2005年5月の日誌
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5 月 29 日 (日)  



 くもり 新緑から青葉の美しい季節です。
 全世界から参拝にお出で頂きました。

 家紋「三引両」を説明を抜きにして、本殿のガイドを終えた途端「私たち、下館は中館から参りました」と三婦人の長老から挨拶されました。 驚きました。最近、記憶の偏向修正に、伊達氏の源流について復習していた所に、このご挨拶です。

 通常 家紋「三引両」の説明の際、「伊達家の先祖は常陸の國 真壁郡(まかべこおり)伊佐の庄 中村の豪族で、伊佐又は中村と称していました。1189年源頼朝の奥州侵攻に加わり、・・・・・・」と、家紋の取得と、伊達姓を名乗る様になった由来を語ります。
 伊達家始祖発祥の地であるを充分にご承知の上の参拝でしたから、通常の説明をしなくとも、全てお分かりの方々でした。

 関係する史跡の伊佐城址、観音寺、中村城址、遍照寺、中村八幡宮の話。伊達氏の後の領主中村氏が、米沢の伊達氏を頼り、逃れ、後に岩ヶ崎を賜った事。伊達の殿様が参勤の途中で中村八幡宮を参拝され、又、最近まで郷土史家等が参拝参りましていました等の話を致しました。昨日から伊達家関連先を参拝・見学して、ここが最後との事でした。話し込み、最後は「アッ 新幹線の時間だ」とソソクサと駆け足になりました。

 私は福島に、夫は神奈川の別居結婚です。福島と伊達の関係を教えて下さいと若夫婦から注文がありました。
1.1189年 伊達家の始祖は、源頼朝率いる関東軍の一軍となり、国見町の阿津賀志山の決戦での勝利の功績により、伊達郡等を賜わり、領主となり伊達姓を名乗りました。
 
2.阿津賀志山には、奥州平泉軍の防御の空堀が國史跡として現存しています。

3.伊達家は後に、会津若松に、米沢に、岩出山から仙台にと、転じました。其の  際、家臣・寺院のみならず、地名も持参しました。梁川町の広瀬川は、仙台の有 名な広瀬川の基です。

3.飯坂・医王寺には、義経の忠臣「佐藤継信・忠信」兄弟のお墓があります。

 概略、以上の様に話をしましたら、「此までの断片的情報が一本の糸に繋がった。アナタ早速いきましょう」と腕を引っ張っていました。。

 瑞鳳殿のボラガイドとしては、オシャベリ過ぎかなと思いつつ、夫婦円満・人助けになったのではとも思いました。

 14時 H代表の丸抱えで、東北大学理学部自然史標本館で研修を行いました。本殿の「忠宗直筆の扁額」の下地の群青色の顔料は孔雀石と云われているが、宝飾品の孔雀石の色と異なる。ドウモ変だが発端です。
 やはり違いました。標本の各種の孔雀石は宝飾品と同じ緑色でした。青色系ではありませんでした。
 自然採取の金も見て来ました。金箔の色とは異なります。
 H代表から「学者が書いたからと信用してはいけない、変と感じたら実証が必要です」と教えられました。なるほどです。

メモ
1.伊佐の庄・伊佐城
  茨城県筑西市(旧下館市)中館522が伊佐城趾で、そこに観音寺が所在している。同寺は頼朝の奥州侵攻の折り、伊達家始祖の中村常陸介が武運祈願し、以来、崇敬されていた。
  同寺では、七世行朝の供養の為の天台宗唯一の厳式の法華三昧が現在も行われている。

2.中村の庄・中村城
  栃木県真岡市中を中心とする地区が中村の庄である。中村城は朝宗が1156年築城と伝えられ、東西450m南北486mwで、周囲に幅8m深さ9mの空堀があったとされ、現在、其の主要部は遍照寺境内となっている。

以上は、「伊達氏の源流の地」土生慶子著1994年2月宝文堂発行によります。



5 月 26 日 (木)  



 政宗公370遠年忌が24日10時から催されました。あかとんぼは2点の誤りをして、参拝者・愛読者に伝えていました。
 1は、369回忌と計算していた事です。佛事は暦年(数え年)なのです。ウッカリしました。
 2は、節目の法要は例年法要と異なる事です。1975年の340遠年忌も10時から催されていました。

 佛事についての知識の欠如によるものでした。

 30年前の1975年5月24日は、政宗公が再埋葬された日です。経過は、

14時 瑞鳳寺で、臨済宗諸寺院僧20人の読経、伊達家17代当主等が別れを告げ、再建期成会副会長の葬送の辞に続いて、参列者数百人の合掌。

14時40分 牡蠣灰で満たされたご遺骨の納めた柩は、御輿に乗せ、家紋「三引両」のついた袈裟がかけられ、弓張り提灯の先導に、20人の稚児、読経する僧侶、伊達家一族の後ろに、御輿の順で、葬列は数百人の拝礼を受けながら、62の石段を登った。

15時 柩は御輿から降ろされ、真っ白な5本のロープと一族の人々に支えられ、石室内の中央より稍東より準備していた、桶型座棺に納められた。

 残欠と牡蠣灰で周囲を詰め、蓋をかけ、大柄菊唐草金糸織紺地金襴打敷で覆われた。
 西北隅に、洞入花菱小柄金襴打敷で覆われた新調の鎧櫃(高さ69p、縦54p、横49p)を納めた。
 その上に、十六菊茶洞金襴打敷で被った脇差箱(長さ68p、幅23p、高さ19p)が置かれた。
 17代当主伊達貞宗氏の「再埋葬の記」(横106p、縦84p、厚さ4pの黒御影石)を納めた。又、その他、旧駕篭担棒を白布で包み納めた。

 最後に、御輿が桶型座棺の上に、被せられた。

 新しい稲井石の蓋石を石室にかけ、その上に、旧蓋石を置いた。石室は永遠に閉ざされた。

 16時  一族・関係者が新しい土を入れ、再埋葬は無事終了した。

 以後、元の状態と同じように、4層の玉石を敷きながら埋め戻しが行われ、本殿の建築工事が進められた。

 本経過は瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品 伊東信雄編 1979年11月25日瑞鳳殿再建期成会 発行によりました。

 記載の「残欠」の意味は現在 調べています。 



5 月 24 日 (火)  



 瑞厳寺殿貞山禅利大居士 政宗公370遠年忌。

 尺八奏者2名先導で、瑞厳寺御住職に政宗公御縁寺の御住職10人余、伊達家御当主、続いて仙台藩志会、殉死者末裔、大年寺会等の関係者が、10時ピタリ、涅槃門から、粛々と登壇しました。初めに献茶・献香・献花が行われ、読経・焼香・挨拶と続き11時に法要が終わりました。

 事務所では、参拝者に「記念の栞」を差し上げていました。
 表紙には1664年仙台御城下絵図に描かれた瑞鳳殿。
 内容として、政宗公にかかわるいくつかのお話を紹介して、想いを巡らしていただければと「生前、自らの墓所をこの地に決めていた」「現代のおしゃれな若者のルーツをたどれば、〔伊達者〕のいわれ」「世界を視野に入れて、常長をローマへ」と、極めて現代的な考え方をもっていたと紹介しています。

 福岡・八王子からのご婦人の団体は、千載一遇の機会と、予定を変更して、じっくりと法要に参加して、降壇する瑞厳寺大和尚に手を合わせ、深々と頭を垂れていました。

 拝殿前で、「今日はどなたの法要ですか」と聞いた方もおります。これは想定内の質問です。
 瑞鳳殿とは何かも知らないでおいでなる方多数です。門前の「政宗公法要」の看板も目に入らないでしょうから。目に入ったが読まなかったのは「あかとんぼ」とその仲間。

 正月2日の年賀拝礼式と異なった点は、
1.開始時刻が1時間早まった事。
2.藩志会の幟が無かった事。
3.御当主に太刀持ちのお供がついた事。
4.奉納撃剣演舞がなかった事。
5.参列者の集合写真を撮らなかった事。

 東北書道会の方から「ボラガイドご苦労様です。〔仙台市街の名蹟を尋ねて〕の特集を組み、拝殿の扁額を紹介しましたので ご覧下さい」と「東北書道第720号」を頂きました。「珊瑚と真珠の色が思うように出せなかった」との事ですが、結構な写真です。解説は私等のガイド内容と同じでした。
 初めて知ったのは「文山得意の隷書体は線が巧みに動き凛としている」の現代書家の解説です。

 本殿の忠宗公の直筆も、紹介して欲しかったです。
 書き手が変われば、当然書体が異なる。異なる風格を楽しんで欲しいと、常にガイドしています。この道の重鎮の見方・解説が知りたかったです。



5 月 23 日 (月)  



 瑞鳳殿ボラガイドの仲間「ぐるーふ・よっこより」のガイド養成講座が、瑞鳳殿で午後から行われました。

 講座開始直前から降雨となり、寒気を伴い、講座途中で参加者が半減しました。H代表は「5分間でガイドをして」と頼まれたら、簡潔・正確に要望のとおりにガイドすべきとの考えから、非常に要領良くまとめた資料で2時間、直立したままで、講義しました。 今日の聴講生から、ガイドをしてくれる人は何人でしょうか。

 代表の講義の合間に、ガイドの諸先輩から、次の様な事が質問されてネ。と語られた。正解の回答はありませんでした。
1.瑞鳳殿等の再建に、宮城県内の市町村の中で○○町に○○町が賛同しなかったか、芳名録に記載がない。なぜか。
2.焼失した本殿の用材は何で、どこから調達したか。
3.拝殿の扁額の金色は、金箔か、金粉かなのか。金箔にも純度があるのか。
4.石段・敷石・石垣等の石の種類と産地。輸送方法は。
5.涅槃門は、門の分類で何になるのか。四脚門で良いのか。

  昨日、車の転回場に乗り入れ、デンと駐車した方がおりました。瑞鳳殿の専用駐車場を見逃したのかと思い、「あそこに駐車場があります」と申したら「ワタシー、カーナビ付けているからわかっている。ワタシ、何処に停めようと勝手でしょ。静岡は清水から来たの」とかなり高齢のご婦人が「民話・安達ヶ原の○婆」のような形相での返事でした。侠客・次郎長さんの孫かなと、ビビリ、シュンとしました。
 自己中心は年齢に比例するとの説もありますが。

 本日、勉学に熱心な先輩のAさんが、「あかとんぼさん、駐車断られたから、講座参加中止。帰る」と駐車場から引き返し申しました。「拝観料を払い、入場するので、無料入場では無い、頭を垂れない参拝者より、ズート益しだ、ご一緒します」と説得しましたが駄目でした。ムツケは年齢に比例するとの説がありますが。

 駐車場担当の爺さんは「上からガイド養成の勉強会は聞いていない。ここは参拝者用の駐車場だ」と。それなりに正解です。現役時に培われた指示(法令)遵守はご立派です。「瑞鳳殿を訪れる人々の為のガイドの養成で、高齢者の生きがいにもなる」を理解し、対応できないのか。後の祭りです。頑固は年齢に比例するとの説でしょうか。

 いずれ、昨・今日と高齢者の難しさを理解しました。政宗公の行年に達した、あかとんぼ 反省の日でした。明日は政宗公の370遠年忌。



5 月 22 日 (日)  



 五月晴れです。

 瑞鳳殿に通い始めて5年目。初めての方、珍しい方?に遭遇しました。蛇です。真緑色、胴回り10p 身長2メートル位の蛇です。12時間近の頃、瑞鳳殿の右側の石垣の間から抜け、全身を5分位の日光浴をして、又石垣に戻っていきました。偶々、来併せたお客さんで、輪が幾重にも出来ました。
 「蛇に遇うとお金持ちになれる。急いで宝籤を買いに行かなければ」と、皆様は興奮し騒然としました。
 涅槃門から ガイドしましょうと申し上げても、どなたも「今日は此で最高。何もいらない」とガイドは断られました。

 24日の御命日の法要の準備が終日行われていました。拝殿・涅槃門が雑巾がけ、屋根の落ち葉払いと清掃が続き、幔幕が張られました。
 24日は晴れの特異日らしく、遠い昔に傘を捧げお供した経験があるが、毎年晴れると職員の○○さんが話してくれました。確かに、あかとんぼは 雨に遭遇した事はありません。

 あかとんぼの歴史街道の勉強会の顧問の先生から、友人の皆様を、40分で案内して欲しいの要望でした。○○陸軍幼年学校の卒業生で、60年前祖国防衛の一線で戦った方々でした。依然として足腰は達者です。ともすると、先行されますので、ガイドより先にならないでお願いしながら50分でガイドしました。

 普段は省略する弔魂碑は、言葉を選び事実をガイドしました。正解でした。西参道口の石造文化財〔西南の役旧仙台藩士戦没者弔魂碑〕の説明文に〔西南賊徒征討〕なる文字がある・・・賊徒にウーンと云う感じ方が居りました。鹿児島からの方でした。
 当時参加した人の記録(非公開資料)では「鹿児島地方騒擾」と記載されていますと申したら納得されました。
 時間に余裕があれば鹿児島県人墓地までご案内するつもりでした。さすれば明治の仙台の人情に、感謝の念を表したと思います。

 愛知からの方、「尾張徳川家の廟所も戦災で焼失した。しかし、こんなに見事に復元されていない、どうして伊達家、特に政宗公の廟所は、斯くも素晴らしく復元され、皆様がお詣りされるのか」と聞かれました。ウーどうしてでしょうか。先日も同様のご質問がありました。

メモ
1.弔魂碑、は1868年の争乱の戦没者1260名の霊を弔う為、伊達家と旧藩士によって1877年に建立された碑です。石造では無く 碑としては珍しい鉄製です。
2.西南の役(1877年)弔魂碑の説明板には、東北各県の士族から巡査を募集し新撰旅団と名付け派遣、141名の戦死者を出した旨、記載されている。
3.鹿児島県人墓地は、瑞鳳寺境内にあり、鹿児島地方騒擾で国事犯として、政宗公の隠居城跡に設置された仙台監獄に収容され、死亡した人の墓地である。瑞鳳殿地区の一画に埋葬された点を注目して欲しい。



5 月 15 日 (日)  



 気温は回復しましたが、曇り時々雨です。少ない参拝者は、昨日までは寒かったと。

 城下では「あおばまつり」です。本来は政宗公を祭神とする青葉神社の祭典てあり、御命日が祭典日でした。あかとんぼが仙台の地に転居した当座は、県・市に国の役所、金融機関も休みでした。
 現在は、第3日曜日と定められ、御命日との関連は忘れ去られました。只、役所と金融機関が休みである所だけは変わりません。

 今年も、岩手県五葉山火縄銃鉄砲隊の安全祈願が十八代御当主臨席のもとで、涅槃門前で行われました。途中、総大将で御当主の床几が毀れ、転倒するハプニングがありながら、無事に勝ち鬨を上げ、六十二石段を下りていきました。
 ご城下のいずれかで、市民に火縄銃の妙技を披露しているでしょう。

 青森からの3人連れ、一人は欧米系。津軽弁でのガイドは自信はありますが、英語は出来ないので、其の旨をことわったら、「構わない」とのことで通常の通りガイドしました。本殿前で「極楽」との説明、理解して頂けたかどうかです。確認できないもどかしさ。

 七人程のご婦人。「ボラガイド居ます」の立て札を見てのご依頼。るーぷるバスでは無く時間はたっぷりありますに、涅槃門から丁寧にガイドしました。涅槃門で、既に「透かし彫り」「桃山様式」とご婦人の口から。
 本殿前で「政宗公の江戸屋敷は、桜田屋敷、現在の日比谷公園、後の江戸屋敷はゆりかもめの汐留駅付近・・・」「ハイー伊達屋敷の発掘調査ありましたネ」
 「綱宗公の品川屋敷は東大井四丁目ですヨネ、あそこの仙台坂を登って、仙台味噌工場の所の発掘調査に携わりました。仙台坂付近に山内容堂、岩倉具視の墓所があり、品川区内には伊藤博文、福沢諭吉とお札でお目にかかっている方々の墓所があります」「ハーお札をそろえて巡るツァーは何万何千円でしょうか?」
 「福沢諭吉の墓所の移転改葬の際、○○医学部と共同で調査に当たったら・・・・・・・・」と本には決して書かれていない生々しいお話をされました。
 もっとお話を聞こうと思ったら「アッ、時間が無い」資料館も見学しないで降段されました。この方達は只のオバサン?ではないなと、慎重にガイドを務めましたが、はたして何者 品川区役所教育委員会?でしたでしょうか。謎です。

 「此処は政宗公のご廟で、地下3メートル、畳一畳台の石室に現在もお一人でお休み、正室相姫は松島・・・・」と語り、一息をついた途端、目の前のご婦人「ここに伊達の殿様に、ご夫人達 皆々入ってノシカー」のご発言。
 今の今迄のジイーと立って聞いて呉れていたのではなかったのか。吾のガイドの話し方、上手とは思わないにして、ソンナのないでしょう  ガックリしました。

 12時人出はピタリと止まりました。あおばまつりで足止めされたのでしょうか。雨が激しく降ってきました。12時30分下山。城下は渋滞もなく通り抜けられました。

メモ
 五葉山火縄銃鉄砲隊の正確な所在は不明です。釜石市の五葉山県立自然公園(標高1351m)と製鉄の町に由来すると推定しています。
 



5 月 13 日 (金)  



 昼には雨は止みましたが、気温8度と3月並の低温です。

 あかとんぼがお世話になっている「NPOシニァネット仙台」の小核グループで、辛口評論家の集い「七十路会」のみなさまと、「桃山文化と新緑を楽しむ」のタイトルで、瑞鳳殿のある経ケ峯史跡公園と青葉通に禅寺通の欅並木に青葉山の新緑を、仙台で唯一の定期観光バス「ループルバス」を利用し、午後の半日を楽しみました。

 連日の雨と低温の為か、我々が貸し切りした様な状況で、境内を散策しました。
1950年代にご近所で青春を過ごされた方、転勤で仙台にお出でになり、そのまま終の住処に定めて久しいながら初めの方とおり、それぞれに、感慨を語ってくれました。

 暖かければ、途中でティタイムを設け、新緑の下に座して、語り楽しむつもりでしたが、散策2時間弱で切り上げ、続きは例会会場に移しました。
 車窓からの、ほこりを洗い流した新緑のトンネルは好評でした。

 あかとんぼが即答出来なかった質問は、
1.金色が軽薄である。日光は重厚である。経年変化の差は理解するが、金色の材質はなにか。純金箔ではないのか、金メッキなのか。

2.牡蠣灰の作用で、ご遺体からご遺骨に変化したは理解するが、骨以外のものはどうなったのか。

3.御木像の材質はなにか。

4.ずんだ餅は好評であるが、政宗公の時代からあったものか。ズンダの意味はなにか。



5 月 12 日 (木)  



 昼から雨です。最高気温10度 いささか寒いです。

 15時30分からのガイド依頼がありました。事前確認の為 昼食そこそこに瑞鳳殿に。境内を一巡し、舌慣らしをしました。

 仙台市内の中学1年生5人の小集団。おんな先生がガイドから聞きなさいと指示。雨の為 拝殿で説明しました。
 最後に「政宗公は偉大な指導者だ。現在の倫理観で判断すれば指摘される所もあるだろうが、政宗公の働きで 南東北の安寧が確保された。宗教観の異なる外国人も偉大な指導者と理解して、頭をたれ敬意を表する。諸君も」と話したら、先生は眩しそうな顔をしていました。

 第○観光のジャンボタクシーのオンナ運転手さんのガイドを聞きました。大変良く勉強しており、客扱いも上手でした。フリータイムに「よく勉強していますね。ただ2点違っていました。現当主は17代ではなく18代です。本殿の補修は10年前でなく、4年前です」「アリガトウゴザイマス。お客さん 補修は4年前でした、間違えました」と素直に聞いて、快活にお客さんに伝えていました。エライ。あんたはエライ。会社もエライ。

 ご依頼のお客様の団体、約束の時間ビタリに到着、雨の中、ご高齢化現象の方もおり、歩みは亀、添乗員の時間厳守のサインにオシャベリカット。下車から乗車まで50分で、桃山文化・伊達政宗を楽しんで頂きました。
 しっとりと濡れた新緑の森の散策 お気に入られたか ニコニコと次の視察地に向けてバスは約束の時間に去っていきました。時間管理の厳しい一団です。放送か運輸の関係者でしょうか。



5 月 8 日 (日)  



 黄金旬間(4月29日−5月8日)も本日が最終日。全休10日間、出社したら会社が無かったと云うことはないでしょうネ。

 さすが、気力・体力・金力も尽きたのか、参拝者の流れは、ロープから細い絹糸になりました。
 11時半頃から途切れ、疎ら、代わりに 寒気がでて来ましたので12時30分でおしまいにしました。

 疎らな参拝者も 勉強している方々。涅槃門の麒麟と瑞雲 拝殿扁額の色素材 珊瑚と真珠も 問答会話でガイドしていて 全て一発で 答えられました。龍と答えないで麒麟と。瑞雲も一発で五色と。いつもは紅花や口紅と答える人が居ましたが、今日は皆無で 珊瑚と一発でした。 

 これまでで最年少の方にガイドしました。、政宗公に興味或る様子なので、手持ち資料の政宗公の写真を示しガイドしたら、しっかりした受け答えし、挨拶されました。幼稚園児かと親に確かめたら三歳との事でした。驚きました。

 5日お子様廟迄 ご一緒した方から 「見逃した天女さん」ホームページで見ようとしましたが ダンロード時間がかかり 未だですのメールを頂きました。
 ADSLであれば 短時間と思いますが、容易に見て頂くためにどうすればよいか、これまた宿題ができました。

 新緑が非常に綺麗に輝いています。13日午後、先輩のグループ「七十路会」の皆様を「新緑と桃山文化を楽しむ会」のタイトルでご案内します。辛口評論家の皆様から、どんな感想が聞けるか楽しみです。



5 月 5 日 (木)  



 050505.
 2005年05月05日子供の日。黄金週間の最終日。

 動物園での生物教育は渋滞で辿り着けないから諦めて、瑞鳳殿での歴史教育にと方針を変更されたのか、小学生を連れた親子何組か。三引両の紋所を示して、仙台市の市章、バスのマークと教えていたおとうさんが居ました。

 何故か広島からの参拝者が数おいででした。「仙台は伊達様の一番古い紋「三引両」を借用デザインし市章としています。広島は浅野様の紋所を同様に借用デザインし市章としていると聞いています。横三本のやまなみの線は、市内を流れる川とさざ波を表現していると聞いています。形 そうですよね」と話したら、「ウーン。形はそのとおり。でも借用デザイン化までは・・・」の返事でした。

 お揃いの黒シャツ(?) 伊達な服装のご夫妻。単眼望遠鏡を互いに下げており、緻密に観察が趣味と見込み、拝殿の扁額前で声をかけたらズバリ。昨日は復元した白石城でボラガイドと半日語ってきたそうです。流石、勉強されています。涅槃門から善応殿地区にと語り合い、お子様廟に至り、墓碑図の前でピタリと歩が止まりました。なんか霊気を感じたそうです。それ以上に歩を進まず、参拝とガイドは終わりにしました。勉強が進むと霊気を感ずる様になるのでしょうか。
 感仙殿の涅槃門で天女さんをご覧頂き、瑞鳳殿の天女さんの話をしたら、よく拝顔しなかったと申されましたので、「あかとんぼのホームページでご覧下さい」と話したら「私はトンボです。ハンカチもトンボです」と示した絵柄はトンボでした。
 トンボのネームを使用するのは「トンボは後ろに飛ばないから」とあかとんぼと同じ意で命名していました。
 市博物館を見て来たとのことで、大崎八幡宮を勧めた所、是非行きたいが、道順が?となりましたので、手持ちの市内図に道順をなぞり差し上げました。

 4月29日の日誌メモ2に「仙台城大手門は政宗公が1593年代に拝領し、江戸屋敷に存置しました。1639年忠宗公が二の丸造営の際、仙台に移築しました」と記載しましたところ、巷間の伝承として肥前名護屋城門の移設説があるが、「絵図的考証を基にする限り、否定的にならざる得ない」「名護屋城大手門と想定される遺構と比較して、仙台城大手門とは規模の点で違いすぎる」等を記載した資料を昨日、H代表から頂きました。権威ある筋の資料ですから、これが正解でしょう。

 12時参拝客がピタリと止まりました。本日はH代表と二人なので、一瞬迷いましたが12時30分でお終いにしました。駐車場整理員に「これかも参拝客があるだろ」となじられましたが、昨年は頑張って、激しい腰痛で全治2ケ月。この轍を踏みたくないのです。

メモ
 H代表から頂いた資料は「旧仙台城大手門復原考 旧仙台城大手門基本設計と調査資料 平成6年8月 仙台商工会議所 仙台城大手門復原準備室 発行 旧仙台城大手門と新築・移建説」です。
 これを要約記載しました。
 H代表の資料発掘の凄さには 驚嘆するのみです。感謝です。

 



5 月 4 日 (水)  



 今日は国民の休日です。

 連綿と参拝者は続きます。ループルバスは仙台駅前発車時点から、遅延し、満員すし詰めで、大部分の方が、最初の観光地 瑞鳳殿で下車したそうです。
 仙台城本丸も、至る道が渋滞でノロノロ、本丸の広場も人人の大混雑であったそうです。

 暑めの気温と 渋滞・満員を体験し、62段を登り、気力・体力を消耗して、ベンチで休息している方々が、上記の様な話をしてくれました。

 「仙台駅から歩いて来ました。先祖は伊達家家臣で、北海道は美幌で牧場を経営した。大小2本腰に差していた。で興味があって大阪から夫婦で来ました。仙台城のほか、伊達家関係の優れたものを見たいが」のお尋ねがありました。大崎八幡宮と仙台東照宮を推薦致しました。手持ち資料で確認していました。何れもバスの乗り換え等不便な所です。駅から歩いて来た方にタクシーの利用を勧めてもよいものやら迷いました。
 仙台の観光行政の弱点です。市・商工会議所のトップの方 改善方宜しくお願いします。

 「思った以上に派手」「こんなの昭和ぽっい」等の大きい独り言が聞こえました。
 本殿の前で「政宗の墓はどこか」と壮年の男性から聞かれました。
 「政宗公 ご遺体から御遺骨に綺麗変身されました」とガイドした途端、知的様子の高齢のご婦人から、目の前で「ミイラになったの」と云われました。
 これは、何と理解すればよろしいのやら。ガイドの仕方が悪いのか、悩みます。

 墓室の学術調査のお話の中で、「御遺骨は丸く積層の形で発掘された」と資料を示してガイドしたところ、「なぜか」と返ってきました。現在は「棺桶」と云いながら、形状的には「棺函」です。ですから、直。真っ直ぐ寝た姿以外に見当つかなかったらしいです。火葬が普及する以前は「棺桶」が使用されていたはずで、言葉としても「桶」ですから、当然正座の姿になります。お骨は積層します。。
 北国からの方、「内の方は、箱です。正座の格好で入れます。ボキボキと・・・・」と生々しく納棺の様子を語られました。当然、土葬とのことでした。現在もそうであるか、何年前までの話かは聞き漏らしました。
 先輩から「私の地方ではカンオケとは云いません。ガンバコと云います」と教えてくれました。火葬と土葬で 呼び名が違うのでしょうか。此は宿題です。

 本日はボラガイドは、5人と久々の大人数です。後半は善応殿を担当しました。御霊屋周囲の石塔を丹念に見回り、撮影している一団がいました。「何を調べているのですか」とお尋ねしたら「ある高名な人の書き物を読んでいたら、原田甲斐の寄進した石塔は事件後、名前が削られ、残っている。とあったので、捜している」の返事でした。

 確かに、下半分欠けた石塔はありますが、「それは違うでしょう。仙台東照宮の石塔は、寛文事件(俗称伊達騒動)に関与した原田甲斐等の石塔は全て撤去したと云われており、削り残したとは聞いていません」と申し上げました。この人々は、東京の生涯学習生のようでした。

メモ
 善応殿の主、綱宗公が逼塞したのは1660年です。
 寛文事件の終結したのは、1671年4月です。
 綱宗公が亡くなられたのは、1711年6月4日71歳です。
 善応殿が完成したのは、1716年です。

 善応殿が完成する45年前に亡くなった原田甲斐が石塔を寄進出来るでしょうか。

 仙台東照宮が創建されたのは、1654年です。寛文事件は、その17年後に発生しています。原田甲斐等の石塔は全て撤去したの話は確実性があります。
 



5 月 3 日 (火)  



 憲法記念日 1947年5月3日現憲法公布を記念して定められた国民の祝日。
 黄金週間後半に入りまして、参拝者は開門時刻以前から連綿と続きます。

 プレートから涅槃門とガイドをしている内、大聴衆となり、入れ替わりもありましたが、最後まで聞いて頂いた方から拍手を頂きました。暫く振りに頂いた拍手は気持ちヨカッタです。

 本殿ガイドを終わったら、天を仰いだオジサン「あれはカザリ ダ゙ナ」とポチリ洩らしました。「建築関係、大工さんですか」連れの奥さんが「ハイ家の人は大工です」「札幌で仕事しています。コンクリートでこの様な建物を建築しましたが、軒廻り〔垂木・組物(斗・ときょう)〕に金物にと難儀しました」と語られました。
 拝殿の扁額に続いて、涅槃門を上から説明し、柱は青森檜葉と申した途端、「わら、あおもり、南部、はちのへ」と生まれ故郷を語り、用材としてのヒバの優秀性を認めながらも、津軽に負けられない南部衆の意地をサラリとさらけました。お見事。

 涅槃門前で屋根を見ながら、討議している親子4人がおりました。父親から「塗装等を補色しているか、屋根のかたちは変わりないか」のお尋ね。「若い人は透かし彫りを見逃したが、素晴らしい透かし彫りだ」。些か詳しい様子なので、焼失する以前、国宝時代の全景写真を提示し、現在と対照して頂きました。補色はしていません。建築関係のお仕事ですかとお尋ねしたら、「東京で御輿を作っている。屋根の線が綺麗なので子供に教えていた」とのことでした。
 今一度、全員で透かし彫りの妙を確かめ、満足げに下りていきました。

 地球上で、大型連休で休んでいるのは日本と中国の2ケ国だけだそうで、参拝者の会話は日本語のみです。広島・大阪・札幌と遠方からお出で頂きました。
 Uさんは腰痛とかで12時、あかとんぼは上記プロのお話を聞いて13時に本日お仕舞にしました。H代表はまだ頑張っていました。腰痛注意。
 



5 月 1 日 (日)  



 快晴温暖 目に青葉 誠に爽快な気候となりました。

 朝開門時刻以前から参拝の方々、続々です。ガイド致しますと申し上げても、時間が無い・忙しいと申して涅槃門を駆け足で潜り、間もなく下りて来て、感仙殿地区に急ぎます。どうして そんなに急ぐのでしょうか。黄金週間、仙台に観光に訪れたのなら、ボラガイドのガイドは断っても、観光の最大の目玉の瑞鳳殿をゆっくり観賞して頂きたいものです。
 朝一番に涅槃門でボラガイドを聞いて頂いた方、「なるほど、そうか、聞いてよかった。本殿も聞きたかったが戻りたくない、残念」と申してくれます。
 
 何を聞いているのか、両耳にイャホーンしたままの方、続々登ってきました。話しかけません。無駄です。耳をふさいだ人は現世から離脱した人でしょうから。でも、観光でしょう。五感で楽しんだら如何でしょうか。

  「新緑が綺麗です。建物と一緒に撮影してよろしいですか。ホームページで調べて来ました。ほんとうでした」とお嬢さん。「ハイ どうぞ。あかとんぼのページもご覧ください」
 4月24日にもおりましたが、単独のお嬢さんの場合、ホームページで完璧な事前調査の上、来訪される傾向が見られます。

 他の方をガイド中に横から話かけて、連れの方に制止されていた方、涅槃門を出た所で再会しましたので、ゆっくりとお話をお聞きしました。「三代藩主綱宗公が逼塞した品川屋敷、明治以降は伊達家のお屋敷のあった、現在の東大井四丁目にお住いなったことがあり、その御縁で、懐かしくて娘に連れて来て貰いました。」あかとんぼ手持ちの現代の市街図を指さしながら「ここは月見台と云われ 海が見えました。この娘はこの小学校に入りました」娘さんが校歌を歌われました。よく聞きとれませんでしたが、伊達屋敷、月見台と周囲環境を歌ったものでした。この外、仙台坂、仙台味噌の製造販売所、土佐屋敷・山内容堂墓碑等等をいろいろ語られました。もっとお聞きしたかったのですが、参拝者が混んできて、連れの娘さんからの「お邪魔になるから」とストップがかかりました。また、聞かせて下さい。

 拝殿のベンチに、蛇を飲み込んだ蛙の腹の様に膨らんだポーチの忘れ物がありました。お客さんが「ありませんか」と息を切らせながら戻ってきました。瑞鳳殿本殿を参拝し、資料館から感仙殿地区と廻られ、瑞鳳寺山門前で気がついたそうです。「現金はともかく銀行等のカードに、会社のセキリュティーカードが入って居た。時間が経過しているので、見つかるかな、手元に戻るか、心配で、心配であった。無事 戻ったは政宗公のお陰」と、今一度瑞鳳殿に向かって最敬礼をして 62段を下りていきました。よかったです。

 メモ1.仙台坂
 宮城県メルマガ05.02.25号東京通信に次の様に紹介しています。
「首都圏でみつけた“みやぎ”〜仙台坂〜 都内に「仙台坂」。首都圏でみつけた“みやぎ”〜仙台坂〜

 都内に「仙台坂」と呼ばれる坂が2カ所あります。

 一つは、港区南麻布一丁目と元麻布一丁目の境界を東から西に上る坂道。もうつは、品川区南品川にある京急本線「青物横丁駅」から池上通りを登っていく坂道です。

 いずれの坂もその辺りに仙台藩のお屋敷があったことからその名が付けられたうですが、現在は、坂の名前と由来が書かれてある標識が立っているだけで、当時の面影を見ることはできません。

 南品川の仙台坂はもともとは、南方にある「海晏寺(かいあんじ)」と「泊船寺(はくせんじ)」というお寺の間を通る坂を呼んでいたそうで、現在その坂は「旧仙台坂」と呼ばれています。

 その「仙台坂」と「旧仙台坂」を登ったところの交差点に、大きな樽を展示したお店が目につきます。その看板を見てびっくり。なんと「仙台味噌」と書かれています。

 そこは「仙台味噌醸造所」。店先では、この場所で作られている「五風十雨(ごふうじゅうう)」という仙台味噌が売られていました。お店の人にお話を伺うと、この醸造所は今から370余年前に、仙台藩主の伊達政宗公が江戸在勤の家来らのために、当時の邸内で味噌醸造をはじめたのが起源だそうです。

 長い江戸勤務で仙台を懐かしく思う家来のためにと地元の味を東京でも作ってあげたのでしょうか。政宗公の優しい人柄が伺えます。 みなさんも東京で作られている“みやぎの味”を味わってみてはいかが。
(東京事務所 M.N)
以上は05.05.10.13:25:17 宮城県総務部広報課 より転載許可を得ました。

 メモ2.仙台味噌
 「味噌は仏教文化とともに大陸から伝わり、長い間に庶民の常食品となった。戦陣の間の携帯食糧として保存にも耐えるので、武家が製造法を研究し地方色を持った味噌が各地で造られた。朝鮮の役の時、他藩の味噌の多くは変質して食えなかったが、伊達藩の味噌だけは少しも変わらなかったのでその声価を高めたと伝えている。
 江戸の仙台藩邸には、常に三千人の侍が居たので大井の藩邸に於いて味噌を製造して配給していた。二代藩主忠宗の頃から一般にも売り出した。これが江戸方面に於ける仙台味噌の初めといわれている」菊池勝之助著 仙台事物起原考による。





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