2007年12月の日誌
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12 月 23 日 (日)  



 天皇陛下74歳の誕生日。国民の祝日。

 冷たい雨です。参拝者は、断続的で、傘を持たない人もおり、本殿で拝礼さえしないで、一視し降りて行きます。ガイド出来る環境ではありません。一時間で終了しました。

 若い男性二人 涅槃門から 満海上人墓碑迄 丁寧に拝見 撮影しています。外国語です。「タイワン?」に「ホンコン」と返ってきました。
 拝殿の扁額 「珊瑚と真珠」が用いられているを伝えられませんでした。お互いに自国語のみです。文字を見せれば理解されたか。工夫の余地あります。
 英文パンフとボイスガイド(中国語)で、政宗公のお墓と理解した様子。〔先人に敬意を表する〕 本殿前で拝礼していました。

 拝礼は、お賽銭とイコールでは無いと思います。お賽銭を出さなくとも拝礼は出来ると思います。日本人は、お賽銭出さないと拝礼出来ないものと理解しているので、お賽銭出したくないから 拝礼しない方が多いのでしょうか。


 秋の撮影会 出展作品掲示されています。あかとんぼ の作品もあります。出展者 常連が数いました。



12 月 18 日 (火)  



 弔魂碑 16日の続き

 弔魂碑は、鉄柵に囲まれ、その内側に鉄製の弔魂の碑と戊辰の役の際 幕府軍が使用した大砲が ありました。

 大砲の由来は、榎本武揚等の幕府海軍が 江戸品川湾から函館に移動途中、牡鹿郡萩ノ浜に寄港した際、海中に投棄したもの。
 
 大砲の仕様は、阿蘭陀(オランダ)製、砲長四尺七寸 内口径六寸三分 外口径回り三尺 砲太き分回り四尺。砲身上部にno1388  砲控手にno7 1829と刻がある。

 本詳細は、伊達家史叢談 巻之十二 789〜790頁に 廟守石田常直曰くとして、記事と大砲の図が掲載されています。

 弔魂碑と大砲に鉄柵と 全てが写った写真が、仙台叢書第12巻記載 全10巻 戊辰始末の巻頭に「明治戊辰之役弔魂碑 仙臺市霊屋下丁伊達家祖廟瑞鳳殿前建置」と記載し 掲載されています。

 以上は、(財)瑞鳳殿W学芸員からの資料提供と助言に寄りました。

 ○○氏からの 次の情報が寄せられています。
1.鉄柵は1935年の写真に記載が無く、それ以前に撤去されている。
2.「伊達政宗と戊辰戦争」平 重道著 に 鉄柵つきの弔魂碑の写真が記載されている。
3.「風の詩」仙臺の歴史を語る季刊誌編集部に、弔魂碑の絵葉書は保有していなかった。

 2について未確認です。戊辰始末全10巻写真と同一が推定されます。



12 月 16 日 (日)  



 起床と同時、モサモサと雪降り。雪タイヤながらソロソロ走行。9時10分到着。券売窓口嬢から「ボラガイド居ませんかと、お客さんからリクエストありました」と伝言。別件 約束があり、「何歳位の方ですか」と確認しましたら、「男の方の年齢は、ドーモ」の返事。「私も 女性の年齢 見当つかなく なんと お呼びしてよいか 迷います」に、 「あかとんぼ さん オバサンと決して言わないでしょう。なら大丈夫」と返ってきました。オバサンは 絶対禁句。

 表示板前に、綺麗なご婦人と若い男性 何れも欧米系。話しかけたら あかとんぼ の日本語を綺麗なご婦人が理解してくれました。その儘、本殿までガイドしました。ガイドしていて、その反応から 日本文化の造詣 ただならぬを感じ。「いずこの國の方で、専門は?東北大学の?」とお尋ねしたら 「ロシアです。日本文化専攻で、ノボシビルスク大学から 東北大学の客員教授に来ています。彼は私の教え子です」 

 寶筺印塔の説明し、彼の年齢を尋ねたら「21歳」 殉死者の最若年者が数えの22歳 現在の年齢表示では20歳と何ケ月です。彼と同年齢です。教授から 殉死、切腹、同年齢と聞かされ 驚愕していました。日本の若い者でさえ理解できない世界の話し。この異文化を教授は、どの様に説明したのでしょうか。

 最後 名刺交換しました。「ロシア語読めますか」。ノボシビルスク大学の東洋文化部門の頭と理解しました。


 9日弔魂碑についての○○氏が、その後の調査経過を持参され、質疑交換をしました。本件についてW学芸員からの貴重な資料の提供を頂きました。
 併せ 整理の上 日を改めて ご報告致します。お待ちください。



12 月 15 日 (土)  



 瑞鳳殿に参拝の後、ついでに、夕食を牛タン定食。そして、仙台の冬の風物詩の「光のページェント」を楽しむ、○○電器一行90人をガイドしました。
 到着直前、小豆くらいの雹(ヒョウ)がバラバラと降り、地面が真っ白になりました。地面は濡れていましたが、65型TVの液晶を作られている方々で、若さと熱気があり、迅速な移動で、添乗員は、「バス下車から乗車迄、50分で三殿全てをガイドして欲しい」との事で、4組、東と西の参道を登り、途中 交差し、ご要望の通りガイドしました。

 要点は、完全にガイドしました。短時間ガイドで心配しましたが、ご満足された様です。その証に、「一緒に写真撮りましょう」となり、「(財)瑞鳳殿に送ります」と言いつつ乗車しました。

 今回、日帰り旅行で、解散場所 到着が23時30分との事。マイカーで自宅に到着した時は、日付が変わっています。かく寸暇を惜しみ 瑞鳳殿を参拝にお出でくださるとは有り難いことです。 



12 月 11 日 (火)  



 9日日誌〔弔魂碑〕続き

 「建立時の一件書類の保存先を存じ無いか」と○○氏が来訪され、その際、戊辰についての調べている小夜氏に照会を約ました。小夜氏から、ご多用の中 早速の回答があり、〔目にしたことありません〕でした。
 ○○氏から頂いた資料を精読するに、氏は、「ダメもと確認」に訪れた様です。

 弔魂碑の周囲に鉄柵が存在した痕跡があります、しかし、現在はありません。灯籠は、お供え餅型1基 蝋燭型1基が離れて存置しています。灯籠は@同型2基で一対が通常である、A碑からの位置も お供え餅型があって、蝋燭型の配置になるが通常である。と考えるが この2点が 理解できないでいます。

 ○○氏に、建立当時 又は、戦災焼失以前の写真・絵葉書又は配置図があれば、疑問は氷解しますが、如何と尋ねましたが 所持していないとの事でした。

 鉄柵は、推測のとおりありました。無くなったのは、1945年当時の金属回収の時と推測します。
 ○○氏資料によれば、碑文は大槻文彦 碑は武州川口・鍋屋某の作、有志拠金で鉄柵を造ったとあります。

  ○○氏は、1917年10月の50年弔祭以降、祭事は途絶えている。碑も荒れている。行政も地元紙も冷たいと悲憤慷慨されていました。確かに、函館市は「郷土函館の基を築いた先人の遺徳を偲び、併せて戊辰・已巳の変に戦没した無名戦士の御魂の安らかん事を祈り」 として函館祭を盛大に挙行しています。

 06年末、伊達家34世18代当主と仙台市の間で、弔魂碑は土地と供に 仙台市に帰属すると確認されたそうです。市議会で質疑があったことからも、前進するでしょう。
 最近 錆が出て来ています。真後ろがトイレです。お詣りする人々は、トイレでご用中の人々に向かって祈る事になります。これらが、早い機会に改善されるでしょう。結構な事です。



12 月 9 日 (日)  



 日増しに寒気が強まっています故にか、参拝者の出足は遅くなり、開門早々の方は疎らです。お出でになった方々もオイソガシ氏が、数おり 券売所で「次のバスに乗りましょう」と決議されています。登りに8分要して、下りは早いとして7分 次のバスまでの間隔20分から差し引くと 見学の時間は僅か5分。之では病院の診察と同じではありませんか。
 遠方から多額の交通費と時間に、拝観料を支払って、5分は「勿体ない」です。これらの方々にガイドしません。と申すより、相手にされません。

 ガイド途中で割り込みの方おりました。先約の方のガイド終わって「先程は失礼しました。お尋ねはなんでしょう」・・・・・ここから長くなりました。妙雲廟界までご一緒しました。
 「川越の喜多院の配置は、この瑞鳳殿に似ており、附属の庭は、3代家光公の乳母の屋敷庭を移築した枯山水です。是非 川越にお出でください」と誘われました。 下記 参考を参照して下さい

 最後「夫に先立たれ、自分は乳ガンになる、大変な目に遭った。福祉を勉強し、介護施設に手伝いに行っている。昨日は親戚の結婚式で仙台に来た。まるっきり期待しないで瑞鳳殿に来たが、人生の転機になった。元気になった。川越にお出で。お爺さんも元気でね」と握手を求められました。初体験。

 二人とも、声が大きく 10m四方の人々は会話を全て聞き取れたでしょう。皆様とのガイドと同じ内容で、人生の転機になる様な事を話ししていませんが、でも、之程 喜ばれれば感激です。
 
 「是非 川越にお出でください」と再三勧誘されましたが、氏名も電話番号も教えてくれませんでした。

 寒く、人波も途切れ 帰ろうとしたら、「あかとんぼ さん 今日来ていますか 弔魂碑の件で、これから行きます。と電話入っています」とK副主任。それでは お茶を馳走に成り、待っていましたら、間もなく 見えられました。

 ご用件は、
 戊辰の役の犠牲者を、仙台以外の各地では追悼祭を実施している。しかるに仙台では、実施されない。市議会で市長に質問したら 市長は戊辰の役も弔魂碑の存在も知らなかったらしい。それから 弔魂碑建立の経緯、祭事歴等を調べ、関係者に色々訴えている所です。さて、HPの弔魂碑の記事以上の資料を所持していないか。また 建立時の一件書類の保存先を存じ無いか」でした。
 
 (財)瑞鳳殿の資料室に 建立時の一件書類 保存されていないか 尋ねましたら ○学芸員 調べてくれましたが 見当たりませんでした。戊辰についての調べている小夜氏に 照会を約ました。
 持参された資料は よくぞ調査されたと感嘆する資料です。ご無理に譲って頂きました。

 弔魂碑の前で、現存物の痕跡等から 建之時の配置・形状等ついて 見解を交換し、また ガイドをして居ての様子・交流を話ししました。

 あかとんぼ 不覚 名刺を忘れ持参しておらず、氏名・住所をメモして頂きました。○○氏は、生粋の仙台城下の生まれで、仙台空襲で移転、現在は あかとんぼ の近隣にお住いでした。

参考 川越 喜多院の庭等について 喜多院のHPより抜粋。

 寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。



12 月 4 日 (火)  



 ご先祖を詣る際の服装は。

 御供所(現 資料館)。涅槃門から3段1段の急石段を登った中間で、立ち止まり左手の建物を説明します。「御供所です。内部は畳敷き2間と板敷間がありまして、参詣の殿様が着替えしました。戦災で焼失し、外観は焼失前に復元し 現在は資料館です。三廟所の発掘調査の経過・結果がご覧なれます。ビデオは約30分です。お時間の許す範囲で ゆっくりご覧ください」。

 多くの方々は、「ソウカ」「そうか」で納得されます。
 先般 「何故着替えしなければならないの そのままで良いじゃない」のお声が、それなりの年齢・服装の女性からありました。

 この方、親の葬式も法事も、普段家事をしている時の服装で参列されるらしいです。TPOの無視です。あかとんぼ は羽織袴を親から譲られたが 着付けが出来ませんから 「長持の肥」で、黒服です。
 さて、殿様は、

 5代吉村公 1736年5月13日 江戸から仙台に下向途中 伊達家発祥の地 常陸國真壁郡伊佐庄中村の中村八幡宮と観音寺を参詣しています。再三 着替えをしています。

 午上刻(11時頃)中館観音寺に到着、六供の成就院にて、正装 染帷子と長袴に着替え、観音堂と延命院(七世行朝)霊廟を参拝。 その後 染帷子と麻の上下に着替え、午下刻(13時頃)駕篭で出発のため、羽織と野袴に着替えました。
 未刻(14時)頃 中村八幡宮に着。神主宅にて 正装 染帷子と長袴に着替え、参詣しました。

 これから類推するに、瑞鳳殿参拝には 正装 染帷子と長袴であり、着替えの場所が必要でありました事 ご理解頂けたでしょう。

 感仙殿と善應殿には 御供所が存在したを示す資料に接していません。類推するに、染帷子と麻の上下に着替えて参拝し 御供所に戻るか 瑞鳳寺にて、羽織と野袴に着替えた後 帰城したのでは。

 本稿は、伊達藩志会主催・伊達学起こし塾(11月17日開催)土生慶子講師配布資料によりました。原文は「獅山公冶家記録」との事。今日現在 県立図書館で未確認でいます。

 参考
  14日宇都宮明神社、15日境明神、17日桑折・満勝寺殿霊廟、19日竹駒神社を参詣しています。
 



12 月 2 日 (日)  



 12月になりました。参拝者は、続々と。
 参拝者に波があります。9時開門と同時にドッと押し寄せます。10時頃 一端波が治まります。続いて2波が、朝一番の列車・飛行機で到着したか、近郊の温泉に宿泊された方々、12時にはピタリと途絶えます。この周期は7年間春夏秋冬同じです。

 今朝、開門と同時の壮年男子10人。入場と同時に、消火ホース格納庫に駆けつけ開扉し、使用・格納状況を確認し、仲間間でブツブツ言っています。間もなく、ガイド依頼。「どちらから、おしごとは」と軽く確かめたら、「○○○○の消防関係。旅行先でいつも一番に見学・確かめる」の返事。断りなく確かめられる当事者は不快。事務所に報告したら 見学者移動後 異常ないか確認していました。当然。

 「殿様はどなた?」「サアー」。地名○○○○は合併で二つを並べた安易な名付けの結果。1人は鎌倉時代の名族の末裔22,000石 今一人は、讃岐一國を領した末裔8,000石でした。
 伊達家御一門で、同石高は、涌谷伊達氏22,640石 宮床伊達氏8,071石でした。伊達家は大名クラスの家臣団で構成されていた証明です。

 「朝 はやいですネ」「ここお詣りする為 経ケ峰内の温泉に宿泊しました」 ソレハソレハ。今朝まで徹底討論したか アルコール臭がありました。引火の心配ないでしょうか。携帯が鳴ったら 一同緊張 「出働命令か?」 本当? ソソクサと下段駐車場に向かいました。

 家紋 縦三引両を説明していたら、「我が家は横三引両です」「名門 旧家ですネ」 周囲 そうだソウダと からかい調子のかけ声。「三浦です」 「ハア 伊豆の三浦氏との関係は?」 「そんなのカンケイナイ」の返事はなく 黙して語らずでした。


 ふさふさの毛皮のコートを召された母娘に、思わず「北海道からお出でですか」「イヤ 横浜です」 仙台は北国・雪国と思われて毛皮のコートを着られたのか。
 今日 最盛の紅葉に 「三渓園でも これ程の紅葉はみられない。母方の姓は伊達 何らかの御縁あるこの地 最高の季節に訪れた」と満足された様子。ヨカッタ

 建築関係の仕事をされているそうで、涅槃門の柱「青森ヒバ」ですと解説したら、一発 その価値を理解してくれました。この様な方に会うと ガイドのしがいがあり嬉しくなります。





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