2006年9月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




9 月 26 日 (火)  



 曇りから 遅くなって 雨です。

 「ぐるーぷ・よっこより」に、仙台駅から定期循環観光バス(ループル)を利用して瑞鳳殿と仙台城址を2時間でガイドして欲しいのご依頼がありました。

 結果的に 仙台駅から仙台市役所前まで 2時間45分でガイドしました。
 64歳男性2人 足腰に衰えはなく、記憶力も現役並です。仙台市内サラッと観光したいの目的には ご満足頂けたと思っています。

 各地を訪れた際 地元ボラガイドを活用している様子。旅の秘策の一つかも。

 24日 ガイドをしましたお客様から 拙いガイドなのに今朝お礼のメールを頂きました。恐縮です。更に勉強します。



9 月 24 日 (日)  



 爽やかな秋晴れ、気分爽快です。

 蛇も日向ボッコに出て来ました。感仙殿に至る石畳に 枯れ木が落ちているな と歩いて30p位直前で蛇と気付きました。1メートル半くらいですから大蛇ではありませんが、一瞬驚きました。一緒のYさんは「私 へび年なの 怖くないの」と蛇とカケッコを始めました。今度は蛇が驚きビックリ 藪に逃げていきました。
 「あかとんぼさん 蛇怖いー」に「鰻の蒲焼きなら大好きですけど、生蛇はネー」

 10年住んだ仙台を間もなく離れるに、想い出つくりにと訪れた盛年の夫妻。茨城から歩いて来たと自称し、日の丸航空隊のごとき鉢巻きしたシルバー20余人等 切れ間無く 沢山の方が参拝にみえました。

 ガイド中の何気ない会話から、職業・業種が連想されます。
 涅槃門で、「用材は青森檜葉です・・・・」。この反応に「アオヒ」と返ってきました。青森檜葉をご存じ無い方が多い中で「アオヒ」と業界単語。釘を見て 「本来なら植物製のくぎを使うのに」  「建築関係ですか」に「そうです」。ナルホド。
 以後、戦前の全景写真、お供所、唐門の写真、建物・石塔の配置図等 供覧する回数の少ない資料を提示してガイドしました。

 涅槃門の菊の家紋を見て、「アッ ひまわり だ」と叫んだ青年がいました。ひまわりのバッヂは、司法関係。検事・弁護士等の司法を目指しているのでしょうか。
 菊と向日葵の区別がつかないようでは、裁判官にはなれないでしょう。

 Yさん、納棺する際、死後硬直との関係に触れたら、10数人の成年女性「あらそんな事 とうぜん」とあっさりの受け入れられたそうです。
 この方々の職業はなんだったでしょうとなりました。「看護婦さん?、それとも葬儀屋さん?」


 あかとんぼ と同年配のオジサン。熱心に聴いてくれます。「五郎八姫の御霊屋は松島 瑞厳寺隣にあります」の話から、先祖は、五郎八姫が松平忠輝と離婚し、越後高田から仙台に帰ってきた時 一緒に仙台に来たと親や伯父に聞かされた。当時は昔話は嫌であったが、仙台を離れて50年、老いたか懐かしく感ずる。人生の終末を古里仙台で迎えたいと シンミリ語りだしました。
 「お帰りなったら 一緒にガイドしましょう。待っています」 ニッコリされました。

 GOOのRSSリダーに「瑞鳳殿」のキーワードで検索すると ブログに「瑞鳳殿」の三文字があれば 全て収集してくれます。参拝者の感想は 非常に参考になります。18日に、 この様な内容がありました

 「ここは伊達政宗の霊屋(おたまや)ですね。すっごい豪華絢爛!派手!さすが桃山文化!!
 ボランティアガイドさんの話だと、仙台には金鉱がたくさんあって金が豊富だったんだとか。なので、それをふんだんに使った建物や品物が多いんだとか。」 

 747年奈良東大寺大仏鋳造中に、陸奥國から金が貢進され、元号が天平から天平感寶と改元された。この時の産金は遠田郡涌谷町の黄金山神社付近と云われ、万葉集にも記載されたと聞いています。
 此処が、政宗公の時代にも産金していた。又 領内に相当量の産金していた金山があったと了知していません。

 政宗公の人生前半における国内外戦の莫大な軍事費、京都滞在費 岩出山・仙台の移転・築城費、仙台城下の建設費 これらの経費を如何に算出したか、民百姓からの年貢だけで賄えたか 疑問に思っていました。
 H代表は 「確実な資料の無いもの、推測でガイドするな」の方針です。当然至極です。

 これらの疑問解決に、H代表は06年02月24日 仙台博物館S学芸員を講師に勉強会を開催しました。「資料が無く 話せません」が結論でした。

 伊達領内何処に金山があり どれだけの産金があったのか、ご教示頂きたいと期待しましたが、先輩は来ませんでした。来週を期待します。



9 月 18 日 (月)  



 本日は15日の「敬老の日」の振替休日で、三連休の最終日です。昨夜来の大雨は休むことなく降り続けています。祝日はガイドするつもりでしたがです。大雨と振替の休日なので、大雨の中を参拝に見えた人々に申し訳ないと思いつつ、敬老会の対象年齢となり、「年寄りの冷や水」と揶揄されないようにガイドを休みました。

 昨日 両親と一緒のお嬢さんから意外な質問がありました。「瑞鳳寺に隣接する墓地に伊達時代の年号が刻まれた 卵形の墓石が コ字に配列した 墓群が何カ所かあったが 瑞鳳殿とどんな関係か」。

 瑞鳳寺は1636年9月忠宗公が、覚範寺三世清岳宗拙和尚をして開山・建立、瑞鳳殿は10月24日落成しています。後に感仙殿・善應殿が創建され、伊達家三廟の維持管理的な目的を持った寺でした。伊達家以外を檀家とす必要も無く 又檀家とする事も出来なかったと思います。当然 墓地は無かった筈です。
 明治維新で伊達家が家禄を失ったことに伴い伊達家からの保護を失い、伊達家の祈願寺であった定禅寺等と共に廃寺になりました。

 1915年に再興されたのが現在の瑞鳳寺です。再興されるまでの期間、鹿児島地方騒擾(西南の役)の国事犯が埋葬され(現・鹿児島七士墓地)、短期間ながら陸軍墓地にもなっていた様です。
 これらからして、お尋ねの墓群は1900年代始め改葬されたものでは推定しています。

 墓参を待って お尋ねすれば一発解明かも知れませんが、個人情報に関わる事であり、又解明しても 社会的に意義あると思えませんので ストップしています。

 以上の様な趣旨の回答をしました。

 この墓群について 詳しい方 教えてください。お待ちしています。
 



9 月 17 日 (日)  



 曇り 間もなく大雨となりました。油断されたか傘を持たない参拝者が居ました。お気の毒に思いますが 傘を差し上げる程の資力が無く、見て見ぬふりをしました。

 朝一発 事務所から13日日誌記載の「高野槇」についてと 感仙殿・善應殿の修復工事経過状況についての資料を頂きました。ガイドするに非常に有効な内容です。感謝です。

 ○○主任から 「政宗公が日光東照宮に寄進した鐵灯籠について日誌に記載ありましたね」と鐵灯籠・由来札(ポルトガルから鐵を輸入し鋳造)・陽明門と鐵灯籠と位置関係等の資料コピーを頂きました。

 ○○学芸員から「伊達家に鉄製御賽銭米俵があったと筈と照会されているが、ご存じ無いか」と鉄製御賽銭米俵の姿図のコピーを示されました。「お賽銭は その昔は お賽米であったので、その縁起から鉄製御賽銭米俵になったと推定されます」との教示もありました。

 お賽銭ではなく お米を喜捨する風習が現在でもあり ナルホドと納得しました。サテ、鉄製御賽銭米俵をご存じの方 教えてください。メール下さい。

 伊達家の家宝・什器の大部分は1946年頃迄に、下賜又は売却の形で伊達家から放出されてしまったと聞いています。昨16日 昔割烹であったと称する店で、政宗公が使用したと称する総漆に彫刻の入った1升入りの箱形水筒2個を拝見しました。之も伊達家放出でしょうか。デジカメで○○学芸員お見せしました。「ヒエー」の感想でした。印刷することにしました。

 高野槇の前で 30分程 ガイドしました。「高野槇です」に即 反応する方、なに寝言云っているのかの無反応の方と五分五分でした。

 仙台市の保存樹木で 場所からして推定樹齢300年余 樹高30メートルの大木です。北限が福島県と云われていますのに、こんな大木になったのは、伊達家発祥の地と終の棲家との関係でしょうか。
 3世代10数人 母親から「庭にあります」 息子が「何故 こんな目出度い木が家にあったのかー」と。この家に瑞雲がたなびくかも。

 ○○三景バスのベテランガイド嬢から引き受けた若い男女40人ほど。15分のガイド中 目玉はこちらを向いて居ますが、聞こえているのか、理解しているのか、面白くないのか、それらの反応全く無いのてす。田圃の案山子にガイドしている感じ。この職場の上司はノイローゼになるのはと 思いました。 



9 月 14 日 (木)  



 皇室の御慶事と瑞鳳殿

 男孫が誕生され、お印は「高野槇」と決まりました。
 
 アッ 高野槇と思いました。感仙殿に至る廟門前左側に、2本の高野槇の大木が聳えています。仙台市の保存樹木として 之までガイドしてきましたが、又一つ増えました。
 実際の高野槇をご覧になって 皇室と瑞鳳殿に思い新たにされる方 多数と思います。

 瑞鳳殿の公式 ブログ「瑞鳳殿 四季折々」に 高野槇二題の興味深い記事が掲載されています。ご一読をお奨めします。

 1.保存樹木の高野槇は4代綱村公時代に植えられたと伝えられる。
 2.江戸・千住大橋は1594年政宗公が 伊達家領内の高野槇で架橋し、1927年まで現役であった。「伽羅より勝る千住の槇の杭」なる川柳もある。

URL 次のとおりです。
 http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/



9 月 10 日 (日)  



 秋を切々と感じます。瑞鳳殿近所の男幼児が爺と虫採りに登ってきました。「オハヨウ」に「ウン」「スン」の反応がありません。こんな躾でよろしいでしょうか。挨拶は社会の基本でしょうに。
 霧雨から、水分補給が必要な程に日差しが回復しました。Yさんから 汗がサーと引いて爽やかになる魔法のシートを頂きました。

 城下では、「定禅寺ストリートジャズフェステバルIN仙台」が催され、交通規制もある故か、昼近くになったら参拝者はピタリと止まりました。
 サブタイトルは「来て、見て、聞いて、一期一演」だそうです。
 あかとんぼのボラガイドは「来て、見て、聴いて、一期一話」です。

 軽薄な服装の4嬢、大声で「幼稚園もオタマヤ。バス停もオタマヤ。何でもオタマヤ。ナンデカナー」「オタマヤとは、霊(レイ)魂の家です。此処は御廟です。此処は政宗公のお墓です。朝一番でお詣りにお出で頂きありがとうございます」と申した途端、嫌ナー 表情に激変。口 チャックになり急いで降りていきました。

 お墓、佛事(ホトケゴト)は、嫌悪施設等でしょうか。それは無いでしょう。貴嬢だって60年経過すれば、廟ではなく、石墓に入るでしょう。祖先あっての現在でしょう。京都・鎌倉観光はされないのですか。

 朝一番の団体のガイド嬢。我を横目に「ナンディー ジッコ」と眺め、「ミナサンー。自由見物です。○分後またね」 お客さんを涅槃門潜らせ さっさと降りて行きました。お客さんは、即刻 反対側に降りて行きました。遠路早朝参拝なのに 勿体ないです。

 容姿端麗・美声のガイド嬢が現れました。内容は正確、聞き惚れるガイドしていました。録音し勉強したいと思いました。

 自由参拝になって数分。このガイド嬢 真っ青な表情で走り登って来ました「○○会のミナサン バスに戻ってください。△□さんが階段で倒れました。救急車で搬送します」 本殿に。資料館にと走って行きました。

 ガイド一区切り後 確認しました。東参道を数段登った所で倒れ 顔面を強打しましたが、命には別状なく、救急救命隊も心臓マッサージの器機を使用する事無く引き上げた様です。仲間は「あの人は 当たった(脳溢血?)事がある それかな」と洩らしていました。予定変更 参拝中止し バスで移動していきました。

 「この拝殿は復元したものですか。この礎石は何ですか。唐門は無かったですか」とYさんに尋ねている ご夫妻との問答の仲間に入りました。

 焼失前の全景、お供所、唐門等の写真に、全体配置図、寄進灯籠配置図を開き説明しましたら「なるほど」と納得。 「古社寺関係のお仕事ですか」に「いや 世で評判の悪い一級建築士です」との返事。

 悪名高い○○一級建築士の○○姓は、伊達家家臣録に記載あり、○○横丁と横丁名もあります。仙台では一応名家です。それを知っての皮肉でしょうか。

 この後、涅槃門の透かし彫り、用材、施工、石垣と仙台城の石垣、弔魂碑は鉄製まで 進展しました。政宗公寄進の鉄製灯籠は日光は参拝していないので、知りませんで。チョンとなりました。話調が合ったか 話されました。

 茨城からの若いご夫妻をガイド。話の流れで、伊達家の始祖は「常陸國真壁郡伊佐庄中村の豪族で・・・・」に 「真壁郡から来ました」 それではと地図を広げました。所在の赤点を見て 「知っている ここなの」

 彫り物に興味あるが、数あり撮影ままならないの言に、本HPを紹介しました。ご覧なった感想は如何でしょうか。お気づきの個所メールでご教示ください。

 本日は、伊達家の伊達姓発祥の伊達市で、「中世伊達氏と伊達地方」と題して第一人者の小林清治福島大名誉教授の基調講演と、伊達家現当主と市長らによ討論が開催されました。時間調整つかず欠席しました。残念でした。 



9 月 3 日 (日)  



 爽やか天候ながら 昼近くには 暑くなりました。全身汗びっしょりでした。お客さんから 「仙台はいつもこんなに暑いのですか」と云われ、素直に「ハイ」と答えました。白河以南からの方々は仙台は涼しいところ、積雪ある所のイメージの様です。

 本日も西欧系の外、ミャーマンを始め東洋系諸国から 参拝に見えました。

 60代早々の男性7人 「ガイドお願いしますー」元気よくのご依頼。「ハィー」。静岡から「JR青春18キップ」を利用し、普通列車14時間要して来ました。瑞鳳殿を参拝したら 気仙沼に向かうそうです。
 「JR青春18キップ」とは、全国のJR線の普通列車が1回2,300円で1日乗り放題です。1人で5回分または5人までのグループ利用ができるキップです。年齢制限が無いから 気持ちが18歳ならOKのようです。
 久能山東照宮、三保の天女さん の地元の方々です。気持ちは若い人々です。なるほど 納得と参拝されました。

 地元仙台郊外の婦人防火クラブの研修会のガイドしました。こちらは体力的にも若い方々、移動が早いのと、素養があるので、1時間15分で 瑞鳳寺山門から までのガイドしました。ガイド付きは わかって楽しいとの講評を頂きました。お役に立ってよかったです。



9 月 2 日 (土)  



彼岸

 ボランティアガイドです、プロガイドではなく 学者ではありませんが、ガイドを聞いてくれた方々に 史実から逸脱しないで 聞いて良かったと 思われる後味の良い ガイドに努めています。

 本殿表面は極楽の構図です。北山の○○寺の曼陀羅絵図と一致しています。涅槃門を説明し、門を潜る際に 「これから極楽まで参ります 極楽ツアーです」と申すことがあります。大方の方は「アハハー」と喜ばれます。
先日 年齢服装からして 地区の指導者風の女性から このセリフの途端、「その先は 彼岸です。ミナサーン」と一緒に聴いて皆様に 大声で語りました。
お彼岸と云えば、春と秋の彼岸会 ボタ餅とおはぎと連想する あかとんぼ は戸惑いました。

三途の川の こちら側は 此岸 川を渡れば 彼岸 其の岸から十萬億の佛國土を過ぎた彼方にある阿弥陀佛の浄土を極楽と 覚えていました。
 涅槃門の門前は 現世で 門を潜るは 三途の川を渡るになぞらえ、門を潜れば「あの世」彼岸 そして三段一段の石段を登って極楽に到達する 仮装の世界を楽しんで貰う。
 この事は 理解する人が理解して 楽しめばよろしいの考え方でガイドしていました。

 極楽の先に彼岸がある 新説に驚き 調べ確認ました。
彼岸は仏教用語。元々梵語(ぼんご)の波羅蜜多(はらみつた)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」のことだそうです
煩悩に満ちた世界「此岸(しがん)」から解脱した悟りの世界、涅槃を指します。こちら(此方)の岸とあちら(彼方)の岸と言う意味だそうで あかとんぼ の知識のとおりでした。

煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土ととらえ、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになりました。このことから「彼岸に墓参り」となり、この時期には「彼岸会」という仏教の法会が開かれ、これが現在の「彼岸」の由来となり、最初に行われた彼岸会は806年(大同元年) に平城天皇が霊を鎮めるために行ったと言われているそうです。



9 月 1 日 (金)  



九曜紋

 1747年8月15日江戸城大広間の厠で、肥後・熊本54万石細川宗孝(32歳)が、旗本寄合衆7000石 板倉修理勝該(カツカネ)に斬殺されました。勝該は平素から精神不安定で異常な行動が多かったので、本家筋の板倉勝清が家系断絶を危惧し、隠居させようとしていました。これを怒った勝該は勝清殺害の機会を伺っていました。板倉勝清の家紋は細川宗孝と似た九曜紋でありました。厠でご用中は、裃の背中の家紋のみが人別の印です。この様な訳で間違われ 襲われたと云われています。また、厠でご用中は、全くの無防備な状態であるところから致命傷を受けたと推定されます。
 諸大名が駆けつけた時、既に細川宗孝は絶命していたとも云われます。ところが、伊達家六代宗村公が「あいやー まだ生きている 即刻 下城然る可し」と絶叫。この機転によって細川家は御家断絶が免れました。宗孝が生存中に後継を弟の重賢(シゲカタ)に決めた事にし、幕府に届け承認を得た後に宗孝の死が公表されました。これで、重賢が細川家七代となり細川家は御家安泰となりました。この謝礼を如何すべきか細川家では困惑したそうです。

 この時から155年遡る1592年文禄の役の際に、晋の時代(200-400年代)の将軍王義之の書が発見され、世界唯一の名筆として お互いに欲しがり 結果として2分し 細川家と伊達家の門外不出の名寶として秘蔵したそうです。
この書が、細川家から伊達家に謝礼として贈られ、ここに政宗公の悲願が155年目に成就したそうです。
細川家では、深く伊達家を徳として、子々孫々まで肝に銘じ、細川公は足を仙台に向けて寝なかったそうです。して、戊辰の役で 仙台城が焼却されなかったのは、西軍に肥後・熊本の兵がいて、先祖伝来 承知していた為であったと云われています。

 この名宝が、1935年5月 斎藤報恩博物館で展示され、伊達家16代興宗伯爵夫妻が、家令の案内で参観されたそうです。

さて、この秘宝は現在何処にあるのでしょうか。仙台市博物館に所蔵されているでしょうか。国宝の指定はされていないのでしょうか。
博物館には所蔵されていませんでした。学芸員の指導の元に「伊達家寄贈文化財目録」外を調べましたが見当たりませんでした。

 「九曜紋」は伊達家を代表する三家紋の一つであります。これは、政宗公が 特に細川家から使用を許されたもので、東西二大名しか 使用を許されていないと知らされていましたが、そうでも無いようです。
1189年から連綿続く、六万石の相馬家も九曜紋です。
1747年の事件に関与した板倉勝清も九曜紋です。

 瑞鳳殿参拝者の方々にも 家紋は九曜紋と語る方が数おります。その由来を語る方はおりません。大名・旗本筋の家系ではないようです。
 九曜紋の一般化の現象でしょうか、国産乗用車のストップライトに九曜紋があります。目の前で 突然 九曜紋が点滅・輝いたには、葵の印籠を示されたと同様に驚きました。
 
 瑞鳳殿本殿の軒瓦に燦然と輝く「九曜紋」に、この様な話があるとは驚きです。

本稿は、8月28日開催の ガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会で配布された資料の中に、1935年5月14日付けの地元河北新報のコピーがありました。勉強会の内容とは異なりますが、九曜紋にかかわる伊達家と細川家との縁(エニシ)の記事があり、それを中心にまとめました。

メモ
王義之は350年(永和4年皇紀1008年)楽毅論(ガクキロン)なる書を表しています。
1981年1月刊行 復刻書道史大観によりました。





inserted by FC2 system