2006年12月の日誌
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12 月 28 日 (木)  



  31日日曜日は閉門になりました。入門出来ませんのでガイドを休みます。

 新年拝礼式は2日11時からです。どの様なものかは、リンク欄の「拝礼式」をご覧ください。2003年の拝礼式の全貌を掲載しております。



12 月 25 日 (月)  



家臣の墓所

 「瑞鳳寺境内の墓地に、卵の形の墓石が数並び、一区画を形成している個所があるが、どなたの墓所で、なんであるのか」の趣旨の質問を以前に受けておりました。

 瑞鳳寺は、幕末までは瑞鳳殿の為の伊達家直営のお寺でした。1896年5月13日22時40分仏壇の灯明から出火、本堂・庫裡等を焼失し、明治初年に一旦廃寺になり、大正年間(1914-26)に再興されたお寺です。この様な由緒あるお寺に大正年間以降に祀られたお墓があっても、伊達時代のお墓は無いものと決め付けていました。
 昨24日現地調査を再度しました。その結果、ゆで卵を縦半分に切った形で、全高191センチ 基礎部130×120センチ 墓石自体154センチ高、幅96センチ 奥行58センチの巨大な墓石を代表に23墓石、外に小さい墓石数多くの一区画が存在していました。刻み込まれた年号は全て伊達時代のものです。

 さて、この家はどなたで、なぜここにあるのでしょうか。一部 判明しました。

 伊達家の序列で、永代着座二番座 9位 ( 伊具郡丸森村)拝領  知行303貫657文=3036石の佐々家でした。

 佐々家はの流れの旧家です。、佐々木・黒田と称していましたが、将軍足利義満(1368-94)の命で佐々氏と称しました。1579年政宗公に仕え、諸戦で活躍。1601年仙台城造営を掌り、1682年に丸森の「所」を拝領、1867年奉行職に就任し、幕末を迎えています。

 丸森町所在 石龍山西円寺(曹洞宗)が位牌寺で、寺領300文を受けていました。伊達家に仕えた二代目佐々元定1661年没から、連綿として墓所は瑞鳳寺(臨済宗妙心寺派)です。西円寺とは宗派が異なります。西円寺にも墓所があるかは未確認です。

 現在の佐々家の墓所は、広大ですが、往時の3分の2です。この墓所の中心部に1998年建立の墓石があります。これは1997年までは佐々家は存在していた証でしょう。

 何故、佐々家の墓所が、瑞鳳寺境内に建立が許されたかは、依然として不明です。

メモ
伊達家の序列
 当主、御一門(11家)、御一家(17家)、準御一家(8家)、御一族(22家)、永代着座一番座(3家)、永代着座二番座(31家)、御太上一番座永代御盃頂戴(8家)、同二番座と続く。

所とは
 伊達家は、地方知行制で、家臣は仙台城下に屋敷を持つと同時に知行地に屋敷を有する者が多かった。これを在郷屋敷と称する。規模の大きさ、軍事的・政治的重要性、成立の経緯等から要害(22ケ所)、(34ヶ所)、在所(24ケ所)となる。田村家一関城と片倉家白石城この別枠である。

以上は、「史料 仙台伊達氏家臣団事典 本田勇編著」「仙台藩歴史事典」によりました。



12 月 24 日 (日)  



 小雪時々晴れの天候です。気温は、寒くない暖かさ 5〜7度です。

 参拝者は、30分間隔。締めの甘い水道銓の様です。光のページェント効果は終わった様です。中・高齢の親子の方、残り紅葉のモミジを撮影されながら、「雪で真っ白い北海道・旭川からです。仙台は温かいです」と、札幌の方もおり、今日は北海道の日でした。

 「東京から来ました。新幹線でガイドして下さい。次のループルバスに乗ります」誠に厳しいご注文です。涅槃門から拝殿・本殿と、新聞の見出しと3行要旨の感じで、ポイントのみのガイドしました。終わったら「アーソーカー。つぎのバスにして資料館をじっくり見ましょう」となりました。ガイド効果とにんまり。

 この若い男女3人、真剣に参拝する様に見えませんでした。きっちり聞いてくれました。風体と教養のミスマッチはあるものだと感じました。次の例もあります。

 ワカメスヤ ボラガイドムシ オスボタン オンセイガイド キカズミミ
 
 今日の体験 言葉あそび 5・7・5・7・7にまとめました。漢字では、

 若雌や ボラガイト無視 押す釦 音声ガイド 聞かず耳



12 月 18 日 (月)  



 昨17日ガイド中の話題の追加です。

 資料館で、綱宗公のコナーに70センチ立方の石櫃(せきひつ)と甕(かめ)に展示されています。「これはなんですか」の質問になりました。
 これは、綱宗公の「親知らず歯」を納めたもので、記録では埋葬3年後追葬されたものです」と説明すると、一様に「ハー 殿様は タイヘンだね。わたしら 乳歯の生え替わりの際、立派な歯になるようにと、下の歯は屋根上に、上の歯は井戸に投げたものです。親知らず歯は この通り健在です。アーン」
 丈夫に成長するようにと親の願い、乳歯の扱いは、日本全国共通の様です。これまで、異なる話は聞いていません。

 綱宗公の甕棺(高さ70センチ、胴直径80センチ)を見られた方は、一様に「これなんですか」となります。「綱宗公の甕棺です。常滑焼です。石灰でおおわれた安座姿の綱宗公のほぼ完全な御遺骨、宝永小判10枚等が発掘されました」にこれまた「ホー」です。
 そして、鏡に映る甕の底の小判を見て「あれ 本物ですか」と質問は続きます。甕に小判は、本人が再埋葬された際に使用・持参されていると思います。デモ、質問してみたくなるのでしょうか。

 「地獄の沙汰も金次第の諺があるが 殿様は地獄ではなく極楽に行ったのでしょう。三途の川の渡し賃以外にはお金いらなかったのでは」の話になり、福岡の方 「三途の川の渡し賃は現在 1000円札を持たせます」と話されました。さて、みなさまの地方では、幾ら持たせていますか。

 整備担当のH氏唐、本殿の木組・象の鼻の様に伸びているもの、これらの名称を教えて欲しいと云われました。「ときょう 一斗枡の斗に木編に共です」ふつうには使わない文字です。通じません。次回ガイドの際に、「よっこより」勉強会配布資料(古建築の見方と調べ方)を持参することにしました。

宝永小判
 徳川幕府は1601年の慶長小判に始まり、元禄・宝永(1706-1711)・正徳・元文・天保・万延と発行されたが、正徳小判以外、改鋳の都度 品位が低下し混乱をまねいた。

 



12 月 17 日 (日)  



 雨の中 切れ間無く、寄せ返す波の様に参拝者が続きました。今日から冬体制で「遅い出勤、早い帰宅」をと思いましたが、結果として1時過ぎまでガイドし、遅い帰宅になりました。

 昨日は15時過ぎまで観光バスが連続したそうで、寒くなったのに何故かと、整備担当のH氏と語ったところ、@光のページェントの観光A冬ボーナスの初土曜日、これが結論となりました。

 確かに、4〜10人の小団体が新潟・福岡に東京・神奈川・日光から見えました。みなさま熱心に聴いてくれました。秋保温泉に宿泊された方もおり、政宗公の石造りの墓室、その特性から秋保温泉の浴室から見える採石場の石であろうと推定されますとガイドしましたら、「オーオー」と湧き上がりました。

 政宗公の尊像の説明では当然「なぜ本人は独眼なのに、尊像等は複眼になっているか」「それは 政宗公の強い意思表示に基づくもので、独眼になった原因は、幼少のみぎり、疱瘡になり、その治療・看護の際の医療ミスか、看護ミスか・・・」ここで「医療ミスはあっても、看護ミスはありません」と 速厳しい反論がありました。看護婦さんだそうです。「常に看護にミスはあってはならない。無い様に努力している。と強い自信と自負」を表されました。「ハイ」と応えました。
 今後 もし病気入院する事になったら、この看護婦さんの世話になりたいと思いましたが、その機会は無いようです。福岡の方でした。

 先日、家紋で「三引両」を台所の目皿みたいと云われた方がおりましたが、今日は「九曜紋」をみてタドンみたいとのご発言がありました。タドンを知っている、使ったとなれば、自然お歳が知れます。

 秋の撮影会の入選作が資料館ロビーに掲示されていました。瑞鳳殿賞は、ライトアップした瑞鳳殿です。あかとんぼの腕前では完敗です。でも来年は瑞鳳殿賞を目指します。賞状と副賞を頂きました。



12 月 16 日 (土)  



 再建した瑞鳳殿の涅槃門に掲げられている麒麟及び唐獅子牡丹の彫刻作家である仏師林鳳雲(治郎)氏83歳は、昨15日午前8時旅立たれました。
 氏は、瑞鳳殿の外、定義如来西方寺(青葉区定義)の仁王像、阿弥陀如来座像に、善導寺(宮城野区新寺二丁目)の丈六菩薩、阿弥陀寺(宮城野区新寺三丁目)の聖観音像等 多数の作品があります。

 作者は極楽浄土で、作品は現世で、永遠です。

 本稿は河北新報広告、U先輩資料「瑞鳳殿 政宗公尊像及び壁面彫刻等について 2003.07.28」によりました。



12 月 15 日 (金)  



伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ

 善應殿前の案内板に「故あって逼塞を命ぜられ・・・」の表現があります。これに対しての質問は「逼塞とは、なにか」です。答えは「江戸時代、武士・僧に科した刑罰の一種。門を閉じて白昼の出入りを禁じた」(大修館・現代漢和辞典)です。字句からして、日没後であれば出入り自由か?それは、おおいに疑問のあるところです。
 綱宗公は、逼塞に、更に隠居を命じられ、伊達家家政の座から降ろされています。自由と権力と裕福な経済力を持たない人を訪れる人は、まま居ないでしょう

 さて、「故あっての、故とはなにか」です。寛文事件といわれる1658-73年に起きた御家騒動「伊達騒動」の発端原因を指しています。
 御家騒動とはなにかの質問が、先般の高校生を案内した時にありました。「御家騒動は、色々な要件が絡み合って起きています。単純にまとめれば、権力闘争と云えるでしょう」と回答しました。

 「御家騒動は、『伊達騒動』だけなのか」と続きました。権力闘争ですから、大名家で多く発生しています。三大御家騒動と称されるものは、伊達家(62万石)・前田家(102万石)・鍋島家(35万石)の御家騒動です。

 では、なぜ御家騒動といえば、『伊達騒動』と云われるほど有名なのは、なぜかは、政宗公以来の名に聞こえた名家の騒動であり、芝居になり、市中に広く広がった事にあると思います。

 時代・人名等は、江戸時代でも、現在と同様に、そのまま使用できませんでした。時代を室町時代に遡り脚色し演じられました。伽羅先代萩の初演は、1777年大阪中の芝居で奈河亀輔昨の五幕物です。以来。現在に至る迄、歌舞伎座、国立劇場で上演されています。
 それで、あかとんぼと同様に、芝居・歌舞伎そのものを観賞していなくとも、この題名を知っている人は多数です。

 伽羅先代萩と書いて、めいぼくせんだいはぎとなぜ読むのか。
先代萩は、仙台萩の読替と思っていましたが、作中人物の泉小次郎が先君の愛した萩を自邸に植えて先代萩と称したに由来する。伽羅は、伊達様が伽羅(きゃら・香木)で作った下駄を履いていたとの巷説に由来するそうです。

 以上は、2006年4月12日刊行 「開場四〇周年記念 国立劇場歌舞伎公演記録集9 伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)三幕五場」と1973年5月発行「名数みやぎ郷土小史事典」によりました。



12 月 14 日 (木)  



 暗く寒い日です。

 ボランティアガイドの組織・人の在り方を研究している東北福祉大学大学院生の面接調査に応じ、2時間語りました。

 「ぐるーぷ・よっこより」の11月善應寺での勉強会で、ボラガイドをしていると挙手した19人中 16人からアンケートの回答があり、更に、面接に応ずると回答した人に順次、書ききれない諸々ををお尋ねしています とのことでした。

 何故、「よっこより」を研究対象に選択したのかと質問したら、「NPOであり、官主導でない。自発的な活動でありますから」 この回答に満足、 結果として、種々語り合いました。

 「『よっこより』の活動が10年余も続いているのは何故か。挫折しているケースが多くあるのに、秘策があるのか」の質問がありました。
 「これについて、内紛を起こし、硬直し、失望し 挫折するのは、メンバーの基本理念にあると思います。『よっこより』は過去の虚栄を捨て、現役時代に習得した知識と経験を滲み出し、前向きな思考の人々の集団であり、それを活かすリィダーの度量と指導力に尽きる、例えばと・・・・・」と語りました。

 「勉強会に多数の方が参加している、そしてボラガイドしている人も多数いる、しかし乍ら『よっこより』でガイドしていない人も多くいる。これを何と考えていますか」
 「世話人会でも討議している痛い問題点です。狭い見方をすればその通りです。しかし、広く、大きい見方をすれば、博物館・仙台城・多賀城とガイドの拠点が広がった、種を播き、花が咲いたと理解すれば素晴らしい事ではありませんか」

 「団塊の世代といわれる人々をボラガイドとして受け入れる方策をどの様に考えていますか」
 「ボラガイドとして経験から習得した知識・手法等は、求められれば何時でも語り伝える用意はあります」と語った時、あかとんぼ が老人クラブに加入しなかった理由に、長幼の順をわきまえますが、それ以上に縦社会が求められ、自由が無いと思い、入りませんでした。これから卒業してくる人々からみれば、10歳若い人々です。あかとんぼ 以上に、その思いがあるでしょう。ガイドするの目的は同じでも、別にグループ化して貰い、求められればアドバイスするのが最適かなと反省しました。

 「最後に、長年(タッタ6年)ボラガイド続けられたのは、素は何ですか」
 「1番は、家族の支援です。2番は、健康です。3番は、無報酬で、交通費・昼食等費・資料収集費と出費がかかります。これに耐える経済力です。三度の食費を欠く経済力ではボランティアは出来ません。又、裕福な経済力では、ボランティアする意欲にならないと思います。
 そして、ボラガイドの場を提供してくれる関係者、優れた頭目である代表、よい人柄の仲間、話を聞いてくれる無意識ボランティア(参拝者)、この人々に恵まれ、受け入れて頂いている所にあると思います」

 以上でした。



12 月 10 日 (日)  



 天気雨の日でした。

 東京・神奈川・大阪からの4熟女。プレートを見ながら殺陣師の真似をし、政宗役は○○がヨカッタとケンケンガクガクです。賑やかです。「あらーがイドさんいたのお願いー」

 「ここ瑞鳳殿は、1945年7月10日の仙台大空襲で焼失し再建したものです」「アラー 61年前生まれていなかったワー」ご本人がそう 仰有るなら そうでしょうが。
 伊達家の家紋「九曜紋」の説明でニッコリされ「私も九曜紋なの」ごもっとも 伊達家・細川家・相馬家等の大名と肩を並べたからにはニッコリです。別の方「三引両」の説明で笑い転げています。どうしたのでしょう。暫くして「台所の排水 目皿を連想して」 1189年の年から使われている由緒ある家紋 目皿と云われてはガックリです。

 ご婦人二人 参拝終わってから「今日は良かったわ。教えて頂いて。先日は平日でガイドが居なくてサラットお詣りしただけ。娘が東北大学学生で 昨日発表会があり来たの。仙台は良い所です。私達は茨城県大子町なの 何もないの」
 「仙台の町は1600年に政宗公が開いた町です。気に入り お褒め頂いてヨカッタです。お嬢さんも お気に入りなら 卒業・結婚と仙台に居着くかもしれませんネ」 「それは駄目ダメ 帰って来て貰わなくては」

 参拝者数は 温暖な気候の時ほどでありません。冬の態勢に入ります。これまでの9時開門からを10時頃から始めます。又。雨・霙・雪の場合、予想最高気温5度未満の日の日曜日は ガイドを休みます。
 来春になったら 9時から、金・月何れかもガイドするを考えます。



12 月 9 日 (土)  



 寒い一日でした。雪から霙になりました。

 宮城県立宮城野高等学校の日本史に興味を持っている1・2年生に引率の先生の一行16人を9時20分から12時まで、ガイドしました。

 16歳から17歳です。孫の年齢です。明日の宮城県を築く子供達に説明です。日本史・郷土史を学習する前段で、間違えた先入観を持たれれば国家的損失となります。間違えた説明は許されません。 学童・学生に話しする事は楽しいですが、今回は些か緊張し予習しました。また、資料を作成、H代表に監修して頂いた上で、配布説明しました。

 天気予報がはずれ、午後から雪が、午前早々に降りました。全員傘を持っていないので、拝殿・資料館等 濡れない場所で説明しましたが、寒さで震えている学生もおり、どれだけ理解し、記憶に残ったでしょうか。

 その中でも、鋭い質問もありました。
1.Q.感仙殿化粧直し工事で、飛天の彫り物が資料館に展示され、目の前で艶やかな姿を見られます。足が甲と裏と対になっているのが直近で見られ「これ、変ではありませんか。間違いではありませんか。間違いでないとすれば、何を表現しているのですか」
A.断言出来る資料はありませんが、出来ないこと(この状態で足裏を見せる様にひねられません)をしているのは、形で表現できない 悦びを表しているのでは無いかと云われています。この原型は起源200年前の大陸の遺跡で発見されています。。ここは1637年に完成しています。1800年前に発見された大陸の遺跡を知っていた学者が政宗公の部下にいた事になります。(優れたリーダーの元には優れたスタッフが居ると云いたかった)

2.Q.御子様御廟で、宗村12女の名前 の三文字を以て1文字とした字に姫をなに姫と読むのか。
A.手書き機能からも、漢和辞典からも出てきません。わかりません>

3.Q.童女は、○姫となっているが、姫も名前か、大人になっても姫ですか。
A.政宗公正室は愛姫(メゴヒメ)でで、娘は五郎八姫(イロハヒメ)で、忠宗公正室は振姫です。殿様の子女は姫と漬ける慣習があったのではと思います。男の子は成長する都度 名前が変わりましたが 女の子は変わらなかった様です。日本で 愛子と子が着くようになったのは 伊達家家系図から見るに、五代吉村の子女の時代からです。

4.Q.お墓の上に、、傘のようなものが載っていますが、これは何と云うのですか。
  A. 傘のような部分の名前はわかりませんが、この様なお墓を墓石屋さんは「大名墓」と呼んでいます。個人でも最近は作っている人がいます。

5.Q.墓石の前に、横に穴の空いた石塔は何ですか。その用途は何ですか。
  A.これは石灯籠です。蝋燭でなく 灯油による灯明のため 空間の高さが予想より低いのと思います。

 今回の反省は2点です。
 1.寒さと濡れ対応から、瑞鳳殿の彫刻等 桃山様式の美しさ 充分に説明出来たか。
 2. 高校生は日本語を大人並みに理解出来ると誤認していないかです。板碑の説明に「摩耗」と説明したら、「摩耗」とは何ですかと 質問されました。漢字の表現は避けるべきである。ただ「しりひった」と云えば良かったのか。

 最後に先生は用紙を配布し、「感想を書き先生に提出しなさい」と。先生は「まとまりましたら、お知らせします」と申しました。どんな感想が出るでしょうか。

 瑞鳳殿主催の「秋の写生・写真撮影会2006」の提出作品が、売店に掲示されていました。なかなか見事な作品ばかりです。昨年よりレベルが上がりました。
 入賞作品は未だ展示されていませんでした。



12 月 8 日 (金)  



 写真 入選しました。

 瑞鳳殿主催の「秋の写生・写真撮影会2006」に今年も参加し、初めて2位に相当する感仙殿賞に入選したました。

 題は「衣錦還廟」で、政宗公が錦の衣を纏い 終の栖家に還られる の意で題しました。
 情景は、紅葉の紅と黄に、竹の薄緑とお供所(現資料館)の白壁がそれぞれ輝いて、錦織りなしている景です。
 入口のライトアップされるモミジの間からお供所(現資料館)を望み、紅と黄に薄緑に白の4色の輝きを求めたもので、最高の光線具合を求めて 3日も通った作品です。

 写真で賞を頂くのは、人生初体験です。嬉しいです。
 12月16日から 資料館に展示されます。見に来て下さい。



12 月 6 日 (水)  



 ボラガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」の世話人会が開かれました。

 話題は、勉強会の参加者が常に30人以上であり、又、他の団体でガイドしている人が10人近くいる。にも関わらず、瑞鳳殿でガイドしている人は10人を満たない状況である。瑞鳳殿でのガイドに参加して貰うにはどうすれば良いか。勉強会の在り方がこれでよいのか。
 金・月曜日も500人以上の参拝者がいる日もあり、「今日ガイドいないのしカー」と要望が多々ある。このご期待に如何に応えるか。

 参拝者の要望に応える金・月曜日もガイドをするには、ガイド参加者の増が必要です。

 これについて、瑞鳳殿でのガイドは屋外での活動で、夏は暑く、冬は寒い 他の屋内でのガイドに比較して 非常に厳しい環境でのガイドである。しかしながら、当番制では無く、時間等は自己管理の自由制である。又 対象は仙台市民に限らず、全世界の老若男女で 色々なふれ合いがあり ボラガイドの醍醐味は最高と思う。これをご理解して頂きたい。

 その方策として。来年の勉強会の計画を前倒し、又、ガイド養成実践講座を開講しましょう。と衆議一決しました。



12 月 3 日 (日)  



 初雪です。雪花が舞い 夕方からは濡れ雪となりました。

 朝9時開門時には、事務室はカラッポ。全員 竹箒持参 落ち葉掃きでした。9時25分 るーぷる一番バスの乗客がチラリホラリ 登ってきました。寒かったか、早速に喫茶室でホットコヒーを飲んでいます。この方々9時45分にはバス停に戻っていました。参拝・観賞されたのでしょうか。

 9時45分ガイド予約の関東圏の工務店のみなさまをバス停で迎えました。
 職能柄 見所・質問が通常観光の方々とは、全く異なります。
 涅槃門で透かし彫りを説明しているのに 柵の内に入って別方向を、拝殿では透かし窓に天井を、本殿の塀の屋根組みを見ています。石・木材の産地、塗装の材料も問われました。
 ガイド仕様を、早々に観光仕様から総合建築業仕様に切り替え、戦災焼失前の写真・配置図を提示、再建時の躯体・構造と化粧直工事内容を説明しました。
 
 11時50分仙台城本丸までのガイド依頼で、仙台城本丸では、小雪が舞っているのに外套を着ていない方が多数で、「サムイー。ハラヒッター」の連呼。城下を展望し 騎馬像を背に記念写真終わったら 昭忠碑を説明しても、もう上の空です。丁度お時間です。

 三の丸跡の仙台市博物館でトイレ休憩。水沢伊達家屋敷跡に建つ仙台国際センターで「東北大学100周年記念講演会」を拝聴・大休止し、瑞鳳殿に戻りましたが参拝者の姿が見えません。雪は激しくなってきました。15時本日のガイドお終いにしました。

 事務所から戦災焼失前の絵葉書等による貴重な資料を頂きました。

主な質問と答
1.石材の産地は。
  石垣等は仙台石(仙台城展望時に國見方向を示す)。政宗公墓室は秋保石。敷石の黒々しているのは雄勝石、硯石(産地は石巻市雄勝町)です。
2.用材は。
  涅槃門は、青森檜葉です。創建時 香木の白檀が唐草模様の透彫りの素材に使われました。
3.塗装は。
  漆と孔雀石等の顔料です。
4.工匠は。
  国宝大崎八幡宮・瑞厳寺の造営に関わった、当時最高と云われた紀州の刑部左衛門國次(オキカベナエモンクニツグ)、京都狩野派佐久間左京(サクマサキョウ)の一門の工匠・画人です。
  再建時の彫刻は、宮窪繁、林鳳雲先生です。
  左甚五郎作は 大崎八幡宮の彫刻にあります。
5.建築費は。
  創建時の費用はわかりません。再建時は8億円で、2000年の化粧直し工事は1億余円です。
6.工期は。
  創建時は1年4ケ月 再建時は5ケ年要しています。これはオイルショックによる資材入手困難のアクシデントの影響もあります。
7.本殿の躯体は。
  現在は、通常のビル同様 鉄筋コンクリートです。塗装は伝統工法です。日光東照宮お抱えの「小西美術」の施工です。
8.この礎石は何か。
  拝殿の礎石です。そちらは奉納された石塔の基礎部です。これらは、諸般の事情で再建を断念しました。
9.西参道の敷石は特異なのは何故か。
  この敷石は、感仙殿・善應殿等の地覆石を再活用したものです。

工務店社長である団長発言 「RC建築は 築50年が寿命です」 



12 月 1 日 (金)  



 弔魂碑

 ご承知の通り、瑞鳳殿から感仙殿に移動の途中に、戊辰の役で郷土防衛に散った旧伊達家家臣達1620余人の供養の弔魂碑があります。
 大東亜戦争を知らない人々が国民の多数となり、又、学校で日本史が必修でない時代、「戊辰の役」とは何かは知る人は、少数となりました。
 ここで頭を垂れ お詣りする方は、極めて少数であります。今年の11月3日函館からの参拝者は、函館の戦いについて語りました。貴重な存在とも云えます。

 ガイドに苦労するところです。通常は@魂の言偏が右でなく上にあるA鉄製である。B角切りされている この3点が特徴ですとガイドし、戊辰の役についてはガイドしていません。
 
 この 弔魂碑は仙台市民にも 忘れられた存在かと危惧していましたら、9月市議会で 次のとおり質疑されていました。市議会だより より転記します。

問 
 瑞鳳殿の境内に、戊辰(ボシン)戦争で戦死した仙台藩士らの霊を弔う「弔魂碑(チョウコンヒ)」がある。函館にある碧血碑(ヘツケツヒ)の碑前祭のような行事は行っていないが、国家を思い、志をもって亡くなった先人の慰霊について、どう対応するか、市長に伺う。

答 
 歴史的な遺産を大切にし、次の世代へ継承することは大変重要である。市民や観光客が訪れ、先人に対し慰霊をし、色々な思いに浸れるよう、適切な管理について、関係部局できちんと対応したい。

 市関係部局のきちんとした対応を期待し 見守りたいです。





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