2007年4月の日誌
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4 月 30 日 (月)  



 黄金週間3日目。11時現在の公式気温24度 平年比+6度です。上着を腰に巻いて登ってくる方、数見受けられました。
 午前中は、昨日同様怒濤でした、午後は、午前ほどではなくなりました。昨日は999人の参拝があったらしいです。今日は4桁を達成したか楽しみです。

 成年男子2人、62段を駆け足競争で登って、ハァーハーしていました。「小学6年生はもっと早く登り、息は静かですよ」と余分な発言し、シマッタと思いましたが、ニコニコし「そうだろーな」と日頃の不規則な生活を反省していました。

 本殿で、寶筺印塔をガイドしようとしたら「これ 寶筺印塔 という」と連れに説明始めました。「寶筺印塔なる言葉 お若いのにご存じとは お珍しい。僧侶には見えませんが」に、「なに 芝居の小道具係です。扱っているのはプラですけど」と帰ってきました。驚き。また納得しました。

 小学4年生くらいの女児「オハカね」の発言に、母親「イヤ ここは御霊屋です。オハカでありません」 思わず「お嬢さん そのとおり 伊達政宗公のお墓です」とガイドしたら、母親から、余計なオシャベリ爺さんネ の表情でジロリされました。
 確かに、母親の権威を傷つけたのかも。三つ子の魂と申します。正しい事を伝えなくてはならないと思いから発言しましたが。やはりまずかったでしょうか。

 「あかとんぼさん」と声をかけられ「アレー」。現役時代の同僚とその家族でした。かつて、伊達家遺跡巡りと称して、福島県伊達郡の霊山に一緒に登った仲間です。時間に余裕があるとのこと、偉くなったのに昔のままで接してくれること、嬉しくて妙雲廟界までガイドしました。ベロが廻りすぎた個所ありましたら忘れて下さい。

 5月24日の政宗公の御命日法要に、藩志会会員の羽織袴裃と一緒に参拝したいの希望がありました。確定時刻を確認しメールする旨約しました。


 券売事務所に戻ったら主任から「政宗公の側室にイタリア人○○○さんが居たそうですが、それ記載した資料わかりますヨネ」と。美人が手帳を広げて居ました。
「ハアー その話は聞いてはいます。イタリア人で名前は・・・・は? 欧米系の人が側室にいたと聞いた記憶がありますが、高齢者となり頭は、XP以前のHDで簡単に検索出来ません。帰宅確認次第ご連絡します。メールアドレス教えて頂ければ」。名刺交換。

 NHK番組を持っているフリーアナンサーの方で、国際フォーラムに参加されたイタリアのご婦人から、「私は○○で、伊達家と縁があるのよ。家康公が斡旋したのよ」と言われ、驚いて確認に来ましたとのことでした。

 秀吉の側室「香の前」が、賭け将棋の対象となり、政宗公のもとに来たとは聞いていますが、家康公斡旋は初耳です。確認しましょうとなりました。

 本件は、検証しますが 2002年8月19日の日誌をご覧ください。側室・子供の数について質問があり、まとめています。取りあえずの参考になります。



4 月 29 日 (日)  



 ゴールデンウィーク2日目、開門早々、参拝者が怒濤の如く押し寄せました。

 熊本からの盛年男子、「仙台城址から歩いて30分要しました。ここから仙台駅まで30分で歩けますか。ここ瑞鳳殿は素晴らしいですが、仙台城址は何もなく、狭く小さいですね。熊本城は立派ですよ。仙台城は、誰が壊したのですか」

 「御霊屋橋を渡り、東北大学本部構内の建物を楽しみ乍ら、且つ、米沢以来伊達家と行動を共にした商人の町「御譜代町」である大町等を抜けられると、趣があると思います。

 仙台城址は何もなく、狭く小さいとの事ですが、広瀬川から内側が実質の仙台城で、左手に三の丸、右手に二の丸を見ながら、急坂を上った所が本丸です。

 本丸も現在の広場のみでなく、神社敷地も 其の西も本丸です。海抜117メートル、平坦部は、東西245メートル、南北267メートルもあります。

 本丸の
東側は、広瀬川に64メートルの断崖
西側は、三条の大規模な堀切と土塁
南側は、深40メートルの竜口渓谷
北側は、17メートルの高傾斜の石垣
と天然の要害になっています。

  壊したのは、明治政府です。1871年「廃城令」を出しました。実際の取り壊しは1873年頃とされています。正確な記録はありません。
 故に、ここは城址です。豊後竹田と同様に、名曲「荒城の月」の題材となりました。」

 盛年女子から「この瑞鳳殿は、いつ、だれが焼き討ちしたのですか」のご質問がありました。定番のガイド終わった直後です。ガックリしません。名調子のガイドにウットリし聞き逃したのでしょうと、1637年に創建し、1945年米軍の空襲で焼失し、1979年に昭和の技術で再建されたものですと、再度ゆっくり語りました。

 「ところで 焼き討ちと言う言葉 どうして出てきたのでしょうか」と訊ねたところ「この様な立派な建造物は、侍や百姓が焼き討ちするものでしょう」 

 この方、1571年9月の織田信長の延暦寺焼き討ちと混同しているようです。1615年大阪夏の陣以後、1867年の戊辰の役まで、252年間 日本は平和な国であった事を忘れているらしいです。

 「群馬県高崎市から先祖伝来の地を確かめたく来ました」と語るご夫妻。「秋保郷にあって境野姓で、伊達家の重臣であった。これから秋保に行きます」との事。
 帰宅し確認しました。秋保町に大字境野があります。姓が地名であるはそれなりの領主であった証でしょう。手持資料では、境野家は確認出来ませんでした。秋保氏は、1000石召出一番着座の格式の家です。

 財・瑞鳳殿の主任から、「2月25日に希望のあった仙台藩戊辰殉難小史購入しました」と。実物とご対面しました。保存状況誠に良好でした。感激し表紙を記念撮影してきました。登録済次第 ジックリ 読ませてくださいと予約してきました。仙台市内古書店に1冊しか在庫のない高価で貴重な図書、迅速に購入された財・瑞鳳殿の前向きな対応に敬意を表します。



4 月 23 日 (月)  



 ボラガイド仲間30人ほどの勉強会を瑞鳳殿で開催しました。H代表が推敲を重ねた資料を配付、120分熱弁をふるいました。

 数人、実際にガイドするのを迷っている様です。
「ガイドしましょう。だいぶ 勉強しましたから」
「いやー 質問されて答えられないと」
「知らないことは、知らない。調べてお知らせします。と答えれば良いです。毎日 新鮮な質問があります。これが楽しみです」

「ツアー先で、要点をポッ ポッとガイドして貰うと嬉しいでしょう。あの要領よネ」とYさんの援護発言。
 
「観光の人々は、ガイドの長々の知識披露は困惑します。先ずは5分ガイドです」に そうかなーの表情でした。次会 ガイドの具体的要領・配慮すべき点等の勉強会を開催すれば宜しいのか。

 本日の特記事項
1.瑞鳳殿本殿には、政宗公の等身大座像が家型厨子の内に安置されていますの説明に、家型とはどんな型か の質問がありました。
 この方は、焼失前の厨子の写真を見て、扉付の大型仏壇を連想していました。
 本ホームページ瑞鳳殿本殿の開扉した写真をご覧くださいと申しました。

2.政宗公が江戸屋敷で亡くなり、仙台に帰るにあたって、損傷・腐敗対策から入棺した遺体の周囲に牡蠣灰を詰めたは、説明で納得した。さて、墓室の中では、桶の外周囲にも、なにか詰めたのか の質問がありました。
 N先輩が墓室内は、桶と副葬品だけで詰め物はありませんと回答していました。

3.拝殿の扁額は佐々木文山の書であるとのことですが、この書家は伊達領内の地方区なのか、全国区なのか の質問がありました。

 この方は、1659年江戸・西久保八幡神社(東京都港区虎ノ門6-10-14)の近くで誕生し、1734年 吉村の時代に この「瑞鳳殿」の扁額の書を書しています。文山書の扁額は全国に22額、伊達領内では七ヶ浜町湊浜薬師堂にありました。(詳細は06年11月1日日誌をご覧ください)

4.この扁額に関連して、資料館に展示している焼失前のこの扁額の色は、青緑になっている。この扁額は、赤珊瑚と真珠の各粉末で着色したの説明はわかった。でも、焼失前の絵の具はなにか。緑珊瑚はあるのか。なぜ異なる色材料を使用したのか の質問がありました。

 この場に居た先輩もわかりませんでした。写真に着色が誤ったのではと小声でありました。真相 お解りの方 教えて下さい。

5.62石段、3段1段石段 共に1637年に作られたものか。62石段は不規則な石の配列である。3段1段石段は整形された石である。この違いはなぜか。創建以後に改修された事はないのか の質問がありました。

 この場に居た先輩もわかりませんでした。真相 お解りの方 教えて下さい。

6.拝殿と本殿の間にある礎石はなにか の質問がありました。
 拝殿よりの礎石は、焼失した拝殿の礎石で、現在の拝殿は、歴史的関連を無視した拝殿です。本殿よりは、伊達安芸守等 御一門の5人が寄進した灯籠の礎石です。階段左右の家臣寄進の灯籠は復元されています。こちらは、戦災での破損がが激しかったのか、写真・図面の保存が無かったのか 復元されませんでた。


 4月2日に配布した資料(焼失前の配置図・写真)を持参された方、皆無でした。対照して頂ければ、往時を偲ぶに最高であったと思います。話だけで往時を頭中で復元は不可能です。

 焼失前の配置図 御供所の間取に畳の配置、拝殿の規模、廻廊の位置、橋廊、唐門、本殿内の厨子の位置、規模迄 記載があり 貴重で有効な資料で重宝しています。

 不可解なのは、1918年調整「貞山公廟献灯配列之図」に記載ない灯籠が、涅槃門の北側に2基記載されて居ます。本配置図は1931年国宝指定前後に調整された図を基本にしていると聞いています。1918年以後に2基寄進されたのか。それは誰かです。壁に当たっています。お解りの方 教えて下さい。

 勉強会の参加者のレベルが高く勉強になります。



4 月 22 日 (日)  



 天気予報はまたはずれました。大雨です。でも、沢山の方々が参拝に見えました。「手八丁・口八丁」ならぬ「手不足・口不足」の状態。全ての方に十分とは言えないにしても、ガイド出来た方には、納得頂けるまでガイドしました。

 あかとんぼ と同年配のふたり。
 「ここはなにか?」
 「伊達政宗公の御霊屋です」聞き返しがありません。すんなりご理解頂けました。
 「ミイラか?」
 「イヤ お骨(こつ)です」
 「土葬か?」
 「イヤ 牡蠣灰を詰められた棺桶に入り、石室に納まって居ます。高松塚を想像してください」  
 「ウー 伊達様は丁寧ですね。穴を掘ってドボンの土葬ではないてすネ。大名のお墓は みな その様な仕様で埋葬するのかナ」
 「荼毘にふし、お骨を埋葬するのが通例と思います。お墓は暴かないのが基本です。特別な事情があって初めて改葬されるでしょう。江戸300家の大名のお墓の事情は種々あるでしょう。調査・統計は無いです。
 江戸・芝・増上寺の徳川将軍家の墓所は、改葬されています。その記録によれば、埋葬の仕方は伊達家三代と類似しています」

 「お客様はどちらから」
 「長州は山口です」
 「ウーン」
 「ハイ その節は大変 ご迷惑をおかけしました。昨年 会津に行って来ました」
 「会津の人々は、親切でしたでしょう。でも、公式には、握手は無かったでしょう」
 「会津の心ある人は、必ずお詣りする所があります」
 「それは?」
 「右手にあります鉄製の碑〔弔魂碑〕です。戊辰の役で、亡くなった伊達家の旧家臣1620人の方々の供養碑です」
 「 お詣りして行くよ。今日 ここにお詣りしてよかった。イヤー ありがとう」

 お嬢さん2人、フランクな服装であったのて、竜頭についてガイドが終り、「ここに立ち、向き合えば」と撮影ポイントを示しました。これまでは 「キャー」と喜ばれましたが、今日は違いました。「政宗公の廟所でそんな 竜頭とのキスシーンの様な不謹慎写真は撮れません」 ハイその通りです。見た目と異なる 内面しっかりしたお嬢さんでした。

 続いて「伊達家の家紋は1個でないのですか」
 資料を開いて、伊達八家紋を説明しました。納得頂けました。
 「ところで お嬢さんはどちらから おいでですか」
 「尾張・名古屋です。尾張・徳川家は葵の紋です」「ハー」

 テレビドラマの印籠 「葵の紋所 目にはいらぬかー」の結末になりました。

 「菊榮 葵枯」の言葉があります。徳川家は葵以外の家紋は無かったのか。松平を名乗っていた時代も葵紋であったのか。

 徳川将軍家の三つ葉葵も前期と後期では、変化しています。皇室も、皇室と皇族では異なります。当然、徳川将軍家と尾張家では 異なる筈です。宿題が出ました。調べます。

 美人の観光タクシーさん。いつもは胸をはってガイドしています。如何なる風の吹き回しか、「お客さん ボラガイドさん居ます。この方 勉強しています 聞いてください」と 突然振ってきました。おだてに弱い あかとんぼ ガイドしました。

 話終わったら、雨脚が強くなりました。なんか因果関係あるのでしょうか。帰宅して今日の運勢をみたら「美人のおだてに乗るな」とありました。


 姪と訪れた伯母さん。三段一段の石段を慎重に登りながら「ガイドさん 神様 佛様に祈願しながら登る様に 社寺仏閣の石段は、この様に急に作られているのですよネ。この子は、そんなこと無いよと言うのよ」と 話しかけてきました。

 「ハイ 若い人達は、情緒ではなく論理的に考えます。限られた土地、底辺×高さから 急勾配になりますと申します。でも、叔母様の仰有る様な気持ちで登って頂ければ 嬉しいです」


 本殿前で奥さんをモデルに記念撮影したご夫妻。うまく撮れたか確認した奥さん「へんなかお」途端 「これ お前の顔」
 此の後 紛争が勃発するかな 夫婦喧嘩の始まりかなと期待しましたが、ニコニコ降りて行きました。年の頃 幾つのご夫妻と思いますか。

 臥龍梅は実が一杯なりそうな感じ、櫻吹雪も終わりました。竹林に竹の子、沙羅の木にも 発芽。春から新緑に 移ろうとしています。
 
  



4 月 15 日 (日)  



 瑞鳳殿境内も、ご城下も、近郷近在も櫻花爛漫です。天気予報がはずれ、曇りから小雨です。満開の写真をトップに掲示したいと思いましたが、撮影は今一歩でした。おはなみツアーでしょうか。団体が何組か見えていました。

 「政宗公にお礼参りにまいりました。一昨日は大河原町の一目千本櫻を、昨日は平泉の咲始の櫻楽しみました。瑞鳳殿は綺麗なりましたネ」と。ハアーと聞いていましたら事情はこうでした。「瑞鳳殿が化粧直する以前に、夫を送って来て、無事を祈った。無事仕事を終え、白雪に輝く蔵王の山々と一目千本櫻の見える会場で、送別会をして頂いた。これもひとえに政宗公の加護のお陰です」と言うことでした。

 之まで話され、お礼詣りされるご夫妻の今後の人生は、蔵王の山々の白雪の如く輝くでしょう。

 ネームプレート着用の儘 参拝の方ママおります。驚いたのは、透かし模様に九曜紋があり、中心の土星に三引両が描かれているのです。伊達三家紋の二つの合成です。法的に問題は無いでしょうが、心情的に如何なものかと感じました。 

 大香炉には、日曜日は火種と線香がセットされます。真四角な火床の縁に、炭が併行に、角には炭の直角面、以外には直線面を配置し、内側は曲線の面を配置し、中央部に火種を置いています。何気ない火床ですが拘っています。

 火床担当のBさんから「線香 結構足りなくなるの。一人一本でなく、10本20本と束にして点火献香する人がいるんでね。先日 困ったの。500円硬貨入れたから返してくれと、鍵持っていないからと断ったが。イヤーまいった」

 無人販売方式ですから鍵は事務所でしょう。返してくれと申した方、その後 どうしたでしょう。お賽銭とか、お布施は、神様、仏様に渡ったら、お礼参りのご夫妻の様に、功徳として返されるもので、現金のバックは無いのが常識と思っていましたが、世の中です。

 欧米系の人々は、この点火献香の文化が初体験か、非常な興味を示し、喜喜として行っています。其の際、案内人に「red or white?」と聞いています。10円硬貨か100円硬貨いずれを投入すればよいかです。ご芳志ですから代金の表示が無い故です。さて何れを投ずるでしょうか。

 今朝、台湾の別の大学生から、先日の礼と共に「本当に立派なHPです 、いろんな情報があって、観光客には役に立てる HPだと思います。インテーネットはかなり新しいも のですが、私は多分こんなにいいHPが作れないで、若さもあかとんぼさんに負けますよね(笑)」 のメールを頂きました。

 恐縮と感激です。漢字の国の若い人が、話すだけでなく、之までの日本語の文章でメールくださるとは、外国語全く駄目の私には、驚嘆の一語です。



4 月 12 日 (木)  



 前途有望な若者から嬉しいメールが2本ありました。

 1本は、8日ガイドした台湾の大学生からです。
 私たちのような外国人だと、あかとんぼさんのような親切なガイドさんがいると本当に助かります。
 瑞鳳殿を見て、日本の文化財を大事にする気持ちに感服しました。
 また仙台に行く機会があったら、拝礼式も是非この目で拝見したい。
要旨は上記の通りで、外国の方に日本文化を理解して頂いたこと、又、本HPを隅々まで見てくれたこと、嬉しい限りです。

 2本目は、東北福祉大学院生を修了したA君の「高齢者の社会参加」をテーマに、観光ボラガイド ぐるーぷ・よっこよりの活動を分析した卒論の要旨です。
 地域にNPO活動が展開・定着を妨げている要件はなにか。なぜ本グループが10年と継続し活動しているか。
 1.主体的活動により自身で資金を生み出している。他の援助に頼らない。
 2.社会に喜ばれるを共通の目的として参加している。
 3.情報を共有し、共に学びあっている。
 4.得意な能力の発揮を認め、互いが平等な立場にある。
 5.活動拠点を確保している。
以上の様に 分析していました。その通りです。

 アンケート・面接調査の際の 「高齢者のあり方としての社会参加の選択肢として、ボラガイド活動をとおして自己実現による充実感は大きいよろこびであり、結果 社会にとって有益なものとなっている」旨のあかとんぼの発言が正確に集約されていました。満足です。



4 月 9 日 (月)  



 キーワード「瑞鳳殿」でブログを検索しましたら下記記事がありました。
4月1日の冒頭に紹介した小学生の様です。

日帰りで仙台にいってきました!!!
僕は伊達政宗がすきなので母にたのんで仙台へ行きました!!
まず伊達政宗の墓、瑞鳳殿へいきました!!
そこにすっごいやさしいおじいさんのガイドさんがいてその人に案内してもらいました!!
瑞鳳殿には伊達政宗が朝鮮へ行ったときにもちかえったという梅もありました!!
瑞鳳殿のつくりはほんっとに豪華で当時の技術の最先端をつかってる感じでした!!
(中略)

仙台駅にもどったんですけど・・・とにかく人がおおいです!!!
仙台はかなり都会です!!!
僕が田舎に住んでるからからかも??
とにかく念願の仙台にいけたことが何より嬉しいです!!!
もう一回行きたい!!ってか住みたい!!ってかんじですね!!

写真から推定して新幹線を利用され、来仙され政宗公関連を見学されています。政宗公・仙台の街のファンがいる うれしいことです。

本・全文をご覧なりたい方は、
http://blogs.yahoo.co.jp/kitarengou/2327745.html です。



4 月 8 日 (日)  



 天気予報は晴れなのに、瑞鳳殿に到着したら雨です。雷鳴が響きます。指示棒に落雷しないかヒヤヒヤでした。傘を持たないお客さんも居ます。困惑しました。

 「子供が進学先を仙台に選んだが、どんな町が心配で九州・福岡から来ました。仙台は日本海側に所在する草深い町と思っていました。子供は、なぜ、そんな田舎町の大学を選択したのか不安で、確かめに来ました。でも、太平洋側にあって、空港があり、新幹線が走っていて、綺麗な町なので安心しました。子供がお世話になります。守って貰わなくては」と、丁寧にお詣りしたご婦人がいました。

 むかし、関西のある酒造会社の社長が「東北はクマソの住む地」と失言した事件がありました。現在でも、其の感覚の人がいるとは、驚くと共に、ガイドする楽しみが倍増します。

 雨合羽を纏い、リックを背負った高齢の欧米系のご夫妻。旅慣れた様子です。あかとんぼの中学カタコト英語では無理です。音声ガイドに案内しました。「サンキュー」と。聞きながら、本殿を指差し二人で会話していました。ヨカッタ。

 日本語でない言葉での会話の亜細亜系の一団。臥龍梅で「country are you from?」一発で返って来ました「タイワン」。漢字の国の人です。案内板の漢字を拾い読みして 充分に意味が理解できます。理解して頂きました。

 日本語出来る人を介して「あかとんぼさん 親切」と言われました。うれしくなり、A3判の資料を広げ、本殿内の尊像を紹介したら、「オー」、中国古来の文化 皇帝廟との相違を感じたでしょうか。

 涅槃門、感仙殿、善應殿とゆっくりした口調の日本語でガイドしました。ご理解頂き、楽しんだ様です。

 感仙殿で、「善應殿の扉の家紋と異なるが、その理はなぜか」の質問がありました。瑞鳳殿の扉には「竹に雀・九曜」で、感仙殿も「竹に雀・九曜」です。しかし善應殿は「竹に雀・三引両」です。三廟とも同じでなく違えた理由は確かめていませんでした。「これ全て伊達家の家紋です。なぜ異なる貼付けたかはわかりません」と脱帽しました。

 之まで、気付いて質問された方居ませんでした。鋭い観察力に感心しました。家紋は伝来文化では無く、日本発祥文化と理解していますが、念の為「台湾にも家紋はありますか」と質問しましたら、家紋なる言葉を理解してくれたか、即、「ありません」と返ってきました。

 パンフは英文でなく日本語でした。「読めますか」と聞いたら「大丈夫」の返事。であれば「このHPをご覧ください。説明出来なかった見所が見つかります。感想を寄せてください」と自己宣伝をしました。

 最後に「これから博物館に参ります。本日はありがとうございました」と丁重に挨拶されました。驚き「良いご旅行を」と返礼しました。礼節を重んずる孔子の国の人々、台北市の大学生男女8人との交流の瞬時でした。

 感仙殿に至る自動扉の前で、開扉しないとヤキモキしている方が居りました。「一歩前進。ヒラケーゴマと大声で」と声かけしました。後続の方にも聞こえたのか、みなさま「ヒラケーゴマ」と。開いたアイタと喜んでいました。
 さて、これ、何という童話だったでしょう。皆さん 知っているよネ。

 整備担当のAさんから「確認しますけど、殿のご遺体・ご遺骨は、この霊屋の地下の墓室にありますよネ。実は、先日、あるオジイサンから 日光は拝殿の奥にあった。だから、此処も奥に遺骨の埋葬された所が無ければならない。これです の説明はなっていないとガンバラれました。どうでしょう」と言うことでした。

 「確かに、日光東照宮の家康公の奥宮には拝殿があって御寶塔があります。家光の廟 大猷院も御寶塔があります。久能山東照宮も日光と同様です。
 将軍家と同様な様式での廟があるとは聞いていません。被支配者である大名家は、支配者の将軍家と同様な様式では造れなかったが正解と思います」と返事しました。

 お仲間のYさんから「涅槃門に龍の彫り物があった。復元は100%でない。H代表の2日の講義ありましたが」と申され、二人で資料と対比・確認しました。焼失前の写真にある竜頭は、復元されていません。阿吽の唐獅子の下部、なんとなく寂しい部分です。有ったものが無い故に、寂しいのだと気がつきました。
 
 Yさんは、H代表配布の資料を、ファイルに見やすい様に編集し配置していました。流石です。

 財団法人・瑞鳳殿の新任常務理事が着任され、主任の案内で敬意を表しました。「ガイドをしていて、なにか提案したい事はないですか」とソフトムードで問われ、

1.高齢者の参拝が多い、難儀しています。石段の外を登る方が多くて植生が損なわれています。これらから 前任者も検討されたでしょうが、手すりの設置の推進を図って頂ければ。

2.バス停に民間経営で手荷持預かりのコインロッカーの設置を誘導して頂ければ。キャスーを引っ張って62段を登って来る方がママいます。事務所では心快く預かっていますが、これらの方々は感仙殿等に廻らないで半分の参拝で帰られます。気の毒と申すか、仙台市の提唱する「おもてなしの心」の面でもマズイと思います。

3.落ち葉を見て、「こんな獣がいるのネ」と申されるお客様が居ます。貴重な動植物の宝庫と財団法人発行の資料にも記載されています。之まで同様、貴重な動植物の保護にご配慮頂ければ。

4.政宗公についての資料が完備していると思われ、訪れる方がいます。伊達家関係資料は、市博物館が充実しています。機能分担・棲み分けを説明し納得頂いています。しかし 等身大の像の具足等 考慮の余地があると思います。

 参拝客からの反応・要望は、HP「あかとんぼガイド日誌」に記載しています。お読み頂ければ幸いです。
と申し上げました。

 「長くて、不規則な石段に苦情は無いか」のお尋ねがありました。「この石段は、伊達時代からのもので、且つ、昔は殿様や重臣でなければ登れなかったとも聞いています。皆様は、殿様や家老になったつもりで、その昔を足裏で楽しみ乍ら登って下さいとガイドしています。皆様納得され、楽しげに登っています。苦情はありません」と答えました。マイナスをプラス思考に誘導するガイドをご理解頂けたようです。



4 月 6 日 (金)  



 仙台市博物館20年「伊達な優品」なる企画展が本日から始まりました。伊達家を中心する調度品・絵画・武具等の諸々美術品が披露されています。

 政宗公の具足、3セットも展示されています。
 若年時に着用し1588(天正16)年の摺上原の戦いの際に褒賞とした具足は、黒漆鉄板ではなく紫色の厚い織物です。
 菅野家に伝わった政宗公着用の黒漆5枚胴具足。これは前後左右四方から、ジックリは実見できる様に展示されています。
 そして、稲葉仙姫の具足等歴代の殿の具足の中心に展示されている黒漆5枚胴具足。

 瑞鳳殿資料館に展示されている墓室から発掘された黒漆5枚胴具足を実見してから、博物館を訪れますと、政宗公の具足 4足を楽しめます。

 今回の展示には、10代斎宗(ナリムネ)公正室錯姫(カタヒメ)所用の竹菱梅葵蒔絵女乗物があります。江戸後期の作で、内部には源氏物語が、外部は華やかな蒔絵です。保存状況も良好です。圧巻です。

 大阪の陣に用いられた図旗、花押の変化を示している政宗公の書状等、終日楽しめる展示品が一杯です。5月13日までの短期間です。お早い観覧を勧めます。



4 月 2 日 (月)  



 今日も霞です。この春の珍客が訪れなくなるのは、あと何年、何万年後でしょうか。

 ガイド仲間の会「ぐるーぷ・よっこより」の総会が開かれました。ガイド実績 (除土・日曜日のフリーガイド)は39件898名。研修実績は11回開催295名参加と報告があり、19年度は研修等14回開催の計画が発表されました。

 研修計画の詳細は「ぐるーぷ・よっこより」の頁をご覧ください。

 勉強として、瑞鳳殿の焼失前・国宝時代の配置図・写真と現在の写真を対比・提示し、「現在は「ほぼ」、その昔のムードであって、完全な復元ではない。忠宗公は細部迄 贅を尽くした凝った建造物を作った」の内容が、H代表からありました。



4 月 1 日 (日)  



 黄砂。霞です。4000q彼方、東アジアの砂漠域(ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠など)からの招かざる来客です。 

 学校は春休みで、5年生は、歴史の時間に政宗公が教材になるらしく、今日も、「此の子が政宗公に夢中です」と、祖父と母に連れられて見えました。案内板からガイドしましたが、主要な家臣の氏名を諳んじていまして、涅槃門からの重臣の灯籠に、拝殿と本殿の間の「一門」の灯籠跡で、配置図を広げ、姓名を示しますと「ウーン」と肯いて居ました。

 発掘調査時を語っていたら「身長は164センチ、血液型B型}、1567年8月米沢で生まれました」とスラスラ。祖父がハマッテいますと語る通りです。若いだけに、亡くなった年月日(1636年5月14日卯刻〔午前6時頃)、年齢(行年70歳)、場所(江戸桜田屋敷〔現日比谷公園野外音楽堂付近〕)は記憶の外でした。

  臥龍梅が満開です。「アレー」と驚く方々。その内容は「満開の梅を見た」とハシャグは北海道・帯広の方。「今、梅が咲くのー」は静岡・島根の方々。

 若い男女、撮影していました。「政宗公が朝鮮から持ち帰った梅です」と語った途端、振り返り「no speeking japanese」 ガクン 気を取り直し「country are you from?」2回繰り返したら通じたらしい 「hong kong」 「オー ホンコン do you have a engish pamphlet」 ポケットから英文・日文のパンフを取り出しました。通じました。梅の花 サテー ナンテ言うのか? ママヨ「no cherry」 櫻ではないよ 理解した表情。次は「朝鮮」です。「korea」 2回繰り返しても 不審な顔をしています。韓国は正式には「大韓民国 republic of korea」ですが トッサには頭回転しません。また ママヨ「カンコク」に「おー 韓国」と応じてきました。通じました。でも、冒頭の言葉全部を伝えられませんでした。

 お役所は、観光客にオモテナシの心を 英語で伝えるようにと3月13日研修してくれました。その期待に応えようと努力した カタカナ英語の様子が上記の通りです。

 あかとんぼと同年輩の埼玉からのオネイサマ二人。ガイドを聞いている内に昔日が思い出された様子。「@父方の家紋が二引両です。A伊達家の時代は二十人町に居住していました。B重臣ではなかったが一応伊達家の家臣でした。C刀大小ありましたけどどうなったでしょう。D宮城女学校時代の同級生に家老の末裔の方がいました。E政宗公の御命日は青葉祭で、学校・市役所・銀行が休みでした。今は?」 

 涅槃門の透かし彫りの麒麟から「麒麟麦酒にお友達がいるから 商標の由来聞いてみるわ わかったらメールしますから」と申してくれました。

 「藩志会の人々の羽織袴姿で参拝される、御命日法要に私も参列したいわ。味ある瑞鳳殿参拝が出来てうれしいわ」
 拙いガイドを喜んで頂き 教えて頂けるとは 有り難い事です。感謝です。


1.二十人町は、1665年頃(4代綱村の代) 鉄砲町と前後して武功のあった二十衆という鉄砲組足軽を居住させたのが始まり。この者のみが仙臺城に向かって弓・鉄砲の打ち稽古が許された。
 「名数 みやぎ郷土小事典 菊地勝之助編 1973年5月1日発行」による。

2.宮城学院は、1886年創立、1911年高等女学校に準ずる学校になり、1965年学校法人宮城学院が設立認可になっています。
 学校法人宮城学院公式ホムページによる。





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