2007年5月の日誌
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5 月 30 日 (水)  



家紋 3

 従前、「伊達家では殿様が奥方の家紋を借用」なる記述をしました。「伊達家ともあろう家柄で借用は無いだろう。記述は正確しろ」なるご注意を頂きました。

 この家紋は 「牡丹」です。
 1760年2月 重村公(7代)は時の関白近衛基煕公養女年子(ノブコ)「廣幡大納言長忠の女惇姫」と婚姻しています。この縁で 伊達家では 藤原家宗家である近衛家に使用を申し出、許可されました。
 62万石の太守の伊達家が 藤原家宗家の近衛家の家紋を無断借用する筈がありません。短略な表現でした。ご注意に感謝します。

 なお、17世紀後半頃は特に重要視された家紋で、18世紀後半には、此の家紋を巡って宇和島伊達家との確執も見られたそうです。

 以上本稿は、2004年6月宮城県大和町で開催された「伊達家の家紋について」と題する仙台市博物館高橋あけみ学芸員の講演資料によりました。


 家紋2で 女紋は断絶の危機にある趣旨を記載した所、祖母・母と三家紋を娘に持たせたい、伝えたい の強い思いがある旨 頂いています。
 伝えられる方 日本の家紋文化伝承からも、是非 伝えて頂きたいです。



5 月 28 日 (月)  



27日続き

1.「故あって」とは。
 善應殿前で、団塊の世代の2夫婦。何だろうと討議していました。腕章を見て質問してきました。
 「スラスラ言えない事情です。伊達家としては名誉な事でないので、従前からこの様な表現になっています」と事情を解説しました。納得頂きました。
 此の言葉「故あって」は よい言葉 使い勝手のある言葉 活用しましょうと喜び申していました。
 「故あって」の解説を求められたのは、初めてです。

2.拝殿文山扁額
 拝殿の扁額を通常の通りでガイドしていたら、興味を示された方がいましたので、「1659年江戸・西久保 現在の港区虎ノ門6-10-14付近で産まれた書家で、全国で文山の扁額は22額残っています。宮城県では、七ヶ浜町にあります」と話したら、「七ヶ浜町のどこか」「湊浜の薬師堂にありました。しかし仙台港工事で 周囲のムラは解体移転し 薬師堂のみ残って、扁額は町の博物館で保管しています」「ソーカ。私はあそこのムラ人でした。今は、ムラがあった面影は全く無くなった。あそこに そんなに貴重な扁額であったとは知らなかった」正に「桑田変じて海になる」の言葉が相応しく産まれ育ったムラが無くなったのにと、感慨ふかげでした。

 なお、佐々木文山については、2006年11月01日の日誌に詳しく記載しております。

3.竜頭の数え方
 本殿四隅と創建当時の竜頭を説明していたら「それ おかしくない」と言われました。「一頭 二頭と数えているが 龍は動物だから 一匹 二匹でないか」と言う趣旨でした。
 竜頭なので 一頭 二頭と数えていましたが、お客さんの指摘もごもっともです。正解はどちらでしょうか。

4.涅槃門柱は青森檜葉
 バスガイド嬢 「ハイ登って」と客を放置することなく、丁寧に説明しています。感心なガイドさんと聞いていました。最後「この柱は現在 青森ヒノキです」ガックン。
 地理の学習していないのかな。日本三大美林「青森檜葉・秋田杉・木曽ヒノキ」木曽ヒノキは、ヒノキ科常緑高木。青森檜葉もヒノキ科常緑高木ですが、アスナロと言われる似て非なる木です。この樹齢400年とも言われる青森檜葉を、漸うの手段で求めた関係者と津軽の人々はガックリでしょう。



5 月 27 日 (日)  



 昨日の今日。時々小雨がパラパラ。昨日は、本当に晴天に恵まれた落慶式典でした。事務所の人々残務整理に追われていました。お疲れ様でした。

 昨日はバスが10台位、今日は乗用車が多い は駐車場担当の分析。タクシーは、「帰りはタクシーに乗ってと声をかけて」の低稼働率とボヤいていました。でも、参拝者は、休む暇なしに訪れました。

 あかとんぼ 「街道」の勉強の先生の仲間、62年前陸軍士官学校の生徒であった人々が見えました。1日10里(約40q)は伊達時代の旅人の1日の行程。それを訓練でしたとあって、八十路の現在も矍鑠とされて、62石段を軽々登られ、本殿前では一斉に脱帽・拝礼して政宗公に敬意を表していました。
 
 「韓国語のパンフあるかネー」の大声。「ありますよ 券売所に」 「アッタ あった」 「ガイドしましょうか」 「あなた韓国語出来ます」 「日本語専門です。案内している人出来ないのですか」 「あの人も日本語専門」 「ワシはな 伊達家の家臣で○○と申す」 ○○と申されても通訳できなければ ○立たずです。
 一行に、東○大の韓国語の先生がいまして通訳して頂きました。あかとんぼの日本語を瞬間に通訳していました。同時通訳ですね。

 本殿前で拝礼を御願いしましたら、素直に拝礼してくれました。政宗公は「文禄の役」で渡海しています。韓国では この歴史事実をどの様に教育しているかを心配しましたが、反応がありませんでホットしました。
 臥龍梅で、之は土産に持ち帰ったもので、この様に大切にされています。話は盛り上がり、「この梅の木の樹齢は。実はどんな形・大きさは。花の色は。・・・」となりました。韓国ソウル市の○○ロータリークラブの面々でした。やはり良識ある人々です。

 涅槃門前で、「ボラガイドさん」と声がかかりました。話は「或講座に参加して資料を貰ったが 「頭貫、冠木、台輪、外桁」と記載されているが 個別に読み方、実物を指示説明して欲しい。又 この門は薬師門で間違いないか」と云うことでした。「かしらぬき、かぶき、だいわ、そとけた と私は読んでいます。何れも建築用語です。この門は四脚門と理解しています。日曜日のガイドでは、貴方の様な質問は無く、資料の持ち合わせが無く、不確かな回答をしては、貴方と仲間に迷惑をかけますので、今日はこれで勘弁してください」とお引き取り願いました。

 冒頭の「頭貫、冠木・・・」の表現は「瑞鳳殿再建の経過」なる小冊子33頁の記載と類似しています。
 講座の先生に直接確かめないで、日曜日ワザワザ質問に来たのは、ボラガイド又あかとんぼ の知識の試験に来たのでしょうか。偶々 Yさんがいました。顔を見合わせました。

 24日政宗公372遠年法要の際、献花等された方々の流派等を教えての要望がありました。事務所に確認しました。次の方々でした。
献花 本原遠州流華道七世家元(ホンゲンエンシュウリュウシチセイイエモト)朴澤一草 様
献香 小笠原流礼法総師範(オガサワラリュウレイホウソウシハン)菅野菱公 様
献茶 石州流清水派宗家十世(セキシュウリュウシミズソウケジュツセイ)大泉道鑑 様
献笛 仙台藩虚空山尺八寺(センダイハンコクゾウザンシャクハチジ)布袋軒玉堂 様

 お坊さんが17・8人いました。今年も多いなと思っていましたら「湊の○巻市の○○寺の住職様にお会いしました。伊達領内の関係寺から来るものでしょうか」のお尋ねが読者の方からありました。確認しました。

 御願いしましたのは、瑞厳寺、瑞鳳寺、保春院、資福寺、覚範寺、東昌寺、満勝寺、光明寺、善應寺の九ケ寺だそうです。
 一寺から何人か、御寺様から臨済宗妙心寺派の各お寺さんにお誘いしたのかは、定かではありません。との事でした。

 某市民センターの企画担当の方が、「夏に伊達家と瑞鳳殿・大満寺を対象にした講座を検討している、その下見・予習です」と見えていました。
 市民センターの講座に瑞鳳殿が対象になるとは、仙台市民に理解して頂く、最高の機会です。嬉しい事です。講師依頼があれば喜んで引き受けます。

 仲間のYさん「昨日の落慶式典に参加したでしょう。白髪頭は あかとんぼ さんだよねと ○○さんから電話ありましたヨ。私は○○局で見ました」
 「ハー 我が家のテレビは映りませんでした」「アーラ嫌だ 見なかっただけでしょう」 さてさて 一緒したU先輩は見たのかナ。



5 月 26 日 (土)  



 夜来の雨は上がり快晴です。忠宗公も晴れ男の様です。

 感仙殿・善應殿 平成大改修落慶式典が両御霊屋前広場で厳かにおこなわれました。
 
 改修工事竣功祭は、仙臺東照宮神主のもとに行われました。玉串奉奠は、丸森伸吾 (財)瑞鳳殿副会長、伊達泰宗 十八当主、小西美奈 (株)小西美術工藝社長の三氏が、続いて工事概要報告等が行われました。

 続いて隣会場で、仙臺能楽協会から 「養老」「羽衣」の能2番、仙台すずめ踊り連盟八連の雀踊 がそれぞれ奉納されました。

 改修工事の概要

 1985年の再建から20年以上経過し、壁面・柱部分の塗装の退色・ひび割れ・剥落、彫刻やコンクリート製装飾部分の退色・剥落・劣化等がみられたことから全面改修工事に至ったものです。

  建物の構造に劣化などの問題は確認されず、表面の塗装・彩色の改修です。
ポイントは、
1.壁面及び柱の黒漆部分の全面塗り直し
2.装飾部の彩色の全面塗り直し
3.建物四隅の柱への獅子頭の設置
4.建物正面左右の華頭窓(格子枠)への金泥による小紋の散し描き
 この項、(財)瑞鳳殿発表資料によります。

 あかとんぼ 雑念
 竣功祭が、仙臺東照宮神主のもとに行われましたのは、忠宗公が1654年に全国の大名に魁て東照宮を造営した御縁によるものでしょうか。
 



5 月 25 日 (金)  



家紋 2

 5月16日・20日 家紋について記載しまたところ、一桁台ですが多数のメールを頂きました。勉強不足と表現不足を危惧したところを、予測したとおり、ご指摘頂きました。
順位不同で整理します。

1.伊達家の家紋は、8家紋です。
 1846年幕府に提出した書出した控「御家之御紋譜」に8図様が掲載されている。
 1705年の「御紋之事吟味仕候覚」は、伊達家家紋に関するまとまった覚書きとして注目される。筆者は、伊達治家記録の編纂にも関わった遊佐治郎左衛門好生(1658-1734)である。以来、伊達家では、この記述が基本となり伝承される。
家紋の順位、格付けが時代により変化している。特に「竹に雀」は変化が複雑である。
 この項は、2004年6月宮城県大和町で開催された「伊達家の家紋について」と題する仙台市博物館高橋あけみ学芸員の講演資料によりました。

 人によって10家紋は、菊地勝之助編「名数みやぎ郷土史小事典」110頁に記載されています。16家紋は、「見た・聞いた」の記憶がありますが、挙証資料を3日3晩探しましたが見当たりません。16家紋説は削除します。今後ガイドしません。

2.伊達家の第1世は、伊達朝宗です。
 「伊達氏は本姓藤原で、大職冠鎌足より出ている。鎌足の曾孫に河辺左大臣魚名があり、魚名の玄孫従三位中納言山陰が伊達の流祖である。山陰の子孫に従五位下従賢明院(鳥羽院中宮藤原璋子)非蔵人光隆と云う者があり、光隆は源為義の婿であった。この光隆の第2子朝宗(トモムネ)が伊達氏の第1世であった」「朝宗は鎌足17世の子孫」
 以上は、仙台藩史料大成 伊達治家記録1 解説2頁 第1編輝宗以前の伊達氏歴代の事跡 1、伊達氏歴代の事跡によりました。

 「藤原」姓は、藤原鎌足が、645年6月の大化の改新の功により、天智天皇から賜った姓で、藤原姓の始まりとされている。これが頭にあり、20日の参拝者との応答になりました。

 「伊達家は藤原魚名(藤原鎌足?)に始まるとも聴いています」と日誌に記載しました。
 「藤原魚名とは、何者ぞ」のご質問がありました、以上の通りです。なお、あかとんぼ が日頃常用している「日本系譜総覧 日置昌一編 1936年発行」では、伊達氏の系譜は魚名から始まっています故で、表現が不正確でありました。訂正しました。

3.家紋の伝承「これらから、嫁いだ娘・嫁ぐ娘に、家紋付を持たせるか、父親系か、母親系か 」について、生家の紋は娘には伝わらない。なぜなら 自分は配偶者の家紋入りを作った。自分の古着(生家紋)を持たせる気がない。又、娘は和服を着る気が無いから、わざわざ女紋付を新調し持たせるつもりが無い、がありました。娘が紋付きを所望した場合は別でしょうね と理解しました。

 家紋は、日頃使用しなくなったにせよ 関心が高いこと痛感しました。指摘等に感謝します。今後もよろしく メール等をお寄せください。



5 月 24 日 (木)  



 政宗公の372回忌法要が皐月晴れのもと行われました。

 寛永13年丙子5月24日(戊辰)は、太陽暦では1636年6月27日(金)になります。梅雨入りの季節ですが、伊達冶家記録等には雨の記述が見当たりませんことは、晴れであったのでしょう。 政宗公の愛称? 伊達男は 晴れ男であったのでしょう。

 法要は、羽織袴裃陣笠の正装での、伊達藩志会の人々が掲げる幟を先頭に、住職・御当主・後裔会員・藩志会員・その他 一行が粛々と62石段を登り、涅槃門を潜り、本殿で法要が行われました。

 始めに、献花・献香・献茶・献笛が行われました。
 続いて、瑞鳳殿住職を導師として伊達家関係寺院17和尚の読経。
 焼香は、御当主、財団理事、後裔会長、伊達藩志会代表、大年寺会代表、財団事務局長、一般の順で行われました。
 最後に、御当主からお礼のご挨拶がありました。 10時開始、11時過ぎ 滞りなく終わりました。

雑念を記します。
1.幟を先頭に石段を登ってくる行列は、繪になります。あかとんぼ は45分前から、地元テレビ数局は30分前からカメラをセットし待機していました。行列が始まった途端、坂の途中にセットし、行列の前になりながら登って来るカメラがあります。誠に 繪を壊す異物です。どうしたのか 地元テレビ局の面々は 諦め顔で静観しています。「どうして怒らないのか、ブーイングしないのか」と聞きましても、シーンとしています。 法要中も縦横に撮影していました。このカメラは中央のテレビ局でした。業界の掟でしょうか。中央に一目置くことが。

2.既に開扉された涅槃門、行列の直前に柵を取り除き行列を通しました。直ぐ閉鎖しました。法要終了し、羽織袴裃の正装が通過と同時に再度閉鎖しました。今日は、行列の人々のみ門を潜りました。
 之まで「此の門は、年賀拝礼式と命日法要の際、1回90分程 開門します。行列の邪魔にならなければ、潜れます」とガイドしていましたが、明日から変更です「此の門は、年賀拝礼式と命日法要と、仙台七夕の際、開門されます。でも、関係者以外 この正面からは潜れません」とします。

3.本殿前まで昇殿するのは、直接の関係者、後裔会・伊達藩志会・大年寺の人々までです。この集団に、場に正装で無い服装の人が何人か居て、読経中も脱帽せずキョロキョロしていました。観光客が紛れ込んだのでしょうか。
 N先輩は「あかとんぼ さん あれはなんだ 非常識だ・・・」と悲憤慷慨でした。

 藩志会の人々も、読経・焼香の際には、陣笠を取るべきではないでしょうか。羽織袴裃陣笠の服装は、登城の際の正装に倣ったものではありませんか。殿中は、刀と烏帽子以外のかぶり物は、外す習わしであったと記憶しています。博学のN先輩に、私見を確認しようと思いましたが、悲憤慷慨で出来る雰囲気ではありませんでした。

4.初体験しました。献香の香を聞かせて頂きました。伽羅だそうです。白桃の花の様な 淡い甘い香りを感じましたが、読者の小夜さんは、どの様に聞いたでしょうか。教わりました。香は「嗅ぐ」ではなく、「聞く」と云うそうです。

5.北海道は、釧路・室蘭・その他道内各地から修学旅行の中学生が、グループで三々五々とお詣りに見えました。伊達家の陣屋があった所からも来ていたのか。ガイドをしたかったが、法事が終わった時点で、次に移動したか皆無でした。
 「中学生と一緒に聴きたかった」と読者の小夜さんは洩らし、Uさんも 次あるからと去っていきました。

6.法要最中に声高らかに登ってきた方に「政宗公の祥月命日の法要をしています。ご静粛に」に、「年に何回あるの?」
 なにと誤解されたのでしょう。月命日なら年に12回、祥月命日は年に1回しかないでしょうに。

7.法要の末席を汚しましたと ある方に洩らしたら 「御香典幾ら包んだ」と問われました。なるほど 下々の法事では包みを持参します。でも、相手は62万石の大守であった伊達政宗公の法要。対するは、年金の貧しい生活者ですので お気持ちだけで参りました。恐縮なことに 財・瑞鳳殿から 銘菓一折を頂きました。

本日の模様は、ブログ「田毎の月」http://yukisayo62.exblog.jp/
5月25日「伊達政宗公372回忌法要in瑞鳳殿!@A」をご覧ください。
文章・写真とも イキイキしています。



5 月 20 日 (日)  



 緑が輝いています。

 昨・今日とあおばまつりです。9時、まつりに参加する五葉山鉄砲隊(伊達家の鉄砲火薬製造に由来すると称する)の出陣式が、伊達家御当主隣席のもとに涅槃門前で行われました。

 ビデオ撮影していた研究職風の方、観光の方々が見落としされる見どころを案内しました。本殿から綱宗公の棺甕の説明を終わったところで、お尋ねしたら、やはり先生との事でした。

 質問が2点ありました。
1.江戸から奥州仙臺まで、政宗公の御遺体を損傷することなく運ぶには、どの様な方策がとられたのか。
2.伊達家は藤原一門と聞いているが、家紋の説明に「藤」がなかったのは、なぜか。
之について、
1.棺箱でなく棺桶に入った政宗公の御遺体周囲に、主に牡蠣灰をぎっしり詰めました。7泊8日恙なく道中され、ここに埋葬されました。この牡蠣灰の効果で、大変良好な状態で保存され、発掘調査の際、完璧なご遺骨で対面出来たと聴いております。

2.確かに、伊達家は藤原鎌足に始まると聴いています。しかし 公式伊達8家紋に「藤」はありません。10家紋と云われるものにもありません。

 参考まで、伊達8家紋は、@三引両A竹に雀B菊C桐D九曜E雪薄F牡丹G蟹牡丹です。10家紋は、H鴛鴦(おしどり)丸I薺(なずな)を付け加えています。

 新潟からの、70歳前後男性を頭に、姉妹の一行10人。「10分間で見どころを完全にガイドしてくれ」 「はい ここ涅槃門から本殿の極楽まで、引き受けました」登段も迅速でした。 あかとんぼ は約束を守りました 「仙台は ヨロシイところ まんぞく まんぞく」と申して去っていきました。

 埼玉からの伯・叔母に母の一行の幹事役の青年女史。「なぜ 伊達家はそんなに家紋があるのか。勝手に使えるのか」の質問。「お宅には 何個ありますか。家紋をどの様にお使いですか」 シーンとしました。 一行の最長老のご婦人が、解説していました。16日の日誌と基本的内容は同じでした。

 竹に雀の家紋を見て、「すずめおどり とは 之に由来するのか」の質問がありました。

之について、
 家紋は、1542年伊達家14世稙宗(政宗公曾祖父)の三男が上杉定実と養子を約した時に、上杉家から贈られたものです。 すずめおどりは、1600年仙台城を築城の際、泉州から石垣工事に石匠が招きました。彼等の厳しい作業の際 疲労・機能の回復に踊ったのがもとになっています。今は色々振り付けられています。と答えました。

 之まで、ガイドの際、飲み食い吸い無しです。私は当然として、お客様も同じです。今日は違いました。羊羹それも 当仙台銘菓ではないものをを囓りながら ガイドを聴いている若年寄風のご婦人がいました。程なく、手洗場に駆け戻り 水を飲んでいました。
 行儀が悪い、孫の躾に悪いと申しません。食事やお茶の時間を割いて、お詣りに見え、拙いガイドを聴いて頂いたのです。何か感謝の印をあげなければいけないと思いました。

 ○交定期観光のガイド嬢 「あら あかとんぼ さん お元気。今年もよろしく」と元気なかけ声。一昨年は新人で、「私なら この様にお話します」と語り合った彼女でした。今日は二桁のお客さんと張り切っていました。頑張って。



5 月 18 日 (金)  



 皐月晴です。

 北山市民センター(政宗公灰塚ある大願寺の隣)シルバースクールの野外教室で、瑞鳳殿をお詣りしました。
 仙台市は、高齢者の長命長壽を目指す政策を放棄したと誤解させるが如く、生涯学習予算を削減続けています。高齢者生涯学習教室では、講師謝金が乏しく成り、受講生が交互で講師を務める事になり、そのトップとして本日、瑞鳳殿での講師を務めました。

 参加者は、あかとんぼ が最年少者です。御城下の屋敷町に産まれ育った方々です。地区内の遺跡等に詳しく、伊達家に何らかの縁の方々です。例えば、忠宗公の灰塚が現三条中学校校庭にあった。弔魂碑1620人の一人に曾祖父がいます等です。

 又、現在の再建の経緯(寄付)、発掘調査の内容も十分了知されている方々です。口頭試問を受ける気持ちで臨みました。

 資料として、「瑞鳳殿とは、御霊屋とは、最後の様子、病名、葬儀は」等とまとめ、これは帰宅後読んで頂くことにして、一般観光客が素通り、見落としている個所を見ましょうと、瑞鳳寺にある丸森・佐々家の墓所に始まり、瑞鳳殿、弔魂碑まで90分。続いて、気力体力に余力ある希望の方々を感仙殿から御子様御廟まで60分、一緒に楽しみました。

 感想として、「ウーなるほど 云われなければ見ない 気づかない よいもの 沢山あるのに驚いた」でした。
 今ひとつ「石段が厳しい 手すりを設置して欲しい」でした。そうです。誠に厳しいです。26日感仙殿落慶披露に出席する 財団会長である知事に直訴しないと善処されないのかな。



5 月 16 日 (水)  



家紋

 伊達家の家紋は公式には、8家紋と言われています。人によっては10家紋と言われています。参拝者向けパンフレットには4家紋が掲載されています。私は、涅槃門の菊の紋章に始まり、本殿で、三ッ引両、竹に雀、九曜の紋と4家紋を説明しています。家紋に反応を示すのは、高齢者の方々で、若年者の方々は聞いていますが、「そうか」と言った軽い反応です。これが世の習い、当然の事でしょう。

 日常生活で、家紋を用いる機会 目にする機会は多くありません。あるのは、結婚式・葬式の際に女性の紋付衣装。それにお墓でしょうか。

 反応の一つに、「なぜ 伊達家の家紋は、そんなに数あるのか」です。私の答えは「伊達家は古い家柄です。よんどころない所から頂いたものばかりで、捨てられないのです。整理整頓デターの整理が出来ているからです。例えば、三ツ引両は、伊達家の始祖朝宗が1189年源頼朝から贈られたものです。お宅もデターの整理が出来ていれば数あるのでは」と答えます。大抵 苦笑されてお終いです。

 そもそも、家紋の歴史は、1000年以上の昔、貴族の牛車に始まったと聞いています。以来、貴族、権力者。富裕層を中心に用いられていました。1868年の革命(明治維新)で1871年戸籍法(壬申戸籍)が施行され、国民皆姓となり、夫婦同姓となり、「家」制度が確立した以降、生活環境の向上に伴い、国民に普及したと理解しています。更に、1945年の革命(敗戦・被占領)によって、民法改正、「家」制度の廃止、生活様式の変化で、家紋は現在の様に、日々の生活から遠くなったと理解しています。


 先般、本頁の愛読者の盛年女性が自己のブログで、「式典や葬祭に紋付で礼を尽したいという考え、古臭いものなのかも。お葬式に和装も少なくなって、喪服を仕立てるまでも無いのかもしれません。女性は結婚すると紋も変わってしまうのがちょっと不満でもあります。生まれながらに与えられた紋をずっと使っていたい気持ちもあり・・・。そのためには嫁入り前に紋付を全部作ってもらうでしょうけど。関西の方では女紋が一般的だそうですが、それもたぶん、そういう事情からなのかも。
 たとえば「おたくの紋は?」と尋ねられた場合には、やはり「婚家の紋」を答えるでしょう。家紋に興味のある人同士の会話とか、よくよくの事情が無いと実家の紋まで付け加えて答えることは無いと思います。
 それと、嫁入り時に実家から持ってきた物は当然実家の紋のまま使いますが、嫁いだ後に作るものは嫁ぎ先の紋をつけるものだ、と私は母に教えられました。家の看板としては婚家の紋でしょう。つまり、「家紋」と言う名の示す通り、紋はパーソナルなものではなくて、家に伝わるものなので、嫁ぐものとしては淋しさを感じる、ということです。
 
 このブロクに「あかとんぼ」は、次のような書き込みをしました。
「結婚しても 生家の紋を使用するのが普通と認識していました。
 明治以前は、誰それの娘と名乗り 血統を明らかにし 其の証明として生家の家紋を使用していました。伊達家の奥方の武具・調度品全て生家の家紋です。なお、子供は父親の家紋です。ここで母親の紋は絶えます。伊達家では殿様が奥方の家紋を借用している事例があります。」

 私は、「子供は父親の家紋です。ここで母親の紋は絶えます」と言い切りました。これは間違いでした。先輩諸氏に教示を御願いし、親戚を確認した結果、大方は「生家の家紋として父親系の家紋」を使用しています。しかし「母親系」を使用している方もおりました。そして、銀婚式を終えた年齢になり、新たに紋付きを作る時は「配偶者と同一紋」と答えていました。之は、上記「嫁いだ後に作るものは嫁ぎ先の紋をつけるもの」 その通りでした。

  家紋を使用する機会は、喪服のみの感覚が大きく、男性の羽織袴は皆無に等しく、女性も高齢者が結婚式・葬式に参列する時の和装に限られる様になりました。寂しいことです。これらから、嫁いだ娘・嫁ぐ娘に、家紋付を持たせるか、父親系か、母親系か については聞ませんでした。

 男性の羽織袴紋付き姿を間近に見られるのは、瑞鳳殿で行われる、正月2日の年賀拝礼式と5月24日の政宗公の命日法要の際の、藩志会の面々です。
 ぜひお出でください。

 私 あかとんぼ は、家制度が無くなった現在、家紋と拘らなく、自己紋として もっと 他人との差別化、個性の強調の面から 活用してよろしい と思っています。
 故に、瑞鳳殿でボラガイドの際の帽子には 家紋(あかとんぼ ではありません)を表示しています。紋付き帽子です。でも、誰も気付かず 質問もありません。自己満足しています。



5 月 13 日 (日)  



 瑞鳳殿。濃緑です。

 朝一番、10人の団体。「どちらから」 「ウー 新潟」 「はー お殿様は」 「上杉景勝(カゲカツ)」 「ハハー」となりました。
 徳川家が幕府を開いた以降を中心に考えていましたので、それ以前を言われるとドギマギします。上杉景勝は名将の誉れ高い人で、越後から1598年3月会津120万石に、更に、1601年米沢30万石に転封なった方です。

 本殿で、「竹に雀の家紋、1542年政宗公の曾祖父稙宗の三男実元が上杉定実と養子を約した時、贈られたものに図案を加え家紋としたものです」と説明しましたが上の空で聞いていました。

 「どちらから」と聞きますのは、お客さんと政宗公・伊達家の関連 エニシが無いか を求め ガイドするためで、別に個人情報を収集しているのではありません。今回 意図するところかみ合いませんでした。
 たまに、「○○ホテルから徒歩で」と答える方がいます。これまたドギマギします。で、最近は「何県からでか、東京ですか」と聞くことにあらためました。昼間都民は、東京と答える様です。


 手洗鉢の龍の前で、盛年三夫人に三女子が、ピーチクパーチクしています。日本語ではありません。「country are you from?」「korea?」 ワンテンポ置いて「thailald}と「no speeking japanese」が返って来ました。日語パンフを持っていたので券売所から英語パンフ貰い届けました。「ありがとう」と返ってきました。ホッ

 岡倉天心(1904年頃 ボストン美術館東洋部長)の言葉に「東洋はひとつ」があると記憶しています。顔だけでは、日本人・東洋人の区別はつきません。正に「東洋はひとつ」と感じます。
 Eさん 「俺 或国に行った時 korea?と言われた。そうだよなー」。


 市内でハーフマラソンの開催で、大幅な交通規制が実施された、ループル定期観光バスがその影響で、運行停止の状態らしく 参拝者はサッパリです。路線バスを利用出来る人のみ登って来ます。
 仙台市内観光に訪れた人々に多大のご迷惑をかけたと思います。交通規制のあり方 一考頂きたいものです。 

 西参道で、東一番丁を散歩する服装のご夫妻から「このまま登れば青葉城に大丈夫 着きますか」と訊ねられました。「嫌 此の坂を下り、バス道路に出て、広瀬川を二回渡らなければなりません。歩けば30分余かかりますよ。どなたが この道が青葉城に至ると教えたのですか」「あのタクシーです」

 困りますネ。乗車を勧誘すればよいのに。
 現在 瑞鳳殿から仙台城に抜ける道はありません。帰巣し、城下絵図から地図まで調べました。1952年発行「大仙台市地図」には抜ける道の表示があります。果たして 獣道でない道があったものか、古老に聞かないと真偽のほどは わかりません。
 なお、直線の交通手段として1984年6月頃、仙台商工会議所を中心にロープウェー架設の計画がありましたが、文化財保護の観点から白紙になっています。


 資料館の竹林。先週50センチ位でした。今日3メートルに伸びています。今年は4本が伸びているそうです。七夕の竹は ここ自家生を使うそうです。
 竹の子の時、開放していない竹林に入って物色している人がいました。裏の竹林は盗られたそうです。キット政宗公の佛罰が下るでしょう。



5 月 10 日 (木)  



 昔、黄金週間はセッセと物見遊山に出掛け、観光サービス業の人々の世話になっていました。今は、隠居の身ですから、観光サービス業の人々の手伝いなる様に務めています。長い黄金週間の疲れも ヤット抜けました。

 黄金週間始まる前に、親トンボの墓参りをしてきました。その途中、よっこよりして、鶴岡・酒井家と新庄・戸澤家の墓所をお詣りしてきました。

 従前、米沢・上杉家、会津・松平家、久保田・佐竹家、弘前・津軽家の墓所をお詣りしています。廟所には、廟所としての一定の形はありますが、各家の特色もあります。今回の2家を含めた6家と比較するに、伊達家3代の御霊屋は「伊達もの」に尽きると感じました。

 今回の2家の様子は次のとおりです。

鶴岡・酒井家
 鶴岡・酒井家(138,000石)は、老中を務めた譜代です。故に豪壮な廟所であろう。又、末裔は、当鶴岡に居住し、県の要職等を務めていると聞いていましたから、整備され 公開されていると予測していました。予測は全てはずれました。

 墓所は、鶴岡城址に極めて近い、菩提寺 大督寺(鶴岡市本町) に隣接して所在しています。「大督寺に隣接して所在」と表現したのは、通常 寺の境内に所在していますが、此処は2メートル高の板塀で完全隔離されています。そして、同一道路面に数十メートルの間隔で、寺の山門と墓所の向唐門が並んでいます。

 非公開なので、閉じられた門扉の隙間から覗くと、数々の大木の切り株、伸びた草と、2メートル高の石造り鳥居が見えました。数々の大木の切り株は、この広大な敷地は鬱蒼たる森であったことを示しています。又、伸びた草との関連から、酒井家の家計・考えが偲ばれます。
 ここが、伊達家三代の御霊屋と大きく異なる所でした。

 2メートル高の石造り鳥居は、伊達家同様 戊辰の役の後遺症でしょうか。

 なお、藤沢修平の作品に、殿様の遺体を寺に葬った経緯が、文学的に記載されているそうです。原文未確認

新庄・戸澤家
 新庄・戸澤家(60,000石)は、平家の流れで、南部・雫石から出羽・角館、常州・松岡を経て譜代格式で新庄に転封されています。
 小大名であり、新庄市の郊外、国道13号バイパス寄りに所在しています故に、貧弱・粗末と予測していました。予測は全てはずれました。

 御霊屋(オタマヤ)と呼ばれ、瑞雲院(新庄市大田)の境内に6棟ありました。総欅の単層寶造り、茅葺きで、欅の素地のまま。廟内には、殿と正室、子供、側室が一緒に、石墓が並び祀られていました。国指定史跡でした。
 ここが、伊達家三代の御霊屋と大きく異なる所でした。

 全7棟(今1棟は桂嶽寺・新庄市上西山に所在)で、歴代の殿の廟が全て現存し、約100年間の廟建築の変化が歴然と残っていて、又、殉死者の墓も並んであり、興味深かった。

 おまけ
 東北の大名諸家の墓所を訪ねるのであれば「とうほく藩主の墓標 加藤貞仁著 無明舎発行」が、手軽に参考になります。お勧めします。
 なお、本題名の決定には あかとんぼ が些か関与しています。




5 月 8 日 (火)  



 観光ボラガイド一覧を拝見しての依頼で、瑞鳳殿・仙台城址・定禅寺通・牛タン定食・海鞘刺身をガイドしました。

 群馬県内からバス2台を仕立て、猪苗代湖・会津若松・裏磐梯・米沢・赤湯・蔵王温泉宿泊。山寺・仙台・松島のコースです。松島をカットして仙台市内を楽しみたい。
 条件は、3時間半内で、牛タン定食を必食、仙台城を必見学。これに、仙台を代表する観光地を加えて案内し、バス乗車前に、海鞘刺身と仙台土産の購入のアドバイスをして欲しい。当方70歳前後の男女5人 健脚です。
 
 始め社寺仏閣は嫌だと洩らしていましたが、「瑞鳳殿は仙台を代表する観光地です。〔日光見ずに結構というなかれ〕と言葉の通り、仙台で瑞鳳殿を参拝しないでは、土産話できませんよ」と説得。短時間参拝ながら濃いガイドの結果満足を頂きました。

 仙台城址・定禅寺通も満足頂き、海鞘刺身も鮮魚店で直ぐ食べる条件で天然海鞘を調理して貰い、笹かま、ズンダ餅を土産に買われました。牛タンは美味しいとは申しましたが、お土産に買い上げにはなりませんでした。

 仙台観光を満喫・満足して頂きました。

 



5 月 6 日 (日)  



 早朝 先輩から 「互いに足軽で頑張ろうー」と激励のメールがありました。感謝。昨日の日誌を読んでですが、先輩は太陽と同時進行の生活をしているのでしょうか。

 気力・体力・金力を使い果たしたか、明日からの生産活動の準備に入ったか、通常日曜日より参拝者は少ないです。瑞鳳寺山門前で、タクシーずらり待機しています。「今朝から全く動かないの ガイドは?」「ここに関所出来て全部ストップしているのでは?と見に来たの」アハァハァー

 「左に曲がって石段を登って下さい。上にはボラガイドさんがいます。お帰りにはよろしーく どうーぞー」と 一運転手さん 時たま登ってくる方々に、営業していました。

 ではと、62段登り口からガイドしました。団塊世代の夫妻。夫は階段駆け足で登りました。「小学生は早いですよ。高校生はダメ。ご主人は小学生、奥さんは中学生並みのスピード 元気ですね」結果的に本殿迄ガイドしました。

 大阪の方で、「沙羅は仙台が北限と聞いています。お宅の方では珍しくないでしょう」に 「いえ 有馬温泉に行かないとないですよ 白い綺麗な花が咲きます」と。

 本殿降りてきたら、ベンチに○交のテイカンガイドさん。「今日のテイカン1桁の○人なの、瑞鳳殿をジックリ拝見して頂いたいます」 定期観光を定観(テイカン) 業界用語。

 「先日 メモを読んでいたガイドさんいましたが、今年の新人は何人ですか。05年には今頃から新人が登場し、お友達になのましたが 見えませんがどうしたでしょう」

 「今年は採用ありませんでした。05年の人達は退職しました。時間と経費をして養成したのに勿体ないです。此の階段を何回 上り下りするのです。お丈夫ですネ」「ありがとう ○○さんもお元気で またのお会いを楽しみにしています」

 なんか 今日は観光交通業界の人々とエール交換日でした。

 大正生れを頭にする一族郎党四世代15人をガイドしました。丁々発止楽しかった。久々に拍手を頂いた。
大正生れの八十翁は「伊達屋敷は、品川ほか東京に2ケ所、大磯に別荘があった。宇和島の民謡は仙台と同じ」等を語って行きました。お元気で。 

 気力・体力は未だ余力があるが、金力を使い果たした一団がありました。南参道から感仙殿地区に、東参道を登って、涅槃門前連絡路を通過、生け垣の低い所で「ハイ 皆さん ここが瑞鳳殿です 感仙殿と同じです 入場料払って参拝は?ハイ行きましょう」  「空気の良いところにお住いになって お利口になったのね あの方」

 垣根越えて聞こえたこの一行は、この経ケ峯の里に住む住人とその友人 青年男女と子供集団のようでした。

 12時40分 雨が降ってきました。終わりにしました。28日からのGW 9連休中 7日(昨年は6日)ガイド出来ました。共にガイドした仲間と読者の皆様のご支援の結果です。ありがとうございます。

 拙いガイドを聞いてくれた方にも感謝します。こんな方もおりました。待機しているのを見たら気の毒に思ったか「ガイド 頼む」涅槃門の透かし彫りを始めたら「アツ時間が無い ゴメン」と本殿に駈けのぼり 降り去っていきました。

 「それは 犬のショベンというだよん」とどなたか教えてくれました。犬のショベンでも、拙いガイドえの気遣いに感謝します。今度 時間に余裕を持っての来訪をお待ちしています。



5 月 5 日 (土)  



 子供の日、動物園にキリンを見に行ったのか、麒麟を見るに来る人は、心持ち昨日より少ないと感じました。

 富山・福井・金沢(なぜか石川県とは言わない)からの参拝者が多い。昨日も今日も。何でだろう。

 小学校高学年の3男児連れの欧米系夫妻一家が見えました。在日外国学校も子供の日で休校なのでしょうか。

 「此処は、政宗公等の墓所ですよね。なぜ神式同様の手洗いがあるのですか」のご質問がありました。「わかりません」と回答したものの、偉大な先人に敬意を表する為に、身を清めると意味でしょうかと思案しています。
 此処で、清めて登壇した人々、必ずしも、本殿前で手を合わせ敬意を表するとは限りません。キレイダーと眺め そまもも降りていく人 それなりに居ます。
 本来なら、清めた人が敬意を表するの一連に繋がると思いますが。

 疲れたので、お昼で帰巣しました。「ツカレター カロウだー」と叫んだら「あんたは、家老ではなく足軽でしょう」ほんとにそうです。
 濃いお茶と虎屋の羊羹を用意してくれました。「トノサマダー・ゴクラク」とつぶやきました。


 26日の感仙殿・善應殿の落慶式臨席のご案内を、財団法人瑞鳳殿会長村井嘉浩(宮城県知事)から頂きました。
 伊達領内の政財界のトップ・藩志会・後裔会等の末尾でも、ボラガイド仲間を招いて頂いた光栄を感謝し、参列致しましたと回答してきました。

 この日、雀踊り(5羽)・青葉能(詳細不詳)の奉納もあるそうです。

 24日の政宗公の命日法要は、10時からで、献茶・献香・献笛もあるそうです。
藩志会の皆様の羽織袴姿の昇段開始は9時45分頃との事です。

 9時30分頃までお出でになれば、昇段の写真、涅槃門が開門し本殿まで一望の写真 これら撮影のチャンスがあります。



5 月 4 日 (金)  



 新緑が眩しく萌えています。5月4日はいつの間にか正式な祝日になっていました。「みどりの日」だそうです。ピタリですね。

 北海道から何組か見えました。櫻咲きました、未だです、と櫻たより。先祖は、亘理等から約140年前移住した人々で、毎年、此の季節に親戚まいりに「内地」を訪れる様にしていると洩らした方もいました。

 午前中は大河の如く、午後は普通河川の如くの参拝者です。

 職員駐車場で昼食を摂っていたら、車が入ってきます。「此処は職員駐車場で、参拝の方用の立派な駐車場が反対側にありますが」「はい 車椅子で、こちらに廻る用にアドバスありきました」 車椅子です。幅があります。段差は登れません。涅槃門までの2ゲートを開放誘導しました。

  一組は涅槃門前で断念して待っていました。今一組は、感仙殿地区まで回遊しました。車椅子には、不規則な石畳と石段は天敵です。
 今回の行動は、差別なく気持ちよく参拝して頂きたい気持ちからです。

 落とし物有ります。入場券を10枚近く拾いました。落としても不自由は有りません。ループルバスの一日乗車券を今日も昨日も拾いました。次の下車場所で慌ててるのでは。ハンカチも拾いました。汗が出る暑さです。お困りでしょう。
 何れの拾得物は、即、券売所に届けております。取りに来ているかどうか。


 欧米系の高齢ご夫妻。夫がリックを夫人に預け、涅槃門前を右往左往しています。てっきりトイレを探しているなと思い「トイレ」と声かけしましたが、理解した様子有りません。瑞鳳殿本殿は何処か。目的地はどこか探していたのです。
 
 thank youのひと言残し 登っていきました。
 これを見ていたEさん、「あかとんぼさん 、W Cというから トイレは日本製英語でない?」と言われました。ウーン

 正解は、a public lavatory。米語で a comfort stationでした。


 本殿を背景に記念写真のオス係をしていたら「ハ○マさんをご存じですか」「ハー」「発掘調査に携わって、現在京都に住まいしています。仙台旅行すると話したら、瑞鳳殿を是非お詣りしてきて。ハ○マと言えば・・・・・」とのお話。

 1974年の発掘調査の時の話です。33年前の出来事です。事務所備え付けの「瑞鳳殿伊達政宗の墓とその遺品」をご一緒に開き確認しました。ハ○マ氏の氏名がありました。東北大○学部助教授でした。続いて資料館で発掘された遺品の数々を確認して頂きました。「ハ○マさんはお元気で ○○大学で教えています。良い土産になった」と喜ばれました。

 このハ○マさんは「政宗公は蝋ですっかり固められた状態で発見された」と話しているとの事。初めて聞く話です。
 牡蠣灰の中から、非常によい保存状態で、ご遺骨が発見されたと聞いていましたが、ご遺骨の周囲に死蝋が被っていたのでしょうか。勉強の種 又頂きました。



5 月 3 日 (木)  



 快晴 五月晴れ。

 9時到着したら(もう少し早く着く筈が、鹿落坂の途中で救急車が救護活動中で進めなかった)、既に開門していて、本日8時開門、相当数の方が入っていますとの事。

 なるほど、10時には 口がカワカワになりました。H代表が涅槃門と本殿と感仙殿とそれぞれでガイドしましょう。アップダウン方式は本日休みとのご指示。
 本殿を担当しました。涅槃門担当のH代表のガイドを聞いた人々は、熱心に聴いてくれます。A3判資料を開示サービスに努めました。

 拝殿で休息している方に、「ガイドしましょうか」と声かけしたら「下で聞いて来たからあとは いらない」と言われました。涅槃門では本殿のガイドをしていません。なんと理解して良いやら悩みます。

 「伊達家家臣の羽織袴姿、参勤交代での旅装の色を見たい。いずこで見られるか」のご質問がご婦人からありました。
 連れの方から、「伊達家の武具を見たい」

 仙台市の博物館に、巻物で参勤交代の行列が見られます。着色しています。現在、歴代の殿、奥方の武具が展示されています」と答え、「参勤交代の行列の色に拘るのはなにか」に「名古屋から来ました。徳川博物館で、尾張徳川家の行列関係の展示の準備をしています。伊達家を勉強したかったのです」

 このご夫妻、同時に別々の質問を、こちらが答える前に連射して参ります。有名な尾張万歳とはこんなものでしょうか。
 「今日は時間が無いから博物館にはよりません」マイッタ。

 4月23日勉強会の質問に
1.佐々木文山の扁額に関連して、資料館に展示している焼失前のこの扁額の色は、青緑になっている。この扁額は、赤珊瑚と真珠の各粉末で着色したの説明はわかった。でも、焼失前の絵の具はなにか。緑珊瑚はあるのか。なぜ異なる色材料を使用したのか の質問がありました。

 白黒の写真に着色したもので、着色した当時、技術的に赤珊瑚と真珠の色で着色出来なかった為。

2.62石段は不規則な石の配列である。理由はなにか の質問がありました。

 城の入り口が急傾斜になっています。これは防備上の理由です。此処は、伊達家として重要建造物でした。不届き者の侵入を牽制する意味合いで不規則な石段になっています。伊達家重臣の墓所でも同様なものが見られます。同様の考え方と思われます。

 以上のような教示がH代表から頂きました。疑問が解決しました。

 あと1問「1918年調整〔貞山公廟献灯配列之図〕に記載ない灯籠が、涅槃門の北側に2基記載されて居ます。本配置図は1931年国宝指定前後に調整された図を基本にしていると聞いています。1918年以後に2基寄進されたのか。それは誰かです」だけ未解決です。




5 月 2 日 (水)  



 仙台城下は霧の中。

 仙台○高等学校1学年生280人を6人で、2回に分けガイドしました。全体の所要時間60分で6ポイントを順次ガイドをする訳です。高校生ですから、高齢者と異なり移動は迅速と予測していましたが、天気予報同様はずれました。天気予報も降らない予報なのに、挨拶始めた途端 大雨です。

 瑞鳳殿を、初めて訪れたがほぼ全員、両親が仙台生まれは極めて少数。雨の中と、2回目の学生は、雨の中を愛宕神社から数キロの移動しており疲れていました。この彼等は、仙台の歴史、桃山文化等 どの程度理解してくれたか 些か心配です。

 4人で総括した際、一致した見解は「高等学校の先生は偉いものだ。我々高齢者が高校の先生になることはないが、3日も勤まらないだろう」でした。

 通常 依頼ガイドの場合、事務費と交通費の実費を負担して頂いています。今回予算が無いとのことで、明日の日本・宮城・仙台を背負ってくれる若者の為ならと、ガイド自身の自己負担で実施しましょうと引き受けました。現在の高校生に接し、それだけの価値あるガイドでした。


 相前後して、泉区○○小学校6年生の自由研究の集団が入れ替わり 何組も来ました。何人かでグループを作り、規定ポイントを訪れる順位、又 利用交通機関の選択も自由です。懸命にメモしていました。真面目です。

 先生は、分厚い資料を手にし、事故無いか、絶えず注意していました。資料の厚みからして、この先生達自身も 相当勉強している様子です。

 仲間からも小学生には、是非ガイドしたいの声があり、「私らボランティアでガイドしています。孫と同年齢です。今日は残念でしたが 機会ありましたらガイドさせてください」と担当の先生にご挨拶しました。


 政宗公の側室に白人(イタリア婦人)が存在したかについて、仲間に尋ねました。「何年か前に、伊達家18代ご当主が企画・演出したオペラに白人側室がいた。根拠有ってであろう。確かめたら」の発言がありました。



5 月 1 日 (火)  



 昨日の続きです。

 政宗公側室にイタリア婦人が居た説の確証は得られませんでした。

 政宗公の子を出産した側室は記録にあります。7人です。秀吉から賭け将棋の結果、政宗に寵愛されたとされる「香の前」も、政宗公の子を正式に出産しておらず記録にありません。

 8人目と目される女性が、遣欧使節派遣のきっかけを作った女性で、氏・名とも不詳で、白人女性説があります。

 この説は、作家山岡荘八氏の創作であるとする説もあります。

 あかとんぼ としても 白人説は疑問です。
 1610年当時 宣教師が数多く来日しています。これらは男性です。若い女性が艱難辛苦の航海をして、異教徒の爺のもとに来るものでしょうか。
 支倉常長が、月の浦を出航しローマに到着するまで25ケ月を要しています。
 現在は交通至便で、情報公開・伝達も進んでいます。東洋の権力者が若い女性を求めているの情報に駆けつける奇特な人が居るかも知りませんが、400年前では、社会システムからも、この話は不可能であったと思います。

以上は、下記資料によりました。
1.伊達政宗 小林清治著
2.仙台藩歴史事典 仙台郷土史研究会編
3.別冊歴史読本 独眼流政宗と伊達一族 新人物往来社
4.政宗と愛姫そして側室たち 遠藤勝目.編
5.gooWikipedia 伊達政宗





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