでしょうか。

 涅槃門の前で観光タクシーの女運転手さん。「此処は涅槃門です、政宗の生誕の日5月24日に開門なります。生誕をお祝いしてアオバマツリが盛大におこなわれます」とガイドしていました。5月24日(本当は陰暦)は御命日で、回忌法要が行われています。生誕の日は1567年8月3日です。天皇誕生日は国民の祝日です。偉大な藩祖と言うことで天皇陛下と同様と勘違いしたのでしょうか。政宗公は苦笑されたのでは。

 本殿前でガイドを今一度聞きたいという表情の若い男女3人、ガイドを終え話しになって、何れからと聞いたら、「関係者」「ハァー」風体から工事関係者に見えました。そしたら「保春院、親父が何時も来ています」との事。臨済宗妙心寺派小林山保春院 政宗公のご生母「最上義姫」の菩提寺の門弟とのことでした。驚きました。でも新鮮でした、他人の話はきいてみるものと洩らし、資料館に入館して行きました。

 今日も色々な方がおりました。
 ・無我夢中のおしゃべりの5〜6人のご婦人。ガイドしましょうの声かけの余地も無く登られ、間もなく無我夢中のおしゃべりの儘下りてきて、帰っていきました。
 ・瑞鳳殿をお詣りしないで、涅槃門まえの潜り戸から感仙殿に直行する方。
 ・俺様が来たのに涅槃門を閉めていると怒る盛年男子。

 メモ
 政宗公のご生母「最上義姫」は1623年76歳で仙台で逝去しました。北山の覚範寺で荼毘にふされ埋葬され、寶筺印塔が建立されました。法名は「保春院殿花窓久栄尼大姉」です。
 1635年13回忌にあたり、政宗公は菩提を弔うため、終焉の地に保春院を創建しました。
 1636年4月18日 最後の参勤に出発する前々日に落成を政宗公は祝いました。
 以上は「宮城文化協会発行 伊達政宗公ゆかりの寺院」によりました。



6 月 23 日 (月)  



 今日はガイド養成の現地勉強会が、常にガイドしているUさんが講師で開かれました。緻密に纏めた資料は最高の出来です。入場料に資料代に講師の熱弁と一切込みで会費500円とは、これもデフレの影響かな? これを機会に会員とガイドの希望者が増えれば万歳です。

 代表から瑞鳳殿ガイド日誌を紹介されたが、パソコンが無くて見られないと言う方がおり、トップページを印刷持参しましたら、我も我もと集まって見てくれ、貰っていくと言う方もおりました。「ぐるーぷ・よっこより」の仲間ではホームページを見れる環境にある人は10%位です。意外な低率です。どうしてでしょう。シニアネット仙台の会員は52.7%がパソコンを利用していると回答しています。

 6月5日に仙台城をガイドした、杜陵小学校学童と担任から礼状を頂きました。ガイドをした時にはどれだけ理解してくれたか心配でしたが、各人各様の感想になるほどと納得と安堵を得ました。今度は瑞鳳殿で学童にガイドをしたいものです。


 



6 月 22 日 (日)  



 参拝者数は小康状態、昼前一時皆無の時間がありました。

 仙台市内の御夫人2人、三陸南地震で寶筺印塔が倒壊したのを親が見て驚いていた。それを見に来たとの事でした。しっかり復旧し地震被害の面影はありませんと案内したら、ガッカリして早々に帰られました。参拝客の御期待を裏切らないようにガイドをするのを基本としていますが、今回はまいりました。

 福岡から来た3人娘、初めての東北旅行でこの瑞鳳殿からスタートとのことでした。政宗公・62の石段等概略をガイドし、貴女達の殿様は?と聞いたら、即座に「黒田長政52万石」と返ってきました。娘3人連れの一般的パターンとして、@興味を持って積極的に聞く娘、Aマアマア聞いてミッカというタイプの娘、Bそしてフーン興味ないの表情の娘の組み合わせが多く見られます。「黒田長政52万石」と即答したのはBの娘でした。自分の地元の歴史を知らない若い人が多い時代に、御奇特と思います。何で無表情な表情を示すのか、チョット不可解です。

 盛年の3人連れの女、62の石段も、入場券売り場も、涅槃門も立ち止まらないで、ズートおしゃべりをしながら登って行きました。まもなく おしゃべりしながら下りてきました。目は見える様ですから、絢爛豪華な桃山様式の建造物は目には入ったとは思います。見学する時は口は休んだ方が宜しいと思います。当然ガイドに割り込む余地はありませんでした。

 観光タクシーのガイドさん、手水鉢でお清めを勧め、涅槃門で拝礼してからガイドを始めました。この様な人に当たると、ガイド内容も正確であろうし丁寧ですから、仙台市内観光はたのしく、印象に残ると思います。私は手水鉢でお清めを勧める事は出来ません。さすがプロと敬服します。

 昨日、5月初めに90分近くガイドした方から、「 仙台での写真ができあがり、それを見ながら宮城旅行を思い出しています。「今回の旅行で、何が一番心に残った?」と話しました。そうしたら、「瑞鳳殿!」と意見が一致しました。やっぱり、いろいろと解説していただいた方が、頭に入るし、とっても印象に残ります。 また是非、宮城にいきたいと思っています。 本当にありがとうございました」とメールを頂きました。熱心に聴いて呉れ印象に残っています方です。自分の為のガイドにお礼の言葉を頂き感激しています、この喜びを仲間にお裾分け致しました。あかとんぼからも「ありがとうございます」とお礼申し上げます。



6 月 17 日 (火)  



 長野県の農協の一団を瑞鳳殿と仙台城とガイドしました。事前の日程表では平泉で昼食40分しか時間を見ていないので、中尊寺・毛越寺等を拝観しないのか、すれば約束の時間に大幅に遅れるなと覚悟していたら、約束の時間に到着しました。移動時間を含め50分間でガイドしてくれとの事で時計を見ながらガイドしました。中尊寺の坂を上り下りしたのでクタビレタの連発。62にプラスの石段は効いたと拝殿で休憩、現役の割に体力の無い人々です。
 団体をガイドする場合、移動時間を急がせられたの印象を持たせないようにして、如何に短縮するかが課題です。急がせられた・さっぱりガイドなかった・予定時間をオバーして後予定に支障きたした等となれば最悪です。今回はガイドを短縮し資料館を省いたのでうまくいきました。
 仙台城は一気に本丸に上がり 、眼下に見える瑞鳳殿に、街並み、定番の銅像等をガイドしました。移動時間を含めて30分間でガイドしてくれの要望です。果たして「どこが仙台城ですか」の質問がありました。時間を頂ければ三の丸・二の丸とガイドしますと答えました。質問した人はお城は天守閣等があるものの感じでした。大橋あたりから歩いて頂ければ、仙台城の規模・雰囲気等をご理解頂けるでしょうが、まずは無理でしょうネ。
 折角の機会です、仙台市内滞在時間を取り、街の活気をくみ取り、お土産を沢山買って経済活性化に寄与して頂きかった。

 駐車場に、関東圏の高級車が駐車場整理員の指示を無視して、猛スピードで入場し勝手な場所に駐車しました。そしてフェンスにバンバーをこすりました。指示を無視しての自損行為なので整理員に苦情も言えず、傷を見ながら恨めしそうな顔して参拝に登っていきました。整理員は案山子ではないのです、東京の女と威張らないで指示に従うべきでなかったのでしょうか。

 駐車場の大型バスに、軽自動車が冷たい飲料水ボトルを運んできました。運んで来た人を見て整理員と二人で「オオー」と思わず声を上げました。資料館長でした。世が世であれば「ヘヘー」でしょうが、運んで貰った人々は資料館長とは知らず、又ナニサマが資料館長とも知らないので、スーパーの店員に接する様に平然としていました。嗚呼 四民平等の世です。


 



6 月 15 日 (日)  



 三陸南地震で倒壊した寶筺印塔は全て修復が完了しました。被災の面影は全くありません。早い修復に安堵致しました。

 朝早々に他県のバスが連続して入りました。ガイド嬢は例によって出鱈目なガイドをしていました。職業人の発言に、素人のボラティアガイドが異議を夾む訳にもいきません。聞かせられたお客さんは気の毒だ、伊達家・仙台観光のイメージダウンにならないかと思いました。でもその瞬間フゥーと聞いて忘れてしまう様子なので内心ヤキモキしない事にしました。
 市内観光タクシーでの参拝の方々、今日は多かったです。この運転手さん達のガイドはしっかりしています。観光都市仙台を背負っているの自負がひしひしと感じます。

 涅槃門からガイドをし、本殿までで一区切りついたら、財布を取り出したご婦人がおりました。ガイドは有料で悪い奴に捕まったと思いながらガイドを聞いていたらしいです。「無料です、NPOシニアのための市民ネットワーク仙台のメンバーで社会奉仕になればと思い実行しています。」と申し上げたら、とたんに失敗したもっとオープンな気持ちで聞けばよかったの表情になりました。
 各地で我々と同様の活動をしていますので、腕章と名札でボランティアと理解して居たと思っていました。新潟県新発田市からお出でになったそうで、新発田市は全て有料なのでしょうか。

 容姿端麗な印度系の親娘をご案内のご婦人が寶筺印塔の説明で、切腹・お墓と申しておられました。寶筺印塔の基にはご遺骨が埋もれていないので、お墓の表現は不味いと思います。説明板もお墓と書いています。これも不適切な表現と思います。
 切腹を通訳する人はどの様な表現で通訳するのでしょうか。切腹は日本独特のもので、日本以外では事例は無いと思いますが。

 今日も「涅槃」「殉死」「お霊屋」とはなにかの質問がありました。「土葬か」「ミイラは戦災で焼けたのか」の質問もありました。

 宮城県大河原町からの若いお嬢さん2人連れ、「ウチは伊達藩ですぐ側が片倉藩の界だ」との事。大河原町の隣接している白石市は片倉家の知行地ですが、伊達藩領内です。大河原町は藩直轄知か、何方の知行地であったか、今手元に資料が無くわかりませんが、この様な事、正しい郷土史を「ゆとりのじかん」にでも教えるべきではないでしょうか。ループルバスで仙台市内観光をするのだそうで、博物館で伊達藩内を表した大地図で大河原の町を確かめ、博物館の中庭(三の丸)から本丸に歩いて登ると、色々なものが見られますと申したら喜んでいました。



6 月 10 日 (火)  



 南の地方は梅雨入りしたとの事。当地は未だの様です。

 5月26日の三陸南地震で、多数の寶筺印塔が倒れました。つぶさに見ましたら、2002年11月3日に、殉死者の子孫一族三世代で参拝においでになった「入生田三右衛門元康」殿の寶筺印塔も倒れていました。6月20日が御命日であり、ガイドと写真のお礼の電話や葉書を頂いており、近況をご報告しようと撮影に行って来ました。

 加賀からお出でになった睦まじいご夫妻。一昨日は瑞巌寺、昨日は平泉、今日は瑞鳳殿と北山五山を見学されるとの事でした。政宗公の父親のお墓は何れにあるのか、前田公は分骨して利家公の近隣にもある。前田家は菅原の朝臣だが、伊達家は?  何故家紋がいくつも飾られているのか、その由来は? 政宗公の戒名は、菩提寺は 等々語られ質問されました。最後にボランティアガイド何年になるか、自分は間もなく70歳です、お互いに元気で社会に役立つように生きましょうと語られ、石段を下りて行かれました。

 栃木県真岡市からバス2台来ていました。既に瑞鳳殿の参拝を終え、感仙殿等に向かうところでした。誘導していたガイド嬢に「どちらから」と尋ねたら、「真岡市から」の答えに、「伊達家発祥の地ですネ」と云ったに「父方ですか」と返ってきました。この応答はどの様に解きほぐせばよいのでしょう。

 7〜8人の人生の達人。急な坂道と長い石段を息絶え絶えに登ってきました。切符売り場の前で息を整えながら、突然入らないと宣言し、作業通路から遙拝して、今登ってきた路を下りていきました。どうしでしょう。折角気力体力を消耗して参拝しないで、宝物を目の前して帰るとは。年金の引き下げが影響したのでしょうか。再び訪れる機会はあるでしょうか。

 拝殿の妻側の保証工事の足場が組まれていました。参拝に支障はありません。

メモ
1.政宗公の父親のお墓は何れにあるのか。
  父輝宗公は1585年10月8日42歳で、二本松城主畑山義継に拉致され悲壮な死を遂げた。遺骸は現・福島市佐原の壽コ寺で荼毘に付されました。同寺は現在、仙台市青葉区国見一丁目に曹洞宗寶珠山壽コ寺として所在しています。法名は「覚範寺殿性山受心大居士」で、菩提寺は翌年米沢城近く遠山村に建立され、現・仙台市青葉区北山一丁目に所在している臨済宗遠山覚範寺です。墓所は山形県高畠町の慈雲山資福寺にあります。

2.前田家は菅原の朝臣だが、伊達家は?
  前田家の始祖は「菅原道真」となっており、同意味であれば、伊達家の始祖は「藤原鎌足」です。朝臣の意味は国語辞典では三位の人の姓の下、四位の人の名の下につける敬称とあります。

3.政宗公の戒名は、菩提寺は
  戒名は「瑞巌寺殿貞山禅利大居士で、菩提寺は臨済宗松島青龍山瑞巌円福禅寺です。

4.伊達家発祥の地ですネ
  伊達家第一世は常陸國真壁郡伊佐荘中村、現在の茨城県下館市と栃木県真岡市に及ぶ地域で、伊佐氏又は中村氏と称していました。1189年の源頼朝の奥州侵攻の軍功により、福島県伊達郡・信夫郡を拝領し以後伊達氏を名乗っています。 

 以上は仙台市発行「仙台市史近世1」、河出書房新社「図説伊達政宗」、新人物往来社「別冊歴史読本」、講談社「日本系譜総覧」、宮城文化協会「伊達政宗公ゆかりの寺院1・2」、岩波「国語辞典」、仙台郷土史研究会「仙台藩歴史事典」等によりました。



6 月 5 日 (木)  



 初夏です。暑いです。
 盛岡市内の小学6年生4人を仙台駅から仙台城迄ガイドしました。世情には学力低下と云われていますが、此の小学校の子供達の向学心と発表力・行動力には感心しました。日常生活の場である盛岡の良さを自分たちで勉強をしてきた、それを仙台駅ノコンコースで15分くらい さんさ踊りを披露する子供、南部鉄器の鉄瓶を持参し説明する子供、盛岡の良さを大きい声で発表する子供、チラシにして配布する子供と積極的に発表していました。

 通常の観光バスの人々の様に 政宗公の銅像の前ではしゃぐ事もありませんでした。でも本丸資料館はしっかり見学しました。眼下に広がる仙台の町をガイドした際、あそこの杜に政宗公が眠っていますと云ったら、即 瑞鳳殿ですか と返ってきました。嬉しいやら驚くやらでした。今度日曜日に家族でお出で、ガイドするからと約束しました。

 この小学生も 地元盛岡城主であった南部家には余り興味を持っている様子はありませんでした。
これは日本人の特性「遠くの神様は有り難い」で、当然の事かも。



6 月 2 日 (月)  



 快晴である。

 昨日の日誌に書き漏らしがあったようなので、読み返していましたら、ありました。

 扁額を見ていた若いペアの凰が、「間違っている」と突然叫んだのです。何が違っていますと尋ねると、瑞鳳殿と逆から書かれていると云うものでした。日本では、右から左に書いているのは縦書きを厳守している新聞と司法関係の書類位だけでないでしょうか。それ以外、書類に看板に左から右に書かれています。既に50年の歴史があるのでは。用紙もB版からA版になりました。若い女性の叫びは当然でしょうか。

 瑞鳳殿について検索していたら、「旧瑞鳳殿(国宝時代)の絵はがき」なるページがありました。仙臺名蹟・経ケ峰瑞鳳殿参拝記念なる、包装の外10枚の絵葉書が掲示してありました。貴重な写真ばがりです。バス通りに下馬石があった時代には、参道はうっそうたる森林に覆われています。今は家屋が建ち並び、下馬石自体が上に避難しています。隔世の感を実見出来ます。お奨めします。



6 月 1 日 (日)  



 台風4号崩れの大雨。参拝の方は皆無かなの予想ははずれました。タクシー・ループルバス・団体と通常と同じでした。計画性と実行力に富んだ日本人は少々の台風や大雨では、予定は変更し、中止はしないようです。 H代表の持論が証明されました。あかとんぼは雨に負けお昼で切り上げました。代表はそのまま頑張っていました。

 地震は日本の特産品? 欧米系の若い女性に同行の方を介して、英文パンフに書かれていない事をガイドしました。倒れた寶筺印塔を見てどうしたのかのお尋ねに、26日の三陸南地震で倒壊したと応えたら、写真を撮っても宜しいかと興味を示しました。倒壊前の姿を見たいでしょうかと聞いたら見たいとのことで、このトップページをご覧下さいと自己宣伝しました。
 紋章にも興味を示されたのでガイドの後、紋章はどんなものですかとお尋ねしましたが、お持ちで無い様でした。欧米では紋章は貴族の特権なのでしょうか。
 建築・美術関係のお仕事かと思ったら高校の先生だそうです。

 伊達家の家紋を指差し、同行の方に講釈をしている頑健な体格の方がおられました。「竹に雀」でなく「竹に笹」。「九曜紋」を「九曜星」と誤りでないにしろユニークな表現なので、話しの中に入りました。栃木県からお出でになった墓石屋さんだそうです。紋について一講釈あるのは当然でした。
 これからバスに一緒に乗って市内観光のガイドをしてくれと云われたました。観光バスのガイド嬢の職域侵害になりますのでお断りしました。

 朝一番のオジサンから、「ここの政宗は土葬だよネ」と云われました。どちらかと云えば確かに土葬です。でも時代劇やドラマでの土葬とは異なりますので、その様なイメージの土葬ではなく、防水完備の石室の墓室の中に、牡蠣灰とともに納棺され 安置していますと、話をすると納得したのか、お詣りせずに資料館に急がれました。資料館では伊達家三代の埋葬の仕方の変化が学べます。この方々は葬儀屋・埋葬屋さんでしょうか。

 本殿前で延々とお経ではなく、ノリトの様な呪文の様なものを唱えていた男女4人組みがいました。終わった後、伊達藩の関係者ですかと尋ねたら、言葉を濁してそそくさとおりて行きました。どんな関係者で、政宗公に何を祈ったのでしょうか。謎の一行でした。

 今日も色々な職業の方々との出合いがありました。 





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