2007年2月の日誌
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2 月 28 日 (水)  



 月例勉強会が、市博物館で斎藤学芸員を講師に「吉村の治世」と題して開催されました。

 吉村公は、政宗公の血脈ではあるが傍系からその座に着いたこと。先代・先々代の事柄のこと。これらから六代宗村に、家格「御一門」を敵にしないこと。又、家格「一家・一族・宿老」の扱いに注意する様に伝えている。

 これら家格の「しがらみ」から、地方知行制の改革、検地の実施が出来なかった。その影響が現れたのが、幕末の伊達家内の混乱、戊辰の役の悲劇に至ったのではないか。
 
 なお、吉村公は、黄檗宗に帰依し大年寺を創建したの話はありましたが、お墓を夫婦2基並べる様にした最初の方ですが、此の話はありませんでした。

 H代表から、次の3点の教示・連絡がありました。
 18日の日誌「御霊屋下には「御小人」が集団で配置されていたことです。彼等は侍・足軽に次ぐ地位ですが一番の稼働兵力であって、この人達が配置されていたは、瑞鳳殿等の御霊屋は仙臺城並みの重点警備地区であったことを示して証拠と理解しました」について、御霊屋創建以前から広瀬川添いの低地に「御小人」が集団で配置されていた。又、槍・鉄砲等の足軽、実戦部隊ではない。それ以下の労務者です。これらから、「重点警備地区」の表現は如何ですか。

 15日の日誌「伊達家の塩蔵」は、原稿の出典を明示されています故その通りでしょう。只、塩は生命維持に必要不可欠です。政宗公が仙臺城築城の頃は、広瀬川の内側に設置していた筈。現在の三の丸とも聞いている。それが城下東一番丁に設置されたのは何故か、その年代は。これ調べたら如何ですか。

 3月例会は、開催日を変更します。本日は突然の欠席が10余人です。早めの知らせが宜しいと思っていましたが、逆の様です。具体的な日は追って知らせます。



2 月 26 日 (月)  



 事務所訪問しましたら、参拝の老女2人に涅槃門前で質問されました。

 「ここはなんですか」
 「ここ 今お詣りされた所は、伊達政宗公の御霊屋 お墓です。この先が伊達家二代忠宗公と三代綱宗公の御霊屋があり、横に九代周宗(チカムネ)と十一代斎義(ナリヨシ)夫妻のお墓があります」

 「ハァー そしると ここは伊達家のお墓しか ないのしかー」がっかりした様子。
三段一段石段を植木に掴まり、難儀して降りてきて、海老スタイルで歩いて居ます。近在からの参拝者に見えます。その割りに遠来の観光客の様なご質問。ハテナ。

 戊辰の役研究者小夜さんからの資料を受け取りました。「仙台藩戊辰殉難小史」全120頁コピーしてくれました。感謝感激です。内容紹介は別項とします。乞ご期待



2 月 25 日 (日)  



 温かいです。

 お昼まで 岐阜からの団体、大阪からのお嬢さんと、熱心に聞いてくれる方々が連続し、小休止なく、ガイドしました。
 専属で聞きたいが、前の人が終わらない、時間が限られていると 諦め顔の方散見されました。申し訳なく 又残念でした。

 タイミングよかった初老の三婦人。ボラガイドに話をさせないと一大損失とばかり「ガイドして」と。涅槃門の麒麟をガイド始めたら「見えない・わからない・時間がない」「では お終いにしましょう」「イヤ 只のガイドは喋らさせないと・・・・」
 福島の中通りからの来訪との事。「中通りの何処ですか。信達(信夫・伊達の両郡)ですか」信達であれば伊達家ゆかりの地で、興味を持たれるようにガイドの仕様があります。「福島 フクシマシナイ」と大声で返ってきました。

 それではと家紋三引両の由来から、福島市内石名坂、杉目城、大森城、晴宗ねむる琥珀山寶積寺と、旧市内の地名・史跡の名称を列挙しました。全く反応がありません。厚樫山、西山城等伊達家史跡を列挙するのは諦めました。でも、それなりに工夫しガイドしましたが?
 過日、U先輩は「福島県は伊達家の史跡の扱いが粗末だ」と洩らしていましたが、その言葉本当でした。史跡のみならず歴史にも冷淡の様です。

 知的婦人から「政宗公の書を拝見したいのですか」と問われました。
 「市の博物館にお出でください。書・画・武具と伊達家の宝物を中心に構成・展示しています。ここ資料館は、発掘調査の展示が主体です。里の瑞鳳寺さんには、宝物として晴宗・輝宗・政宗・綱宗・綱村・吉村・慶邦等歴代の書を所蔵していると伝えられていますが、展示等の公開したと聞いたことはありません」と答えました。
 ここ瑞鳳殿資料館の今後の在り方を探るヒントを頂いた感じです。

 21日戊辰の役弔魂碑を訪れた「小夜さん」から、23日に「県図書館で戊辰の役から50年弔祭 (50回忌法要?)の際、「仙台藩戊辰殉難小史」A5版120頁が配布された。それを発見した」旨メールを頂きました。
 午後 瑞鳳殿にコピーを持参頂きましたが、あかとんぼは、午後から郊外で開催の講演会に移動しており、連絡を受信できずに行き違いになりました。明日にでも瑞鳳殿に受け取りに行きます。その上で、詳細(組織別、戦闘別の人数等)を報告します。

 なお、本冊子は、県・市図書館以外では、市博物館は目録に記載あるも現物は無い状態。資料館は未だ所蔵していません。仙台市内古書店に1冊在庫があります。3冊しか確認できない貴重な図書です。資料館から「早急に購入したい」と前向きな快報を頂きました。



2 月 22 日 (木)  



 昨日の追加です。

 但木土佐の処遇を問われた時、内心 非常に嬉しく感じました。それは 伊達家の為に奔走したのに「時 理無く」悲運な結末を終えました人です。現在の人々の記憶にとどめて欲しく、片平市民センターでの「片平界隈マップ」の作成に関与し、現片平丁小学校は但木土佐の屋敷跡であると記載する事に成功し、午前に完成品の配布があり、数刻後に、話題になったからです。

 戊辰の役の敗者 伊達家の責任者として、刎首(フンシュ)の方針を時の政府は定め、その処置は旧伊達家に一存しました。13代慶邦(ヨシクニ)・石母田但馬らは、助命の余地ありとしたにかかわらず、遠藤文七郎・後藤孫兵衛らは、即刻処刑を主張し、議は決定しました。二人は従容(ショウヨウ)と死についたそうです。

 理解されない「正義の悲しみ」が、歌となりました。
雲水の行衛はいづこむさし野をただ吹風にまかせたらなん 但木
國のためすつる命のかひあらば身はよこしまの罪に朽つとも 坂
國の為ふかくはかりし此君に千代のよはひをゆづるとぞおもふ 慶邦

この想いを形に表現できる様になったのは1877(明治10)年、西南の役の年です。この年10月に弔魂碑が建立されました。

 宿題「組織別、戦闘別の人数、氏名」を解くには、弔魂碑建立の一件書類の発見です。瑞鳳殿資料館または県立図書館に保管されているか。楽しみです。 

 本稿は1969年山川出版社刊行 高橋富雄著「宮城県の歴史」によりました。



2 月 21 日 (水)  



 春3月中旬の暖かさです。

 伊達家家臣 格が「宿老」であった波瀾万丈の経歴の○○家の末裔の方から、戊辰の役について勉強しており、瑞鳳殿境内にある「戊辰の役弔魂碑」を確認したいと連絡を頂き、御一緒しました。

 異なる位置のダルマ型とロウソク型の灯籠2基に、続いて弔魂碑をご案内しました。早速、持参の線香を焚かれ、長い時、冥福を祈っておられました。お若いのに出来たご婦人です。後裔者のお詣りはありますが、此処までされた方は初めてです。

 この弔魂碑と参拝者の特徴迄のガイドは順調でした。この先、勉強のヒントを頂きました。
 「1260人の供養碑とありますが、その内訳、氏名は。戊辰の役の指導者としてその責任を問われ、1869(明治2)年5月19日東京で処刑された但木土佐・坂英力の両名も含まれていますか」です。

 碑の前に「戊辰の役。函館戦争で犠牲となった伊達家家臣、幕臣、上杉家家臣1260人の供養の為、伊達家と旧家臣で建立した」旨の標識があります。早速手持ち資料を開きましたが、すべて、これの孫引きです。それ以上は不明です。

 これまで、「戊辰の役」自体知らない人々が多く、聞いてくれないと安心し、詰めの甘いガイド態勢でした。「組織別、戦闘別の人数、氏名を調べる」と約しました。又、わかったら教えてくださいとも、お願いしました。

 「この1260人は靖国神社に祀られていません。宮城県護國神社に祀られている様子が無く、照会していますが回答を頂けません」に「靖国神社に祀られていないは知っていました。なぜ宮城県護國神社ですか」 「ハイ 宮城のふるさと防衛の犠牲者であれば、県護國神社に祀られるのが当然と考えていました。ガイドの際 賊軍ではなく東軍と言っています」


 この後、NHKカルチャースクールの吉岡一男先生が瑞鳳寺を案内・解説があるとのこと。「それは羨ましい」と洩らした数分後、「先生のご了解頂きました」と携帯電話を頂き、講座生の末尾で先生の講義を拝聴しました。

 本堂の仏像、佛旗、建物、茶室に、墓地では相江家・佐々家の墓所、鹿児島七志の墓と廻りました。墓石の彫りが不鮮明なものに「片栗粉」を塗りました。鮮明に戒名その他の文字、「元和元年」の文字も浮き上がりました。1615年です。瑞鳳寺の創建は1637年です。墓碑が寺より早いことになります。勉強の種です。

 「片栗粉は風雨で簡単に流れ去ります。一番手軽な方法です」との事。これは参考になりました。

 此の後、経ヶ峰の地名の由来を確認すると登りました。無料で講義に参加許されたお礼奉公かわりにと中央の高地(大般若経埋設推定個所)、感仙殿等を説明し、講座生は郷土史に関心が深い様子ながら瑞鳳殿を未だ参拝していない人が多数と見受けましたので、「日曜日には瑞鳳殿にお詣りにお出でください、シニアネット仙台の面々がお待ちしています」と広報をしました。



2 月 19 日 (月)  



 本日は安息 週休日です。落ち穂ひろいです。

 今朝 02年01月からの日誌全部読みました。06年12月と07年01月リンク切れになっています。どうしたのでしょうとメールを頂きました。
 いずこのどんな方が存じませんが、この拙い日誌をお読み頂き、メールを頂けるとは嬉しい限りです。皆様、お気づきなりましたら 何らとお知らせください。お待ちしております。
 リンク切れは修復しました。原因は不明です。

 13日現地調査した「16.蓑首城(坂本城)址→伊達家一家大條(オオエダ)氏(4000石)預かり要害」。 ここ地元山元町の首長選挙があり、預かり要害の主の末裔が当選しました。140年のタイムスリップでしょうか。
 140年前の統治者の末裔が、その地の指導者の地位に着くとは。

 瑞鳳殿を訪れた人々は、どんな感想を持たれたか ブロクを検索しています。こんな感想がありました。
 「観光ガイドのおじさんが 隣で説明しています。えー 正宗は 血液型が Bガタ 二代目の 忠宗 イーガタ ・・・ 」むむ? E型 と聞こえましたが資料を見ると A型と書いてありました」

 観光ガイドのおじさんの存在を認めてくれ、読ませる事には感謝します。
デ ひと言、仲間には江戸っ子は居ません。全て奥州で成育した人々です。火鉢をシバツ、インクをエンキと発音できる人は居ません。
 「血液型・身長は資料館をご覧ください。全てを語れば資料館の楽しみがなくなるでしょう」と資料館を誘導しています。

 又 政宗公の棺桶の詰め物の説明の際のカキバイについては、「うみのかきでやまのかきではありません。漢字で牡蠣灰と書きます」とガイドが続きます。

 皆様 瑞鳳殿にお出でください。感仙殿・善應殿の化粧直しも間もなく終わります。目もくらむ美しさです。竜宮城かと思うかも知れません。




2 月 18 日 (日)  



 本日は午後からガイドしました。午前は、ここ経ケ峯の足下の米ケ袋地区に所在する「縛地蔵尊」と寛文事件(伊達騒動)との関連を追求する地元学習会に参加しました。

 この会合で再認識したのは、御霊屋下には「御小人」が集団で配置されていたことです。彼等は侍・足軽に次ぐ地位ですが一番の稼働兵力であって、この人達が配置されていたは、瑞鳳殿等の御霊屋は仙臺城並みの重点警備地区であったことを示して証拠と理解しました。

 今日も回答に戸惑う質問の連打に合いました。
1.扁額は何故右から書かれているのか。これでは「殿鳳瑞」では無いか。変だ。

2.資料館の壁面は障子風になっているが何故か。東北は寒いから土壁てなければ生活出来ないだろう。

3.寄進灯籠の火袋「光窓?」の向きに法則があるのか。登段する都度足元を照らすように計算されているのか。

4.伊達家三代の御霊屋といいながら、何故三棟あるのか。

 あかとんぼの答えは

1.は、日本語は右から縦書文書が基本で、扁額はその流れです。それを理解できない横書文書の世代の人でした。回答しませんでした。

2.は、戦災焼失前の「御供所」の写真を示して、焼失前に限りなく近く復元したもので、風雨対応でガラス面になっています。
 「御供所」は殿様が参拝される際に身支度を最終的に整える場で、生活の場では無く、耐寒の心配は不用です。

3.寄進灯籠の目的は、供養であって灯台ではありません。又、夜間の参拝もありませんでした。足元を照らすように計算されていなかったでしょう。
 現在の灯籠の上部の向きに一定性みられない理由はわかりません。

4.は、我々の「○○家累代の墓」と異なり、政宗公・忠宗公・綱宗公の三人の御霊屋と言うことです。

 H代表から「花押についての質問があった。花押についての質問は、ガイド初めて7年 グループでも初めての質問」と伝えられました。
 5日に「花押の鶺鴒の目」を勉強会でH代表が語ったばかり。質問者は旅行者でしょうから偶然かもしれませんが、チョットした驚きです。 

 仙台市内からの20代後半の女性5人、本殿前で各人バラバラに無方向性に質問を繰り返します。立ち往生と、H代表がA3版拡大資料を広げ「伊達家の家紋は8家紋ありまして・・・・。」。静かにはなりませんでしたがバラバラは止まりました。
 この巧みな技術は、職歴によるものか、悟りによるものか。己の未熟を今日も知りました。脱帽です。



2 月 15 日 (木)  



伊達家の塩蔵

 テスト(口頭試問)を先日仙台市博物館のボラガドの方からされました。
「あかとんぼさんは瑞鳳殿で寒い中ボラガイドご苦労さんです。ところで、伊達家の塩蔵 何処にあったか知っていますか」
「ハイ 塩蔵は現在の東一番丁、大町を中心とする東一番丁3・4丁目にありました。米蔵は現在博物館のある三の丸、酒蔵はその上にありました。ご存じですよネ」「よくご存じで。そのとおりです」 これでチョン 幕です。
 このテスト(口頭試問)の目的は何であったでしょう。

 即答したものの確認調査をしました。
東一番丁は明治維新までは、伊達家家臣の侍屋敷で、一関田村家の下屋敷もありました。
大町から以南の柳町までを塩蔵丁(しぐら丁)。以北を糠蔵丁と呼ばれていました。
塩蔵は東一番丁82番地辺り、又は11番地の裏の方に建っていたと言われます。
糠蔵は61番地から国分町25番地に建っていました。

米蔵は本丸と二の丸の間に、炭蔵。塩味噌蔵は元支倉に。大橋の外には南北の吹貫門があって、その南の方に塗師蔵、蝋燭蔵、家具蔵、肴蔵等があり、北の方に本繪所、紙蔵、作事会所、人足方会所があった。材木は八ツ塚に。家臣に支給する米蔵は若林と躑躅ケ岡に。焔硝蔵と瓦焼場は北山にあった。

 以上は、「仙臺・東一番丁物語 柴田量平選集 2001年11月11日発行」によりました。原本は1944年自費出版され、1967年に復刻され、更に2001年に選集として発行されたものです。
 この柴田量平氏は1889年4月8日東一番丁58番地に生まれ、1904年20番地に移り1980年10月2日91歳の生涯を終えた方です。編纂には三原良吉・菊地勝之助・山家美夫ほか当時の識者に、伊達家史料、明治から昭和の諸史料に基づいたと明記しており、信憑性は高いと認識しています。

奥州仙臺城絵図(1645〔正保2〕年)以降の城下絵図 各葉を閲覧しましたが、蔵の所在表示はありませんでした。

上記の所在表示は現在の住居表示ではありません。お間違えないように。現在地を確認されたい方はメールください。



2 月 13 日 (火)  



 伊具・宇田・亘理の三郡の伊達家史跡を、U先輩の先達でH代表ととも確認に行って来ました。 

 今回の企画は、瑞鳳寺境内の「着座・佐々氏の墓碑存在」から、その「預り所」に菩提寺を確認しように始まりました。
 確認先
01.石龍山西円寺→佐々氏菩提寺
02.鳥屋館跡→佐々氏居城
03.丸森城址→種宗公隠居城
04.亀岡八幡宮仮宮跡
05.柴小屋城址
06.矢ノ目城址→1577(天正4)年7月輝宗の相馬戦の本陣
07.金山城址→標高117m視界四方。1583(天正11)年2月政宗初陣・攻略の地
08.旗巻峠古戦場、北砲台、廃道
09.慶応四戊辰(1868)九月十日戦死塚→仙台藩戦死12人を村民合葬
10.駒ケ嶺城址→1589(天正19)年より政宗公支配。対相馬を重視した城
11.蓑首(ミノクビ)城(新地城)址→1589(天正19)年5月政宗公支配。1631(寛永7)年廃城
12.観海堂→1872(明治5)年設立11ケ村立学校。校舎は1769(明和6)年建築。仙台養賢堂より講師派遣。本地区は1876(明治9)年福島県に編入。
13.松山茂庭家家臣墓碑→戊辰役戦死者40人埋葬
14.御殿岬駒ケ嶺攻略戊辰役古戦場
15.唐舟番所跡→政宗公初めて海を見た地。1739(元文4)年5月26日ロシア船3船発見。政宗公腰掛けたと言われる石にアカトンボも腰掛ける
16.蓑首城(坂本城)址→伊達家一家大條(オオエダ)氏(4000石)預かり要害
00.高蔵寺阿弥陀堂→1177(治承1)年藤原秀衡妻建立

 巡視した地は、梅・福寿草等の早春の花が満開で、およそ500年前又140年前に戦乱があり流血の地であったとは想像できないのどかでした。里山は眠りの中にあり、標高120メートル程の山城跡等からは、樹間からの視界は開け、眼下に広がる人家・田園に海、嶺々を目にして、築城の立地選定の卓越した眼識に感心しました。

 特異日的温暖快晴の中、効率的に巡視出来ましたは、先達U先輩の事前調査の賜です。感謝します。 
明日から整理が楽しみです。



2 月 12 日 (月)  



 快晴温暖。友人、三世代連れが主体で団体は皆無。珍しいです。

 若いペアには積極的にガイドしましょうかと声をかけない方針です。先方から声がかかりました。静岡市からとの事。「ハイ 此処はお宅の久能山・東照宮と同じ。家康公でなく、政宗公の御霊屋です」以後のガイドはスラスラご理解頂けました。

 久能山・東照宮は1616年4月17日75歳で亡くなった家康公を祀る為、久能城に同年5月着工、翌年12月に1年7ケ月の短期間工事で建立したもので、塩害対応で周期的に塗装をしています。

 この二人は最近は訪れていない様子。でも1159の石段を登って、奥にある高さ5.5メートル、周囲8メートルの石造の廟所をお詣りした記憶は定かで、「あれは寂しいです。此処は伽羅美で美しく楽しい。政宗公は恵まれている」との感想を洩らされました。

 涅槃門前で周囲を睥睨し、「馬小屋はどこか」と連れと語っている方がいました。何れからの発想でしょうか。瑞鳳寺の前は現在坂道ですが、以前は石段であった。そして62石段と続きます。登りはじめには下馬石も立っていました。これを無視しての騎馬で涅槃門までの参拝は考えられません。
 ただ、H代表が現在の事務所の位置に「馬小屋」と記載した古絵図があると洩らされた記憶があります。となれば騎馬説が浮上します。それを知っての発言だったでしょうか。その様な感じでませんでした。

 狩野安信描く肖像を見たオバサン達「政宗はワタナベケンだ」「ワタナベケンの政宗は素敵であった」「これはなによ」と大言壮語。「政宗公は伊達男、美男子でした」と複顔した写真をお見せしたかったが、その勇気がありませんでした。

 入口表示板前で、若い女性から、「印籠は何処にあります」心覚えが無いので「ハー 水戸黄門の印籠ですか」と訊ねたら「発掘調査した際、世界最古の印籠が出土した筈」急ぎ手持ち資料を広げました。高7.1p 幅6.3p 厚2.5pの梨子地菊蒔絵印籠の写真がありました。「これこれ。何処にあります」「調べてお知らせせします」「いいの、いいの」

 「涅槃門をガイドしましょうか」「私 大学史学部卒業なの」スタスタ
 涅槃門の6面の透かし彫りに注目もしないで「○○と煙は登る」とばかり三段一段の石段を駈けのぼっていきました。

 事務所に確認しました。市博物館に寄贈したそうです。



2 月 11 日 (日)  



 千姿萬態の天候です。「建国記念の日」です。振替休日3連休の中日です。参拝者は30分周期で埼玉・岐阜・新潟・マレーシア・中国からとお見えになりました。

 マレーシア・中国からの若い人々は、大崎市のIT工業の技術研修員です。寒い中を熱心にUさんのガイドを聞いていました。技術以外に、日本文化をもどん欲に吸収する知識欲。感心すると同時に、日本の将来が心配になります。

 小学4年生のお嬢さんと母親、熱心に撮影していました。「5年生の社会科の授業で政宗公に興味を持って、祖父母と共に訪れる人が多いですが、お嬢さんもそうですか」に、「今東京ですが、母方の祖祖父母が秋保家の流れです」「ハァー」

 今日 印象に残った感想の言 「これ全部 政宗公のお墓?広いなー 贅沢だなー」こんな感想は初めてです。この若い人、1Kマンションの生活かなと 思いました。

 学芸員から、「感仙殿の化粧直し 最後の詰め残すのみ、足場外しました。写真をどうぞ」との言。早速撮影して参りました。天女さん・紅白の牡丹花・瑞鳥等眩しい色彩でした。善應殿の花鳥風月の彫刻も鮮やかでした。完成が待ち遠しいです。

 本日 秋の撮影会入選作品集が送られて来ました。改めて見るに さすがの作品ばかりです。

メモ
 秋保氏の格式は、一門に次ぐ家格の一家の2位、知行は1,000石。拝領は所預かり、地区は名取郡長袋(旧秋保村)。
 始祖は、平重盛の後裔と言われ、伊達家との関係では「秋保殿」と殿付けで呼ばれる半独立領主であった。1601年頃から一家に列された。
 この秋保郷に、政宗公は1622(元和ゲンナ7)年7月に川猟に出掛けている。1710(宝永7)年の吉村まで、通算14回を数える。
 この項、平凡社「宮城県の地名」によりました。 



2 月 5 日 (月)  



 ガイド仲間の勉強会が開催されました。

 H代表から、政宗公が秀吉公に査問され弁明した際の有名な話「花押の鶺鴒の目」について、古文書「会津四家号考」(1662年著)「仙台武鑑」(1745年頃)の記載内容の紹介がありました。

 事件は1591年に発生しており、何れの書も71年後や165年後に記述されたものであり、現認者でなく、伝聞であろう故に真相は?と私は聞きました。

 事件の概要・解説は、吉川弘文館刊行 小林清治著「伊達政宗」82頁(政宗の態度)をお読みください。これが正解と思います。

 「花押の鶺鴒の目」本日は概略のみで詳細は、8日シニアネット仙台でH代表の90分講義(有料)があります。そちらにどうぞ。



2 月 4 日 (日)  



 風雪 時には晴れ間もある厳しい気象条件の日です。数少ない参拝者は、マフラーでほっかぶり(頬被り)して、そそくさとお詣、ガイドを聞いている余裕がありません。

 元気なお嬢さん2人。中華民国台湾省台中市からでした。拝殿の扁額をガイドしましら、台湾新幹線は飛行機並みの運賃なので乗らない。午後帰国する等を語り、折からの風雪を喜んでいました。北回帰線直下からの方々です。最大の馳走でしたでしょう。
 この人達、若いのに日本語出来ます故に、パンフは日本語でした。

 名古屋からお嬢さんを案内された方、慶長遣欧使節団の末裔と語り、@常長の一行は舟が破損し一度帰国し再度旅立ちした。A常長一行以前に、かの地に日本人が居住していて一行の無礼打ち事件を穏便に処理した。B一行の相当数の人が現地に残留し、ハネポンと称している。C大郷町の支倉屋敷は暗殺団から守るために政宗が与えたもので、八頭の大蛇の話はやはり警備のためのものであった。D政宗は小田原攻めの際、敗者北条一族を匿い、大河原町に住まわせた。その末裔が北条姓を名乗っている。
 こんな話を聴ける余裕がありました。話の内容の真偽は?です。

 拝殿の一画に、長大の蔦の枯れ木がのさばり、電動錨打機の音が響いています。正月、券売所まえを飾った創作華道家しょうじまさる氏が新作「瑞光」を制作していたのです。

 本日は、旅行会社のチラシ風表現「遅めのお出まし、早めのお帰り」で、事務所で熱いお茶を馳走になっていたら、先程ガイドをした東京と福島のご婦人、「サムイ・サムイ 熱いコヒー無いかしら」と入ってきました。
 「さっきのガイド聞いたので、資料館よく理解できました。ありがとう」といいながらフーフーとコヒーを飲んでいました。

 感仙殿・善應殿の化粧直し工事 峠を越えたようです。瑞鳥・天女・風月の彫刻がはめ込まれました。未だ ビニールシートに被われています。最後の化粧がいつなのか。完成・公開が楽しみです。



2 月 2 日 (金)  



 久々の降雪です。

 仙台市(観光交流課)では、外国人観光客を案内する為のもてなしと市内観光地の基礎知識を学ぶ講座を解説するそうです。
 要件は、英語・中国語・韓国語・泰語での日常会話が可能で、通訳・観光案内に意欲のある人先着40人。年齢制限はないようです。

 大変結構な事です。成果を期待しています。



2 月 1 日 (木)  



改葬

 墳墓は先人が心安らかに眠っているところであり、神聖にして犯してはならない所と覚えていました。それ故に、伊達家三代の墳墓(瑞鳳殿・感仙殿・善應殿)の発掘調査は、特異な事例と理解していました。
 最近の日本では、父祖伝来の地を立ち去り、異郷に終の棲家を求める事例がままあり、その際には、父祖の墳墓をも移動すると聞いています。改葬です。
 民は上に倣うは、古からの習わしです。現在の改葬の風潮に至ったからには、先人の事例があるはずです。
 指導者層の事例として、1907年から1982年までの75年間に、8家で77人の改葬事例がありました。
 詳細は、
1.1907(明治40)年に、京都・大徳寺・三弦院に埋葬されていた関ヶ原の戦いでの西軍総大将 石田三成(1560-1600)の墳墓が改葬されています。

2.1950(昭和25)年に、平泉・中尊寺の金色堂工事の為、藤原四代(清衡・基衡・秀衡・泰)衡が改葬されています。

3.1952(昭和27)年に、戦災復興区画整理に伴う道路工事で、東京・新宿・太宗寺において、信州高遠・内藤家(3萬3千石)の殿様8人、室6人の14人の墳墓が改葬されています。
 殿様は、@6代清牧(きよかず)A8代頼由(よりゆき)B9代頼尚(よしたか)C9代弟頼寛(よりひろ)D9代次弟頼多(よりかず)E10代長好(きよかず)F11代頼以(よりゆき)G13代頼直(よりなお)
 室は、@初代忠政室A7代頼郷室B10代長好室C12代頼寧先室D12代頼寧後室E13代頼直。室は何れも将軍夫人よりも貴族的、現代的な容貌の女性。

4.1953(昭和28)年4月28−30日に、東京・新宿・東大久保・西光庵において、尾張・徳川家14代・17代慶勝(1824-83)と16代義宣(1858-75)の墳墓が改葬されています。
慶勝は2度殿様を務めている特異事例の方です。又、次弟茂榮は一橋家、三弟容保は会津慶勝、四弟忠敬は桑名松平家を継ぎ、幕末の変革期に活躍した4兄弟として有名である。

5.1958(昭和33)7月から1960(昭和35)1月まで、東京・芝・浄土宗本山・三縁山増上寺において、1945(昭和20)年5月の米軍の空襲で焼失した徳川将軍家(重要文化財)の霊廟で、将軍・室・側室・子女の総38人が発掘調査改葬された。
詳細
将軍         室            側室
二代 秀忠   崇源院
                 桂昌院(五代綱吉生母)
綱重(三代家光の子)
六代 家宣(いえのぶ) 天英院      月光院(七代家継生母)
七代 家継(いえつぐ)
九代 家重(いえしげ)
        広大院(十一代家斎)  契真院 (十一代家斎)
十二代家慶(いえよし)      見光院
殊妙院
        天親院(十三代家定)
十四代家茂(いえもち) 静寛院
7人         5人            5人

6.1960(昭和35)年に、東京・荒川・日暮里四丁目善性寺において、十一代家斎の19子松平上総介斎良の墳墓が改葬されています。

7.1974(昭和49)年9月25日から10月14日に、奥州・仙台 伊達政宗公(1567-1636)の瑞鳳殿が発掘調査改葬されています。

8.1981(昭和56)年10月12日から、伊達家二代忠宗公(1599-1658)の感仙殿が発掘調査改葬されています。

9.1982(昭和57)年11−12月に、東京・三田 済海寺において、越後長岡 牧野家(7萬4千石)の殿様8人、室5人に、ほか1人の14人の墳墓が改葬されています。

10.1983(昭和58)年1月9日から25日に、伊達家三代綱宗公(1640-1710)の善應殿が発掘調査改葬されています。

 以上は、1985年12月16日 財団法人東京大学出版会から刊行された「骨は語る 徳川将軍・大名家の人々」鈴木尚(すずき しょう)著作によりました。
 著者は、1912年生まれで、1936年東京大学医学部を卒業し、同大学にて解剖学、人類学教室の教授等を務めています。将軍家・伊達家の廟所の発掘調査に参加しています。
 1982年以後に改葬された事例を集大成した資料は現在 発見されていません。心当たりある方 教えてください。本件瑞鳳殿学芸員に確認済み。





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