2006年3月の日誌
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3 月 30 日 (木)  



 夜明けから 猛烈な吹雪です。屋上は積雪で真っ白です。
 積雪があると早く目覚めます。昨日の質問の続きを思い出しました。

Q1.政宗公の亡くなるに至った病気は「噴門癌」と了知しているが、忠宗公・綱宗公の病名は何か。

A1..政宗公は「噴門癌」に腹膜炎を併発しています。記録によれば「正月頃より食べ物、飲み物を口に入れても、吐き戻すことが多く、胴回り3尺8寸5分〔1.17m〕}
とあります。
 忠宗公は、「チフス」です。胃癌説もあります。
 綱宗公は、「骨癌」です。白血病説もあります。

Q2.瑞鳳殿を参拝された藩主は、どこで乗り物から降りたか。62石段の東参道を駕篭で登ったのか。

A2.下馬石の標柱箇所で乗り物から降りたと推察しています。
その理由として、
1.下馬と規則を発した本人が規則に違反出来ないと思います。
2.乗り物は駕篭か騎馬か いずれを用いたか不明ですが、東参道を駕篭が直に登ることは、担ぐ人・乗る人共に、態勢に無理があります。金比羅さんの駕篭の様に横向きでは登る事はしないでしょう。
3.東参道途中に、手洗所跡があります。此処で清める習わしであれば、当然 徒歩で登ったとなります。

オマケ
 歴代の殿様が何回 お詣りしたか。現在の感覚であれば、正月2日の拝礼式と命日になります。彼岸にもお詣りしたのか。でも、正月2日はお城で年賀の挨拶を受けるため外出出来たか。当然在国中でなければ出来ないから 回数は少ないのでは。
 
 乗り物は、騎馬か。駕篭か。当初は騎馬で、ある時代から駕篭になったのではないでしょうか。乗り物の歴史を調べなくては。 



3 月 29 日 (水)  



 臥龍梅もふくらみ始めました。でも、寒気が1月迄戻り、激しく風花が舞いました。

 ボランティア通訳の会の皆様に加わり、150分勉強しました。既に外国人を案内した経験者で、政宗公の病名は何であるか、先刻ご承知で。この箇所では日本語での表現は☆☆☆であり、英語では★★★と表現をするとテキストを作成している方々でした。瑞鳳殿に 日文と英文のパンフを用意して配布して頂きました。

 この自作テキストの確認の意味あいもあって、通常のガイドでは問われない質問の連発で、緊張の150分てした。
 出発はループルバス停車場。参道の入り口からです。主な質問を列記します。

Q1. 下馬石は昔 下にありました。と昔の写真を提示しました。写真には鬱蒼たる森が写っているが、現在は後退しているのは何故か。

A1. 森林が後退した訳はわかりません。戦後の税金が関係していると思います。瑞鳳殿地区は現在仙台市の所有で、仙台市の三史跡公園の一つとなっています。
 補足
  下馬石があったのははバス停より、参道に入った位置です。現在バス停付近 は1936年刊行地番入り地図によれば瑞鳳寺前丁と宅地の表示になっています。

Q2. この石塔は何か。
A2. 仙台市制88周年記念で設置された88本の旧町名表示の辻標とです。瑞鳳寺前丁(門前町)と霊屋下(霊屋警備の御小人衆居住)と表示・説明が刻まれています。
  
Q3. 登り坂 昔はショボクレタ石段であった筈。いつ改修したのか。
A3. 現在の石畳は確かに新しいです。地形からショボクレタかは、別として石段であったと思いますが、わかりません。調べてみます。
私のガイドは2001年からです。以前については資料で確認するのみです。資料に出ないこの様な事 教えて頂ければ有り難いです。

Q4. 鹿児島県人墓地の奥にある自然石を二分した形の石塔、伊達氏家臣有力者の墓地とは理解したが、何故この形で、何処が産地であるか。

A4. 何故この形で、何処が産地であるかは わかりません。石加工技術の進化と関係があると思います。伊達氏家臣団の墓地を拝見するに、加工成形したもの、この卵を二分した形とあります。墓碑の年月から分類するのも一つの方法と思います。
  瑞鳳殿等の為の瑞鳳寺の境内に 墓地建立を許された家臣はいつの年代で 何故かは 調べておりませんのでわかりません。いずれ調べてみます。

Q5. 瑞鳳殿・感仙殿の寶筺印塔の方々のお墓が瑞鳳寺境内にあると聞いてい るが、何処か。
A5. 瑞鳳殿・感仙殿の寶筺印塔の方々のお墓は 各人のお寺にあると聞いています。瑞鳳寺境内にあると聞いていません。私が調べた限りでは発見 していません。

Q6. 瑞鳳殿と瑞鳳寺と瑞厳寺の関係は。
A6. 瑞厳寺は 菩提寺と理解しています。政宗公の戒名はは「瑞厳寺殿貞山大禅利大居士」です。ご理解頂けると思います。
  瑞鳳寺は 瑞鳳殿が建立された事により創建されたお寺でありましたが、明治初頭に廃寺になり 大正年間に再興されたお寺です。

  政宗公の回忌法要には瑞厳寺の和尚様はじめ瑞鳳寺や伊達家関係お寺の和尚様が読経供養をされます。昔の様な経済的関係は別として、御縁は続いていると見ています。

Q7. 政宗公は座棺か寝棺か。
A7. 座棺です。桶です。ガイドの際 棺桶と棺箱と区別し表現しています。

Q8. 牡蠣灰は江戸で調達したのか。
A8. 何処で調達したか迄調べておりませんでした。わかりません。
    政宗公は卯刻(午前6時頃)に亡くなり 戌刻(午後8時頃)江戸を出発しています。1636年当時の江戸で 14時間と限られた時間内で、殿様用の棺桶と詰め物(水銀・石灰・塩)が調達出来る物流システムがあったのか。疑問です。わかりません。

Q9. 感仙殿・善應殿の扁額の文字は誰の作か。
A9. わかりません。瑞鳳殿は「佐々木文山」と「忠宗公」です。
   補足
   瑞鳳殿学芸員にお尋ねしましたが 「わからない」との答えでした。HP「扁額」を作成の際 調べたが不明で今日に至っています。

Q10.公子公女廟で、墓碑が数あるが政宗公以来の子供の墓か。本当に祀られているのか。大小の違いの起因は何か。偉い人と区別があるのか。

A10.五代吉村公以来 歴代藩主の幼くして亡くなった.公子公女の墓地で、側室と侍女のもあります。公子公女のものは墓碑に灯籠とセットになっています。石塔の大小の違いの起因はわかりません。幼くして亡くなった人々ですから、偉い人と云う区別は無いと思います。

Q11.政宗公の側室は何人で、子供何人か。
A11.7人で、外に遣欧使派遣の切っ掛けとなった白人女性がいたとの説もあります。11男4女の子宝に恵まれたと記録されています。

Q12.忠宗公を二男と標記しているが、愛姫との長男でないのか。
A12.その通り 政宗と愛姫との長男です。政宗からみれば二男です。長男秀宗 は側室(飯坂局)の子で宇和島10万石の藩主になりました。

Q13.拝殿の釘隠しの彫金は 家紋とも異なるが何を表現しているのか。鐘憬閣 にも同様のものがあった。伊達家特有のものではないか。

A13.わかりません。現在の拝殿は復元されたものではなく、現在仕様です。一本杉から移築した鐘憬閣にあるのであれば、伊達家特有のものかも知れませんが、私にはわかりません。

Q14.感仙殿・善應殿の意味を外人に聞かれ答えれなかった。意味と命名した人は誰ですか。

A15.創建した殿様が命名したと思いますが、意味と命名した人を確認していません。わかりません。
 瑞鳳殿は忠宗公と云われています。その意味の解説書に行き当たっていません。私見ですが、「目出度い大きい雄の住む宮殿」と直訳し、政宗公の生涯・終の棲家を、この三文字でズバリ表現していると思っています。

質疑として主なものは以上がありました。本日は迫力ありました。

事務所から寿司弁当を賜りました。ご馳走様でした。



3 月 26 日 (日)  



 曇で温かくない日和です。臥龍梅の蕾は依然として固いです。

 義務教育は春休みに入ったので、世代間交流でお出でになるかと予測しましたが、人事異動・引っ越しの準備で忙しいのか、予測が外れました。

 熊本からの旅行社風の男女。「ガイドブックでの瑞鳳殿はサモないと見たが、実際参拝して豪壮・豪華には驚いた。熊本城の復元等に市民に寄付を募っているが、思うように集まらない。旧伊達領の人々の寄付で、この様に立派に復元されたとは羨ましい」と洩らしていました。

 朝一番の方、善應殿迄ガイドしました。「単独参拝はゆっくり拝観でき、解説がついたので最高」と洩らされました。
 「津軽から来ましたが、津軽の殿様 ミイラとなりお寺に安置されていたら、酸化して真っ黒になってしました。醜い姿を曝しておけないと火葬にしてしまった」とポロリ。初めて聞いた話です。

 東京・埼玉・福井・名古屋と各地からお出で頂き、熱心に聴いて頂き、久々に拍手を頂き嬉しくなりました。

 腰のシヤンと伸びた高齢の女性。ガイド中の一行に紛れ込み、話中に質問をして何回と無く話の腰を折ります。腰の曲がった人に、話の腰を折られるは諦めます。「腰痛を抱えた高齢の素人ボラガイドです。コシをおらないで頂けませか」とお願いしました。

 メモ
 熊本城
 1607年加藤清正が完成。加藤家改易により、1632年から細川家が入城する。米軍の空襲で焼失し、天守閣は1960年に復元されました。
 熊本城の復元とは、http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=468をご覧ください。

 ミイラになった殿様
 津軽承祐です。十二代目を嘱望されていたが、十八歳にて病死。1954年8月3日に墓地移転に伴い発掘された。茶殻の詰め込まれた座棺の中で生前に近い形で納められていた。発掘後、徐々に腐敗が始まったため、永久保存処理を施して安置されていたが、1995年5月20日津軽家の要請により、火葬に付し墓地に収められた。



3 月 19 日 (日)  



 温暖な天候です。でも臥龍梅の蕾は未だ硬いです。それ故か 人出は予想外です。

 「政宗公はなにどし生まれか。独眼龍と言われたからには龍(辰)か。仙台の誰も知らない。守り本尊の神社も無い。」と熟年男性から非難めいた調子で語りかけられました。

 「知りません。勉強します」とH代表とともに、答え、熟年男性でも干支に拘る人がいると、顔を見合わせました。

 政宗公は永禄10年(1567年)8月3日米沢城で生まれました。この年の干支は丁です。辰ではありませんでした。独眼龍の由来は別にあると聞いています。確認の上記載します。

 庄内からの3嬢をプレートからガイドしました。寶筺印塔のガイドで「一番若い人は、22歳。現在の数え方 満年齢で20歳と?月です」途端に「オナジー」の発声には驚きました。女性の年齢は見当つきません。予測は外れます。

 「政宗公の身長は幾らですか」「お嬢さんの身長は?」「160です」「同じです。正確には159.5です」「ワォー」

 拝殿と唐門との間の広場には 拝殿の礎石と寄進灯籠の基部石が保存されています。右手前「石川民部大輔 源宗昭」 『昭光 角田 一門』の寄進灯籠跡の基部石の穴にドングリが貯められていました。当然、なぜ・どうしての質問です。

 石の正体をガイドした後、「此処にはドングリの木があり、栗鼠が居住しています。このドングリは栗鼠が貯めたのか、子供が集めたのかな?」と答えました。
 目線が意外な所に飛んだには 感心しました。若さでしょうか。

 知的女性から、「御霊屋橋・御霊屋下の名称が散見される。パンフの住居表示では御霊屋下になっているが、ここは御霊屋ではないか。そのものなのに、なぜ下になるのか。可笑しいではないか」と 普段あかとんぼが唱えている通りのご発言を頂きました。誠に心強い発言です。仙台市長に直言して欲しいです。

 涅槃門の透かし彫りをガイドした際、「どうして裏表 異なる画面が彫られたのですか。その意味は何ですか」と問われました。同じ画面では面白くないから 異なるものにしたのかな と思いますが 確証ありません。「わかりません」と答えました。

 日光・東照宮の鳴龍で有名な本地堂の欄間の透かし彫りは、豪壮なものでした。鳴龍の説明はあっても、透かし彫りの説明は無く、気がつかないで通り過ぎる人が全てした。ああー残念な人が多いと思い、じっくり拝見してきましたが、なぜ表裏が異なるのか 質問しませんでした。今日の質問で、教えて貰ってくればよかったと反省しました。



3 月 16 日 (木)  



 自己研修せねばと、日光東照宮を参拝しました。
 訪れる都度、徳川将軍家と伊達家の財政規模の差を痛感させられます。

 瑞鳳殿本殿を訪れた方の中に、廟所墳墓は別に存在し、単なる礼拝所と理解し発言なさる方がいます。其の様な思慮に至る起因は数々あるでしょう。

 その起因の一つに、家康は神となり、東照大権現となりました。神社に祀られています。廟所は御寶塔として、更に奥にあります。

 演義には、1616年4月17日逝去後、直ちに久能山に神葬し、遺言により1年後、遺骸は日光に奉鎮され、木造から15m高の巨大石造の寶塔となり、1683年の地震で崩壊し、高さ5m余、8角9段の石段に唐銅製の現在の寶塔になった旨記載ありました。

 では、墓室はどの位置ににあって、構造はどうなって、どの様に埋葬されているのか。さて、久能山にも御寶塔があったが、中はどうなっているのか等を思案しながら眺めていました。

 突然、女子大生風の一行が「アッ ここが家康のお墓? どこで火葬したのかな?中はどんな風なのかな?発掘しないのかな」誠に喧噪・百家争鳴であります。

 つい、伊達・瑞鳳殿ではと語ってしまいました。

 一行の発言 「発掘しないのかな」には驚きです。死後の世界を暴くは冒涜ではないでしょうか。自身の問題としてされたらイヤではないでしょうか。 ひっとして、○○大学ピラミット発掘学部の学生でしょうか。

 瑞鳳殿等の発掘調査の責任者は、精神的面での抵抗・苦労があったと語っていました。「あの娘達 簡単に言うが精神的面での抵抗無いのか」と洩らしたら、「貴方は間近な人、あの娘達は 60年後の問題、この時差の相違ネ」と聞いていた人が洩らしていました。ナルホド



3 月 14 日 (火)  



 昨晩 L先輩からのご指摘ありました事項について、修正致しました。

1.05.10.12.日誌 石母田家の家禄 1桁不足とご指摘ありました。次の様に修正しました。

 「知行も2000石(200貫)に始まり、最終的に5000石(500貫)。歴代 奉行職を務めています。」
 伊達家の知行は、領内は重量制の「貫文」を、対外は容量の「」を用いていました。これを混同標記したことにありました。併記致しました。 

 資料は「本田勇編著 仙台伊達氏家臣団事典」によりました。

2.05.07.26.日誌 大崎八幡宮国宝指定年月日は正しいかとのご指摘ありました。

 「大崎八幡宮は、政宗公が1602年に遷宮し、1604年に社殿の造営を始め、1607年8月に落成したものです。壮麗な社殿は、我が国最古の桃山様式権現造りで、1952年に國寶に指定されています。」

 記載に誤りありません。1952年に建築分野で國寶指定を得ています。
 文化財保護の指定経緯は
 1903.04.15.内務省告示により特別保護建造物に指定
 1950.    文化財保護法施行により重要文化財となる
 1952.11.22.文化財保護委員会告示より 社殿・棟札が國寶に指定。

 資料は「大崎八幡宮刊行 國寶大崎八幡宮」によりました。

 なお、瑞鳳殿は1931年に國寶に指定され、1945年07月10日の仙台大空襲で被災焼失により指定解除になっています。

3.月日不詳 「唐門」があったとの記述があったが、本当ですかのお尋ねがありました。

 本当です。瑞鳳殿本殿前の「青海波」の門の位置にありました。

 資料は「財団法人瑞鳳殿刊行 瑞鳳殿発掘調査報告書(略記)」です。この図書180頁に図面、12頁に写真が掲載されています。これによりました。

 L先輩 丹念にお読み頂き ご指摘頂きまして 読返し勉強になりました。ありがとうございました。
 皆様も ご指摘ください。お待ち致しております。
 



3 月 13 日 (月)  



 朝 積雪で真っ白。午前一杯風花が舞っていました。

 観光ボラガイド「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会が開かれ、寒さにめげない人々30人が参加しました。講師はH代表で、「伊達政宗と正宗・まさ宗・まさ」と題して、100分講義しました。

 内容は
 瑞鳳殿登り口の瑞鳳寺の山門扁額は「正宗山瑞鳳寺」とあり、寺の解説によれば、因に正宗山は政宗公若年時「正宗」と称したものを山号とした とあるが果たして、本当であろうか。

 仙台市史 資料編 伊達政宗文書によれば、4,000点を超える文書が収録されている。家康は生涯で3,000点と云われ、政宗公は桁外れである。

 「政宗」の署名は公文書に。
 「正宗」の署名は側近や重臣宛の書状の私文書。例えば片倉小十郎景綱宛てた私文書では「正宗」です。
 「まさ宗」 「まさ」は女性宛てに
と署名を使い分けているようだ。

 慶長5年34歳の時も、慶長19年48歳、元和2年50歳、元和8年56歳、寛永2年59歳の時も「正宗」と署名しており、若年時「正宗」と称したの表現は正解と云えるのでしょうかな。でした。

 併せて、署名の際の官職名の変化、例えば当初は「左京大夫」、秀吉時代は「羽柴大崎少将政宗」と、徳川時代は「松平陸奥政宗」と、晩年は中納言となったので、『陸奥黄門』とも名乗り、記していましたという 講話もありました。

 なぜ 中納言は黄門なのか。「黄門は律令制の官職である中納言の唐名、中国風の呼び方です」と、質問が出る前に解説がありました。

 最近 水戸黄門に 会津黄門と 巷間を賑わしています。陸奥黄門 政宗公はクシャミされているのでは?。

 ブログ等での瑞鳳殿参拝感想を拝見していると、瑞鳳殿を「瑞宝殿」と記す方がママいますが、「正宗」と記している方 数多くいます。絶対的誤りでないにしろ、気になるところです。転換誤りを気づいていないのです。

 かくなる あかとんぼ も暫し 誤転記を致し、H代表 L先輩(前回までI先輩と記載していました。Iを見落とされますのでLと改定しました)から、其の都度 ご指摘頂いています。他人を批判できません。只今もL先輩から有線が入りました。感謝です。みなさまも お気づきなりましたら 気軽に指摘をお願い致します。

 本日で今年度13回の勉強会が終了しました。今年度は全13回欠席なく精勤賞です。来年度は4月24日が第1回目です。来年度も精勤なるか?

 メモ
「正宗山瑞鳳寺」は ショウシュウザン ズイホウジ と読みます。



3 月 12 日 (日)  



 時々小雨の曇りのお天気です。
 啓蟄も過ぎ、昨日の温暖な天候故か 切れ間無く沢山の方々が参拝に見えました。南は沖縄、北は北海道からと全国各地から。

 北海道からの一団、「伊達家と関係ない地で、再建時には寄付していません」と申され乍ら賑やかにも真剣に聞いてくれました。最後に「又来ます、みなさん このオジサンの顔忘れないようにして、ガイドお願いしなさい。オジサン生きていてネ」と一団の頭は奇想天外な激励をしてくれました。

 最近静岡からの方々が多いです。今日も静岡からのご婦人の団体が見えました。久能山東照宮に、三保の松原(天女伝説)を引用しながらガイドしました。感想として「帰ったら 早速 久能山東照宮をお詣りしなくては。ガイドお願い出来ます」 それ程 喜んで頂けるとは歓涙です。 

 ライオンズクラブのバッチした男女10人程、内お一人、「仙台空襲を知っています。秋保温泉から仙台市内が延焼する火煙を見ました。学童疎開でした」と涅槃門で洩らされました。あかとんぼ と同年輩か やや年上です。それで現役の経営者としてライオンズクラブのメンバー。羨ましい。

 涅槃門の用材に、「白檀が使われていた」とガイドしたら、「空襲火災の際の芳香いかばかりであったろう」と返ってきました。果たして どうであったでしょうか。

 3月10日の東京大空襲の被災関係か、「本殿屋根の被災 八龍頭の行く末は、瑞鳳殿全体の焼失前の様子は」等のお尋ねがありました。 瑞鳳殿全体の焼失前の様子は、手持ち資料をご覧頂きました。

 最後に全員で「どうもありがとう」と一礼されました。人生 成功する人の心がけでしょうか。さすがです。慌てて二礼の返礼をしました。

 財団法人瑞鳳殿では ボラガイド養成講座の受講生募集を始めましたと10日日誌に記載しました。早速応募が5人あったそうです。講師は誰か確認の電話もあったそうで、講師は、「ぐるーぷ・よっこより」H代表だそうです。
 
 財団法人瑞鳳殿の04年度年次報告書が先に発行され、割譲をお願いしていたところ本日頂きました。「ぐるーぷ・よっこより」の活動も記録されていました。

補足 
 本殿屋根の被災 八龍頭の行く末は。
 阿吽一対で 本瑞鳳殿と瑞鳳寺、松島町博物館に安置されています。今一対は空襲火災の際、昇天したと伝えられています。
 青銅製の龍が昇天する筈がない と反論があります。之には偉人の御霊屋では凡人では考えられない事がおきるらしいです と返事しています。真相は闇の中です。なにしろ闇夜の火災でしたから。 



3 月 10 日 (金)  



 啓蟄 虫は未だですが、御高齢のご婦人 ベンチに腰掛け 半年振りの再会を喜び合っていました。

 これからは、参拝の方々の長蛇の列が楽しみです。其の割にボラガイドの数が不足しています。勉強会に参加しても 実践に移す人は皆無です。誘ってはいますが なかなか踏み切っては頂けません。

 財団法人瑞鳳殿では 直接 ガイド養成に着手しました。本日地元紙夕刊で 養成講座受講生募集を始めました。

 4月の5・12・19・26の水曜日10時30分からの4回講座だそうです。
 022−262−6250まで 電話で申込してください。

 結果として、私らの仲間が増えるのか、それとも 我々が立入禁止になるのか。



3 月 5 日 (日)  



 春を感ずる陽気です。境内には残雪が依然としてあります。啓蟄 

 ループルバス利用のグループ旅行が目立ちました。

 昨日 松島瑞厳寺を参拝された方 多々おられました。それらの方々は「正室愛姫の御霊屋「寶華殿」が瑞厳寺隣「陽徳院」境内にあったとは知らなかった。残念。お詣りしたかった」と洩らされます。

 「でも、非公開ですから参拝できません」と話すと、ガッカリした表情とホットした表情が見られます。

 「ぐるーぷ・よっこより」の研修で特別に参拝を許された際の写真(手持ち資料)をお見せすると、一様に喜ばれ 満足の表情になります。あかとんぼも安堵します。

 芭蕉の「奥の細道」を足で確かめていると語る成年女性二人。昨日、名取から仙台の城下に入り「亀岡八幡」を参拝され、仙台城に大手門から本丸に登城し、清水門を抜け、三の丸に下ったそうです。健脚です。

 「亀岡八幡宮」を参拝されたとのことに、「大崎八幡宮」の間違いではと確認したところ、松尾芭蕉の足跡を辿っていますとの返事に納得。「石段には昔日の面影は残っていますが、本殿は戦災で焼失し、完全に復元されていません」と申したら 「ハイ仮宮でした。どうして再興しないのですか」と問われました。

 地元氏子以外の参拝は少ないとみています。此の方々は ご奇特な方です。
 仙台の城下を開いた経過を語る際には 必ず話題になりますが、それ以外には忘れられた存在の「歴史的価値のある神社」です。どうして再興しないのでしょうか。あかとんぼ も不思議です。

 曽良随行日記によれば「天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。」とあり、翌日は「快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮(仙台東照宮)を拝、・・・」とあります。

 芭蕉一行が参拝した記録の無い「瑞鳳殿」をお詣りしてくれたは有り難いことです。「大崎八幡宮」をお詣りしようか悩んでいました。

 今晩東京に帰り、次回は仙台東照宮・薬師堂、いにしえの国分寺の跡・岩切を経由し多賀城・塩竃を目指すそうです。全部廻りきりのは何年後でしょうか。

 観光パンフ等の説明 圧縮する故か「瑞鳳殿 伊達家三代の御霊屋」と記載されていることがあります。これを読み、自分の家の「○○家累代墓」と同じと感じた方が居ります。それが、「此処は政宗公お一人、二代忠宗公は感仙殿、三代綱宗公は善應殿と別です」と説明したら、一人一墓どビックリしていた方がおりました。 

 熟女5人組。リックを背負い、口も足も達者です。「ガイドしてくださる。タダですヨネ」誠に堅実です。「ハイ、ガイド聞いて頂いてもタダです。お金差し上げられません」と返事したら悦び笑いコケテいました。
 





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