2005年10月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




10 月 30 日 (日)  



 天気晴朗 素晴らしい秋日和です。

 秋の行楽 観光バス連続何台も入りました。バスガイドが案内していました。が、ガイドしている様子ではありませんでした。メンツがある様で決して素人にはガイドさせません。

 日本最大の旅行会社は、流石 お客様に対するサービス提供を優先にします。お客様6人なのにガイドと添乗員が案内して来ました。コレダケでも豪華なのに、自分達のメンツは抜きにして、地元は地元と私にフッテ来ました。30分間ガイドでしたが、ご満足頂けたと確信しています。

 広島からの三婦人、「アラ ガイドさん タダ」「ハイ ボラガイトです 無料です。お客さんから代金請求されても困ります。聞くボランティアになって下さい」
 家紋の話から市の紋章の話に、「仙台市は伊達家の三引両の家紋に由来しています。広島市章は浅野家の家紋に由来し、市中を流れる川をも表しているそうで」とかたったら、「アラ そう 仙台に来て初めて知った」「瑞鳳殿参拝は御利益あったわ」此また ご満足頂けたと確信しています。

 広島からの参拝者は、結構おります。航空路の効果でしょうか。高松・大阪・名古屋と航路のある都市から多いです。

 23日のベテランガイドからの質問「大崎八幡宮・東照宮・市博物館・県美術館は対象外、それ以外の1ケ所の観光は」に、「東北大学理学部自然史標本館」を穴場として推薦しました。
 H代表から「県美術館の中庭もどうです。眺望が優れている上に、佐藤忠良の見事な彫刻が楽しめて、入城無料です」と更なる穴場の紹介がありました。
 なるほど、駐車場とトイレが完備して、・・・・・です。

 紅葉はまだです。今年は2週間の遅れとの情報もあります。



10 月 24 日 (月)  



 雲一つ無い秋晴れ。

 ボラガイドの仲間「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会が35人参加し開催されました。
 伊達領内の海道から街道までの研究の第一人者で、「みちのく歴史街道研究会友の会」の顧問である高倉先生から、「仙台周辺の古代の道」と題して、東海道(あづまかいどう)・中山古海道・最上古海道等について、パワーポイントと詳細な配布資料を駆使しての座学でした。

 先の海道等は、城下に入った地点で、その所在が不明となります。常に不思議思っていましたが、先生の話でも解明されませんでした。結論としては、現在の宅地造成で、山野の地形が一変するものと同じ、政宗公の仙台開府の都市計画施工の結果によるものなる様です。

 直接 瑞鳳殿には結びつきませんでしたが勉強になりました。

 



10 月 23 日 (日)  



 夜半の雷雨は収まりましたが、依然として大雨で寒気がじわりと身に滲みました。
 最近、あかとんぼが世話役の会合で、連続2回、救急車の出動を要請しました。何れも先輩諸氏が嬉しくなり、脳血管が開いた事による一過性の記憶喪失でした。心配しましたが、命に別状はありませんでした。今度3回目が自分自身では、ご迷惑をおかけしますので、鼻水が出そうと感じた時点でガイドを終了しました。テレビ局の天気予報の正解率は低いです。

 バッヂを付けたオジサンが「オー ボラガイド。頼む」で、一団の皆様をガイドしました。帰路に名刺を置いて行きました。新潟県○○市議会の観光問題等調査特別委員の肩書きの方でした。○○市の観光問題等の改善策に、あかとんぼのガイドがお役に立ったのでしょうか。

 午前中、観光バスが3台入りました。始め2台は切符を渡して「ハイご自由に」と降りて行きました。3台目のガイド嬢は丁寧にガイドしていました。名札を拝見したら、仙台が生んだ偉大な歌人と同姓でした。仙台城では「この方はお祖父さんです」と冗談を語るのよ、朗らかに話してくれました。

 このベテランガイド嬢から「案内しているお客さんは、秋保温泉に泊まり、ご祈祷をして、仙台城に続いても瑞鳳殿に来た。牛タンの昼食後、神戸に帰る行程であるが、社寺仏閣以外、観光したいとの希望ですが、ボラガイドのご推薦の箇所は」とのご質問。大崎八幡宮・東照宮・市博物館・県美術館は駄目、対象外との事。それでは穴場として「東北大学理学部自然史標本館」は如何ですか。シベリアのマンモスはありませんが、それに相当する珍しいものが陳列されています。入場料も極めて安価です。とお奨めしました。採用したい雰囲気でしたが。

 雨の中、森の中一杯に響く「キャー」と若い女性の悲鳴。清掃担当と二人で、声が聞こえた方向に急行しました。連れの男性にピタリと張り付いていました。足元にミミズが1匹。深窓のご令嬢でミミズを初めて見たのか、それとも 連れの男性に張り付くチャンスに活用したのか。老人二人は顔を見合わせました。

 拝殿前の礎石を丹念に覗いている方が居られました。礎石の柱穴を比較していました。誰も居なければ穿りたい様子でした。「復元を断念した拝殿の礎石です」と説明し、戦災で焼失する前の写真をお見せました。「ウンー」と頷きながら納得しくれました。「この方面を研究されている方ですか」と尋ねたら、「イヤ。でも仙台はよく保存されてよろしいですね」と連れと頷きあっていました。
 昔日の姿・夢を求め訪れた史跡で、実利を求め破壊された現実に、夢を壊され続けている人生の先輩とお見受けしました。

 仙台市内の名門大学史学部の学生6人ほどにガイドしたと申すか、会話を楽しみました。19ハタチで寶筺印塔の最年少者よりの若いです。それ故に質問はなかなかユニークです。あかとんぼの人生は彼等には近現代史。年齢を感じた一瞬でした。

 ガイドをして感じた事ひと言と問われました。次の様に答えました。
 日本全国のみならず世界各地から参拝に見えます。当然異教徒の方々もおります。でも、欧米の人々は偉大な先人と知り、敬意を表します。表する率は高いと感じます。
 日本語の勉強が大切と感じています。と同時に、これからの人は英会話が出来なくては駄目です。亜細亜諸国で日本語を話せる人は少なくなりました。若い人々は母国語のほかに英語を使います。英会話が出来なければ井の蛙となります。

 観光・食・民俗等のテーマ毎にまとめ、大学間交流をするための取材だったそうで、交流後にレポートを流して欲しいと頼んだら、快諾してくれました。
 暖かい、晴天に出直しされれば、多分大学の講義では語られない事、知っている事、お話しましょうと再会をを期しました。気持ちのよい学生でした。



10 月 20 日 (木)  



 仙台城の門についての勉強会に参加しました。
 講師は仙台市文化財課仙台城発掘担当○木さん。三の丸の巽門跡から本丸詰門跡迄、髭で年齢詐称の気力体力をもってして。90分の短時集中で説明をしてくれました。説明あった門と概要は次のとおりです。

 巽門跡
 1945年の米軍の空襲で焼失したが、礎石は完全保存をした。昔日の写真等が保存されているので、仙台城全体復元計画の中で、復元を考慮するという、誠に気宇壮大というか幻の話がありました。
 所在は三の丸南東部、ここから三の丸を経由、清水門に至った。この至る道は博物館建設で破壊され、痕跡もない。この門の目的は、戦時の際の防御は各門とも共通として、そり以外には入城者のチェックでしょうか。
  
 清水門跡
 ここの石垣は昨年の地震で、向かって右側が倒壊した。石垣全体としては1964年と1974年に続く3回目である。築城当事の工事仕様に限りなく近い復旧工事と併せ学術調査をした。
 門跡付近に、湧水があるが、これと別に南山側で大量の湧水地を発見した。別個に発掘の必要を感じている。
 門の礎石らしき石を1個発見した。これから類推するに、現在の路盤は掘り下げられている。門の復元は地盤を強固する事と路盤の嵩上げが必要となり、大工事が予想される。
 門の喪失と路盤掘り下げの時期の説明は無く、研究課題となりました。
 所在は巽門と澤門との中間部、この門の目的は三の丸からの物資のチェックでしょうか。

 澤門跡
 此処にあったとの説明で、正規の登城路側にあったのか、三の丸側登城路にあったものか、双方の登城路の関門としてあったのか、詳しい説明は無く、これも研究課題となりました。
 所在は、登城路の中間部、正規の登城路と三の丸側登城路との合流部です。この門の目的は、二の丸からの入城者のチェックでしょうか。大手門からの入城者三回目のチェックとなりますが。

 中門跡
 ここは現在、築城当事の工事仕様に限りなく近い復旧工事中で、倒壊しなかった左側の石垣の上から工事現場を指示(しさ)説明がありました。この門は、明治末期に解体し知事公館建築の部材として使用された。明治期に西公園付近から撮影した写真が博物館に保存されているとコピーの提示もありました。此処も、当然 復元の幻計画があるでしょうが、其の話はありませんでした。
 所在は、正規の登城路の大手門と澤門との中間部にあります。

 本丸詰門跡
 現在 礎石が1個残っているのみで、護国神社境内整備で破壊された様だとの説明でした。境内敷との関連かあるらしく、復元は望めないとの空気でした。
 所在は、護国神社の鳥居付近、バス停からの石段を登り切った地点です。

 以上の外の子門、大手門、西門、埋門の跡については、時間切れなのか、発掘調査を担当しなかった故か説明はありませんでした。

 観光客から 何もない仙台城と云われますが、確かに天守閣は無いにしても、見る物・説明する物数々ありますから、勉強をよろしくの挨拶で閉幕でした。



10 月 16 日 (日)  



 曇り空です。行楽の節となり、観光バス何台も入りました。広瀬川の河原では「芋煮会」が散見されました。

 朝、晩翠通りを瑞鳳殿に向けて南下していたら、目の前を長野ナンバーの大型バス、道をふさぎ、進路を譲ってくれません。さてさて、瑞鳳殿参拝のバスだなと思い追尾し、御霊橋を渡って、左右に分かれ、受付で待っていたら登って来ました。
 55人乗りバスに12人と添乗員1人のゆとりのある御一行様です。
 私のガイドが終わったら、「私 国宝と車内でガイドしたけど。みんな覚えているかしら」と添乗員嬢の独り言。皆様は国宝クラスの豪華絢爛な瑞鳳殿を参拝すれば、細かい事には拘らないでしょう。

 涅槃門の内側を見上げている方を見かけ、珍しい方だ、普通は無視してとおるのにと、話かけたら、首を左右に降られ、「韓国」と返ってきました。日本語の出来ない年代の方。連れは理解出来る年代。私同様、亜細亜の人々は、顔だけでは国籍、言語圏の違いはわかりません。日本語で入場券を買われれば、日本語のパンフとなります。それではと受付からハングルのパンフを貰い届けましたら喜んでいました。
 涅槃門から本殿まで、ガイドしました。御霊屋を丁寧に見て撮影していました。
 政宗公の半島出兵・臥竜梅等の事は一切ガイドしませんでした。

 欧米系の子連れのご夫妻。1歳半くらいの男の子、元気は歩いていましたが、疲れたか母親にまとわりつきましたら、母乳で授乳を始めました。あかとんぼの幼少時の授乳の様子です。堂々としていて違和感は全くありません。なぜか 最近の日本の母親は、人目を避けて授乳しています。
 樹齢300年の森の中、人生の成功者の墓前での、人類自然の営み。この母子は、日本人失ったものを持っており、おおらかな人生を送るだろうなと感じました。

 この秋、宇都宮から転勤された壮年のご夫妻、目下 仙台を勉強中との事で、素直な様子でガイドを聞いた後、仙台東照宮の由来と日光東照宮の関係を問われました。
 次の様に答えました。
 二代藩主忠宗公が三代将軍家光公の許可を得て、1649年8月着工、1654年完成、本殿等は桃山様式であり、国指定の重要文化財であります。本地は徳川家康が1591年岩出山築城縄張りの帰途、この地で休息したに由来し、門前の直線道路は、現在仙台駅で中断されているが、城下最大の直線道路でした。

 ブログで「瑞鳳殿」のキーワードで検索しますと、毎日何本か参拝の感想があります。
 韓国の若い女性が3泊4日の行程で、仙台空港に降り立ったら入国審査が厳しが、町は綺麗で、人々は親切であった。瑞鳳殿に行きそびれたと。韓国を出発前 既に仙台イコール瑞鳳殿と知っています。
 中国(台湾の方?)は次の様に書いていました。「?到仙台,一定要?一下這赫赫有名的大人物--伊達政宗。也許名字有聽過,感覺卻很遙遠…不過?…看日本古裝劇時,有個武將總是戴著K眼罩,看起來很嚇人…應該有印象?!那就是「獨眼龍政宗」。右眼失明是因為小時候疱瘡的關係…」この方は騎馬像や本殿の写真も併せて掲載されていす。漢字を飛び読みして好意的と理解しています。どなたか日本語訳をお願いします。 



10 月 13 日 (木)  



 登米伊達家 伊達宗倫(天山)公の霊屋を昨12日お詣りして来ました。

 1672年に創建され、唐様の簡素堅実をとりいれた江戸初期の優秀な作で、1972年3月に1年数ケ月の歳月をもって往時の姿そのままに復元したものだそうです。

 登米小学校の裏山 覚乗寺の境内にあって、草群道を登った樹間に、訪れる人も少ない様子でひっそり建っていました。豪華絢爛な瑞鳳殿に比較するに、ほぼ大きさなれど、素木の簡素が印象的でした。

メモ
 伊達宗倫(天山)公について
 二代藩主忠宗公四男、1645年12月6歳にて継家、伊達姓を。1649年7月10歳時18名の家臣と共に登米に初下向。1650年仙台城での席順が一門一位となる。1670年31歳にて没。

 霊屋についての案内板(全文)
 「宮城県指定重要文化財 覚乗寺高台院霊屋について
 覚乗寺高台院霊屋は、登米伊達第四代の藩主宗倫(天山)公の霊屋で、寛文十二年(1672)に建立されたものである。
 大きさは、方三間桁行梁間ともに二三・五尺、向拝一間、前面縁付素木造、床張板、屋根は宝形造木羽葺、内部には漆塗、胡粉塗、金具で装飾された須弥壇があり、その上に方三尺入母屋造柿葺の家形厨子が置かれ、その床下には石畳の墳墓が設けられている。
 霊屋建築としては、唐様の簡素堅実をとりいれた江戸初期の優秀な作であるが、厨子にも精巧な工芸の手法が見られ、松島の円通院霊屋と共に仙台藩霊屋建築の秀作といわれている。
 現在の霊屋は昭和四十七年三月、一年数ケ月の歳月をもって、往時の姿そのままに復元したものである。
 昭和四十七年十月一日   登米町教育委員会」

 登米伊達第四代について
 案内板では第四代と表示しているが、本田勇編著 「資料 仙台伊達氏家臣団事典」によれば五代となっている。

 登米伊達家について
 藤原鎌足の十四世孫、刈田左兵衛尉経元が祖。源義家の麾下、刈田・伊具軍を賜り、白石城に居住、白石氏と称す。十三世宗実を初代とする。二代宗直が水沢から現在地・登米郡寺池村に移転、幕末に至る。 本田勇編著 「資料 仙台伊達氏家臣団事典」による。 



10 月 12 日 (水)  



9日の石母田家の続きです。

一門・一家とは、何でしょうかとのご質問がありました。

一門とは、
 戦国時代の有力大名だった家、又は、伊達氏との縁戚関係にある家で客分扱いを受け、藩主が彼等を呼ぶ時も「殿」付けされた。常時は藩政に直接就く事は無かったが、重要問題に対しては藩主の顧問的役割を果たした。11家ありました。

一家とは、
 戦国時代の在地有力領主及び性山公までに臣従した有力家臣と伊達氏庶流の家、但し片倉氏は例外で慶安4年宿老から昇班した。17家ありました。
 
石母田家と石母田大膳亮宗頼についての解説の要望もありました。

石母田家とは、
 一家の席次10番目です。甲斐源氏の流れです。宗頼の岳父景頼が輝宗・政宗公に仕えました。
 知行地は高倉・谷地森に始まり、米谷・水沢に続き、岩ケ崎、宮崎、高清水と変わり、知行も2000石(200貫)に始まり、最終的に5000石(500貫)。歴代 奉行職を務めています。

石母田大膳亮宗頼とは、
 朝倉義景の一族で、14歳にて小早川秀秋の客臣となり、1597年政宗公家臣となり、1599年石母田家の名跡を継ぐ。江戸詰奉行職として支倉常長派遣の後始末に腐心した。
 1647年64歳で没し、廟所は宮崎・洞雲寺です。
 
 以上は、本田勇編著 「資料 仙台伊達氏家臣団事典」によりました。

補足
 性山公とは、政宗公父親十六世輝宗公です。
 慶安4年は1651年です。この年12月片倉家二代目重長の時に一家となりました。重長は政宗公の信頼厚く、忠宗公には奉行職として補佐した。
 谷地森は宮崎町谷地森で 字松崖に谷地森城が。
 高清水は「要害」で1757年から幕末迄拝領。要害跡は高清水町東舘です。
 地名は、町村合併以前で記載しました。



10 月 11 日 (火)  



 9日の日誌の続きです。

 70歳代のご夫婦。「飛天の彫刻の作者は家内の彫刻の先生です。○○先生です。相馬から来ました」と職員駐車場に入り込み、胡桃を拾い乍らののお話でした。「ドングリの木もあり、栗鼠等の野生動物が生息しています」と返答しながら、自らも彫刻をするボラガイド仲間のUさんから教えて貰った先生と違うな感じ、彫刻の話をお終いにしました、

 Uさんに教えを請うたところ、今朝早く電話とFAXで、次の様に教示がありました。やはり違っていました。
  
瑞鳳殿壁面の飛天・瑞獣・瑞鳥の彫刻家は 宮窪 繁 氏
 氏の履歴は
 富山県井波町の人 (1907年生〜1989年没)
 社寺彫刻、山車、神輿の彫刻が得意分野。日光東照宮の彫刻補修
 井波彫刻組合の役員として後継者育成に尽力した。

なお、
瑞鳳殿本殿内の尊像の作者は
 阿部 正基 氏
 1926年仙台市生まれ 1960年日展審査委員に、1978年没

瑞鳳殿、感仙殿涅槃門の麒麟・唐獅子・牡丹等の作者は
 林 鳳雲 氏
 1923年広島県生まれ 戦後仙台に転住。定義如来西方寺山門「仁王像」1999年新本堂の「法然上人」「善導大師」の脇佛二体を製作。ほかに数々の菩薩像等を制作されている。
 なお、Uさんの師匠との事。



10 月 10 日 (月)  



 10月10日は晴れの特異日なれど、雨。三連休の最終日故、雨でも参拝者は怒濤の如く。
 コンビニや100円ショツプで安価な傘を買えますが、傘を持たない人もいました。派手な傘の一団はタクシー利用者です。

 過日、瑞鳳寺山門前で待機中の運転手と会話した際、次の様な話を聞きました。
 駅等から瑞鳳殿迄と行き先を告げられたら、先ず100%観光客であるから、それなりの観光ガイドをしなければならない。それが無言で走れば、タクシーはもとよりハイヤーであっても、「後はよろしいです」と降りられる。
 此処まで来たら、瑞鳳殿を案内しなければ駄目だ。案内せずメーターを倒して時間を稼ぎ、下山を待っている様では、お客さんに満足して頂けない。
 仙台城や大崎八幡宮に又秋保温泉に行って欲しいと、注文しなくなるだろう。これでは仙台観光としても、自分売り上げにもマイナスだ。
 と云うもので、誠にごもっともです。

 本日、見慣れないタクシー運転手の案内で何組か見えました。案内は結構ですが、単なる露払い、無言です。佛作って魂入れずと同じ。これでは 「ガイド出来なかったらボラガイドに頼め」と一言付け加えて欲しかった。ボラガイドからプロにガイドしましょうとは云われない。

 還暦同窓会らしい男女50〜60人の団体。窓口で大部ゴタゴタして、男性陣がシビレを切らしたか、ソロソロは入ってきて、「ガイド出来るか」「時間はどの位あります」「幹事 時間は、ガイド頼みます」途端、群れの中から「駄目、頼んで駄目」の女性の声。この一声で男性陣を先頭に、涅槃門をショボショボと潜っていきました。ああ無情。
 この女性幹事は下見していたのでしょうか。拝観料必要とする。日祝日にはボラガイドが居るを確認しておらず、予算外のに拝観料を必要とし、又この上お金を必要とするのは真っ平と、頼んで駄目になったのでしょうか。無料なのに。勉強不足は得をしないようです。

 手洗鉢の竜を正面から狙っていたお嬢さんに、横からのアングルも面白いですとアドバス。本殿全景を撮して満足のご様子。「瑞鳳殿をお詣りしたくて来ました。2度目です」とカメラ一つの身軽さ。仙台市内の人かと思ったら「広島から。直行便がありますから近いです。今日はここだけ」
 軽くおっしゃいます。確かに日に片道2便飛んでいます。運賃は往復適用の片道で28,750円です。又の参拝をお待ちしています。



10 月 9 日 (日)  



 10月の三連休の中日です。晴天の予報が外れましたが、参拝者は、国内は名古屋・大阪から、国外は印度・欧米からと数多く見えました。

 大阪のお嬢さん。資料館を見終わって、続けてガイド出来るかで、弔魂碑から感仙殿に、遂にお子様廟迄ガイドしました。最後 参道登り口で記念写真を求められました。お若いのに誠に聞き上手でした。

 五〇代前半のご婦人から「私の祖母は石母田家の出です」「御手持ちの資料は何処で」と聞かれました。拝殿前の石灯籠について、大阪のお嬢さんに説明をして居たところで、開いた資料記載の「奉拝瑞鳳殿前石母田大膳亮宗頼 寛永十四歳丁丑五月二十四日」を見てのお尋ねでした。
 「ハイ、明治十二年に刊行された伊達邦宗著 伊達家史叢談 巻之七(貞山公廟献灯配列之図)のコピーです。市図書館には復刻版があります」「私 今千葉なの」「大身石母田家の御子孫と承れば、即差し上げたいところですが、私の学習資料としてコピーしたもので、差し上げるのは目的外使用として、時節柄 お上からお咎めがコワイので」と申し上げたら「そうですね」と即 ご理解頂きました。伊達家家臣一門・一家と続く序列二番目の一家である大身の末裔の方とお話ができてよい日でした。

 六十代の煌びやか服装の一団から抜けた方「伊達家は未だありますか」の御質問。「ご当主 仙台在住です」「何代目です」「ハイ政宗公から数えて18代です」 ここ迄答えましたら、これ以上の返答無用と、そそくさと一団に戻っていきました。「伊達家始祖から数えて三十四世」と答える間もありませんでした。

 このご質問はママあります。なぜ、こんな質問があるのでしょうか。
 「明治維新・版籍奉還を、外国の革命と混同し、殿様一族が抹消されたと誤解しているのでしょうか」と申したら「イヤ 徳川300年、数々の大名家が取りつぶしになっています。それで、まさか300年も続かなかったのではと思っているのでは」がH代表の見解でした。

 清掃担当Bさんから「政宗公の戒名は。正室愛姫のお墓はどこにあります。お客さんに聞かれます。皆さんいる日はよろしいですが」と聞かれました。
 「政宗公の戒名は、瑞厳寺殿貞山禅利大居士です。正室愛姫のお墓は、瑞厳寺境内陽徳院にあります寶華殿です」と答え「売店の図書か、私のホームページをご覧ください」とさりげなく自己宣伝しました。このBさんは真面目な方です。

 惚けがはいって来たようで、「左甚五郎」と云うべきところを「鼠小僧」と云い、なんか変だなと思った途端、聞いたいた女子大生に、「それドロボーでしょう、天女さんの彫りものと関係あるの」とやられました。マイッタ。大崎八幡宮の彫刻に左甚五郎作と称する彫り物があり、その話からぶれました。

H代表から「下のお寺 正宗山瑞鳳寺は(しょうしゅうざん ずいほうじ)です。発音は正確にしてください」と資料持参でご注意頂きました。気を付けます。ありがとうございました。
メモ
 H代表から頂きました資料は、「伊達政宗公ゆかりの寺院その1・2 宮城文化協会刊行」のコピーです。図書は窓口売店で販売しています。政宗公ゆかりの寺院を巡るにはお奨め図書です。

 



10 月 3 日 (月)  



 昨日の続きです。

 弔魂碑の魂の文字、瑞鳳殿扁額の文字についての質問に、あかとんぼの知識欠如で答えられなかったことについてH代表から、資料をもとに次の様な講義を頂きました。

 市内の書道教室の先生が扁額を「名蹟」として紹介しているのは当然のことです。
 「書には流派があり、決して一様では無いが、手本は普通の場合、古名蹟が第一に選択される。古名蹟とは、昔から伝統ある碑版・法帖などに載っている筆跡をいう」と記載された1985年刊行の古名蹟集のコピーを示して、中国・明王朝(1365-1644年)時代の唐寅(トウイン)の書に魂の云偏が上にある書体を示して呉れました。
 
 扁額の瑞鳳殿の鳳の文字が誤字でないかと指摘された方がいるらしいが、古名蹟集には21も収録されています。書の書体は一つではありません。

 書家は選択した文字を何千と練習し、自分の書にして初めて、披露されるものです。
 拝殿扁額「瑞鳳殿」は書家佐々木文山の書です。その下書きが長持2棹に入っていた云われています。それ程の練習の成果です。本殿の扁額「瑞鳳殿」は忠宗公直筆です。親政宗公に対する万感の思いもあり、やはり相当練習されたでしょう。

 H代表の博識に敬意を表し、ご教示に感謝します。

メモ
 長持(ながもち)
 収納家具の一つ。衣装・調度を入れる蓋形式の長方形の箱。足のついた長櫃(ながびつ)(唐櫃(からびつ)の一つ)が変化したもの。多くは長持棹(ざお)をにない金具に通して運んだ。より大型で車のついた車長持もあった。長持は明治末年ごろまでは嫁入道具の一つとされた。
マイペディア(C)株式会社日立システムアンドサービス
 
 長持棹(ざお)をにない金具に通して運んだ長持の大きさは、おおよそ6尺(1,8m)×3尺(0,9m)×3尺見当です。家庭用冷蔵庫の外形に相当します。



10 月 2 日 (日)  



 山形の聴力に障害のある方々30人余に手話通訳2人付き添いの団体から、ご依頼があり、瑞鳳寺山門前から、迄を55分でガイドをしました。

 ご依頼頂いた際、ガイド出来るか考えました。手話通訳が付くのであれば、他国語の方々に通訳を介してガイドと同じです。要点を簡潔に、通訳が理解し翻訳出来る平易な日本語て、通訳の翻訳速度を見ながら、ガイドをすれば良いと割り切り、ガイドしました。

 通常は、ガイドをする人を見ますが、今回は私の顔を誰も見ません。そうです、手話通訳の方を向いています。今一つ、通常のガイドと異なるのは、移動しながらのガイドが出来ないことです。時間が制約されていますので、つい、話したら通訳に手を振られました。当然です。

 ガイドの区切りの都度質問が各人からありました。又、瑞鳳殿見学4回目、最上義光山形城主について勉強している、郷土関係の貴重な文献を収集している等のお話をもありました。障害に負けない積極的生き方の皆様でした。

 この団体の役員の方は、7月17日に下見に来て、「ガイドしましょう」と申し出て断った方々でした。(参照05年07月17日日誌) あの日にガイドの存在、ガイドの様子等を評価し、今回の依頼になったのでしょうか。

 団体ガイドの前後は通常通りのガイドをしました。

 本日誌の愛読者で80歳の「ぺんぺん草」さんが、動画のCDを創る題材にと、ガイド中撮影をしていました。どんな作品が出来るでしょうか。楽しみです。

 朝一番は宮崎県からのお嬢さん二人でした。遠い所からお詣り頂きましてと、政宗公に成り代わりお礼申し上げました。
 「お嬢さんの所のお殿様はどなたですか」とお尋ねしましたら、即「内藤家です」と返ってきました。延岡七萬石です。今一人は「天領でした」と。驚きました。知らないと答えられるとの予測が外れました。郷土史のみならず日本史を知らない人がいる御時勢。宮崎の人に敬意を表します。

 香炉の灰を均している清掃のオジサンから、新聞紙に灰を分けて貰っているご婦人がいました。「灰を貰うんですか」「ハイ 政宗公ゆかりの灰ですから。使っています火鉢に入れますのよ」ハーそうですか。
 あかとんほは腑に落ちないのです。なぜ 腑に落ちないかは。
 灰(ハイ)を(アク)と云います。アクは悪に通じます。よって、他所から貰うものでは無いと教えられ育ちました。蕨のアク抜きの際、灰汁を必要とします。その際、他所から貰わずに、ワザワザ藁を燃して灰を作り、あく抜きをしました。この幼少からの生活習慣が頭をよぎったのです。

メモ
 蕨のアク抜きは 現在は藁が入手困難で、重曹処理をしています。





inserted by FC2 system