2004年10月の日誌
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10 月 31 日 (日)  



 午前中は雲中・霧の中でした。城下は曇りなのに。午後は雲が上がりました。
この雲中は参拝者には、巨木の森の中の霧 霊気を感ずると好評でした。

 朝一番は米沢からの12人の同級会の団体でした。配偶者同伴の一泊での開催で、今年で30回目の記念なので、米沢と縁故のある瑞鳳殿を訪れたとのことでした。プレートからガイドしまして、本殿に至り、家紋の「竹に雀」をみて、米沢は政宗公生誕の地のみならず、上杉家と伊達家の家紋「竹に雀」が共通する話に至り、皆様納得され歓声を上げていました。

 盛岡からの中高齢での家族団体の方々は南部鉄器の製作にかかわっているのか、拝殿前にある鎚起銅製大香炉と香炉舎で、「鋳型を使用しないで銅板を叩き延ばした手作り」とガイドしたら、その高度の技術をすんなりと理解し納得してくれました。

 線香があるが、神か佛かののご質問が中年のご婦人からありました。「佛です。墓地です」と答えましたら、なんか不満そうな顔をして去っていきました。サテと考え込みました。日本のやよよろずの神様に祈る際にはどの様にしているか、迷いを生じたのです
 久々にH代表が見えたので、此の話をしたら「佛様に線香を上げるのは、その煙の立ち上がる先に仏様がお居でになり、思いが早く届く様にである。仏様が一般的に薄暗い所に祀られているのは、黄泉の世界を表しているもので、起原は古事記の天の岩戸に遡る」と教えてくれました。
 中越地震で4日目に岩石の中から救出された2歳の幼児は、夜 暗くなると怖いと云うので明るくして就寝していると報じられていました。母と姉と一瞬にして別れ、暗黒の4日間は黄泉の国の入り口まで行ってきたのでしょうか。この幼児には、余人が経験し得ない事を経験したのです。この後80年100年と現世で健康で頑張って欲しいものです。

 東京から来たと称する20人ほどのシニアの団体。拝殿に来たら、一斉に外套にセーターと脱ぎ出しました。真冬の網走探検の格好です。仙台は新幹線2時間で来られますが、極寒の田舎の地と思っているのでしょうか。
 リィダーらしき方が厚いファイルを取り出して「ココは伊達政宗のお墓です」と始めましたので、東京の歴史旅行サークルかなと、無視され続けましたら、それ以上のガイドが無く、一同、本殿を一瞥し「政宗は関ヶ原の戦いは知っているのかな」と声高らかに会話しながら去っていきました。
 歴史旅行サークルかなと思ったは私の一人相撲だった様です。

 プレートを読んだオバサン「これオタマヤとは読まれない、読めない、オレイヤだ、そうフリガナすべきだ」と大きい声で叫んでいました。大きい声で叫ばないで、辞書を開いて下さい。「たまや 霊屋 霊魂が祀ってある建物」と国語事典にあります。
 自分が読めないからと「御霊屋 オレイヤダ(俺嫌だ)」はないでしょう。

 大阪からのご婦人。臥龍梅の葉を拾われ、「どんな花が咲きますか、咲くのは2月ですか」と問われました。「咲くのは4月、三春です、梅・櫻・椿が一緒に咲きます。白い花です。私のHPをご覧ください」と答え、このURLをお教えしました。

 東北○○大ボラティア科の学生から「NPOシニアネット仙台の屋外・対外活動の中心の(ぐるーぷ・よっこより)の活動実態を実見したい」との申し出があるので、宜しくと事務局長から依頼があり、快諾していましたが、昨晩突然キャンセルの電話がありました。どうしたのでしょう。中越地震の手伝いに行ったのでしょうか。

メモ
 関ヶ原の戦いは1600年9月15日で34歳の時でした。この年12月24日仙台城普請の縄張りを始めています。亡くなったのは1636年5月24日行年70歳です。



10 月 24 日 (日)  



 この世は泰平極楽の感じの晴天です。

 昨晩の地震には驚きました。バスガイドからお願いしますと依頼された団体、議員の慰労出張ふうの人々に、どちらからと尋ねたら「福井から」「地震の被害は?」「いやーわかりません、どうせ交通遮断で帰れませんから」の返事で、ゆっくり参拝をして頂きました。
 この人々は福井水害も被害のなかった恵まれた人々でしょう。

 欧米系でない彫り深い外国人10人ほど参拝に見えました。あかとんぼの日本語は全く通じませんでした。英文のパンフを持っていたので、瑞鳳殿の項を指して、ここを読んでと申したら理解して頂きました。
 清掃担当Mさんの言葉は通じた様で「コロンビア」から一行でした。通訳もガイドもつかないで、よく瑞鳳殿にお詣りにお出でになったものです。
 香炉の炭火を不思議に見ていましたが、祈りの施設と理解されたらしく、10円硬貨を見せますので、宜しいと頷き、硬貨入れと線香を指差しまたら、頷いて硬貨を入れ、線香を取り、点火し灰に刺して祈っていました。
 異文化を楽しんだのかは知りませんが、先人に敬意を表して祈りを捧げる行為は、異宗教である等の論理以前の庶民の自然の感覚なのでしょうか。
 今朝の仙台は冷え込みました故か、皆さんは厚着で上に羽織っている衣装は南米調の素敵な色彩でした。
 会話は出来ませんでしたが、彼等の話振りは陽気でした。陽気に聞こえました。

 Uさんと暫く振りに一緒になりました。なかなか上手なガイドで、お客さんは聞き惚れて動かなくなります。仙○定期観光のお客様は 軽く聞くつもりが聞き惚れ、取り込まれてしまいました。バスガイドは時計を見て時間を気にしていますがお客さんは動きません。予定より遅れたでしょう。プロと申せ3ケ月の新人では、3年のボラガイドには勝てなかったようです。

 清掃担当Mさんの話「イヤー 素直なお客さんにやられたヨー。シャツター押しを頼まれたので、何気なくハイ息を止めてーと云いつつカメラを構えていたら、「オジサン苦しいー」彼嬢はズート息を止めていたらしい。」と云うことでした。
 



10 月 17 日 (日)  



 暫く振りの晴天です。

 参拝は高知・滋賀等から続々と。JTBは千葉を初めとする各店から続々と。添乗員が本殿まで案内したのは千葉のみ、他は62段を上がった所で自由参拝でした。ガイドは団体でなく、自由に聞くでした。

 拝殿で寝そべり、御霊屋・廟と説明しても聞く耳を持たず、祭壇だ言い張り、言語明瞭意味不明で叫んでいたオジサンが居ました。
 
 涅槃門の菊の紋章を見て皇室との関係に拘る方が何人かいました。同行のオバサンに「皇室は金を出して付けさせた」と解説していたオジサンがいました。オバサンが納得していましたので、夫婦間の会話ですから聞こえない事にしました。

 伊達家は幕末迄に参勤交代をしたかとお尋ねの方が居りました。参勤交代は幕府の定めですから、政宗公も病を押して参勤しましたと答えましたが、腑に落ちない顔していました。うちの方は絶えず交替したと発言があり、参勤交代で無く領地替えがあったかの意味での質問でした。1591年来、現宮城県と岩手県南半分の地域に変わりないと答えました。

 涅槃門は焼失前と同規模で復元されているか。昔日はもっと大きかったのではないか。のご質問が高齢のご婦人からありました。戦前、尋常小学校でクラスの代表男女各1名学年で8人くらいが先生の引率で参拝をした。あの当時は大きかった申されました。
 同規模で復元されています。子供と大人では視点が異なります。それでありませんかと申し上げました。
 手持ちの戦前の絵葉書のコピーをお目に掛けましたら、「そうそう、こうであった」同級生らしい方と頷きあっていました。三つ子の魂百迄です。

 本殿の木鼻を指差して、「どうして龍頭が無いのか」の質問がありました。この方の言によれば建物のココに龍頭がある筈である。何故無いのかと問でした。「焼失前の姿に限りなく復元しており、創建当時からありませんでした。それは何故かはわかりません」と答えました。

 メモ
政宗公の城の変転
1567年 8月 3日  1歳 山形米沢城に生まれる。
1589年 6月11日 23歳 会津黒川城に入る。
1590年 7月10日 24歳 山形米沢城に移る。
1591年 9月23日 25歳 宮城岩出山城に移る
1600年12月24日 34歳 仙台城縄張りをする。

菊の紋章
 1591年2月秀吉より、侍従に任じられ越前守を兼ね、羽柴姓を許されている。この際に菊の紋章の使用が許されているとの説が主流である。



10 月 11 日 (月)  



 曇り一時俄雨。振替休日の連休最終日とあって参拝客は続々と。麓の幼稚園は延期を重ねて待望の運動会です。スピーカーの音声が全山に響いています。

 本殿前でガイドしていたら激しい俄雨がバラバラと来ました。傘を持っていないお客様には、本殿の屋根の下に緊急避難して頂きガイドをしました。

 福井からの3嬢、学術調査の話が終わったら、すかさず「身長は幾らですか」との質問。「お嬢さんと同じ身長です、いくらです」と返したら「160pです」政宗公は遺骨を計測して159.5pですから、生きていた時は160pあったでしょう。ピタリの正解には我ながら驚きでした。連れのお嬢から「チビダー」のご発言。「現在、男としては大きくはないが、当時としては立派な体格です」と答えました。
 「血液型は資料館で確認して下さい。身長も血液型もピタリだと 政宗公の様に大成するでしょう」と話したらエラク喜んでいました。

 拝殿前に本殿を背景に撮影したい人々が数組、参拝を終わるのを待っていました。暫くして拝礼が終わった様子に、待ちくたびれた人が「よろしいでしょうか。背が写ります」と声を掛けたら、「うるさい。俺は今拝んで居るんだ」大きい声で叫び、立ち止まった儘になり移動を止めました。待っていた人々はシーンと白けてしまいました。
 暫くして本殿から下りて来た時、待っていた人々は左右に分かれ、冷たい目で見送っていました。昔エラカッタ人かも知れませんが、多くの人々の迷惑を考えずに威張る、意地悪する必要は無いと思いますが。

 シルバー族の男性2人。本殿前で立ち止まって30秒、くりると歩を返して、俺は知識人だ、ボラガイドなんか相手にしないといった調子で「ココハコレダケ」の質問。「はいコレダケです」と答えました。聞く耳を持たない人にガイドする能力を未だ持っていませんので。

 ボラガイドと軽視する人もいますが、今日の他の多くの人々は、ガイドの途中で話のコシを居ることもなく、最後まで聞いてくれて、「聞いて良かった」と拍手までくれました。

 紅葉はきれいでしょうネと云われ、手持ちの昨年11月の紅葉の写真をご披露しました。四季のページに掲載しています。これを見ている愛読者のMさんから、紅葉始まったら教えてとメールを頂いています。今年は遅いように感じています。



10 月 10 日 (日)  



 昨日は台風22号が首都圏に襲来する予報で、国営放送は外出しないように繰り返し放送していました。でも、雨・風にもめげない参拝者は600人を越えたそうです。

 今日は連休中日、晴れの特異日の筈ながら小雨が残っています。全国各地から続々と切れ間なく参拝に見えました。福岡・高知・丸亀・広島・奈良・名古屋・東京・所沢・函館等から2人から18人の団体でした。

 仙○交通の運転手さんから、「先日はどうも、今日は10分でお願いします」と云われガイドしました。知っている様子の運転手さんと感ずるので、「足りないところは運転手さんに聞いて下さい」とタッチしました。

 日○タクシーの運転手さん「13人の3台お願いします。実はここ始めてなので」の話。資料館に入ったお客さんはなかなか出て来ません。ほかのお客さんをガイドしないで待っている訳で困惑しましたが、運転手さんは「メターを倒してあるから」とノンビリしたもの。
 案の定、お客さんは飛行機の時間が気になり、ソワソワ。でも、高知からお出でになったとの事で「簡潔にガイドします。遅れないでついてきて下さい」と、瑞鳳殿・感仙殿・善應殿とガイドしました。結果的にお客さんも運転手さんも満足した様子でした。

 上品な3人連れのご婦人が段差の厳しい石段を登って参りました。英文のパンフを手にしていましたので、音声解説器をご紹介しました。高齢の方が「私は日本語を判る」と申されましたので、拝殿の扁額の珊瑚と真珠からガイドを始めましたら、「音声より良く判る日本語だわ」と連れのご婦人が申し、以後3人で本殿までじっくり聞いて頂けました。

 寶筺印塔でのガイドの際、「一番若い方は数え年22歳です。その様にガイドすると違和感を唱える方も居ります」と申しますと「最近の日本の方々は考え方が変わって来ていますネ」と返ってきました。確かにそのとおりです。鋭い反応です。

 高齢のご婦人は「私は84歳なので石段はサポートを必要とするが元気です。娘達と3週間の日本旅行をしているが、先立たれた夫とも一緒に来たかった。ハワイから来ました。仙台の次は会津若松に行きます。宗門は○○です」といろいろお話になりました。

 成功する人は心の支えを仏教に求めるのでしょうか。現在の日本人は頭を垂れない人が多いのですが、この方々は宗門を問わないで垂れました。

 喜こばれハワイのチョコレートの箱を差し出されました。固辞しましたが、拙いガイドを評価したくださった印と理解し有り難く頂きました。始めての経験です。

メモ
 現在、5月24日の御命日等には、臨済宗妙心寺派 正宗山瑞鳳寺ご住職が執り行っています。



10 月 3 日 (日)  



 大雨です。

 JR東海からの依頼があり、H代表と職場の親睦旅行80人程をガイドしました。傘で輪が広がり、傘とマイクと両手使いは難しく、生声になりチョツト大変でした。
 旅行の楽しみは飲酒。「乗ったら飲まなくては」の方がおられて、車中2時間を楽しまれたかプンプンと香りました。
 勤め先が品川との事で、綱宗公・善応殿で品川屋敷で過ごしたとガイドしましたが、反応はイマイチでした。「樅の木残った」の放映以後の世代の若い人達が多くて、当然の反応だったかも。

 伊達家は明治維新で廃絶したと思ってる方が数人いて、「18代御当主は健在で、資料館長を勤めています」と説明したら一様に「ヘー」と驚いていました。「19代なる人は学生か」とボラガイドは答えられない質問が続いてきました。

 エジプトのピラミットでは墓室まで見せているのでしょうか。「墓室を見せろ」と言い出した人がいました。「地下に埋葬されています。廟内部も常には公開していません。お墓の中まで公開している所ありますか」と返事したら、「ほかでは見せてる」と頑張っていました。政宗公に丑満時、この人の枕元を訪れて欲しい気分でした。

 この貸し切りバスのガイド嬢は定期観光バスと同じ会社ながら、営業所が異なる故に瑞鳳殿は始めてらしく、ボラガイドをお客さんと一緒に聞いてよろしいかと問われました。どうぞと申しましたが。

 定期観光の午前の乗客は10指に満たなかったようです。雨の為でしょう。

 「静岡市からの方です。ガイドして」と仙○タクシーから声をかけられました。久能山東照宮・三保松原天女伝説を引き合いガイドしました。でも、久能山東照宮等についての反応はありませんでした。俗に申す「遠くの神様」「遠交近攻」のたぐいでしょうか。

 毎日曜日 雨の中のガイドです。雨続きです。清掃担当氏「イャーまいった。供花の菊の軸、色が変と良く見たら黴ナノシャー」 まいりました。

補足
 「墓室を見せろ」の発言は「廟内部を見せろ」の誤りでないかの声がありました。誤りではありません。資料館で発掘調査時の御遺骨の写真を見てヤヤ納得していました。
 外国では最高権力者が亡くなった後、遺体を特殊処理し国民に公開していたとの話を聞いています。しかし日本ではその様な事例は聞いた事がありません。御遺骨の横たわる墓室の公開とは更々聞いたことありません。此は死者に対する「冒涜」だと思います。

 事件が起きると「あってはならないことがおきた」と関係者が陳謝すれ例が最近多々あります。これは「考えてはならないこと」を考え発言された事例と受け止めました。





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