2005年3月の日誌
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3 月 27 日 (日)  



 昨日とうってかわって おひさま さんさんと温かいです。参拝者の出足はよろしいです。気温に比例するようです。臥龍梅がほころびました。

 開門と同時に欧米系のシルバー夫妻数組がみえました。臥龍梅を撮影し更に、春の息吹を撮影したく感仙殿迄行ったら又合いました。感仙殿の涅槃門を素通りする様子なので、あかとんぼの顔と背を交互に、そして門の上を指差しましたら、頭上の飛天に気付き、其の配置の妙に驚き、ビデオとカメラ撮影に集中しはじめました。

 マスクをされた方 多数みえました。花粉症対応の様です。拝殿内側足元に黄色い粉末が筋状にありました。お客さんから杉花粉ですかと 聞かれました。さてなんでしょう。
 此処の杉は聖地の樹齢400年前後の老木であり、伊達家三代の功徳によって人畜無害のお話もあります。はたしてどうでしょう。満々です。間もなく飛散するでしょう。

 家紋を見ていて 「何故伊達家は沢山あるのか」のご質問。「伊達家は古い家で溜まったのと記録がしっかりしているからです。お宅も最低2家紋はあるでしょう」「いや無い」「奥方の紋とふたつでしょう。母に祖母とたどれば、此で4家紋でしょう」「ウー、ムニャムニャ」サヨナーラと去っていきました。
 「吾は三引両で源氏 家内は揚羽で平家 我が家の源平合戦は平家有利。アハハー」「そう平家が強いのホッホッ」と豪快な殿様と奥方もおられました。

 涅槃門でガイドしてと云われて、菊の紋章に、透かし彫りの麒麟と、ひと言ガイドするや、三こと四言葉となく返してよこすオバサン。ガイドする余地なく涅槃門も早々に三段一段の石段を登るまでお付き合いして、後は勘弁してもらいました。
 普段 孤独に生涯学習していたのが、親孝行にと奥州仙台に連れて来て貰い、溜まっていたものがロケットエンジンの如く噴出したのでしょうか。
 参拝・観賞に邪魔にならないように、一方的ガイドならないように、反応を探りながらガイドするように配慮していますが、今回はソンナ配慮無用の完敗でした。

 麓の瑞鳳寺の老住職のお葬式が本日だそうで、下馬石の前は一門の住職の車で混雑していました。
 伊達家御当主は粛々と事務室で執務を取られていました。

 お昼には 午前の陽気が一転暗黒 雨が落ちて寒くなり 人出が途絶えましたので 本日は終わりにしました。



3 月 26 日 (土)  



 春彼岸を過ぎ、梅が咲き始めたのに終日風雪です。寒いです。読書で過ごしました。
刊行されたばかりの「仙台市史近世3」に、1867(慶応3)年7月末に、伊達家は軍備に備えて外国製の船を買い入れており、「江戸藩邸詰出入司であった入生田三右衛門康欣(やすよし)の記録「都下(とか)勤番記(きんばんき)」によると」以下、買い入れの為の各役方の動静が記載されています。此処でハテと思いました。政宗公の殉死者に入生田三右衛門元康なる方が居った。その末裔でないか、となれば 末裔は殉死によって寛文2年に八貫文加増されて二十貫文(200石相当)の録高を得、且つ、それなりに要職に就いた訳です。
 入生田三右衛門 迄同じで、元康と康欣と康が共通しています。 私本仙台藩士事典 (坂田啓編 1995年2月刊行)によれば、伊達家中には入生田家は一家のみで、その系図に、元康から七代目迄記載されており、全員にの文字が入っています。康欣は八代目以降なのか。末裔と思いますが確証がありません。末裔であれば優秀な血脈が連綿と続いた証になりますね。



3 月 22 日 (火)  



 20日の日誌「政宗公の失明の記述が不正確で、H代表よりご教示頂き修正致しました。既読の方は再読をお願い致します。

 愛読者Mさんから次のメールを頂きました。
「資福禅寺の「こさい和尚」がべんてん丸の師匠だと記憶してます。こさい和尚のこさいはどのような字でしたか忘れました。教えてください。その当時は資福禅寺は米沢に有ったと聞いてます」

 「こさい和尚」は虎哉宗乙(こさいそういつ)です。

 「べんてん丸」は梵天(ぼんてん)丸です。梵天は湯殿山修験道での弊束で、神の宿るクラ・神のよりしろとされる。父輝宗は如何なる考えで命名したものか。

 「資福禅寺」は臨済宗妙心寺派。号は慈雲山。本尊は慈覚大師作と伝えられる正観音。建長年間(1249-56)伊達三世義広が福島県伊達郡に唐僧佛源を招いて開山した。伊達五山に数えられた。米沢に移り荒廃し無住となった。元亀3(1572),年伊達十六世輝宗が美濃から虎哉宗乙を招き、資福寺として中興開山した。天正19(1591)年玉造郡岩出山に、慶長5(1600)年に仙台谷地小路に、寛永15(1638)年に現在の北山に移された。寺領八七石、着座格。

 以上の資料は「図説伊達政宗・仙台市博物館編 1987年2月河出書房新社刊」と「宮城県の地名 1987年7月平凡社刊」によりました。



3 月 21 日 (月)  



温暖なお彼岸の休日です。

 10時過ぎまで清掃担当○○さんから満海上人と修験行者について山形・置賜迄調査に行って来た話を聞いて過ごしました。年度末の三連休は会社等の旅行は無いのか、開門と同時に訪れる団体はありませんでした。

 団体そのもの、バスは一台のみでした。ガイド嬢がしっかりガイドしていました。

 若いペア しっかりと聞いて呉れますので、それに応えてガイドして「今日はどちらから」と聞いたら「ハイ仙台です。東北大学史学科です」と返ってきました。準プロに語ったと内心ドギットしました。でも「大学では決して学ばない事を教えていただいてドウモ」と云われホットしました。

 「ガイドさんいる。お願いできる」のかけ声が何件かありました。「お時間は」「ゆっくりある」それではと涅槃門から本殿まで、おきゃくさんの反応を確かめながらゆっくりガイドし、喜んで頂けました。中には「ガイドして」「時間が無い五分で」と申される方もおります。五分では語れませんので「お好きなようにどうぞ」と申します。
 観光は精神的にゆっくり余裕を持つのがコツと思います。
 若いペアから「面白かった、一〇倍も一〇〇倍も」と云われ、瞬間ハテナと思いました。でも、お彼岸に自分の祖先をさておき、政宗公の墓参りして、楽しい気分になったとの若い人の表現の様で、ヨカッタナ、「瑞厳寺殿貞山禅利大居士」の功徳かなと思いました。

 市内地図を手にした神奈川からの二人組の若い女性。仙台駅から歩いて来ましたと。若さです。出版社の観光ガイドブックを持参される方はおりますが、それを持たずに地図を頼りに、続けて歩いて仙台市内観光をするとの珍しい事でしたので、地元新聞社発行の「情報図鑑みやぎ2005」1冊を差し上げました。

 10時50分頃涅槃門前迄救急車が入りました。門前で転回しサイレンを鳴らさないで市街に下りて行きました。自称目撃者は「運動着にリックを背負い62の石段を駈け登っていて倒れた」と話していました。ご無事であります様に。



3 月 20 日 (日)  



 温暖な天候で、彼岸の3連休、参拝客は国内はもとより、亜細亜系、欧米系の方々と多数でした。

 重量のある中型のビデオに、一眼レフのデジカメを屈指し、撮影されているシニアのご夫妻。瑞鳳殿と仙台城が目的で秋保温泉に連泊との事。「政宗公が独眼になった原因はなにか。仙台城は何も無いだろう、資料館はあるのか」の質問がありました。
 「資料館は護国神社が運営しています」と、答えたら驚いていました。「天守閣等の建物はありません。又本丸のみ仙台城と思われる方が沢山ですが、広瀬川を渡った所から仙台城で、水沢伊達家等の屋敷があった、左手が三の丸、続いて右手に二の丸、そして本丸に上がります、この広さが仙台城です」と申したら、「橋を渡ったら歩いて楽しもうか」との返事。年齢と機材からして、「タクシーを徐行させながら登られた方が宜しいと思います」と申しましたら、「イャー 良いアドバスで」と大変喜ばれました。

 日によって、同じ傾向の質問が連発に遭遇します。「失明したのは戦いで矢が当たったからか」「目玉が無かったと聞いているが」「頭蓋骨で目が左右相違すると聞いている本当か」等です。「失明の原因は幼少時の疱瘡の看病の際にバイ菌が目に入って失明したものです。矢が当たり目玉を取ったは小説のお話でしょう」「目が左右相違する」は本当ですと、手持ち資料を開いて説明しました。

 中国語を話する若い女性4人。涅槃門前で外套を脱ぎ、セーター等で交互に撮影していました。彼女達の立つ位置が門から遠くカメラよりです。日本人の立つ位置とは異なります。これは民族性なのか、単なるセンスの相違なのか。彼女達が去った後に立ってみましたが わかりません。

メモ
 失明と答え、示した資料は「独眼流政宗の素顔 逸見英夫・伊達泰宗共著 1996年8月株・宝文堂刊」のコピーです。資料に「頭蓋骨の左右眼窩に損傷見当られず、両眼備わった状態で視力を失った状態」「現代人は34.3粍。政宗公の眼窩高39粍眼窩幅43粍」と記載されています。

 失明の原因・御木像等に両眼が備わっている事の説明に次の資料が宜しいとH代表からご教示頂きました。
 「伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書」の記載を要約して届けます。
 「死後木像などに表わし、命日には香花を供えるだろう。そのような時は両目を付
けて置くべし。生まれつきではなし。年長けてのち疱瘡煩いのうえ、目に悪瘡入りてかくの如し。親の授けたる形の欠くる事は、第一の不孝也。むさと表わさんにおいては必ず無用なり」



3 月 13 日 (日)  



 粉雪の舞う寒い日でした。ループルバス到着時に参拝者がみえる程度でした。
みなさん 寒さとバス時刻が気になり 落ち着いて参拝される方は少々でした。

 石垣を舐める様に観察している方がおりました。石工さんですかと尋ねたら、否定されました。仙台城の1期から3期までの石垣についてはご存じでした。「ここの石垣は1636年に組まれたもので、仙台城石垣再建の際の年代確定の指標の一つになったと、仙台市文化財課の発表を聞いています」と申し上げたら、「フム、ソウダロウ」の返事でした。石垣を丹念に見られた方は初めてです。

 家紋「三引両」を説明していて、伊達家の先祖は「常陸國新治郡伊佐荘(茨城県下館市)・真壁郡伊佐荘中村邑(栃木県真岡市)」の豪族で、1189年源頼朝平泉侵攻・・・・と話していたら、「ワッー私たち下館市から来ました、中村って知っています。隣地区です。下館市は周囲の町と合併し、下館市でなくなります」と現在住まいする土地と単に観光に訪れた仙台との結びつき・関係に、驚き・喜んでいました。

 
 



3 月 12 日 (土)  



 晴・雨・雪と変化の激しいお天気です。

 シニアネット仙台の事務局からメールが転送されてきました。何事か驚きみましたら、3月6日にガイドしました若さを失わない4人のご婦人からのお礼でした。
 
 「とてもわかり易く、又楽しいひと時を過ごす事が出来ました。あまり伊達政宗に詳しくない私でさえ、今回の事がきっかけで興味を持つようになりました。」とありました。
 真剣に聞いて下さり、天女さんの羽衣から現在の育児(授乳)の様子迄、話が飛び、内心戸惑いながら懸命にガイドをした方々からです。
 鶏と卵の関係と同じでしょうが、喜んで頂けると懸命にガイドしなければとなります。あかとんぼとしてもガイド終わって満足感を感じて記憶に残った方々です。

 それにしても、腕章と名札を一瞥し、事務局にフルネームでのメールでした。鋭い観察力の方々です。
 今回は部分ガイドでした、機会ありましたら史跡公園全体をガイドしたいものです。
 



3 月 8 日 (火)  



 読売新聞 3月7日付夕刊7頁 旅「仙台市」。
 読売新聞HP「旅ゆーん」3月7日更新、日本の旅。
以上の記事の中で、瑞鳳殿の天女さんのガイド等が掲載されました。
 取材記者には現地でガイドした記憶がありませんが、聞いていたのでしょうか。普段のガイドの様子を的確に捉えています。取材はメールと電話がありました。
URLは  http://www.yomiuri.co.jp/tabi/japan/20050307sc11.htm
 



3 月 6 日 (日)  



 晴 気温6度ですが非常に温かく感じました。参拝者は比較的切れ間無くありました。

 3日の大雪の後遺症。至る所残雪の山です。屋根に雪は殆どありません。でも、ツキを持っている人がいます。大阪からの20代後半の男性10人が涅槃門を潜った途端、屋根から僅かに残っていて、凍結した雪が落ちて来ました。一人だけ飛沫に見舞われました。全員驚いて歩が止まりました。「お客さん 運が良いですよ。滅多に無い落雪に見舞われ、怪我もしなかったとは強運ですヨ。宝くじ買ったら当たるかも」と声をかけましたら、恐怖からニコニコと喜びの表情に替わりました。

 「いや 宝くじ買う金が無い奴は車が当たるだろう」と与太を飛ばしてきました。

 ガイドを素直に聞いていました。最後に大阪弁でなく、標準語で「アリガトウ」と礼を言って行きました。性格の良い人達の集団であったようです。芦屋のお坊っちゃんグループでしたでしょうか。

 極めて若い女性の集団 何組か 本殿を背景に記念写真を懸命に何枚も撮ります。撮り終えるとお詣りしないで帰ろうとしましたので、ツイ「本殿前迄、進めます。参拝出来ます」と声を掛けてしまいました。憲法違反かと反省します。

 タクシー観光の案内の方「瑞厳寺に分骨しました」と説明していました。初めて聞く話。驚きました。、お客さんサービスに多少の脚色をすると人は、居ますが、此には驚きました。火葬の無い時代にどの様にして分骨するのか、例え分骨したにしても何処に祀っているのか。

 午後からは、仙台城、城下の町並み、大崎八幡宮の3ポイントを千葉県からのバス6台240人にガイドして欲しいの要望があり、「ぐるーぷ・よっこより」の仲間とガイドしました。「どうして瑞鳳殿がリストに入っていないのですか」と担当に聞いたら「予算の関係で入場料を出せない」と。泣ける返事でした。

 大雪の後遺症で非常に足場不良でしたが、雪の降らない所からのお出でなので珍しい体験と喜んで下さいました。日常生活で意識しないものが観光商品になるを知りました。
 





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