2006年7月の日誌
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7 月 30 日 (日)  



 雨はあがったようです。曇りの暑くない日和です。間もなく梅雨明け宣言があるでしょうか。

 団体は少なかったです。なぜでしょう。本日の団体の昼食は「牛タン」だそうです。昼食を楽しみにガイド嬢案内で素直に参拝していました。

 何故か 1人か2人を対象にガイドしました。常の1回10人位にまとまってのガイドはありませんでした。 

 市内北六小学校6年生、夏休みの自由研究が「伊達政宗」。父親のデジカメでパチリ。同伴の母親は、操作一切出来ないと、必要な写真の撮影出来たかと不安そう。基本的な事ガイドしましたがメモしません。記憶力は高齢者と異なり心配ないのか。よその孫ながら研究がまとめられるか心配です。
 困ったら、本ホームページを、父親に開いて貰うようにアドバイスしました。

 涅槃門前のベンチに「ハー ハー」と座った若くないお嬢さん。「とちらから。お殿様は?」「タケダ家です」「クロダ家です」と返ってきました。
 本殿までガイドし、資料館から出て来たところで「身長わかりましたか」「ハイ。159.6  いい男だけど 私には釣り合わないわ」
 いい男と認めて頂き感謝。当時としては優れた体格であったらしいです。お嬢さんが伸びすぎでしょう。
 「感仙殿等はお詣りしないのですか」「ハイ この次に。まずは ズンダ餅食べないと。目が回ります」 

 牛タンとズンダ餅に笹カマは仙台三大タベモノ。若い人には笹かまの人気は低いようです。

 「麒麟と龍の違い 具体的に列記しなさい」
 H代表からのご質問です。若いお嬢さん3人からの質問で、ドギマギして来たところとのことでした。
 麒麟も龍も、想像上の動物で、動物園に行って見られません。思いつくままに列記していた所に、質問当事者のお嬢さんが現れました。○○麦酒1889年の商標のコピーと涅槃門の透かし彫りの麒麟と 手水鉢の龍とで 手の位置、牙や角の有無等を補足説明していました。

 あかとんぼ の単純な分類は 麒麟は馬型 龍は蛇型 です。

 麒麟の説明の際、○○麦酒の麒麟と云っても、名前は知っていても商標を細かく見て、記憶している人は少ない。又 一商品名を挙げる事は宣伝に繋がるので好ましくないのでは とH代表の見解でした。納得。

 確かに、「笹かま・牛タン等の美味しい店は?」と聞かれても、「サー どこも美味しいですよ」と答えています。ボラガイドの節操と考え 特定の店を答えていません。 ナショナルブランドであれば上げていいのか。ローカルブランドと同じ対応が当然です。


 昨日の夕刊に、「仙台七夕の前日は奉納日とし、瑞鳳殿地区の景観にふさわしい演奏や踊りの奉納を募っている」の記事が掲載されました。途端に照会の電話が殺到しています。と主任のお話でした。
 5日の日中です。あなたは奉納派 それとも観賞派 当日の賑わいが楽しみです。

 7月21日 仙台市役所市政情報センターに財団法人瑞鳳殿の17年度事業報告書と18年度事業計画書が公開されました。実費でコピーも可能です。

 事業計画には、単に三殿の遠年忌法要以外に、市民と観光客に喜ばれる環境整備・催事が上げています。その手段としてのボラガイドの養成もあります。計画の実行実現に期待します。我々の参加・お手伝い出来る事はなんでしょうか。

 事業報告には、参拝者の動向、お賽銭額まで記載されています。

 過年度の報告書は、瑞鳳殿公式ホームページで見られます。



7 月 23 日 (日)  



 各地に大雨被害をもたらしている梅雨。曇りです。昨日までの雨は中休みか、空けるか。例年なら1昨日で空けていました。

 昨日から相馬野馬追の祭典が始まりました。
 例年、相馬野馬追の祭典時は、梅雨明けで、強烈な日差しと地上から湧き上がる水蒸気でサウナ気分になります。今年は梅雨が空けずに冷気を感じます。

 観光タクシーでない方が案内してきました。「此処は御成門です。皇室の・・・・」と始まり、本殿に向かいました。「違うヨ ここは涅槃門で・・・・・」と訂正のひと言 云い、追いかけたかったですが、グット堪えました。
 案内しているのは、プロです。生活がかかっている人の邪魔はされない。

 朝から、団体が連続しました。寒河江市の方々50人余、仙台隣接市のライオンズクラブのメンバーの一行です。このライオンズの方々は地元精通者です。社長クラスの方々ですから、頭の回転が猛烈に速く、ガイドするのと、早さを競い、ひと言と質問が出ます。

 再建寄付芳名録に420万円寄付と上位に、まちの名前が記載あり、1945年頃の寄付を決定した施政者は誰かを詮索する事なく、多額の寄付をしたと、気宇壮大になり、予定を延長し 一時間で、全部をガイドして欲しいとの事になりました。

 感仙殿前で、板碑と墓室をガイドしていて、フッと気がついたら、仙台周辺で最大の板碑群(300基)のあるまちの方々でした。
 感仙殿で板碑が、目的外に使用されたには驚いて居ました。そうでしょう。

 夏休みに入りました。小学生を連れた若い夫婦が見えました。夏休みの宿題「伊達政宗」とか。父親は現地調査した記録写真が必要と、本殿前で息子を写していました。Uさんが資料を提供し、詳しく説明しました。
 夏休みの宿題をまとめる為のお客さんが、これから続々みえるでしょう。楽しみです。

 20日「藩祖伊達政宗公御廟瑞鳳殿ボランティアの会」が結成されました。庶務は財団事務局が担当するそうで、伊達模様のハッピの貸与もあるらしいです。
 これを受けてか、朝一番に、「本日学芸員 急病のため、財団に依頼あった団体をガイドして」のお声がありました。快諾しました。

 「無料ガイド頼みたい」と窓口に相談しているご婦人がいました。「土・日ならフリーでボラガイドしています。声をかけてください。日時を指定する、土・日でも優先権を確保する等なら、我らの代表に相談して頂ければ。但し実費は負担して頂きますよ」此処までの会話に、突然H代表が日時指定のガイドで現れました。電話番号を伝えていました。
 さて、ご依頼があるか。無料に拘っていました。僅少でも実費負担はイヤ? 



7 月 17 日 (月)  



 海の記念日で祝日です。本来は20日です。1876年明治天皇が東北行幸から、灯台視察船明治丸で横浜に上陸した日を、1941年 記念に定められました。由来の日にお祝いすべきです。子供の誕生日のお祝いを親の財布の都合で別の日にした、親の命日法要を休みが取れないからの理由で別の日に これらは個人の問題です。国の祝日を勝手に 由来と関係なく変更するとは不都合と思います。

 でも、三連休になった人々が参拝に、世界各地から見えました。

 Uさんが病平癒しガイドに復帰しました。1ケ月近くの入院闘病であったそうですが、元気です。ヨカッタ。

 緑のJRの旗( 通常の4倍の大きさ)の下、綺麗なお嬢さんの先導で、欧米系の盛年男女40人程 登ってきました。イタリア国の方々だそうで、早速 Uさんが「支倉常長・ローマ法王・国宝ロザリオ等」をガイドしたそうです。

 ここに、ローマとの交流の縁(エニシ)あったと、語られるとは 思いかけない事に、歓声(イタリア語で)があがったそうです。
 果たして、Uさんはイタリア語 話せたのでしょうか。

 之までガイドしたお客様で最高年齢の方です。90歳男性です。62の石段の真ん中を人手を借りる事なく軽く登られ、米沢の生まれだそうで、政宗公の生涯をよくご存じで、大きい通る声で話してくれました。

 子・孫を連れて古里に墓参の帰りで、毎年参拝している。一行10人 酒(日本酒)を酌み交わすのが楽しい。(東京遊学中から懐石料理に至る酒談義の一刻)。 今晩も秋保温泉に泊まるとの事でしたので、「政宗公の墓室は秋保石とも云われています。風呂場から採石の跡が見える旅館もあります」と申しますと、「ウン たのしみだ」のご返事。

 この様な方に接すると、長壽の波長が飛んでくる感じです。本日のガイドで壽命が延びたようです。ありがとうございました。 

 瑞鳳殿は豪華絢爛で、其の色彩は見事です。「綺麗ー」の声が多数です。時たま「アラ新しい」のお声もあります。

 「ここは2000年から1年の時間と1億余円の経費で 全面的に補修しました。創建当時の色彩に戻ったと思われます」とガイドしました。

 盛年のご婦人から「ガイドさん どうして創建当時の色彩と証明出来ます。貴方 その昔から生きてきたのですか」誠に 厳しいご指摘です。 

 「同じ」と断言はしてません。でも、瑞鳳殿は国宝でした。指定の際の調査資料を分析している筈です。又、同じ年代の類似建造物 例えば日光東照宮等から 自ずと顔料・手法が判り 色を表現できると思います。

 H代表から「少なくとも市史資料等で確実な裏付け資料が無い限り 断定した表現をしてはなりません。「・・・といわれていす」にとどめる様に」と注意されていました。それで戻ったと思われますと申し上げましたが、話を最後まで聞かない方に会っては、負けます。

 



7 月 16 日 (日)  



 連休の中日故か、全世界から多数の方が参拝に見えました。

 老若の一行、「ボデイガードしてくれ」と老から「ハイ ボラガイドですね、時間は」「1時間かけて」「ハイ では」途端 若から「爺さん急いで、松島に行くから ここはサラット」爺さん 諦め切れない表情で 手は急ぐ様子に激しく振り、足はトボトボと。親不孝な一行です。子を育てたのは親ですから自己責任でしょうか。

 聞き慣れない国語の若い二人、最高級カメラを持参。何れの国の方かなと話してら「韓国です」 なるほど。若い故日本語は駄目の純粋韓国人。ハングルのパンフを貰い届けました。

 日本語圏以外からの方の為、英語の解説書を仲間で作る目的の方が来、H代表と打ち合わせしていました。例えば「桃山時代」これを簡単に、理解得られるような表現はどうするか、桃山時代はいつからいつまでであったかも定かでない。「麒麟」は 何と表現するか等、難しい点があると語っていました。

 過日 英語の絵本つくりを手伝っている若い女性から、涅槃 renouncing(transcending) worldly desires .瑞鳳 mausoleum(?)、麒麟 想像上の獣・・(=中国古代の想像上の獣。体は鹿(しか)、尾は牛、ひづめは馬、額は狼。一本の角がある。聖人が出て王道が行われた時に現れると伝えられる。)An imagined horned animal in ancient china. The animal has deer's body,
cow's tail, horse's hooves, and wolf's forehead. It is said that it appeared
when a saint practiced a righteous government.でしょかと云われました。
 これで 正解でしょうか。

 感仙殿は補修工事の足場が組まれ、隙間から彫り物等をガイドしています。蟇股の瑞鳥の口は右から左でなく、左から右に阿吽になっています。H代表と瑞鳳殿拝殿前で話ししていたら、お客さんから「面白い話していますね 一緒させて」となり、感仙殿に揃って移動し確認しました。

 左から右に阿吽になっています。でも 鳥は内向きになっています。之では左右入れ替えると、背中合わせとなり 阿吽の呼吸の表現になりません。H代表から「左右と絶対的に固定したものでないから拘る事ないでしょう。問題は天女さんです。焼失前の写真と突合すれば、ご覧の通り 違うでしょう。これ直るでしょうか」と投げかけられました。

 同行したお客さん 「勉強になりました。昨日は瑞厳寺と松島五大堂が開帳で参拝してきました。これから、大崎八幡宮を参拝します」「大崎八幡宮は政宗公が創建したもので、現在国宝です。外観は補修終わったばかりです。桃山様式の建築美を楽しんで下さい」「ハイトーモ」ガイド二人の検討が喜ばれるとは。


 先日以来 入場券が新しくなりました。1862年仙台城下絵図(仙台城と瑞鳳殿と城下が描かれている)を背景に、政宗公自筆の和歌(入りそめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ)が記載されています。
 拝観者には よいお土産になると思います。

 七夕前夜の催事が決定した様です。5日10時から14時迄 善應殿前の西広場で、歌舞音曲等を奉納する人をブロク瑞鳳殿四季折々http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/2006/07/post_4dcd.htmlで募集しています。

 「20日瑞鳳殿ボラガイドの会を立ち上げたい」とH代表から案内がありました。「当日所用のため欠席します。現在の様にフリータイムでガイド出来れば結構です。ご一任します」と伝えました。結果を連絡あれば掲載します。



7 月 14 日 (金)  



 猛烈 ムシムシした暑さです。強烈な日差しは、今朝までの雨で濡れた地上から湯気で湧き上げます。公式最高気温33.6度です。体感気温は更に高いと思います。きっと ビァガーデンは満員ななるのでは。

 水戸市の総合建築会社の協力会皆様、「ぐるーぷ・よっこり」をご指名され、ガイドしました。白石で「ウーメン」のお昼だったそうですが、軽く暑気払いをされたか、瑞鳳寺山門前下車した際には、軽くヘタッテいました。

 幹事様から、次の予定に影響するので、50分以内 絶対超過しないで案内してくれのご指示。誠に厳しいです。通常は2時間必要です。「皆様の脚力と肺活量に期待します」と申し上げ、スタート。結果 約束を守りました。全身 汗ダクでした。

 次の目的地はウィスキー工場見学で、作並温泉の天然岩風呂入浴だそうで、仙台城・瑞厳寺等は、今日明日の行程に入っていないそうです。若者好みの牛タンもないらしい。ワザワザ白石で自動車道を降りて「ウーメン」を食べる。確かに美味い・名物ですが。この日程はサビ抜きのナマ鮨の感じです。

 過日も北山・輪王寺を参拝するが瑞鳳殿・仙台城・瑞厳寺は無視したツァーに会いましたが、観光客の意識が変化し始めているのかな。

 皆様 社長クラス。歴史・雑学に詳しい方々。こんな発言がありました。

 伊達家の確かな始まりは、「常陸國真壁郡伊佐之庄 中村の豪族」知っていました。「現在の・・・・・」

 茨城県筑西市中館522が伊佐城址です。中村の庄・中村城は栃木県真岡市中で、中村城は伊達家始祖朝宗1156年築城と伝えられ、東西450m南北486m、周囲に8m深さ9mの空堀があったとされ、現在○○寺境内となっています。

 伊達家の血脈ははっきりしていますね。ところで仙台に住まいしていますか。職業は。サラリーマンですか。のご質問。

 「はい、ご当主は仙台で色々な活動をされています。それ以上は・・・・」で納得されました。ホッ

 臥龍梅 「政宗公が半島からの持ち帰りです、瑞厳寺・・・」のガイドに、「アレー渡海しているかな。肥前名護屋止まりでなかったかな。伊達者と云われた起源は・・・・」と。

 政宗公は、1593年4月13日釜山に上陸、9月1日釜山を出発、9月中旬京都に帰着しています。

 なお、1593年3月17日に、1番前田利家、2番徳川家康、3番伊達政宗、4番佐竹儀宣の順で京都を出発。

 この際、伊達家は紺地に金の日の丸の幟30本、鉄砲100挺、弓50張、槍100本、30騎。雑兵3000人の大行列。

 幟持ち、鉄砲・弓・槍の足軽の具足は、黒漆で前後に金星をつけ、刀・脇差しの鞘は、櫂棒状に作って銀と朱に塗り、笠は三尺の金のとがり。
 馬上侍は、具足は毛色華麗、母衣は黒色で金の半月印をつけ、馬には豹・虎・熊の皮、孔雀の尾などの馬鎧をかけ、黄金の太刀大小を帯びた。

 これを見た 京童の歓声が、伊達者、伊達男とはやす始まりと言われています。
 この項、小林清治著伊達政宗によりました。


 「伊達家は三代まで 御廟でお祀りしました、それ以後は石のお墓になり、別地に祀りました」  「ウーン 俺三代目」「俺四代目」の独り言。

 三代続けば末代つづくの諺が 頭を過ぎったのでしょうか。末代続く感じでした。


 「境内の石の産地はどこか、良い石があるか伊達領内で採れるのか 私 石屋なので」 なるほど お目が高いです。

 石垣は仙台國見、墓室は秋保、涅槃門前は雄勝、その他に稲井の石等が使用されている様です。あかとんぼの推定です。誤は僅少と予測しています。

 佐竹の墓所は、太田市にある。こんなものでない。
 佐竹の殿様は、美人を選りすぐって秋田に連れて行ったので、ブスだけ残った。水戸は日本三大ブスの町になった。アキタ美人の素は水戸だの大きい独り言。
 この方の奥方は秋田の産なのか。愉快な人々です。
 

 感仙殿と善應殿の補修工事の足場組み立てが始まりました。

 財団発行の広報誌「経ケ峯の四季」第3号が発刊されました。なお第2号には、あかとんぼ がガイドしている様子が掲載されています。残部僅少です。 



7 月 12 日 (水)  



 忠宗公349遠年忌法要が催されました。

 瑞鳳寺住職の二導師先導で、読経・焼香と恙なく行われました。
次第は、
焼香
 @伊達家御当主A財団法人瑞鳳殿常務理事B殉死者末裔代表古内様C仙台藩志会長伊達様D田村家御当主E一関田村家藩士会代表兵藤様F大年寺会代表の順で行われました。

挨拶
@伊達家御当主・・・6月に徳川宗家一八代御当主は、忠宗公が創建した瑞鳳殿、勧請した東照宮を有史以来初めて公式参拝された。忠宗公は伊達家施政の基を築いた人。この精神を尊重していきたい。
A仙台藩志会長伊達様・・・96歳のご高齢故 謝辞は聞き取れませんでした。
B財団法人瑞鳳殿常務理事・・・明日から、感仙殿・善應殿とも同時に獅子頭を復元等の化粧直しの工事は始めます。ご支援感謝します。

 法要が始まると同時に雨が降ってきました。皆様は 御霊屋の庇の下に、あかとんぼ と観光客は涅槃門に入りました。ここ藪蚊の産地で若い女性が好きです。観光客は絶えず腕を振り、足踏みをしていました。

 雨と藪蚊と格闘しながら 法要に参列した方にお礼しなければとガイドしました。善應殿、妙雲廟界と最後に、感仙殿で 御木像と直々の対面をして頂きました。感想は「現代的美男子だ」でした。「そうです。伊達男と云う言葉ご存じですか」「ハーなるほど。御当主も」と返ってきました。

 名古屋のお嬢さんとか、「尾張徳川家の廟所を知らない。御当主をも知らない。仙台・伊達家は凄い」と。

 少々遅刻した故、田村家御当主が参られているか等 あかとんぼに確認され、そして、田村家との関係等 詳しく語られてご婦人がいました。

 事務所で「ご尊名を」「ハイ 土生です」  ハハー平伏したい気持ちになりました。他のご婦人達 ニヤリと笑みを浮かべていました。「ボラガイド云いながら、お主無知だのう。この方を誰と心得る」と云った表情でしょうか。

 伊達家の始祖は「常陸國真壁郡伊佐之庄 中村の豪族」とガイドしていますが、その基となる図書、、「伊達の源流」を現地調査し著した土生慶子先生でした。先生の講義は何回か受けております。不覚でした。

 瑞鳳殿では、本日の参拝者に記念パンフを配布しました。忠宗公は文武に長けた人で、政宗公に劣らない伊達者であったのではと記載し、其の証に〔仙台年中行事絵巻〕の祭絵が記載されています。セコイ話ですが、拝観料以上の価値あります。

 参列引出物を拝領しました。「空豆」なる珍菓です。恐縮です。

 朝 雨模様ながら出掛けようとしたら「ご熱心ですね。悪天候ながら。伊達家三代の御命日ご存じですが、あかとんぼ家先祖代々の御命日はお忘れでないですネ」とボラガイド支援機構理事長?のキツィー独り言。

 「ハイ 明日は1732年に亡くなった○○院の祥月命日です。今日は、記録上はどなたも居ません。いってまいります」



7 月 11 日 (火)  



 昨日の質問についての答えです。辛気くさい話です。飛ばして下さい。

 死後硬直
その進展は環境温度等の影響を受けるが、通常死後2時間程度経過してから徐々に顎や首から始まり、半日程度で全身に及ぶ。30時間から40時間程度で徐々に硬直は解け始め、90時間後には完全に解ける。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりました。

 
 棺桶
 遺体を埋葬するための結桶は、早桶と呼ばられいる。出土事例が認められたのは、15世紀と推定されている。本格的に用いにれたのは17世紀以降である。
 増上寺は徳川家菩提寺で有数の寺院で、門前に多数の子院が林立していた。
 この子院群のうち光学院等の発掘調査の結果、440基の埋葬施設が発見され、早桶386基であった。被葬者は一般町人と推定される。

 製作技法と規模から4分類される。
A.底経50p前後 器高63p前後 造りは粗い  人骨は成人
B.底経32p前後 器高33p前後 造りは粗い  人骨は子供
C.底経60p前後 器高66p前後 造りは粗い  人骨の一定法則は認められない。Dも同様。
D.底経42p前後 器高35p前後 造りは丁寧  結樽などの液体用容器の転用ではないだろうか。

 A,B,CはDと根本的に製作方法は異なる。A,B,Cは安価な材で製作され、早桶職人なる職業集団が存在下のではないか。

 以上は、法政大学出版局刊行 「桶と樽 脇役の日本史」所載 鈴木正貴著 井「戸桶と早桶」と題する論文の要旨です。

 以上から、底経32pから60p前後で、器高200p前後の長い棺桶は、発見されていない。存在しないと判断されます。

 政宗公の柩の底経と器高は幾らあったか。造りは丁寧であったか。之を確認すると、一般的早桶か、液体用容器の転用か、出来合いか、特注品か 推定出来ると思います。現在 手持ち資料では それまでは解明できません。あしからず。



7 月 10 日 (月)  



 梅雨です。終日ジメジメしています。

 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿が焼失したのは61年前の今日です。
 1945年7月10日未明、アメリカ空軍B29 123機が、爆弾10961発912屯を投下、仙台市内500ヘクタール、当時の市街面積の17%、被災戸数は23%に当たる10933戸、被災者は26%の50321人、死者1442人と伝えられています。
 戦災復興記念館では、「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」が体験発表会を開催する等の偲ぶ行事が行われました。

 瑞鳳殿に参拝に見えた方、一様に「なぜ 軍事施設でない お墓を爆撃したのか」と訝ります。戦争は人間を狂わすのか、文化価値を知らなかったのか。

 国宝を戦災で焼失したは、誠に残念な事でした。


 観光ボランテイァガイドの仲間「ぐるーぷ・よっこより」昼食懇談会が宮城県庁18階で開催されました。

 代表から「三代綱宗が21歳(数え年)で幕府から逼塞を命じられたのは、脊髄側弯症に罹病し、気力体力ともに家政中枢での任務遂行に耐えられなくなったのに起因しているのではないかの、整形外科医の所見があります。仙台市博物館所蔵の肖像画がそれを証明しているのでは」と資料配付し話がありました。
 誠に興味深いお話です。

 代表から「伊達家の家紋は幾つあるか諸説色々です。数あれど公式には七家紋でしょう。根拠は一四代当主宗基の弟の邦宗著『伊達家史叢談』によります」と話がありました。
 「家紋は、三引両、竹雀、牡丹、菊、桐、九曜、雪薄なり。今 菊、桐は用ひず」と記載されています。

 これから、雑談として、「結婚しても生家の家紋を用いるのはなぜか。戸籍法制定迄 夫婦別姓であった。例えば〔田村氏愛姫〕でした」となり、ヒー驚いた。今進歩人として 夫婦別姓を主張している人は、100余年前に帰れと申す 超保守人になるのネ。一同なんとなく納得しました。


 本ページの愛読者Yさんから次の質問がありました。

1.仙台城ガイド資料によれば、「三の丸は二の丸と同じ1638年とあり、1983年の発掘調査の結果「下屋敷」であったと思われる数々の跡が発見され、政宗の私邸と考えられる」とあるが、政宗1636年に亡くなっている、其の2年後に作られた三の丸を使用出来たのか。整合性はこれ如何に。

 資料の作者に聞いて頂きかったのですが、「政宗公は花壇屋敷があって、居住したとも云われています。本丸との中間地点の三の丸の所で、非公式会合の為の屋敷があったのは、発掘遺跡が証明しているのでは。三の丸には、味噌蔵等があったと聞いています。屋敷として不用になり、味噌蔵等の用途に整備したのは、二の丸と同じ1638年頃と理解するのでは」と回答をしました。資料制作者殿 如何でしょうか。

2.沙羅双樹の花は咲いているか。
 昨日の日誌をご覧頂きたい。この梅雨は 涙雨ではないでしょうか。

3.棺桶 長い棺桶に直で入れるかの質問は読みました。それは無いと思いました。ただ、座棺に入れるのは、死後何時間以内ですか。死後硬直した場合どうするのですか。
 誠に想像を絶した質問です。強烈。

 取りあえずとして、次のように私見を語りました。
 政宗公は、卯の刻「午前6時」に亡くなり、柩に水銀・石灰・塩を詰め、戌の刻「午後8時」に江戸の屋敷を出発したと記録されています。この間14時間です。14時間以内に棺桶の特製と詰め物の調達が可能であったのか疑問が残ります。

 この時間内なら ボキボキ云わずに素直に納棺出来たのではないでしょうか。家庭の医学か何かで調べてみましょう。
 棺桶の定義・歴史等について、法政大学から「桶・樽」についての研究図書が刊行されており、精査中ですので 少々お待ち下さい。



7 月 9 日 (日)  



 霧中 傘を差しても差さなくても全身 しっとりと濡れる雨です。

 開門と同時に、JRバス4台一緒に入りました。七夕の際の名掛丁の雑踏の様です。ガイドする余地ありませんでした。気が着いたら誰も居ませんでした。正に津波の波頭に翻弄された小舟の様な感じでした。

 200人近いお客様は 10分ほどの滞在 伊達政宗公の御霊屋・桃山様式の建築美・・・・・何を見て、何を感じられたのでしょうか。勿体ない観光です。

 昨年は、咲いていた沙羅双樹の花 今年は蕾も見かけません。樹木が怒っているのでしょうか。昨年、上部がバッサリ3分の1切られました。原因は、これにあるのでは。仙台が北限と云われている珍しいものです。
 札幌の方は、見たことも聞いたことも無い。文学上(平家物語)の世界と理解していた様で、残念がっていました。あかとんぼ も残念です。

 「ア ボラガイトがいる」「デキル」・・・山形県有名温泉地の婦人会有志の方々。「詰まらなかったらスドップかけてください」と20分ほどガイドしました。「資料館どうぞ」「10時30分から笹蒲製作を予約している。次回に」と、10時10分です。歩行困難な方もいて20分で移動出来るでしょうか。心配です。

 ループルバス1日券を買ったので、それで移動したいと幹事さん。、「ループルバスは一方周りですから、大町の笹蒲さんまでは1時間近く要しますよ」「もっと早いバスはないか」「路線バスなら、乗車時間は5分位です。乗り場迄 ご案内してもよろしいですが、下車してからの先の道順はおわかりですか」「わからない」「タクシー分乗はどうですか。1人単価はバス賃と変わらないとおもいます」「ソーダーナーでも」

 時間コストは別として当面の支出を考える主婦らしく、考えています。アト15分。予約した時間まで。 

 「どちらから」「札幌から」「ハイ私たちも札幌から」白石区からでは無い2組を寄付芳名録から本殿迄ガイドしました。「天女さん等の彫刻をユックリ見たいが」のお声があり、本ホームページは如何でしょうかと申し上げました。
 一組の方、「URLを貰ったし、充分聞いた 満足した」と 資料館を見ないで下段していきました。我満足していいのか。シャベリ過ぎたのか。悩みます。

 瑞鳳殿は片平小学校区です。「卒業生です」と申される方数人見えました。1945年7月10日 片平国民学校6年生であったそうで、
1.61年前の今晩から明朝にかけての大空襲では、評定川原の横穴防空壕に逃げました。これを掘ったのは半島の人々だったらしいヨ。

2.学校で連れて来た。その時は涅槃門前から遙拝であった。本殿がこんなに綺麗で、いろんな彫刻がアルトは知らなかった。天女さんふくよかでイイナー。

3.この山に遊びに来ては、落ち葉等を集め、家に持ち帰った。炊飯の燃料です。母に褒められました。

4.「女学校は宮一女です。校章と同じ、校章の謂われは此処にあったのかしら」と涅槃門袖の「松泊」を指差していました。

5.マスコミ業を過ごされた男性は、、40数年振りの仙台 感慨深いナー。
と云うようなことを霧雨の中で濡れるのを厭わずユックリ語ってくれました。

 瑞鳳殿を描いた女子高生から瑞鳳殿に連絡がありました。6日の頁を見てくれたのかナ。ホームページのトップに掲載を快諾してくれました。

 宮城県美術館県民ギャラリーに57回仙台市内高等学校美術展を再訪し、「仙台発霊屋橋下下車10分」を再度撮影してきました。
 美術の先生が居ましたので「なぜ この絵は優秀賞ではなかったのか」と解説をお願いしました。「なにを描きたいのか消化しなければ駄目です。忠実に写生するだけなら写真です。何を描きたい作者の気持ちが出ないと」
 なるほど。写真だって繪心が無いと感動させる写真にはなりません。
 まだ、10代。前途遼遠です。実りある努力をしてください。

 仙台七夕の原型が拝殿左右にそれぞれ飾られました。

 木工所では 境内の間伐材を利用して作業していました。なにを作っているのでしょうか。



7 月 6 日 (木)  



 偶々か、参拝者は我々だけでした。

 1970年当時の上司から、「久々に仙台を訪れるので昼食を共にし、語りたい」と連絡がありました。「昼食迄の時間を瑞鳳殿をご案内致します」に、白髪となり、足元が大部弱っていましたが、快く応じて呉れました。
 62の石段を避け、車を職員駐車場につけ歩行距離を短くしました。涅槃門からの階段の昇降に危機を感じ、手を添えました。 「歳月人を待たず」を痛感しました。
 やはり あかとんぼ の上司であった人です。先人に敬意を表していました。
 和食をともし、過日を懐古したのち、仙台駅までお送りし、再会を約しました。

 宮城県美術館県民ギャラリーを訪れ、57回仙台市内高等学校美術展を観賞しました。今年の黄金週間毎日瑞鳳殿の写生に通っていた女子高生の作品が展示されている筈だからです。

 ありました「仙台発霊屋橋下下車10分」とユニークな題名でした。阿吽の龍 極彩色の斗供 飛天 家紋等の瑞鳳殿本殿の特徴を、視点を動かし 若い感性で捉えて、描いていました。
 宮城野高校美術科2年生の○○さんでした。校名も氏名も聞かずに、展覧会は見に行く約束していました。あかとんぼ が見たことをどのようにして知らせようかな。



7 月 2 日 (日)  



  大雨です。でも、多数の方々が参拝に見えました。

 20代後半のお嬢さん達10数人、全国から集結したとの事。でも、大学同級会なのか、何かの研究会の集いなのか、最後まで、正体不明でした。「何の団体ですか」と聞けば教えたでしょうが。個人情報には触れないことにしています。

 札幌の方、白石区では郷土の歴史を集約した施設があり、開拓の歴史、その外道内の開発と仙台藩との関わりを知りましたとスンナリ話しました。

 「戊辰の役関係」を案内して欲しいの申された方おりました。「弔魂碑」に案内しました。長時間お詣りしていました。この間、同行の方に之はなんであるか 又 特徴は何かを説明しました。
 続いて、関連施設として、西南の役殉職派遣巡査供養碑、鹿児島県人国事犯墓地を案内しました。
 この方、なぜ戊辰の役の弔魂碑を指名されたか。多数の同行者を待たせてまで、犠牲者の冥福を祈ったか。 伊達家家臣で戊辰の役で残念な最後を遂げた方の末裔であったのでしょうか。





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