2006年1月の日誌
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1 月 31 日 (火)  



 雪です。節分寒波だそうです。

 「政宗公は1567年8月3日米沢城で生まれ」の記述に、太陽暦では?の照会がありました。
 太陽暦では、1567年9月5日金曜日 です。



1 月 29 日 (日)  



 快晴・温暖です。
 科学的根拠ありません。体感です。今季の寒さは峠を越えたようです。

 当初 参拝者の出足はポツンポツンでした。
 間もなく タクシー利用の団体が入り、ガイドをしていたら、茨城・福岡・亜細亜圏からと続々と春波のようでした。

 添乗員にバスガイド付のツアー。今時珍しい。
 「いずれからのツアーですか」 「奈良からです」
 「ハァー 之はこれは。奈良の都は訪れる所と思っていましたら、お出で頂いたのですか。有難うございます。今回のテーマは露天風呂・雪見酒に牛タンですか」
 「イヤー。テーマは無いです。仙台に宿泊し瑞鳳殿と瑞厳寺を参拝して牡蠣鍋を賞味するコースで、温泉も牛タンもありません」
 あかとんぼが旅行社なら「奥羽の覇者政宗体験満喫」と名付けたいコースです。
 H代表のガイドを聞いていました。御満足頂けたでしょう。

 一見女子大生風の二人に粘られました。「政宗公の御霊屋です。お墓です。御正室は別です」と申しても仲々理解して頂けません。お墓なら、「○○家累代」等と刻まれた石塔でなければならないと申すのです。

 色々ガイドしたら、「伊達家は政宗公以外にも殿様がいたのネ」と返ってきました。仙台と云えば「伊達政宗。牛タン。○○」でしょうと申したら、素直です「ハイ それ以外 思い浮かびません。牛タン美味しかった」との返事でした。

 盛岡からの御婦人。歴史が好きでと申されるだけあって、熱心に聴いて頂きました。資料館に入ったら足が止まったらしく、連れの方 「まだだ いつでもこうなの」と日光浴していました。盛岡は例年の倍の積雪だそうです。

 このご婦人の数ある質問で、印象に残ったのは、
 「平泉・中尊寺の金色堂の藤原三代のご遺体は、寝ていました。政宗公はなぜ寝棺ではなく座棺に入ったのですか」です。
 「火葬は明治中期以降一般化し、それ以前は土葬が主体で、座棺であったの説明は理解した」が、「藤原三代を基本にすれば、政宗公もエライ人であったから藤原三代と同様に寝棺でよかったのではないか」との趣旨でした。

 今一つに、「金色堂は藤原三代である。なぜ 伊達家は別々なのか」のご質問でした。それは亡くなられる都度、御霊屋を創建し祀ったからです。

 ここで、お尋ねしました。「金色堂に藤原三代を祀ったのは、平泉文化が滅んだ後でしょう。いつの時代に誰が どんな目的で 三代を合祀したのでしょうか」と。当然 教えて頂けませんでした。この あかとんぼ の質問は事実認識を誤った上でなされています。下記のメモを参照してください。

 資料館で、忠宗公の歯を入れた壺と石棺、綱宗公の「甕棺」(カメカン)の展示、政宗公の場合と牡蠣灰で、綱宗公の場合は水銀がご遺体保存として用いられたの掲示を、ご覧になり、ウンーと。
 江戸時代、検死の役人が来るまで、ドライアイスが無かったので塩を用いたと聞いていますと補足したら 更にウンーと申しました。塩鮭を連想したでしょうか。

 「これ程の御廟を創建された伊達様はお金持ちですネ。現在も豪壮な伊達屋敷がありますか。当主は どんな社会活動をされていますか。南部様は、盛岡に邸宅があり、靖国神社の宮司ですよ」との質問でした。
 
 「伊達家の御霊屋は三代で終わりにしています。御維新で「上屋敷」等は政府に没収されています。又、戦後の財産税等で、財産を離されたと聞いています。移転時期は不明ですが、東京・東五反田の清泉女子大は伊達屋敷そのものでした。その外、武具・書画等の多数の宝物は、仙台博物館に寄贈されたと聞いています。御当主は、それなりの社会活動をされており、仙台では有名人です。それ以上の事は個人情報にもなり 私にもわかりません」と答えました。

 最後に、「伊達政宗は最上義光の妹、義姫を母として米沢で生まれた。伊達家の発祥は米沢と理解しているがよろしいか」と云うものでした。

 「確かに、政宗公は1567年8月3日米沢城で生まれて、藩祖とされています。伊達家の発祥は藤原山陰とあり、常陸國真壁郡伊佐荘中村に居住し、氏を中村としていました。1189年源頼朝東征に参加し、軍功により伊達郡を領して以来「伊達」を名乗っています。この伊達家始祖の「朝宗」を一世とし、藩祖政宗公は十七世となります。現当主は三十四世十八代になります」と答えました。

 空腹を感じフト時計を見たら、じっくりガイドした故か、13時を大きく過ぎていました。人出も途絶えました。H代表もHPを立ち上げるのか涅槃門の「麒麟」と「五色雲」の透かし彫りを熱心に撮影していました。本日はこれにて。 

メモ
 金色堂と中央壇諸像は1124年藤原清衡によって建立され、内陣に清衡壇があり、下陣向かって左奥が基衡壇、右奥が秀衡壇と称して、それぞれの没年の1157年、1187年に建立されたとみられている。
 1189年 中尊寺には寺塔40余 禅房300余があったと「吾妻鏡」に記載されている。『小学館1985年刊 みちのく伝統文化古美術編』による 

 清衡が生前に建立された建造物に、死後如何にして埋葬したのか 遺体の保存方法等 依然疑問の残るところです。



1 月 26 日 (木)  



 風雪と青空の混在
 
 ○○市民センターで前仙台市博物館長の「伊達衆の世界」と題する講座がありました。なぜか、最終回で始めて質問を受けました。
 この講座の顔ぶれには、それぞれテーマを持って勉強している好事家、歴史物の常連が多数いました故でしょうか。

 数ある質問の一つに
「瑞鳳殿を訪れたら、殉死者の碑があった、調べたいが、どうしたらよいか」がありました。講師は「伊達冶家記録を見ろ」と簡単に答えていました。確かに其のとおりですが、此の方 果たして調べられるか。

 ボラガイドのUさんがいる時に、参拝されれば、調査手順を詳細に教えて呉れたでしょうに。

 でも、政宗公の20人に興味を持って、忠宗公の16人を無視するのか。不思議だ。
 この方、公と殉死者との生前の関係、心理、遺族と伊達家の関係、伊達家と他家との類似・相違点等を調べて発表して頂ければ嬉しいが。



1 月 23 日 (月)  



 朝飯前の除排雪、日中晴。 真冬日 寒さを骨身に感ずるのは加齢故か。

 ボラガイド仲間「ぐるーふ・よっこより」の勉強会が、あかとんぼも関与している「四ッ谷の水を街並みに!市民の会」 代表佐藤昭典氏。「奥州の都づくり 政宗公の利水・水運」と題し、豊富な資料をプロジェクターを駆使しての講義、125分に、50余人は耳を澄まし、熱気で暖房を一時停止する場面もありました。

 要旨は、
 政宗公は人口五萬の大城下町を誕生させた。都市の立地条件は自然特性を活かしたもので、他の城下町と異なり洪水の水難に遭っていない、其の反面、広瀬川からの直接利水不可能であり、船運能力の不足等の難点があった。この対応として「四ッ谷用水の開削」「船曳堀の開削」がある。これが城下町の生成に寄与した。

 四ッ谷用水等は本来の用途は終わったが、都市生成の遺産として大切にする必要があるのでは。これが「四ッ谷の水を街並みに!市民の会」の活動目的です。

 海岸線と併行する大運河「貞山堀」の名称は、政宗公の戒名「瑞厳寺殿貞山大禅利居士」に由来しています。 
 
 佐藤氏は高齢で低声なのにマイクを用意しなかった点と、西日でプロジェクター画面が多少見えにくかった点 この不具合があっても、政宗公が仙台に城を築き、城下を開き、家中、領民が生活出来る様に如何に水を確保したか、利水したかを理解するに最高の内容であって、あかとんぼが佐藤氏を推薦したのは、正解であったと満足しています。 

  



1 月 22 日 (日)  



 大寒はさすが寒いです。極寒です。トシヨリノハナミズが怖いので早退しました。

 参拝者は知多半島等からもお出でになりました。しかし僅少パラパラで、拝殿・本殿前では容易に聞いて頂けません。

 資料館内の三代の頭骨レプリカと政宗公等身大立像の前で小声でガイドしました。寒くないせいか、聞き納得して頂きました。



1 月 21 日 (土)  



 昨日 ○○先生のメルマガが配信になりました。講演で鳥取を訪れた機会を利用して、池田家(32万石)の墓所を参拝された記事がありました。
 興味を抱いた箇所に【亀のように見えるのだが、伝説の生き物と言われている石の上に3メーターほどの墓石が設置されている。墓は一つだけではなく、11代目の殿様までの墓が並べられており、独特の構図が作り上げられている】がありました。

 墓所名・所在等を照会したところ、瞬時に懇切丁寧な回答をいただきました。

 正式名称は、「史跡 鳥取藩主池田家墓所」といい、以下、関連するサイトをご紹介いたします。ご参考になれば幸いです。
(財)史跡鳥取藩主池田家墓所保存会
http://www.pref.tottori.jp/bunka/ikedake_hp/index.html

 国指定史跡「鳥取藩主池田家墓所」で、面積76,822u 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会 他の所有で06年から15年かけて保存整備工事中との事。

 正室は1862年まで、入国出来ず、逝去に際して江戸・牛島・弘福寺に埋葬され、1930年9月鳥取に改葬され、墓石には実家の家紋が入っている。として、奥州伊達家、米沢上杉家、紀州徳川家、加賀前田家などと列記しています。

 さて奥州伊達家の方は いつの時代、どなたか調べました。
 池田家に正室として嫁した方は、八代藩主重村の娘 暾子 生姫と称し、鳥取六代藩主松平相模守治道(1768-98)に嫁して、一女の母となり、1792年6月21歳で逝去された方でした。
 残念ながら鳥取池田家に伊達家の血は流れなかったようです。

 ○○先生はお詣りしてきたかは別として、あかとんぼ、何時の日か訪れ、独特の構図の墓所を拝見し、伊達家の御縁にお詣りしたいと思いました。



1 月 20 日 (金)  



 大寒です。寒気身に凍みます。

 地方紙によると 国指定文化財の佐竹家御霊屋が今季の雪害で、屋根に直径25pの大穴があいたと報じていました。文化庁から修理代金の下付があるでしょう。
 瑞鳳殿等は国・県・市共文化財無指定です。寶筺印塔が8月16日に倒壊し、修復が終わったのは、年末でした。半年近く要しました。
 文化財無指定では、文化庁から修理代金の下付は望めないでしょう。屋根に穴が開く等の被害を生じたらどうなるでしょう。
 



1 月 16 日 (月)  



 昨15日ガイドも日誌も「大乗仏教と足裏」についての勉強会と競合し休みました。ご心配のメールを頂きました。 今後は、予告ないし早い報告に努めます。
 お詫びとお礼 申し上げます。 



1 月 9 日 (月)  



 暖かいです。と申しても2度。昨日は真冬日でした。

 この寒い寒い日、成人の日、三連休の最終日、参拝者は皆無の予想で、撮影目的に参りました。予想は外れ、撮影の余裕は僅少でした。

 遠方は福岡からの若いペァでした。黒田家について二人で語っていたので、割り込みガイドをしました。

 亡き名優 笠智秀に似た方、青年とともに見えました。撮りきりカメラ取り出しましたので、二人を例の最高位置で写してあげました。爺様「京都から来た孫」と自慢の様子。でも、孫自らパソコン出来ないと宣言。現在の青年でパソコンも出来ないとは、希少変種では。

 メモ
黒田家墓所は、福岡市博多区にある臨済宗「崇福寺」に所在し、藩祖黒田如水を始め歴代藩主と一族の石塔 12基が現存している。20数基所在したが1950年に合葬し現在に至る。



1 月 8 日 (日)  



 最低気温マイナス5度。降雪寒冷にあっての御用始め?です。
 まずは、事務所の皆様に年頭のご挨拶を致しました。

 H代表と○藤学芸員と間で「政宗公ご尊顔の復元像」について意見交換が行われ、傍聴しました。結果として、「あかとんぼ」が本殿前で写真を提示しての表現には誤りはありませんが、正確では無いと知りました。
 ○藤学芸員から、「政宗公ご尊顔の復元像」にかかる資料を出力して頂きました。早速、正確な表現をめざし 次の様に表現をあらためました。

 本殿前で、写真を提示して、
 『この御木像は、発掘調査での頭蓋骨の模型を基本に、美術工芸家の立場から日展審査委員阿部正基氏が、宮内庁・京都などに赴き 従三位権中納言の束帯装束の時代考証を充分行い制作したものです。似ているのではないでしょうか』

 資料館の立像の前では、
 『この御木像は、発掘調査での頭蓋骨の模型を土台・基礎に復元したものです。○○サスペンス劇場等で、白骨からの生前の顔復元する場面と、同様の手法と云えるとおもいます。ですから 生前の政宗公の御尊顔に之が一番 似ているのではないでしょうか』
   
 1973年以来の大雪・寒冷。参拝者はループルバス到着時刻にあわせ断続的でした。今日は仙台市内の人の比率が高かったです。

 膝迄の長靴のお嬢三人、太股(ふともも)は生(ナマ)です。「4・50年後には骨粗鬆症とリュウマチを訴えるのでは、寒くないのか」と思っていたら、履いてきた長靴の品評会が始まりました。仲間から「モンゴル風」と云われた靴は紐付で、ツイ「素敵です」と洩らしたら「ありがとう 初売りのバーゲンです。オジサン寒くない」と返ってきました。幾らナマふとももを見せられても、熱くならない歳です「さむいです」とボソ。

 寶筺印塔。8.16宮城地震で倒壊しままで、どうして直さないのか、ボランティアはこんな時、働くものでないかと、叱咤激励される事ママありました。力も技術も無い者に無理です。ナイモノネダリと内心忸怩たるものありました。
 このたび 復旧工事が完成しました。ホッしました。 



1 月 2 日 (月)  



 本日 恒例の年賀拝礼式日です。
 2003年04年05年と3年連続し、遙か下座から拝礼しまた。終了後は参加者一同の集合写真撮影の榮に浴しました。

 今年も参加準備をしておりました。しかし、マゴトンボ来襲の対応等で 残念ながら欠席致しました。
 読者のみなさまで参加された方、感想等をお聞かせ頂ければ幸いです。



1 月 1 日 (日)  



明けましておめでとうございます。

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
あかとんぼ 瑞鳳殿のボラガイドは6年目 日誌は5年目に入ります。
健康管理の目的に、いつまで続くかと思って始めまして、本人も驚く程続いております。
「としより むりするな」のお声も頂いております。今夏は医療費負担が若干軽減されます。その節目を越えても続けたいと思っております。

今年も、之まで同様 激励・薫陶を頂ければ幸いです。
お気づきの点ありましたら 気軽にお知らせください。待っています。





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