2007年6月の日誌
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6 月 25 日 (月)  



 ガイド仲間の現地勉強会が「仙臺城址」を会場に開催されました。

 一般に仙台城は、「小さい・何もない」の評が観光客からなされます。これは、誤解です。規模は日本有数です。小さくありません。なにもないは、城跡ですから、石垣等はあっても天守閣等が無いのは当然です。

 時間に制限のない、政宗公時代に視点を置いた仙台城のガイド依頼があれば、誤解を解く思いが遂げられと思っていたところ、講師に指名があり、躊躇すること無く引き受けました。(厚かましい の蔭の声もありました)で、早速「仙臺城址ガイドマップ」を作りました。勉強になりました。

 コースは、大橋の番所からスタートしたつもりで、子ノ門跡から大手門経由の忠宗公時代の登城路を経由、本丸に、本丸を一周し、政宗公時代の登城路と言われる清水門跡を経由、三の丸の巽門跡・子ノ門跡迄です。

 当初、歩道が整備不良のため、交通事故が心配で、大手門経由には、開催責任者のH代表が懸念を示されましたが、参加者が少なく、若手が多いことかOKがでました。安堵。若手が多く、二の丸から本丸迄 50mの高低差もなんのその、軽い歩行ですが、やはり30分超過の2時間を要しました。

 1614年大阪冬の陣で、政宗公が出陣の際 愛馬「五島」が老馬故に留守を申しつけたところ、悲観し、本丸から64mの断崖を飛び降り、馬場で自殺しました。政宗公は、これを哀れんで墓を建て懇ろに葬ったと言われています。
 この話しを、スタートの「軍馬・軍用動物彰忠塔」でか、 本丸「展望台」で、動物愛護の心が連綿としていると披露するつもりでしたが、ポロッと忘れました。 之が、今日の心残りです。
 諸先輩のアドバスを折々頂きまして勉強になりました。参加者・諸先輩に感謝致します。


 愛馬「五島」は、「馬上蠣崎神社」に祀られ、同神社は1886年に青葉区片平1-2-12に移転しました。「ジフテリア」なる病気治癒に有効との言い伝えがあります。



6 月 24 日 (日)  



 梅雨時なのに、爽やかな天候です。間断無く参拝者がみえます。

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす「日本古典文学全集による」

 涅槃門の先の娑羅双樹が咲きました。どんな色でしょう。表紙に掲げました。ご覧ください。花の命は短いです。

 拝殿の扁額をガイドしていたら、ガイドを依頼して聞いている人々に割って入ってきたご婦人さま。「本当。本当カネ。ウーン本当かな」 誠に疑り深いご婦人さま。

 「珊瑚と真珠です」の説明に、「アレー」「サスガ伊達さま」が大方の反応です。割って入って、講釈師もしくは詐欺師の話しを聞く如く 疑いの目を向けた人に遭遇したのは初めてです。
 「券売所売店の資料でお確かめください」と申しあげました。


 ガイドの本筋は、正確・確実な資料に基づいて話ししています。
 H代表は、現役時代裁判官でなかったと推測したくなる程、物証主義です。不確実な資料・伝聞・私見でガイドをするなと厳しく指導してきます。
 末梢の部分で、伝聞等から引用する場合「・・・・とも伝えられています」。私見を求められ、答えざるえないときは「資料等の裏付けはありませんが ○○とみています。・・。おもいます」と答えています。

 拝殿にデジカメを忘れた方 おりませんか。Yさんが発見し 事務所に届けてあります。読者の中で心当たりの方 022-262-6250に電話をどうぞ。


 資料館で「忠宗展」を開催しています。
 7月12日10時から、忠宗公350遠年法要があります。当日は、仙臺藩志会員30人が裃姿で、一関田村家当主ほか旧家臣15人も裃姿で、参拝されます。
 一緒に参拝・見学をしませんか。

 注
 扁額の色についての資料は、「昭和54年12月 瑞鳳殿再建の経過 瑞鳳殿再建期成会」発行です。 30頁に記載あります。



6 月 20 日 (水)  



 真夏日です。

 街道について学習している仲間と 対南部家との防衛拠点である「金ケ崎要害」を訪れました。途中、奥州街道・東街道・成田と二子の一里塚を実査しました。

 金ケ崎要害そのものは、残っていませんが、家老以下の屋敷割は残っており、伝統的建物群保存地区に指定されています。ここをオカァサン・ボラガイドのガイドで早足で見学しました。

 「政宗公が訪れ 宿泊した場所が〔カリヤ〕なる地名に残っている」の説明がありました。警備上から要人は要害に宿泊する筈なのにと思いつつ聞いて来ました。なお、この要害は、忠宗公の時代 1644年に家格一族の大町備前定頼 3000石が移封・整備したとされています。

 本丸跡を見学中に、伊達家の刑場跡付近に居住している仲間から「刑場はどこですか」の質問に、ボラガイドは当惑していました。
 「要害預かりは、行政権・徴税権はあっても、死刑判決等の裁判権は、無かったと思います」と 発言してしまいました。これから確認します。

 10人に1人の割で、マイクは生活圏なので使用出来ないのと ぬくもりある案内したいからと、肉声でガイトしてくれました。

 あかとんぼ をガイドしてくれた方は、南部領から嫁いで来たので、住んでいる地区の歴史、伊達家との関わりを知りたくガイド始めました。人々との交流が楽しいですと語っていました。
 多賀城ガイドのOさん はじめ 我が「ぐるーぶ・よっこより」の仲間も数人参加していましたが ご感想は如何でしたでしょうか。


 とあるお寺に詣りました。僧侶が1時間、御本尊様・寝涅槃図等を説明してくれました。勉強になりました。お寺の事は、僧侶から聞くのが、正確で一番です。
 「此処は、伊達家の庇護厚い寺です。紋章は、伊達家の家紋です」なるほど、三引両に、九曜紋です。真ん中が「竹に雀」です。
 ハイ、この竹に雀 一見したところ 大夫変化しています。写真を拡大し精査したいと思いました。
 今一つ、三引両をサンビキリョウと繰り返しました。ミツヒキリョウと覚えていましたので奇異に感じましたが。



6 月 17 日 (日)  



 快晴・温暖爽やかです。

 開門早々、若い男女の会話は異国語。英文パンフを渡し「country are you from to?」 「korea」 「just a moment」 ハングルパンフを渡し、自動音声ガイド機に案内しました。此処は何であるか。その内容等を十分に理解されたようで、感仙殿に移動する際、笑顔で「thank you」と申し、会釈して去っていきました。

 政府をはじめとする行政が主導している「外国人オモテナシ」の実践は、この程度が あかとんぼ の限界です。

 ベンチで パンフを熟読している若い男女がいます。「このパンフ読み終わったらガイド願います」 「イイデスヨ。このパンフ良く出来ていますから 読めば全てわかりますよ」 
 涅槃門から妙雲廟界までガイドしました。いろんな質問が発せられました。珍しいというか、之までなかった質問など。
0.政宗は、なぜ歴史に残ったのか。どんな人物か。

1.伊達八家紋と、なぜ数あるのか。家紋は自由に決めて使えるのか。

2.本殿前でなぜ拝礼を求めたのか。
3.この瑞鳳殿等は、誰の所有なのか。

4.伊達家は今も仙台に居住しているのか。住所は。財産は如何ほどか。
5.戦災で焼失して、再建されるまで誰が管理していたのか。其の姿は。

6.9代殿様、・11代ご夫妻の墓碑の地下構造はどうなっているのか。瑞鳳殿等と同様か。
7.政宗公はどの様な格好で棺桶に入ったのか。

8.政宗公は、棺桶に入った時に、牡蠣灰を主体に御遺体の周囲に詰められたのは、当時の人々は牡蠣灰の効用を十分に理解していたのか。
9.ドライアイスも無い昔、遺体の保存にはどの様にしたのか。それはどんな場合か。

10.殉死した人々は、どの様にして各人の墓所に埋葬されたのか。
11.何年周期で、この廟は塗装塗り直しをするのか。

12.感仙殿・善應殿前に灯籠が数多くあるのはなぜか。
13.ユネスコ世界遺産指定・日本国宝の再指定の可能性は。

14.兜の金の半月は、何時頃から使用されたか。後継者の兜も同じ半月を掲げているか。

 俳優小澤征悦似の在仙4ケ月の好男子と、在仙女子大生のコンビでした。楽しいガイドのいっときでした。


 拝殿にデンと鎮座した還暦前後のご婦人 「此処は何宗かね。 日光東照宮は何宗かね」
 「ここは臨済宗です。東照宮は神様です。東照大神君です」 「神様と言われてもお寺があるではないか」 「あー 輪王寺ですか。天台宗です」

 この方は、社寺の様式・彩色は、宗門で決まる。ここは日光そっくりだから 同じ宗派である筈の前提の質問の様でした。この後、裏側が見たいと裏に回りました。正面からは全く 拝礼等がありません。

 以上は、H代表との会話です。実は、あかとんぼ は「伊達家の宗派」と聞こえ、一瞬立往生しました。それは 時代で変わっているからです。



6 月 12 日 (火)  



 広瀬川 

 「広瀬川に抜けられますか」と新緑が眩しく輝き、爽やかな日に、弔魂碑前や感仙殿前広場で問われる事が多々あります。
 「バス停から、バスの進行方向に歩いてください」と回答すると、一様に不満げな顔をされます。中には、「ここから仙台城にいたる近道がある」と頑張る人もおります。
 「あなたの服装では無理です。登山する完全装備で、その技能があれば別でしょう。カモシカが渡って来ている様ですから、絶対不可能とは思いませんが」と回答したいところを、グッと堪えます。
 感仙殿の裏側は、虚空蔵淵と称す広瀬川に断崖になっています。また、仙台城も見えている本丸東側は64メートルの断崖です。それなのに、なぜ この瑞鳳殿地区奥深く入った地点で、上記のようなお尋ねが連発されるのか疑問に思っていました。U先輩も同様に問れたそうです。

 その原因の一端が解明されました。
 市内定期観光バスの有料乗車者に渡される「好奇心が走り出するーぷる仙台バスガイド」なるパンフに起因している様です。「ここがポイント 次のバス停まで広瀬川沿いをのんびり散策してみる。大都会の中心部を流れる川とは信じられない程、美しい景観が待っています」(趣旨)の案内文と地図があります。之です。
 瑞鳳殿地区から、広瀬川右岸伝いに散策出来ると誤解しているようです。上記したとおり崖で道がありませんから抜けられません。
 正解は、バス進行方向に向かい、評定川原橋を渡り、広瀬川の左岸伝いに、右手に瑞鳳殿のある経ケ峯を見ながら、間もなく、仙台城を見て、大橋を渡る道です。のんびり歩く分 距離も伸びます。確かにパンフの景観が楽しめます。

 ここがポイントと 案内するからには、地図に散歩コースを色表示すべきと思います。何処に、意見具申をすれば良いのでしょう。


 るーぷるバスは、仙台市に住民登録している70歳以上の希望者に交付される「敬老乗車券」で乗車・利用出来ます。これを利用した場合 パンフ等は貰えません。



6 月 11 日 (月)  



 仙台観光コンベンション協会事務方代表○○様と瑞鳳殿ガイド仲間との懇談会が、午前開催されました。

 「仙台は、都市として知られているが、観光地としての周知・売り出しに欠けている。この秋、観光地として売り出しべく、宮城県・仙台市・JR各社と共同で「デスティネーションキャンペーン(DC)を実施する。ついては、仙台市内観光ガイドとして最大限活動している皆様の生の声を聞きたい」とご挨拶。

 蔭の声で「DCはCDの誤りでは。日本語では」 之が聞こえて「Destinaton(目的地)とCampaign(宣伝)という意味の合成語です」の解説がありました。

 煽てに弱い あかとんぼ は発言しました。

 「先般 70歳代の男女で構成する小団体からガイドを依頼された。条件は3時間余で、仙台城と牛タン定食が必見・必食で、社寺仏閣は断る。仙台の美味しい食べ物と土産を紹介して欲しい。この時間内に食事と買い物を含みます。

 ○○様として、三大観光地(案内して欲しい所)と推薦三大美味に、推薦三大土産を教えてください」

 これの答えは、@仙台城A定禅寺通りBアーケード街。美味は@牛タンA仙台発祥冷やし中華B仙台近海産鮮魚。土産は@○○最中A○の月B笹かま でした。

 土・日・祝日にガイドしている瑞鳳殿は三大に上げられませんで、アーケード街が上げられました。これは意外でした。
 私は、「社寺仏閣は駄目と断られても、(日光見ずに結構と云うなかれ)の言葉があるように、(仙台観光で瑞鳳殿を外せば土産話ができませんよ)と話し、仙台城と定禅寺通りの3ケ所を案内し 喜ばれました。美味と土産は年齢等により好みがありますので」と話ししました。皆様のご意見は如何でしょうか。

 



6 月 10 日 (日)  



 開門早々、会社の社員慰安旅行風の団体が何組か続きました。ガイドは、入場券を配布し、「サァー行ってらしゃーィー」のお客を放置。お客は「ココ ダテマサムネのお墓だとヨー」とぞろぞろ涅槃門を潜り 登っていきます。
 「ガイドします」と声をかける余地はありません。行動は迅速です。涅槃門で、上り下りで、ガチンコしています。

 涅槃門の前で「菊の紋章だ。ココは格式が高いところだ」と同行者に声高らかに説明している高齢のご婦人がいました。「ハイ そのとおりです。伊達家の家紋です。ですから伊達家の公式行事〔年賀拝礼式日と命日法要〕の際に開門なりますが、限られた人のみしか通れません」 「エヒー」から「伊達八家紋」の話になりました。
 一人の方、あかとんぼ の帽子の家紋を見て、「私の家紋とおなじ」と大きい声。「私は、下野の国、阿蘇郡飛駒村の中○家です。以前は栃木県でした。今は、群馬県○○市○町です。ムラでは、この家紋は格式の高い2家しかありません。イャー同じ家紋の方と仙台で会えるとはウレシー」 私も嬉しいです。同じ家紋の方に出会えて。ウレシイはココまで。ガイド不用と、登っていきました。ガクン。
 1968年4月 県を異にする市町村合併がここにあったを知りました。

 入り口の案内板を丁寧に読み、撮影しているムラのオジサン風の方いました。ガイドしましょうと声をかけたら「日本語駄目。この英文の解説を読んでいた」 ハァー
「country are you from to?」「hawaii」 指3本立てましたら 指2本が返って来ました。父親が1920年○○県から移民した2世で、日本語の読み聞き駄目とのこと。英文パンフを渡し、音声ガイド迄案内しました。「thank you very much」「どういたしまして」

 涅槃門内で説明していたら、突然に豪雨となりました。石段が瀧になり、足元が湖になりました。門内から拝殿の扁額等のガイドを続けていましたら、小雨になり本殿まで案内しました。本のわずかな時間です。南方地方のスコールと称されるのはこんな雨でしょうか。涅槃門から拝殿が霞み、見えにくくなりました。

 事務所内では、仙台七夕の製作が始まりました。色調・模様・感性の良い和紙でを広げ作業していました。「因みに 紙は幾ら位しますか」に 「1枚500円の3桁から4桁までします」との事でした。4桁とは、1000円から9999円までです。仙台七夕を見る人は、一瞬「綺麗」でお終い。それまでの時間・労働・資金が多用されていることご理解できるでしょうか。  



6 月 4 日 (月)  



 綱宗公の297遠回忌法要が催されました。

 1697年4代綱村公は、父綱宗公の為に大雄山善應寺(当初甘棠山聖コ寺と称す)を開山しました。その善應寺と瑞鳳寺の3和尚の読経に続いて、仙台藩志会長、後裔会長、大年寺会代表、財団理事の焼香。古内重義藩志会長と千葉博康財団常務理事の挨拶。一般焼香が行われました。

 藩志会長の挨拶は、綱村公の生涯を述べました。その生涯での重大な出来事、説明板にもある「故あって」の言葉はなく、単に「21歳引退され」と表現していました。
 先般、参拝者から「故あって逼塞を」の「故あって」とは何かと、ジックリ質問されました。簡単には語れない、語りたくない事情を 故あって と表現しています と納得して頂きました。
 今日の挨拶からして、関係者末裔の間では、「故あって」の表現でも憚るのでしょうか。

 偶々 仙台観光の機会に参拝に訪れた方 「297遠回忌法要です」の説明に驚き、297ですかと 聞き直していました。
 驚くのは当然と思います。 あかとんぼ の周囲でも 親の33回忌法要出来るか、50回忌法要出来れば目出度いと申しております。又、先祖の祥月命日を整理・記録し、其の日に灯明をあげ供養している人は数少ないと思れる現状から、297回忌法要と聞けば 耳を疑うは当然かと思います。


 1600年築城の仙臺城は天然の要害です。特に南側は40メートルの竜口渓谷の断崖になっています。法要の後、H代表とU先輩の3人で、実査調査してきました。
ゴム長を履き完全装備です。流れを何度も渡り、500メートルの深部まで探索してきました。垂直の壁です。先ず絶対登れない壁です。説明するH代表の声が渓谷に反響します。二人同時説明の感じです。天然の要害を実感し、政宗公の築城に当たっての着眼点・調査能力に敬服しました。



6 月 3 日 (日)  



 梅雨の走りでしょうか。曇天で温かくない天候です。

 開門早々混雑しました。
 ガイド嬢 涅槃門前で「お客様 どうぞ」と 自由参拝させていました。曰く「バスの中で説明をしてきた。以前、瑞厳寺でしたけど 寺内までガイドしてクレームついた事がありガイドしません。定観は別です」
 この業界も格付けがあるらしい口ぶり。貸し切り・定期観光・有料ガイド・ボラガイドの順らしいです。

 タクシー氏 「ボラガイドに御願いしましょう」 この方 格付けは別として、人材有効活用と思ったかフッテ来ました。
 「静岡は清水から来ました」 なんか次郎長一家の流れを汲む方々かなと思いましたが 極めて真面目な方々でした。「ここは 久能山・東照宮と同じもの。家康公ではなく 伊達政宗公の御霊屋です」「石段何段ありましたか」「1159イチイチゴクロウ」「ここは家禄62万石の62段 ラクラク」「アイわかった」あとはご想像の通りです。

 静岡の人は、石段と言えば 皆 「久能山の石段」に即結びつくのでしょうか。仙台の人 余所で石段と言れて 東参道の62段とは答えないでしょうね。

 再建寄付芳名録板をさぐっている男の子がいました。「どちらからですか、一緒に探しましょう」 「仙台市泉区・・・・」「仙台市は2億5000万円トップです。総額8億で5年の歳月で再建されました」 「この子 5年生です。興味持って色々勉強しています。ガイドお願いします」と父親から声がかかりました。

 涅槃門の透かし彫りを説明していて ハタと気づきました。目線の位置が重要です。見えたり見えなかったりします。父親に抱き上げて貰い、同じ目線で通り抜けの穴を確認して貰いました。小学生に対するガイドは緊張しますが楽しいです。
 自分専用のパソコンを持っているとのことで、本日の説明で、更に興味を持ったら本ページで確認して貰うことにしました。 

 3段1段の石段に腰掛けでスケッチしている 白髪ふさふさの欧米系の男性がいました。「どちらからですか」「German」「オー  ドイツ」 同行の女性の説明では、石の博士だそうで「この石の産地はどこか 色々聞かれている」とのことで、「石垣・石段はこの近郊産で、石垣は1636年に組まれて以来とされています。墓室の石は、温泉地の秋保石と言われています。又 下の黒い石は、海岸部の雄勝石で硯石の原石です」「硯持っています。スレートね ノートのかわりに使いました」から 博士は1934年生まれと知りました。あかとんぼ の生年を知らせたら 「オー ヤングボーイ」 老いたトンボが ヤングボーイと呼ばれ 嬉しく成り、Yさんに記念写真のボタンを押して貰いました。

 彫刻・建造物は、興味の対象外らしく 涅槃門からの石段・石造に熱心で、本殿前で墓室の形・用材を話するとイキイキしていました。73歳のドイツ青年 お元気で。

 27日ガイドした81歳の日本の青年から「熱心懇切なガイドさんの瑞鳳殿の説明には区隊会の皆一様に感服した」の感想を頂きました。
 満足して頂けたことは嬉しい事です。ありがとうございます。 



6 月 1 日 (金)  



 本項は、06年11月01日 日誌の改定版です。 

佐々木文山について

 拝殿の扁額は佐々木文山の書です。通常 次のようにガイドしております。

 「扁額 瑞鳳殿の文字は、当時一流の老書家 佐々木文山が76歳の時、500両のご褒美を頂いて、長持2棹 練習した上の文字です。1945年7月10日の米軍の空襲で焼失しましたが、これは復元たものです。本物の写真は資料館に展示してあります。それには落款・落款印があります。・・・・・」


 当時一流の老書家とガイドしていながら、その経歴については、勉強していませんでした。次のとおりでした。

 1659(万治 2)年 江戸・西久保八幡神社(現在の東京都港区虎ノ門6-10-14) の近くで誕生しました。
    
  名は、淵龍(エンリョウ)  字は、文山  号は、墨華堂(ボッカドウ) 幼名は、嘉通(ヨシミチ)  通称は、百助(モモスケ)と言います。呼称が6ッもあります。後世の我らは迷います。

  父親は、佐々木庄大夫相違(ショウダユウソウイ)と言い、武蔵忍(現行田市) 阿部忠秋5万石に右筆馬廻役120石で仕えました。

 1770年代 10代頃 讃岐高松 松平家に仕えた。仕官経緯・勤務地は不明です。江戸屋敷と思われます。

 1709(宝永6)年 50歳 讃岐高松 松平家(12万石)を致仕(退職)しました。
  松平家は、1642(寛永19)年常陸下館より松平頼重にて初代。水戸徳川頼房の嫡男(水戸黄門の兄)にて、会津松平家 彦根井伊家と同格。
 1734(享保19)年 76歳 瑞鳳殿 扁額を書す
 1735(享保20)年 77歳 病没  東京都立青山霊園に眠る。


 伊達家との関係は、不詳です。
 瑞鳳殿の扁額を書したのは、1734(享保19)年 76歳の時。伊達家は5代吉村の時代です。 江戸時代中期を代表する「唐様」の書家 武家書の大家だそうで、その高名 故に、500両の高額でもって依頼したのでしょうか。
 なぜ 瑞鳳殿建立97年後に、拝殿に文山の扁額が掲げられたのでしょうか。それまでは 扁額は無かったのでしょうか。想像は無限に広がります。


 宮城県七ヶ浜町湊浜 薬師堂の扁額との関係は、不詳です。
 薬師堂の扁額には、落款・落款印が見当たりません。宮城県史によれば、地元宮城郡浜方湊浜 肝入 四郎右衛門 が藩に1774年に提出した「風土記御用書出」に、「1額 拝殿横額薬師堂之三字 江戸表書家佐々木文山筆」と記録されています。又、文政(1819−29)年間に書したた「塩松勝譜」に元禄(1688−1703)年間に建立し、「扁額は佐々木文山の書」と記載されていています。七ヶ浜町誌にも、薬師堂の扁額は、佐々木文山の書と記載しています。

 薬師堂は、、当時 「竹ノ水門」として、国府多賀城に通ずる重要港として賑わった本地に、慈覚大師が立ちより、薬師如来を岩窟に彫刻し祀ったのが始まりとされています。
 なお、御用書出には「1勧請 人王五十五代 文徳天皇御宇仁壽二年慈覺大師勧請ニ付當安永三年まて八百五十六年に罷成候事」と由緒を述べています。

 年代的に、文山40歳代で、讃岐高松 松平家に仕えていた時代である。如何なる縁故で、幾ばくの報酬で、誰がどの様に依頼したものか、想像は無限に広がります。湊浜のムラは現在 居住者はいません。「桑田変じて海になる」の言葉のとおり近代製油所のタンクと原野です。その昔、如何なる財力・人脈を持っていたか想像出来ない現況です。

 埼玉県騎西町 医王寺の「薬師堂」隷書 1711(正徳元)年 の扁額と と七ヶ浜町 薬師堂の扁額とは 写真照合の結果では同じく見えます。七ヶ浜町湊浜 薬師堂の扁額は、佐々木文山の書に間違いないと 思います。
 

 佐々木文山の扁額は、幾らあるか。
 宮城県七ヶ浜町湊浜 薬師堂を含め、22額です。山形県松山町(現酒田市)から岡山県倉敷市まで 全国にあります。文山研究の斎藤健司氏は、論文の表で18額の所在を示していて、細字で最近2ケ所3額が発見されたと追記しています。

 あかとんぼ は七ヶ浜町の扁額は文山の書と信じてガイドしています。これについて「鰯の頭も・・・」ではないかと、懸念している向きもあります。保存している七ヶ浜町が、斎藤健司氏等の専門家の鑑定を受ければ、一発 真偽が明確になります。しかし、町当局も、あかとんぼ同様であれば、鑑定依頼はしないでしょうね。

 以上は、歴史研究06年10月号 「忘れられた書家佐々木文山」斎藤健司著。11967年3月七ヶ浜町役場刊行「七ヶ浜町誌」 1954年宮城県刊行「宮城県史24(資料編2)をもとにまとめました。

追記
 慈覺大師勧請についても、疑問を持たれる向きがおいででしょう。
 慈覺大師は円仁とも称します。828年 53代惇和天皇の代 東北地方を巡錫したとされ、838年遣唐使の一員として唐に渡り、修行し847年帰国。天台宗第3代座主(ザス)に就任、天台密教振興に尽力しています。

 慈覺大師の東北地方で建立した寺は、嘉祥年中(848-50)岩手県平泉に毛越寺(当時金剛院)、850年に中尊寺(当時弘台寿院)、853年秋田県象潟に蚶万寺、858年福島県伊達に霊山寺、859年青森県恐山に円通寺、更に860年山形県に清和天皇の勅願所・山寺(宝珠山立石寺)を開創したとされています。

 慈覺大師が、東北を巡錫と創建した年代に乖離があります。之は、その後、お墨付き、資金、スタッフを遣わしたのではと思います。となれば、薬師堂も 当時それなりの資金と人脈を持っていれば、同様であったのではと思います。

 書出の「文徳天皇御宇仁壽二年」は、852年です。翌年 蚶万寺が創建されています。





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