2008年2月の日誌
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2 月 28 日 (木)  



 瑞鳳殿でボラガイドしている御縁で、歴史勉強の「まざらいん会」に混ざり、十七世政宗公以前までの伊達家の系譜を勉強してきました。
 主な内容は、
1.初代朝宗以前。藤原鎌足から。
2.初代が朝宗としたのは、「寛政重修諸家譜」編纂(1789-1801年間)であり、初代朝宗が念西入道であり 政宗公が十七世に確定したのは、元禄年間(1688-1704)の「伊達正統世次考」「伊達冶家記録」の編纂である。
3.初代朝宗が常州真壁郡伊佐荘中村邑に居住したの表現は、正確では無い。伊佐城は茨城県鎮西(旧下館)市中館522番地であり、中村邑は栃木県真岡市中で、城は1156年に完成し、現在遍照寺境内である。
4.南北朝の動乱において七世行朝は南朝の忠臣として活動した。
5.政宗は二人いた。中興の人 九世政宗であり十七世である。
6.天文の乱は、稙宗・晴宗の親子親戚そして最上家等を巻き込んだ争いである。そして 越後の上杉定實との関係。家紋の「竹に雀」は。

質問は、
1.伊達郡の命名由来は、伊達神社の祭神「五十猛神(イソタケル)」から転化したもので、氏子が播磨国飾磨郡印達郷から祭神と共に移住した。宮城県色麻町にも鎮座するは理解した。・・・・・
 さて、五十猛神と天照大神との関係を教えてください。
 ハイ 伯母と甥です。祖父が伊邪那岐神で、祖母が伊邪那美神です。
 この方 国民学校入学歴があるらしく、一発でご理解されました。

2.私は、晴宗の七子で4男 昭光が婿入りした角田伊達家である石川です。石川家は、他家の血が入りました。伊達本家には その様な事無いのでしょうか。
 ハイ、男系男子で、614年鎌足から十七世政宗迄に至っています。資料一読頂ければ一目です。



2 月 24 日 (日)  



 今季最大の積雪。日の出とともに あかとんぼ の巣 向三軒(両隣は不参加)と一緒に除排雪。幹線道路がシャーベット状態になるのを待って出発。御城下はやはり少雪。路面湿潤程度。
 昨日から 新幹線・在来線の運休、自動車道の閉鎖が報じられていたので、果たして参拝の方 見えるか心配しましたが 続々と。

 雪の華咲いた森を撮影する方 多々。紅葉の写真を披露し 再訪を促しました。
 お話をする方 多く ボラガイドの傍らキキトリボラをもしました。

 例えば「息子の受検の付き添いなの。会場下見に行ったので観光なの・・・・」 息子を信頼しているのか、ノー天気なのか 「合格を祈願され さくらさいたら 親子三人でのお礼参り お待ちしています」 「ハーイ」

 「アーあれ 向かい揚羽蝶なの ワタシ (合体)50分見たよ ○○をくっつけて 枝でジットしているのヨ」 これご婦人のカタリです。映画「ツリバカ日記」に 主人公が夫人を誘い 「合体」と字幕が出 画面が暗黒にシーンがありました。で意味は理解すると同時に、殿の墓前で白昼ご婦人から 語られると ドキマギします。
 自然観察の努力に感動すべきか ヒマ加減に驚嘆すべきか。

 日光市から7人3組兄弟会の様な団体も見えました。日光東照宮と比較されながら 語り 楽しんで居ました。感仙殿地区まで一緒しました。
 「日光見ずに 結構と云う無かれ」の格言を思いだした様子でした。

 瑞鳳殿の石垣。組み直しされているらしい。イヤ居る。2月3日K学芸員、Eさんと正面右側を確認したところでした。左側は資料が無く確認出来ていませんでした。1930年以前に発行されたと推定される「瑞鳳殿絵葉書」を入手しました。拡大・明るくし、現場確認しました。写真の石組みと現物は異なります。似て非なるものでした。
 いつ組み直されたか。瑞鳳殿の復元工事の一件書類、設計図を確認する必要があります。何処で保存しているのでしょうか。(財)瑞鳳殿でしょうか。

 17日NPOプラザでの「ミドル&シニアのためのボランティア情報サロン」講座で、広報しました。ガイド志願の下見に何人か見えるか期待しましたが 空振りでした。 



2 月 23 日 (土)  



 仙台藩志会主催「伊達塾」2月例会に参加しました。

 岩出山伊達家十六代伊達宗尚(ムネヒサ)氏の「岩出山伊達家のこと」と題して、始祖宗泰公は、政宗公と側室塙団右衛門(要調査・大阪の陣の豪傑?では)の娘との間の子。通算4男を祖とする。1638年35歳で卒。
 母に起因するか、岩出山町の商売の人々の先祖を大阪等出身とする人が多い迄語り。九代義監・十代邦直の時代 幕末 庄内酒井家転封反対直訴事件と岩出山伊達家の関連を語る直前 持時間切れで、講師も聴衆も 次回を期待し終。

 梁川伊達家末裔 梁川幸子氏 「伊達家悲話」と題して、始祖伊達宗清は、十四世稙宗と側室中館氏との三男で、伊達氏の治世の中心地 梁川城を居城し家格は一家であった。梁川氏は梁川伊達氏・登米伊達氏・白石宗實氏の三氏であると、詳細な配布資料で、断絶・再興と波瀾を経て現在までの系譜を熱く語りました。

 興味を持ったのは、十一代梁川播磨頼親が 戊辰の乱 羽州新庄に於いて1868年6月1日に2男2女の子を遺し卒したとのこと。

 仙臺戊辰殉難小史(1917年仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭會発行)に、1868年7月11日 羽州新庄金山戦に於いて七番大隊長梁川播磨 戦没と記載ありました。
 仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌には、遺族住所 福島県石城郡平 遺族 伊達頼正と記載ありました。本日の講師は「梁川」姓 遺族は「伊達」姓 この関係は如何理解するのでしょうか。詮索しません。

 石母田氏を始めとする伊達家重臣の末裔の方々が多数参加されていました。石母田・石田・古内・富塚・片倉・・・・各重臣の末裔の方々が「○○家について」と語って頂く企画を、事務局長に要望しなくてはと感じた講座でした。



2 月 22 日 (金)  



 ボラガイド仲間の勉強会「戊辰戦争と仙台藩」。講師は仙台市博物館舩渡学芸員。なぜ 標題が「戊辰の役」でなく「戦争」なのか。「伊達家」でなく「仙台藩」なのか。歴史事実を後世の人が、その呼称をかってに変更することに抵抗があります。

 それは、「西南の役」も「西南戦争」と称する人か多い。しかし、当時は「鹿児島地方騒擾」と云った。それが何故か 変わった。
 1876年弔魂碑を建立した際、碑文には「戊辰の乱」と記載されています。「藩」の呼称は1868(明治2)年旧政治体制が瓦解、いわゆる「版籍奉還」以後に出てきた言葉で、それ以前は「伊達家」「伊達家中」と呼称いました。

 今回の講話は、「乱」そのもの、乱の動向に至る 1867年15代徳川将軍の大政奉還に始まり、この間の政治情勢の変化、伊達家中の動向を語り、1868(明治元)年9月15日 13代伊達慶邦公が相馬口で降伏文書提出で終わりました。
 「乱」の殉難の様子は語られず、些かガッカリしましたが 話は実がありました。

 弔魂碑崇敬の運動者K氏、御多用の「小夜」氏と 総数35人の参加がありました。本頁の「弔魂碑」のコピーをして、舩渡学芸員に一読をお願いしました。
 
 博物館主催で「魯迅展」が開催しています。 魯迅の下宿として 片平丁の現在の老朽した建物の写真を掲示していました。2日観覧した際、「この表現は 真実では無いでしょう」と他の観覧者と係員に尋ねたら 「エライ人に伝えます」「22日再訪します」と 再訪したら、事態は悪化 「現在の建物が魯迅が下宿した建物です」と書き換え表示していました。

  2日の係員に尋ねましたら、「エライ人が直しました。仙台市公園課がそう云っています」 一緒したEさんが、「1917年頃建て替えしています。仙台市文化財課で確認しています」  「そうですか 又来年 おいでください」 市井の老人の戯言なんか聞いていられないと申すのでしょうか。

 博物館主催であれば 鰯の頭の如く信用します。私以外の方も同様と思います。仙台市の組織の内部連携は 如何になっているものか心配です。



2 月 18 日 (月)  



 昨日続き
 
 NPOプラザでの「ミドル&シニアのためのボランティア情報サロン」に講師として参加しました。
 「観光ボランティアガイドをどうして始めたか、どんな楽しみ、効用があるか紹介し、ボランティア活動したいが 悩んでいる人の腕を引っ張って欲しい」が主催者の意図でした。司会の巧みな舌に乗せられ語りました。

 1.社会との接点で、世界各地の老若男女、宗教を超越した人々との交流で、適度の会話と新たな知識が得られています。
 2.メリハリのある生活習慣を維持し 気分転換になり 急な階段の登降は体調を告知してくれ、健康の維持に役立てています。 

 続いて、東北放送のインタビーがあり、「ボランティア活動とはなんだ」と問われました。
 「観光ガイドボランティアに限らず、全てのボランティア活動に共通することは、他人の為に尽くす事といいながら、自分の為に しています。楽しみながら活動する、続ける継続が基本と思っています」と答えました。

 ガイドボラの楽しさを切々と、また熱く 語りました。しかし、期待した団塊の世代の人々の参加が意外と少なく、ボラガイド希望増につながったか疑問です。


1.NPOプラザは、宮城県行政の末端です。022-256-0505 npo@miyagi-npo.gr.jp
 仙台市主導のNPO支援組織が別に有ります。
2.この所在地(宮城野区榴ケ岡5−1)は、綱村公が生母三沢初子供養の為創建した釈迦堂の跡地です。その由来を示す石碑が門前に有ります。尚、釈迦堂は孝勝寺(日蓮宗身延山派)境内(宮城野区新寺2−11)に移転しました。
3.インタビーの放映は、3月10日19時54分から 1ch水戸黄門の直前です。



2 月 17 日 (日)  



 あかとんぼ は健在です。2週間更新が滞り、期中の爆弾低気圧の低温で凍結したのではと、ご心配のメールを頂きました。日に10人は、開頁し確認してくれました。ご厚意に感謝致します。

 寒さの峠は越えたようですが寒いです。降雪です。待機中ハナミズが・・・・・
待機時間が長いと感じますが、統計的には参拝者数は前年比プラスだそうです。

 寄付芳名板で名前を探している一団「新しい きれいですネ」の感想。大阪と広島からの御一行で、寄付には関係無い方々でした。ガイドしましょうかに「結婚披露宴に来たのでイラナイ」と断り、本殿まで登り お詣りしないで帰って行きました。 なにか不可解な一行でした。

 定期観光ガイド。本殿前で時間をかけて話していました。「創建当時 幾らかかりました」の質問に「ワカリマセン」と素っ気ない回答。素人のボラガイドに口を出されると思ったのか、一視することなく下段していきました。
 プロですから、お金を払っているお客様に、「ワカリマセン」では無く もっと返事の仕様があるのでは。
 尚、当時の額で 30万両と記録されています。

 おかみさん風に連れられた男3人、若いなと感じ 寶筺印塔の説明で 例に寄って年齢を尋ねると19歳。職人の感じなので 「建築関係ですか」 「そうだ」 「職人さんは、こんな建造物を見ると 一般の人々と 見方が違い 目がイキイキ ランランしていますから・・・・」 ここで 引率のおかみさん コロコロ笑い 大喜びしていました。

 功を遂げた感じのご夫妻と一緒に3段一段を下りながら本殿ガイドの続き 「なぜ こんなに厳しいのか」「約30cmはあります ハイ厳しいです。何故の記録がないので・・・・ 底辺×高さの条件で、登れる限度と尊厳の確保の結果でないでしょうか」 「ウン そうだろうな。今の階段は16.5cmで設計されているから 厳しく感ずのかナ」  「貴男 見上げてご覧 段々の線の造型 見事よ 綺麗よ。アナタの設計した階段は足腰にやさしく 素敵よ」 段差厳しいとブツブツ言われる方多い中 この様なご夫妻も居ます。感激。

 昨日 藩志会事務局長から「弔魂碑後方の受電盤 目線の外に移動する事に(財)瑞鳳殿から連絡ありました」と話しがありました。
 弔魂碑をガイドして、撮影の際 趣を損なうの苦情を言われている事 知って居ての朗報でした。弔魂碑崇敬者K氏の運動の成果でしょう。実現すれば 悲憤慷慨していた「小夜」氏も大喜びでしょう。

 続き明日に有り。 



2 月 4 日 (月)  



ガイドは難しい。

 常に正確に伝わる用に、言葉使い、緩急に注意しているつもりです。が。
昨日 本殿の重い木柵を1m余も移動させて、立ち入りをお断りしている個所に入っていた女性がいました。

 注意を促したら「あのガイド 中に入って見なさいと云ったのに」と大変に不満そうでした。ボラガイドには、立ち入りをお断りしている個所に入るを認める権限はありません。あくまで現状でのガイドしかできません。

 「側面の天女さんをご覧なるには、塀の外一周出来ます。そちらからどうぞ」と案内しています。これを なんと聞いたのでしょうか。

 確かに、側面・裏面の天女さん等の彫刻をご覧なりたいでしょう。塀の外からの望見はもの足りません。
 側面20基の寶筺印塔は、地震の際倒壊しています。地震は予知出来ない現在、怪我等の心配から 開放は望まれ無いでしょう。どうしても 良く見たいと申される方には、あかとんぼのHP天女さんをご覧くださいとすすめています。



2 月 3 日 (日)  



 首都圏は降雪で交通機関に催事に混乱を来した様です。仙台も関東圏から北上した雪が11時頃到着、激しく濡れ雪が降りました。

 観光タクシーのリダー格の○○さん、「あかとんぼさん お客さん15分で丁寧にガイドして。オネガイ」と 身を震わせていました。車の暖房にウッカリし、外の寒気を忘れ外套着なしで、寒さに震えている様です。ピッタリ15分後迎えに来ました。何処で暖をとったのでしょう。お客様は専門のガイドがついたと喜んでいました。これは三方得でしょう。

 拝殿扁額のガイドで、「長持二棹」をすんなり受け入れてくれた若い母娘さん。「長持なら我が家に三棹あります」 これは珍しい。「いずこの名家でしょうか」と聞き返しましたら「イヤ 岡山の農家で 分家ですから・・・」 誠にサラットしたもの。

 透かし彫り、白檀、独眼龍、江島生島事件・・・・に鋭い反応があります。NHKTVドラマ「独眼流政宗」「樅の木は残った」を見ましたからと申すものの 美術・工芸・政宗公に・歴史にと精通している様子。知ったかぶりしないでの反応から真の教養人とは、こんな人なのかと思いました。

 瑞鳳殿の石垣は、「創建当時そのもので、仙台城址の石垣調査の際、年次測定の基準に使用した」と、仙台市文化財課○森担当主任から何回か聞きました。その通りガイドしていましたが、数年前のある時、焼失前の写真と照合したところ 現在石垣は配列・大きさが異なるのを発見しました。以来、「物差し・基準にした」のガイトはしておりません。
 1月20日の待機中に、Eさんとこの話題になり、資料と突合し「ホントだ」と理解して頂きました。K学芸員とEさんと 現場確認し、K学芸員は復元工事の関係書類を検索・確認してくれるとなり、 早速 書類の涅槃門建築中の写真から、石垣が写っているものを確認しました。現在の石垣でした。
 戦前の繪葉書と突合しましょうとの事で、K学芸員と別に、WAB検索で「仙台名蹟経ケ峰瑞鳳殿参拝記念」の繪葉書写真を見ました。拡大しても不鮮明で 石垣の詳細は確認されませんでした。石垣の改修経緯ご存じの方教えて下さい。一報お待ちしています。

 Eさんから、「正保 奥州仙臺城絵図等 絵図を比較するに 初期には62段の石段の記載が見られない 1700年代以後に 石段の記載があるところから 後に作られたのではないか。治家記録で 非公開の年次も閲覧できるでしょうから 調べては頂けませんか」とK学芸員に依頼していました。結果が楽しみです。
 
 なお、尚絅学院大学千葉正樹教授は「正保 奥州仙臺城絵図は 軍事査察の目的で作成されたもので、軍事に関係無いものは記載省略されている。だから四ッ谷用水は記載されていない。斎藤報恩会所蔵の本図は、幕府に提出されたもので 江戸城文庫に保存されていたものが 戊辰の戦乱の際 軍事用として持ち出され 最終的に斎藤報恩会所蔵となったものです」と 08年1月24日開催の四ッ谷用水復元市民の会の勉強会で、発言しています。
 民生向け水路は そうであっても お城に相当する位置・精神的価値のある瑞鳳殿については 正確に記載したのではと思いますが、階段の記載はありません。

 風雪厳し12時にお終いにしました。 



2 月 2 日 (土)  



 仙台市博物館古文書を読む会に参加しました。
 1868年8月25日小笠原長行(唐津6万石就封をせず1865年幕府老中職に就任、幕府外国事務総裁を兼務、1865年奥羽越列藩同盟に輪王寺宮と共に迎えられ参謀的役を果たす)から、時の伊達家当主慶邦(ヨシクニ)に宛てた書簡の解読です。
 戊辰の乱に於いて敗退する戦場から東軍の総大将である慶邦に対する 檄 でした。「・・・・本文之次第能能御熟慮有之度福島破れ候得者直御國境ニ御座候間決して他人之事と不思召・・・・」

 弔魂碑の頁を設置した身として当時の緊迫した情勢を知り得 勉強になりました。弔魂碑研究に夢中のK氏も見えていまして その後の資料を頂きました。

 本日の講師は、「戊辰の役の研究では博物館学芸員でトップとか、22日の「ぐるーぷ・よっこり」の勉強会の講師です。「戊辰戦争と仙台藩」なる演題が楽しみです。





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