2008年5月の日誌
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5 月 29 日 (木)  



寶筺印塔・殉死

 寶筺印塔を説明していたら「フン 当時 戦国時代には 殉死があたりまえだろう」と云われました。
政宗公の直臣15名陪臣5名合計20名 忠宗公の直臣12名陪臣4名合計16名、当たり前では無く、主従関係における主のカリスマ性の現れと 伊達家の特性のひとつと理解していますので、あたりまえ に納得できかねました。

「殉死は確かに 古代からあったようで、埴輪が殉死の代用とも聞いています。殉死にまつわる悲喜劇等あり、小説・演劇の題材になっています。しかし 戦国時代から江戸時代に 殉死があって当然と言い切れますか。
信長は戦陣に散ったから別として、布団の上で亡くなった 秀吉公や家康公に 殉死者が居ますか。何人いますか。居ないでしょう。これからして、伊達家の君臣の情が細やかである証拠ではありませんか」と 言葉穏やかに返しました。

 5月26日の出来事です。伊達家の殉死を調べました。

 殉死が幕府の命で禁止された1660(寛文元)年5月23日以前、大名等の殉死者数順位は
1位. 21名 佐賀・鍋島勝茂 1655(明暦元)年3月24日
2位. 20名 陸奥・伊達政宗 1636(寛永13)年5月24日
3位. 19名 肥後・細川忠利 1638(寛永18)年3月17日
4位. 17名 薩摩・島津義久 1611(慶長16)年1月21日
5位. 16名 陸奥・伊達忠宗 1658(万治元)年7月12日

伊達家の殉死者数順位は
 1位. 20名 陸奥・伊達政宗  1636(寛永13)年5月24日  70歳
 2位. 16名 政宗公正室愛姫 1653(承応2)年1月24日   86歳
      16名 陸奥・伊達忠宗  1658(万治元)年7月12日   60歳
 4位. 10名 政宗7男 宗高  1626(寛永3)年8月17日  20歳
      10名 政宗4男 宗泰  1638(寛永15)年12月23日 37歳
 6位.  8名 一門 伊達宗直  1629(寛永6)年7月21日
 7位.  7名 政宗3男 宗清  1634(寛永11)年 7月22日 35歳
       7名 忠宗嫡子 光宗  1646(正保2)年9月8日  19歳
 9位.  4名 亘理 伊達成実  1647(正保3)年6月4日  79歳
       4名 伊予 伊達秀宗  1658(万治元)年6月8日  68歳
11位.  3名 16世伊達輝宗  1585(天正13)年10月8月 42歳
12位.  2名 政宗8男竹松丸  1615(元和 元)年 3月28日 7歳
13位.  1名 14世伊達稙宗  1565(永禄8)年6月19日  78歳
       1名 政宗5男 宗綱  1618(元和4)年5月28日  16歳
       1名 政宗6男 宗信  1627(寛永4)年8月8日  25歳
       1名 忠宗長男虎千代 1630(寛永7)年8月4日  7歳

大名の5位までに 政宗公と忠宗公のお二人が入っています。又、殉死は殿様・子供に限らず、正室も居たは 驚きでした。

以上は、1958年10月発行 仙臺郷土研究18巻4号掲載 佐藤佐氏論文を基に編集しました。



5 月 26 日 (月)  



 ガイド仲間の勉強会がありました。
 「伊達政宗の仙臺城」と題し、築城の地としての選定から、豪壮な建造物であったを詳細な資料でH代表が講義しました。誠に丹念に調査した資料です。
 参加者が多いのは、緻密で豊富な内容の資料で、その割に会費が安価であるからでしょうか。

 全日空から 「仙台空港から 少人数単位で 仙台市内をガイドできるか」と問い合わせが入っている。「勉強しろよ」と H代表からハッパかけられたが。

 瑞鳳殿と仙臺城は、いつでも ガイド出来ます。あとは、大崎八満宮・東照宮・国分寺のほかですが、仙台市民でない 老若男女が観光して 共感・満足する個所は何処かな。瑞鳳殿の外、ボラガイドが居る筈は、仙台城本丸・博物館・地底の森・宮城球場に多賀城跡?

 U氏から「戊辰戦争140年in七ケ宿」に参加。仙台市史編纂室勤務○○氏も参加しており、「仙台市史、近代1」のパンフレットも配布しておりましたので、あかとんぼが指摘されております906名の戦没者と伊達家名簿の1260名について質問しましたら、使用した資料が違うので906名となっている旨の回答でした。
 U氏は納得できない旨、50年祭の名簿には「戦死した場所、本人名、遺族名、住所」が記載されているので照合した上でどちらが正しいか、その上で結論をだすべきでは無いか、質したが黙っているばかりでした」の話しがありました。

 誠に有難い ご発言です。
 「後世の為 市民の血税で編集している 市史が 地元資料。犠牲者の末裔を無視しての記述をするのは 不適切でないか」まで 発言して欲しかった。

 本件について 仙台市議会で質問する議員はいるでしょうネ。



5 月 25 日 (日)  



緑が霧雨でしっとり濡れています。昨日とは異なり静かです。

 数々の供花をご覧なった方々から、「何故こんなに花が供されているのですか」のお尋ねがありました。
 「昨日は政宗公の三百七十三回忌法要でした。その供花です」

 「綺麗な花ですネ。抜いていいですか」 
 「ダメです。佛になった政宗公に上げられた花です」 内心「新装開店の花ではないです。あなた ヨソ様のお墓の花 持ち帰りしているのですか アナタのご先祖喜びますか」と呟きました。

 涅槃門前で「ココ通り抜けられますか」と訊ねられました。「イヤ 本殿お詣りしてまた この門に戻ってきます」と答えましたが、 涅槃門を潜って 涅槃の世界に行ったきりに なられたら 困ります。
 「ここは涅槃門 潜れば涅槃の世界 本殿は極楽の構図になっています。では極楽ツァーに」のセリフが使えなくなります。涅槃とはなにかの質問 たまにありますが。

 案内板 政宗公の肖像画を見ていた 親子 「これは徳川家康だ わかるか」 息子曰く「ここは 政宗公の御霊屋です 家康公の肖像画がある筈ないでしょう」母親 夫と息子の論争に困った様子。

 手持資料の政宗公と家康公の肖像画を示して 「政宗公を描いたのは狩野安信です、徳川家お抱え絵師は 狩野派です。モデルの個性より画風優先の結果でしょう」 納得と和解を頂きました。

 「なぜ 独眼でないのか」と 当然のご質問。答えながら手元を観察しました。373遠年忌記念しおり 持っていません。配布終了したのでしょうか。
 「独眼龍」政宗の木像になぜ両目があるのでしょう のタイトルのしおりに 答えが記載されいます。全部の説明後 しおりを事務所から貰い 資料館見学中に届けました。

 途中からガイドを聞きに入った方 話し中に突然の質問です。
 「ここは なんですか。なに派ですか」  
 「ここは お墓です。臨済宗妙心寺派です。菩提寺は瑞厳寺です。昨日の法要は 瑞厳寺等9ケ寺 10数人の僧侶によつて営まれています」
 「ナットク。 本殿 上部の青い波形模様 妙心寺にありました。私は妙心寺模様と理解していました で 確認したくて」
 「そうですか 教えて頂きましてありがとうございました」

 W学芸員が なにか整理中でした。いろいろ調べてくれ 且つ 資料コピーを頂いておりますので 御礼言上 一言 「仙台市史 近代T ご覧なっているでしょうが弔魂碑の記事の感想は 如何ですか」と訊ねながら持論を披露しました。
 お若いのにオトナです。年寄りと市役所の顔をたて「そうですネ」とニッコリ。

 「6月4日 お忘れではないですネ」 と 念押しされました。「ハイ 綱宗公のご命日です。法要があります」 例年は、政宗公に比較して参列者が少ないです。ぜひ お詣りをお待ちしています。



5 月 24 日 (土)  



 深緑の中 政宗公遠年法要が催れました。

09時50分 瑞鳳寺山門前から、「仙臺藩志會」の幟(ノボリ)を先頭に、住職・ご当主・藩志會外一同が六十二の石段を登ってきました。某ツアー一行が脇道を伴登しています。TVカメラも中途に陣取っています。写真の構図上 ズバリ迷惑。

09時53分 登り切った石畳広場で 献笛 尺八吹奏が始まりました。
       涅槃門が開門され、冊が外されました。

10時00分 行列が本殿前に到着。
       右側に ご当主、僧侶、殉死者後裔、財・瑞鳳殿役員、町内会長。
       左側に 仙臺藩志會・大年寺會一同
       法要開始
       献花 本原(ゲン)遠州流華道七世家元 朴澤一草 
       献香 仙臺藩作法総師範         菅野菱公 外
       献茶 石州流清水派宗家十世      大泉道灌
       献笛 仙臺藩虚空山尺八寺 布袋軒  栴檀玉堂  

10時10分 読経
       導師 正宗山(ショウシュウザン)瑞鳳寺鎌田文恵住職
       瑞厳寺・保春院・資福寺・覺範寺・東昌寺・満勝寺・光明寺・善應寺の       住職 

10時30分 焼香
       伊達家三十四世十八代御当主 
       殉死者後裔會副會長   
       仙臺藩志會會長     
       大年寺會會長       
       松井建設社長       
       地元町内会長 霊屋・経ケ峯 各町内会長
       財・瑞鳳殿常務理事 

10時40分 挨拶
       伊達家34世18代御当主  
       仙臺藩志會會長  
       財・瑞鳳殿常務理事

10時55分 涅槃門 再び 開扉
11時00分 入門した順番 住職・御当主・藩志會外一同が退出。
       関係者 伊達家三十四世十八代当主・仙臺藩志會・殉死者後裔會・大       年寺會一同での記念写真の撮影は、今年はありませんでした。
       仙臺藩志會一同は、羽織・袴・裃の姿 女性は和服に政宗羽織姿の正装の儘 青葉神社参拝の為 ソソクサと馬や駕篭でなくバスに。
       涅槃門 再び 閉扉

11時05分 仙臺雀おどり連盟 役員と加盟四連 老若の奉納舞が涅槃門で。

11時35分 一同 本殿 御木像に 直々親しく参拝され、忠宗公・綱宗公にも奉納すべく 感仙殿・善應殿に移動していきました。バイタリティー溢れています。参拝者に雀踊りの由来のガイドが聞こえた「夢祭連・粋楽」から「広報ありがとう」のお声。 

土曜日ですから 例年の法要より参拝者は多かった様です。
何回かシッターオスしました。「お客様 政宗公の御木像と一緒に撮影出来るのは、年間1時間程度限られたチャンスです。最高の記念です。福が来るでしょう」と申し添えました。至福の時を実感し喜んでおられましたヨカッタ。



5 月 18 日 (日)  



 青葉繁れる快晴 御城下では「あおばまつり」が華やかに 盛大 催されています。朝 一番 伊達家の火薬製造に由来すると称する五葉山火縄銃鉄砲隊が 涅槃門前広場で、伊達家第十八代当主隣席 出陣式が行いました。

 火縄銃鉄砲隊も、男女共同参画社会となり、陸上自衛隊にも女兵士がいる時代です。槍持ち足軽はお嬢さんでした。鉄砲隊に槍持ち足軽は特異な存在で初参加す。来年は更に兵力増強されるのでしょうか。楽しみです。

 鉄砲隊は、政宗公を祭神とする 青葉神社を詣ってから 「あおばまつり」の行事として 御城下で 伊達家当主の指揮下 火を噴くそうです。

 「あおばまつり」の雀踊りに 今年も泉州・堺から連が参加しています。雀踊りの由来は、仙臺城築城の際 泉州・堺からの石工が疲労回復運動とか 完成の際の宴の即興の踊りと云われ、これまで 瑞鳳殿に奉納してから 参加していました。今年は、奉納はありませんでした。仙臺すずめ踊り連盟の奉納もありません。
 連盟のHPで日程を確認しました。

 台湾・台南市の女子中学生の集団。雀踊りに参加するため来日し、先ずは政宗公にご挨拶しなければと 参拝に見えました。引率者の言 であれば中華民国の人々は日本人よりも礼儀正しいようです。
 和服姿 着付け・着こなし 色合い 織り 最高の三婦人を見つけ 涅槃門・拝殿・本殿前にと 群がり 一緒に記念写真撮影です。着物姿が 珍しかった様です。背景の桃山様式の建造物には関心がないらしく 背景の建物を示しても無視されました。1度に6台のデジカメを預けられました。

 ご婦人一行は、伊達家発祥の地とされる茨城県筑西市からお出で、伊達家始祖朝宗の地で伊佐城址・観音寺等の歴史を よくご存じの上の参拝でした。北山五山と輪王寺の関係を質問されました。これから輪王寺のお茶会に参加するのだそうです。キマッタ着物姿と語りに 上流階級らしい品格を感じました。

 「仙台七夕の際 浴衣でガイドすれば こんなに もてるかしら」とは、昨日からガイドを始めたビジンさんの言です。

 「うち等 紋とチョット違うな」に 「どちらから」とお尋ねしたら 「四国・宇和島から」 「ここは 伊達家の本家です。仙臺笹と宇和島笹は この様に相似しています」と資料で納得して頂きました。

 此の後 宇和島自慢をされました。「宇和島は戦災に遭っていませから 伊達時代・伊達家の遺産・史跡が沢山 残っています。当主は東京に住まいしていますが、城下に今でも沢山の不動産を所有しています。幕末には 本家の仙臺を随分助けました。・・・・・」
 「そうですか。   来24日は政宗公のご命日の法要があります。本殿 開扉します。御木像に直接 宇和島自慢をお話して頂ければ よかったのに・・・・」

 来週24日(土曜日)は政宗公の御命日です。例年通り 9時45分頃 仙臺藩志會一行の羽織袴・裃姿の行列があり、10時から伊達家縁故寺の僧による読経、供花・供香・供茶・供曲の法要の数々があります。
 多数の皆様のお詣りをお待ちしております。


メモ
 筑西市からの方から
 「政宗公は 棺桶に牡蠣灰を詰められた。常陸地方は棺箱になるまでは 桶であった。福島(?)では、 土葬の時代 箱棺であった。今の直法体ではなく 座して入棺する棺箱です。火葬が一般化して 寝姿の箱棺になった」

 なるほど 桶より箱は製作容易で安価です。あかとんぼ ウッカリしていました。お客様から 教えられましたので 記録します。



5 月 17 日 (土)  



 弔魂碑 殉難者数の相違

 戊辰の役における 伊達家等の殉難者は1260名として 瑞鳳殿の弔魂碑に祀られています。
 何故か、仙台市史 通史編6 近代1(08.03.31.発行)によれば、906人と記載されています。この数値は「復古記」を根拠としています。復古記は1889年12月に16年8月の年月を費やし298巻を持って完成した明治政府の「戊辰の役」の総括です。1930年5月全15巻に集約し 東京大学史料編纂所から発行されました。

 仙台市史の本編を記述した先生は 現在 第一人者の先生です。なぜ 先生は、地元犠牲者の資料(1917年10月10日仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭會刊行「仙臺藩戊辰殉難小史」)によらないかです。「仙臺藩戊辰殉難小史」には、戦況、戦死者の場所・身分・氏名も記載されています。

 殉難者1260名から幕臣・上杉家臣の27名を差引した1233名(含一関田村家臣84名)が伊達家臣です。327名が過小に計算されています。軍夫等がどれだけ記録されたか疑問の残るところで 犠牲者数は増えても減る筈は無いと思います。

 著者は、「仙台藩の全死傷者数はわかっていない」記述しています。戦後、特に敗者の犠牲者の確認は困難であったは当然です。しかし、50年祭になれば全て落ち着いた筈です。ほぼ正確に集約されたと推測します。このような殉難者側の資料を無視した様な記述は 誠に不可解であります。史跡である瑞鳳殿の弔魂碑を訪れる事なく 助手に撮影させ 記述されたのではと 疑問に思っています。 



5 月 12 日 (月)  



戊辰の役 弔魂碑

 今年は戊辰の役140年目です。白河市の地元の人々は、白河の戦闘で殉難した伊達家家臣の人々210人の慰霊祭を5月3日催しました。地元では、仙台からの参列を希望していたそうです。

 5月2日 仙臺藩志會事務局長と面談の機会があり「@藩志會では久保田(秋田)城下には墓参しているのに、會としてここに詣らないのですかA白河は地元住民が催しています。仙台でも 行政を頼りにしないで催すべきではB函館では陸上自衛隊の協力を得て墓前祭を盛大に催しています。
 家祖ともいえる政宗公の墓前に祀られた、この弔魂碑の前で 供養祭を催すように 財・瑞鳳殿等に働き掛けるべきではありませんか。出来れば 函館の様に 陸上自衛隊の協力を得て 盛大に実施出来ませんか」と申しました。
 これに対して「仙臺藩志會の主催で、墓前祭等催さなければと検討しています。5月31日総会がありますので」の回答でした。総会の結果を期待しています。

 本日 読者小夜氏から「箱館五稜郭祭、今度の土日ですよ!一度行かれてみては? http://www.hotweb.or.jp/goryokaku-sai/  碑前祭は土曜日(17日)の午前中のはずです」と 有難いお知らせを頂きました。
 あかとんぼ は行けませんが どなたか お出かけになりませんか。勉強になり また 感動されると思います。
 
 歴史は黴臭く 供養は線香臭い が一般的観念で 若い人々から回避されます。この点 箱館五稜郭祭は 祭として 華やかさ・楽しさを加えて 老若男女が参加し 楽しみながら歴史を知り 供養をする。卓越した企画と感心します。

 仙台市史は 戊辰の乱を中心とする近代1 が発刊されました。K氏 小夜氏から 戊辰の役 弔魂碑についての貴重な情報を 度々 頂いております。拙者HPを改定し この貴重な情報を活かすべく 作業しています。宜しく。 



5 月 11 日 (日)  



 本日は 条件最悪。冷い雨ドバドバ・城下ハーフマラソンで全面交通規制。朝早い参拝者は バスが運休になるからとソソクサと降りて行きました。10時以降はバス利用者は皆無。参拝者は ポチリ ポチリ。

 朝一番 団体。バス4台。北海道・苫小牧の中学校。行儀はよい。四列縦隊で登壇するも 拝殿を潜った時 「ココナニ」 本殿前に立って 即ユータンし 資料館に。
 最終組のバスガイドは 涅槃門で説明してから登らせていました。「勉強していますネ」に 「ハイ 一応 地元ですから」 でも 持っている旗は初見でした。

 添乗員は、管理職風の年輩男性。胸には日本1・2の旅行会社のバッヂ。生徒が涅槃門を潜ったら サッサと降りて行きました。バスガイドは先生の応接に。結果として 涅槃門前で生徒を 誰も誘導しませんので 感仙殿に回らず 降りて行きます。内心 カリカリしますが 不審者に見られたのか 全く相手にされません。

 今日の外国人は、ポルトガルの男性です。英単語 読めます で 拝殿の珊瑚と真珠を説明しました。
 拝殿の軒を 下斜めから撮影始めました。軒の黄金が列になっています。この位置での撮影は初めて接しました。「視点が面白いですネ」 に ニッコリ。
 ならばと、本殿の天女さんと現代の天女さんとペアの写真をと 例の地点に案内勧めました。good  Thank you  何故か ココまで コミニションが取れた。不思議。

 参拝者はいます。でも ガイドを聞く人は いません。資料館で 発掘経過記録ビデオを 全編見ました。11時過ぎにバスが開通するの情報です。でも この悪天候では 待機しても無駄と感じ 11時にお終いにしました。

 城下は、依然として交通規制をしています。指示に従い 進みましたら 振り出しに戻りました。前後の車も同様です。大路から小路に入り グルグルし、通常の3倍の時間を要し 巣に帰りました。



5 月 6 日 (火)  



 5月4日の応答を再現します。
質問1.「大崎八幡宮はなにか」
答え  政宗公が1607年に創建した神社です。米沢時代の氏神であった成島八幡神社と岩出山・大崎地方にあって厚い信仰を集めていた大崎八幡神社を合祀したものです。
 新領地の大崎の祈りと伝統を重視したもので、造作に大崎氏の家臣であった 真山式部継重 を奉行に起用しています。
 桃山美術として際だたせている建物や、草花・鳥・獣・飛天等の彫刻を、豪快・華麗に造って社殿の重要部に組み込まれていす。担当は、刑部左衛門國次 です。紀州根来から招かれ 大崎八幡宮・仙臺城本丸・松島瑞厳寺の建設に加わり、後 徳川幕府に招かれ 日光東照宮・上野寛永寺の建設に加わって居ます。彫刻の名人「左甚五郎」のモデルと云われています。故に、大崎八幡宮の「にらみ猫」を左甚五郎作と紹介している人も居ます。

 質問者に左甚五郎作と云われる「にらみ猫」を拝見しているか 問ましたら 昇殿したことがないそうで、当然 壁・天井等に見事な絵画が存在を知っていませんでした。

質問2.「青葉神社の祭神は誰か」
答え 伊達政宗公 武振彦命(たけるひこのみこと)です。
1874年の創建で、元は仙台城内にあったが、県社に列格したのを機に現在地に遷座した。東昌寺の敷地の西側3分の2が青葉神社に提供されました。1927年に現在の荘厳広麗な社殿が完成しました。尚、神主は、白石・片倉家の末裔です。

質問3.「青葉まつりはいつか」
答え 現在は、5月の第三土・日に行われていますが、本来は、政宗公のご命日5月24日に催されていました。由来に関わらず 商業主義優先で変更された事は誠に遺憾です。ですから雨が降ります。
 青葉祭の起源は、1655年です。9月17日が仙臺東照宮の祭典 仙臺祭でした。青葉神社が1874年に現在地に創建され、以後 青葉神社の例祭 青葉祭と引き継がれました。現在の主催は、「仙台・青葉まつり実行委員会」です。

質問4.「雀おどりの始まれは」
答え 1600年仙臺城の際、泉州から石垣工事等に石匠を招きました。彼等の厳しい作業の際 疲労・機能の回復に踊ったのがもとになっています。今は色々振り付けられています。
 06年05月21日 「泉州堺すずめ組」を主体とする「泉州堺雀連合」の幼児から七十路の老若男女90余人が 城下の青葉まつりに参加する前に、政宗公に ご挨拶をし、踊りを奉納しています。本殿で「四百年前の御縁で奥州仙臺に参りました。御縁となったすずめ踊りを奉納いたします」の見事な口上に続いて、笛・お囃子・太鼓の音曲のもとに踊り手多数の演舞が奉納されました。

 尚、質問者は、今年 「仙台すずめ踊り連盟」の代表として 5月18日に感仙殿前広場で 口上を述べ 踊りを奉納します と申していました。期待しています。

以上は、2004年大崎八幡宮刊行「國寶大崎八幡宮」 既日誌外により 精査・加筆しました。



5 月 5 日 (月)  



 参拝客 昨日は予想のとおり2000人を越えたそうです。今日は祝日「こどもの日」ながら 曇りで低温です。でも沢山見えました。
 福岡・埼玉と車でお出でになった方がおり、「時間を心配しないでガイドをして欲しい」のうれしいお声が連続しました。瑞鳳殿だけで1組1時間。ご満足頂けました。

 今日の話題。

☆ 「我がアライ一族の家紋は 竹に雀 だ」 いずこのアライ一族か訊ねたところ北関東圏でした。「何故 竹に雀 を使用しているか。伊達家 上杉家等のつながりがはわからない。ココに来て 伊達62萬石と親戚かな 思うと楽しい」でした。
 奥方曰く「私は 武田信玄の系統 武田菱ヨ」

☆「先生 質問!」高齢のご婦人が手を上げています。「今 伊達家の笹に雀の家紋の説明があったが 違っている」 「ハイどこが!」 「我家の竹に雀と違う 伊達家は間違っていないか」
 「お宅はいずこに住まいして、伊達家とのご縁は」 「ツキダテです」 「宮城県の築舘ですか」 「伊達郡月舘町です。ズート住んでいます。先祖は家老の家来でした。アンタ 私の先祖を調べて」 話はなにかを超越してます。
 「伊達家の竹に雀の家紋は、1542年上杉家から贈られた〔上杉笹〕が変化し 確定し現在に至っています。伊達家は 伊達から米沢に、更に 岩出山に、そして1600年仙臺に移っています。その間に 家臣に下付しています。時代に異なっています。違っていても 間違っていません。お宅が伊達家と行動を共にし、格・氏名がお解りであれば仙台市博物館で調べられます。でなければ 月舘町公民館か菩提寺に相談してください」 「ありがとうございました。瑞鳳殿をお詣りして功徳がありました」 1935年生まれでした。西暦で年齢を教えてくれました。凄い。

☆「ダテの殿様は90歳で まだ生きてるカー」と貧相な小男の発言です。17代が あかとんぼ と生年は同じです。そうすると16代を意識しての発言ですかな。
 いずれにせよ 問かけが無礼なので 「わかりません」と無視しました。

☆「ガイドして」若い男女。「ハイハイ ハイー」の感じで反応が異なります。ハッとし「国は? 台湾?」 直感はあたりました。日本語ガイドでヨイとの事で 続行しました。廟・家紋を含め 国情・年齢から 理解できるか心配でしたが 杞憂に終わりました。尚、台湾には 家紋は無い との返事でした。

☆「ガイドさん教えて?」発音が微妙に違います 「yuo caina?」「yes 江西省」 30代の女性です。質問の連発。
 ◆三代目はなぜ 詰め替えられたのか?従前の本物に入れなかったのか 綱宗の亀棺が資料館に展示されています故。
 ◆殿様のお骨をなぜ 再埋葬したのか。化学処理をして展示したら?毛沢東やレーニンの様に保存・展示を意識している様子
 ◆経ケ峯は何処か?なぜ 地名表示が幾つもあるのか。ここの住所 霊屋下は変だ 霊屋上でないか。 住居表示には あかとんぼ にも一言あります同感です
 ◆中国では 赤色は目出度い色です。白は清浄を表す色です。拝殿の扁額の色は そうなのか?
 ◆涅槃門の五色の瑞雲 なぜ七色でないのか?
 ◆魯迅のマンション跡 大学階段教室を見学したい出来るか。パスポート等証明出来る物は持参していない。 下宿をマンション跡との表現 フムフムと。外国人がパスポートを所持しないで日本国内自由に移動できるのか?
 江沢民主席のVIPでないから見学出来ないよネ わかっていらしゃる
 「多賀城のガイドも親切でしたが それ以上です」と 世辞の一言。

 明日は村の談合があるので、今年の黄金週間ガイドは今日で終わりです。ガイドにお付き合いくださいました全世界の皆様に感謝します。



5 月 4 日 (日)  



 本日は「みどりの日」の休日です。で日曜日でガイドの日です。
 雨です。予報は晴です。ワイパーを動かし乍ら、城下を抜けました。普段の日曜日以上に町中は空いています。9時前に到着しました。参拝客は 既に登壇しています。昨日は2000人近くの参拝があったそうで、本日は越えるでしょう。

 全世界から見えていますが、「滋賀県」の方いました。意外と参拝者の少ない県です。ナンカ嬉しくなります。

 外国の6〜7人。拝殿の珊瑚・真珠 4ケ国語表示板でガイドしました。会話しようにもお互いに「no Japanese」 「no English」。  印度からの方でした。
 質問として、「珊瑚・真珠・金は本物か」に 「1945年アメリカの空襲で焼失するまでは 全て本物、現在 珊瑚・真珠は本物です」  続いて 涅槃門の麒麟と瑞雲の透かし彫りを 冊子を木に見立て 指で「ガリガリ」削るゼスチュアで説明 通じました。理解してくれました。NHKで昔 ゼスチュアクイズの番組ありました。これなら 出場出来たかも。
 男性が赤ちゃんを抱きかかえています。「何ヶ月?」 指で 「7ケ月」の返事。英語堪能なYさんが「可愛いですネ お母さんは?」 に 真向かいの女性が男性の傍にパッと寄ってニッコリ。
 あかとんぼ語 を理解する女性が 仲間に伝えていました。最後に「 Thank you」と口々に。 英文パンフを読まずに左右眺めていましたから 些か 理解でき楽しかったのでしょう。

 涅槃門を見て 「羅生門」と叫んでいる人が居ました。あかとんぼ としては、全く異質のものです。何故 叫ばれたか 悩むところです。

 途中から聞くに入ったご婦人 説明が終わった途端質問の連発です。話中の質問でありませんから、ハイと応答しました。
 「大崎八幡宮はなにか」「青葉神社の祭神は誰か」「青葉まつりはいつか」「雀おどりの始まれは」・・・・
 答えながら ハテナと思い 問い返しました。仙台すずめ踊り連盟の指導者の肩書き持ちの方でした。初めて 瑞鳳殿をお詣りしたそうです。あかとんぼ を どの程度 正しく知ってガイドしているかテストした感じです。答えは後日記載します。
 テストに合格しても 内心 なにか腑に落ちない気持ちです

 涅槃門前で待機していたら スーと寄ってきて
  「ここは ナンダ 神社か お寺か」 「イヤ 霊廟 お墓です」 「宗門はなにか」 「政宗公の祭事は 臨済宗妙心寺派の お寺さんが催しています」 「この屋根は 臨済宗のものか」 「各大名の霊廟を時代別 宗派別に分類・調査していませんので わかりません。 お宅はいずこの家中・大名の末裔ですか。お宅の領主の霊廟は どうなっていますか」
 こんな 応答がありました。この方 本殿をお詣りすることなく スーと帰っていきました。この方 言葉から推定して 羽後の国の方です。

 雨は昼近くまで霧雨で降りました。参拝客が続いていましたが、15時30分疲労を感じ終わりました。E・U・Oさんと4人で事務所から お茶と饅頭ほかを馳走になりました。明日もガンバルぞう。



5 月 3 日 (土)  



 憲法記念日。朝方の雨 10時頃から お日様ピカピカ 暑くなりました。
 ループルバスが30分間隔から20分間隔に、今日は15分間隔で運行されています。15分ごと 参拝者が団塊で登ってきます。

 「ボラガイドいます。声をかけてくたさい」の札を入場料案内の傍まで移動しました。財・瑞鳳殿事務局長は、「札が小さい もっと大きくしなければ」と云ってくれました。デモ、参拝者は、先が忙しく夢中です。 案内しますの札も 目立つ腕章をしている我々も 目に入りません。とにかく本殿を目指し人多数です。

 仙臺城の石垣等の石材を掘り出した山は、現在、住宅団地になっています。小学4年生を伴った一家が「そこから歩いて来ました。知識ないのでガイドしてください」のお声掛け。10km以上あるでしょう。昔なら当然でしょうが 今では「ゲンキー」声かけたくなります。それではと、ゆっくり、詳細にガイドしました。
 「これから、自信をもってお客様を案内出来るわ。コレまではハイどうぞの案内でした。有難かったです」と挨拶され、恐縮。

 溌剌としたペア二組。「ガイドして」「ハイ どちらから」「鎌倉と茅ヶ崎」「ヒー 車ですか。6時間かかりました??」 「イヤー8時間です。矢板IC付近から大渋滞でした」  内心 黄金週間は遠出しないで ボラガイドしているに限る と思いました。
 「ユメユメ油断メサルナ」の雰囲気もある旅と歴史の達人達で、愉快に会話しながら真剣にガイドしました。一緒に写真に入ってのご注文。
 旅の一興と一緒に写りました。メールで送ってくれるとの事。期待しています。楽しみです。大抵は モデルになったきりですが。

 津軽からのオバサン集団 質問し 回答している最中 別の質問や仲間と会話します。拝殿の扁額の説明に割り込んで来て、「うん これオッパイ?」 珊瑚や真珠の宝石の話をしている時  なんでオパッパイが出でくるのー 
 驚き 地球?の回転は中止。「みなさま どちらから」「ツガル」 まいりました。
天女さんの前なら 驚きませんが。今日は、驚いた。

 ご婦人二人 元気溌剌には見えますが 62石段を登ってきて直ぐ 赤い毛氈を腰掛けたました。後期高齢者のようです。声高らかに会話を始めました。
 「ココは、エラク派手なところだネ」「ここはお寺かしら。おテラさんは エラク儲かるそうよ」「○○寺は 自家用車5台も持っているのよ」・・・・・と続きます。
 パンフを眼鏡無しで読みながらの会話です。「ガイドします」と言い出す元気を失い、感仙殿地区に逃げ出しました。

 若い女性、涅槃門前広場を右往左往しています。「どーしましたか」何回か声をかけましたが反応がありません。聴覚障害者かなと一瞬思い 見たら 両耳にイヤホンが差し込んでいます。無我の境地で、世間の雑音は聞こえません。
 結果的に、右往左往の原因も 解決のための助言も出来ませんでした。これ交通事故の心配ないでしょうか。

 寶筺印塔の横に 満月に雲と見られるデザインが刻まれています。「これは なにを表しているのですか」の質問ありました。コレまでなんとなく見ていました。月に村雲に見えますが、ハテ何を表しているか。ギブアップ 「わかりません」と答えました。

 人出の切れ間がなく 開門から夕方までガイドしました。明日は起きられるでしょうか。



5 月 2 日 (金)  



 毎年恒例の仙台○高校の野外郷土学習日。今年も約280人が午前・午後に別れ、かつ6班にわかれ、瑞鳳殿での学習です。瑞鳳殿から妙雲廟界まで、約30人の団体が移動しながら1時間で見学です。

 学生は「地域学習フィールド・ノート ふるさとの自然・歴史・文学」全130頁の冊子を持っています。そこには2頁にわたって、「瑞鳳殿とはなにか」を説明しています。予習しているかは別問題です。両親が仙台生れでなく、学生本人も初めて訪れたが ほぼ全員でした。そして、今の学生は、教師の話を聞かないで、私話をする携帯電話をすると聞いています。このような学生に、いかに、仙台の町を開いた偉大な先人と、桃山様式の建造物の美、都会の真ん中に位置して自然に恵まれている景観。 これらを短時間で 伝え 理解させるか。開始前 多少とも悩みました。

 結果として、90点でした。歩行は鈍いです。傍になかなか寄りません。でも、真面目に聞いています。私話・電話有りませんでした。「質問ありませんか」に「ハイ」を手を上げ 質問してきました。今年の学生の将来が楽しみです。

 こんな質問がありました。
1.妙雲廟界で、このお墓の下に「お骨」が入っていますか。
2.「御霊屋」とはなんですか。
3.ここの住所 どうして「霊屋下」ですか。「霊屋」で無いのですか。
4.「棺桶」とは、どんな形ですか。
5.殿様は皆 火葬ですか。
6.金色の金具が沢山ありますが、全て金ですか。
7.人は亡くなれば天国に行くのでしょう。極楽と天国の違いはなんですか。
8.瑞鳳殿の修理費は、幾らかかりましたか。
9.片倉小十郎の墓は何処にありますか。瑞鳳殿内にあると思っていたらしい。
10.涅槃門の唐獅子はシーサーではないですか。どこか違いますか。

 先輩が「棺桶」の形 「風呂桶」と語ったが理解して貰えなかったと洩らしていました。バスタブの世代です。「タガ」で締められた「風呂桶」を知らない 平成生まれには 当然かも。故に 拝殿の扁額の説明の際、「長持2棹」は始から語りませんでした。

 平成生まれの世代との交流は楽しい。更に、来年を期待します。


 仙臺藩志會事務局長が見えていました。
 「今年は、戊辰の役から140年目です。白河等各地で墓前祭等催されています。
弔魂碑の傷み具合の調査も行われたそうで、マスコミが確認に動いたとも聞いています。如何でしょうか」とお尋ねしました。
 「調査等はその様です。仙臺藩志會の主催で、墓前祭等催さなければと検討しています。近日総会がありますので」の回答でした。

 墓前祭等 実施するにしても 如何にするかはこれからの検討課題でしょう。
 神主・僧侶の供養の祭文・読経の外に、函館の戊辰の役の供養祭は、 額兵隊の派手な服装をした陸上自衛隊員の小銃での鎮魂の礼砲発射があります。こんな事を計画出来ないでしょうか。 





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