2006年6月の日誌
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6 月 29 日 (木)  



 あかとんぼ ものの見方 硬直化してきたな もう少し 柔軟な発想が必要と痛感しました。

 事例1
 「本殿の構図は極楽になっています」と説明し、北山のお寺で模写した「当麻曼茶羅」「毛縫曼茶羅」を見て頂くことがあります。特に「毛縫曼茶羅」は1692年に信徒の毛髪で作られたもので、その旨説明します。

 「昔ですから 当然白黒で、現在ならカラーでしょう」と付言する事もあります。茶色に栗毛色と染めた方が沢山ですから、概ね 素直に理解してくれます。

 あるご婦人から「どこの毛ですか」と大きい声での質問を受けました。あかとんぼは目がテンになりました。
 
 人体で発毛個所は三個所ありますが、曼茶羅を縫える長さの毛は頭髪。頭髪以外は発想にありませんでした。
 この方、染色は頭髪以外にも出来る。極楽を味わっている体毛はどこか。私なら・・・・の発想で質問されたのか。

 事例2
 政宗公の墓室の説明で「・・・石室で、畳一畳代(内法1.82m 幅1.18m 高1.14m)です。其の中に棺箱ではなく、棺桶に・・・」とします。
 棺桶と断れば、通常は大きさ、素材等を理解しておりますから、よどみなく説明が続けられます。

 あるご婦人から「桶に立たせて入れるのですね」と云われました。この時は私も周囲もハッという空気が流れました。

 高さ2メートルの桶は味噌・酒等の醸造用の特殊なものだと思います。身長160pを入れる直径1メートル位の桶は容易に作れないと思います。又、日本の桶は縦置きに作られています。墓室の高さも説明しています。

 棺桶を横置きしなければなりません。この方 ニッカ工場を見学しての発想でしょうか。

 以上は、最近のガイド中に あかとんぼの思考の硬直を感じました事例です。
 



6 月 28 日 (水)  



 真夏日です。暑いです。

 宮城県社会福祉協議会運営 いきいき学園登米栗原校の受講生企画の移動教室が瑞鳳殿参拝にお出でなりました。
 約束の時刻より20分早く到着し、終わりは約束の時刻でよいとのこと。又参加者は60代前半の足腰に故障の無い方々で移動は迅速です。
 1時間55分 たっぷり参拝・見学されました。

 再建寄付芳名板に一番に案内しました。今回は伊達領内の人々ですからです。些か懸念したのは、佐沼からの参加者がいた事です。それは、秀吉の奥州仕置きの結果、佐沼城を中心に葛西・大崎一揆が起き、蒲生氏郷指揮下 1591年の鎮圧の際に、撫で斬りが行われました。犠牲者の「首壇」が現在も残っています。

 415年前の出来事に、なにのシコリの発言があればを懸念しました。しかし、さすが大人です。その様な発言は無く、自己の町村名があるか、寄付額が他町村と比較して多少か、の発言で賑やかになりました。ホッとしました。

 涅槃門と拝殿の間の石塔を見て「これはなんだ」のご質問。「伊達家の重臣が寄進したものです」と上から氏名・領地・格式を説明しました。
 左最上部「白石刑部大輔宗貞 登米・伊達 一門」
 右最上部「石母田大膳亮宗頼 岩ヶ崎 一家」
 次は「亘理伯耆守宗根 佐沼 一家」・・・
「白石刑部・登米・一門」で大きい歓声「ウチノ殿様だ」  「亘理伯耆守・佐沼 一家」では小さい歓声。
 一門と一家 仙台城での序列の上下。これを気にしての反応でしょうか。殿様の序列と今の生活は無関係ながら やはり・・・・

 入り口の案内板で、狩野安信描く肖像が見て、「これ政宗の顔か」の厳しい発言がありました。本殿前で 頭骨を主体に復元された顔像等を示しました。「ホー 伊達男ー」とヤット納得されました。安心しました。

 本殿前で 「此処は極楽です。皆様のお寺でも極楽絵図ご覧なるでしょう おなじでしょう」に、「いや ウチラでは地獄絵図だけです」「間引きすれば閻魔様に怒られる あの絵図ですか」「ハイ」「それでは ここは楽しく生きましょう」

 「ハー この極楽を背景に 天女さんと現代の天女さん等と一緒の記念写真を撮りましょう」  現代の天女さん等の満足は、10分たらずで破られました。

 続いての資料館を出て、本殿をふり返ったら、極彩色の派手な色で、更々した布地の民族衣装を纏った豊満な姿態の東南亜細亜系の青春溌剌の乙女数人が参拝していました。

 まさに 壁面の天女さんが舞い降りた感じです。生身となると強烈に迫力があります。 体を動かす都度、・・・・・想像してください・・・

 ジジババ 「之が極楽か 極楽の再現」と ビックリ 目を三角に、一同 シーン  ゴクリ。目の毒です。さー 皆さん 次にイキマスー。

 受講生から 「次の見学個所 仙台城・大崎八幡宮もガイドしてくれるのか」のお声を頂きました。ご依頼があれば喜んでと返事しました。



6 月 27 日 (火)  



 梅雨の中休みです。暑くなりました。

 塩竃市の「楽しいシニア塾」の「伊達家ゆかりの地巡りの旅」にH代表と参加しました。訪れたのは瑞鳳殿・良覚院庭園・大崎八幡宮・輪王寺・資福寺です。

 仙台大空襲経験者もいる元気なシニアの方々です。車で1時間で訪れられる所にお住いですが、若い人々から独立しており、運転も出来なく、初めて訪れたと喜んで頂きました。

 9時30分の出発から16時の解散までの長時間退屈しないで、しっかりガイドを聞くようにとクイズを「お八つ」袋に入れていました。皆さん 意外な質問をなさるなと思っていたら、種はこれでした。味な事をする世話人です。

 塾の世話人は、若いのに、福祉関係の免許皆伝とか、面倒見がよい娘(ヒト)で、NPOシニアネット仙台で写経の講座を開講しており、あかとんぼがシニァネット仙台に頻繁に通っていた時の広報が効いて、今回 ガイドのご指名を頂いたものです。

クイズは、次のとおりです。
1.伊達政宗派どこで生まれたでしょうか。
2.政宗の幼少の名前は何でしょう。漢字で。
3.大崎八幡宮が建立された年は。
4.資福禅寺の別名は何寺でしょうか。
5.輪王寺は何宗のお寺でしょうか。

読者の皆様 答えはどうでしょう。

 輪王寺駐車場にMIYAKOと車体に大きく書いたバスが停まり、庭園を散策し、覚範寺の墓地を見学していました。添乗員嬢に声をかけたら、千葉から来ました。仙台での観光は ここ二寺と秋保大滝のみとの事。

 瑞鳳殿と仙台城を参拝・見学しなければ、仙台観光したと語れないのでは。添乗員嬢曰く 「そんなデッカイ目玉商品(観光対象)あったとは知らなかった」 アー悲しい。
 バスのMIYAKOの文字は転換すると宮交(宮城交通)では無く 都交でした。



6 月 25 日 (日)  



 完全梅雨です。高湿度です。

 参拝の方は、世界・国内各地から見えました。日本の敗退でサッカーは終わった、次は瑞鳳殿と注目されたのかなの感じです。嬉しいことです。

 「浪速の若いオバン」5人、賑やかです。かっての「かしまし娘」の漫才のようです。「ナニワからようこそ」に「ナンデワルノンヤ」と返ってきました。

 昨日 松島に行って来ましたの割に、話が合わなくなりました。アレーと思い確かめましたら、入場料不用の五大堂、安価ら観瀾亭と町立博物館は見てきました。拝観料の高い(?)瑞厳寺は参拝しなかったとの返事です。

 驚き・ビックリです。民謡「齋太郎節」でも語られている松島イコール瑞厳寺なのに、瑞厳寺を参拝しないのは、ステーキを食べに行って水を飲んだだけで帰って来たと同じではと思いました。

 町立博物館の感想として、「貴重な良い品が展示されているが、監視カメラも無く無防備なのに、心配だわ」と洩らしていました。
 
 本殿の天女さんと一緒の記念写真を撮り、ニコニコと去っていきました。入場料分 ペイしたのかナ。誠にしっかりした浪速の若いオバンです。


 札幌の白石区以外の札幌市民に、小樽市からと 連続数多く見えました。「どうして白石区なのか」と返ってきました。「ハイ 白石を開拓したのは、伊達家家臣片倉家家中の人々が 白石から移住し開拓し、村に成り町になり、遂に区になり、瑞鳳殿再建の際 ご寄付されたと聞いています。何かと御縁がありますのて。でも白石以外の人だからと説明の手抜きはしません」とガイドしました。

 伊達家関係の地が北海道各地にあるを知っており、熱心に聴いてくれ、質問もあり、気がついてら長時間になっていました。


 「駐車場があり、宮城県産品のお土産が揃っている店はどこでしょうか」と問われました。提示したのは3ケ店です。ドコドコでしょうか。


 18日日誌に記載した心配が24日の地元瓦版で表沙汰になりました。涅槃門の説明の際、年賀拝礼式の際の羽織袴裃に幟の写真を開いたら、記事を見たの反応がありました。誠に困ったことです。



6 月 21 日 (水)  



 白河の関跡と南湖まで、街道に興味を持つ仲間44人と行って参りました。

 現地官製ボラガイドにガイドして貰いました。主体は復元した小峰城だそうで、これを見学しないで街道と人工湖を依頼したので、小峰城見学を熱心に勧めていました。何々有名な松平定信の名前は出ても、当然、下記の様な伊達政宗・伊達家との関わりはひと言もありませんでした。

 政宗公は最後の参勤で、1636年4月20日(旧暦)に仙台を出発、23日矢吹の原で鷹狩りを。雲起・風色変・雷電夥しの天候激変の中で、白河に泊しています。そして、25日には、東照宮奥の院を参詣、転倒足指出血しています。

 白河の本陣が何処に合ったか。現在は何になっているか、話題にも説明もありませんでした。当然でしょう。歴史街道に興味があっても、此処まで求める人は少ないでしょう。別途挑戦します。

 南湖で、南湖の景を詠った詩の代表として「千世の堤 南風にゆるかぬ千世の堤こそ くにを守りのすがたなり 堀田摂津守正敦」と紹介されました。仙台からの一行ですが、それ以上はありませんでした。

 この方、三十一世六代宗村の側室坂氏の子で、1786年堅田・堀田正富の嗣となり、摂津守に任じられました。周宗公1796年4ケ月の乳幼児で九代に就任しており、七代未亡人観心院から、家政の寄託を受けています。

 1807年4月ロシアは択捉島に上陸し略奪暴行するに、堀田正敦は蝦夷地に行き、伊達家政補佐を松平定信に寄託されています。



6 月 18 日 (日)  



 梅雨なれど全国から参拝にみえます。

 「我は、九州龍造寺家の末裔」と自称する男女7人の一団。ツッコミが多いです。昨日は、徳川宗家18代当主が伊達家三十四世十八代当主のご案内で参拝されましたと告げましたら、一様・一斉に「ヘー」。

 龍造寺家は、鍋島家が1598年に豊臣政権から大名として承認され、歴史から消滅しています。この方々、何故鍋島家と云わずに九州龍造寺家の末裔と自称したのでしょうか。肥前國鍋島家領内には、未だ龍造寺家を慕うものが残っているのでしょうか。

 現在にも、徳川家、伊達家が連綿として続いて居ることに驚いた様です。

 「ガイドして」とあかとんぼ と同年配の三婦人から。涅槃門前から始めましたが、無反応・無表情で指視する方向を見ません。ハテナ 反応が全く無いのは話難いです。大学の先生になったつもりで 一方的にガイドを続けました。涅槃門の内側の説明になったら、一人が持参のノートにメモを始めました。

 一番興味持ちそうな本殿まで、途中を省略しました。仙台市若林・太白から見えたそうです。ノートに記録した方は、今度母を連れてくる準備と申しました。二人は依然として無反応・無表情です。どうしたのでしょう。どう対応しればよいのやら。

 「伊達家縁の者です。泰宗さんと親しいです。泰宗さんの名刺を持っています」と申されたご婦人がおりました。
 伊達家ゆかりで、ご当主と親しい関係にあれば 名刺を渡すのでしょうか。本当に親しい関係ならば、御当主がご案内すると思います。
 クワバラ クワバラ 逃げ出しました。

 最近、伊達藩志会の会員と称する三方の消息に接しました。
一人は、梁川伊達氏末裔と称する方、一人は「四ッ谷用水復元市民活動」の幹部、三人目は、昨日講演会の司会をされた白石宗靖さんです。ここ短時間で、会員の消息が非会員の耳に飛び込んで来たのと関係あるでしょうか、

 御城下の大店の方から「伊達藩志会は後継者問題で揺れ動いている」と聞きました。御当主が総裁を務めている会です。巷の噂は 噂で消えて欲しいです。騒ぎが本当となれば 平成の伊達騒動と揶揄されます。 

 本日、漆塗風の指刺棒三本持参し、H代表とテストしました。



6 月 17 日 (土)  



 「伊達政宗公没後370年記念」講演会に、徳川宗家十八代当主が来仙されました。

 宗家十八代とは、家康公から数えてで、宗家当主が伊達家領内に立ち入るのは、1591年に家康公が葛西大崎一揆鎮圧、岩出山築城に訪れ、現仙台東照宮の地で休息して以来との事です。

 司会から「徳川宗家が仙台の地を訪れたのは、家康以来415年振りです。本日は歴史的な日です」と紹介すると、会場に「オー」とどよめきが流れました。

 講演は「江戸265年の太平を支えた仕組みと心」と題し、治安が良かったので、女性が旅行できた。1843年筑前國の3人の主婦が5ケ月間3,200qの旅行をした記録がある。之は他国には 見られないことである。(徳川家の良治世の広報。否定はしません)

 2004年9月2日全国ボラガイド大会で、同氏の講演を聞きました。要旨は同じですが今回は、省略された部分がありました。04年9月2日の日誌をご覧下さい


 「詩人としての伊達政宗」と題して、漢詩の解釈日本一の石川忠久(タダヒサ)先生の講演もありました。

 戦国大名で、唯一、最高の詩人ですと、代表作8詞を紹介されました。
印象の残った詩を 記載します

 朝鮮之役、載一梅帰 栽之後園 詩以記
 絶海行軍帰国日
 鐵衣袖裡裏芳芽
 風流千古餘清操
 幾歳閖看異域花

 酔餘口號 其二
 四十年前少壮時
 功名聊復自私期
 老来不識干戈事
 只拍春風桃李巵

 徳川宗家十八代当主は縁の仙台東照宮に昇殿・参拝され、続いて伊達家当主の案内で、瑞鳳殿を訪れ敬意を表されました。その際、ガイド中のU先輩と親しく会話をされたそうです。速報がありました。 



6 月 11 日 (日)  



 本日のガイドは休みました。

 現役時代世話になった津軽の人々からの、下野街道・大内宿、会津喜多方豪商・甲斐家、上杉謙信廟所を案内して欲しいとの要望に応え、マイクロバスで昨・今日と共にしてきました。

 上杉家廟所、上杉神社では、ボラガイドが熱心・懸命に活躍していました。廟所での、最後の藩主であり、沖縄県令になった茂憲(モチノリ)の治績の説明゙は参考になりました。茂憲の治績が最近発表され興味をもっていた

 あかとんぼ 自身のガイドの反省点として、次項を感じました。

1.質問に対して、簡潔・迅速に答えているかです。答え方として、結論・概略・詳細の順で答えているか。いつ 答えが出てくるのかヤキモキさせる様な答え方していないかです。

2.ガイドに、自ら酔って、講釈師の様なガイドをしていないかです。ガイドする際、知識を誇示し、饒舌に陥っていないかです。

メモ
 上杉家霊屋の特徴

 「流造」「入母屋造」と「寶形造」と三種類で、何れも簡素で何らの装飾がない。

 「流造」は、上杉謙信を祀ったもので、1872年築。

 「入母屋造」は、米沢上杉家初代景勝から九代重定迄で、灰塵・冠服を葬り廟とし、遺骨は紀州高野山清浄心院に納めたそうで、実質 灰塚か。

 「寶形造」は、十代冶憲(鷹山)公以後で、材質 樅 の棺桶で、土葬だそうです。
 ガイド氏に確認したところ、土に帰る方式だそうです。伊達家三廟の如く 石室を設けておらず、また、牡蠣灰等も詰めて居ないことです。
 となると、土に帰った時以後、陥没、倒壊の問題発生の心配がありますが、そこまでは確認しませんでした。 



6 月 7 日 (水)  



 本日地元紙朝刊は、「財・瑞鳳殿は感仙殿と善應殿の塗り替え工事に着手する」と報じています。
 
 工事内容は、
1.表面の漆を塗り替える。
2.欄間の彫刻、軒下の装飾部分は、カビが生えたり色あせが進んでいるため、表面を削って塗り直し、汚れを落とし補筆する。
3.飾り金細工は化粧直しする。
4.再建時は焼失時のあせた彩色に復元したが、今回は史実に基づき創建時の極彩色を再現する。

 費用は5000万円。積立金で賄う。
 明日8日 安全祈願を行い、来年3月完成。

 加藤寛学芸員は「改修後、全廟所は創建当時の姿に近づく」
その内容は、以上のとおりです。

 昨年7月25日の事務局長とH代表との懇談の席で「1.感仙殿・善應殿が剥離している等の状態を、2007年までに再建時(創建時では無い)の状態迄戻すを目途に調査に入ります。」の発表がありました。

 いよいよ 実行する訳です。あかとんぼ としては、装飾等全て 瑞鳳殿同様 国宝に指定時(創建時)の姿に 復元を希望しています。心配は、瑞鳳殿の補修経費は1億円余と聞いています。今回は二廟で半額です。一廟当たり4分の1です。何処まで、創建当時の姿に近づく工事が可能かです。でも 化粧直しは必要に迫られています。工事を歓迎します。



6 月 4 日 (日)  



 三代藩主綱宗公の296遠年忌法要が、御霊屋「善應殿」において、18代御当主を筆頭に殉死者末裔代表等の伊達家関係者参列、導師瑞鳳寺住職様始め三僧侶の読経で法要がおこなわれました。

 善應殿の前方南側にあります「無縫塔」(ムホウトウ)にも読経・拝礼がありました。

 事務所では、今年も法要の栞を配布しました。芸術家としての綱宗公を紹介しており、295遠年忌栞には『花鳥繪図屏風』(仙台市博物館所蔵)を、今年296遠年忌栞には『霊昭女・牡丹・芙蓉図』と『花鳥繪図屏風』(右隻) (仙台市博物館所蔵)が記載されました。

 栞の繪は白黒印刷ですが、当時一流の画家であった幕府奥絵師の狩野探幽や常信を招いて修練したと伝えられており、何れの繪も あかとんぼ の目では 素人の域を脱したものであります。繪を理解する人には最高のお土産になる栞です。

 瑞鳳殿は例外で開帳される機会がママありますが、御霊屋「善應殿」はこの日のみです。本日は終日開扉するとのことでした。
 法要が終わるのを待って参拝された方 綱宗公との直々の拝謁に大変喜んでいました。

 感仙殿前に立って「只今、三代藩主綱宗公の296遠年忌法要が行われてすます」と申し上げても、「誰のお葬式ですか」「親族一同ですか」「なぜ見せないのか、中に入れないのか」等の声がありました。
 自分の日々の生活を物差しに判断します、まさか296遠年忌法要とは想像外でしょう。

 「なぜ見せないのか、中に入れないのか」のご不満は高学年の孫がいる年代の方です。この方は自分の祖先の法要で僧侶の読経中に、無関係者の侵入を歓迎するでしょうか。

 法要の為 善應殿迄 歩を進められないでいた時、こんな会話になりました。「何れからですか」「ハイ会津若松から」「では 弔魂碑 参拝されて来ましたネ」「ハー」「コレコレです」「フー 我が家の菩提寺は葦名氏が創建したもので、政宗に焼かれた。それがナンデ・・・」

 善應殿のお詣りが終わったら「ガイドさん 弔魂碑 お詣りに参ります。ありがとう」と一行の方々を引き連れて行きました。

 葦名攻めは1589年です。417年前の出来事です。被害者に意識は残っても深刻では無いようです。なぜならば、瑞鳳殿は何か判ってお詣りしています。138年前の出来事では同志と理解していました。 

 法要の引き出物 菓子折をガイド終了後 頂きました。「御仏前」を包まないで頂き恐縮です。

メモ
1. 「無縫塔」(ムホウトウ)
 1711年に綱宗公が没しました。殉死禁止から48年を経過しています。近習頭の熊谷直清が出家し「渓叟」と号し、御霊屋近くの庵にて菩提を弔い、1733年71歳で没し、本地に埋葬されました。
 本稿は瑞鳳殿公式HP「瑞鳳殿質問箱瑞鳳殿D-14」によりました。

2.弔魂碑
 1868年戊辰の役で、伊達家家臣1260余名が亡くなりました。この人々の霊を弔う為に 1877年10月に14代当主伊達宗基(ムネモト)と旧重臣が、瑞鳳殿鐘楼址の石積基壇の上に方尖塔(神殿等の前に建てる記念碑)を建てました。
 地上総高約4.5メートル 鉄製 角切入り 「魂」が 云と鬼と上下に記載されています。珍しい構造・表現になっています。
 本稿は瑞鳳殿公式HP「瑞鳳殿質問箱瑞鳳殿D-15」によりました。

3.「コレコレです」
 1868年戊辰の役で、奥羽列藩同盟の同志として会津松平家は戦い、白虎隊等の悲劇を味わいました。138年前に共に戦った仲間として、会津の方々は お詣りします。コレコレの要旨です。

4.今回を機会に、祭壇の花立ては花筒から花壺に替わり、柵が化粧直しされました。見逃しする変化なので記録として記載しました。

 





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