2006年11月の日誌
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11 月 27 日 (月)  



 大氷雨の中 善應寺に詣る

  綱宗公は1711(正徳元)年6月に行年70歳で江戸で亡くなり、経ケ峯の御霊屋「善應殿」に祀られました。その生涯は、歴代の殿様が経験し得ない人生でした。
 さて、4代綱村公は、逼塞している綱宗公の為に、1697(元禄10)年甘棠山聖コ寺を建立し、亡くなった綱宗公が住んで居た江戸品川屋敷の殿舎を移し、大雄山善應寺とあらためました。 臨済宗妙心寺派で 仙台市宮城野区燕沢二丁目に現在も所在しています。

 ガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会が、本日大雨の中 ここでH代表が講師で開かれました。勉強会大雨は3回連続です。デモ、ドダキャン無く 今回も30余人が参加しました。その魅力はなんでしょうか。

 2大学の3学生が、シニアの活動調査として参加し、「ぐるーぷ・よっこより」以外の組織や瑞鳳殿以外の個所で、ボラガイド活動に従事されている人数を挙手で確認したところ、10人ほど居りました。どこでボラガイド活動されているのでしょうか。多賀城・仙台城・博物館の外は。

 H代表は、既に10年間延べ120回以上 講座を開会しています。デモ、「ぐるーぷ・よっこより」としてガイド活動に常時参加しているのは10人足らずです。狭い解釈をすれば、幾ら自分の畑で種を播いても開花していない事になります。おおみこころで見れば、また別です。
 仙台城・博物館のガイドとは異なり、屋外活動ですから暑い日 寒い日もあります。自然に接してのガイドは健康維持に有効です。一緒に活動しませんか。



11 月 26 日 (日)  



 雲一つ無い快晴 小春日和です。

 全山樹木は 紅と黄に、緑と 錦織にもえ、桃山様式の豪華絢爛な廟所は秋の斜光に照輝しています。
 太陽の動きは早く、それに合わせて、一瞬のひかりで色々な色合いを見せ、かがやいています。

 いいひかり具合、シャッターチャンスと構えると「ガイドできます」のお声。お断りする訳いきません、ガイドが終わり 撮影しようとすると 光線の具合が変化し、もう駄目です。今度は参拝者は、登って来ません。儘なりません。

 ガイドの合間に何枚が撮影しました。「秋の瑞鳳殿 撮影会2006年」の参加作品の原画は確保しました。29日には提出します。
 
 朝一番の参拝者は、タクシー利用で、運転手から「かわりにガイドして」でガイドしました。朝一番タクシー利用です。真剣に聴いてくれます。懸命に語りました。四国高松からの四熟女でした。拝殿扁額の色絵具は「珊瑚と真珠」ですに、地場産品である宝石の現状をサラリと語られ、伊達様すごいと驚嘆していました。
 
 H代表も懸命に撮影していました。どんな作品を出すのでしょうか。Yさんは来年春まで冬休み入るそうで、今年は今日限りと張り切りガイドしていました。あかとんぼ は積雪でない限りやすみません。
 紅葉の盛りも今日限り。後は、落ち葉となり飛散し、枯れ木の山となり、残るガイドは枯れ木のお爺さん。いささか寂しくなります。

 Yさんは「年寄りは風邪を引くと一発で彼岸ょ。お気を付けて。来春元気でお会いしましょう」と。さすが人気NO1ボラガイドのお言葉です。有難うございます。



11 月 23 日 (木)  



 祝日。勤労感謝の日。働ける事を感謝する日と理解し、午後から瑞鳳殿に。

 「ボラガイドいます」の標識を置いたトタン。女三世代の方から「できるー」のお声。車でお出でになったそうで、「下馬石」の話をすると、長老の方、「仙石線に下馬という駅あるよ」の話。文山の扁額の絵の具「珊瑚と真珠」と説明すると「赤珊瑚 採れないの。高いのよ」 再建の話をすると「標柱のみ立っていた」と、よくご存じです。

 こんな話もされました。「向山に伊達家の墓地があったが いつの間にか売られて無くなった」と。
 「伊達家の墓所は大年寺山にあります。あのテレビ塔の方向です。そこ非公開です。向山にあった事も、殿様の墓を売却したとの話は聞いた事ありませんが」

 今日の特記質問は、
1.墓室から発見され 国宝になった 支倉常長のローマ土産とされるペンダントの材質は何か。
 
 ヨーロッパ伝来と思われる品は4点あり、1点は、金製のブローチで、外径3.8センチ 重量12.5グラムです。1点は、銀製ペンダントで縦4.5センチ 横4.2センチ左右にバルメッキ(椰子科)の模様があります。残り2点は手元資料に記載なく 只今不明です。

2.寶筺印塔の名簿に、片倉小十郎の名前が無いのは何故か。殉死しなかったのか。

 政宗公の有力側近として有名な片倉小十郎は、10歳年長の1557年の生まれです。1615年10月4日享年59歳で亡くなっています。政宗公が亡くなったのは1636年5月24日です。政宗公より21年先に亡くっています。
 年月日は何れも陰暦表示です。


 現在、瑞鳳殿・経ケ峯地区の写真を事務所では募集しています。多額の賞金があるらしい?で、混雑しないし、光線の具合からも、撮影最適と思いましたが、ガイドを頼まれ、している内に、お日様は青葉山蔭に入り 狙いの写真は撮れませんでした。残念。26日再度挑戦します。

参考
 大年寺山・伊達家の墓所は、「茂ケ崎山旧大年寺伊達家廟所」と称し、2ヶ所にわかれています。奥の霊屋を「無尽灯廟」と称し、4代綱村、5代吉村夫妻、10代斎宗夫妻、12代斎邦夫妻の7基があります。
中と前の霊屋の「寶華林廟」には6代宗村夫妻から、「無尽灯廟」と「妙雲界廟」に祀られた以外の殿夫妻等から17代貞宗氏迄20基があります。

 仙台市の風致地区に指定されて居ます。大年寺風致地区は67.2ヘクタール、霊屋風致地区は10.6ヘクタールです。なお、霊屋地区は「経ケ峯史跡公園」にも指定されています。



11 月 22 日 (水)  



 丸森町観光ガイドの会のみなさま10人ほど 瑞鳳殿地区をご案内しました。

 丸森町が誇る文化遺産「斎理屋敷」で普段 ガイドされている方々で、当然、伊達家、政宗公については充分知識を持っている方々ですから、厳しいご質問があるかなと、内心緊張しました。
 デモ、観光ボラガイド仲間と 遠慮されたのか、再建寄付御芳名録の上位に町名(丸森町)を見出して満足されたのか、ご質問はありませんでした。

 次の訪問先の都合から1時間で案内してくれとの御依頼でした。瑞鳳殿を初めて参拝する方が多く、又歴史の素養が深い方々です。移動しながら聴くタイプでは無く、じっくりタイプです。結果的に1時間25分を要しました。

 「2時間頂ければ、完全満足、心ゆくばかりの見学出来ます。又 おでかけください」と伝えたら「ウン ウチも2時間は 欲しいんだ。10〜20人くらいの団体で。それがバス2台で60〜80人、30分で全部ガイドしてくれ と云われるノッシヤー。説明するにも 伸びたうどんみたいにダランとして 纏まらず 大変ナノッシャー」とガイドの苦労をポロと洩らされました。

 券売専門の○○嬢、手すきにガイドをしたいと、19日H代表のガイドを見聞したそうです。21日 早速 小学生をガイドしたそうで、「本日 あかとんぼ のガイドを見聞し録音しても宜しいか」に「ハイ ドウゾ」

 録音再生されると 訛り 話ベタ 歴然とし 汗タラタラなりますので そうそう退散しました。
 20代のお嬢さんガイド 本格稼働すれば 参拝者が増え、お爺さんは引退する事になでしょう。その日の早い事を期待しています。ガンバッテー
 



11 月 18 日 (土)  



 天気予報は外れて、曇りで寒気の夕暮れです。

 薪能「雪待月 能楽の夕べ」が涅槃門前広場の四季瑞景亭を舞台に開催されました。舞台照明は、篝火2基です。

 瑞鳳殿市能楽協会に加盟する5流派のうち、仙台藩ゆかりの喜多流、金春流、寶生流 観世流の4流派の計19人が出演です。
 、
政宗公がはぐくんだ伝統芸能の笛、鼓の音色が瑞鳳殿の緑の中に静かに響いて居り、薪能は1998年以来9年振りとか、多数の方々が楽しんで居ました。

 表紙写真ご覧くたさい。

 明日のガイドは所用の為 休み枡。代替に 22日午前ガイドします。



11 月 15 日 (水)  



 普請手伝い

 徳川幕府は諸大名に参勤と普請を命じました。参勤は定期的なものですが、普請は不定期に突然課せられ、負担は大きく 財政悪化の要因ともなった様です。

 実際 どの位負担になったのでしょうか。
 1620(元和6)年4月、江戸城石垣修築を下命されました。この時の対応として、伊達成実を名代に指名し江戸に派遣。二宮喜右衛門等3人を普請奉行として現場監督に。石垣奉行は上原次右衛門・笹町彦三郎の2人が務め、国元から侍30人、人足1300余人が派遣された。

 普請は、大手枡形1ケ所、石壁13町余の修築であった。人足の延べ人員は423179余人、費用は26760両を要した。

 サテ、費用は26760両は、現在如何ほどの金額か、13日日誌同様 1両10万円で換算すると、206億76百万円になります。
 2001(平成13)年度 宮城県の一般会計8,482億円で土木費は13.6%の1,150億円です。単純計算で、土木費の18%が宮城県内に投下されないで、東京で施行された事になります。

 伊達家も領民も大変な負担になったと理解されます。

 本稿は仙台市史・通史篇3・近世1によりました。



11 月 13 日 (月)  



 政宗公の財政

 10月18日の日誌に「1636(寛永13)年2月 政宗公は 徳川幕府から 銀1000貫 借用しました。その使途等は不明です。財政逼迫を示すものではないでしょうか。 銀1000貫は 金に、又 現在の金額に換算して幾らか。要研究。 」と記載しました。

 銀1貫は1000匁で、金1両あたりの銀の公定相場は、銀50匁(1609年)となっていますから、金20両となります。

 銀1000貫は、20000両となります。
 現在の金額にすると、20億円となります。

 政宗公 亡くなる3ケ月前の借です。資金使途はなんでしょうか。
 余命幾ばく無いと、瑞鳳殿建築資金として借りたでしょうか。又 何故 銀で借りたのでしょうか。当時は金と銀の2本建て制であって、関西は銀決済 関東は金決済であった筈。借り入れ申込は江戸で、実行は関西(大阪・京)で行われたのでしょうか。となると 瑞鳳殿の建築用材・彫刻・塗装材料等の調達資金であったのでしょうか。

 それとも、同年3月1日に幕府から、赤坂・麹町(3月8日完成)・市ヶ谷(6月7日完成)の堀橋普請を命じられています。この普請資金でしょうか。金を貸してから普請を命ずることはあるでしょうか。

 この普請は、政宗公が亡くなると、その理由で免除になっています。
 この当時の普請の命令は、伊達政宗・個人に発せられたもので、伊達家(組織)にされたものではなかったようです。


 銀から金に換算は、山川出版社 2001年刊行「文化財探訪クラブ1 探訪ハンドブック」によりました。
 金1両の現在相場は、NHKドラマ「功名ケ辻」web「1両は10万円」によりました。



11 月 12 日 (日)  



 氷雨で寒かったです。ドンドン気温が低下しました。
 帰ろうかなと 指示棒を撤去し 帰り仕度をしていたら、ボラガイド居ますの立看板を見た方から「あら ボラガイドがいるのネ 何処に居るのかしら」の声がかかりガイドしました。

 先輩諸姉が寒さで引き上げて、たった一人になったら連続です。寒い氷雨の中お出で頂き 期待された方を裏切られません ガイドしました。

 たつみ会と記載した旗を持って 半纏の襟に「伊達政宗」と染め込みした団体がみえました。こんな話がありました。

 「静岡久能山東照宮 日光東照宮と参拝して ここが最後です。ここは1年4ケ月で建築されたとのこと、久能山も日光も 1年半から2年で建築されたと 説明を受けてきた。これほど豪華絢爛な木造建築を 短期間で完成させたとは 驚きです。ここの復元は5年を要したのでしょう。昔の人は偉いようネ」と 高齢のご婦人の感想でした。

 「なぜ 戦災で焼失したからとて、国宝の指定が解除になるのか。政宗公の墓室には変わりないだろ」 ご質問の趣旨をよく理解できなく 再三訊ねましたら 「国宝の指定は 政宗公の廟所が指定になったのだろう 墓室・遺骨は健在であろう であれば 廟所であることは変わらない 国宝指定の解除にならないだろう」ということでした。
 
 戦災焼失後の写真を示し 「桃山様式の豪華絢爛な建造物が国宝に指定されたもので、地下の墓室が指定されたのではないです」と説明しました。納得されました。

 この方々、一関市の方々でした。「ここ再建に際しましては 伊達領内で御縁あるからとご寄付を頂きまして、又、二代忠宗公のご命日法要には、田村家ご当主に、家臣末裔の方々が参加されています」とガイドすると 「オー」と歓声が上げ、「それでは 二代忠宗公の御霊屋参拝にススメ」と号令が続き、ゾロゾロと進軍が開始されました。

 愉快なご一行です。たつみ会とは たつみの生まれ?の会でしょうか 何歳でしょうか。

 20代前半と見られるお嬢さん2人 狩野安信描く 政宗公肖像画の前で 筆速記と手話していました。「ゆっくり語ります 上までガイドしましょうか」に「ハイお願いします」の返事。本殿までガイドしました。
 寶筺印塔のガイドで「一番若い人は 数えの22歳です。お二人と 同じ?」に「ハイ 21歳です」 「今日は 伊達領内に生まれ、現在は仙台城下で 働いて居ます。ふるさとの偉大な人のこと勉強しないと思い来ました」と 語り始めました。
 先祖がいたから 現在の人がいる。温故知新の実践には 感涙の思い。

 本日の最遠地からは「島根県」でした。ガイドしましょうに 「いらない いらない」と登ったら、即降りていきました。時間とお金をかけて せっかくお出でになり三分参拝では 勿体ない と思い 気の毒になりました。

 18日16時から 境内 四季瑞景亭前で 「雪待月能楽の夕べ」を開催します。
ぜひ 観賞にお出でくださいと 事務所から案内がありました。
 政宗公は 晩年 能を楽しまれたそうで 今回 寶生流 金春流 喜多流 観世流の四派 総参加です。是非 お出かけください。
 



11 月 5 日 (日)  



 おだやかな天候。三連休の最終日。参拝者は通常の日曜日並。

 ボチヤッとした美人ガイド嬢揃いで人使いの上手な○○バス。今日は自分でガイドしていました。簡潔ながら正確でした。

 全国から見えました。福岡からの4嬢。「アッ 黒田の殿様」 以後 反応が賑やかです。竜頭とのキス写真を撮り、キャキャしています。本殿で日光東照宮に話が飛びましたらキョトンとしています。参拝したことが無いそうです。嬉しいではありませんか。 日光より先に、桃山様式の美しさを観賞に来てくれまして。

  フリータイム獲得したご夫妻に「どちらからですか」  「ハイ 岡山から」 「池田様  伊達家とご親戚ですよ。二代忠宗公の正室は播磨宰相池田輝政の娘です」「あらー知らなかった。仙台と岡山 御縁があるのネ」

 H代表のガイドを聴いて本殿まで登った盛年ご夫妻。涅槃門の麒麟等を熱心に覗いています。透かし彫り 6面の違いを話しましたが、未だ首を傾げています。「どうしましたか」 「ハイ 先程 ガイドを途中から聴きました、カエルマタと言っていました。カエルを探しています」との事。

 「ハイ 涅槃門の麒麟や五色瑞雲に 本殿の瑞鳥は 黒い半円の中にあります。この半円をカエルマタと言います。カエルが股を開き踏ん張り 腕を広げて 重い物を支えている型です」と実演しました。 一発 ご理解頂きました。

 「パソコンでカエルと打ち込みますと 普通の蛙になります。ガマで打ち込み出た蝦蟇の二字目の蟇に 月篇の股です」 「 ハーなるほど」 


 加藤学芸員から「メディアテーク(仙台市図書館)で、文化財の保存技術を理解して貰う展示会が開催されています。感仙殿等の化粧直しの工事をしていますが、その絵具類が展示されています」と勧められ、帰路見学しました。驚嘆する巧みなワザです。2日間の展示は残念です。竹釘を特別にお土産に頂いて来ました。



11 月 4 日 (土)  



 昨30日の続きです。

 文化の日で 「市文化財課主導のガイドがいる」と聞いたと 開門早々 88歳の方を始め10人程登ってきました。「それは 下の瑞鳳寺ですヨ」「フー イタッケ?」とそのまま じっくりガイドを聴いてくれました。官主導のガイドを聴くに来ていながら、入場料を払い 民のボラガイドを聞いてくださる。有り難い事です。

 仙台市民で、歴史・社寺仏閣に興味を持っている方々です。政宗公・瑞鳳殿については知識を持っていて、民のボラガイが どの程度の知識か、じっくり聞いている様子です。話中にチャチャは入れません。無人になった時に質問してきます。

 この様な質問がありました。
 1.感仙殿の前に板碑が2基 立っているが、板碑が建てられた1000年前から、あの位置か。

 2.資料館の説明に、感仙殿の墓室の蓋板に使用されていたとあるが、何枚使用されていたのか。内 何枚再使用したのか。再使用しなかったならば それは何処に保存してあるのか。

 3.感仙殿前の板碑と、資料館保存の板碑と 状態が歴然と異なるが、同時代のものなのか。

 4.感仙殿では、伊達家臨済宗を信仰していた時代に創建されている。板碑は宗教性のもので、宗派が異なるのでは無いか。又 過去の名も無き民の供養の碑である。宗教は、排他性が強いものであり、他宗派・他人供養碑を殿様の墓室に使用する事に異議は無かったのか。


 この板碑については、発掘調査を担当した元仙台市文化財課長早坂氏の講義で、「10数基発見され、保存したが現在の所在は不明である」と聞いています。

 感仙殿前の板碑2基には、識別困難であるが1323(元亨3)の紀年・梵字と供養願文が刻まれています。表面が摩耗しているのは、橋板に使用した結果と推定されています。何れ 本経ケ峯の地は霊場であった事を示している史料であります。

 質問された方は なにか知っていて質問している様子でした。デモ、それ以上語りませんでした。 



11 月 3 日 (金)  



 文化の日。快晴。三連休の初日。続々と参拝に見えます。

 団体も続々。
 ○○バスのガイド嬢「アラ ヨカッタ ボラガイドいたわ 30分で感仙殿迄 ガイドし バス停案内して。ハーイ ミナサン ボラガイドさんについて行って。30分後 又 会いましょう。ハーイー元気で行ってラッシャイ」

 マアー人使いの荒いガイド嬢です。最低90分コースを3分の1でガイドしての注文です。要点のみ 歩行は早く 見所は省略しないで 資料館を含め ピタリ30分で廻りました。「今度 ゆっくりお出でください。心ゆくまでガイドします」に「ハイ 又来ます」

 次の団体も30分で感仙殿迄との事。3本連続しました。13時半を過ぎ、足ガクガク、腹ペコペコ、口は乾燥してパカパカなので、資料館を含め20分で 感仙殿地区移動はフリー参拝にし 勘弁して貰いました。
 

 弔魂碑の前で、「戊辰戦争 おわかりですか」団体の人々 シーと反応ありません。ガイド省略です。 個人で来た方「一人でもガイドしてくれるか」に「ハイ喜んで」 この方は「ウン 知っているよ 俺 函館から来たからナ。幕府軍の最後の抵抗の地は函館。犠牲者に対する処置は誠に冷たいもの、土方歳蔵は・・・・・・・・」語り始めました。

 戦場となり被害を受けた土地の人々には 138年前の出来事ながら 連綿として語り伝えられ 同じ被害地に来ると ひと言出るようです。
 この様な話を聞くと この碑を建て 犠牲者の霊を弔った伊達家三十世14代宗基氏と旧重臣の人々は ひそかに喜んでいるのでは。

 朝 佐々木文山についての資料提供された加藤学芸員にお礼をし、新たなアドバスを頂きました。又 コロンビア硬貨を 事務所皆様にご披露致しました。 



11 月 1 日 (水)  



 佐々木文山について

 拝殿の扁額は佐々木文山の書であり、次のようにガイドしております。

 「扁額 瑞鳳殿の文字は、当時一流の老書家 佐々木文山が76歳の時、500両のご褒美を頂いて、長持2棹 練習した上の文字です。1945年7月10日の米軍の空襲で焼失しましたが、これは復元たものです。本物の写真は資料館に展示してあります。それには落款・落款印があります。・・・・・」

 当時一流の老書家とガイドしていながら、その経歴については、勉強していませんでした。次のとおりでした。

 1659(万治 2)年 江戸・西久保八幡神社(現在の東京都港区虎ノ門6−10−14) の近くで誕生しました。
    
  名は、淵龍(エンリョウ)  字は、文山  号は、墨華堂(ボッカドウ) 幼名は、嘉通(ヨシミチ)  通称は、百助(モモスケ)と言います。呼称が6ッもあります。後世の我らは迷います。

  父親は、佐々木庄大夫相違(ショウダユウソウイ)と言い、武蔵忍(現行田市) 阿部忠秋5万石に右筆馬廻役120石で仕えました。

 1770年代 10代頃 讃岐高松 松平家に仕えた。仕官経緯・勤務地は不明です。江戸屋敷と思われます。

 1709(宝永6)年 50歳 讃岐高松 松平家(12万石)を致仕(退職)しました。
  松平家は、1642(寛永19)年常陸下館より松平頼重にて初代。水戸徳川頼房の嫡男(水戸黄門の兄)にて、会津松平家 彦根井伊家と同格。
 1734(享保19)年 76歳 瑞鳳殿 扁額を書す。
 1735(享保20)年 77歳 病没  東京都立青山霊園に眠る。


 伊達家との関係は、不詳です。
 瑞鳳殿の扁額を書したのは、1734(享保19)年 76歳の時。伊達家は5代吉村の時代です。 江戸時代中期を代表する「唐様」の書家 武家書の大家だそうで、その高名 故に、500両の高額でもって依頼したのでしょうか。
 なぜ 瑞鳳殿建立97年後に、拝殿に文山の扁額が掲げられたのでしょうか。それまでは 扁額は無かったのでしょうか。想像は無限に広がります。


 宮城県七ヶ浜町湊浜 薬師堂の扁額との関係は、不詳です。
 薬師堂の扁額には、落款・落款印が見当たりません。文政(1819−29)年間に書したた「塩松勝譜」に元禄(1688−1703)年間に建立し、「扁額は佐々木文山の書」と記載されていています。宮城県史・七ヶ浜町誌にも「孫引き」したのか、薬師堂の扁額は、佐々木文山の書と記載しています。

 薬師堂は、828(天長5)年、当時 「竹ノ水門」として重要港ととして賑わった本地に、慈覚大師が立ちより、薬師如来を岩窟に彫刻し祀ったのが始まりで、元禄年間に建立されている。

 年代的に、文山40歳代で、讃岐高松 松平家に仕えていた時代である。如何なる縁故で、幾ばくの報酬で、誰がどの様に依頼したものか、想像は無限に広がります。湊浜のムラは現在 居住者はいません。廃村です。

 埼玉県騎西町 医王寺の「薬師堂」隷書 1711(正徳元)年 の扁額と と七ヶ浜町 薬師堂の扁額とは 写真照合の結果では同じです。七ヶ浜町湊浜 薬師堂の扁額は、佐々木文山の書に間違いないでしょう。
 

 佐々木文山の扁額は、幾らあるか。
 宮城県七ヶ浜町湊浜 薬師堂を含め、22額です。山形県松山町(現酒田市)から岡山県倉敷市まで 全国にあります。

 以上は、歴史研究06年10月号 「忘れられた書家佐々木文山」斎藤健司著。1967年3月七ヶ浜町役場刊行「七ヶ浜町誌」によりました。 





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