2008年1月の日誌
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1 月 29 日 (火)  



 通信手段

 1月20日愛知のお嬢さんから「政宗公が亡くなる前から造営工事がなされていたのではないですか」の質問がありました。亡くなった知らせ 連絡はどの様に行われたかの疑問が出て来ました。

 ある本を開いていたら 1701年2月4日江戸城内での刃傷事件の速報態勢が記されていました。事件発生時刻の確認ができていません。事件後 巳の下刻(午前11時)に、文書に記録され、即刻 江戸鉄砲洲の浅野家上屋敷を早駕篭で出発。赤穂まで605km 5日目18日午後10時到着しました。この 所要時間105時間です。時速5.76kmです。驚速です。
 現在の歩行速度は3km程度 帝国陸軍の行進は3.75km(1里1時間)と言われました。比較するに驚速です。しかも駕篭と駕篭かきは交替しても、乗務者は駕篭に乗り切り、休息なし。気力・体力に驚嘆するのみ。

 これを読んで、ハタ気になりました。政宗公が亡くなったのは、卯の刻(午前6時頃) 江戸桜田屋敷を出発したのは戌の刻(午後8時頃)です。この間14時間 何があったのか。将軍家報告、宇和島伊達家にお知らせ、納棺・・・・

 さて、国元に連絡はどの様になされたのか。上記の様な早駕篭なのか、早馬なのか。それは何日要したのか。いつ何時 仙臺城に到着したのかです。政宗公本人は396kmを七泊八日要しています。

 現在は、電話は一人1台時代です。メールもテレビもあります。ここまで考えずガイドしていました。

余録
 浅野家の早駕篭について、午後2時出発、19日午前5時到着 で距離も 620km説があります。



1 月 28 日 (月)  



 ガイド仲間の勉強会(座学)が開催されました。演題は「伊達氏領内地名とその由来」で、講師は宮城県地名研究会長でした。演題と講師の肩書きから、その内容を期待して、最高の参加数でした。
 期待は、裏切られました。講師都合とかで演題・内容は異なるものでした。

 あかとんぼ としては、伊達氏領内とは、始祖まで遡る領内は無理として、1600年政宗公以来の領内の地名と由来を教えて貰えるのか 期待して参加しました。そして、07年11月08日の日誌に記載した《地名「伊達」の起源》の私見について、所見・見解を確認したかったのです。できませんでした。残念でした。

 H代表から、「そんなに残念なら、伊達家発祥の経緯 始祖朝宗から政宗まで 90分程度に集約したら」のアドバスがありました。なるほど 失意に沈まない生き方ですか。さすが代表です。挑戦しましょう。 

 「戊辰の役の殉難者1620人の氏名存知おるそうだが」と N先輩から言われました。ハテ、本頁の「弔魂碑」と勘違いし 「どうぞ」と答え ハタと気づき 「1620人の受難の月日・場所・氏名・遺族について掲載した図書名をFAX送信します」と答えました。
 「仙台藩戊辰受難小史」「仙台藩戊辰受難者50年弔祭誌」です。ともに宮城県図書館郷土資料室に、受難小史は、(財)瑞鳳殿図書室にも 保管されています。

 2月22日開催の勉強会「戊辰戦争と仙台藩」 処・仙台市博物館研修室 時刻・10時30分 講師・船渡崇学芸員 です。期待に応えてくれると思います。会員以外からも参加申込が代表に殺到しています。当日が楽しみです。



1 月 27 日 (日)  



 晴天ですが寒気は厳しいです。

 外套の襟を立て、又、膝を震わせて方、数名見かけました。「どちらから」 「ハイ札幌」「ウン 帯広」 何れも北海道。ナイチ観光と意識して薄着で見えたのか。

 バスからゾロゾロと「ヤー 極楽だ」と口々に。バスの前面は雪がピッタリ張り付いています。 「どちらから」 「山形県小国から。積雪2m 吹雪です。トンネルを抜けると青空 仙台は極楽ですヨ」 外套は羽織っていますが薄いです。 バスには「温泉ゆったりツアー」とありました。・・・・・

 岡山・名古屋・茨城と続きましたが、此の方々は、仙台は寒いと覚悟して来たのか 寒いの声も震えもありませんでした。

 「資料館はどこですか」と親子連れから問われました。「資料館は、涅槃門の横です」 「イヤ そこは見てきた。政宗公の生の声を聞けると聞いてきたが 無かった」 「ここでは 政宗公の声を聞けません。 ひっとしたら松島の蝋人形館かも。瑞厳寺のお参り未だでしら、参詣の際 確かめていたたければ」 「ウンそうするわ ご親切に」 「ハッハ」

 今日も「土葬だろ 空襲で焼失の際 ミイラになったのか」の声がありました。この様に第一ムラビト的発言は、楽しくなります。説明しました(内容記載省略

 事務所にテレビ局から「政宗公は鎧兜着用のうえ入棺しているそうだが」と電話があったと話しになりました。病気で体力を失い 枯木が倒れる如く亡くなった人に、又、死後硬直始まる人に 帷子を着せられても鎧兜を着用させられるか この当然の事に気づかないものかな。

 参拝者は、数多くはありませんでしたが、ゆっくり 聞いてくれる人ばかりでした。
ガイド中に、聞かない、本殿を見ないで ドングリの木を眺めているお嬢さんに、 「モシモシ栗鼠見えます 今冬眠中ですが。ここは、都会 ビル街の近くの森です。栗鼠(リス)・羚羊(カモシカ) 等の貴重な動植物の宝庫です。今月初め 狸(タヌキ)が寒さと空腹で券売所に助けを求めて来て 保護されました」 「ヒャー」の叫び。

 このタヌキの足どりは、弔魂碑と涅槃門で参拝してから、保護を求めたそうです。 一宿一飯の恩義を感じ、春になれば新葉を一万円札にし、妙齢のご婦人に変身 御礼にくるかもしれません。楽しみです。
 狸の写真は、http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/をご覧下さい。



1 月 21 日 (月)  



20日続

 朝一番の方 90分後 戻って来ました。
 「麓に瑞鳳寺がありました。瑞鳳寺の境内に瑞鳳殿等が所在すると理解して宜しいでしょうか。確認のため 戻ってきました」

 「その様に記載したガイドブックがありますが、瑞鳳殿の建立と同時に 維持管理の目的に建立されたのが瑞鳳寺です。記録によれば、1635年忠宗公 瑞鳳寺境内に 雄心院、天桂院、泰療院、定光庵、般若院、龍興院の6ケ院を建立 廟勤番を仰せ付けるとあります。この所在位置は未確認です。
 一般的な寺の境内に所在する墓所 の観念とは異なります。

 政宗公の菩提寺は 松島・瑞厳寺です。因みに 戒名は「瑞厳寺殿貞山禅利大居士」で 院殿ではなく寺殿です。

 瑞鳳寺は、伊達家直営のお寺でした。明治維新で伊達家は資力を失い維持困難となり、又、1858年と1896年の2回の火事で、廃寺状態になり、1925年再建されました。本尊三体は、平泉・毛越寺より遷座したもので、市内豪商が寄進したものです。

 光のページェントで有名な定禅寺通の定禅寺も伊達家のお寺でしたが廃寺になりました。宮城県庁前の国合同庁舎付近です。他にも廃寺に至った寺があります。

 瑞鳳寺は、臨済宗妙心寺派です。ここは、財団法人瑞鳳殿が管理しています。地盤は仙台市の所有です。

 伊達家の墓所は、大年寺山に2ケ所にわかれ所在しています。土塁・塀に囲まれ、外周からしかお参りできません。その麓に、黄檗宗大年寺がありました。同様の事情で廃寺状態となり、小規模で現存しています。惣門・参道と墓所の周囲は仙台市の所有・管理となっています。


 「瑞鳳寺境内の墓碑は、全て新しいものとなりますネ」 「ハイ 町人等の檀家を必要としませんから その通りです。原則に例外があるの喩えの通り、子細不明ですが、家臣の墓所があります。伊達家の序列 着座9番 所預かり 1200石 丸森の領主 佐々家の墓所が従前の3/2に縮小されながらあります。丸森に菩提寺がありますが墓所はありませんでした。此の後 佐々家の墓所を二人で詣る

 この方は語りました。「先祖は、徳川将軍家直臣であって、慶喜18将軍と共に静岡・牧の原に移転 更に 相良に、そして現在地に移転した。資料館に展示の銅鏡も数枚あったが、度重なる引越で紛失した。 廃寺等の事情は 理解しています。久能山の麓にあった寺も廃寺になりました。
 九代・十一代の殿様の墓石 16文字戒名とは最高です。我が家の戒名も長いので 自分は○○居士まで 縮小するつもりです。先祖は江戸・大塚に敷地3,000坪畑3,000坪 不忍池の水利権を寄進し寺を創建した。広大な墓地の維持が大変である。
 子どもに我が家の歴史を伝える為 勉強している。非常に参考になりました」

 要整理の話 あります。続を期待してください。



1 月 20 日 (日)  



 温かいです。手水鉢の龍の白鬚は融けました。

 名古屋からお客様。「イヤー見事 豪華絢爛ですね」  「ハイ お客様の先輩 名古屋・中村生まれの豊臣秀吉の文化 桃山様式で建てられた 御廟です」 大変満足され お付から「お時間です」に 「イヤ 15分延長だ」。

 愛知から(名古屋とは言わなかった)の24歳のお嬢さん(女性に年齢を云わせるとは無礼なの発言は無かった)ハキハキしています。色々な質問がありました。
 「政宗公が亡くなる前から造営工事がなされていたのではないですか」の質問。現代の建築工事の流れからして、完成まで超短時間です。15日の日誌にも記載した疑問です。ズバリの質問に驚き 「専門はなんでしょう」に 「日本史が好きだだけです」 誠に謙虚なお答えです。その実は、○○のくの一かな。

 鍾馗さまの風貌で、新入門の相撲の体格の4人組。一見圧倒される感じ。拝殿・本殿・涅槃門の順でガイドしました。真剣に聞きながら、屋根の構造をコソコソはなしています。涅槃門で「これ何に見えます」 一発「麒麟」と返ってきました。「凄い 100人に1人です。99人は龍と答えます 驚いた。板金・彫刻等の専門職ですか」 に 「なに 国民の常識です」ニクイ返事。

 出口でモタモタしていました。「扉の前で 大きい声でヒラケゴマと呪文を唱えると開きます」に4人でジャンケンをして 当番を決め 大きい声で唱えていました。 「開いた アイタ」と大喜び。 「これ 仙台で 国民の常識です」 「サスガー」と手を振りながら感仙殿に向かっていきました。
 一見したとき 怖い人々かなと 思いましたが、風貌で判断できないハイセンスの持ち主でした。

 久能山東照宮創建当時に宮司の末裔の語る方が見えました。140年前 徳川政権が崩壊し、お寺等維持できなくなった話、織田信長による家康の夫人・長男抹消事件当時の家臣の話 色々な話を聞きました。 



1 月 15 日 (火)  



 次の様なメールを頂きました。

 瑞鳳殿に埋葬したのは何時なのでしょうか。

 私は覚範寺に立ち寄ったことは聞いたような気がしますが、埋葬したのは知りまんでした。本殿の石室の中に安置したものと思っていました。
そうすると仏様の上で本殿の工事をしたことになり、チョッと違和感を感じていました。

 瑞鳳殿・本殿の頁をご覧なってのメールです。頁には次の様に記載しております。

「瑞鳳殿 本殿は 伊達政宗公の御廟(廟墓)そのものです。
 政宗公は1636年5月24日(太陽暦6月27日)卯刻(午前7時頃) 江戸桜田屋敷(現 千代田区・日比谷公園・野外音楽堂付近)で、行年70歳(満68歳2ケ月)をもって亡くなりました。
 同日戌刻(午後8時頃)出発し、江戸・仙台間69宿92里30丁 396qを7泊8日要し、翌月3日北山・覚範寺に到着、翌日 当地に埋葬されました。《注 この年 6月は29日限りでした》 以下 転記省略」

 埋葬 の言葉の使い方の相違の様です。埋葬とは、「死者を土中に葬る」大修館現代漢和によっています。

 本項 詳細に記載すれば、「墓室は、礎石上端から底面迄3m 疑灰岩(秋保石)47個組み込み組立で、内法1.82m 幅1.18m 深1.14mです。棺桶(棺箱ではありません)に入れられ、周囲に防腐剤として牡蠣灰が詰められました。墓室内には、副葬品約30点の鎧・兜等の武具、文箱等生活用品が一緒に葬られました」となります。 この項は、お忙しくない方々に 本殿前でガイドしています。

 「本殿の石室の中に安置した」「仏様の上で本殿の工事をしたことになり」
は、その通りです。

 工事 創建時も、復元時も 墓室を埋め戻しの土工事をし、廟の建築工事をしています。現代の様に、お墓を造り 納骨するとは 異なります。御遺体の上に廟を建てますからやむ得ないと思います。毎日 工事の前後に合掌したと思います。

 埋葬 の言葉。理解が様々は 日々体験しています。「ここに政宗公が祀られています」 「墓室に・・・・」と切り出す前に 「土葬か 土葬か。火葬か」とセッチク方多いです。13日の札幌のお嬢さんもそうでした。60年前の日本の村々で、村の裏山の共同墓地に、ムラビトが穴を掘って埋め 土を被せた。何年後に、その上に立って引き込まれたをおもいだしてのイメージです。

 今回 ご指摘はありませんでしたが、政宗公が江戸で亡くなって 埋葬され、廟完成までの時間は 現代の基準からして 超短時間です。あかとんぼ は 忠宗公の工事命令が出される以前 政宗公が 現地調査した時点において 奉行奥山大学に施工命令が発せられ、設計、資材確保、業者指名、造成等が行われていたのではと思っています。 

 また 気ついた点 教えてください。お待ちしています。
 



1 月 14 日 (月)  



 祝日ですが、寒気厳しく 降雪があり ガイドは休みました。
 昨日 瑞鳳殿の花立が倒れた際の風速は、28.1mと発表がありました。

 瑞鳳殿をお参りされた方々は、ブログに感想を書かれています。RSS・キーワード「瑞鳳殿」で検索しています。時々 ハッとする感想があります。

 8日の日付で「鈍行で、5泊6日東京>栃木>山形>秋田>岩手>宮城>とまわってきました。とりあえず○日光東照宮はけっこう面白かった・・・山形等の感想が1行10文字程度で続き、 そして「○瑞鳳殿はぼったくりだった」

 「ぼったくり」 その意味は? 三省堂の国語事典には記載ありません。あかとんぼ の解釈として 「入場料が高かった。入場料からする期待感が裏切られた」と理解しました。

 急坂と長石段で 息切れされ ホツとしたのか、瑞鳳殿を素通りされ感仙殿に向かう人、瑞鳳殿に登った瞬間 一瞥降りてくる人 居ます。多額の旅費と時間をして これでは 勿体ない なんのため と感ずることがあります。

 この人も パンフも読まず 政宗公の廟所 桃山様式の建築美 等 理解する余裕無く 一瞥し通過されたのでしょう。

 あかとんぼ とその仲間のガイドを聞けば 満足され 超割安感を感ずる 筈と自負しています。

 昨日の沼津のご夫妻も 券売所でボラガイドを確認していました。「青春18」のキップで来ましたと洩らしていました。観光は気持ちに余裕を持たなければ と思います。



1 月 13 日 (日)  



 寒い日です。脳も凍みる寒さです。
 夜来の強風がおさまってから出発しました。境内・駐車場は風倒枝が一杯に散乱しています。積雪はありません。

 参拝においでなるか心配していましたら、大学生5人静岡から。続いて沼津からのご夫妻、「64才8ケ月で退職、先月 毛利家の墓所を詣って来ました」と涅槃門の麒麟から、文山書の扁額と写真を撮りながら、熱心に聞いて呉れました。

 政宗公 感激したのか 突然強風が吹き、花立2本がお賽銭箱の上に倒れました。円筒型の花立です。水がドクドクと流れ込みました。
 ガイドの区切りついた所で「強風で花立が倒れ、お賽銭箱に水が」 小さい声で「一万円札がプカプカしています」事務所の皆様 「タイヘン」と駈けていきました。

 涅槃門前で「これなーに」のお嬢さん3人。「どちらから」 「札幌から」 けっして北海道の札幌とは言わない。先程の沼津の方も、静岡県の沼津とは申しませんでした。香港の人も中国の香港と言いません。県名・国名を言わないのが普通なのかな。最近は。

 札幌は白石区の人ではありませんでした。札幌4か5世代でしょうか。先祖のルーツも家紋もわかりません。先住民族では無いことしかわかりませんとのこと。アッケラカンです。本殿までガイドして、「お歳いくつですか」女の年を聞くなと言う野暮なことを言わず「26です」 それではと、寶筺印塔をガイドしました。「年齢 なんか関係あるのですか」 に 「ハイ 実は最年少者は 数え年22才です。現在の数え方で20才となん月です。みなさんが同じ年数え年22才かと思い 一瞬迷いまして聞きました」   喜んでいました。

 1人 ふるえていました。「どうしました」 「札幌より寒い」の返事。
確かに、凍てる寒さです。手水の龍にツララの白鬚が生えました。あかとんぼの脳内も音声装置も動きが鈍くなりました。11時45分 おしまいにしました。
ボラガイド支援機構理事長から「遅い出発 お早いお帰り。老人倶楽部のツアーと同じネ」。



1 月 7 日 (月)  



 正月も七日 七草粥の日 現役の人々は、本格的に稼働始め。あかとんぼ は2日始動 昨6日は2日目。

 以下 年末年始の学習記録 (備忘録)です

1635年 
忠宗公 瑞鳳寺境内に 雄心院、天桂院、泰療院、定光庵、般若院、龍興院の6ケ院を建立 廟勤番を仰せ付ける。(1870年寺院由緒)配置・業務等は宿題

1637年05月18日
忠宗公 政宗公のため石浮図(石塔)を高野山に建てる。
高野山は真言宗で、総本山は高野山金剛峯寺。平安時代初頭に弘法大師(空海)が開いた仏教の宗派。菩提寺瑞厳寺は臨済宗妙心寺派。宗派が異なっても構わないのか。
石浮図(石塔)の規模・形状は。これらは宿題

参拝の方から、「高野山に政宗公のお墓があった。分骨したのか」の質問が以前ありました。これを指しているのでしょう。

1637年10月01日
瑞鳳殿 落成
 普請奉行 奥山大学
 土木    川村孫兵衛
 彫刻    梅村日向
 鋳物    高田久兵衛
 工匠    米野内蔵助近吉
        山内四郎兵衛貞次
 経費    約30万両
 瑞鳳寺鐘 早山弥兵衛利次

1876年03月12日
日曜日を休日とする。なお、太陰暦から太陽暦に切り替えはね1872年11月09日布告された。
此の休日が定まるまでは、人々は盆と正月以外 休日無く働いたのでしょうか。

1931年03月14日
國寶保存法により 国宝に指定
瑞鳳殿 唐門・透塀・南廊下・拝殿・御供所・繋廊下・涅槃門
感仙殿 (本殿以外指定されなかったのか詳細不明)
仙臺城大手門・隅櫓

1952年03月
瑞鳳殿霊廟一帯 伊達家から仙台市に移管。

2006年末
伊達家当主と仙台市との間で、石造等建造物も仙台市に移管済みと確認された。本項のみ弔魂碑研究K氏資料による。

以上は、菊池勝之助著 重訂宮城県郷土史年表によりました。



1 月 6 日 (日)  



 時々小雨ながら 9度と比較的温かい日です。

 参拝の方々をヒナタボッコしながら、案内板前のベンチで待っていました。フト寒いなと思いましたら日陰になっていました。低いお日様は、涅槃門南のリスの木に隠れていました。参拝者の出足より、お日様の移動が早い様です。

 朝一番 名古屋・豊田からのご夫妻。「名古屋にも無い素晴らしい建造物だ。尾張徳川家に、豊臣秀吉関係 の歴史的なもの名古屋に 仙臺の伊達家ほど残っているかな?」
 車で来たとの事。豊田市からトヨタの車で仙台にきたのかな?
 家紋が話題になり、「トヨタの車にストップランプが「九曜紋」の乗用車がありますね。創業者豊田家の家紋でしょうかな」 「ウー ??」 

 涅槃門の幔幕に、三家紋が染め抜かれています。若いペア うわの空で見ていましたので「お宅の家紋は?これ伊達家の代表 三家紋です」
 男性「家紋あるかな」 女性「ウチは 笹竹です。長野です」 「長野? 上杉謙信・上杉家と 関連があるのかな?」 確認してみましょう。

 あかとんぼ世代のご夫妻。「なぜ ここに九曜紋があるのですか。我が家も九曜紋です。徳川四天王の1人榊原康政が10万石で館林城主になる以前、長尾顕長の時代(1585年前後)から、館林に住み 九曜紋を使っています」

 「ハアー 名家なのですねー。政宗公は この九曜紋を使いたく 肥後・細川家 緊密な友好関係にあった細川忠興に、願い使用を許された。西が細川家、東が伊達家 この二大大名のみ使用していたと 聞いていました。実際は、石田三成、相馬家ほかと九曜の家紋を使っている家は多い様です。 いずれにせよ 名家ですねー」

 涅槃門の扁額をガイドしていたら、此またあかとんぼ世代のご夫妻。今日は何故か あかとんぼ世代が多い。 「どちらから?」 「四国です」 「赤色は赤珊瑚 白色は真珠です。四国のどちらです」 「高知の○○です。高知は珊瑚が採れます。真珠は○○です」 携帯電話をポケットから 記念写真です。娘さん「保存しました。安心して」 仙台観光の良い土産になったようです。

 弘前からのご婦人 「立派ですネー」 弘前初代の津軽為信の御霊屋も豪華です。「革秀寺にあります。見事ですよね」 「アラー 知らない」 正に 日本人の特性がでました。地元の歴史・良さに触れようとせず 自国の歴史をおろそかにして 外国の世界遺産見物に訪れ感嘆するケースと同じです。でも、年末年始に 休めなかった人々が、 瑞鳳殿を訪れ 豪華絢爛な桃山様式の建造物と政宗公に親しんで頂ければ、あかとんぼ は満足です。



1 月 3 日 (木)  



続 拝礼式

 藩志会一同の登段の露払いの如く登ってきた高齢のご婦人。
 「今、下に侍姿の一団がいましたが、アレなんですか。ここはナンですか」

 「ハイ ここは伊達政宗公の御霊屋  いわゆる お墓です。
 侍姿の一団は、伊達家の家臣や庄屋・肝入、大店の末裔の方々で、政宗公を始めとする殿様の功績を偲び、学び・広める事をに志した人々です。
 政宗公に年賀のご挨拶の為、伊達家御当主、香華寺である瑞鳳寺住職を先頭に行列してきます」

 「ヘー 伊達家はあったのですか。会津は、青森・下北・斗南に、伊達は北海道・伊達に 戊辰の役で敗れ 流されたのではなかったですか。下北・斗南にも、北海道・伊達にも 行って来ました」

 「確かに、戊辰の役で敗れ 激変しました。北海道に移住開拓したのは、白石・亘理等の伊達家重臣とその家臣等の一団です。伊達家は、明治政府の命で、東京に移住した事もありますが、34世18代の御当主は、仙台にお住いです。今、一団を引き連れて登ってきます」

 「ヘー」
 
 御当主に立ち止まって頂き、このご婦人に こんなセリフを言いたかった。
 「ここにおわすをどなたと心得る。伊達政宗公来18代伊達泰宗様にあらせられるぞ。頭が高い。この紋所 竹に雀 が目に入らぬか」
 テレビ水戸黄門の見過ぎの様です。


 弔魂碑(戊辰の役の殉難者1620人の供養碑)の由来を調査し、何故 供養祭が催されないか憤っているK氏が、あかとんぼ 提供情報等を追加整備された 資料を事務所に預けてありました。

 K氏が、上記会話を見聞きしたら、「だから、供養祭が催し、世に広く正しく伝えなければならない」と申されるでしょう。
 
 瑞鳳殿地区に所在する「西討戦没之碑」「鹿児島県七士の墓」のガイド資料を整備中の あかとんぼ には 大変に示唆に富む資料です。K氏資料ご希望の方、連絡あれば K氏にお取り次ぎします。



1 月 2 日 (水)  



 年賀拝礼式日です。
 9時40分 登段
        幟を先頭に、瑞鳳寺住職、伊達家34世18代御当主、仙臺藩志会一同(平笠・羽織袴・裃・雪駄・脇差し姿の男性会員、竹雀大金色家紋を背した紫羽織の女性会員)、一般市民多数の行列が62石段を登って来ました。
 9時50分 読経。瑞鳳殿住職
10時00分 焼香。伊達家34世18代御当主。仙臺藩志会。殉死者後裔会の順。
10時05分 挨拶
         伊達家34世18代御当主
        始祖来800年の伝統を守り・・・・・マイク不調 音声聞き取れず
         仙臺藩志会長
        会50年目の節目の年。講座「伊達おこし塾」非会員の参加もあり好評で、政宗公はじめ歴代の殿のご功績を学び・広めるに務めます。
         (財)瑞鳳殿常務理事
        全世界から、政宗公の御遺徳を慕って参拝される皆様が、満足されますように、今年も務めます。
10時15分 奉納演舞。仙臺藩志会会員による「撃剣」10態と3態。
10時33分 記念写真撮影。涅槃門前で伊達家御当主を中心に、参列者一同。

 積雪とマスコミ取材の無い 平穏な式日でした。登段と記念写真を撮影しました。今年の旗手は、幟の文字が正面になるように配慮してくれまして、U氏も満足していました。

 12月16日来訪されたロシア・ノボシビルスク大学東洋文化部長で東北大学客員教授のEさんが、9時30分来殿しました。あかとんぼ の話 覚えてワザワザ。
 式・奉納演舞と具に見学、御木像を撮影し、
 「日本文化でも、他で見られないものを紹介してくれ大変有意義であった。松島・瑞厳寺をも訪れたが、日本文化は素晴らしい。3月1日に帰国するが、その前に 大切な人を案内するのでガイドして欲しい」
 あかとんぼ は 「日曜日はガイドしています。他の曜日は予定なければ宜しいです」 と返事。この後、交互に記念撮影しました。



1 月 1 日 (火)  



あけましておめでとうございます


 輝かしい新年を迎えたこととお慶び申しあげます。
旧年中は、温かいご支援・ご交誼・愛読頂きまして厚くお礼申しあげます。

 ガイドの目的のひとつに健康維持がありました。07年のガイド日回数は72日回で、06年71、05年69日回と連続記録を更新しました。健康維持の目的は達成されました。

 今ひとつの目的に社会奉仕がありました。
 1月にシンガポール共和国Y嬢をガイドした縁で、10月には、北山市民センター生涯学習教室の講師に招請出来ました。
 又、片平・北山市民センターの生涯学習教室等の仲間を案内する機会に恵まれ、その縁で140年前の戊辰の役の殉難者の末裔の方と知り合い、いつ・どこで殉難したかまで追跡調査した結果、ご先祖の供養と子孫に歴史事実を伝えられると喜ばれました。
 中途失明等の視覚に障害を持たれた人々を支援するNPOから依頼がありガイドしました。評価され、その後、松島瑞厳寺に同行を誘われご一緒しました。
 社会奉仕の目的は達成されました。

 これらは、全て 皆様からのご支援を頂きましたからです。感謝致します。

 本2008年は、ガイド満7ケ年目 。健康維持に務め、地元仙台の人のみならず日本国内外、健常者のみならず障害を持たれた人々、老若男女 全ての人々に喜ばれるガイド 幾ばくかの社会奉仕を目指します。宜しくお願い致します。

 本ホームページ満6ケ年目に入ります。本頁を07年に訪れた方は延べ4,857人 日あたり14人です。内容のマンネリ化しない様には出来る限り務めます。今年も 愛読の程 宜しくお願い致します。





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