2005年6月の日誌
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6 月 27 日 (月)  



 昨日までの高温の天候から、土砂降りの雨です。

 「ぐるーぷ・よっこより」のガイド養成講座が仙台城を会場として開催されました。参加者は14人、最近では最少の常連メンバーです。
 三の丸の酒醸造用の湧水跡を確認していたら、観光の若いペアが付いて来ました。仙台城と称するには?と不思議そうでしたので、「この上が本丸で、此処は三の丸です。車なら表の登城路を登って。我々は澤の門を経由します」

 本丸の騎馬像の前で再会しました。講座を拝聴しながらガイドし、瑞鳳殿の参拝未だなら是非と勧めました。その気になったようです。よかった。

 講師は終了予定時刻を30分超過しても終わりません。巽櫓、埋門に、天守台?と称される現場の説明を期待しましたが、雨は益々強くなります。膝から下(ズボン・靴・靴下)が含水率100を越え、腕も雨水が流れます。ここで落後しました。



6 月 26 日 (日)  



 どんよりとした蒸し暑い日です。下着は絞れる位 ジドットクンでした。
 沙羅双樹の花が咲きました。

 久々にYさんとHGさんがガイドに来ました。Yさんは「ベロ廻るかしら」といいながら、参拝者をうっとりさせていました。HGさんは相変わらず聞かせるガイドをしていました。

 瑞鳳殿から感仙殿地区に廻る際、自動扉を経由していましたが、忠魂碑の前に赤い柵で誘導した解放路が設けられました。どちらを利用するかみていましたら、半分半分でした。
 感仙殿地区から逆行するか、職員駐車場を利用した場合、入場券を買わないで、瑞鳳殿参拝が出来ます。やはり居ました。リョウシンフザイの方でしょう。

 「私 会津の松平です。東京を経由し現在は鹿沼です」と名乗られたご夫妻。「紋所は葵でしょうか」「ウーそうなんだけど、兄の所に置いて来たので」と申されました。クールビススタイルなので、恐れ入らないでガイドしてしまいました。冷静に反芻すれば、会津松平家ならば、故秩父宮妃殿下の実家です。となれば、賢所との遠い血脈の人であったわけ。

 藩志会婦人部と称される方、殿と孫を従えて参拝に見えました。「実家は七ケ浜町で、その昔、政宗公が蒲生から七ケ浜と巡視された際の休憩所を仰せつかった家で、《御殿場》なる屋号を頂いた。蔵には由緒ある品々があったが?」「実家の兄も藩志会会員、私は母の名跡を引き継いで藩志会会員」と申されました。
 涅槃門の透かし彫りを孫さん向けに、軽くガイドしたら、初めて知ったと申されました。年賀拝礼式の集合写真を撮影しているボラガイドですけど、知らない様子。
 イヤハヤ 色々な意味で驚きでした。

 ○和交通の運転手氏からガイドを振られガイドしました。お客さんが資料館見学中に次の質問をされました。
1.涅槃門の塀は何故、透かし塀になっているのか。
2.臥龍梅と云いながら、何故 臥していないのか。

 今日も、自分の物差しで世の全てを測ろうとする、歴史感覚無視の方が見えました。ガイド途中で何回も腰を折ります。「伊達家三代の廟所とあった。三代の殿様と殉死者の皆様全員一緒に入っている筈」と主張されました。
 火葬の習慣の無く、身分制度があった時代、亡くなった年代が異なる、この歴史事実を無視し、現在のロッカー式墓所の感覚でボラガイドに主張されても困ります。何故か先週と連続しました。最後に「先生でしょうか」「いやサラリーマンです」の問答でチョン。

メモ
1.何故 透かし塀かは、定かな事はわかりません。焼失する以前、国宝時代の写真でも透かし塀です。あかとんぼは、昔は生け垣が主体です。板塀は逆に特殊な例なのでは。通気と監視等の維持管理に、経費節減からの面から透かし塀になったと推測しています。
2.確かに梅の木は臥していません。原木(親木)は臥しているので、臥龍梅と名付けられた。その由緒ある木の末裔です。それをご理解頂ける様に表示していると理解しています。

 
 



6 月 19 日 (日)  



 曇りで肌寒く長袖で出掛けました。ガイドを始めたら、晴天となり、お日様が燦々と輝き、びっしょりと汗をかきました。

 10時過ぎ、団体が登ってきました。付き添いのガイド嬢が「釧路からのお客さんです。日程が忙しいのです。仙台城も ここ瑞鳳殿も見物時間は20分です。この後、松島観光遊覧船に乗るのです」と申し「皆さん、瑞鳳殿参拝と資料館見学20分で済ませてください」と叫びました。
 遠路、釧路からお出でになり、駆け足も駆け足 お気の毒です。

 あるオバサンに「何故 ご夫妻一緒に祀らないのか」と食い下がられました。
 「政宗公の墓室は低板約3メートルの地下で、墓室の上に約2メートルの厚さの土で覆われた上に、建築されています。ご夫妻は同時に亡くなっていません」と申し上げました。納得しません。「当時の伊達家では夫婦一緒に埋葬する風習はなく、1年半を要して建築した、この廟を壊して、奥方を埋葬して、再度建築する事は考えつかない事です」此に対して「ならば、横に建てれば良い」ごもっともです。でも、一見して解るように、瑞鳳殿のみの山頂の広さです。二廟並べるなら、山を削らなければなりません。1636年ブルトーザーはありませんでした。満海上人ゆかりの経ケ峯はズタズタになります。
 参りました。「お宅でお墓を作る時には、その様に」と申し上げたかったが、グッとこらえました。

 涅槃門前の落果した櫻の実、今日もお尋ねがありました。頭上を指差して、「あの木の実です」と答えても、皆様、「アレーなん木かしら」と申していました。櫻の木の天下も櫻花爛漫に咲いている一時だけでしょうか。

 欧米系の人々、何組か見えました。瑞鳳殿の天女さんの様な格好の方おりました。生身で天女さんスタイルされますと、目の毒です。困ります。

 広島・宇都宮に釧路から仙台転居されたばかりの人々、熱心に聴いてくれ、感仙殿地区も頼むと申され、ガイドしました。
 結果として62の石段を2回登りました。軽いと感じのはダイエット効果があったのでしょうか。

 



6 月 16 日 (木)  



 入梅に入りました。どんよりした天候です。ループルバスが到着の都度、三々五々 参拝者が登ってきました。

 本日は財団法人瑞鳳殿からのご依頼で、青葉区北部の小学校社会学級40人程の皆様をガイドしました。
 冒頭、バスガイドから58分時間厳守を申し渡されました。年齢的に若い人々ですから歩行は早く、資料館見学を短縮し、要点のみガイドで、厳守出来ました。

 瑞鳳殿参拝が初めての人、NHKTV「樅の木は残った」を見ていない人、それぞれ9割を占めていました。
 「樅の木は残った」が放映されたのは、1970年です。既に35年を経過しています。小学生の保護者となれば、当然でしょう。

 涅槃門の内側に、濃い紫色した実が、踏み場も無い位に一面に散在していました。皆さん、踏みつぶしたく無いと避けていましたが、無理です。帰路になったら皆潰されていました。
 さて、何の実でしょう。ブルーベリーと申している方が居りました。正解はサクラボ
頭上に枝を広げ、春に花一面に咲いた櫻の大木の実です。
 「食べられるか」のご質問がありました。食べられるでしょうが、決して美味しいものではないでしょう。桜桃とは違いますので。

 資料館学芸員が終始随行し傍聴していました。
 散会後に「短時間で、濃いガイドされますネ。」と云われました。ありがとうございます。



6 月 12 日 (日)  



 快晴です。初夏です。朝、夜来の豪雨が明けると共に、青空になり気温はみるみる間に上昇しました。腕が真っ黒に日焼けしました。

 竹馬の友が、大学同窓会仙台大会に参加で来仙しました。本ページの愛読者でもありますので、瑞鳳殿を参拝して頂きながら、幼少のみぎりを語るべく、瑞鳳殿に仙台城と案内し、空港まで一緒しました。

 瑞鳳殿
 豪華華麗な桃山様式にはあらためて驚嘆をしていました。熱心に撮影していました。
 涅槃門を潜る際「昔 敷居を踏むなと云われたよな」との話になり、幼少のおり一緒に遊んだから、孫に話が飛びました。
 涅槃門の唐草模様の留め釘、透かし彫りの説明をおわるを待って、即、指摘がありました。1636年当時、接着剤の無い時代乍ら、鐵釘を斯様に使用したか、復元が粗雑ではないかの指摘です。
 本殿では多額のお賽銭を投入し、深く頭を垂れていました。社会人として成功した人間の素養でしょうか。
 「欧米人は偉大な先人に敬意を表します。しかし大部分の日本人は、お賽銭は別として頭を垂れる人が少ない」と申しましたら苦笑いしていました。

 〔ブログを検索していたら「瑞鳳殿に参拝したら就職に成功した」と専門学校生の書き込みが有った〕と伝えたら「ウン 内の生徒にも仙台に行ったら瑞鳳殿を参拝すれば と云おう」と云いました。彼が専門学校の校長をしているとは知らなかった。遠地から参拝され、私のガイドを聞いて、就職に成功されれば嬉しい限りです。

 仙台城
 島崎藤村の歌碑からの順に案内しました。藤村と仙台の縁、知らなかったの感想。そうでしょう。仙台でも知っている人は僅少です。
 騎馬像で、「目を見てくれ、瑞鳳殿の御木像との違い」と申して初めて気がついたようです。
 昭忠碑の20メートル頭上の金鵄を鮮明に撮影していました。明治35年完成と語ると、当時の日本は、新興国家。国家が新興の時には、この様な塔の建造に夢中になるのかなと云う話になりました。

 牛タン
 最近は仙台を代表する食文化は「牛タン」のようです。3月8日の日誌に記載しました「読売新聞HP「旅ゆーん」3月7日更新、日本の旅」でも、仙台イコール瑞鳳殿・牛タンとなっています。ブログを検索しても若い人々は「仙台で牛タンを食べて満足・感激」と記載しています。牛タンを馳走しないで帰す訳にはいきません。
 満席、30分待って「牛タン定食」の昼食をしました。発祥の頃と違い、味付け等が工夫され万人向けになっているので、「なっとく、うまい」の感想が返ってきました。満足・安堵。

 ズンダ餅
 「お土産に買ってきてと云われてるが。どこが良いか」の質問。ズンダ餅は仙台を代表するお土産の地位を確保した様です。彼曰く「全国区です」と。
 本来は夏の季節限定、母親の味であった筈。通年の土産品とは。
 お土産の代表はズンダ餅に笹かまの時代の様です。

メモ
 仙台発祥の食文化
 笹かま、ズンダ餅、牛タン、回転寿司、冷やし中華。



6 月 7 日 (火)  



 5日の続きです。

 「仙台坂から来ました」と突然話しかけられました。黒い口髭の男を代表とする40代前半の男女4人組です。「仙台坂・仙台味噌・綱宗公」と連なり、手持ち資料を開いたら、「大井ではなく、麻布です。麻布十番です」と連呼し、高級住宅地・格上ですよの表情をされました。《仙台坂・・ウーと脳みそが回転》「アッ失礼しました。綱村公が隠居所とし、以後下屋敷として使用され、現在大韓民国大使館付近である、麻布屋敷。あの仙台坂ですネ。麻布・六本木ですネ」ニッコリしました。
 
 大香炉の前で、家紋・拝殿・桃山様式と長話になりました。最後に「オジサン、たのしかった」と去って行きました。

 オジサンは「仙台坂は2ヶ所あると、先月も 勉強したのです」でも、一瞥して、麻布か、品川・大井か 何れの仙台坂の住人かの判別は、出来ないのです。

 あかとんぼと同年配の風貌の方から「政宗はなんぼで死んだだ」と、問われました。「享年70歳です」と答えたら、「ウーン 俺69歳。後1年以上生きれば 勝つだ」と返ってきました。
 享年70歳の享年が聞こえなかったのか、理解しなかったのか。政宗公は当世風に数えると「68歳9ケ月」で人生を全うしています。69歳では十分に勝っています。

 人生の勝負は、死亡時の年齢だけでしょうか。

 寶筺印塔の説明の際、「殉死者の年齢、最高74歳、最若22歳。此は享年で、当世風に数えると、最若22歳は20歳何ケ月です」と説明する事にしています。



6 月 6 日 (月)  



 5月13日に、あかとんぼがお世話になっている「NPOシニァネット仙台」の小核グループで、辛口評論家の集い「七十路会」のみなさまと、「桃山文化と新緑を楽しむ」のタイトルで、瑞鳳殿を、小雨の午後の半日を楽しみました。 

 今朝 女流歌人から 五月雨の中で観た桃山調の社殿が美しかったと 感想を詠んだ 短歌を贈っていただきました。

 桃山の 歴史刻みて 瑞鳳殿 五月雨しずか 覇者は眠れる  彩代

 素養の無い あかとんぼ。成る程と感心しました。



6 月 5 日 (日)  



 緑が輝いています。燦々とお日様が輝いて、突然バラバラと大粒の雨が降ってくる奇妙なお天気の日です。

 朝、事務所へ挨拶に参上したら「アッ あかとんぼさん。昨日お見えになりませんでしたネ」「ハィ 承知しておりましたが、よんどころない用事で」「これ、どうぞ。とっておきました」「ありがとうございます」

 昨日は、三代藩主綱宗公の295遠年忌の法要の日でした。法要の栞を頂きました。
 綱宗公の代表作といわれる「花鳥絵図屏風」をA4の横一面に貼り付け、芸術家としての生涯を説明したものです。

 7月12日は二代藩主忠宗公の348遠年忌です。法要の栞を期待します。


 知的感じのご婦人から「廟・御霊屋とは、神道の用語であって、仏教で祀られているここで、この表現は正しくない」と云われました。「ハッ そうですか。伊達家では、瑞鳳殿を創建した時から、御霊屋と申して、地名も麓の御霊屋の下を霊屋下と申しております」

 団体のバス三台入りました。一台は秋田県北のバス会社で、仙台空港から青森空港迄のツァーで、案内するガイド嬢は会社非専属のフリーだそうです。瑞鳳殿に始まって、瑞厳寺・平泉・・・十和田湖と主要観光地を三泊四日でガイドするだそうです。エライものです。

 初顔のタクシー運転手氏から頼むと云われ藤沢市からの方をガイドしました。タクシーとなればメーターが気になりますが、観光の方々は、どんな契約か、気にしない方が多いです。と申してもガイドは要点集中短期決戦方を心掛けます。今回の評として「ボラガイドとして良く勉強している。よかった」の満足を頂きました。感謝。

 「伊達様は戦災で焼失するも、こんなに立派に再建してもらい、イイナー」と秋田から来た秋田訛りの無いと称する年輩のご夫妻。「天コ寺の佐竹家の御廟 痛んでいると聞いていますが」「ウン ソンナノダ」との返事。余所をうらやむ前に自所を自力で補修・整備する気持ちになるべきでは。

 佐竹家はその城・久保田城を秋田市に公園として寄付しています。秋田市長は佐竹北家の御当主、本家の御廟補修に口も手も出して応えても、よろしいのでは。

 昨6月4日の綱宗公。5月24日の政宗公と皆様、青葉の美しい爽やかな季節に亡くなりましたネ。のお言葉がありました。今と昔と暦が異なるを失念してのご発言です。陰暦の亡くなった日を、陽暦にそのまま当てはめています。

メモ
 旧暦を新暦に換算すると 次様になります。
 政宗公  1636.05.24.は 1636.06.27.に
 忠宗公  1658.07.12.は 1658.08.10.に
 綱宗公  1711.06.04.は 1711.07.19.に。
 URL http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/kyuureki.htmによりました。

メモ2
 現代漢和辞典(大修館)によれば
 廟   みたまや 祖先の霊をまつる建物。朝廷の正殿。
 霊屋 神仏や祖先の霊をまつってある建物。
 
 





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