2006年2月の日誌
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2 月 27 日 (月)  



 夜明けから列車運休になる程の強風です。肌寒いです。

 観光ボラガイド「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会が、昼食を共にしながら開かれました。講師はH代表で、「政宗の花押」と題して、数として402個は確認されており、当然それ以上であり、なぜ数あるか、花押の使われ方のほか、有名な秀吉の面前での釈明「鶺鴒の花押の針穴」は、小説の世界が、実際の話か。仙台市史資料等を基に解説がありました。

 Y先輩から、「博物館資料によれば、ローマ法王に宛てた文書には、黒でなく 朱の角印が押印されている」と報告がありました。

 I先輩から、岩出山城址の殉死者碑について あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌に記載以外の実話の披露がありました。

 あかとんぼ は、政宗公の片目について、小説等の影響を受けた観光客から、「目玉そのものが無い」と云われるが、事実は病気治療事故で視力を失っただけで目玉はあった筈である。 それを鮮明に表現しているのは、瑞鳳殿資料館の立姿像と 博物館中庭の胸像です。皆様は先刻承知の事でしょうが、あかとんぼ は最近知り 驚いたと披露しました。。

 その他、ご発言があり予定時刻アッと過ぎました。次回は2〜3ケ月以内に伊達家・政宗公以外も話題して語ろうとなりました。



2 月 26 日 (日)  



 雪消し雨。
 予報は「午後から雨」にもかかわらず、9時瑞鳳殿に到着した途端ポチリ・ポチリ。間もなく本格的に降り始めました。

 境内には、残雪の小山が数カ所あります。仙台は寒い所ね。雪が積もるのね。意外だわ。のお声がありました。今宵限りでしょう。

 朝一番は、鳥取からのお嬢さん二人。
 先日のセミナーで「最近は熟年夫婦の旅行が主流」と。若い女性の友人同士での旅行は無視されました。でも、瑞鳳殿での実感では多いです。
 仙台観光は、プロの全国分析と相違しているのでしょうか。不思議です。

 秋田・長野からの盛年女性。旅慣れていて、「ガイドが居る処は、理解でき楽しめる」とじっくり聞いてくれました。大雨なのに、傘無しでしたので拝殿で説明し、相合傘で本殿に案内し、お詣りして頂き、資料館に案内しました。
 売店で傘を売っていないのて、タクシー乗り場迄 見学終わるのを待って、送るべきであったかなと反省しました。

 男女20人余の青年の団体。インターネットで知り合った仲間で、世話役が仙台の人なのでオフ会を仙台で開催し、お詣りに来たとの事。
 突然、なぜか若い女性から「私 土佐・高知から来ました」と発言。

 さすがインターネット集団です。「物知り」が解説を始めました。
1.山内家の墓地は京都にある。
2.仙台・会津若松の人は長州の人とは口をきかない。
3.戦国時代の殿様の遺骨は残っていない。此処は珍しい。

 誤解を招く解説なので私見を述べました。
1.山内一豊・千代夫妻のお霊屋は京都・妙心寺・大通院にあります。山内家の墓所は、高知市筆山町に、筆山公園と称して 全山が山内家の墓所で構成されているそうです。  高知のお嬢さんは肯いていました。

2.その様な事はありません。日本国民として仲良くしています。戊辰の役に拘るのであれば、次の参観箇所「弔魂碑」で、お話を承ります。

3.伊達家の場合、常陸・伊達・米沢・岩出山・仙台と転々としていますが、伊達以後のお寺・墓所は明確と聞いています。
 徳川幕府以後の各家の墓所は特別な事情無い限り、残っていると了知しています。
 それ以前の戦国時代の武将のお墓については関心がありませんで知りませんでした。機会がありましたら調べてみましょう。

 2月12日の日誌に殉死者ついてつぎの様に記述しました。
 《寶筺印塔を見て、「岩出山に2基ありました」と教えてくれた方がいます。「知りませんでした。」とお礼申しました。
 さて、岩出山の城址のどの辺に、誰(当然政宗公?)に対して殉死された何方の碑があるのか。宿題となりました。 岩出山に詳しいI先輩にお尋ねし、雪が溶けたら現地調査しましょう。》
 I先輩から次の様なご教示がありました。

 岩出山城址西方 大学町に所在する 諸法山実相寺に岩出山伊達家初代宗泰に殉死した家臣の碑が確かにある。

 メモ
 諸法山実相寺は、徳川家康が岩出山城築城の際、約40日逗留し、其の際に使用した椀膳が寺寶として残っている。 この項「平凡社 宮城県の地名」によりました。



2 月 24 日 (金)  



 観光ボラガイド「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会が、仙台市博物館で開かれました。講師は同館斎藤学芸員で、「仙台藩の台所事情」と題して、105分間講義しました。

 内容は
1.仙台藩の経済基盤・62万石の確定は1634年であり、それは何処の地か。
2.仙台藩経営の特質は 地方知行(じかたちぎょう)にある。それは。
3.初期・中期・後期と財政の推移の特徴、それは。
4.1706年の財政収支をみれば、それは。

結びとして、
 地方知行制から脱却出来ず、財政運用に支障を来した。幕末 政治的立ち後れを招いた。
 維新後の北海道移住は、伊達領の南の白石・亘理等で、北の登米・涌谷等は残った。その一因に地方知行制が影響しているのでは。

 政宗公の数々の大事業(仙台築城、瑞厳寺再興、大崎八幡宮創建等)、又、秀吉時代の京滞在、文禄の役出動等の経費。これらを如何に捻出し、又移動させたか。 瑞鳳殿の創建費用30万両の調達は、如何になされ、民政に支障無かったか。

 これらの点は 之までの歴史解説書でも、郷土史家からも、説明がありません。講話に期待しましたが、「政宗公時代の財政運用についての資料が無くて、一番質問が多いですが、申し上げられません」と冒頭に 断られました。残念至極でした。

 博物館に展示されている、関ヶ原の戦い直前の1600年8月22日付け  家康公からの「俗に100万石お墨付」と称する「覚」の現物を前に斎藤学芸員から、前後の動きの解説がありました。
 歴史学者大和田哲男氏も「史伝伊達政宗」で同様の見方を示しています。納得。



2 月 21 日 (火)  



 瑞鳳殿ではホームページの外にブログを開設したそうです。URLは
 http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/

 昨日H代表から披露されました。
 毎日曜日事務所に挨拶しているのに教えて貰えませんでした。なぜでしょう。



2 月 20 日 (月)  



 又寒気が戻りました。

 宮城県主催の「世界のトップレベルの観光ノウハアを学ぶ」セミナーに参加しました。案内を限定したのか観光ボランティアガイトの参加は少々のようです。

 講師は在外日本人で、観光ボランティアガイドについて、数秒 説きました。
無償であっても「相手を満足させなければならない」「一方的に話してはならない」  納得。

 国際的立場から観光産業の在り方を説きました。記憶に残ったのに、
 1.景色がよい、設備がよい、料理がよい であっても全てのポジションで 接客に満足感が得られないと 評価は水泡に帰しゼロになります。
 2.接客は公平に、性別、年齢、人種で差別してはならないです。

 講話終了後、会場(共済施設)の喫茶でH代表、N先輩と、講話を基に、日々のガイド活動について、反省の話合いを持ちました。

 「時間です」と我々と他組が退出を求められました。定めた営業時間終了で退店を求められたは止む得ません。でも主催者と講師の一団には退店を求めません。「なぜか」「あちらはよろしいです」 まさに官尊民卑。接客は公平ではありません。

 「隗より始めよ」の諺 納得。



2 月 19 日 (日)  



 日差しは春です。でも気温は8度に至りません。

 9ケ月の男児と共にする三世代。共に軽装です。日本の将来を背負うかも知れない児が、低温で不調を来さないか他人事ながら心配でした。
 一般的に、自家用車で参拝に見える方は、室温と外気温との差に、配慮せず軽装です。

 朝一番 元気溌剌な4人娘。名古屋・岐阜から夜行バスで仙台に。真っ直ぐ参拝に見えたそうです。じっくり説明した故か、質問はありませんでした。堪能した表情で移動していきました。

 続いて、現役盛年5人、「どちらから」「愛知から」「アレー、先程の方も愛知・名古屋から。連続して愛知から、今日は愛知の日カナ」「名古屋は尾張。我は三河・岡崎 ウゥーン」
 尾張と三河とは、どんな違いがあるのでしょうか。三河は徳川家発祥の地としてのプライドなのでしょうか。

 感仙殿前で「伊達家はもう無いよネ」のご発言に
 「イヤ 健在です。現ご当主は34世18代です」「数え方二通りあるのはなぜか」「34世とは、1189年源頼朝奥州侵攻に従軍した常陸國真壁郡伊佐荘中村に居住し、中村の氏を称していた朝宗を伊達家始祖とし、18代とは、1567年に生まれた17世政宗を初代としております。系図によれば藤原鎌足に至るともあります」

 「私も藤原です。吉良です」「ハー」  此処であかとんぼの思考は一時停止です。グルグル回転しました。「藤原之朝臣なのか。吉良家の末裔なのか」不可解。

 この直後 携帯に「甥が交通事故で亡くなった」と「困ったコマッタ」「飛行機便を繰り上げよう」「日曜日で航空会社休みで連絡つかない」「コマッタ、マイッタ」に。
 「ループルバス利用とのことでしたが時間がかかります。タクシーは10分程です。仙台駅に戻り、新幹線か飛行機かいずれが早いか、観光案内所で調べられたら如何ですか」と、タクシー乗り場まで案内しました。

 メモ
1.あかとんぼ資料によれば、山内家も上杉家も藤原鎌足に始まっています。伊達家と同じ先祖とになります。
2.吉良家は源義家に始まっています。幕末の大名名鑑には記載ありません。
3.徳川家も源義家に始まっています。
4.吉良町は吉良上野介時代4000石の領地でした。



2 月 16 日 (木)  



 終日 濡れ雪が降っています。春間近です。

 御霊屋・御廟とは、全て、瑞鳳殿と同様であると確信していました。即ち、石塔ではなく、建築物の墳墓であり、地下に埋葬され、廟内には厨子が安置された構造と理解していました。

 これまで、あかとんぼ がお詣りした伊達領内、出羽國に所在する御霊屋は、基本的に瑞鳳殿と同様の構造でした。

 瑞鳳殿にお詣りされた方と
「ここはなんだ」
「政宗公の御霊屋です」
「御霊屋とはナンダ。俺嫌だか」
「御廟です」
「?」
「お墓です」
「フー 素直に 早く そう云えばよいのに」「それじゃ 此の中に 石の墓があるのだナ」
「イエ 地下に埋設された石造室の中でやすまれており、廟内には厨子があり、そこに等身大の御木像が安置されています」
「石が立っていなければ お墓と云われないだろう。ウーン」
と申す問答が交わされ、あかとんぼ は「石塔が無ければ墓ではないとは、これ可なり硬い石頭だな」と内心呟いていました。

 昨15日 あかとんぼ が石頭であることを知りました。

 政宗公の菩提寺である瑞厳寺を始め、伊達家と由緒深いお寺は「臨済宗妙心寺派」が多いです。その大本山 妙心寺の大通院 御霊屋。その内部が公開されました。無縫塔石塔があり、お位牌と肖像の掛軸がありました。

 この御霊屋は 山内家 土佐20萬石の藩祖 山内一豊と千代夫妻のもので、瑞鳳殿に比較すると質素ながら、廟内に石塔が並立し、二人の位牌・掛軸がありました。

 補足

 1.大通院の御霊屋に夫妻で祀られているのは、養子の瀬南宗化が院の二世であった事に由来すると推察します。院は1596年開山であり、山内家の菩提寺であります。山内一豊の戒名は「大通院心峯宗傳」です。

 2.土佐の一豊の お墓は石(卵塔)で、所在は高知市筆山町です。筆山公園と称して 全山が山内家の墓所で構成されているそうです。

 3.霊屋とは、「魂屋とも書く。平安時代,葬送後の遺体を安置する所をいう。現在では九州にみられる埋葬地の上に据える家形のものをさす。簡素なものから瓦ぶきのものまでさまざまだが,同種のものは東海地方や西南日本でも見られ,すや,火屋,野屋と呼ぶ。死者の住居とするためか,あるいは喪屋の遺風とみられる。
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2 月 12 日 (日)  



 凍みる日です。
 涅槃門前の石畳の間は凍みて光っています。感仙殿・善應殿に至る広場は氷原です。西参道は残雪で狭くなっています。

 寶筺印塔を見て、「岩出山に2基ありました」と教えてくれた方がいます。「知りませんでした。」とお礼申しました。
 さて、岩出山の城址のどの辺に、誰(当然政宗公?)に対して殉死された何方の碑があるのか。宿題となりました。 岩出山に詳しいI先輩にお尋ねし、雪が溶けたら現地調査しましょう。

 10数人の団体。一視参拝・ガイド不用。先行馬?後続待ちでの質問。「誰が、なんの目的で焼いたのか」。この様に問われたのは始めてです。
 「1945年7月10日のアメリカによる仙台大空襲で焼失しました。森林に囲まれた廟であるここが、なんで空襲したかの目的はわかりません」と答えながら、なんかシッキリしませんでした。

 バスガイド付の団体。45分間で簡潔丁寧に説明して欲しいとのこと。妙雲界廟迄案内しました。盛年の男性の団体 職場旅行らしいが、酒臭い人 一人もおらず珍しく、質問も真面目な一団でした。

 代表的な質問として「正室愛姫歯何処に。お詣りできるか」「62石段の起点は」で、「愛姫は瑞厳点寺境内の陽徳院に寶華院なる御霊屋に祀られている。非公開です」と手持ち資料を提示しました。
 「62石段の起点は」は一周解散時に示しました。参拝に登る前にガイドして貰えればヨカッタのひと言頂きました。

 昨日、瑞厳寺を参拝、今日は瑞鳳殿参拝で満足の様子。本日の昼食は牛タンだそうで、此また楽しみらしく、足どり軽く降りて行きました。
 
 1月29日の日誌に「綱宗公の壺棺」と記載しました。H代表から「甕棺」(カメカン)と記載するのが適切であると、その意を付しての有り難いご指導を頂きました。早速修正しました。

 甕の字を一瞬 甍(イラカ)と誤認し、なぜか 50余年前の校友会歌を思い出しました。「緑の美酒の 酔深く羅綾の絹の 袖軽き巷を避けて 高く立つ古きいらかの 面影を偲べば胸に 誇りあり守れ○高 我等が母校 」 K・Y君 N・Y君と連想しました。メール待っています。



2 月 11 日 (土)  



 建国記念の日 祝日です。でも、所用ありガイドは休みました。



2 月 9 日 (木)  



 ブロクを検索していたら、1月の降雪の歳に参拝された関西の方、見事な写真を公開していました。

 本殿前の扉、除雪する人 あかとんぼが撮影したのでは「サマにならない」景が見事に表現されていました。参考になりました。




2 月 5 日 (日)  



 立春です。連日 今季最大の冷え込みと報じています。でも、老骨迄伝わる寒さは過ぎたようです。

 参拝者は、僅少です。寒さ故にじっくり聞きたい方、1組のみでした。
 遠方は香港でした。国内は千葉・東京でした。

 ループルバスで見えた方々、政宗公の御霊屋(お墓)とは 露知らずに登って来た為か、想定外の墓参りとなり落胆と寒気で尿意を覚えたのか「トイレは?」のお尋ねが何組もありました。

 お詣りをロクにしないで、資料館に急いで向かい、直ぐ出てくる方々のお尋ねは「トイレは?」です。資料館内にあると推測し、飛び込んだら無かった。「タイヘン」と飛び出して来るのです。

 じっくり聞きたい方々、都心部で働いているらしく、政宗公時代の江戸屋敷、以後の江戸屋敷の所在を手持ち資料の「絵図」「地図」を眺め 全員フムフムと理解されました。
 案内人は転勤で現在は仙台人とか、建築関係の仕事で2年連続「大崎八幡宮の裸参り」に参加したそうで、桃山様式の建築美・飛天も理解していました。

 建築関係の仕事とのことから、本殿の躯体材質から、「墓室の材質は「秋保石」とも云われています。石搬出の鉄道が走っていた時代もあります。旅館によっては、浴室から採石場の跡が遠望されます」と話したら「、これから秋保温泉です。楽しみが増えた よかった」と喜ばれました。

 尿意を覚えた人を救い、30分観光から 仙台での楽しみを延長させたことは 仙台の観光に幾ばくか寄与したのかなと自己満足。

 積雪と寒気で 香炉で線香を上げる方おりません。種火に手を翳すと温かです。線香1本も立っていないは淋しいので、あかとんぼ の家族数 立てて来ました。 





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