2007年3月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




3 月 26 日 (月)  



 寶壽院・政宗公叔母 (3月20日の続き)

  本日の主人公は、須賀川城主二階堂盛義の後室大乗院の妹、寶壽院です。

 俗名は不詳ですが、寶壽院殿廣山宗陽大姉 で芳壽院または寶樹院とも伝えられています。

 1550(天文19)年に、晴宗の六男五女の末娘として米沢城で産まれました。常陸國佐竹修理太夫義重と婚姻、1570(元亀元)年7月16日卯刻(午前6時頃)義宣を出産、姉大乗院、弟国分盛重を匿い、1631(寛永8)年10月29日晩に81歳で、江戸・神田 佐竹家上屋敷で亡くなり、11月21日久保田・萬固山天徳寺着(初めての国入り)、翌22日荼毘。12月12日葬礼をしました。

 子で、政宗公と従兄弟の佐竹義宣公からの七項目の指示の一つに「伊達政宗、相馬氏の香奠は天徳寺に納しむべし。其余、受納すべからざる」とあります。

 又「所々の使者到来に於ては町屋に宿せしめ、饗喰等美を尽すべき事」もあります。

 伊達家からの使者は誰で、香奠は如何ほどであったかの記録に、未だ至っていません。いずれにせよ、佐竹家では伊達家でそれなりに相当の礼儀を尽くすと察知していたが知れます。

 余話
1.佐竹家では、義宣公も、その両親も荼毘に付しています。伊達家三代は、なぜ荼毘に付さないで牡蠣灰・水銀等を充填し埋葬したのでしょう。

2.義宣公葬儀模様に「浅野内匠頭使高松五太夫下向。香奠(判金1枚@)到来。但、所々の香奠等受納せざるの間返進せしむるの由、其家人大石内蔵助に政景答書を送る」なる記述があります。

  浅野家は吝嗇なる故に、事件を誘発した。大石内蔵助は要所は適格に処理出来た人物であったの風説があります。その後半部を証明する記録と理解します。


@判金とは、「、大判は判金1枚,2枚と称され、判金1枚が44匁」「慶長から万延に5種の大判を幕府は作った。槌目のついた表面に〔拾両、後藤[花押]〕の墨書と桐紋を打った大判は贈答・儀礼用の貨幣であった」

以上は、下記図書によりました。
T「佐竹家譜」原武男校訂 1989.08.31発行 第21世義宣編
U「佐竹義宣と、その母・宝寿院」伊藤武美著2003.04.30.発行
V「探訪ハンドブック」野呂肖生著2001.07.25.発行
W「仙台藩歴史事典」 仙台郷土研究会編2002.06.29.発行



3 月 25 日 (日)  



 雨です。予報では晴れる筈でしたが、中雨(日本語として正確か疑問ですが、小雨と大雨の中間の雨)です。にもかかわらず、参拝者は途切れる事無く、沢山お出でになりました。ガイドを希望されます方、多々おりましたが、あかとんぼ一人で対応は限られます。希望される方全てに応えられなかったのは残念でした。

 臥龍梅が満開です。
 「これ なんの 花」の声も聞こえました。まるっきりの無知なのか、梅が散った土地からお出でになったのか。

 「この梅の木は、1593(文禄2)年朝鮮半島から政宗公が持ち帰ったものです。松島・瑞厳寺に紅白の木が、現在は余人が入れない政宗公の居城址「古城」に龍が臥した形なので「臥龍梅」といわれ あります」とガイドしましたが反応はイマイチでした。デモ、雨の中を撮影されている方数人居ました。すくわれます。

 券売所ロビーで「春うらら・夢見月 雛を愛でる 政宗公と楽しむ雛人形の数々」と題して、ひいなプロジェクト仙台と財・瑞鳳殿との共催で、展示会を開催しています。伊達家の時代は、旧暦3月3日が桃の節句でした。現在の暦で3月下旬から4月上旬です。この桃の節句を「上巳の節句」として城中でも、家臣の家でもお祝いをしたそうです。

 女雛様のように綺麗なお二方がガイドしてくれました。珍しい、綺麗な、見事なお雛様、置賜・庄内地方 雛街道に負けない数々が陳列されていました。
 あかとんぼ所蔵と同じ作者の雛人形が飾られていました。驚きました。かかる名品であったのか。飾る場所あかとんぼの巣では、人形に申し訳ないと感じました。

 展示されている雛人形の写真は、「瑞鳳殿 四季折々 http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/」でご覧ください。

 戊辰史研究の小夜様が、旗巻峠の古戦場に行って撮影してきたと、写真を公開しています。「あかとんぼ」が2月13日U先輩と視察した所です。写真や詳細は日誌に記載しませんでしたので、興味ある方、参考になります 「田毎の月 http://yukisayo62.exblog.jp/」を是非ご覧ください。

 10時頃、南参道を登ってきた方が「石川県で震度7の地震があった。大変だ」と言い捨て去って行きました。11時30分頃のお客さんに、福井からの方がいました。でも、未確認情報を発する訳にもいかず、「本殿の修復工事等に福井の職人さんも関わっています」とガイトしてお終いです。

 あかとんぼの巣に帰り、情報を確認したら輪島を震源とする大地震が9時42分に発生していました。
 この様な場合、情報を確認し、お客様に伝えるべきでしょうか。今日の方は「知らぬが佛」で旅行を楽しんでいましたが。

 記録する様な難しい質問はありませんでした。



3 月 20 日 (火)  



振姫の具足 (3月10日の補足)

 「振姫(女性用)具足は、嫁入り道具として持参したもので、時代は平和になっており、戦場ではなく、火事装束である」との説明が高橋学芸員からありました。

 それでは、何回着用する機会があったのでしょうかです。
振姫は、1606(慶長11)年池田輝政の娘(家康の孫)として生まれ、1617(元和3)年に、秀忠の養女として忠宗公と婚姻し、1659(万治2)年53歳で亡くなっています。

 忠宗公は、前年1658年に亡くなっていますから、振姫は亡くなる迄42年間 外櫻田の上屋敷に住まわれた筈です。この間、何回火事があったでしょうか。1621年1月、1635年7月、1657年1月と3回 外櫻田の上屋敷は焼失しています。その都度、女性用具足を着用し、消火・避難の下知をされたのでしょうか。

 さて、政宗公と女性用具足ですが、愛姫にプレゼントしているかは不明です。ただ、政宗公は、女性と戦っています。1589(天正19)年10月26日です。女性 それも伯母と戦争をしています。当然 伯母は女性用の具足を着けたでしょう。振姫のものより質素で実用性の高いものであったろうと思います。

 此の戦いは、伊達家の信夫・伊達の両郡と同様に、1189(文治5)年9月20日に源頼朝からの論功行賞で二階堂氏が岩瀬郡を所領としました。摺上原の戦いの流れで、二階堂氏の居城須賀川城は、政宗公に攻められ落城しました。

 この時の城主は、政宗公の伯母「大乗院法岸秀連大姉(俗名不詳)」でした。彼女は、二階堂盛義(1551年没)の後室で、嫡男行親が1585年に没して落城までの4年間、二階堂家の家政を執行していました。落城後は妹@の嫁ぎ先、佐竹家に身を寄せていましたが、佐竹家が秋田に転封に成り、秋田に向かう途中、旧居である須賀川で病が重く成り、城下の長録寺で療養し、1602(慶長7)年に没しました。

 大乗院を評して「上古には尼なる将軍だに御座したりとは雖も、近代にかかる勇なる女性も例少なくぞ聞えし」と〔会津四家合考〕Aに記しているそうです。


@伊達家15世晴宗の娘。常陸國主佐竹修理大夫源義重の室。寶壽院、俗名不詳。此の方の弟が国分盛重で、政宗との紛争で佐竹家に逃れ、1615年出羽横手城主で没しています。
 政宗公は、佐竹義宣と従兄弟の関係にあり、叔父・伯母をそこに追放しています。
A会津四家合考とは、會津を領した葦名、伊達、蒲生、上杉の四家が、その領有時代、岩代國全域を舞台に興亡盛衰をたどる変遷を正確に記し、會津松平家の家臣向井新兵衛吉重が著わし、1662(寛文2)年に完成したものです。
 次のURL http://www17.ocn.ne.jp/~you/で、現代訳の主要部が読めます。ただし、須賀川落城・大乗院についての項は記載ありません。

以上は、下記図書によりました。
T「賢妻千代の理由」大和田哲男著205.11.25発行
U「伊達政宗」小林清治著 2004.09.20発行
V「佐竹家譜」原武男校訂 1989.08.31発行
W「仙臺人名辞典」菊田定郷著 1933.02.05.発行
X「仙台市史・近世2」



3 月 19 日 (月)  



 グループの現地勉強会がありました。孝勝寺・善応寺の際は大雨、今日は濡れ雪の吹雪です。なぜか悪天候に恵まれています。

 龍雲寺では、戊辰の役で活躍した「からす組」隊長細谷十代夫が、役の後には、士族授産に、廃寺であった本寺の再建に努めたことが紹介されました。

 大願寺では、政宗公灰塚、山門が紹介されました。
 灰塚について、柩の灰を埋葬したとの説明が講師からあり、「これまで5月24日江戸桜田屋敷で亡くなり、11日目には、現瑞鳳殿に埋葬したと教えられている。掘り起こして火葬にしたのか。では 再建のための調査でご遺骨が確認されたのは別人か」のブツブツが数人からありました。

 正解は、空の柩です。寒さで「カラの柩」のカラを省略したに起因します。

 「なぜ 大願寺の裏で葬儀をしたのか」の質問があり、「この付近一帯は、当時原野でした。灰塚を守る条件で大願寺の移転・創建が認められたのです。お寺は後です」とH代表の補足説明がありました。

 寺町は、城下のはずれに設置されるのが通例です。寺町の外にある家並みは、一般的に在か新興地区です。

 山門について、「4代綱村夫人稲葉氏仙姫の御霊屋の門を移築したものです」にYさんから「御霊屋のあった満壽寺はどうなったのか。大年寺と伊達家墓所の関係は」の質問がありました。
 
 「明治維新で、伊達家は資力を失い、寺の維持が困難となり満壽寺・大年寺は廃寺となりました。その際、仙姫の御霊屋の門がここに移転したのです。ご遺骨は、榴岡の孝勝寺管理墓地に「振姫・仙姫・三沢初子」とともに祀られています。

 大年寺は、総門と石段が文化財として仙台市文化財課が管理しています。伊達家の墓所は伊達家で管理しています。佛式と神式の墓碑が併存しています」とH代表の補足説明がありました。

 あかとんぼの感想です。
 灰塚で、葬儀の開始・終了時刻、天候、行列の規模、出発地からの経路、破壊された灰塚、灰塚の廃止の時期等も詳しく語って欲しかったです。

 90分の短時間で訪れる寺の数が多すぎます。単なる門前巡りの感じでした。

 墓碑・塚のみで、本尊等の参拝はありませんでした。昌繁寺の寶物「毛縫曼陀羅。1692年信徒8963人の毛髪で製作」を皆様に拝観して貰いたかった。瑞鳳殿ガイドの際に、写真を披露すると「感嘆する人」「信仰の力に恐怖感を訴える人」様々です。次会は仏事の無い日時に開催し、本尊・寺宝を拝める様にしてほしいものです。



3 月 18 日 (日)  



 春は名のみ。冷たい風で境内の杉木立からの花粉が飛散し、車の窓ガラスに黄色く積もりました。マスクしメガネしてもダメと、涙を流し洟を垂らしている方がいました。

 佐賀、岡山、千葉の各大学、そして中華民国から九州と東北大学の留学生。専攻が國文・史学系統の方が、連続しました。

 佐賀大生の反応は、一般観光者とは全く異なります。確かめましたら、史学系統ですの返事でした。

 千葉大生の反応は、蕾の膨らんだ「臥龍梅」から「沙羅の木」に話題を転じたら。「古事記」の冒頭がさらさらと流れ、枝が切られたらと付け加えたら、反応が大きくなりました。で國文系統であるとわかりました。

 外国語での会話をする男女4人 券売所で日本語パンフを貰っていましたので「English a Pamphlet」と問いかけたら 「日本語のパンフでOK」の返事。案内板を見て 「トヨトミ」と語ります。「政宗公は豊臣秀吉、徳川家康・秀忠・家光の4代の最高権力者に対応した、いま10年余早く生まれれば天下を取っただろうといわれ人です」と 思わずガイドしたら、しんなり理解してくれました。

 先日の研修で「What country are you from」と習いましたので、早速実用化しようと思ったのに、斯くも日本語を理解するので 「どちらから」と問うに「中国(中華人民共和国)」との返事。在日数年、大学生の様子。

 案内板で「極楽はパラダイス 天国になるのかな、中国語では」と洩らしたら、別集団のお嬢さんから「*****」。
 中国からの男女4人、何を感じたのか足早く涅槃門・本殿に移動しました。残ったこのお嬢さんから「ガイドして頂けます」「はい 貴女達の時間の許す限りガイドしましょう。さて どちらから」に「中華民国・台湾です。留学生です。ここまでの話 理解できました。日本語どうぞ」で、涅槃門の6面の透かし彫りから始まり、ジックリ70分ガイドしました。 

 この人達、日本の若い人々より日本文化を理解しています。涅槃門の説明で「たとえば 落語の大家の羽織のような」に、「ハイ その話聞きました。意味知っています」の返事。若いのに日本語堪能、落語知っている。驚いた。

 今日は、若い人々が多くてH代表もU先輩も丁寧にガイドしていました。帰路、事務所で「本日は國文・史学系統の学生が多かった。学会でもあるのでしょうか」と洩らしたら、早速に検索し「開かれていませんネ」 単なる偶然でしょうか。



3 月 16 日 (金)  



京都・伊達屋敷

 政宗公は、秀吉が1592(文禄元)年桃山城を築城し、その城下に、1595(文禄4)年屋敷を与えられました。現在も、「伊達」の地名が残っています。この様な話を今月4日に京都大学生4嬢に話をしました。現在の住居表示では何処か。保留になりました。

 「京都府京都市伏見区桃山町正宗」の住居表示があります。また「伊達街道」の名称の道路もあります。

重臣・妻子・郎党等1000人以上が居住し、伊達町とも称したそうです。政宗公は1599(慶長4)年頃まで居住し、1601(慶長6)年に上洛した際にも約1年過ごしています。
 この上屋敷の外に下屋敷があり、現在「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があります。

 本件は下記のURLで確認できます。
http://www.city.sendai.jp/kikaku/kokusai/city/date/bangai.html

 検索は、仙台市公式HP・トップページ「観光情報」→仙台シティーセールス情報館→「仙台ゆかりの地」→「番外編」の順です。
 以上を昨15日 H代表からと教えて頂きました。HP活用に脱帽です。



3 月 15 日 (木)  



 おもてなし(Welcome)講座がありました。
 英語圏からの観光客を積極的にガイドして欲しいとの行政当局の企画です。
 
 冒頭、H代表の講話「仙台市の歴史(50万年前から1636年まで)と瑞鳳殿」、続いて仙台国際交流協会所属米人2嬢と挨拶・案内等の英会話の練習がありました。

 彼女から「友人を瑞鳳殿に案内した際、ガイドを断った。それは怖いからです。日本では、その様な人は少ないでしょうが、ガイド終わってから法外なガイド料を請求されることがあるからです。
 英語でボラティアガイドの標識を着用し、ノーマネー・フリーを明示し、また 陽気な態度で誘ってくれれば安心だ」の発言がありました。

 なるほどです。現在 目立つ腕章を巻き、無料を表示した名札をしています。しかしながら全部 日本語です。発言は納得しました。検討の余地はあります。

 心配は、英語表示の腕章・名札を着用し、挨拶・案内等の会話が出来ても、涅槃門・麒麟・極楽・桃山文化・透かし彫り・扁額・珊瑚・牡蠣灰等の瑞鳳殿の美しさ・見所をガイドする英単語を知らない、喋れないです。立ち往生しないかです。

 通訳ガイドボラティア団体「GOZAEN」では、瑞鳳殿のガイドブックが間もなく完成するとの話があり、譲って欲しいと御願いし、快諾を頂きました。「GOZAEN」のみなさん 英語圏の人々のみを対象とすることなく日本語圏の人々をも 私等と一緒にガイトして頂ければバンザイです。

 参加者意見交換で、
1.瑞鳳殿でのフリーガイドはいつなのか、待機場所はどこか。
2.フリーガイドが居ますと標識を立てるべきだ。
3.音声ガイドは無料にすべきだ。

之について、
1.土・日曜日にフリーガイドをしています。券売所の先で待機しています。 
2.「ボラガイド居ます。声かけてください」の看板を立てています。見て依頼する方沢山居ます。環境からして、現在以上に派手に大きくは無理です。財・瑞鳳殿でも許さないでしょう。
3.拝殿に設置されている音声ガイドは無料です。4ケ国語で7〜8項目をガイドしています。
 博物館特別展の際の有料音声ガイドと同様の装置は、設置費用と利用度からして困難でしょう。この問題はボラガイドの範疇を越えています。



3 月 11 日 (日)  



 小雪・小雨が降る寒い日です。お客様もふるえています。「作並温泉は雪が積もっていた。仙台は寒いー」と話す方おりました。

 寒い日の特徴。トイレは何処ですかと聞かれること。ガイドは聞かなくとも、早く登りましょうと足の早いこと。この2点です。

 なぜか、同じ内容の質問が続く日があります。今日もそうです。「伊達はありますか」所謂御家断絶しただろうの質問が、連続3回ありました。「いや 34世18代はご健在です」と答えると、一様に「期待が裏切られた」とガッカリした表情を示します。なぜ、こんな質問されるのか こちらがガッカリします。

 還暦過ぎの五婦人、一斉に「十八代様にお会いしたいですが」。これまたビックリ。いきなり5口開放してのご注文。「18代ご当主は行事があれば見えます。今日は見えてません。なにかご用があったのですか」に「政宗公の末裔 どんなお顔かと」 埼玉からでした。タクシー時間契約とのことで、重点簡潔ガイドしました。
 「18代に会えなかったけど、ガイドがあってヨカッタ」「ヨカッタ」と連発。あかとんぼ も ヨカッタ

 名古屋からの二嬢。お若いの質問が厳しいです。
1問は、「仙台城はなぜ なにも無いのですか。いつ、だれが廃却したのですか」

 仙台城は、名古屋城とは異なり天守閣等は当初から造りませんでした。本丸は、1871年の廃城令により1873年頃に取り壊しになり、二の丸・三の丸の伊達家累代の建築物は、1882年の銃工場の爆発・火災で灰燼に帰し、大手門・巽門・寅門のみが残ったと言われています。この寂しい風景から、かの名曲、土井晩翠作詞「荒城の月」が生まれました。

 「名曲と言われても 荒城の月 そのような曲 知りません」
 ガクン 義務教育 音楽の時間 なにを教えているの

第2問は、資料館の政宗公復元像を見て、「これ 伊達者と言われた政宗公の具足ですか」 質問されたくない質問です。

 市博物館で、政宗公の具足 本物が展示されています。そちらをご覧ください。之は、身長を表示に過ぎません。

 昨日、市博物館で政宗公の黒漆五枚胴具足を解説付で拝見しました。仙臺胴とも呼称された実践的と言いながら、非常に美的感覚の素晴らしい具足でした。
 資料館の政宗公着用の具足は黒色に光ってはいますが、簡略で足軽・小人衆が着けた具足です。62万石の大守の具足には見えません。

 先日の「政宗公の書ありませんか」のお尋ね同様、展示に工夫の余地ありと感じました。

第3問は、「忠宗公・綱宗公の頭骨・復元像とともに、発掘物に水銀が展示されているが、なぜ水銀か、体に悪いでしょう」

 綱宗公の甕棺の前で、「この甕棺に入って貰い、水銀を遺体保存剤として詰めています。政宗公は牡蠣灰等を詰めています。亡くなられてから体に悪いは無いでしょう。

 甕棺の底の小判を見て「あれは」「三途の川の船賃でしょう。名古屋は、紙に書いたお金ですか、現金を持たせますか」
 「現金3千円です」
 各地の葬祭の習わしが知れる瞬間です。御地は如何ほどですか。



3 月 10 日 (土)  



 伊達家武具(鎧・兜)の特徴を知る勉強会(市博物館主催)に参加しました。

 政宗公の黒漆五枚胴具足を中心に、4代綱宗、綱宗夫人稲葉氏仙姫、7代重村、9代周宗と、政宗公が家臣に褒美とした室町時代の作で伊達家最古の具足と、各く特徴を述べられました。

 五枚胴は、家臣も用い仙臺胴とも呼称された実践的で、約20キロの重さがあり、これに背中に旗を立て、刀を持って更に重くなりますとのこと。

 綱宗夫人稲葉氏仙姫の具足の特徴は、コンパクト化可能ということ、それ以外は同じであり、かなりの重さがありますとのこと。この時代まで、巴御前的考え、戦国時代の倣いがあったを知りました。

 展示している具足は本物、瑞鳳殿墓室から出たものも本物、家臣に褒美としたもの本物。政宗公の生涯で、具足を何着作ったでしょうか。学芸員は質問を受けてくれませんでした。



3 月 6 日 (火)  



 今朝の時刻のブロクに下記の記事がありました。

2月25日(日)は、朝から夕方まで仙台を満喫してきました。
朝10時に仙台駅を出発する『るーぷる仙台』ってバスに乗り込みました。

この『るーぷる仙台』とは、仙台市内を1時間程でぐるっと回るバスで、30分おきに仙台駅を出発しているんです。1日乗車券は600円で、乗り降り自由なんです。で、最初に降りたのは、「瑞鳳殿前」

伊達政宗公御廟(政宗公が祀られてる所)なんですが、はっきり言って興味は無かったんですけどねぇ〜

ボランティアガイドのおじいちゃんがいた訳ですよ
写真も撮ってもらったし、説明もものすごく丁寧にしてもらって、結局30分で帰るはずが、1時間半程、おりまして・・・
いやぁ〜教えてもらわなきゃ、わかんない裏話をイッパイ教えてもらいました。


 当日のおじいちゃんは あかとんぼ 一人。裏話はしません 表話のみですが ガイドを聞くと 見えていて見えなかったものが 見え アーなるほどと 納得するケースが数あります。

 予定延長 滞在時間3倍になったは、なんと評価したらよいものやら。この方2月25日日誌冒頭の大阪のお嬢さんらしい。

http://blog.goo.ne.jp/hisajin_2005/e/868d5da2ec793d67b7d853039a8b0896



3 月 5 日 (月)  







3 月 4 日 (日)  



 市内タクシー会社の一団が見えました。研修で来訪するとの情報があり、お役に立てるかなと思いましたが、引率者のリードで涅槃門を含む全てを、一瞥したのみで去っていきました。午後から観光客を案内して来るのでしょうか。高齢者とは異なり覚えが早いには感心します。

 お嬢さん3人、「パンフ 読めるからガイドは不用」と声高らかに宣言。案の定、涅槃門の透かし彫りをふり返ることも無く、煙の如く本殿に登り、数分で降りてきました。内容詳細で出来のよいパンフです。でも持ったままで、読まないで、斜めに眺めただけで、現場でその神秘的美しさを観賞しないことには。勿体ない。高い拝観料になりましたね。

 お嬢さん4人、手先鉢の家紋から涅槃門と、本殿までガイドしました。反応が全く異なります。独眼龍の謂われから政宗公の心情までサラサラと語ります。なかなか奥深い素養の持ち主の集団です。寶筺印塔で最年少者は数えの22歳と語った途端、「あら 同じ年」との発声。
 「何者かな」と思い、「どちらからお出でなりましたか」に「ハイ 京都からバスや飛行機、好みの乗り物で来ました。政宗公関連史跡見学が目的です。京都大学文学部です。生家は京都・山口・広島・山形です」 完敗です。地元大学ではなく遠路厭わずに旧帝大に学ぶ人は違います。

 弔魂碑前の蝋燭型灯籠に刻まれている奉納者氏名を採集しました。光線の具合で見えたり見えなかったり、剥離もあり難儀しました。最終的には片栗粉を使用しました。この間、約30分、瑞鳳殿から感仙殿に至る途中ですが、弔魂碑に立ち寄った方は、只一人、大阪の盛年女性でした。この方「戊辰の役」を知っていました。ご奇特な方です。うれしいですね。

 杉の花 満開です。花粉症の方 要注意です。



3 月 3 日 (土)  



 戊辰の役 続

 ご城下のとある所で、戊辰の役殉難者の曾孫さんとお昼にお会いしました。

 彼の○○姉様は、あるカルチャー教室で「戊辰の役で戦死した者は、官軍の兵士に溜池やドブに投げ捨てられ骨も遺品もなく、そのままになくなった」と聞かせられました。 曾祖父はその様に扱われたのか 悲しいことだ。その息子である祖父はどんなに苦労したことかと思うと悲しい限りです。ですから瑞鳳殿の弔魂碑に年に何回かお詣りに行っていると語っていました。

 彼の○○姉様に、「ご先祖の姓名と戦死した場所はどこで、生家は何処すか」と訊ねましたら「あれー 姓は○○だけど名前は??、実家は○○町(旧城下の町名)、戦死したのは○○ときいている」の返事。

 早速、「仙臺戊辰殉難小史」「仙臺戊辰殉難五十年弔祭誌」をめくりました。戦死した場所は異なりましたが、姓と実家(遺族住所)が合致し、遺族の姓名が出て来ました。「○○秀○助、○○町23番地 ○○惣○郎 此の人ではありませんか」となりました。
 
 「遺族住所は生家の住所です。確か曾祖父は秀なとかと言った。祖父はじめ叔父等に惣がつく。確かに、私の先祖だ。このエニシ故にか 生家の男はすべて短命です。あかとんぼさんは、九十歳にならんとする私がわからなかったことが、何故、わかるのか。太木カズノコみたい ヒャー」

 「わかって嬉しいです。資料を整理して後ほどお届け致します。数日お待ちください」

 「私は先が短いから早くね。生家は既に甥の子供の時代です。どんなに喜ぶやら。お墓は○○寺にあります」

 「ハイ急ぎ整理しお届けしますが、急いで旅立たないでネ」「はい 待っています。貰うまで旅立たちしません」

 「お墓は○○寺に」の返事からすれば、溜池やドブに投げ捨てられなかったのでしょうか。ヨカッタ。弔魂碑のお陰で 長命長寿の記録が更新されます。今日はいい日です。



3 月 1 日 (木)  



 戊辰の役

 弔魂碑を2月21日に読者の方をご案内した際、「1260人の供養碑とありますが、その内訳、氏名は。戊辰の役の指導者としてその責任を問われ、1869(明治2)年5月19日東京で処刑された但木土佐・坂英力の両名も含まれていますか」の質問に確答できませんでした。一緒に調べましょうと約しました。

 23日、「資料を発見した。戦闘個所別人数、身分別人数、但木土佐・坂英力の両名も含まれているか。わかりました」と詳細なメールを頂きました。

  概要を報告します。

1.伊達家の全責任を背負った但木土佐・坂英力の両奉行は含まれています。

2.身分別は
  執政・参政・参謀・大隊長   8人
  大監察・小隊長・軍監    26
  大番士等           339
  卒・陪臣・雑兵等      860
  徳川・上杉応援兵       27
  合計             1260

3.戦闘個所別は
  01.討會軍             1人
  02白河口           210
  03棚倉              19
  04三春              25
  05本宮高倉           59
  06二本松福島         45
  07小名浜           105
  08磐城相馬間        108
  09駒ケ嶺旗巻        313
  10新庄金山           37
  11秋田方面          136 
  内一関田村家         84
  12使節一行           11
  13越後口              3
  14国事関係           11
  15松前              59
  16応援兵・被捕斬者      34
 合計              1260  

 以上を教えてくれた読者「小夜」さんは、県立図書館で、1917(大正6)年10月10日仙臺藩戊辰殉難者50年祭會刊行「仙臺藩戊辰殉難小史」を発見し、コピーを送付してくれました。迅速な行動力に敬服すると同時にご配慮に感謝感激です。

 なお、1918(大正7)年9月20日発行 仙臺藩戊辰殉難者50年祭記念誌には、付録として、殉難社遺族名簿「殉難者姓名・遺族住所・遺族姓名」、伊達慶邦公建白書、奥羽列藩建白書、但木・坂両國老辯疏書、戊辰日記(正月元旦から明治2年5月14日まで)の資料が記載されています。

 この戊辰の役弔魂碑について、戊辰の役そのものが風化している現在、読者「小夜」さん・同好の志 U先輩のご協力を頂き、別頁をもってまとめ表示したく準備中です。お待ちください。





inserted by FC2 system