2007年10月の日誌
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10 月 30 日 (火)  



 脇差・鎬(しのき)藤四郎吉光

 本脇差は、豊臣秀吉の没後、その遺品として政宗公に贈られ 家寶としていました。

  本日、この脇差を収納していた「蒔絵二重短刀箱」を、酒田市・財団法人本間美術館にて 拝見してきました。

 外箱・内箱とも、桃山様式の 精細で渋いながら 豪壮なデザインで、重要文化財指定の工藝品でした。

 二代将軍秀忠が政宗屋敷の御成りの前日、老中 酒井雅楽頭忠世、土井大煩頭年勝、酒井讃岐守忠勝に、内藤外記、柳生但馬守等が訪れ、祝儀進上物の内見をし、内藤外記が「天下に隠れ無き名物の鎬藤四郎吉光の脇差を御進上然るべき」と申した途端、激怒し、進上を拒絶しました。(貞山公治家記録4巻278頁・1974年6月1日発行 以下頁のみ記載)

 「老中始め幕府要人の追従の押しつけ、追従阿諛の風潮に対し、断固として太閤の恩義を護ろうとした態度、秀忠に人一倍の忠誠心を持ちながら 反骨精神を発揮した」と 解説で絶賛をしています。(29頁)

 この脇差・鎬藤四郎吉光については、「公毎年元日には白綾の御小袖に菊桐の御紋府たるをめさられ、御長袴の上に鎬藤四郎の脇指を指せらる。・・・・吉光は太閤より御遺物に賜る。天下の大名官位の次第を以て御自筆の書立には遙の末にあれども 御道具は大神君、加賀の利家 我等三人は優劣無し。・・・・・公方より内々御所望あれども進上せず。伊達の家のあらん限りは 段々譲り秘蔵せらるべし」と 忠宗に語ったと伝えられていると記載されています。(293頁)
 
 忠宗公は、6月23日の葬礼終了後 本脇差・鎬藤四郎吉光、茶入、掛物を将軍家光公に献上しました。

 伊達家が名実共に 将軍家に屈服したのは この時である。政宗公は幕府の支配下には服従していたが、脇差・鎬藤四郎吉光を保持することにより、将軍には屈服するが、徳川家とは対等であるという意地と気骨を保持しようとしたのである。
 政宗の心底にある反骨が脇差・鎬藤四郎吉光に対する執着である。と解説しています。(30頁)

 この脇差は、1657年1月18日発生の明暦大火で、江戸城本丸・二の丸共に焼失しました。

 如何なる事情か、この脇差を納めた箱は、伊達家に残され、酒田の大地主・本間家に伝わり、現在、財団法人本間美術館に所蔵されております。本日 あかとんぼが拝見しました。

 注 御成日 木村宇右衛門覚書 伊達政宗言行録 小井川百合子編1997年刊行 年譜による
 政宗公が激怒した際の御成は、1623年12月21日の2回目と推定されます。秀忠公は4回御成しており、1回目は1619年5月3日、3回目は1628年3月12日、4回目は1630年4月11日の都合4回です。
 家光公は、1624年2月20日、1628年3月26日、1630年4月6日、1636年2月21日の都合4回です。

 注 御形見 木村宇右衛門覚書 伊達政宗言行録 小井川百合子編1997年刊行 299頁による
 鎬藤四郎吉光の脇差の外、虚堂の三幅一対 達磨 寒山拾得 牧谿 賛、山の井のお茶入。後に 山の井のお茶入を拝領する。
 
 注 明暦大火  日本史 読める年表 自由国民社1993年刊行による
 80日間 降雨が無く乾燥していたのに、北西の強風が吹き、18・19日と2日間燃え、江戸城本丸・二の丸、大名旗本屋敷1270 寺社300 蔵9000 橋60 が焼失し、死者10万7千余人である。
 罹災者救援のため、幕府は大坂と駿府から二万銀を江戸に移送した。
 罹災大名の復興資金の貸与、旗本へ賜金が実施され、総額90万両に及ぶ。 



10 月 28 日 (日)  



 雲一つ無い青空 快晴です。今朝までの大雨は何処に行ったのでしょう。

 朝一番 セットしていたら 「90人です ガイドしてください。秋田市から来ました。40分間でー」元気な添乗員さんのかけ声。
 1人で90人を、バス停までの時間を込みで40分 厳しい条件ですが、昨日の豪雨の中 仙台に来て、朝一番のお詣りです。張り切りガイドしました。
 「皆様の所の殿様は佐竹様、天コ寺に御廟がありますね。ここは、伊達政宗公の御廟です」 之で一発了解。ご質問は秋田弁。おもわず回答も秋田弁でしました。しっかりご満足頂き、拍手を頂きました。

 定期観光に、チャターバスと、続々と続きます。
 チャターバス嬢は、定期観光嬢に仁義を切ります。ボラガイドに対しての応接は、幕下三枚目以下扱いです。
 「仙台市バスの定期観光があった時代の市バスのガイドはしっかりしていた」この発言は?

 「伊達家の菊紋は、北条家から秀吉に与えられ、政宗公に伝わった。知ってるか」
 「知りません。北条家は鎌倉幕府の執権でしょう。1200年代でしょう。秀吉公と接点はありませんよネ。小田原の北条氏を攻め、全国平定は1590年でしょう。政宗公と秀吉公との接点はあります。攻め滅ぼした北条氏からの戦利品と云うこと、秀吉公が使用し 政宗公にも使わせたのですか。皇室に対して、そんなことできますか。秀吉公は、1585年に関白に 1586年に太政大臣になり 豊臣姓を賜っています。その時 菊紋も賜り 許しを得て 臣下の大名に使用させたのではありませんか」
 「ここ瑞鳳殿の以前のパンフに北条家からと記載あります。確かめて」 強固です。プロのプライドでしょうか。
 プロと無く子にはかないません。「ハイ」 従前のパンフにも、その様な記載されていた記憶ありません、現物が無いと、反論しても 水掛です。事務所で先輩と共に確認しました。私の記憶に誤りありませんでした。帰宅し諸資料を確認し、本稿記載しました。


 若い男女 涅槃門を潜る際、「脱帽しなくてもよいか」と誠に珍しい確認、ひと味異なる質問を連発します。ハテナと「学生さんですか」「ハイ」「東北大学史学部ですか」「ハイ 国史です」 プロ・学者の卵にガイドしていたのです。でも 瑞鳳殿の詳細では 学生には負けないつもりです。

 「戊辰史を研究しています。関係史跡があると聞いて来ました。何処でしょう」
 「ハイ それはこちらです」 弔魂碑に案内しました。
 1917年10月10日に戊辰殉難者50年弔祭が執り行われたを知っていました。「供養燈の氏名等を確認したいようでしたら 本HPを参考にされては」と 僭越ながら勧めました。
 併せて、関連する史跡としての西討戦没碑 鹿児島県七士の墓の所在、戊辰殉難者の末裔の方々の参拝がある事を伝えました。参考になった様子。ヨカッタ。


 涅槃門の佐々木文山の扁額 「伊達家から500両のご褒美を頂きました。今のお金にして、さて総額幾らになるでしょう」とガイドしています。

 Yさんから「私は、1734年の米価を基準しています。あかとんぼさんは、何を基に 幅のある数値を示していますか」と質問されました。

 「ハイ 1734年の小判や、現在の金の価格、米価、労賃、その他複合的物価等 学者によって換算方法・金額が異なり、上記の幅ある金額を示していたので、何が絶対的金額かわかりませんので、その様にお断りのうえの額を話ししています。Yさんの通りと思いますが、米価も変動があります。生活水準を考えると絶対と思えないので」


 ご城下で 全国大学女子駅伝大会が開催されます。四国から応援に来ましたと、具体的地名を語られました。「それはそれは 遠い所から お詣りありがとうございます」と挨拶しました。四国では、有名な所でしょうが、実は、4県名と宇和島市と吉田町以外は 存知ていません。


 涅槃門の菊紋を背景に、若くない女性からシッャター押しを頼まれました。「ここは、ご承知の通り 政宗公の御霊屋です」反応がありません。 「お墓です」 サーと顔色が変わりました。シマッタ 来るのでなかった です。 「ガイド要りません」 入場料損したくないのか 涅槃門を潜りました。即 帰って行きました。

 この方に、どんな事情があるのか 伺いしれませんが 「お墓です」に サーと顔色が変わる必要があるのか Eさんに話ししたら、「誰でも先祖がいて 現在の自分があるのでないか、宗教の別はあるにせよ 何れみんな 墓に入るのに 理解 できませんネ」と一致しました。



10 月 23 日 (火)  



 「仙臺城御裏林をさぐる」と題して、東北大学植物園内の史跡についての勉強会をガイド仲間と行いました。

 6月25日「仙臺城址ガイドマップ」で、三の丸、本丸を学習した続編です。

 仙臺城本丸は、青葉山段丘、標高115〜140m 東西250m 南北270mの平坦地にあって、南側は深40mの竜口渓谷 東側は広瀬川64mの断崖 北側は17mの高傾斜の石垣 そして、西側は三条の大規模な堀切と土塁で、天然の要害です。

 この西側は、仙臺城御裏林時代から東北大学植物園として開放されるまで、長期間 軍事施設として、人々の立ち入りを拒んで来ました故に、ほぼ原始林であり、1600年の政宗公築城以前の史跡が残っています。これら 1.蒙古の碑(1287年)・正安の碑(1302年) 2.茶室残月亭跡(1710年) 3.樹齢372年以上の杉並木  4.最上古街道(1100年代?) 5.堀切 6.御清水(おすず)・本丸えの給水施設を90分を要して探索しました。

 仙臺城築城の候補地に、榴ヶ岡・石巻が上げられたの説がありますが、地形的に天然の要害で、工事期間は短く、費用は少なく済み、生活に欠かせない給水を確保出来る本地が、他地に比較ならない優位性を、前回と今回の探索で認識しました。

 この仙臺城立地の優位性を認識した指導者としての政宗公と、それを支え実行したスタッフである家臣の素晴らしさ。そして組織運営に 改めて驚嘆と賛辞が 参加者からありました。あかとんぼ も同感です。

 本日の資料 PDF  ご希望あれば送信します。100%完璧を保障しません。



10 月 21 日 (日)  



 爽やかです。旅行には最高ですが、今秋の旅行は峠を越えた感じで、ボラガイド人数不足の苦情はありませんでした。

 亜細亜系外国人の参拝 朝早い時間帯に数多く見られました。
 一瞬の戸惑い感じている組に声をかけましたら、「no Japanese」 手には日本語パンフ。英文パンフを渡しながら。「What Country are you from?」に「 Hong Kong.」
 大韓民国、中華民国、中華人民共和国の方々の参拝が多くなりました。○○大学での観光をテーマした開放講座で、英会話出来るボラガイドを支援している市議とバッタリ。「仙台市を訪れる亜細亜系外国人の増加を了知している」 「では、仙台市はどの様な対応を策定されるのですか?」 ここで なぜか水が入って答えはお預け。

 親子二代と思われる方 母親から「息子が仙台転勤で、激励に大阪から来ました」 父親がとても静かで、三段一段の石段も足どりも軽るいです。夫婦と思っていたら、突然 「父親です。私 長女 こちら次女に 孫夫婦です」との説明。
 慌てて謝りました。「お元気なので 失礼しました 何歳ですか」 「1924年生まれの83歳。目も 耳も 歯も しっかりしています」と次女さんの解説。100歳萬歳でしょう。いや驚きました。帰り際「オジイサンも元気で」とエールを娘さん二人からおくられました。「ハイ ありがとうございます。がんばります」
 本人は若いつもりでいて オジイサンと云われて内心愕然のオジイサンでした。

 7・8人の高齢者を案内してきたタクシー氏 「ここが涅槃門です 本殿 資料館を見学してください。私ここで待っています」 62の石段が堪えて案内する元気が無いようです。
 「今日はどんなコースです」 「朝 秋保の旅館から 大滝に 凄い人出 それから大崎八幡。ここ瑞鳳殿を参拝して 仙台城址で昼食して 仙台駅まで」 
 「大崎八幡は裏駐車場往復?」 「裏に駐車して 参拝後参道をくだって貰い 大鳥居前で待っています。登ればとは思うが 登りは大変ですヨ」
 「仙台城址は営業車は駐車料金無料ですよネ。昼食 和洋麺 揃っていますが単価高いと感じますが」 「駐車料金は食事代に込まれているのでは? 市街で昼食と云われても駐車場・料金に悩みますヨ お客さんの懐 考えますヨ」

 孫のいる年代のご婦人の集団 手洗所の竜頭を指しながら 「ここお墓だネ 手を洗わないといけないの」 ナンカ厳しい口調。
 「お客様のお考えのとおりにどうぞ」 「ジャ止めた」「ウン 洗う」「冷たくない」騒々しい年頃の様です。



10 月 16 日 (火)  



 公式最高気温13.8度 雨予報ながら曇り 寒いです。

 人生の途中で 不幸にも視覚に障害を持たれた人々を支援 サポートするNPOの依頼で、皆様を瑞鳳殿地区にご案内しました。

 ループルバスの停留所で待機し、ここからスタートです。その昔 下馬石があったとも伝えられる参道口は、水道工事で掘り起こされ、極めて歩行条件は悪いです。結果的に券売所まで 3倍の時間を要しました。

 障害者手帳を提示すれば、割引料金が摘要されます。白杖を使用していれば、手帳の提示の必要ないと思いますが、世の中 悪い人がいるらしく 行政指導とかで提示を求めていました。サポートには割引はありません。

 ガイドは、以前に案内したシニアネット仙台の仲間で視覚に障害のある吉○さんのアドバスを揺り起こし務めました。参考まで

1.はっきりと名乗りました。

2.大きい声でガイドしました。10人以上なればハンドマイク使用するつもりでした。誘導等 音声が頼り 基本です。

3.位置を示すには、クロックポジション方式(時計の文字盤をイメージする)でしました。私の声する位置が正面 12時の方向 右は3時 左は9時の方向です。

4.提示資料はA4からA3版に拡大したものを用いました。

5.触れるものは触って頂き 触覚で確認して貰いました。具体的には、三家紋です。香炉の浮き彫りで確かめて貰いました。

6.涅槃門・本殿・木像・扁額等の大きさ等を示す数値を調べ 具体的に数値を説明しました。通常は「ご覧の通り おおきいですネ」です。

7.極彩色の彫刻等については、中途で視力を失った方は、色の記憶があるので 、個別に 色を述べました。

8.石段は、常に段数 段差を数値で伝えました。不規則な敷石配列、高い段差等 健常者でも 足運びに苦労しています。

反省点
1.資料館を案内始めたら、健常者から「五月蠅い 静かにしろ」とクレームがあり、集団を小声で誘導出来なく 資料説明を断念し 途中で退館しました。

2.サポートは同性者が望ましい事もあります。トイレです。父親と娘の組でした。入り口まではサポート出来るが、便器の前まではチョット 交替しての声がありました。

 再建する前に参拝された方、「昔お詣りした時は、木柱が立っているだけであったな」の呟きは、豪華絢爛に再建された御霊屋を実見出来ない 無念の呟き と聞きました。

 予定時間を超過しましたが、寒さがなければ まだまだ 参拝・散策されたい様子でした。

 シニアネット仙台でパソコン操作を習得された方がいました。この日誌を読んで頂けるように 対応しなければと思いました。研究します。



10 月 14 日 (日)  



 1867年の今日 徳川15代将軍慶喜は朝廷に大政奉還を申し出てました。1603年家康公開府以来 264年にして徳川将軍家の治世は終わりました。以来140年 伊達家も我々の先祖も歴史の波に揉まれ、四民平等の世になりまして、開門から途切れる事無く、世界各地からお詣りに見えました。

 最近の傾向として、亜細亜系外国人の方の参拝が多いです。多少の戸惑い(文化の違い)の様子が見られ、声をかけようとした瞬間 同行者との会話が日本語でなく アツ 日本の方で無いと気づきます。多いです。

 日本人同士でも 戸惑う事があります。「ナマリがある」と申されたご婦人の言が より訛って聞こえます。「どちらからお出ですか」に、 「愛知」 名古屋市と近郊であれば 豊田市の方を除いて皆さん「名古屋」と答えます。「愛知」との回答と訛りから 尾張の在かな と想像しました。

 入り口表示板の政宗公(狩野安信描)を撮影していた集団。カラーコピーを披露しましょうと近づきかけたら 「我々は博物館に行ってきた」とボラガイドの爺さんの話は聞かれないの態度を示しました。静かに引き下がりました。

 その反面、「聞いてワカッタ」「ヨカッタ、聞かなければ只綺麗で帰る所であった」「今 埋蔵文化財の発掘調査の現場に行っているが勉強になった」等のお声が多数ありました。

 記録すべき質問はありませんでした。苦情は一つありました。

 「『ボラガイドいる』と看板出していながら不在では無いか。事務所に申し込むのか」と 剣幕。今日も怒濤の波の如くの参拝者から続々と声がかかり、孤軍奮闘、拝殿前から本殿前の往復で、入り口表示板迄降りられ無い状態の時に、お見えになり 「看板出していて 私が来たのに なぜ待機していないのだ」となったようです。多くの人々、バッヂを着けた人も、見付けた地点で ガイドが切れた所で 依頼されます。「本来は下 涅槃門からご案内したいですが ここからで宜しいですか」と断り ガイドしています。
 この剣幕のご婦人も 最後は「 ヨカッタ」と申してくれました。ホッ 安心。

 あかとんぼが参加している 「NPOシニアのための市民ネットワーク仙台」が 11月6日のホーラムで団体の活動のひとつとして発表するからと サロンスタッフが撮影に見えました。事前予告があれば服装を整えたのに。フーラム参加希望の方 メール頂ければ お知らせします。



10 月 13 日 (土)  



 今年正月14日 瑞鳳殿でガイドし、本殿前の記念写真で表紙トップを飾りました、シンガポール共和国のお嬢さん。ご記憶ありますか。現在 仙台市内の中学校で英語を1日4校時教えています。
 
 政宗公灰塚の隣の市民センター高齢者教室での「お国紹介」講座の講師を依頼したら、快諾。在日大使館に交渉し 各種パンフにポスターを取り寄せ、参加者に配布しながら 市民生活等を語ってくれました。

 孫年齢の外国娘の、流暢でない日本語の講話 参加者に好評でした。喜ばれる講師を紹介できた事は、高齢者の仲間内にも、国際交流にも お役に立った様です。 これも 瑞鳳殿でのガイドしたからの成果です。政宗公に感謝です。 



10 月 12 日 (金)  



 秋晴れ 快晴 温暖  爽快。

 札幌から4泊5日で十和田湖から中尊寺を経由、「仙臺は伊達家」に拘ったツアーのご指名で仙臺城址と瑞鳳殿をご案内しました。

 約束の時間に到着しません。添乗員から道を間違えましたので遅れますの電話。移築した伊達旧伯爵邸「鐘景閣」での昼食で、ここから市街に出るのに他県のバス故 地理不案内の結果 遅れたようです。

 通常、仙台の昼食イコール牛タンです。それを何故 鐘景閣で昼食をしたのでしょうか。些か思案したところ、昭和天皇の行啓があった伊達旧伯爵邸に拘った様です。又、定番の牛タンでは無いのは、社会的。経済的に成功された夫妻達故に、歯にやさしい宮城野秋の旬の食材を求めた様です。

 仙臺城址は本丸を中心に説明し、御裏林の外周をまわり、二の丸、三の丸と大身屋敷跡を車窓から眺め、城下の大町頭、大名小路を経由、瑞鳳殿を主体にご案内しました。城下の移動時間・本丸での集合写真の撮影。売店買い物と本命の2ケ所の見学を全て含めて2時間は、密度の濃いものとなりました。
 
 話題として、
 ☆ 本丸の仙臺城絵図板に「腰曲輪」の表示があり、「何と読むか」の質問があり、「前田家・金澤城では総曲輪と書いてソーガワと言います。参考まで」 「有難うございます。記録しました。コシクルワと読んでいましたが、確認致します」

 ☆ 「騎馬像はいつ作られたものですか。素晴らしい像ですネ。惟 後右足の格好が不自然です。政宗公の時代の馬ではありませんネ。サラブレットの血が入っていますネ」 「ハイ 1930年に作られたもので、当時の軍馬がモデルでしょう。確かに1600年代、政宗公が乗馬した日本古来の馬ではないです」

 ☆「堆朱の工芸品、埋もれ木細工 真物 途中で買えますか。埋もれ木の茶托以前5枚組み40,000円でしたが 今いくらでしょう」 「仙臺伝統工芸品の良さをご理解され お求めなりたいご希望 ありがとうございます。今日の行程では店がありません。又 材料の入手難、職人の高齢化で 容易に求められないと聞いています」


  これ以前 瑞鳳殿前バス停にて、ループルバスを待っていたら、瑞鳳殿を参拝された60歳前半のご夫妻。「瑞鳳殿は素晴らしかった。次はどこで 下車し何を見ようか」と相談していました。
 つい口を出しました。「博物館前で下車し、裏庭にある政宗公胸像 これは大東亜戦争に出陣し、名誉の負傷し 帰還されたものです、魯迅関係石碑、その他をご覧になり、政宗公も歩いたと云われる道 途中 野面積の石垣に、近代石垣も ご覧なりながら急坂を登られ、本丸に至れば 仙台城を理解されるには最高です。足には自信がありますか。約束が無ければご案内したいのですが アスカラズ」 
 「足には自信がある。イクゾー」

 博物館前で下車されました。あかとんぼは 上記約束の方を本丸で待っていたら 登ってきて「ありがとう。よかった。趣があった」と礼を申されました。よかった。

 朝刊の本日の運勢に「余計な口出し 災いの元」とありましたが 正反対の答えでした。ヨカッタ。  



10 月 10 日 (水)  



 「殿様の墓所を末裔でない人々が管理している例があるか」のお尋ねがありました。 難しい質問です。現在判明したのは。

 下野・宇都宮の戸田家77,000石の墓所が、「宇都宮城主戸田家菩提所 英厳寺史跡」「英厳寺児童公園」として、宇都宮市が管理しています。

 英厳寺は1710年に戸田忠真が領主になった時、位牌堂のみのお寺として創建され、1908年江戸・牛込の松源寺が移転の際に、お墓がここに改葬されました。英厳寺は明治始めに廃寺になりました。

 現在は、病院の裏手に位置し、鳥居といくつかの墓碑とベンチが1つの置かれた公園です。

 ここをお詣りした人は、あまりにもひっそりした場所で「過ぎた年月の長さを感じた」と記載していました。

 東北では、外に新庄・戸澤家の御霊屋には、菩提寺の外 「新庄おたまや保存会」の名前が見られ、第三者が管理に関与しています。
 あかとんぼがお詣りした2-3の廟所は維持管理が至らない、墓石のみでも環境の荒廃を感じた例があります。

 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿を始とする経ケ峯地区は、経ケ峯歴史公園・風致地区に指定され、(財)瑞鳳殿が維持・管理に尽くしています。
 瑞鳳殿参拝された方から、「伊達様は恵まれている」「羨ましい」の反応があります。東北での例からも そのとおりと感じます。

 本項は、中山良昭著「江戸300藩殿様のその後」2007年08月刊行と、HP「宇都宮城主戸田家の墓所!栃木を楽しむ」を基にまとめました。
 



10 月 9 日 (火)  



神か 佛か

 最近 女性のタクシードライバーが増え、ガイドしています。結構な事です。

 「ここは仙台藩祖政宗の墓所です。家康と同じく神様になりました」のガイドが昨日ありました。
 確かに、家康公は1616年に亡くなり、翌年 後水尾天皇から東昭大権現の神号と正一位が贈られていますが。
 政宗公が神様になったのは、1874年1月です。時は明治7年 旧家臣等が請願し、北山東昌寺境内を割愛し、青葉神社を創建しました。神号は武振彦命です。
 ここ瑞鳳殿に御遺体が葬られ、仏式・臨済宗で祀られています。戒名は瑞厳寺殿貞山禅利大居士です。位は、1918年に従二位が追贈されています。

 上記タクシードライバー嬢の説明には誤りはありませんが、瑞鳳殿での説明では、あまりにも短略すぎると感じました。

 なお、江戸時代 奥羽地方諸家で 神社を創建した。又 神式で祀ったのは会津松平家のみです。
 家康公の孫で 初代の保科正之は、土津(ハニツ)霊神と云う霊社号が贈られ、土津神社が猪苗代町に創建されています。二代以外三代から 霊神が贈られています。
 なお書は 加藤貞仁著 「とうほく藩主の墓標」によりました 



10 月 8 日 (月)  



 予報は、「日中大雨」。朝食を終えても小雨がやみません。この後大雨が降るのかと空を眺めていたら、青空が出てきました。それではと、瑞鳳殿に駆けつけました。
 昨日の参拝者は、昼中断するのが申し訳無い程 沢山でした。連休最終日。今日も沢山であろうの予測は正解でした。怒濤の如くでした。

 お天気は、「予報が外れると 予報士は減俸になる・気の毒」とばかり 昼頃 大雨になり、移動が出来ずに、拝殿で涅槃門から本殿までのガイドをしました。

 午後 雨が上がりまして容易にガイドできる状況なりましたが、口が渇き、猛烈に空腹を感じ、之までと 感じた途端 「ガイドして」 「外にはいないの?」のお声が連続しかかり ご期待に応えなければと続行しました。
 「ボラガイドいます。お声かけください」の看板を立てていますが、声がかからない時はかかりません。止めようと思えば かかります。不思議です。

 ガイド依頼があったのは、兵庫・神戸・名古屋等の東海・関西からの方が多かったです。この人々は、ガイドの使い方 心得ているのでしょうか。
 ネームプレートを「本殿の写真を下絵にし 無料の大文字に 氏名入り」を事務所で作ってくれました。この効果でしょうか。

 名古屋からの一団20人。一族郎党。一族の娘が仙臺に嫁ぐので、結婚式の前にお詣りに来たとの事。涅槃門の菊の家紋を指し「名古屋が生んだ偉大な先人から政宗公が頂いた伝えられ、伊達8家紋の一つとなっています」とガイド。
 偉大な先人とは、豊臣秀吉と瞬時に理解され、縁のある地と、尾張名古屋から遠い、奥州仙臺に嫁がせる不安が消えたの表情でした。

 「なぜ」と感じ問ことは 大切な事です。この様な質問は勉強になります。今日 多発しました。即答出来なかったもののみ。

その1.竹に雀の家紋は、なぜ 伊達家の家紋になったのか。
 伊達8家紋の経緯を説明終わった途端 なぜ と問われると ドギッとします。取りこぼし無く説明した筈なのに なぜ と帰ってきたのでしょうか。
 決定した当時の伊達家の当主は どんな考えがあったのでしょうか。経済効果・名誉等 商標の様に考えてはいない筈ですが、なぜ には 詰まりました。

その2.涅槃門の下部は黒に金と 簡素です。目線から外れる 上部は極彩色 精細な彫刻で、下部と対照的です。なぜ この様に作ったのか。対将軍家対応か?その意図を説明して頂ければと申されても。これも詰まりました。

その3.涅槃門の白檀 拝殿扁額の珊瑚と真珠 本殿の顔料等 必ずしも適材と云われない高価な材料を使用した。無駄遣いではないか。 伊達家の意図は?
 政宗公 晩年の時代。幕府から借金をしています。財政上の一時借用なのか、その理由は確かめていません 何れ 財政的に余裕があったか疑問です。その時 之は、必要以上の無駄では無いかと問われれば その通りです。これも詰まりました。
 
その4.忘れました。 



10 月 7 日 (日)  



 爽やかです。金木犀が満咲 全山に薫っています。
 「なんの香りでしょう」 「金木犀ですよネ。木はどこにあるのかしら」等のお尋ねが連続しました。

 表示板、狩野安信描く「政宗公」肖像画に対する疑問が連発してありました。
 「ダテ男と云われた世界最初の人は、政宗公です。上でご対面しましょう」とガイドを続けました。本殿前での説明で納得・満足を皆様にして頂きました。

 「政宗公御生母保春院の墓所は、何れにあるか」のお尋ねがありました。この方「義姫」と云い「保春院」とは決して申しません。
 ハテナと問いましたら、この春から義姫の兄の最上義光公居城霞城でボラガイドの勉強中で、夫妻で仙台に勉強にお出でになったとの事。

「義姫の墓所は何処あるのでしょうか」に、
 遠山覚範寺(北山1-12-7)に埋葬され 墓碑があり、
 通寶山永昌寺(新坂町18-1)に灰塚があり、
 少林山保春院(保春院前丁50)が菩提寺としてあります。
と地図を広げ説明しました。三寺に関わる関係をご理解頂けたでしょうか。車との事。その後各寺に向かわれたでしょう。

 髪を後ろに束ね、白髭の一見野武士風のご老体がつかつかと寄って来て「チトお尋ね申す。殉死者矢目伊兵衛常重の末裔の1人である。本家は白石で、我は分家で仙台に住んでいる。常重の詳しい事を調べたいがどうしたら良いか ご教授願いたい」

 「さすれば、宮城県図書館郷土資料室に仙臺人名辞典があります。紐解いて下さい。殉死者矢目伊兵衛常重殿は記載されています。一発即答です。ここ瑞鳳殿の図書室にも仙臺人名辞典があります。お尋ねなりましたか」
 「イヤー」「それでは 参れましょう」 「ハイこれです」「コピー欲しいですが」事務の○木主任がコピーしてくれました。「かたづけない」と喜んでいました。

 矢目伊兵衛常重の末裔は、後裔会会員と思いますが、本家のみ会員なのでしょうか。
 あかとんぼは、之で 石田殿 入生田殿 矢目殿 の末裔とお会いしました。Uさんも 末裔の方とお会いしたと云っていました。15+5の20人の内何人の末裔の方と 我々ボラガイドがお会いしているのか。確認しましょう。





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