2006年10月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




10 月 30 日 (月)  



 仙台ユネスコ協会主催「伊達な世界・華開く芸術文化」と題する講座が、瑞鳳殿で開催されました。講師は加藤学芸員で、詳細な資料で、瑞鳳殿から妙雲界廟迄、霊廟前で2時間の丁寧な解説で、勉強になりました。
 
 普段のガイドが惰性に流れていないか 反省の機会となり アッそうか等の発見もありました。列記します。

1.涅槃門の麒麟の説明の際 瑞獣として亀と鳳凰がいる。私は今まで鳳凰を加えないで説明していました。
2.1945年の焼失迄、本殿参拝と拝殿参拝とがあり、本殿参拝は限られていた。創建当時からの構造と涅槃門を潜れたのは限られた人からすれば当然の事。
3.伊達領であった岩手県南部の有名な民俗舞踊「獅子舞」に、九曜紋が使われて例が多い。
4.本殿の飛天の周囲は、涅槃門内側蟇股と同じ 五色の瑞雲である。これも、涅槃門から案内した人に話さないと 気がつかないと。


 「く゜るーぷ・よっこより」の仲間の数人おり、瑞鳳殿の寶筺印塔の所で「向かって右が8人、左が7人 これはなぜか。配列に定めがあったのか」の質問がありました。
 「配置名簿から、伊達家での家格順位で 右から左に配列されたものと推定します。調べてみます」と答えました。思いつかない質問され、ドッキリすると共に調べる種が出来て嬉しいです。

 外国語専門学校生の現地研修が前後して行われていました。メモを見ながら非常にタドタドシイ発音でした、伊達家・細川家をダテフォミリー・ホソカワフォミリーと云っていましたが、正しいのでしょうか。違和を感じますが。
 「トクガワショウグン」との言葉ありました。徳川家・徳川幕府と云いますが、徳川将軍とは日本語では聞きません。和英辞書では将軍はa general;で 将軍家は the shogunateとなっています。違和を感じますが。



10 月 29 日 (日)  



 朝一番 ひたちなか市からの団体。バスは御霊屋橋を一緒に渡って右に、我は左に別れ、暫くしたら登って来ました。立看板を見た気の利く人「ボラガイドさん いる 頼みましょうよ」「幹事さん よろしいですか」「無料なら頼みます」 誠に財布ガッチリ握った幹事さんです。


 お役人風の方、ベンチに腰掛けた儘、「ここに仙台市民は来るのか。ここの所有は誰になっているのか。面積は、何平方か。税金は何々 幾ら納めている。伊達家はどうしている」の 矢継ぎ早のご質問。 
  
 「参拝者は仙台市民を初めとして全世界からみえます。ここは仙台市の史跡公園になっています。維持管理は財団法人瑞鳳殿が行っています」と答えました。しかし、ボラガイドに対する質問ではないと思いますが。


 仙台市長町中学生が母親・伯母さんと見えました。プレートに記載された奉納灯籠の名前を丹念に探っていました。「茂庭」「松山」と連発していたところから 松山の茂庭氏の末裔でしょうか。母親は「原田甲斐の奉納灯籠はないのか」のお尋ね。

 「現在はありません。1919(大正7)年廟守石田さんの記録にもありません。仙台東照宮は 奉納されたが 寛文事件で撤去したと記録されています。ここには、その様な記録はなく、創建当時 奉納されたかは確認出来ません」と答えました。

 中学生から「ガイドしてください」の力強い要望に応え、手持ち資料を惜しみなく公開しガイドしました。伯母さん達 「この子 勉強しているのよ」と絶賛するは 本当 よく知っています。本HPをご覧くださいとURLを差し上げました。


 「仙台3年3ケ月単身赴任し 毎晩 国分町を楽しんだ」「今は 東京から茨城に移り 土を楽しんでいる」と自称され 定年生活を満喫されている様子のご夫妻。
 単身赴任戦跡訪問の旅 仕上げは瑞鳳殿と 楽しんでいました。

 「先程 唐獅子で 阿吽と申されたが アウンの呼吸はわかるが 阿吽とは なんぞや」のご質問がありました。

 「阿吽は サンスクリット(梵語)の最初である「ア」と最後の「フーム」で、密教ではこの2文字が万有の始原と究極を象徴するとしています。それで、私は阿は修行の始まり、吽は終わり、阿吽で悟りの境地と理解しています」「なるほど」


 女性3人。「私たちの友人 先日出産したの 政宗 と名付けたの 読みだけでなく この字です。その記念に参拝に来ました」 「ハー さぞかし エラクなるでしょう」と申し上げましたが、名前負けしないで下さいと密かに思いました。 



10 月 28 日 (土)  



 昨27昼 突然 電話で明日午後 瑞鳳殿を二人でガイドして欲しいのご依頼。
H代表は海外出張中で充分な連絡とれないままに どこで どうなったか 私に電話が来たらしい。Uさんは予定変更 気持ちよく応じてくれました。

 この人々は、群馬県甘楽郡○○町の先端産業に従事されていて、昨日 米沢から高畠に、山寺を参拝 天童で広重美術館を見学・宿泊。本日は塩竃神社を参拝し笹かま工場見学し、瑞鳳殿参拝するコースだそうです。昼食に牛タン定食は出なかったそうで、又、お土産売っている所に連れて行かないとブツブツ。

 瑞鳳寺で待機。62石段の前で 「これから登りですよ」に「イヤー 山寺 奥の院参拝したから ヘイキ ヘイキ」と云うが 昨日はだいぶ 脚に応えた様子。バスは予定時刻より到着が遅れ 1時間余の参拝ですから 発車は16時近くです。 これから ひた走り 東京を通り抜け 帰るそうです。早くて5時間は要するでしょう。高速自動車道が整備されたからこそ こんな遠出ができる訳です。

 こんな話題がありました。
1.米沢で 上杉家の廟所を参拝してきたが、質素であった。伊達家は派手・豪華だ 其の違いは何だろう。
2.伊達家は金を豊富に使っているが、なぜ金が豊富にあるのか。
3.弔魂碑 戊辰戦争 ソレナンダ。知らないよ。
4.伊達家は 幕末で断絶したのネ。
5.政宗像は偽物だ。眼帯が無いのはなぜか。両眼あるでは無いか。

1については、伊達家と上杉家の家風の違いでしょう と返事しました。
 これは、上杉家は、豊臣秀吉から会津120万石を拝領、関ヶ原の戦いで 徳川家康に敵対し米沢・福島30万石となりました。1664年三代綱勝が後継ぎを決めない儘に急死し、御家断絶となるべきを米沢15万石に削減 安堵になりました。
 現在の廟所は、1623年米沢初代が亡くなった際に創建されたのが始まりです。
30万石の時です。ですから、単に62万石と30万石の差ではなく 家風の違いと見ます。

 待機中の13時から14時30分の間 大型観光バス10台余入り、降車・駐車と渋滞になりました。ガイド嬢からガイド依頼がありましたが 応じられませんでした。お互いに残念でした。Uさんも「この人々にガイドすれば 喜んで貰えるのに」と何度も呟いていました。

 紅葉の季節 仙台で牛タン定食の昼食 瑞鳳殿参拝 仙台城見学 秋保か作並温泉宿泊のコースでしょうか。



10 月 23 日 (月)  



 終日 冷たい雨 大雨です。

 ボラガイドの仲間の勉強会の日です。前回はガイド依頼があり欠席しました。
 朝 早々 昨21日の日誌を読んだUさんから、「Yさんに渡った資料 僕も欲しい 持参して」の電話。

 バスは雨で渋滞遅延 このままでは絶対遅刻と 途中から地下鉄に乗り換えたら 後1駅の所で 「人身事故発生 運転中止」の告知 歩いて東日本鐵道の駅に。結果10分のみの遅刻。

 本日は 仙台駅東口方面に所在する伊達家縁の寺巡りの予定でした。大雨と予想以上の多参加から、二代忠宗公正室徳川氏振姫と三代綱宗側室三沢初子の墓所と両人が帰依した孝勝寺を訪れたに終わりました。

 墓所は施錠されており、墓所に入ってのお詣りは出来ませんでした。以前は、開封して貰い参拝しており、今回は遙拝に終わり、初めての参加者はガッカリしたでしょう。日蓮宗身延山久遠寺派孝勝寺は、本堂入室が許され、併せて忠宗公正室徳川氏振姫像の撮影も許されました。本日最大の収穫でした。

 K先輩はゴム長の完全防備で参加していました。「 K先輩の先見性の勝利ですね」と申したら「ウフフ  以前の勉強会での孝勝寺末寺法輪院の木鼻 写真頂きました。よく撮れていて飾っています。年賀状 毎年 瑞鳳殿を主題にしており 楽しみにしています」 朗読の先生です。よい声で そう申されると コマッタチャタな。



10 月 22 日 (日)  



 濃い緑の森ゆえに 些か冷えます。

 感仙殿・善應殿の改修工事に関連する企画展示が、拝殿と資料館ロビーで開催されています。
 二代忠宗公・三代綱宗公の年表・業績等の外、霊廟を彩る彫刻の一部、作業工程等が展示されております。「山椒は小粒でも・・・・」の味深い内容です。観覧をお勧めします。

 霊廟を彩る「天女さん」 化粧直しをされたお一人がおりました。綺麗になりました。学芸員の○○さんに 「全員お揃いになったら 是非撮影させてください」とお願いしましたら 快諾 頂きました。宜しく。
 図録を作る計画もあるそうで、参拝者には、よいお土産と喜ばれるでしょう。

 展示を見ていた30代後半男性から、「故あって逼塞とは なんですか」と訊ねられました。「歌舞伎・浄瑠璃などご覧になりますか」「興味なく 見ません」予想通りの答えです。「伊達騒動とは聞いたことあります」「かすかに」
 伊達家の名誉を守りつつ、「故あって」と「逼塞」について説明しました。

 背中に○○高等の文字入り女子高生から「先生!」のかけ声。○○県選抜バトミントンの選手団の先生でした。「此処は政宗公の御霊屋です。必勝祈願されれば・・・」「負けたので 観光です」「何年生ですか」「2年生です」「今 きっちりお詣りすれば来年は必勝でしょう」「ハーイ」全員 本殿に駈けのぼりお詣りしていました。「来年 又 来てネー」「ハーイ」まことに素直な高校生です。

 高校生に手持ち資料で説明の最中、50代教頭風が割り込んで「政宗は遺言で片目になった」と大きい声。支離滅裂な事云わないでくれ。 現地の人間が資料調べて話ししているのに。政宗公も目を白黒にして驚いて居るでしょう。

 米國ライス国務長官を交えた様な美女集団10人ほど、手洗鉢の龍を撮影始めました。「コンニチー」「こんにちわ」日本語通訳はいません。挨拶は出来ました。さてと「日本語できます?」 「no speaking japanese」に「no speak in english」と。

 涅槃門前では、日本人参拝者とは異なる位置で撮影しあっています。センスの違いでしょうか。年賀拝礼の写真を見せました。「オー サムライ」「サムライ」と大喜びです。
 本殿を望める位置で「best position」 通じました。彼女達は撮影しました後 石段に並んで 帽子を取って貰い 集合写真のシャッターを押しました。

 本殿前で「door open」と 手持ちの「須弥壇に座す御木像」の写真を開きました。理解満足したのか「good」、硬貨を示して「コロンビア」反転し「ツリー」と口々に。頂きました。
 帰宅し調べました コロンビア共和国500ペソ硬貨で 「ツリー」はグアキ(地名?)の名木らしいです。el arbol de guacariと記載されています。在日コロンビア共和国大使館に照会すれば一発でしょうが、おわかりの方教えてください。

 長時間 中年女性をガイドし、日向で暖まっていたYさん。「韓国の方 日本語この位と云われたの」と指を数p開きました。「あかとんぼさん 美女に囲まれ楽しそうだったね」 「イヤー 中学英語 三単語だけ」。
 指を数p開いた日本語に、長時間ガイドするYさんは偉い。

 清掃担当の○○さんから「政宗公の戒名を説明したら 二代・三代の戒名を訊ねられた。教えて」と。三人の没年・没年令・身長(メートル・尺)・血液型・戒名を記載した手持ち資料を事務所でコピーし差し上げました。更にコピーを○○さんはYさんに。
 ○○さんはペラペラしないで じっくり勉強しています。今度 10月30日開催のユネスコの開放講座(瑞鳳殿)に参加するそうです。勤務の無い日 一緒にボラガイドしませんか。 



10 月 18 日 (水)  



 政宗公の財政について

 伊達もの と云われた派手な衣装 豪華絢爛 豪壮な建築 その財政について総括した研究論文に まだ 接していません。 

 1636(寛永13)年2月 政宗公は 徳川幕府から 銀1000貫 借用しました。その使途等は不明です。財政逼迫を示すものではないでしょうか。
 銀1000貫は 金に、又 現在の金額に換算して幾らか。要研究。 

 その起因とも推定される 政宗公の領外での 大工事等を列記すると次のとおりです。

 政宗公が徳川幕府に行った土木工事は、1606(慶長11)年 1607(慶長12)年 1611(慶長16)年 1616(元和2)年 1629(寛永6)年 1636(寛永13)年の6回あります。

 1606(慶長11)年の工事は、江戸城天守台二重の櫓工事で、政宗公が希望したものです。1636(寛永13)年の工事は 政宗公の逝去で中途終了となっています。
 上記工事個所 規模 工事費等は要研究課題

 1611(慶長16)年には、女婿松平忠輝居城 越後高田城普請には 工事担当のみならず監督に、高田に赴いています。

 京都 禁裏の造営に、1611(慶長16)年 1612(慶長17)年と2度奉仕しています。

 大規模・豪壮な江戸櫻田屋敷は 1615(元和元)年 1621(元和7)年 1635(寛永12)年と三回焼失している。此の再建費用は幾ばくか。

これらの経費を如何に 捻出していたか。要研究課題です。

 本稿は 1635年5月 畔祖伊達政宗公三百年祭協賛会刊行 「伊達政宗郷」によりました。 



10 月 15 日 (日)  



 本日はよんどころない用事でガイドを休みました。毎日曜日午前はガイドしていますと宣言している手前 万難を排していますが、排しきれない切れない浮き世の掟があります。

 今年 日曜日休んだ日は、1月15日 6月11日 8月15日です。



10 月 14 日 (土)  



  瑞鳳殿 拝殿扁額は一流の書家 佐々木文山の書です。伊達領内に今一枚 あるを知りました。
 七ヶ浜町 湊薬師堂の扁額が佐々木文山の書です。現在は他所で保存されているらしく お堂には掲げられていません。
 本情報は、七ヶ浜町歴史資料館で知りました。同館にも展示していませんでした。

 以上は「四ッ谷の水を街並みに! 市民の会」の大代運河現地勉強会の成果です。



10 月 10 日 (火)  



 本日は快晴 爽やかです。

 10月10日は晴れの特異日  故に東京オリッピック開会式日に決定し、記念し
以来 体育の日(祝日)となった。由来に関係なく変更した故に晴天とは限らなくなったようです。

以下 参考事項

 標題「仙台年表 慶長5年から昭和30年迄」 昭和60年12月発行の本を読む。
 1600(慶長5)年7月12日 政宗公名取郡北目城に着す から記載されており伊達家の動向を手軽に知るに非常に有効な図書です。書店で果たして購入出来るかが疑問です。

 直近話題で オヤッと感じた事項は、
1950年10月05日 政宗公書状 本吉郡柳津富家家にて発見(河北新報)
1951年12月19日 伊達家家宝類 仙台市に譲渡(毎日新聞)
1955年06月04日 大年寺山 伊達家代理人により改造され、発掘墓地から田辺希文の碑文発見さる。(河北新報)
1955年02月15日 松島の円通院・陽徳院・天麟院の三霊廟 伊達家から町有に移管さる。(河北新報)

田辺希文とは
1756年11月17日 田辺希文意見書を上り、往生寺原及び七日原牧場の取立、白石城付近銀山発掘の議、家中知行を蔵米に改むる事其他を述る。(本吉郡誌)
1772年12月26日 儒者田辺希文卒す (仙台双書)



10 月 9 日 (月)  



 快晴です。昨日までの荒天は嘘のようです。

 9時開門と同時刻 事務所は券売担当以外不在でした。ハテナと思っていたら、竹箒を肩にかけ帰ってきました。参道等の落枝の清掃を全員でしていたのです。

 振替休日・三連休 最終日 友人・家族連れが主流でした。
 7月17日孫子と参拝にみえた古老、また参拝に見えました。先日一緒しなかった孫を連れて来たそうです。今日は自分がガイドするから 不用と申されました。お元気です。添乗員役の孫から「先日はありがとうございました」と云われました。恐縮です。

 日本で2番を競う○○旅行社案内の一行、鹿児島から二泊三日の行程。漁船が遭難し16人死亡したあの荒天の日 現場に近い気仙沼に泊まったそうです。観光の際は風雨が無かった。松島遊覧船にも乗った。海鞘・雲丹・牡蠣と三陸海岸の美味も堪能したそうです。瑞鳳殿も参拝したと喜んでいました。良かったです。随分 普段の心がけのよい人達の団体です。

 鹿児島イコール薩摩揚げ となりましたので、お返しに 仙台イコール笹かま と申し 美味しいですよ。薩摩焼酎にも合いますよ お土産にどうぞと勧めました。

 本殿の向揚羽蝶を 「これ なにに みえますか」と問うたところ、そく 「あいたくち」と返ってきました。開いた口がふさがらない 状態になりました。
 誠に ユゥモアに溢れたお嬢さん達です。

 「本殿を撮影してもよいか ここはお墓でしょう バチあたらないか」と 初老のご婦人に確認されました。「どうぞ あたりません」と答えました。
 「お賽銭をあげ 丁寧にお詣りしないと あたります」と申し上げたい気持ちもありましたが 要は本人の気持ち次第ですから。

 仲間のUさんに これ以心伝心したのか、「お賽銭 どの位上がるのかな あかとんぼさん 見当つく」と申します。
 「仙台市役所 情報センターで 財団の決算書を公開していますから 閲覧されれば・・・・・」  興味ある方 どうぞ 閲覧して下さい。 

 案内プレートに 狩野安信描く 政宗公の肖像画があります。「どなたに見えます。直感でお答えください」 8割の方が徳川家康と答えます。政宗公の御霊屋ですから政宗公の肖像画以外ある筈無いのに。
 「アベさん」と答えた方 2人もいました。時の総理の阿部さんです。ナンデ 時の総理の顔になるのか。ヨイ男の顔なのかナ。予想外のお答えにオドロキビックリモモノキです。



10 月 8 日 (日)  



 南米 メキシコ・グァテマラ・ホンジュラス・ニカラグア・コスタリカ・パナマ・ジャマイカ・ドミニカの国々からのドクター 盛年男女15余人、JICAの研修で、瑞鳳殿参拝に見えました。

 涅槃門の菊の紋章を背景に日本人は取りあえず一発撮影します。彼等は 菊の紋章は眼中に無く、外妻の唐獅子や、手水鉢でも 吐龍ではなく懸魚を撮影していました。センスの違いでしょうか。
 
 JICA職員はNPOボラティアと紹介し、次のような交流・会話がありました。

1.年賀拝礼の為の羽織袴・裃姿で登段する写真を見せましたら、「オオ サムライ」 サムライは 国際的 と実感しました。

2.寶筺印塔を何かの質問があり、「殉死者の供養碑です。 最若年者は20歳と何ケ月です」に 「オオー セップク」と。最若年には 理解を超えている の表情でした。

3.ドクターらしく、「生年と亡くなった年は」 「1567年生まれで、亡くなったのは1636年で、68歳9ケ月でした 当時としては長命者でしょう」 なっとくの表情。

4.「何処で、なんで亡くなったか、病名は、身長は」の質問が続き、 「亡くなったのは、江戸桜田屋敷 現在の東京・日比谷公園です。病名は、噴門癌で腹膜炎を併発。腹水が溜まり胴回り1.17mにもなり、食べ物・飲み物が食べれなくなり、槍で突く真似をし 驚かせ口を開いた瞬間に飲み込ませたと言う話も伝わっています。身長は159.5cmで 当時としては偉丈夫であったようです」

 ドクター達は何科専門なのか? 思い当たるところあったか 軽く頷いていました。

 東京・淀橋の○○業の親睦団体25人ほど、バスガイド嬢の宜しくのひと言。菊の家紋のお屋敷前でご商売の方々です。涅槃門の家紋からガイドしました。チャチャ入れる事なく真剣に聴いて呉れ、最後に本殿前での記念集合写真に一緒にと誘われました。さすが 日本一の場所で商売されている方です。

 10時すぎ、涅槃門前で待機していたら、アルコール臭がします。ハテナと思ったいたら 30人余の青年が登って来ました。10m離れても香ります。バスガイド曰く「仙台駅から案内してきましたけど、新幹線発車と同時に飲み始めたらしく、此処まで来るにも一騒ぎ、此の後 一日が心配だわ」と。
 ガイドを聴ける状態ではありません。恙ない旅行を祈りました。


 本日は団体が多いです。昨日も多かったそうです。

 昨日の暴風雨 何故台風と呼ばれないか不思議。台風以上の強風と豪雨で外出出来ませんでした。列車は終日 仙山線以外 全線運休でした。参拝者は皆無であろうの予想が 正反対の結果です。
 松島・塩竃間の遊覧船が欠航で、バスが暴風雨の中 ナントカ走れる仙台市内で 松島遊覧に匹敵する処は 瑞鳳殿 となった結果のようです。
 
 朝 虹が出 天候は回復したのかなと思いましたが、天気雨と強風が依然として続いています。「ボラガイトさんの車に 風倒枝が落下していますヨ」の知らせが入りました。
 Uさんの車のボンネットは直径5cmくらい凹でいました。杉の太い生枝が直撃したのでした。私の車の周囲にも小枝が積もっていて、小さい傷が数カ所ありました。職員の方々も 被害を受けたでしょう。色によっては見えないだけで。



10 月 2 日 (月)  



ブロク 最新記事にみるボラガイド

10月01日付け (新婚女性と文章全体から推定)
 右がお墓がまつられている瑞鳳殿です。このお殿の地下3メートルの石室の中に、宝物などといっしょに、政宗公が祀られていました。いまも眠っていらっしゃるそうです。とてもカラフルないでたちですが、赤は珊瑚の赤、白は真珠の白から色をとっているそうです。
こちらのお墓ではボランティアのおじさんが、杖やファイルを手に熱心に教えてくれました。
ホテルをでてわずか1時間半の間でしたが、なんとも充実した午前中でした


09月22日付け (お葬式に帰省した若者と推定)
まず最初に瑞鳳殿に行きました。
行く途中に坂や階段があってお年寄りにはつらそうです。
観覧料が550円なんですけど どちらかというと内容に合わず高いです。
で、中身の話。 とても豪華絢爛でした。そばにボランティア?の人が居て説明をしていました

上記の方々に記憶はありません。杖やファイル使用は確かに 私あかとんぼです。
観覧料が550円は、素通り参拝では 高いとの感じでしょう。デモ、私たちボラガイドと一緒に参拝すれば 黒字 充実感に溢れると思います。その様に努めています。



10 月 1 日 (日)  



 爽やかです。

 開門早々 京都・大阪・広島からの三嬢。タクシー氏からガイドしての依頼。本殿前で阿吽の竜頭と「一見 キスしている様子」の記念写真を撮す等 参拝を愉しんでいます。ガイドをゆっくり聴いて頂けることは有り難いですが、貧乏性の芽が「お客様 メーター大丈夫ですか」 このひと言 効きました。即効性がありました。
 魔法から覚めたお姫様になり、「運転手さん 飛行機 間に合わない 仙台駅に急いで」 資料館も見ないで降りて行きました。
 余計な事 云ってしまったようです。失敗です。

 祖父母が四国から、秋田の在から、仙台に住む息子一家との参拝の 2組をガイドしました。息子が運転手、嫁さんが添乗員の役でしょうか。何れもさりげない気配りで接待し、家紋の「竹に雀」の話から、嫁さんが、孫を促し「ささかま」工場を学校で見学した話すると祖父母は目を細め、三世代睦まじく参拝していました。
 「竹に雀」の家紋から「ささかま」に至る 連想性に感心しました。

 感仙殿・善應殿に参拝しないで直で下山される方が目立つました。「只今 お化粧中です」とガイドしないのに どうして知ったのでしょうか。瑞鳳殿で満足されたのでしょうか。瑞鳳殿は前広場から禁煙地区になっています。
 瑞鳳殿を参拝すると緊張するのでしょうか。感仙殿前の広場で ホッとした表情で喫煙している方 常に2組くらいいます。木立の中で満足げな様子で紫煙を登らせています。

 本日のご質問は、次の2問でした。
@本殿の「瑞鳳殿」の扁額は政宗公の嫡子忠宗公との説明であるが、宇和島の始祖は長男と聞いているが、長男が2人いることがあるのか。何れが先に生まれたか。
A伊達家は存続しているのか。何をしているか。
 答えは、
@宇和島始祖秀宗公は、側室との間の長男で1590年生まれです。仙台忠宗公は、1599年生まれで、正室愛姫との間の長男です。
A存続しています。仙台にお住いです。

メモ

 9月24日の日誌に「伊達領内何処に金山があり どれだけの産金があったのか」と記載しました。調べました。

 1598年 諸大名が秀吉に黄金を献上した際の記録「蔵納目録」によると、伊達政宗公は700枚(115.5s)献上し、佐渡金山を持つ上杉家に次いで多かった。
 1591年 奥州藤原氏以来の産金地帯 葛西・大崎を支配した事により、積極的に金山開発した結果と見られる。

 「747年奈良東大寺大仏鋳造中に、陸奥國から金が貢進され」の金は砂金が主体であった。

 1741年の記録によると、金山の外 銀・銅・鉛の山を「御金山」と称し、金奉行の下に11人(家)の御金山外下(オカナヤマゲダイ)が統括した。

 領内の金・銀・銅・鉛の山名はわかりましたが、山別・年別の産出量迄は 調査未了です。

 以上は 2002年発行 仙台藩歴史事典によりました。
 





inserted by FC2 system