2007年11月の日誌
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11 月 27 日 (火)  



20日 日誌補足

 加賀 前田利家の葬儀

 加賀での家祖 前田利家は、1599年閏3月3日朝方 大阪城内前田屋敷で亡くなりました。
 4日朝 長持 に入れられ 大阪を出発 6日金沢に到着し 8日葬儀が行われました。

 戒名は、高コ院殿桃雲淨見大居士 で、墓所の管理のため高コ山桃雲寺が墓所のある野田山山麓に創建されました。 菩提寺は、護國山寶圓寺です。

 この野田山の墓所は、50年後荒廃し、百姓は牛馬を放育し、物見遊山の不埒なものがいると1640年6月 4代光高(ミチタカ)が取締怠慢を激怒したとの記録があります。

 前田家では、50回忌法要より +50年ごと 金沢・寶圓寺と江戸・江コ寺で公式行事として法要が催され、1848年3月250回忌法要が記録されています。
 1998年4月 金沢市尾山神社(祭神前田利家) で400年祭が催されました。

 前田家の家紋は、梅鉢(うめばち)です。これは始祖が菅原道真である事に由来するもので、金沢市の市章は、前田家の梅鉢からとった梅の花の形の中に、金沢を意味する「金」の文字を書き入れたものです。
 とかく 仙台は政宗公 金沢は利家公 と 今でも その余徳に頼っていることは、大大名の所以でしょうか。 

 以上から 伊達政宗公と比較するに、政宗公は棺桶 利家公は長持。なぜ 棺桶を使用しなかったかの理由は解明出来ていません。
 政宗公の場合は、正宗山瑞鳳寺が 利家公は高コ山桃雲寺が創建されました。菩提寺は、松島青龍山瑞厳圓福禅寺に、護國山寶圓寺です。神社は、青葉神社に、尾山神社が創建されました。これは、共通しています。

 伊達家も前田家も、神道に改宗しましたが、瑞鳳殿には鳥居はありません。前田家墳墓には鳥居が立っています。その理由は解明出来ていません。

 なお、兄利久、2代利長夫人永姫(信長4女)の墳墓が、利家夫妻より 一段高い位置にありました。その理由は、兄と主君に敬意を評したものとの解説がありました。納得。



11 月 25 日 (日)  



 小春日和です。三連休最終日 大波小波の如く参拝に見えました。

 朝一番、九州宮崎から車でお出でになったご夫妻。「どちらから」 「宮崎から」 「アッ あの宮崎ですか 雲にそびゆる高千穂の・・・天孫光臨の 遠い所から ようこそ」 「知事の名前は有名ですが 神話の故郷と ご存じとは・・・」 急がれないとの事で、妙雲廟界までガイドしました。

 あかとんぼ 国民学校一年生日本史の時間 日本はイザナキノミコトとイザナミノミコトの2神によって造られたと、女先生は バケツで雑巾を濡らし 「この様に滴で日本の国土が出来た」と実演しました。
 雑巾の滴から国土が造られたのでは無いとわかったのは、「古事記」「日本書紀」を読めるようになってからです。
 三つ子の魂百迄です それまでジイート信じていました。初等教育は大切にです。ガイドも、内容は正確に を目標にしています。

 盛年三女性 「静岡から来ました」 「アッ 遠州森の石松ですか」 今日は脳内パソコン狂っているようで 静岡は清水湊 治郎長と連想 「イヤ 久能山東照宮です 遠州は遠いです」  遠州は遠いです の見事な切り返しにはマイッタです。石松は遠江の国森町村の生まれ 清水湊は駿河の国 その間80kありました。
 
 久能山東照宮は家康公 ここは政宗公のお墓。基本は同じ。 漆塗装は久能山を施行したと同じ 日光の業者が施行しました。皆様は三保の松原 天女伝説の本場の天女さんですが ここの天女さんも美人です。等のガイド。美人天女さん競演の撮影と促しましたが 携帯電話のみ 携電のカメラで配布出来る様な撮影出来ましたかな。

 「仙台城址で○藤さんから 紹介されました」と大阪等からの二組のご夫妻。なかなか賑やかな方です。本殿裏側まで見学されました。最後に あかとんぼ さんありがとう と手拍子の拍手を頂きました。照れます。
 ○藤さんは同じ仲間で 現在 仙台城址で研修中の方 そろそろ 瑞鳳殿にデビューされては如何ですか。

 紅葉の撮影会 参加者多数です。とても良い構図で撮影されているご夫妻。お住いが瑞鳳殿の麓との事。ご夫人は時間に余裕あるとの事。ご一緒にガイドしましょうとお誘いしました。本頁ご覧なり OKの返事あると期待しています。

 あかとんぼ 撮影していたらYさん お嬢さん二人 モデルに連れて来てくれました。さて 入選する写真撮影出来たでしょうか。



11 月 24 日 (土)  



 昨日までの冬景色は夢の如し。温暖快晴です。
 三連休の中日 参拝者が津波の如く押し寄せました。津波ですから引き潮も見事、12時になったらパタリと途切れました。

 涅槃門からガイドしました千葉都民の若夫婦。愛姫は瑞厳寺境内に祀られていますに、昨日松島を電車で訪れ、円通院は参拝したが寒くて瑞厳寺・五大堂・観覧亭、当然陽徳院も参拝・見学しないで帰ってきてしまった、残念な事したと後悔しきり。 またお出でください。

 NHK大河ドラマ風林火山で 「上杉家の家紋が竹に雀で 阿吽になっていた。 何故伊達家の家紋にもあるの」と問われる方。 
 伊達家の竹に雀は1542年17世稙宗が上杉定実から贈られたものです。竹に雀の家紋は、勧修寺笹に始まり、上杉笹、米沢笹と変化しています。 宇和島笹も仙台笹に似ていますが 同一ではありません。と手持ち資料を広げガイドしました。
 よくぞ細かい所まで観ていられます。NHKさん 泣いて喜んでいるでしょう。

 昨日から 瑞鳳殿紅葉撮影会が始まりました。
 参道登り口で、杉並木の先 券売所頭上のモミジに光が当たり 輝いていまして、数人の若い人々 一眼レフでパチリパチリ。「上で撮影した時 あまり綺麗でなかった。本当に綺麗になるのか。昨年入賞した人 どんな写真撮ったのだろう」の話し声が聞こえました。 「ハイ 私が昨年と連続入賞しています。これです」と昨年・一昨年の作品をお見せしました。
 「ワー 凄い」の歓声。イイ気分です。茨城からお出でになったそうです。



11 月 23 日 (金)  



 昨日の積雪は溶けましたが、寒気厳しいです。
 仙臺城祉のボラガイドの先輩が「仙台城址のガイドと云っても 語れるものはない。仙台の町は情緒が足りない」の発言が「水の文化史研究会」の例会でありました。

 この先輩 瑞鳳殿を主体とする我々の活動をご存じ無い様子。いささか心外でした。

 なお、あかとんぼ は「ボラガイの大会で金沢市を訪れ 町中を流れる用水をボラガイドの案内で半日要して歩いて来た。開渠で 両脇に散策路を設け 小公園まであった。情緒のある風情で 一般観光客は 喜々として散策していた。 〔一度は暗渠になり、開渠にすることに反対もあった。しかし 施政者の英断で実行され 市民・観光客から好評である〕の解説がガイドからありました。
 四ッ谷用水は工業用水になって暗渠なっていますが 一部でも開渠化、モデル水流をつくれば 仙台の町に 潤い 情緒がもたらされるのでは 英断する施政者は現れないでしょうか」 と発言し、参加者一同から賛同の拍手を頂きました。 



11 月 22 日 (木)  



 本日は、全国観光ボラティアガイド全国大会2日目で、駅前ホテルの大ホールで昨日の9分科会の総括がありました。

 あかとんぼ が参加した「国等指定の保存地区の案内」の分科会の報告、座長は発言内容と異なる自論を報告しました。でも 異議を唱えませんでした。

 他の分科会「観光スポットが生活の場で」「文芸・伝統工芸中心で」「外国人を」等の報告は参考になりました。特に「視覚障害者の案内について」の報告は 大変参考になりました。

 閉会式を待たずに、18日に瑞鳳殿を参拝されたハワイ大学教授の話「文禄の役の戦争孤児で、前田家臣が日本に同行し、育て娘と結婚させた」を確認に訪れました。

 玉泉園がその由来の地でした。玉泉園は2,370u 兼六園の樹木を借景し、崖地を利用した上下2段の池泉回遊式庭園で 作者は前田家家臣 大小将頭 知行1500石 脇田直賢 がその人でした。
 「朝鮮漢城(現ソウル)の生まれで、7歳の時 孤児となり宇喜多秀家が岡山に連れ帰り、関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家と共に、八丈島に流刑になるも 宇喜多秀家夫人(利家4女豪姫)に伴われ 金澤城に入り 二代夫人玉泉院に育てられました。 長じて 二代利長の近侍となり 帰化し 脇田重俊の娘婿になりました」がその経歴でした。

 瑞鳳殿でのガイドの縁で ハワイ大学教授から日本史の一端を教えて頂きました。
 金沢市滞在3日間 連日豪雨で行動が鈍く成り、観光の定番コースの金澤城・兼六園にも訪れる事なく、金沢のボラガイド250人の活動に驚嘆し 今回の設営に感謝しながら帰仙しました。
 



11 月 21 日 (水)  



 金沢市内を流れる町中用水路を午前、午後は伝統的建造物保存群を 地元ボランティアガイド「まいどさん」のガイドで視察しました。

 「せせらぎの用水をめぐり今昔・金澤の町並みを楽しむ」なるタイトル。2本の用水路を見学しました。全て開渠で滔々と流れていて、左右には散策路・小公園が設けられていました。鯉等の魚はいませんでした。
 ボラガイドは 資料ファイルを分冊にし 要所で広げ提示しガイドしていました。途中 武士の屋敷、足軽屋敷、重臣の記念館など 観光施設が散在しており 一般観光客は、用水を楽しみながら観光していました。

 我々は、用水を辿る事で3時間要し、有料の観光施設はご自分で時間の許すかぎりドウゾと解散になりました。本気で見学するには1日掛かりです。
 その様な人のため、トイレ完備の休憩所があり ガイド「まいどさん」が常時3人が待機しているとの事でした。

 午後は 国指定重要伝統的建造物群保存地区の「東茶屋」と全長2.6km21社寺を巡る「心の道」コースです。
 所謂 旦那衆の夜の会合場所であった料亭街 色町であった郭 そして赤線地区であった所 これらの町並み 外観のみならず建物そのものが現存していました。現在は観光名所で性別・年齢関係なく訪れる故に、相手をみて説明内容に配慮しなければならなく、ボラガイドの難しい所と洩らしていました。

 郭地区の手前の 商家街に ガイド「まいどさん」待機している休憩所がありました。市内 要所に設置しているとの事でした。 

 全長2.6kmの幅2m満たない 蛇の様に曲がりくねった小道「心の道」 21寺に寄れば1日掛かりとか、素通りして 心蓮社なるお寺で分科会が開かれました。寺宝は 平安後期作の阿弥陀三尊像で後水尾天皇から下賜されたものだそうで、お詣りし撮影させて頂きました。  



11 月 20 日 (火)  



 加賀102万石 前田家墓所を詣って来ました。

 金澤城南西部 野田山山頂(標高175m)に所在する前田家墓所。家祖前田利家夫妻、兄利久を始とする歴代当主夫妻が墓所あり、下った位置が家臣の墓所でした。

 急傾斜の坂道と200段近い階段を登った森の中で、底辺10m四方 高さ5m位の土饅頭・古墳型で、その外周1辺30m四方に、高さ2.5m位の透かし柵を巡らし 柵から5m位の位置に鳥居があり 利家の墓所には石灯籠が 他の方の前に 石標がありました。

 お墓土饅頭には、直径1m位の大木の根痕が幾つも見られました。いつかの時代には、お墓自体が森になっていたのでしょう。植えたものでしょうか。自然木だったでしょうか。

 伊達家の墓所は 豪華絢爛な廟や巨大な墓石です。あかとんぼ が之までお詣りした 奥州の大名 佐竹・上杉・津軽・最上・戸澤・酒井(鶴岡)・松平(会津若松)は、何れも廟か墓石でした。

 漆・蒔絵・金箔等の華やかな工芸が伝統の金澤です。また 大大名のトップですから伊達家以上に 豪華絢爛な廟所であろうと期待してお詣りしましたが、期待は外れました。

 前田家墓所は約8ヘクタールと広大で、昭和年間に改葬を含め80基あり、東京在住の前田家 の協力を得て 国指定史跡を目指しているそうです。
 
 下った位置が家臣の墓所、ここには「無縁墓所である 有縁者は届けられたい」旨の札がほぼ全墓石に架けられていました。豪雨 鬱蒼たる森に白い札の点在は140年の時の流れ 世の無情を痛感させる風景でした。

 豪雨で流水が激しく 落ち葉が積もって 足場が極めて悪く 家祖前田利家夫妻ほか数基のみの参拝に終わりました。 



11 月 18 日 (日)  



 昨日は、初霜・初氷を記録し、今朝も寒気厳しく感じました。
 参拝者は少ないだろうの予想は 外れました。続々とお出で頂きました。

 拝殿でガイドの準備をしていたら「頼む」のお声。「時間はタップリあります。一日かけても」 時間ありますと申す割にガイド始まると時間が無くなる方 それなりにいますが この方の言 本当でした。9時から12時まで 資料館見学時間を除き、御子様御廟まで 丹念にまわられました。

 静岡育ちで、現在 名古屋在住との事。日本の天女さんのフルサト「三保の松原天女伝説」 名古屋は秀吉公生誕の地 ゆかりの桃山様式の建築 これで相性が良かったのでしょうか。

 「今日が誕生日で還暦です。有名人は歌手の森進一です」と渋い声で自己紹介がありました。再度 瑞鳳殿に戻られ 参拝し、参拝に見えた方々に天女さんをガイドされていました。

 5月24日政宗公の命日で法要を、藩志会一同の参拝の様子の写真で紹介しましたら、是非 参列したいとメモされました。来春の再会を期待しております。


 「臥龍梅 原木から根分けしたのか」のご質問がありました。「西公園・片平市民センター等に 臥龍梅と称する梅の木があります。実から育てたと聞いています」「そうだろうな。ところで この文禄の役とは 秀吉の命での渡海のことか。各地に、関連した話しがある。金沢・兼六園の傍に屋敷があり、その主の先祖は、文禄の役の戦争孤児で、前田家臣が日本に同行し、育て娘と結婚させ 現在に至ります」  「ハアー 来週 ボラガイド全国大会が金沢で開催されます。拝見してきましょう」 

 同行の方「この方 ハワイ大学の教授です。今回 仙台市内の政宗関係史跡を丹念に廻っています」  再度「ハアー」です。 なるほど 古城(フルシロ)とは刑務所と お解りの訳です。ガイドをしていると 世界の人々から色々と話しが聞けます。


 「あかとんぼさん 手紙が来ています」○木主任から封書を渡されました。
 「仙台観光で、じっくり説明をして頂いた瑞鳳殿が一番印象に残り 家族に覚えている限り伝えました。仙台が身近に感じており またうかがいます」のお手紙に、写真2葉と紀貫之等5人の和歌入りの珍しい記念切手が同封されていました。

 之まで、モデル又はご一緒に撮影された事ありますが 写真はもとより 礼状に有価証券まで 頂いたのは 初めてです。感動です。

 お礼状と思いましたが、住所の記載ありません。本頁で御礼申しあげます。
 千葉県村山様 ご厚意有難うございました。新緑の季節も素晴らしいです。仙台にまたのお越しをお待ち致しております。



11 月 16 日 (金)  



 貞山様殉死子共調等の事
 安政四年五月 貞山様殉死之者之跡 嫡子・次男・三男・弟等在之輩取調指出候様御内々被仰出候由、二四日ニ右之輩御廟参仕、御香典六十七文ツツ献納御寺ヘ相出候様

 以上は、東北大学図書館所蔵「源貞氏耳袋」に記載されています。

 不思議ながら解明出来ないことは、
1.安政四年とは、1857年13代慶邦(ヨシクニ)公の時代 尊皇攘夷・下田条約 騒然とした世相の中 没221年後の此の時に なぜ 殉死の末裔の現状を調べたのか。

2.末裔何人か不明なれど なぜ急ぎ香典を持参しお詣りしたのか。
3.六十七文ツツとは、当時の経済・物価からして どれだけの金額なのか。

 瑞鳳寺の焼失は、1858年ですから 香典に火事見舞の意はない。なお、1896年に再度焼失しています。



11 月 13 日 (火)  



 瑞厳寺 お詣りしてきました。

 NPOアイサポート仙台(中途視覚障害者の生きがい・生活意欲向上を目指す団体)の皆様20余人と 瑞厳寺を主体に参拝・見学して詣りました。

 瑞厳寺の名称は「松島青龍山瑞厳圓福禅寺(ショウトウセイリュウザンズイガンエンブクゼンジ)。政宗公の戒名は「瑞厳寺殿貞山禅利大居士」です から つい語り始めました。 

 病気する前 瑞厳寺門前を2日1回は通っていたが 参拝したのは今日が初めて。正室愛姫の陽得院・廟「寶華殿」 娘五郎八姫の瑞雲峰天麟院・「定照殿」 孫光宗の圓通院・廟「三慧殿」があったとは知らなかったとの感想がありました。。

 お土産品の「紅連」の由来に、景勝地 松島と象潟との関係、夫婦・親子愛の物語があったとは知らなかった、感動したと、大半の方々が 沢山 買い求めていました。

 11日 山形の鰻は、笹谷峠を越えた松島産であったと聞きました。瑞厳寺で鰻塚をガイドしました。この縁で昼食は「鰻丼」を食べました。今も 鰻 獲れて要るでしょうか。

 「視覚に障害を生ずる前に これ程の分かり易いガイドで参拝・見学したかった」のひと言にはジンーと来ました。
 視覚に障害のある方々にガイド仕方の勉強で参加しました。終わって反省・収穫が数々ありました。
 パソコンを楽しんでいる方もいました。皆様前向きです。早速のアドバスを頂きました。感謝です。またお逢いしましょう。



11 月 12 日 (月)  



 今月4日の日誌に「宿泊したホテルのレストランのペイパークロスの変なマークは伊達家の家紋でした」旨 記載しました。グループの勉強会がこのホテルで開催されました。フロントと飲食部門に確かめましたが、伊達家の家紋入りのペイパークロスは使用されていませんでした。サテサテ ホテル違いでしょうか。

 今年5月に伊達家家紋について4回(16日20日25日30日)記載しました。この日付と根拠資料を訊ねられていた読者とお会いしましたので、「伊達家史叢書」「市博物館学芸員講話資料」等による旨 伝えました。
 家紋に、拘られる方が多いです。参考になりお役立てば嬉しい限りです。

 感仙殿前に連立する石灯籠76本の奉納年月・奉納者名記載の書類をN先輩から頂きました。有り難い。
 瑞鳳殿前の石灯籠については、1919年調査資料と現在存置と対比資料を既にまとめ、ガイドの際に活用していました。
 感仙殿前は本数が多く躊躇していましたが、今回の資料で、分析、現存と之対比調査をする、その成果でガイドする楽しみを持ちました。

 脇差・鎬(しのき)藤四郎吉光について、10月30日日誌に記載しました。本日の参加者の大半はPCを使用していない様子、又日誌を読んでくださる方と限らないことから、司会から指名があり、その概要を報告しました。咄嗟で 十分理解してくれたでしょうか。



11 月 11 日 (日)  



 本日は瑞鳳殿をガイドを休みました。

 政宗公の伯父 最上義光(ヨシアキ)公の墓を山形市光禅寺にて詣ってまりました。
 石組2段に約3m四方の真中に、約1.5m高の五輪塔でした。前には殉死4人の墓、横には2代、3代の自然石の墓の構成でした。墓石には、縦二引両の家紋が印されていました。

 今回は、「四ッ谷用水市民の会」(政宗公が城下えの給水目的で造った四ッ谷用水を歴史遺産として復元するを目的の会)の一役員として、1624年領主鳥居左京之守忠政(24万石)が造った用水路「五堰」が保存され、小学校教育から市民生活までに、利活用されている現況確認に訪れました。、古来のまま素堀で流れている堰として、光禅寺境内を流れる五堰の一つの笹堰を訪れました。
 最上義光公の菩提寺でお墓の所在を知って無視できず、瞬時 一行の列を離れ詣って来ました。
 今回は、目的が異なる集団での視察でしたので時間不足でした。日を改め、鳥居忠政の墓所 長源寺と 共にを詣りたいものです。



11 月 9 日 (金)  



 羽柴姓

 政宗公は、羽柴の姓を名乗っています。正確な年月は いつなのか お尋ねありました。漸う確認しました。

 1591(天正19)年2月です。この月 侍従越前守に任じられ、羽柴の姓を許されています。

 なお、この月9日 秀吉は木村吉清の封を納め 政宗公に与えています。即ち 黒川・宮城・名取・柴田・伊具・亘理・宇田・志田郡松山・桃生郡深谷地等の地に、葛西・大崎12郡が加わりました。

 本稿は、重訂宮城県郷土史年表 菊地勝之助著 1966年5月法文堂 刊行によります。



11 月 8 日 (木)  



地名「伊達」の起源
 
伊達家の始祖は朝宗。常陸國真壁郡伊佐庄中村の人で、伊佐 又は中村と称していました。源頼朝1189年奥州侵攻の際の功績で、伊達・信夫の両郡と幕紋(三引両)を賜り、以来、伊達と称しました。
9月16日のガイドの際、参拝者はこのことは既に了知していて、涅槃門の菊紋をみて「更に遡れば、藤原鎌足に至ると言われており、それは、天皇家に至り、万世一系 天照大神に辿り着くのでは、伊達家の家紋に菊紋があるのは」一瞬 そうかとなりますが、菊紋は皇室から直接賜ってはいません。チョンにしました。
 
さて、伊達郡の地名の起原は?
「伊達郡誌」(1923発行)によれば、「伊達は射楯(イタテ)・印達(イタチ)・伊太氏(イタテ)・因達(イタチ)とも書きて、素盞鳴尊(スサノオミコト)の御子 五十猛神(イソタケル)の御名より転訛したる事明白なり、その原地は播磨国飾磨郡印達郷(兵庫県姫路市城東町付近)なることうたがいを入るべからず」とあり、以来 定説となっている」とあります。

 では、播磨国飾磨郡印達郷との関係は。どの様に転移したのかは定かではありません。
 飾磨(シカマ)と色麻(シカマ)と同言なる故に、陸奥國色麻郡(現・加美郡)を調べましたら、色麻町四竈字香取の前方後円墳の頂に鎮座している伊達(イダテ)神社がありました。792年坂上田村麿呂が東進した際、播磨国飾磨(シカマ)郡の氏子が移住し、郷里の神を遷宮したと伝えられている。

伊達郡の地名の由来も、この四竈の伊達(イダテ)神社の由来と同じのではないか探しました。伊達郡の伊達(イダテ)神社は、所在するか。ありました。伊達市保原町大字桂田字宮ノ内25に所在しました。この神社は、延喜式神名帳(作成年不詳ながら最古の調査記録)に記載されているか確認に至りません。
之が、播磨国飾磨(シカマ)郡の氏子が移住し、郷里の神を遷宮したものであるの 確証を見いだせません。
よって 「伊達郡誌」の定説は 正しいの確信に至りません。

平凡社刊 日本歴史地名大系 角川日本地名辞典 双方の福島県を調べましたか 明確な答えがありませんでした。

注 五十猛神(イソタケル)は天照大神の甥です。



11 月 7 日 (水)  



 午後 瑞鳳殿と仙臺城址を ご依頼でガイドしました。
 お客様は、ある業界の社長会の皆様で 通常の質問はありませんでした。

 サスガと感心したことは、東参道を数えて頂きました。途中で 杉の樹齢 不規則な石段等をガイドしました。話しを聞きながら数える 二つの動作を一緒にして頂きました。他の団体では 数え切れない人がいますが 全員62段と正解でした。

 特異な質問として、「伊達家は戊辰の役では どんな態度を取ったのか」がありました。企業の最高責任者が全国から集まると 戊辰の役て戦場になったまでは 理解されていても、詳細は知らないのか。はたまた、知っていて質問されたのか。
 弔魂碑の前で、「弔魂碑建立の経緯」と、護国神社に祀られず、当時の遺児等が苦労した事、末裔が参拝に見える事を説明しました。
 西討戦没之碑 鹿児島七士の墓 護国神社とそれそれでガイトしました。結果として 知っていて質問された と確信しました。関係者の末裔でしたしょうか。

 創建時の瑞鳳殿の工事費は約30萬両。文山の扁額の褒美500両、瑞鳳殿の再建時の工事費8億円(オイルショク前)とガイドしたところ、業務柄 その価値を計算し理解された様子でした。サスガです。

 今回 依頼の窓口は日本有数の旅行会社です。バスは定期観光を催行している会社で、若作りのガイド嬢が添乗していました。プロの前で素人喉自慢を披露する心境でガイドしました。
 旅行会社員からは、「非常に勉強になりました」と云われ プロにないアマの味を理解されたと ホットし恐縮しました。



11 月 4 日 (日)  



 9時開門と同時に真面目公務員風参拝者。有り難い。
 「ガイドしましょう」の隙を与えずスタスタと涅槃門を潜る。9分後 スタスタと降りて行きました。
 この方の参拝時間は短いだろうと瞬間に予測しましたが。ズバリ的中。
 バス停から7分、拝観料550円、滞在9分間。桃山様式の建築美を楽しまないで、時間と経費の無駄使いとみえましたが。
 目的は、政宗公に祈るにあったのでしょうか。もっと長時間を祈られたら。


 東京・埼玉・千葉・福島に、台湾から参拝者が続々 みえました。

 こんな話題提供がありました。
 「仙台市内のホテルに宿泊しました。レストランのペイパークロスに変なマークが記されていました。夫と何かと語りました。今 わかりました。伊達家の家紋でした。仙台は、伊達家の影響が凄いですね」
 





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