2007年7月の日誌
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7 月 29 日 (日)  



 小雨の涼しい気候です。でも、参拝者は、悪天候の先日の方が多かったと感じました。

 あかとんぼ と同年配の男性から、ガイドしてのお声。涅槃門の菊紋から透かし彫りと話しながら、ハッとしました。眼鏡の奥に見えるは 隻眼です。本殿前で、政宗公の写真を見せていいものか 迷いながらガイドを続けました。
 突然 若い娘が「遅いヨー」に「孫です。政宗公に夢中なので 来ました。政宗公はワシとおなじ」 孫曰く「そう でも、遺言で 肖像画等は双眼で描かれている」とサラリと解説しました。安堵し 手持ち資料の写真等を観て頂きました。
 七夕七つの願いのガイドから、短冊に「祈願 東北大史学科合格」と書くのかなとお爺さんの解説でした。来春 再度のお詣りをお待ちしています。 

 ある参拝者がEさんに「参道の坂道は、いつ 現在の石畳にしたのか。石段であった」と質問していました。26日も同様な話しがありましたので、聞き耳を立てました。答えはあっさりと「いや 石段はありませんでした」と。

 ガイド後 「大雨があれば急傾斜の路面が洗われ、流失等で路面の破損をきたすでしょう。木等の留めは施されたでしょう」と訊ねたら 「イヤ、何も無い。あったを示す資料は存在していない。仙台城の急な登城路と同じです」
 舗装する以前を見ていない、又、舗装以前の路面構造の仕様が不知 故 「ウーン」と頷きました。

 朝、「最近 外国の方の参拝が多くなりました。拝観料にはシビアです。中国の方はわからない」が話題になりました。

 これを実証する事が起こりました。顔写真入りの運転免許証のような品と財布を持って「あかとんぼ さん この方 見かけませんでしたか。忘れ物です。名前を読めないので 放送して探せないの」と事務所の方が走ってきました。

 境内を一巡しても見当たらないで帰ってきた所に、中国語を話す5人連れが登ってきました。聞いていました。その返事は 「私たちは今来た。仲間では無い。読みは○○。この人 中華人民共和国の人 我々は 中華民国」
 中華民国の人々は、大陸に対して絶大なプライドを持っているのでしょうか。

 この人々、「ループル割引されても 入場料が高い 入場料を払って拝観はしない。手洗鉢の水を飲ませろ」 清涼飲料水の自販機を目の前にしての言です。プライドが高い割に誠にシビアです。
 
 バスガイド嬢 面白い事を語っていました。「竹に雀の雀。左右のどちらがメスでしょうか」 お客さん「見てわかるの?」 ・・・・ 「はい 口をアンと開けている方がメスです。女の子はオシャベリですから いつも口が開いています」 お客さんの反応は「マケタ」 この嬢は、たとえ お客さんが片手でも手抜きしません。

 今日は、5週の日曜日です。1・3の奇数はEさん。2・4の偶数はYさんがガイドする予定になっています。単独を覚悟していたら 二人が見えました。助かります。楽しいです。情報交換と日誌の記載誤りの指摘があります。



7 月 26 日 (木)  



 梅雨あけたようです。相馬野馬追いは昨日終わりました。例年 梅雨明けの蒸し暑い日に行われ、祭が終わると灼熱の夏です。相馬家の家紋は九曜紋です。

 この熱い日差しの中、瑞鳳殿地区をカバーする片平市民センターの講座「みたい・歩きたい片平界隈探訪・経ケ峯」に参加しました。

 コースは、瑞鳳殿東参道の登り口から、鹿落観音を含み、西参道を降りた所、西討戦没碑迄で、公子公女廟を除く、通常のコースとは異なる27ポイントを巡りまでした。
 参加者は、一見高齢者のみで、各歴史関係講座等の常連(顔は知っているが名前は知らない関係)20人ばかりです。

 瑞鳳寺迄の車道、石段であったが、いつ頃現在の石畳になったのか。の発言がありましたので、石段を見たのは何歳頃でしたか、どんな状態でしたかと訊ねましたが、途端に無口になり教えて頂けませんでした。

 瑞鳳寺の山号は「正宗山」です。集合場所が山門前です。山号の扁額を皆様おもいのままで読んでいました。「さんそうせい」に「まさむねさん」です。「まさむねさん」 なんかお友達という感じです。
 配布資料には、「しょうしゅうざん」とフリガナが振ってありました。

 11代斉義公は、広瀬川の浸食による崩落防止の大規模土留工事を施工した功績もあり、妙雲廟界に祀られたと聞いています。では、9代周宗公は、どんな功績で、妙雲廟界に祀られたのかの質問がありました。正解発表はありませんでした。

 11代斉義公は、土留工事後、鎮護のため自然石に「泰山府君」の碑を建立したと、郷土史研究家○山先生が教えられ、以後、探索していますが発見出来ません。本日、鹿落観音の尼様に尋ねましたが不明でした。どなたかおわかりの方、教えてください。
 
 公子公女廟・夕陽観音・瑞鳳寺墓地をなぜ案内しないのかと、大声で叫ぶ方(高齢者特有の難聴から来ている)いました。「8月9日市文化財課養成講座卒業のガイドが案内します」と回答がありました。

 解散後、有志で公子公女廟をお詣りしました。笠塔婆形式で灯籠が2か3対のある公子公女の21基、それに対する小さい墓石ポツンの側室・老女の墓石。特に11代斉義公の側室 常照院こと美壽の方のお墓は小さく、日陰にあります。側室は死んでも日陰の身か。格差が大きいと語り 散会しました。
 



7 月 22 日 (日)  



 雨から曇りに回復、日差しがさしてきました。と同時に地表からの蒸気でムンムンとサウナ状態になりました。

 参拝者は、間断無く、又、東洋系に限らず、欧米系と、外国からの参拝者も同様、間断なくお出になりました。

 先ずは、中国からのお嬢さん2人。日本娘と変わらぬ服装で、涅槃門等を背景にパチリパチリ。中国語(簡体文字)のパンフがないので、「English a panphlet?」 英語は駄目なのか「no  japanese ok」まあ 之で一件落着です。
 台湾からの人は、日本文字を比較的読めます。大陸からの人々は、簡体文字です。漢字の国の人ですが漢字を読めません。最近、来訪者が多いです。中国語(簡体文字)のパンフに案内板を用意する時期に来ていると思いますが。

 2番目は、スイスからの熟年男性。「スイスの町も湖も綺麗てすね、アルプスの山々、絵に描いたように素晴らしかった」と話したら 「日本 綺麗 好き」と返ってきました。6月3日のドイツの石博士同様、髭むじゃらの容貌で、チョット 怖いかなと感じますが、話せば愉快な人でした。
 色々ガイドした最後に 「夜間警備はどうしているか、壊す・傷付ける等の悪いことする者いるでしょう」との質問でした。
 「いません。創建以来400年 その様な話は聞いていません。偉大なる先人に市民は敬意を持っています」 「なるほど」

 スイスは、強力な軍事力を持っての他国の侵略を阻止する軍事中立国と聞いています。市民生活においても同様、強力な警備・警察力を整えているのて、上記の質問になったのでしょうか。
 なお、伊達時代は、交通不便な地(6月18日日誌参照)であり、麓は「御小人衆」(実働部隊)の居住地で不審者の侵入は無かったでしょう。現在は機械警備の真っ暗な山です。夜道と墓地は怖くて「ワルサ」する愉快犯も登ってこないと思います。

 同行の方、独逸国語圏なので 独逸語で伝えていますとの説明でした。

 3番目は、韓国のお嬢さん2人。手洗鉢の龍と戯れて話す言葉が異なります。「you china or korea」 「korea」 手にしているのは、日本語のパンフ。「Hangul a panphlet?」 通じました。欲しいの表情になりました。券売所から貰い、上げました。ニコニコし「・・・・・」。あかとんぼ 礼を言われても、ここまで。ガイドを続けられませんでした。残念。

 4番目の方、カナダの方。本殿・涅槃門・拝殿・資料館の順でガイドしました。同行の学生さんらしき方、電子辞書片手に、「普段 使わない言葉が・・・・」と 云いつつ懸命に伝えていました。そうでしょう。 「涅槃」なる言葉 一端 自分の日本語に転換してから 英語にして伝える訳です。大変です。

 最後は、日本・沖縄の方。当然、日本語で相対ガイドです。感想は「龍 これシーサーでは。廟の様式・色使い 沖縄によく似ている」でした。

 ガイド出来なかった 外国の人々 沢山おりました。残念。

 英語でガイドを目指している老若男女20人ほどをH代表が、懸命に講義していました。表示板での質問を洩れ聞きました。H代表は、如何なる質問も丁寧に、かつ、立て板に水の如く 回答していました。質問は、「現在の我々の生活様式・社会基盤が 300年前 400年前とでは、全く異なる事を理解していない」と感じました。
 気がついたら、集団は見えませんでした。是非、早々 ガイドの実践を希望します。

 最後に、読者の方から「あかとんぼ さん 日誌 仙台弁で書くようになりましたネ」と 云われました。 直しました。 お気づきでしか。ひと言に感謝です。



7 月 18 日 (水)  



 殿様の参拝経路と評定河原橋 

 瑞鳳殿には、現在大多数の人々は御霊屋橋をバス・車で渡って、お詣りに見えます。歴代の殿様も、このコースかと一瞬思います。

 忠宗公は、1636年6月5日瑞鳳殿の造営に着手、9月裁許所(1677年御評定所と改称)を設置しました。この年、裁許所脇に新道を開き、欄干のある木橋を架けました。又、河原を鋏み今一つの橋は土橋でした。これが評定河原橋の始まりです。 
 殿様は、仙臺城から「大橋」「評定河原橋」「土橋」を渡り、参道口の石標「下馬」で乗り物から降りて歩き、一端「瑞鳳寺」に入り、更に、62石段を登り涅槃門を潜り参拝されたのでしょう。

 瑞鳳殿参拝の為、架けられた「評定河原橋」は、仮橋の歴史でもあったようです。1715年1721年1731年(以後も流失し仮橋と推定するも)と流失しており、1893年に仮橋が架けられ、1938年に本格的橋が架けられています。

 ちなみに、「御霊屋橋」は三文渡しと云われる渡しで、1908年木造列柱橋が架けられたが、1910年1913年と流失し、1916年に吊り橋が架けられ、現在の橋は、1934年の完成です。

 広瀬川は、暴れ川であったのか、橋の歴史は流失と仮橋の連続であった様です。
 写真に残る仮橋は、幅1メートル位で欄干もありません。之では乗馬の儘、駕篭での通過も危険であったと思います故、殿様が参拝される際は。仮橋ではなく 欄干のある橋であったろうと推察しています。

 本稿は、「仙台・川と橋の物語」関松一郎著 1990年刊行を基にまとめました。




7 月 17 日 (火)  



 ガイドは正確に。100%伝わるか?

 ガイドの際、理解してくれているか 興味を持っていてくれているか等を聞き手の表情を観察し、話をしています。話する内容は、100%正確に伝わる様に努力しています。しかしながら・・・が現実です。

 あかとんぼ は、「ここは涅槃門です。ですから、この門を潜れば現世でない世界、涅槃の世界。ご承知ですよね。お釈迦様の世界と見立てています。勿論 極楽があります。・・・・・」と、理解して頂けそうな方にのみ話しています。涅槃とは、この世とあの世の境目とは、決して話ししていません。

 下記は、8日の様子です。この方にガイドした記憶はありませんが、聞いていたのでしょう。それは有り難いことですが、100%正確に伝わらない例です。
 再訪希望ある様です。その節はお声かけください。

 私たちが着いたとき、涅槃門の脇では地元のボランティアと思しきガイドさんが、涅槃門の解説をしていました。『涅槃』というのは、この世とあの世の境目で(ちなみに、お釈迦様が亡くなった場面を描いている絵は『涅槃図』と呼ばれますね)、この門をくぐった先があの世、またくぐるとこの世に戻ってきたということになるのだとか。そして、この写真だと分かりにくいですが、門上部の彫刻は、表と裏で図柄が違っているのです。確か、牡丹と唐獅子(動物園にいるライオンではなくて、想像上の獅子。歌舞伎の『連獅子』や能の『石橋』に出てくる方です)がありました。他にもあったかもしれませんが、残念ながら、覚えていないのです。もう少しちゃんと見て、写真を撮っておけばよかったとちょっと後悔しています。ここはまた行きたいですね。

ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/konohana_sakuya28th/13004850.html

 写真は、無断撮影であり、無断でブログ掲載をしています。



7 月 16 日 (月)  



 「故あって・・・」

 綱宗公は、1660年7月18日幕府から逼塞を命じられました。伊達家正史「冶家記録」には、「故あり御逼塞」としか記されていないが、幕府正史「徳川実紀」は、その理由に酒と女に溺れ家臣の忠告に耳を傾けなかったからという。
 その事例として、小石川堀普請現場から遊郭・吉原に通ったからであるの話もある。

 さて、先日U先輩との間で、「逼塞の起因となった小石川堀普請の規模・目的は何であるか」が話題になりました。調査速報です。

 先ずは、1625年政宗公は本郷台を分断する「仙台堀」「伊達堀」とも称する外堀・空堀の御手伝普請を命じられ実行しています。

 そして、1660年の御手伝普請は、神田上水の引き込みとも云われています。小石川堀は神田川とも称され、江戸城北側の外堀です。

 「徳川実紀」によれば、牛込から和泉橋迄浚渫し船が通れる様にし、併せて両岸土手を修復するものでありました。
 実祭の普請の範囲は、市ヶ谷から牛込、吉祥寺を経由和泉橋までの4q以上、人足総計3863人 幕府から6200人扶持が伊達家にだされ、扶持米は1日5合が月単位で支給されることになっている大工事でした。

 伊達家の体制は、普請総奉行に片倉小十郎景長(カゲナカ)、茂庭定元(サダモト)、後藤孫兵衛近康(チカヤス)、真山元輔(モトスケ)を命じ、市ヶ谷・馬場・津九久・江戸川・秋山十右衛門屋敷前に普請場を設置、それぞれに目付・火の番・上(カミ)奉行・小奉行・日帳付・人足奉行・足軽・医師を配した。吉祥寺前には、現場本部たる綱宗公の仮屋が置かれた。

  以上から、工事の目的は、江戸城の防備の強化と、物流路の確保にあった大工事と理解できます。

 5月19日工事に着工し、2ケ月後 突然の逼塞の命であります。綱宗公の胸中如何なるものであったろうか。

 淡々と張られた江戸城外堀を、今日見ることは、組織の長が交替させられても、受注した組織は凡々と工事を継続する現在の会社と同様に、伊達家は普請を続行・完成させた証でしょう。

 本稿は、仙台市史通史編4,東北整備局みちあむ企画展を参考にまとめました。



7 月 15 日 (日)  



 台風。大型で強力な台風だそうです。台風には、タクシーの様に大型・中型・小型と3分類。そして強・中・弱の3区分があるのでしょうか。この組み合わせでは、9種類の台風があることになりますが、予報では、いつも大型で強力です。

 昨日からバケツを蹴っ飛ばした様な豪雨です。「この天気でもガイド行くのうー」の声に送られて発車したものワイパーはけたたましく左右に首を振っています。道路は盆と正月並 空いています。飛行機は欠航との事。参拝者は皆無と予想。

 「ツァー・団体客等の遠来からの人々は、少々の悪天候でも予定の通り行動します。自己判断で休まないでください」は、代表の言。その通りです。3連休の中日。定観は満席、ループルバスも満席、欧米系・東洋系・静岡と国内外から、途切れることなく洪水のように参拝者がみえました。

 上下とも雨合羽の完全装備の方 何組か居ました。あかとんぼ は上は合羽ですが 下は合羽・ゴム長ではなかったので、主に拝殿の下でガイドしました。

 今日の話題
1.「ここ なんですかー」この若いペアは、本殿を背景に何枚も撮影してからの発言です。「撮影してもヨロシイですか」と確認される方 数おりますが、この方達はパチリしてからの言です。
 「ハイ ここは、仙台藩祖 伊達政宗公の御霊屋 お墓です。撮影してからのお詣りです。ご無礼致しました 言ったほうが 良いのでは」 「ハーイ」 素直な方々です。前途は多幸でしょう。

2.朝一番は、高齢のご夫妻。拝めばナンカ御利益ありそう の感じが見えました。静岡からお出でになったとの事で、「久能山・東照宮に似た、伊達政宗公の御霊屋 お墓です」とガイドしたら、「日光・東照宮に分骨した。外に各地の東照宮にも分骨した」と語りだしました。
 「家康公を久能山・東照宮に埋葬した後、遺命で日光・東照宮を造営し祀りました。それは、分骨ではなく「霊」を祀ったと聞いています。仙台・東照宮も家康公の霊が祀られています」 「ヘエー」不思議と云う表情されました。正解は?

3.顔・体型相似の母娘。大雨の中、懸命に何もかも撮影しています。拝殿の瑞鳥を撮影されていましたので「この拝殿は、全く現代仕様で歴史的価値はありませんから」「撮影してよいでしょう」「結構です。どうぞ。瑞鳥です」ここから話しが始まりました。政宗大ファンとか、「愛猫は雄なので〔政宗〕〔成実〕と漢字で名付けいます。犬猫病院で看護婦さんが「政宗さん」と呼ぶと 待合室の人々が、ビックリします。雌なら〔愛姫〕に〔五郎八姫〕と決めています。一昨日名古屋から来仙、昨日は瑞厳寺・蝋人形館と参拝・見学し、政宗公の像を撮影してきました。飛行機欠航なれば帰れないは」と 困った様でも無くニコニコとデジカメ液晶を見せてくれました。

 この大雨は、政宗公・成実公が、猫の名前になった怒り、嘆きでしょうか。歓喜でしょうか。

4.中国からの母に娘2人。会話は中国語。「瑞鳳殿へようこそ huanying nimen lai ruifengdian」と先日の講座で習ったものの 口から出ません。「中国語の自動音声解説器がこちらにあります」の日本語が通じました。1娘が日本語を話せる。2娘が辛うじて理解する。母は中国語のみ でした。仙台七夕を飾っています。由来等ガイドしたら、母に伝えていました。七夕の行事の起源は、中国と聞いていましたので、この様な行事をしているか聞きました。七夕の故事は知っているが、この様な行事は無いとの返事でした。

 この人々から「政宗とはどんな人です」の質問があり「この地方で最高位の殿様です」「では 将軍か?」「将軍は 徳川家康です」で納得したようですが、「将軍」なる言葉がポンと出たには一瞬驚きました。

5.熱心に聴くお嬢さんに老舗寄贈の香炉についてガイドしている続きで、亜炭を焚いた鉄砲釜に至りました。口での説明が 幾らしても理解してくれません。手帳にスケッチ4枚書いて、初めて理解して頂きました。瓦斯給湯バスタブ時代の人には、難しかった様です。生活様式の変化です。あかとんぼ の老齢を実感しました。

6.不快な事が一つありました。上記4の中国の母娘を音声解説器に案内した際、機械の前に若い男がいました。「中国の人が機械を利用するスペースを空けて欲しい」と頼んだら、「空けるから補償しろ」の言葉。これ現代の若者の風潮でしょうか。恐ろしい世です。読者の皆様は 如何様に理解されますか。


 午後、麓の片平市民センターでの「みんなの夏祭りがはじまるよ」の講座に参加しました。これは参道口の穴蔵稲荷神社、背裏の鹿落観音堂等 周囲1qの10神社の祭典が23・24日頃である事から、地域活性化策として開催されました。台風の影響で関係者のみの参加で、部外者は あかとんぼ 1人でした。

 講師は、前博物館長で、「仙台七夕の原点は、評定川原橋にある。瑞鳳殿を参拝するのは、殿様、重臣と限られた人々で、評定川原橋を渡った」という話もありました。参拝者との会話のバックデーターとして参考になる講話でした。
 橋については、項を改めて 後日 記載を考えています。



7 月 12 日 (木)  



 伊達家二代 伊達忠宗公の350遠年忌法要が催されました。

 忠宗公は、1658(万治元)年 7月12日(太陽暦では、万治元年8月10日)、仙臺城にて行年60歳(満年齢58歳7ケ月)で亡くなられました。
 廟所 感仙殿では、4代綱村公5歳の1664年に完成しました。

 法要は、雨降る中を、瑞鳳寺住職等伊達家関係寺8僧侶・伊達家御当主・田村家御当主に続いて羽織袴裃陣笠姿の仙臺・一ノ関田村家の各藩志会の外、後裔会・大年寺会の面々が西参道を粛々と登り、9時55分に始まりました。

 焼香は、@伊達家18代当主A殉死者後裔会代表B仙臺藩志会会長C一関田村家当主D一関藩志会会長E大年寺会代表F財・瑞鳳殿常務理事。
 挨拶は、@伊達家18代当主A仙臺藩志会会長B財・瑞鳳殿常務理事。
 と行われ、終わりました。

 続いて、参列者の記念写真の撮影が、全体と一関藩志会参加者と行われました。プロの手配がつかなかったと、あかとんぼ にも下命がありました。


 全て 終了後、仙臺藩志会役員・伊達家研究の第一人者土生慶子先生が、妙雲廟界の墓前で、 一関田村家当主と一関藩志会会員30名に特別講義を行いました。
 
 9代周宗(ちかむね)公は、寛政8年7月27日生後9ケ月で9代を継ぎ、幼稚なる故に一関田村氏等相謀り、堅田掘田氏に家政を寄託した。文化9年4月25日17歳 天然痘で亡くなったとされています。実際は14歳に亡くなり、甕棺に入れ江戸屋敷床下で保存して、幕府・家臣に生存を装った。之は、岩ヶ崎預かり 奉行中村日向の功績である。
 
 11代斉義(なりよし)は、一関田村家 村資の三男(五代吉村の孫)で、10代斉宗の娘 芝姫と婚姻している。二人の間に子供は居ないが、側室於美屋方恒子との間の娘綏(まさ)姫 (徽子ノリコ)が、登米伊達家からの12代斉邦(なりくに)公の正室であり、その弟が、13代慶邦(よしくに)で、幕末を迎えます。

 この様に、一関田村家は、本家伊達家に多大の功績のある家です。

 土生先生の話の下線部分は資料により加筆しました。

 血脈からすれば、一関田村家は本家伊達家の本家に当たるのでしょうか。



7 月 11 日 (水)  



 瑞鳳殿でボラガイドする者の団体「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランティアの会」の会合が開催されました。我々の仲間「ぐるーぷ・よっこり」以外でガイドをしている方を含め今回は7名で、意見を交換しました。主な話題は、
 1.日々、新鮮な質問が常にあり勉強になる。中には、ボラガイド虐め的質問もあるが、質問者が満足するのであれば結構でないか。
 2.仲間を増やしたいが。
   ガイドの実施が好評で、その実績を認め、従前は、土・日・祝日のみガイドを認めていたが、現在は、平日もガイドして欲しい意向を財団は持っている。
   ガイド依頼が増加している。現在ガイドしている人は多忙な人が多く、調整に苦慮している。
 



7 月 10 日 (火)  



 梅雨。湿気多。紫陽花が冴えています。

 62年前の今日。
 1945年7月10日未明、アメリカ空軍の空襲がありました。B29 123機が、爆弾10,961発912屯を投下、仙台市内中心部500ヘクタール、当時の市街面積の17%、被災戸数は23%に当たる10,933戸、被災者は26%の50,321人、死者1,442人と伝えられています。
 瑞鳳殿を初めとする國寶の廟は焼失しました。貴重な文化財が失われたのです。残念の極みです。
 
 8日のお客様に、爆撃された跡が残っていない、展示が無いと指摘されました。私は、歴史の事実として、伝えますが、恨みとして 遺跡保存の必要は無いと思っています。その事例は以下です。

 ハワイから、顔は日本人ですが、体型は「小錦」「高見山」の様な巨漢がループルバス2台に分乗して参拝に見えました。日本語は完全に駄目。こちらは英語はまるで駄目。
 遂に、定例の万歳になりました。涅槃門の「麒麟」 リダーは足を撫で、首を持ち上げて 動物園のキリンを示します。私は、腕を組み ×を表示 dragon 続いて no flame 腕を振り 口から 吐く様子をして water と。 伝わったようです。

 拝殿では、欧米人の顔して日本語できる婦人に、「62年前の今日、1945年7月10日未明、アメリカ空軍の空襲で焼失。再建したもので、創建当時と同様、国産の宝石〔珊瑚と真珠〕を用いて居ます。皆様に伝えてください」と話ししました。

本日の本論

 6月3日にドイツの石の博士をガイドした際の案内者の佐○さんからの依頼で、栃木県那須町所在で小中一貫教育○○学院の学童5人をバス停からガイドしました。驚いた事 @全員 デジカメを所持していてバチバチ撮影している事 A私話しすることなく熱心に聴き、質問します。真面目な事 B最後に全員でありがとうございました と挨拶しました。誠に躾の行き届いています。 私学教育の成果でしょうか。
 「ガイド料は?」に「明日の日本の指導者になるだろう学童から頂けません。差し上げたいくらいですが」とお断りしました。折角ですから お土産「那須温泉饅頭」は有り難く頂きました。100分間の楽しい おつきあいでした。
 この後、楽天球場・松島・栗原高原宿泊、平泉参拝し帰宅されるそうです。恙なく修学旅行されますように。

 空襲記念日に学童をガイドしての感想
 馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
 酔余口号 と題する政宗公 晩年自作の漢詩です。 



7 月 9 日 (月)  



 グループの勉強・昼食会がありました。

 H代表より、伊達家と幕府が諸大名に求めた 軍役基準が「貞山公治家記録」外の資料での説明がありました。知行(給与)に対する負担義務 興味深い話題でした。

 7月1日(日)研修の為 ガイド休みました。今年になって 日・祝日の休みは、 初めてです。当然 本日誌の更新も休みました。
 会場で、代表からガイド依頼があった 対応できず困ったぞ。仲間から病気したのか等のお声を頂きました。ご迷惑・ご心配をおかけ致しました。



7 月 8 日 (日)  



 時は梅雨。でも快晴。お日様サンサンと恵みを垂れています。Yさん「暑わネー」 「日焼け止めクリーム たっぷり塗りました?」 「ワタシ 小麦色のお肌好きなの ホッホッ」

 8時50分、案内板・指示棒のセットが終わったら、「アッ ボラガイド居る 頼もう」札幌は○○区からで白石区ではありませんでした。白石区に拘った訳は、先刻ご承知でした。ガイドを頼もうと申しながら時間が無いとの事。であれば「ここは、仙台藩祖 伊達政宗公の墓所です」で終わってしまいます。それでは、お互いに不消化な気持ちになります。ほどほどの時間でガイドしましょう」と成り、質問も入り、結果として、基本コース30分ほどになり、満足して頂けました。

 定観バス、午前は10指に満たないお客様でしたが、ガイド嬢 手抜きすることなく丁寧にガイドしていました。やはりプロです。

 定年退職・団塊の世代風の一人旅の人。プレートを撮影し、なんか突き刺さる様な態度されますので、巧みに敬遠したつもりで居たら、感仙殿前で遂に掴まりました。
 「戦災で焼失したはワカッタ。その際 周囲の樹木も焼けたろう。どの程度焼けたのか。米軍B29は 建造物のみに爆弾投下したので無いだろう。焼けた樹木がなぜ残っていないのだ」
 「空襲から、今年で62年になります。焼け枯れた樹木は整理され、枯れ死しなかった樹木は繁茂しています。今通って来られた青葉通りの欅並木は、戦災復興都市計画で植樹されたものです。樹木の生命力はかくも偉大です。空襲直後の様子は、私は幼少であり、この地に居住していませんでしたので、わかりません」
 「経験者は未だ生存しているだろう。良く聞いておけ。仙台市は政宗で持っているマチだろう。仙台市は被災直後を撮影し、掲示しないのは怠慢だ」
 
 「ハハー・(内心独り言)被災時は、伊達家の所有でした。仙台市に寄付されたのは、6年後の1951年12月です」」 

 東参道登り口で、「あら 専門家が居るは。ガイドして。私、留学生が仙台駅頭に降り立った瞬間から、翌日の入学手続き等まで、世話をするボラ団体 グループ杜の☆☆です。こちらはロシアからのク○○アさん、中国の○ウさん、韓国のキ○さん、東北大学経済学部等の留学生です」
 それではと、62の石段から始まり、涅槃門に本殿、感仙殿・善應殿に、御子様御廟までガイドしました。メモを取り、撮影し、質問をされました。1・2を除いて あかとんぼの日本語を理解してくれました。勉強になりました。

 質問や記憶に残ったこと。
1.手水鉢で、☆☆さんが 「此処は手と口を漱くところです。でも口は省略しましょう」と呼びかけたら、ク○○アさんが「此処は神様でしょう。私 駄目」「いや ここは佛様です」「では なぜ 神様用のがあるのですか」 あかとんぼ 黙して語らず。

2.○ウさんとキ○さんから「ここの建物は、赤等の原色が使われていますネ。自国と似たところありますが なせですか」
 「16世紀後半 新興武士・豪商を担い手に、新鮮味豊かな豪華な美術工芸が発達しました。南蛮文化の影響が強く表れた特色を持っています。此処は、その桃山様式と言われるものです。故、お国と似ているところがあるでしょう」

3.瑞鳳殿の意味は。
 棟板は発見され本文中〔立柱上梁出郡技萃世界斉平凰現〕記載され、ていますが、命名の由来は残されていませんのでわかりません。
 
4.政宗公が偉大であるとは。
 1590年24歳の時 時の最高権力者豊臣秀吉に仕え、以来、徳川幕府の歴代将軍 徳川家康、家忠、家光に、1636年まで、40年間、ほぼ対等・対等に仕え、伊達家領内の治世も、軍政から民政に巧みに転換しています。軍事・政治・人心把握に優れていた人物であったと評価しています。

5.ここの地名は。
 経ケ峯です。中世に満海上人が「大般若経」を書写し、経櫃に納め埋葬しこの世の平和を祈願したに由来したとされています。仙台市の史跡公園になっています。

6.政宗公の没年は。
 太陽暦では、1636年6月27日(金)です。日本史では、寛永13年5月24日となります。それで、命日の供養は、5月24日に催しいます。

6.カチョウフウゲツとは。
 花鳥風月と書きます。意味は、琴線に触れる自然の美しさ。風流を称えた言葉です。善應殿の飾りが、天女では無く花鳥風月ですと説明した際の質問です。

7.家紋とは。
 三引き両等の伊達家四家紋を説明した際、皆様の国に家紋・紋章の風習はあるか訪ねたら 無い の返事でした。ク○○アさんは、貴族は持っていたのではと洩らしました。

8.「御霊屋はお墓です」の説明は納得したところで、皆様の国のお墓の材質は何かと訊ねたら、石ですの返事でした。単調な石でない御霊屋に驚いていました。

8.写真でない羽織袴姿 見たい。
 7月12日の忠宗公350年忌においでください。仙臺藩志会会員が羽織袴姿で参拝されますと伝えましたら、授業があるから残念の返事でした。

9.伊達家子孫の方は健在ですか。
 政宗公から数えて18代の方 活躍されています。
 18代御当主の具足姿と あかとんぼ の写真入りの名刺を差し上げました。

10.殿様の仕事。
 御子様御廟で、「今 上にお日様が当っていた11代ご夫妻の墓所ありました。ここ日蔭の地に側室の小さい墓石があります」と☆☆さんに小さい声で伝えたら、「ここは、側室のお墓です。側室とは・・・・。殿様の仕事に子孫繁栄があります。韓国ドラマにも その様な場面数ありますネ」とサラット説明していました。
 あかとんぼ はハタチの外国のお嬢さんに躊躇してましたが。東西の歴史をみれば、確かに 君主の仕事に 子孫繁栄がありました。

 本日は、国際交流のボラさんのお陰で 中国・韓国・露西亜のお嬢さん達と交流が出来有意義でした。☆☆さん 御世話様でした。私でお手伝い出来ることありましたら いつでも お申し付けください。





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