2004年2月の日誌
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2 月 28 日 (土)  



 朝は快晴。明日は所要でガイドは出来ないので、明日の分と思い出掛けました。瑞鳳殿に着いたら曇り空で寒気が強くなりました。覿面に参拝者は雨垂れの様にポッン・ポッンでした。

 福井県からの看護と工学の学部生さん。大大名の加賀様、輪島塗り等の塗物の産地、看護学部であれは看護を離れた後の処置も詳しい筈。共通点や理解容易な点があったか、聞いてくれましたので善応殿地区までガイドしました。

 表示板の英文ガイドを読んでいた夫妻に墓室の位置等をガイドし、涅槃門に至りまして、透かし彫りの「麒麟」を「キリン」とガイドしたら、「私10年アフリカで本当の生きたキリンを毎日見て来ました」と云われました。政宗公の母「義姫」に関心があるらしく、お墓はあるのか、何処か等のご質問がありました。時間に余裕があるとの事で、善応殿地区までガイドしました。仙台支店長らしい人がVIPを案内している風情でした。秋の紅葉も素晴らしいので又どうぞと案内したら、ウーと唸っていました。又海外に転勤なのでしょうか。現役の方ご苦労様です。

 今日は18代ご当主創作のバレー公演の日です。当然 資料館長は不在でした。

メモ
 政宗公の母「義姫」のお墓は仙台市北山「覚範寺」に、灰塚は仙台市新坂町「永昌寺」に、菩提寺は仙台市若林区の「保春院」です。
 「義姫」は夫で政宗公の父親の「輝宗公」が1585年10月8日42歳で亡くなった以後、「保春院」と名乗っていました。1622年最上より仙台にかえり、翌年76歳で亡くなりました。荼毘に伏し埋葬したのが「覚範寺」で、葬祭しその用具を焼却し埋葬した地が「永昌寺」です。1635年13回忌にあたり、終焉の地に建立・開山したのが「保春院」です。



2 月 24 日 (火)  



 2月22日に、ご質問がありました「松島・五大堂の正面は「午」で、その真裏は「子」になっている。これは何故か」について調べたましら、所在地の松島町役場が1960年11月1日に編集・発行した松島町誌によれば「蟇股にはその方位に従って、十二支の彫刻を配してある」とありました。
 配列と政宗公の干支とは関係ありませんでした。



2 月 23 日 (月)  



 夜来からの強風は31メートルを記録し、日中は風雪となりました。
 この悪天候の中、会員以外の市民をふくめ38人が参加し、「ぐるーぷ・よっこより」の2月勉強会が開催されました。

 講師は、元仙台市文化財課長の早坂春一先生です。先生は瑞鳳殿等伊達家三代の御霊屋再建に伴う、墓室の発掘調査を現場責任者として担当された方です。
 瑞鳳殿等がこの地に創建された歴史、瑞鳳殿等の墓室を発掘調査するに至った経緯、発掘調査の様子等を現場に臨んだ者しか撮れない写真をスライド表示しながら、近世大名の墓室の発掘であり精神的抵抗があった事。他に事例のない事で予測できない中での調査であった事。墓室の発掘調査故に、病原菌や呪い等の心配から善応殿の場合「密封された瓶棺」で、マスク・ゴム手袋着用で自ら開封された等の生々しいエピソードも披露され、わかり易く話されました。

 最後に、ガイドをしている諸氏からの質問があり、外気に反して熱気ムンムンの中での90分でした。
 講義の内容は、現地のガイドに活かされます。是非、瑞鳳殿にお出で下さい。
 



2 月 22 日 (日)  



 なんとなく春めいて凌ぎやすい日でした。
 温かく、正に啓蟄と申せば、失礼ですが、開門早々、参拝者は途切れなく、毛糸の様に続きました。マフラーを外して拝殿横に置いてガイドしました。帰る時に見たらありませんでした。親切な人が忘れ物と思って事務所に届けて呉れたのてした。

 拝殿前の雪山を清掃担当がツルハシで砕いて、細かくして南面の日向に腰が痛いと云いながら運んでいました。確かに、雪山の処理は腰に響きます。ですから手伝うとは言いませんでした。逆に、「雪山は、雪の降らない所からの参拝者には、風情があると喜ばれますよ」と提案しました。でも、指示されたからと黙々と雪をかいていました。 

 朝一番は、ジャンボタクシーでのご婦人の団体、運転手氏から「ガイドして」頼まれましたので涅槃門から本殿迄ガイドして、一区切りついたら、又団体が表れ、エールを交換していました。何の団体ですかと尋ねたら、日本○○公社の女性管理者の研修との事で、九州・中国ブロックが最初で、続いて近畿・東海に、最後に関東ブロックでした。東北・北海道ブロックはお見えにならなかった様です。
 タクシーを待たせての参拝ですので、簡潔に説明致しました。管理職を務めている方だけあって、ガイドの氏素状が心配になったのか、ネームプレートをメモしている方がおりましたので、「NPOシニアのための市民ネットワーク仙台、藩祖伊達政宗公御霊屋瑞鳳殿ボランテイアガイドの肩書きに アカトンボの名前とURL」記載の名刺を差し上げました。

 今日は色々質問されました。
 先ず一番は、「政宗公と干支は何か」です。松島・五大堂の正面は「午」で、その真裏は「子」になっている。これは何故か、ひっとしたら政宗公は「子」ではないか。自分は子年生まれです。と云うものでした。
 「わかりません、意表を突くご質問です。調べてわかり次第お知らせします」とメールアドレスとお名前を伺いました。ご夫妻で旅を楽しんでいる風情でした。

 帰宅して調べましたら、生年の1567(永禄10)年の干支は丁卯でした。ウサギでした。卯だから大人しいと云う事にはならないようです。

 次の質問は、現在の仙台市の大部分は中世国分氏の領地で、国分三十三ケ村と呼ばれたそうだが、宮城郡(みやぎこおり)はあったのか、無かったのか。自分の見る資料には名取郡は出てくるが、宮城郡は出て来ない。と云うものでした。ありましたと回答しました。
 帰宅し「山川出版社 高橋富雄著 宮城県の歴史」で、907年完成の延喜格式に記載されていると確認しました。

 最後の質問は、伊達62万石の内、近江に1万石、常陸に1万石で、後は本領で60万石となるが、此の中に、一関・田村家の禄高は含まれるか、別かのご質問でした。
 これには、含まれていると思います。一関3万石は当初、政宗公の末子兵部宗勝で、寛文事件で所領没収、土佐預けとなり、その後に、政宗公の孫の宗良が愛姫の生家田村家を継ぎ、その子の建顕が、岩沼3万石から転封されています。この事は内高を示してしていると理解しています。答えました。

 オマケ
 有名な忠臣蔵のお話で、浅野の殿様が切腹したのは、田村家江戸屋敷です。吉良氏に伊達家は進物を沢山持って行ったとされ、さすが伊達家と云われ、仙台伊達本家と誤解されている向きがありますが、この相役の伊達家は、1657年に宇和島伊達秀宗の五男宗純が三万石分知された伊予吉田の伊達家です。
 
 



2 月 15 日 (日)  



 春一番が吹きました。でも境内は樹齢400年の杜の中、比較的穏やかでした。
 本殿前には残雪があります、いつの雪ですか、仙台は寒いところですネと云われてしまいました。同行の幼児は雪が珍しいのか、硬く・黒くなった雪を食べていました。母親は注意しませんでした。さて私は如何に対応すべきでしょうか。

 広島県竹原市の中学校の先生2人見えました。2泊3日仙台市を中心とする宮城県に修学旅行に来る為の調査とのことでした。「ぐるーぷ・よっこより」では、これまでも小学校から高等学校まで、サークルから団体までガイドした実績があり、未来を背負う少年少女をガイドする事はシニアのボンティアガイドの本懐とすることであり、お役にたつようであれれば如何様にもと申し上げました。
 資料としてとガイドの様子をビデオ撮りしていました。些か緊張し「訛り」ました。訛りも教材になるでしょうか。
 研修担当の先生だけあって、政宗公のご生涯、広島浅野家の紋所、広島市紋章の謂われ等よくご存じでした。

 臥龍梅の前で足を止める方目立ちました。
 自分達の所は梅は咲き始めました、此処は何時頃ですかのお尋ねがありました。3月の末から4月の初めで、櫻が続いて咲きます。梅と櫻の花を一緒に撮影出来ます。どうぞ又いらして下さいと申したら、苦笑いされました。
 別の方、説明版に原木は「政宗公の隠居所の古城・・・」の記述を見て、「今もあるのか、見に行きたい」と申されましたので、「誰彼入れない所です」と返事をしたら、この方社会的に偉い方らしく、「なんで、そんな(自分の入れないところは無い筈)」と申しますので、「ハイ 現在宮城刑務所の構内です」と返事しましら、さすが納得されました。



2 月 11 日 (水)  



 今日は「建国記念の日」 建国を記念する日であって、建国の日ではないそうです。日本国を建国したのはいつなのでしょうか。
 
 9日 京都の伝統工芸「西陣織」で瑞鳳殿を描いた織物が河北新報社から瑞鳳殿に贈られました。「10日付け河北新報に記事掲載」
 ご当主にお願いし特別に見せて頂きました。縦62センチ、横112センチで、修復以前の瑞鳳殿が色鮮やかに織り上げられていました。
 織物であり、陽光での色落ちが心配で常時公開は出来ないが、何れ公開しますとのことでした。ご期待ください。

 仙台に転住して20〜30年と称される自立した年代のご婦人、秋の来賓案内の下見だそうですが、秀吉・家康・政宗の各公をゴッタ煮して質問するやら、仲間内で解説を始めました。立ち往生する前に終わりにしました。まもなく、感仙殿地区に廻らず、62の石段を下りていきました。中途半端な下見調査に感じ、秋の来賓案内は大丈夫なのか人ごとながら心配になりました。

 東京と大阪からの盛年男子、飛天のガイドの際、「紀元前200年前の遺跡に・・・」迄話したら、「前漢の時代ネ」と返ってきました。「学生時代 青葉山(東北大学)に5年居ました。当時は当廟を参拝しませんで、今日初めて」と申されました。驚きました。 
 涅槃門の麒麟はほぼ全ての方が「龍」と答えます。又、拝殿の扁額の色「白と朱」の材料を答えられない方が多いです。出張中風の盛年男子5人連れの方々、一発正解でした。ガイドもしんなり聞いて頂けました。
 これらの方々は、資料館も時間をかけてご覧になりました。如何なる職業の方でしょうか。

 女子大生風の2人連れ、ガイドブックと瑞鳳寺のパンフを持参していました。「ガイドして頂けますか」と云われ「喜んで」とガイドしました。このタイミングが難しいのです。こちらから声かけすると、ゆっくり自由に見られないと嫌がられる事があるのです。
 この方々は、社会施設は有効に活用使用しようとする積極的な生き方の方です。
 ガイド中でなく切れ間に質問をされました。タイミングを心得ています。真剣に答えました。一番のご質問は「瑞鳳殿と瑞鳳寺との関係」でした。瑞鳳寺の境内に瑞鳳殿が創建されたと理解していました。ガイドブックによっては、その様な記載のものもあります。「正解は逆です」と申しましたら、驚き、生ガイドを聞いて良かったと云ってくれました。

<メモ>
 瑞鳳寺は1637年に瑞鳳殿と共に、瑞鳳殿の香華(佛に供える香や花)院として創建されたもので、今風の表現すれば管理事務所となりますか。
 なお菩提寺は松島瑞厳寺であった。

 



2 月 8 日 (日)  



 催事とバスの団体以外の参拝者は途切れる日でした。

 11時15分から、バレー「ジュリア」公演安全祈願と報告の参拝がありました。本バレーは1974年、瑞鳳殿から発掘された金製ブローチ(国宝指定)から着想を得た伊達家34世現当主の原作で、壮大溢れクラシックバレーの概念がスケールアップされた舞台と称されるものです。3月28・29日の仙台公演に先立ち、ご当主はじめ関係者80人が参拝されたものです。この間30分のみ本殿が開扉されました。
 政宗公が物語の主人公ですので、関係者、特に女性の服装は黒がベースでした。黒のセターに金製ブローチ(国宝指定)に、更に宝石をはめ込んで伊達風のネックレスで胸元を飾った方がおりました。さすが勉強され、よく表現されていると感心しました。

 「アー、ボランティアガイドさんが居た居た」の人生の達人ご夫妻。「全国各地を時間をかけ観光している。前もって観光協会・商工会議所のHPでボランティアガイドを確認し依頼しているが、仙台市は検索出来なかった。仙台は皆無かと思っていた。よかった」と洩らさ、「(ぐるーぷ・よっこより)は瑞鳳殿で日曜日はガイドしており、市内の主な所をガイドする能力を持っている仙台で唯一ボランティアガイドの団体です」と答えた所、高知・金沢等各地の優れたガイトの対応を話され、行政に依存しない(ぐるーぷ・よっこより)の県外からの観光客のご期待・要望に応える在り方について、貴重なご提言を頂きました。
 ささやかなお礼として、千載一遇、本殿開扉で政宗公の御木像を参拝されるように、お奨めしました。資料館・感仙殿等を拝観され時間に戻られ、現当主に間近に接し、御木像を参拝されました。昨日は瑞巌寺から仙台城に廻られたそうです、この方は時間と精神的余裕を持ち、仙台観光を満喫されたでしょう。

 この方の様に、徹底的に観光し楽しむ方の反面、こんな方もおりました。
 バスの団体、ガイド嬢は説明する事も無く、私を無視し涅槃門を潜らせていました。H代表が本殿前でガイドしていましたが聞く事も無く、直ぐ降りてきました。ガイド嬢は厚いフード付の外套に、長くて太い防寒靴を履いて南極スタイルでしたので、何れからお越しですかと尋ねましたら「お客は信州飯田から、私は雪の山形から」との返事でした。
 本殿前で町の社長さん風の方から、「瑞鳳殿とはこれか、これだけか」と質問されました。「ハイそうです。あの涅槃門からこの一画が政宗公の墓域、瑞鳳殿です」と答えガイドしようとしたら、名古屋から来たと申して、一団を引き連れ、資料館も見ないで62の石段を駆け下りて行きました。
 この方達、折角時間と経費を費やして勿体ない思います。



2 月 1 日 (日)  



 寒さも峠を越えたのでしょう。温かいとは申せませんが、寒く無い気温でした。
 開門早々からの細い絹糸の様に続いた参拝者も昼には途切れました。

 朝一番の方から、「垣根の花は何ですか」とお尋ねがありました。「寒椿です。でも植木屋さんとか、一般の方は山茶花とも云っております」と答えましたら、ウーと感心していました。雪深い津軽から見えたそうで、大寒の今、赤い花が咲いているのは珍しかったようです。
 涅槃門の説明が年賀拝礼式に至り、「撃剣十番奉納」があり、真剣で行われます。竹光を刺している人もいます。それは占領軍の刀狩りの結果です。と話をしたら、連れの高校生から「豊臣秀吉の刀狩り」と反応されました。此処まで日本史を知っているには嬉しくなりました。でも、私は1945年に占領軍が日本の警察官を露払いに、銃砲刀剣を保持していないか各家庭を調べ、没収した事実と、藩志会の人々の中にもその際に没収され帰って来なかったと申している方が居る事実。この事を「占領軍の刀狩りの結果」と語りました。しかし違う反応が出たので、すぐ補足説明し理解して頂きました。
 相手の年代をみて、歴史的事実を端的に正確に、語る事の難しさを再認識しました。

 団体は奈良県の山中の役場の御一行様でした。仙○バスのガイド嬢からガイドして云われましたが、一見してベテラン顔でしたので、ボランテイアガイドでは畏れ多いと断りました。ガイド嬢によると「みなさん 興味が無いのか、話は聞かない、女性が多いが一様にキレーイの一言のみ、此の団体は先月に続いて2回目」のガイド嬢の不満話を裏付けるが如く、我々の面前で爆音高く放屁し悪臭を残して降りていった男がおりました。誠に不謹慎・不快な男です。本当に役場の職員だとすれば、住民にどの様に接しているのでしょうか。住民の方、こんな男による行政サービスに住民税を納めているとすれば気の毒です。

 このガイト嬢から、「瑞鳳殿、瑞鳳寺、瑞厳寺となぜ『瑞』が付いているのか」とテストされました。
 「瑞鳳殿、瑞鳳寺を建てられたのは、二代藩主忠宗公です。ご承知のとおり瑞厳寺を再興されたのは政宗公です。政宗公の院殿は「瑞厳寺殿」です。法名は「貞山禅利大居士」です、瑞は「目出度い、みずみずしい」、鳳は鳳凰の鳳です。「大きい牡の鳥」の意味があります。忠宗公の瑞鳳殿、瑞鳳寺の名付けの謂われは、勉強不足でわかりませんが、この辺にヒントがあるのではありませんか、如何でしょうか」と答えましたら、「ヨカッタ、お客さんに聞かれて困っていたの。そう答えるわ」とニコニコして降りていきました。

 瑞鳳殿を垣根越えの案内が2〜3組み居ました。
 登ると意外に厳しい坂と乱れ敷石の長い石段を折角登った人生の達人には、再び登る機会は無いでしょう。この人々を寒椿の垣根越えに遙拝させて、瑞鳳殿に案内したと済ませるのは、空腹にさせレストランのメニューを見せて食べさせないで帰りましょうと云うに等しいと思いました。
 案内した若い人が晩に飲む麦酒一本我慢すれば済む、安い親孝行と思いますが。

 老老介護に見える3人、2人は腰を「つ」の字にして、3段1段の石段を登られ、本殿前で外套を脱ぎ、深々と参拝されました。帰りは職員駐車場のゲートまで車を寄せて幾らでも歩行距離を短くし、帰っていきました。駐車場担当のアドバスを素直に受け入れた、この「つ」の字の方に対する対応の行き届いた老のお嫁さん?の様子に感心しました。

 白杖と濃眼鏡の視覚障害の二人連れの方が見えました。以前にシニアネット仙台の仲間で視覚に障害のある○○さんをはじめ、何組何人かをガイドした経験があり,それなりのガイド出来ると張り切って「ガイドしましょうか」と声をかけましたら、断られました。
 通常なら説明しない寸法等を手持ち資料で説明し、豪華華麗な瑞鳳殿を理解して頂こうと張り切ったのに、断られ、落胆でガックリし、本日のガイドを切り上げました。
 断られたのは、無償のボラテイァと真っ先に云わなかったからではと、反省しました。





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