2006年8月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




8 月 27 日 (日)  



 秋を感じます。ハンカチと水筒は 出番が終わったようです。蝉時雨も心なし静かになりました。

 参拝は、沖縄・長崎・広島・奈良そしてカナダからと続々続きました。

 秋田市内からの10人ほどの婦人団体、佐竹家の廟所が旧市内に所在し、定期観光バスが入っているは、知っているが参拝した事はない。でも、伊達家の廟所は参拝するからガイドしてーと。 感想は、サスガー62万石です でした。

 広島市の方、市章は浅野家家紋に由来していますに、知らなかったと驚いていました。 マア 「遠くの神様」でしょうか。

 今日 返答出来なかった質問集

★ 政宗公の墓室の底盤は何故3メートルなのか。それで施行した根拠は何か。
★ 弔魂碑 言偏が左から上に移動しているが、なぜこの文字が書かれたのか。
★ 弔魂碑 鉄製なのは何故か。
★ 米軍は 加賀100万石の金沢を空襲しなかった。伊達家62万石は蔑視されたのでないか。
★ 本殿極彩色の彩りは、創建当時と完全同一するのか。

 返答に苦しんだ相談事は

 私の家の先祖は、縁が薄く不幸が続いた。拝み屋さんから「先祖が伊達家の家臣で何か不幸に遭遇している。その影響である。不幸で亡くなった人々を祀り、縁を切らなければならない」と云われた。それで、
1.間引きされた人々の供養塚、飢饉で亡くなった人々の供養塚を知らないか。
2.伊達家五代吉村公時代の御子様廟はこの境内にあるが、四代迄の御子様廟はどこか。
3.祖先 家系を調べるには どうしたらよいでしょうか。
  私は 仙台市宮城野区岩切の○○です。お位牌はありますが過去帳はありません。
仙台市博物館に電話照会したら、ある先生を紹介された。これ以上わかりません。瑞鳳殿に行きなさいと云われました。博物館紹介の先生がわからないこと わかる筈がありません。H代表が相談を受ければ 別であったでしょう。ざんねん。

 この方、御子様廟に一人で廻られた様ですが、思いの丈 幾分でも解消したのでしょうか。

 楽しかったこと

 スマートな日本人と スマートでない、かつ日本人離れした人 若い女性が見えました。涅槃門の麒麟 何と説明しようかと思案しました。「未成年者ではありませんネ」「ハイ26歳で」「ハイそれでは これをご覧ください」 例外事項として1889年のある商標コピーを見せたら 2人一発了解。あとは、あかとんぼの日本語と中学1年生の英単語に、26歳女性の高校1年程度の英会話で本殿までガイドしました。通じました。理解した様です。
 この欧米系の女性は、大崎市中学校の英語補助教員で、間もなく任期終了で、卒業旅行でした。通じたわけです。なっとく。


 職員駐車場入り口に、入場お断りの看板の外、金属製鎖が張られました。七夕期間中 関係者以外で駐車する車が多数あり、入場・退出が困難となり、無断駐車した人々間で、険悪な状態がしばしあり 止む得ず規制したと ある人の解説がありました。あかとんぼ 退場する際 関係者以外の車が3台も駐車していました。鎖を張っても モノとしない方がいるわけです。
 参拝者駐車場は無料です。駐車は容易です。景観も楽しめます。せっかくです そちら利用されたらと思いますが。



8 月 25 日 (金)  



 5月5日の日誌に「南参道の民家に「同根異色」紅白のふさふさした豊かな花が木一杯に咲いています。今年はあまりの見事さに撮影しました。写真を見た方から「何の木が聞いてこい」で、お宅を訪れお尋ねしました。当初怪訝な表情でしたが、「桃です。幼木差し上げます」と申され頂いて参りました」と記載しました。

 愛読者の方、写真を出力され日々楽しんでいて、フト調べたら次のようにわかりましたと知らせがありました。
 「源平桃」で、バラ科サクラ属のモモで、ハナモモの仲間ある。

 頂いた幼木 土が悪かったのか 肥料に水はたっぷりあげましたのに、定着に失敗しました。気持ち良く提供された方に申し訳ない。



8 月 23 日 (水)  



 本日は資料整理日です。生年月日と年齢について

 政宗公は、永禄10年8月3日〔太陽暦1567年9月25日〕羽州置賜郡米沢城で生誕。亡くなったのは、寛永13年5月24日卯刻〔太陽暦1636年6月27日午前6時頃〕江戸桜田屋敷です。

 本日誌の記載 ガイドの為に、種々資料を読みます。政宗公の場合は、生年月日も亡くなった日時迄記録されています。しかしながら、亡くなった年は記録されていても生年が不詳の方々が多々あります。満年齢が計算出来ません。なぜ 生年月日の記録が極端に少ないのか疑問に思っていました。20日の日誌メモ欄の4代綱村公正室仙姫の場合もそうでした。

 瑞鳳殿で「政宗公は70歳で、江戸桜田屋敷でなくなりました」「寶筺印塔は殉死された方々の供養碑です。一番若い方は22歳です」とガイドします。年齢に敏感な若い女性は、「アレー私とおなじ」反応されます。この若い女性は満年齢で理解されます。寶筺印塔は数え年です。満年齢では20歳と何ケ月です、その旨を伝えると、今の自分より若いのに老成した昔の若い男性に驚嘆すると共に、己の未熟さを恥じります。

 満年齢は、個人を中心とした数え方で、まず個人が存在するという思想があってのもので、数え年は、社会からみた数え方で、競走馬と一緒の数え方だそうです。

 現在、天皇誕生日は国民の祝日です。江戸時代 身近な権力者である殿様の誕生日を領民は知り、祝ったでしょうか。現在の子供は、幼稚園または親が誕生祝いを催しています。
その親々の幼少時には、誕生祝いが家庭・社会で催されたでしょうか。誕生日は、社会的に認識されていなかったのか、個人情報はむやみに開示しないの考えでしょうか。昔は、多産で、成人率が低かった。それで、個人としての存在を強調しないで、社会人として生活し、亡くなった時、初めて社会人として記憶され、お寺の過去帳に記録される。
これが数え年で年齢を数えることと、戸籍制度がなく、生きた証として過去帳に没年月日が記載れた結果、生年月日不詳となった理由ではないでしょうか。

 1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定され、以来、満年齢で数えることになりました。国民に周知徹底した結果、行年と申し上げても、行年を理解しないで、満年齢に換算しないでストレートに理解する方がほぼ全てとなったようです。
 還暦 十二支の暦が一巡し還るから還暦なのに、満年齢で誕生日が来なければ、還暦でないと称する主客転倒の考えの人が出てきました。

 以上で、なぜ 生年月日の記録が極端に少ないのか疑問が 稍 氷解しました。
なお、現在、数え年が使われているのは、お寺さんと落語の世界だけのようです。

 本稿は、講談社雑誌「本」9月号 堀井憲一郎著「落語の向こうのニッポン」を参考にしました。



8 月 20 日 (日)  



 里は蒸し暑いですが、鬱蒼たる森林効果でしょうか。暑いながら凌げます。

 朝一番のガイド。埼玉からの方で、「昨日は瑞厳寺ですか」「イヤ今朝たち 3時間で来ました。2泊3日で仙台城・瑞巌寺とまわります」日の出と共に旅立ちし、一番に参拝にみえるとは御奇特なかたです。夫婦交互に質問をし、丁寧に拝観していました。

 「ボラガイドいます」の案内札を立てています。旅慣れた方、ボラガイドをされている方などは、気軽に「ガイドして」と声をかけてくれます。熱心に聴いてくれます。

 今日は、
☆ 小学生2人の家族連れ、子供が「伊達政宗」と話していましたので、夏休み自由研究かな、何か役立つカナと思い「ガイドしましょうか」トタン 「結構です」と母親から素早く堅いご返事。一瞬「OK」と感じましたが、口調が電話押し売り対応の、それと感じました。ひきさがりました。 ガイドの押し売りと思われないように配慮しているつもりでしたが。

☆ 旭川から来たと申す、元気な78歳の老夫婦。奥さんが喋ります。旦那は無口でながら、ボソと現役だと申します。興味を持たれている事に質問に答えるスタイルでガイドしました。ご満足頂けたようです。78歳現役を驚嘆された悦びか、千円札を出されました。「ご満足頂ければ それでよろしいです」と申したら スーと78歳の財布に戻りました。この気配りが長壽・現役の秘訣でしょうか。

☆ 60歳過ぎのご婦人5人、「ガイドしましょうか」「只なら」。涅槃門の麒麟をガイド始め、指示棒で透かし穴を指しても、誰一人からも反応がありません。穴直々を差しています故、見えない筈はありません。諦め、門を潜りましたが、ふり返らず本殿を向いています。瑞雲と牡丹・阿吽の唐獅子をガイドしても反応がありません。枯れ木に話しかけている状態。 本殿までのガイドは諦めました。
 時を置かずに 降りてきました。桃山様式の建築美は興味の対象外で、時間調整の場であったのか。 爺さん立っているから 喋らせてヤッカーのようでした。

☆ 男鹿のナマハゲの様な顔をした 欧米系の3男性 リックに脛毛で登ってきました。英文パンフを読みながら出口に向かいました。コッチ コッチと涅槃門を指したら、アリガトウ と3人。先程の日本系婦人に理解されかった日本語が通じました。

 Yさんがガイドに参加。9月から第2・4日曜日にガイドするそうです。H代表は第1・3日曜日と決めていますので、日曜日午前は2人以上の体制になります。Uさんも来るでしょうから3人 多い方が楽しいです。楽しみです。

 Yさんは この日誌を読み、自分のガイド手持資料を再編集したそうです。その結果、3代迄と5代からの夫人の墓所は確認したが、4代綱村公の正室の墓所は いずこにと 問われました。「暑さで わすれました」と答えたら 「アハハー それ わたし専売特許のセリフよ」と返ってきました。

メモ
 暑さボケ仲間の記憶のよびもどしです。

 4代綱村公の正室は、小田原侍従稲葉美濃守正則の娘 仙姫です。1665年に生まれ、1677年に結婚、1705年7月行年41歳で亡くなりました。戒名は「萬壽寺殿実蓮浄晃尼大姉」です。城下小田原字高松に寺を建て葬りました。寺名は開元山萬壽寺です。
 現在 墓所は1955年 仙台市宮城野区榴岡4丁目に移されました。同所には2代忠宗公の正室徳川振姫 3代綱村側室三沢初子の墓所もあります。
 
 萬壽寺殿(仙姫)の霊屋門は青葉区北山の大願寺に移し、補修され、1987年仙台市有形文化財に指定されました。



8 月 15 日 (火)  



 愛読者のYさんから、13日日誌を読みまして 「私も同じような質問をされました。それほど真剣に質問なさったようには思えなかったので、以前聞いたような気がしますが暑さで忘れましたと、その方と笑ってしまいました」の内容のメールを頂きました。

 いつもお読み頂き 感謝です。暑さで忘れました 最高のフレーズです。今後 活用させて頂きます。よろしく。



8 月 13 日 (日)  



 孫台風来訪でガイドは休みました。

 過日 本殿になぜ 阿吽の龍頭 が載っているのか その由来を教えて欲しいとのお尋ねがありました。

 現在の龍頭は、2000年の修復の際、1637年創建当時に高田久兵エ(履歴不詳)製作したものを 小振りに模して 載せたものです。
 創建当時 何故 龍頭を載せたかの解説資料に 未だ接していないので、「わかりません」と答えました。

 日光東照宮の図録を見ました。遺骨が埋葬されている「御寶塔」の四隅に龍・竜頭は載っていません。唐門には竜頭ではなく、龍が載っています。他の社殿には全く載っていません。

 仙台大崎八幡宮の社殿を確認しましたが、龍も竜頭も載っていません。

 瑞鳳殿本殿のみ竜頭が載ったのは 非常に特異な事例となります。これは独眼流政宗の異名に由来するものでしょうか。独眼流政宗の異名を、本人も認めたのは いつ 何歳の頃でしょうか。

 麒麟と龍の具体的違いを質問されたH代表は現在 文献等で調査中で、速報として龍を英語でドラゴンと翻訳しているが、 実際は龍とドラゴンは別の動物である。龍は(水を吐く)ドラゴンは(火を吐く)」と教えてくれました。

 新潮社刊行 新潮選書「龍の百科」池上正治著では、6000年前新石器時代玉製の龍が発見されている。龍は中国皇帝のシンボルで、黄色はシンボルカラーで、黄河に由来している、黄河は龍である。津軽の夏の「虫送り」も、龍にまつわる民俗行事等が記載されています。これ以上記載して 皆様の逆鱗に触れてはタイヘン 竜頭蛇尾ですが、終わります。
 



8 月 9 日 (水)  



 七夕が終わった今日は雨です。

 6日日誌に「中国のTV会社の取材チームが見えていました。仙台七夕取材のオマケ取材とか、チラリホラリの撮影でした。「ボラガイドです ガイドしましょうか」と申しましたら「日光 結構 ケダラケ・・・」と申す調子でアタフタと去っていきました。」と記載しました。

 本チームは、中国 長春電視台ニュースセンターのチームでした。東京・奈良・仙台が取材地で、「中国を起源とする七夕が形式が変わっても仙台で大切にされている」 7本にまとめ内3本が仙台編。10月放送。
 以上は、河北新報8日夕刊3頁トップ記事の要旨です。写真の人物 この人達でした。

 瑞鳳殿がどの様に扱われているか 長春からの参拝が増えるか 楽しみです。



8 月 8 日 (火)  



 本日も真夏日。仙台七夕期間中 ジンクスの降雨1回もありませんでした。幸いです。参拝に沢山の方が見えました。 ツァーは峠を越えたようです。夫婦で阿吽シンミリが主力でした。

 阿吽夫婦 その1
 積極的な奥様に、夫が 良きにハカラエとニコニコ とついて来ます。家紋の話になったら、「姉が足利家系で二引両 ここ伊達家は何故三引両か」のご質問となり、「伊達家は、常陸國真壁郡伊佐の庄 中村の豪族で、1189年 源頼朝奥州侵攻について・・・・」 「ハイ 私達 真壁郡伊佐の庄 中館から来ました」 「ヘィー それでは ベンチにてお話しましょう」と 地図を広げました。

 「中村の庄 中村城は朝宗が1156年築城し、東西450m 南北486m 幅8m 深9mの空堀があって、現在中心部は遍照寺の境内。伊佐城は現在の筑西市中館522番地にあった。現在は観音寺が所在し、伊達七世行朝供養の為の天台宗唯一厳式 法華三昧が行われているそうですネ」

 「ハイ そのとおりです。ココ ここが私の家 この歯医者とパーマ屋 私通っています。伊達さんと縁があるらしいと聞いていましたが よくわかりました。今日はお詣りに来て よかった」

 本殿参拝後 夫婦別離 迷子になり「オトーサン」と叫んでいました。「オトーサンでは 皆様返事しますヨ ナカムラのとのさまー と呼ばないと 出て来ないのでは」 「アハハー」 間もなく 出てきました。「今日はヨカッター またネ」

 阿吽夫婦 その2
 「ガイドしてくださる」 「ハイ」 「ビデオ撮って宜しいかしら」 「ハイ」 「オイ お前 メデア予備1本だぞ」 「カマワナイー」 涅槃門の麒麟に始まって 6面の彫刻、拝殿扁額 本殿の龍から天女さんまで 丁寧に撮影していました。同時録音との事で 自称標準語(?)で、重複・繰り返しの無いように気をつけて話しました。奥さんが撮影している様子を、夫がデジカメ撮影していました。
 編集して、隣近所集めて 仙台旅行報告会で公開するのでしょうか。字幕が流れる事ないでしょうネ。

  阿吽夫婦 その3
 本殿前で 「政宗公は 棺桶で周囲に牡蠣灰を詰められ ・・・・・・」  と話した同時に 「フム ・・・・・・」と カルシューム効果を理解され、化学方程式を夫人に語り始めました。 「お医者さんですか」 「イヤー たんなる 化学屋のサラリーマンですヨ」 日常会話に化学方程式が出てくるとは ビックリ。ノーベル賞受賞の田中さんご夫妻であったのか。

 阿吽夫婦 その4
 このご夫妻 牡蠣灰の牡蠣と聞いた途端 「昼は牡蠣だー ここに行きたいが」と見せられたパンフ。 仙台銘酒の蔵元経営の高級和食店です。「ここから遠いか」に 市内地図を差し上げ「ココです タクシーに見せれば大丈夫です」 御夫人「牛タンあるかしら」 「サテー 牛タンは専門店が 雰囲気からも より美味しいとおもいますが」「お前 そうだヨ  何事も専門店ダヨ ありがとう さー行こう」 資料館見学等中止。ふり返ったら もう居ませんでした。迅速な行動です。成功の秘訣か。

 おやのかお
 浴衣に帯をキリリと締め 茶巾袋を下げ チャプリンが持っていた様な長い柄の傘を差して 三人が涅槃門を潜ってきました。之は良家の子女のご参拝。途端 下駄の踏み音高らかに響かせました。暫くしたら 「ドケロー」「ジャマダー」と咆吼しています。携帯を政宗公に翳して お詣りしている人が 目障りだから よけろと言うことの様です。アナタ何様ですか。花も恥じらう乙女の仕草ですか。

 通常のお詣りの人は長くて30秒です。チョット待てば あきます。離れた場所でガイドを聞いていた方 「アレー おやのかお みたい」と洩らされました。
 内心 仙台の娘は?と思われたかも。悔しい。


 お昼近く 足元で救急車のサイレンが鳴りました。一段落して南側駐車場みましたが かわりありません。帰路に事務所にお尋ねしたら 知りませんでしたとのこと。境内での出来事ではなかったようです。
 ご近所の高齢者が熱中症になったのでしょうか。本日も1リットル飲みました。事務所から 連日ご苦労様 冷たいものどうぞと ご配慮頂きました。

 4日連続の仙台七夕のガイド トラブル無く無事終わりました。弁当と水筒を持たせ 絞れる汗の上・下着の洗濯に追われた支援機構も ホットした表情。来夏も頑張れるかな。13日はお盆休みです。20日から再開します。



8 月 7 日 (月)  



 仙台七夕2日目 参拝者は昨日よりは少な目でした。でも、バスの時刻になると、ドット登ってきます。

 涅槃門前の東屋のベンチに上着を脱ぎ、横たわっているお爺さんがいました。お婆さんは手水鉢でタオルを濡らし、お爺さんの額にのせ 頭を冷やしていました。「どうしましたか、ご気分が悪いのですか。救急車手配しましょうか」と声をかけましたら「イヤ 大丈夫 いま しばらく 暫く」 確かな返事する位ですから 救急ではないようです。

 30分もしたら起きあがりました。さてこれからです。「仙台の観光バスは何となっているのだ。何本も炎天下待たせて、ようよう乗れたら 乗れるだけ詰める 身動きもならなかった。なぜ 快適な観光できる様に臨時便をださないのだ」と偉い剣幕。公営企業者に勝手に成り代わり「ゴメンナサイ」と最敬礼。

 なぜでしょう。巷の噂に「現在5台しかバスが無い。20分間隔が限界です。増車するには1台5000万円に人件費で、採算性を考えているらしい」 本当でしょうか。


 「次の停留所は博物館前です。仙台城三の丸跡です。見るべきものがあります。政宗公の肖像掛け軸が展示されています。お奨めします」と若い人に案内したら「ハイ是非見たいと思ってきましたが、月曜日はお休みと云われました。残念だ」

 七夕期間中 210万人の観光客が見込まれています。単純計算で 本日は70万人です。いくら市営の博物館 公務員だから既定の日は休ねばは無いと思い、確認の電話入れたら「開館しています」の返事。「どうぞおいでください」の愛想ははありませんでしたけど。

 七夕期間中の開館は進歩です。でも 何故「開館しています」の積極的広報しないのか。HPに「七夕期間中開館中」の8文字で若い人の入館者が増えるのに。

 これより 高齢者との応接記録

1.「政宗公の御霊屋はどこですか」「ハイここです」「イヤ 此処でない 仙台駅前近くにあった。あんたシラナイノー」「ハイ」

2.若い人々にガイドしていたら、高齢のご婦人無理無理割り込み「空襲は爆弾か焼夷弾か。何発落とされた・・・・」 「今手持資料ありませんので・・・」

 メモ 05年07月10日の日誌に「この空襲はB29 123機が参加、投下した爆弾10961発912屯。当時の市街面積の17%、被災戸数は23%に当たる10933戸、被災者は26%の50321人、死者1442人と伝えられています」と記載しました。爆弾の主力は焼夷弾と推察しますが種別は不明です。

3.若い人々にガイドしていたら、太い杖を持った爺様。若い者はホットケの感じで「忠宗公がここを作ったろう。仙台東照宮も造ったろう。どっち先だ」のご質問。若い人々に、ボラガイドより物知りを誇示したかったのでしょうか。

 メモ 瑞鳳殿の落成は1637年で、仙台東照宮は1654年ですから、瑞鳳殿が17年先となります。

4.「孫達と来ました。女孫はカシマシイです。男孫はよく面倒をみてくれます。昨年までは親戚巡りが主で、お詣り出来なかった。親戚が12軒居るので、お土産を積んだ車1台に、三世代乗った車。爺様の時代は終わりました。今年は親戚巡りを止め 新幹線で来ました。お詣りしてホッとしました。よい環境です」

5.「長い石段は八十路には厳しく 脇道を登ってきました。この門から上は段差が厳しく断念しました。三年後又お詣りに来たいのですが、登れるかしら」「お待ちしています。南側の職員駐車場迄 孫さんに車入れて貰えばグッと楽です」

 観光ボラガイドのつもり行きましたが、高齢者聞き取りボラの日でした。


 昨晩の竹灯・ライトアップ・七夕森林コンサート 大変好評で 参加者数 三桁の大台を記録したそうです。今晩もあります。

七夕森林コンサート日程
☆時間  午後7時から8時50分
☆場所  経ヶ峯西側広場
〜司会とオカリナ 熊谷真弓〜 
 第一夜 (8月6日) 男声合唱とリュートの調べ
☆合唱団   Palinka
☆鈴木健治リュートの世界

 第二夜 (8月7日)    〔一部〕アルトとヨーデルの響き
☆山圭子(アルト)・佐藤憲男(ヨーデル)
〔二部〕アコースティック・ギターの調べ
☆千葉真康ロメロの世界

 第三夜(8月8日) 薩摩琵琶と馬頭琴の宇宙
☆琵琶  阿部 拓
☆琴 ノモンダライ&エルデネダライ

 8月6日・7日・8日の連日(18:00〜19:00)経ヶ峯各所にて
「森林に染み渡る篠笛の音色」を開催
☆山口流家元  山口千寿 他6名





8 月 6 日 (日)  



 仙台七夕が始まりました。瑞鳳殿参拝のツイデに仙台七夕を見学される?方々が、朝早くから、途切れる事無く帯状にみえました。市内定期観光バスは20分間隔運行ながら、乗せこぼし多数の状況との噂です。公営企業の壁でしょうか。

 南参道から学生50余人がぞろぞろ登ってきて、1時間の自由研究・解散と幹事の宣言。希望者にはガイドしますとこちらも宣言。40余人がゾロゾロ附いてきました。○○ホテル(瑞鳳殿南側に所在する有名旅館)に宿泊、支配人の「近道です」のアドバスで、上がってきましたとのこと。「正面参道はこちらです、今登られたのは裏口です。皆さんは大学 裏口からの入学ではないですヨネ」 当然ながらアハハと笑顔。安心。

 本殿前ガイドを終わって、首都圏大学の医学部学生と明かされ、医学部モードにに切り替え、発掘調査・医学的調査、発掘時の御遺骨の様子、DNA調査・診断書等調査結果の取りまとめ、復元像の作成等を再度ガイドしました。参考になったのかでしょうか。

  中国のTV会社の取材チームが見えていました。仙台七夕取材のオマケ取材とか、チラリホラリの撮影でした。「ボラガイドです ガイドしましょうか」と申しましたら「日光 結構 ケダラケ・・・」と申す調子でアタフタと去っていきました。

 紀元前200年前 古代中国で発見されたに由来するものを紹介しようと思ったのに残念。


 腕に蝶々の入れ墨をした三嬢さん。軽薄な乙女なのかなと思いながらガイドしましたら、意外な反応の連続。
 「あの木が 平家物語の・・・」 途端 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし・・・」とサラサラと読み上げ始めました。

 伊達家の三引両の家紋の説明で、「1189年の出来事。ところで 吾妻鏡 ご存知で」「ハイ 鎌倉幕府の一応正当な歴史書です」「ハイそうです。それでは奥州藤原氏を攻めた厚樫山の戦い 読まれていますか」「ハイ」「それでは 伊達家の由来は・・・。」と家紋と伊達家の由来を語りました。
 吾妻鏡を読んでいるとは、驚きビックリ。何者かな。

 本殿飾り繪の「向揚羽蝶」を見て、「素晴らしい、現代的センス」と、ガイドしようとした言葉を先に言われてしまいました。腕の蝶と見比べてました。

 入れ墨の風体から予測されない、芸術・文学・歴史に並み以上の素養のある乙女。 「お嬢さんたちは何者ですか」と尋ねたら 首都圏の大学の国文学学部と史学部国史科の20-21歳の学生ですとの返答でした。「寶筺印塔の人々の最年少者と同年齢ですネ」に、殿に殉ずる胸中は当然理解出来ないでしょうから 「ウンー」の一声。

 腕の入れ墨は 仙台駅でデモがあったので挑戦したと、型紙を貼り スプレー噴射したもので、石鹸で簡単に落ちますヨ。 お爺さんもどうですか と 腕まくりし撮影させてくれました。入れ墨イコール軽薄と単純評価は誤りでした。乙女のおしゃれ心の理解不足でした。

 本日は弁当を持参し、頑張りました。16時通常なら閉門の時間ですが、参拝者は途切れません。先程のお嬢さんに 「オツカレデスカ」と云われました。表情に出たのか マズイ 「ハイ 疲れました」と 素直にお終いにしました。

 財団の責任者から 「暑いです 冷たいもの 用意してます どうぞ」と有り難いお言葉 早速 頂きました。ご馳走様でした。

 Yさんが 午前中 暑い日差しの中 ガイドに見えました。日焼けして困らないでしょうか。昨年の七夕以来らしいです。となると 織り姫でしょうか。対する彦星さんは?本日はH代表に Uさんも見えました。

 15時30分過ぎから、全職員で竹灯の準備が始まりました。ライトアップの準備は出来ました。ぜひ お出かけ下さい。闇夜に浮き上がる瑞鳳殿 幻想的だ思います。あかとんぼ はジジトンボですからオヤスミです。 



8 月 5 日 (土)  



 陽がおちた頃、城下では花火大会が開催されました。子供が寝る時刻まであげるそうですから、何万発でしょうか。あかとんぼの巣では、音のみ聞こえます。

 羊刻に瑞鳳殿に向かいましたら、既に此の時刻から浴衣姿で、花火大会を目指す乙女が巷に溢れていました。所謂、湯上がり浴衣姿ではなく、胸元と帯をきっちり締めています。仏様の着付け(左前に合わせ)は皆無でした。お盆が近いから 親御様が注意したのでしょうか。

 「瑞鳳殿奉納日」の行事が10時から開催され、片平児童館の短冊の奉納に始まり、仙台芸妓組合の「さんさ時雨」等の奉納がありました。
 仙台芸妓は環境庁指定消滅危険保護鳥獣に逼する位、数が少なく、又席を設ける程の資力の無い者には、此処で拝見しなければ、拝見の機会の無い、貴重な芸能ですが、既に終了していました。千載一遇の機会を逃がしました。

 感仙殿前の広場での奉納は、緑陰に爽風がはしり、カナカナ蝉の鳴き声が篠笛との合唱になる、まことに優雅な世界での一刻でした。

 瑞鳳殿前等では、短冊等をつけた笹竹の飾り付けが懸命に行われていました。既に、ねぷた・竿灯等を観光したツアーがひっきりなしに、参拝に見えていました。 写真撮影している方に、折角ですから 「今一歩 ベストポジションはここですヨ」と申し上げても聞く耳を持ちません。撮影後「ジイサン なにブツブツ言っているの」と云われました。勝手にどうぞ。

 仙台七夕の原型で、謂われをガイドして「さて お宅の最年長者は何歳ですか。長命を願い その方の歳の数以上 鶴を下げます」と申したら、「私の家 92歳」「私の所は99歳」と返ってきました。「御元気ですよネ」「ハイ」「それでは 益々元気で長生きされるように 帰ったら鶴を織って下さい」「ハイ。良いこと聞かせて頂きました」 育ちの良いお嬢さん達です。お爺さんか御婆さんか聞き漏らしましたが元気で長生きして下さい。良い子・孫・曾孫を育てられました。



8 月 4 日 (金)  



 公式気温34度 真夏日になりました。

 2日日誌に「穴蔵神社(夕日明神)では、政宗公正室愛姫が安産を祈願したと由緒に記載されているが本当でしょうか」の質問には、調べないとわかりませんと記載しました。

 神社の由緒書を確認しましたら、愛姫は守護神として深く信仰し、安産を祈願したとあります。祭神は宇迦之御魂神(五穀の神で)で、大山祇神(山の神・安産の神)と倉稲魂命(五穀の神・商売繁盛の神)が祀られています。
 
 愛姫は、全部で4人出産していまして、嫡男 忠宗公は大阪で生まれで、長女五郎八姫は1594年京都で生まれた。第4子は1608年生れの竹松丸で、7歳で亡くなり、北八番丁江厳寺(曹洞宗)に祀られています。 

 年代的に、1608年生れの竹松丸は仙台城かと推察しましたが、愛姫は、米沢城から、秀吉時代には京都伏見・大阪で、徳川時代は江戸屋敷で過ごしたようで、1600年仙台城を築城後に仙台城に居住した記録が見当たりません。

 1922年八木山の越路(山の神)神社が合祀されています。その以前に山の神が祀られていたの証明がありません。以上から、安産の神様 山の神を信仰されたとしても、この神社を信仰したと特定は出来ないと思います。



8 月 2 日 (水)  



 昼 梅雨が空けました。長いー 梅雨でした。

 午前 未だ梅雨曇りの中、片平市民センター主催「見たい・歩きたい片平界隈」経ケ峯・霊屋周辺コースに参加しました。

 講師は、仙台市文化財課ボラガイド養成講座同期生で、且つ 博物館ガイドで、この地区米ケ袋で生まれ育った○○さんです。

 コースは、穴蔵神社(夕日明神)・鹿児島七県人墓地・御子様御廟・瑞鳳殿・弔魂碑・鹿落観音堂・感仙殿地区・瑞鳳寺です。センターから・までで120分のです。瑞鳳殿は拝観料が必要となります。時間的・経費的な面から、瑞鳳殿・感仙殿地区は横目での通過でした。

 欲求不満の方は日曜日午前にお出でなれば、瑞鳳殿等を無料で完全ガイド致しますと申し添えました。

 色々な質問がありました。あかとんぼ の記憶に残ったものは。

0. 「伊達家の信仰はなにか。青葉神社に政宗公が祀られているから 神道でなければならない」と講師に迫った老書生がいました。
 講師があかとんぼさん どうですか とのこと。次の様に答えました。
 
 瑞鳳殿等での政宗公・忠宗公・綱宗公の遠年忌法要は、瑞厳寺・瑞鳳寺の御住職が導師となり 執り行われています。

 瑞厳寺・瑞鳳寺は臨済宗妙心寺派です。4代綱村は黄檗宗に帰依し、1695年自ら鍬を握って茂ヶ崎を開き、大年寺を開山し、歴代殿様の菩提寺で一門格です。又、二代忠宗公正室振姫は日蓮宗孝勝寺を厚く帰依し、孝勝寺に埋葬されました。なお、孝勝寺には、振姫の外 三代綱宗公側室三沢初子と黄檗宗萬壽寺から移された四代綱村正室仙姫の墓があります。
 伊達家は、終始 臨済宗のみであった訳ではありません。

 確かに、伊達家は御維新で、国家神道に転換していますが、現日本国憲法で信仰の自由が保障されています。現御当主は 神道でなければならないと 他人が決めつけられ無いと思います。

1.現御当主に、男の子がいますか。後継ぎは心配無いかですか。には、個人情報は了知しておりませんと答えました。皇室並みに心配する必要はないと思いますが。

2.瑞鳳寺は別当寺でしょうか。には、大崎八幡宮の龍寶寺(真言宗)。仙台東照宮の仙岳院(天台宗)は別当寺として創建されました。確かに瑞鳳寺は瑞鳳殿の維持管理を目的に創建された寺ですが、瑞鳳殿は神宮ではありません、御霊屋です。別当寺ではありません。

3.御子様御廟で、灯籠が二対に墓碑と5基立っているが、立派な灯籠は 墓碑ではありませんか。には 灯籠です。御維新前はもっと数があったと聞いています。

4.政宗公の元服したのは何歳ですか。小説では○○歳ですが。には、資料を確認します。1577年で数えの11歳です。小説は小説です。面白く書きます。例えば 独眼になった理由は治療ミスで、失明したのに関わらず、小説では 戦いで目玉を刳りぬいたと とんでもない書き方したのもあるようです。博物館等発行の確かな資料を頼りにすべきと思います。

5.穴蔵神社(夕日明神)では、政宗公正室愛姫が安産を祈願したと由緒に記載されているが本当でしょうか。には、わかりません。愛姫は仙台城に居住した実績があるでしょうか。京から江戸の屋敷に移って 仙台城には入らず 江戸で終わられたと思っていました。確認します。


鹿落観音堂 初めてお詣りしました。工藤妙参尼様が次のような話しをされました。

 仙台33番札所です。経ケ峯黒沼付近にあり、満海上人がお守りしていたが、1659年感仙殿造営に伴い 現在地に移った。別名「うどんげ(優雲華)観音」と呼ばれ御利益あらたかな観音様です。御本尊は聖観音菩薩です。明治初年に荒廃し、荒町昌伝庵に併合されました。私は8年程前東京から来まして、新しいですが、観音様の由緒としては、瑞鳳殿より古いことになります。

 うどんげの花は3000年に1回咲くそうで、見る人の気持ちで、幸いもたらす花とも、不幸をもたらす花とも云われています。

 朝夕の陽光、月光が誠 微妙に観音様を照らします。一草一木その命を尊び 自然にしています故 白蛇・蜘蛛等沢山住まいしています。

 なお、参道は62段ありました。瑞鳳殿東参道に倣ったのでしょうか。

メモ
 3000年に1回咲く花を見た人が何人いるだろうか。
 



8 月 1 日 (火)  



 8月になりました。肌寒い気温で長袖シャツ姿も見られます。生ビールより熱燗がうまいと感ずる気温です。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし(日本古典文学全集による)

 平家物語の冒頭 祇園精舎の章で、平家物語の基調をなす佛教的無常観が色濃く、平家一族の興亡生成流転の人間ドラマの骨組みが示されています。

 平家物語全十二巻は、現代語訳であっても 読む人は少ないと思います。しかしながら、この冒頭のくだりは、日本人であれば 古典又は人生訓として 読み記憶していると思っていました。

 涅槃門前の沙羅双樹の木をガイドすると「アー あの木が沙羅双樹 花の色は?」と返ってきます。このクダリについて、講釈される方もおります。知らない人は居ないと思っていました。

 過日 社会的に成功した風情の男性から「沙羅双樹てなにー。平家物語てなにー」と日本語で返答されました。

 あかとんぼ の義務教育以上の学歴ある日本人なら当然知っているとの思いは無情にも蹴散らされました。嗚呼無情





inserted by FC2 system