2008年6月の日誌
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6 月 30 日 (月)  



梅雨の晴れ間。
08年06月30日 08年上期末日。
 ガイド稼働日回 今年は32日回 昨07年は40日回実施していました。▲8日回の原因はなんでしょうか。依頼ガイドの減少です。

1.小学校の学習環境の変化、山形・岩手県の小学校が訪れが少なくなりました。
2.地方財政の逼迫による交通費援助の廃止により、社会・生涯学習で訪れれが少なくなりました。
3.企業等の団体旅行がいわゆる経費節減で、有料施設を敬遠し訪れれが少なくなりました。
4.岩手・宮城地震の被害報道による旅行の中止により訪れれが少なくなりました。

 昨07年は最終的に74日回実施していました。どれだけ近づくがが楽しみです。

 ボラガイドは「地域社会に、いくばくかの恩返しになればの気持ち」から始めました。併せて健康管理が目的でした。足腰が痛くなく 全体が軽い 石段の昇降が苦にならない 体調が快調の証です。

 昨日は冒頭「忙しいからガイド聞いていられない」と断られ意気消沈しましたが、後は続々声かけられ 3時間休みなくガイドしました。寄せては返す波の原理か、体調良好で なんらかのオーロラを発していたのでしょうか。

 ガイドの仕方 いろいろ考える所ですが、現在の対話・参加型が 一番有効 楽しんで頂けのでは に至っています。

 高齢のご婦人に多い ガイド始めた途端の質問です。これから話しをしようとした途端 気勢を制されます。以前は口が凍結しました。デモ、関心・興味持っているから質問するのです。質問意欲を持った時しないと忘れてしまうのです。高齢者の特有の傾向です。ですから 顔を見ながら直ぐ回答する事にしました。

 色々 語って呉れます。三途の川を漕いで迎えに夫が来た。妙心寺の沙羅が見事ですと語る人。又、藩志會の正装写真を見て 夫が元気な頃 町の仮装行列に参加したと亡夫を懐かしむ方。 最後に 今日 瑞鳳殿にお詣りしてヨカッタと一様に喜んでくれます。ガイドしたした甲斐を感じます。

 時間と経費を費やしてお詣り頂いたのです。其の為のガイドのあり方 上記の様に思っております。

 皆様のアドバイスとおいでをお待ちしております。



6 月 29 日 (日)  



 宮城地震から2週間余 経過しました。瑞鳳殿では 依然として余震警戒態勢にあります。要所に警告の告示と涅槃門の開門です。
 参拝者には、遠い昔の出来事か、余震を心配する様子は無く、奈良・関西・名古屋・滋賀と遠方から沢山の方が見え、切れ間ありませんでした。

 沙羅が満開です。「あの花は」と指指した途端 「沙羅」と答える方 それなりにいました。「沙羅」と云った途端
「 祗園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必滅の理(ことわり)をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし」
と平家物語の冒頭の文を 朗ずる方 此また それなりにおられました。

 「京都・妙心寺の沙羅は見事ですヨ」と教えて呉れた方おりました。検索しました。
 「沙羅双樹の大樹がある東林院は、臨済宗妙心寺の塔頭。享禄4年(1531)、細川氏綱が父の菩提を弔うため上京区に建てた三友院にはじまり、弘治2年(1556)、山名豊国が妙心寺山内に移し、東林院と改めた。以来、山名家の菩提寺となっている。『平家物語』の冒頭にもある沙羅双樹は、梅雨に白い椿のような花をつけ、雨に打たれるとすぐ散ってしまい、そのはかなさに心を打たれる。東林院のは樹齢300年。枯山水庭園や水琴窟もある。通常は非公開の寺だが、1月の「小豆粥の会」、6月の「沙羅の花を愛でる会」などに公開される」とありました。URL http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/spot/sp_tourinin

沙羅は拝殿 右手にありますが、ご案内しない限り 気付きません。今日は梅雨 明日は散って居るのでしょうか。


 滋賀からの方 「お詣りしてよかった」と。「滋賀と伊達家の関わりがわかった」と。「ハー」と教えを請うと 「日野町が 滋賀県にあります。 此処は木地師発祥の地です。木地師の生業に コケシつくりがあります。白石・鳴子とコケシの有名な産地は 伊達領内です」 

 木地師は 出羽三山御開祖・蜂子皇子の全国の山で伐採自由の免許を得、姓は小○と称するとは聞いていました。木地師発祥の地は初聞でした。

 なお、蜂子皇子は推古天皇の御代に出羽三山を開き、五穀の種子を出羽の国に伝え、人々に稼檣の道を教え、産業を興し、治病の法を教え、人々のあらゆる苦悩を救い給うなど、幾多の功徳を残され、舒明天皇の13年10月20日御年91歳で薨去され、御墓は羽黒山頂参道途中にあり、宮内庁の管理となっています。


 朝一番 「ガイドしましょうカ」に 「忙しいから イラナイ」素っ気なく断られました。
意気消沈し、声かけられる迄 待つことにしました。意外と切れ間無く声がかかります。不思議なものです。

 関西からの5人の幅広い年齢構成の方、「時間タップリあります」 「ハイ うれしいです。飽きたらストップかけてくだい」 結果的に本殿まで50分要しました。
 「よい 男のこと なんと云いますか」 伊達男と 返ってくるを期待して 問いかけたら 「ハイ イケメンです」  納得ナットク 現在は イケメンですか。
 本殿前で 写真で イケメンの伊達男 政宗公を紹介しました。なるほどナットクの声に 「よい女は なんと呼ぶのですか」と聞きましたが 教えて呉れませんでした。


 「松島に行って来ました」とお答えなるお客様、瑞厳寺には参拝されていますが、寺内の資料館、観瀾亭 ・天麟院・円通院・ 五大堂・ 雄島 を参拝・見学されていない方が相当いました。 時間とお金を費やして瑞厳寺のみの参拝では モッタイナイと人ごとながら思います。



6 月 28 日 (土)  



 仙臺藩志會主催「伊達学起こし塾」に参加しました。

本日の講師は、「伊達家の系図」第一人者の土生慶子氏で、演題は「4代綱村公から6代宗村公の子女について」でした。

 4代綱村公は、正室稲葉氏仙姫の間の1男2女のみで、全て早世した。
 5代吉村公は、宮床・伊達家からで、8男9女の17人で、4男2女の6人が早世した。
 6代宗村公は、8男12女の20人で、3男8女の11人が早世した。
 夫人及び結婚した姫にも、出産で死亡した事例が散見される。

 早世した子女は、御子様御廟等に祀られました。この辺は、本日持ち時間不足で来月に続編を語るとなりました。

 御子様御廟をガイドする機会儘あり、興味深く拝聴しました。
 先生にご挨拶をしたら「あかとんぼ さん 一度 ガイドして 聞かせて」とキッーイ一発頂きました。居眠りしないで拝聴していたのに。

 余録
 土生先生は、宗村公の8男12女の20人は多いと申していましたが、この時代の殿様の仕事らしい仕事は これで無かったのでは。
 徳川11代家斎は57人 12代景行天皇81人 サゥジアラビア サウド王326人の子持ちに比べれば 少ない方では。



6 月 27 日 (金)  



弔魂碑
仙台市議会6月定例会の代表質問において、鈴木繁雄議員(自民・藩志會員)は、23日 次の要旨の質問をしました。

1.弔魂碑は傷んでいる。今日の平和の基を築きながら、云われ無き賊軍の汚名を着せられた先人の無念。瑞鳳殿境内にあり、多くの観光客も目にしている。仙台市は、このままで良いのか。

2.仙台市発行 仙台市史(近代1)に戊辰の殉難者を906人と記載している。これは加害者である明治政府の指示編纂「復古記」に基づいている。碑前説明文は1260人と説明している。1917年10月10日仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭會刊行「仙臺藩戊辰殉難小史」には、戦況、戦死の場所、身分、氏名まで記載されている。
なぜ 郷土史の編纂に 地元の資料を使用しないのか。「仙臺藩戊辰殉難小史」を使用すべきである。

特に、仙台市史の記載の不適切については、発行と同時に 本日誌、弔魂碑の頁で 唱えていた所であります。その趣旨のとおり 質問しています。
戊辰史研究の木村紀夫氏の尽力の賜です。感謝します。

 市・経済局長、教育長の回答は、想定内でした。

 議会録画は、次のURL  http://www.sendai-sity.stream.jfit.co.jp/giin_result.php?GIINID=7795 からを見られます。ぜひ ご覧下さい。



6 月 25 日 (水)  



弔魂碑 140年供養祭

 信頼すべき筋の情報によれば、「08年10月10日(金) 経ケ峯・瑞鳳殿・弔魂碑にて戊辰の役140年節目の供養祭を仙臺藩志会主催で催す。弔魂碑管理の(財)瑞鳳殿の了解を得、関係寺院に依頼、講演会の開催を関係機関と協議中」との事でした。
 誠に慶賀の至りです。

 地元紙 河北新報は、120年祭の1988年元旦に「戊辰の役」特集号を、以後「戊辰の役百二十年」を47回連載し、同年6月「明治維新と東北 戊辰の役百二十年」を刊行しています。
 戊辰の役での敗戦が 東北を白河以北一山百文の8文字で蔑称されたに奮起して 社名を 河北新報とした 同社です。3ケ月前の現在、動きは見えませんが、120年祭に近い熱烈な支援を今後されるでしょう。

 以上 公表・広報され、市民・関係者に周知され、多数参加されるを期待しています。



6 月 23 日 (月)  



 清涼です。

 今回の地震の風評被害の連鎖で、依頼ガイドが何件かキャンセルになりました。地震以来 初めての依頼ガイドしました。

 仙臺城から北西に直線約20km 薬莱山(標高553m)の麓で「産直センター」を経営している方々の研修のヒトコマとして、瑞鳳殿を2時間現地で語ってと 県婦人会館を通して依頼がありました。
 地震対応でキャンセルあるかな と懸念しましたが  被害軽微であったらしく予定通りの実行です。昨日は会館で座学、今日は館外学習で、瑞鳳殿は初めてのお詣と皆様 張り切っていて、バスから降りて来るなり、機関銃連射の如く 質問を浴びせて来ます。 多勢に無勢 ハンディマイクで応戦? ガイドしました。解散後に(財)瑞鳳殿役員から「あかとんぼ さん 賑やかで楽しそうでしたネ。聞こえましたヨ」と。

こんな応答がありました。

 @参道の杉の大木を見て 「ウン 樹齢は 300年かな」一目で判るとは 凄い
 A珍しい花が咲いていまして、「あの花は?」 途端 「沙羅」と返ってきました。
 平家物語の一節を読み上げました
 B振り返って梅の木を見て、「ウメー」 「臥龍梅」 お宅の梅と異なり なかなか実らないのです、貴重な梅です
 C「高野槇です、仙台が北限と聞いています」 「我が家にあります。黒いけど」
 今度から 県内の人には薬莱山が北限ですヨと 説明します
 D「ここには、栗鼠がいます。カモシカが散歩に来ます。青大将もいます」 「ウチには狸も狐も熊もいます」ここは都会ビル街の森ですけど

 造林をし 花木を育て 梅干しを造り 販売している方々です。植物と動物については、当然詳しいです。軽い緊張感を味わいました。

 感仙殿前の板碑を説明の口火切る寸前 「アー ウチでは橋板に使っている」
 「伊達家と同じですネ」に 外の皆様 怪訝な表情なので 詳しく説明したら ワッー。

 善應殿で、「蟄居を命じられました。これは外出禁止です」に、「イイジャナイノ 畑をしていれば」 21歳で現役引退させられた苦悩を理解して頂ける範疇にありませんでした。

 伊達家の名前となった地名「伊達」の由来 伊達神社の由来に至り、「イタテが正しく ダテと呼ぶ人もいる。古墳の上に神社がある。・・・・・」と熱心に聞かせてくれました。氏子総代でしょうか。

この外 
@村の墓地改葬の際 土葬墓棺桶のお爺様は 水の中で汚れていたので 頭髪一本々を洗ったあげたのよ。
A先立だった夫が 三途の川を 漕ぎ渡って迎えに来たが3・4回ありました。朝 仏壇が濡れていましたよ。
と 都会の若い世代の人々が聞いたら、腰を抜かすような話を まだまだ語ってくれました。根は祖先崇拝。夫婦相愛の話です。

 「再び 訪れる事はないだろうし 又 ガイドも居ないだろうから 全部 キッチリ見ないといけない」と 熱心で 予定2時間をかなり超過しました。

 「ほかでは なにも見せてくれないのに、今日は写真に図面を見せて 聞かせてくれ 大サビースありがとう。今度 遊びに来て」 と云いつつ 仙台城二の丸の昼食会場に去って行きました。

 こちらこそ 誰彼 聞けない話しを聞かせて貰い 楽しかったです。産直に遊びに行ったら 野菜サービスしてネ



6 月 22 日 (日)  



 梅雨に入りました。緑がしっとりと濡れ 芽生え・新緑にない 大人の色です。

 国内の団体バス3台、中国からの団体も 参拝に見えていました。マスコミは、先週の地震の風評キャンセルが続発し 三桁から四桁になっている と報じています。その割に 通常より多いな と感じました。

 東京からの初期高齢のご夫妻にガイド中 地震の話になり 被害の有無を問われ、「被害皆無に等しく 仙台は安心ですよ」と話ししたら 「実は栗駒に登り 一関 平泉と回る予定を変更し 仙台と周辺に絞りました。安心しました」
 
 本日 参拝の方々 多いのは、東京のご夫妻と 同様の考え・行動でしょうか。喜んでよいものか。

 ループルバス 直前を走っています。本日一番始発のバスです。涅槃門前セット完了と同時に登って参りました。ご婦人独り旅の盛年二人。ループルバスのお客さんは、一般に竜巻です。此の方々は、そよ風です。聞いてくれます。撮影してくれます。10分ガイドとスタートしましたが、天女の羽衣・足まで語り、そして 妙雲廟界までご一緒し90分のガイドになりました。
 最後に名札を見て「アレー○葉さん 私 ◎葉なの 先祖は静岡で☆☆講元でした」 なるほど 歴史素養あってのお詣りとの感は的中したようです。

 戻ったら、成年婦人のYさんから「あかとんぼ さんは 盛年女性なら 安心出来るのよ」 褒められたと内心喜びました。 「若い男性のガイドなら 女性は警戒するものネ」の追い打ち。ガックン。

 OB会の会報担当のAさんが「先輩 元気にガイドしていますか。会合にサッパリでませんネ」と云いながら取材に来ました。確かに卒業して20年 一見して人畜無害になりました。
 「イヤー 健康管理には石段の昇降は最高ヨ。現役時代無口であったのがガイドしている。不思議かも。盛年女性からの人気高いヨ。Aさん 一緒ガイドしましょう」  ハハッと逃げて行きました。会報にどんなこと書くのでしょう。

 若い男女4人。「どちらから」 「ハイ 千葉・埼玉・茨城・栃木」 大抵は関東圏の人は「東京」と答えます。正直な人々です。
 寶筺印塔で、「最年少者は22歳 現在の年齢の数え方では20歳と?ケ月です。皆さんは平成生まれですか」 「イヤ サイショウです」 「?」 昭和の最後 1988年生でした。 となれば、数え年22歳で 殉死者の最年少者同じ筈ですが 理解されなかったようです。

 現在は、満年齢計算です。数え年で計算するのは お葬式の時だけ。ですから政宗公の年齢は 全て70歳行年で書かれていますが、読む人等は 満年齢では無いと理解していません。社会的に問題ありませんから 黙っています。

 美人ガイドのYさん 8日のガイドの際 臥龍梅の実 数え 自身のブログに5ケ実っていると記載 今日 数えて「アル ある」と。あかとんぼ には 1ケしか発見出来ませんでした。昨年は実らなかった実。実生してみたいです。



6 月 19 日 (木)  



6月14日日誌の続編です。

静寂殿 

4代綱村公正室 仙姫の御霊屋です。
現在はありません。門(涅槃門?)のみ 大願寺山門として残っています。

御霊屋は、仙姫が1706(宝永3)年7月4日逝去、満壽寺に葬り、翌年上棟し、1709(宝永6)年7月4日完成しました。
様式は、江戸中期、禅宗様の建築で、構造・形式は 木造・一間一戸・向唐門・柿葺で、総漆塗・金箔・飾金具で装飾されていました。
全体の配置図を 現在確認出来ていませんが、瑞鳳殿等から、涅槃門、唐門、本殿であった推測されます。
本殿・静寂殿も 総漆塗・金箔・飾金具の壮麗豪華であったかは、愛姫の「寶華殿」に比較するに疑問があります。

大願寺山門は、1998(平成10)年5月から解体・修理・復元工事が、現所有者 増上山大願寺が主体となり 62,527,000円の経費をもって行われ、1999(平成11)年3月に完成しました。

修復は、
屋根は、小栃葺から柿葺に、桟瓦葺を柿葺、鬼瓦を鬼板に戻しました。
台輪・梁・桁の木鼻類、大瓶束、蟇股、破風板等の細部意匠は保存状況良好で、現状修復しました。
桟唐戸の彩色、金具類の意匠、鏡板紗綾形文様、稲葉家家紋は、遺材・痕跡に基づき修復しました。
寸法
梁間 2.737m
桁行 1.326m
軒高 2.990m
棟高 3.842m

今一つ 仙姫の御霊屋の門と言われる 常年寺の山門は、質素です。総漆塗ではありません。現在 寺の山門として存置しています。
間口1.8m 奥行1.8m 高さ1.8〜2.7m (あかとんぼ簡易計測値)稲葉家家紋金具・瓦・彫刻以外の柱等は交換・補修が推測されます。

伊達家 華やかな時代を象徴する墓所 御霊屋は 明治維新・米軍空襲で 廃棄・焼却してしまった現在、その華やかな往時を現在に伝える 唯一の遺物は 4代綱村公正室 仙姫の御霊屋の涅槃門と推定される 増上山大願寺の山門のみです。仙台市指定有形文化財として保存するのみでは無く、仙台市民のみならず広く 知って頂く様に 務める必要性を感じています。

今回のシリーズは、編集 PDF化しHPに掲載します。

大願寺山門修復の記述は、山門掲示によりました。



6 月 16 日 (月)  



今回の岩手・宮城内陸地震(08年06月14日08時46分M7.2)は、8.16宮城地震(05年08月16日11時46分M7.2)に比較し、被害は軽微でした。

被害個所
寶筺印塔 4基 石田将監輿純、佐藤内膳吉信、南次郎吉政吉、(本殿右側前より)渡邊権之允重孝(本殿左側最奥)の上・頭部が落下。

地割れ 拝殿左広場に2ケ所 南東から北西方向に地割れ線

御子様廟 最奥 重村長男・泰涼院殿陽山智馨大童子と重村三男・金剛院殿臺樹慈蔭大童子の灯籠各1基が根元から倒壊。

復旧
寶筺印塔 男3人が持ち上げ 溝に嵌め込み復旧しました。石田将監輿純の搭はズレが微妙に残りました。一般の人は気付きません。

地割れ 足跡で完全に消えました。

御子様廟 未着手です。石工でなければ修復不可能。

対応
余震で 寄進灯籠が倒壊・落下した場合を想定し、涅槃門は脇入り口を使用していたが閉鎖、全て正面 大扉を開放 入門。

余録
本殿内では サンボウ(漢字不詳・菓子器)が落下した程度。
規模はM7.2 同じでしたか 震源地の違いか 被害軽微。
8.16宮城地震については、05.08.17.日誌を。
一部再掲
被害概要(あかとんぼ一目調査)
瑞鳳殿
 灯籠    奥山大学常長 古内主膳重広 茂庭周防守良綱寄進の灯籠倒壊・落下
 寶筺印塔 全20基 倒壊又は上部落下 若しくは移動 被害皆無はゼロ基
 地割れ   拝殿左広場に2ケ所 南東から北西方向に地割れ線
 ズレ    涅槃門透かし塀に灯籠が激突し 基礎木部にズレ
感仙殿
 灯籠    寄進者不詳の灯籠 上部又は下部にズレ 

U先輩から 「大年寺山伊達家墓所で 灯籠2基転倒」の情報がありました。
U先輩連日情報に感謝します。

風評被害
 依頼ガイド予約のキャンセル連絡がありました。「今回の地震で 7月7日の旅行を無期延期にしました」 仙台は被害皆無ですが 余所の方は 栗駒の山奥も仙台も一緒 区別つかないのでしょう。残念です。仙台七夕等にも影響するのでしょうか。



6 月 15 日 (日)  



 宮城内陸地震被害。
 寶筺印塔 4本の頭部が落下しました。
 昨日 Uさんは目撃しましたが Oさんがガイドについた時は復旧していたそうです。僅かな時差の間に復旧 誠に迅速です。痕跡は一般の人はわかりません。

 余震で涅槃門からの左右の石灯籠が 万が一 移動・倒壊しては大変と、事故予防から涅槃門の大扉が開かれ 皆さん 通っています。本来は、1月2日の年賀拝礼式と5月24日政宗公回忌法要の際、年間2回通算3時間のみ開かれ、かつ藩志會等関係者のみ(我等ボラガイドも駄目)しか通さない 涅槃門です。皆様は常時開放されていると思っていまして、「その旨」を話すと 「アーヨカッタ」「グットタイミング」「地震もヨイコトあるね」と口々に 歓声を上げていました。

 「政宗公は耶蘇の信者か」のご質問が朝一番に飛び出しました。「ナンデカナ」と問い直しましたら 「墓室からロザリオが発見されたと 資料館に記載してあったので」との事。

 若い女性がEさんに「伊達家家臣に吉支丹信者はいたのか」と似たような質問をしていました。

 「涅槃門の屋根 銅板の葺き方が 普通と異なり カギカギになっているが それはなぜか」 確かに 目を凝らせば 単なる重ね葺きではありません。
 基本資料である「瑞鳳殿再建の経過・瑞鳳殿再建期成会刊行」に記載なく「わかりません」と頭を下げました。

 拝殿の軒の金色金具を凝視している2人がいました。「どうしました」と聞きましたら「実に いい細工している」 金物細工の職人さんでした。

 日光からの一族郎党三世代15人の集団 頭目は 建築関係とか。本殿の三手先斗供を子供達に説明始めましたが、日光東照宮との共通点・相違点等ガイドしましたら拝殿に座してゆっくり聞いてくれました。

 ペアの女性無口です。男はお喋りします。「彼女 建築関係です」と紹介。旧来に無い組み合わせ 「男は黙って」の時代は終わった様です。

 夫婦に青年。青年は至る所 例えば透かし彫り等 撮影しています。奥さんにガイドしていたら 先行していた お父さん戻ってきて「俺にも聞かせろ」 ハイどうぞ。あかとんぼ は 「楽しかった」「ヨカッタ」と云われる様に それなりに努力しています。
 このお父さん「ウウ エガッタ」と 続いて「今日は 息子の仕事を見るに来たの。
30年前再建される以来で、大変見事に再建されました」 「ハァー」 「息子は松井建設です」
 褒める訳です。松井建設は瑞鳳殿再建工事の施工会社です。「今年の年回忌法要に会長が参列されましたよ」  息子 「エエッ」

 今日は 建築・細工のプロの前で 知らぬは佛で ガイドしました。ガイド内容に不適切な個所ありませんでしたか と事後確認はしました。一様に お世辞でしょうが「満点」と云ってくれました。



6 月 14 日 (土)  



 今朝8時43分M7.2の地震がありました。瑞鳳殿での被害状況は 明日報告します。12日の続きです。

祥麟山 伊達家墓所 綱村公正室「仙姫」御霊屋

  1935年に描かれた絵図に「御廟」と記載されています。現在地には それらしき建造物はありません。これは、「静寂殿」と称した 4代綱村公正室 稲葉氏 仙姫の御霊屋を示しています。

 仙姫は小田原・美濃守稲葉正則(侍従)の娘で、1667(延宝5)年4月結婚 稲葉氏は黄檗宗を信仰しており、綱村公も仙姫の勧めで信仰し、1696(元禄9)年 移転・改名の形式で満壽寺を創建しました。仙姫は、1705(宝永2)年7月48歳で亡くなりました。満壽寺殿實蓮淨晃尼大姉 と号し満壽寺に葬られ、御霊屋に尊像が安置・供養されました。満壽寺は、明治維新で七堂伽藍に十ケ院を数える搭頭共々 悉く壊廃しました。

 「静寂殿」の運命は如何に。1869(明治2)年 伊達家は神道に転宗しました。其の際 霊像を瑞鳳殿に遷しました。1879(明治12)年墓域を修築し、翌年 角石標三重臺の墓碑と、墓前に石灯籠数十基があったと伝えられています。この頃(正確な年月確認出来ていません)、涅槃門等は、大願寺(新坂町)と常念寺(東九番丁)に売却されました。
 1960(昭和35)年に、仙姫の柩は 榴岡の伊達家墓所に移葬されました。この時 他の墓碑は 現在地に従前の配列で移葬されました。跡地は「日冷」「東洋製罐」に売却されたと伝えられています。

満壽寺の由来
 開元山と号した。寺の新規創設が幕府より禁止されていたので、加美郡黒澤邑の安養寺を移転した形で、客殿・庫裡・書院・方丈・禅堂・山門・鐘楼等の七堂伽藍を建立、開元山満壽寺とあらため開山しました。堂内の彫刻 全て極彩色を施し、頗る壮麗荘厳を極めたと伝えられています。本尊は、片倉小十郎の母小林院が寄進した釈迦牟尼佛像(作 京仏師・法橋忠圓)です。境内374坪 墓地1120坪ありました。

 仙姫の御霊屋「静寂殿」があり、仙姫との間の長男 扇千代の位牌を安置した。これらから一門格で、百石の寺領、禅堂料50石 御霊屋番僧料金六両と手厚い保護がなされていた。明治維新で伊達家の庇護が途切れると共に、堂宇朽壊し、搭頭・三昧院で法灯を維持するのみとなり、現在の満壽寺となった。本来の満壽寺と9ケ院は廃寺になった。

現在の満壽寺の所在
 仙台市青葉区高町2丁目14番
 本来の満壽寺の位置は 確認に至っていません。

仙姫の墓所の所在
 仙台市宮城野区榴岡5丁目4番 
 2代忠宗公正室振姫 3代綱宗公側室三沢初子 両人の墓碑と並んでいます。
 此処は、伊達時代から 「伊達家墓所」と絵図に記載されています。

大願寺の所在
 仙台市青葉区新坂町7番
 門は寺の山門となっており、1999(平成11)年 創建当時に修復された。門は仙台市有形文化財指定です。
 当寺には 政宗公の灰塚があります。

常念寺の所在
 仙台市若林区東九番丁141番地
 門は 寺の山門となっている。大願寺に比し質素である。何故か。

続く。



6 月 12 日 (木)  



昨11日の補筆です

祥麟山 伊達家墓

現所在 仙台市宮城野区二の森21-28
昔所在 陸前國宮城郡小田原邑 (現在の仙台市宮城野区高松三丁目22)

現在 次の方々の墓石があります。

徳川氏 孝子 29世13代慶邦 後室
  徳川(水戸中納言)斎昭の娘 徳川15代慶喜妹
  1856(安政3)年4月婚姻  1869年(明治2)年11月卒 29歳
  淨條院

近衛氏 コ子 慶邦養女 宗敦(従五位)室
  近衛忠房(従一位)養女 実父廣幡忠禮(正二位)娘
  1871(明治4)年3月27月卒 22歳
  死因不詳なれど 2月に宗敦次男が卒している所から 出産・産後に起因するのでは。

渡邊氏 温子 11代斎義夫人芝姫の生母
  渡邊佐市右衛門次世娘 留尾の方  1885(明治18)年7月6日卒 88歳
  本光院

山本氏 恒子 慶邦生母 11代斎義側室
  山本七平敬勝娘 美屋の方 1876(明治9)年卒
  延壽院   墓石 姓と名の個所で 切断している。

矢野倉氏 隣子 徳川氏孝子の侍女
  1877(明治10)年3月卒

比留氏 光子  近衛氏コ子の老女
  1880(明治13)年8月24日卒
  通称 花垣。父権藤西京山科人也。コ子卒後 江刺・佐瀬能隆に嫁し、卒、在照山正源寺に葬 遺髪をコ子墓傍に葬。1882(明治15)年6月國分章士識 以上墓石に刻ある要旨

長谷川氏 閑子 近衛氏コ子の老女
  1875(明治8)年6月27日卒 53歳
  「以明治八年乙亥六月二十七日病終卒寓居享年五十三年九閏月葬 陸前國宮城郡小田原邑祥麟山廣幡氏墓側従前其議也」旨墓石に刻ある

伊達松五郎 慶邦三男
  1870(明治3)年12月卒 3歳  母 側室阿勝方

某     慶邦五男 名 母 不詳
  1871(明治4)年7月卒 1歳

某     宗敦次男 母 近衛氏コ子
  1871(明治4)年2月卒 1歳

國真柱忠心足彦大人堀友真 儒者
  1881(明治14)年6月卒 66歳 評定所役人 1879年宮城県議会議員



6 月 11 日 (水)  



 陸奥国宮城郡小田原邑祥麟山に詣りました。
 伊達家の墓所は、経ケ峯。大年寺山、北山、根白石、新寺小路等 仙台市内各地に所在しています。何れ 「仙台市所在伊達家墓碑名鑑」を作りたいと思っています。

 お詣りした祥麟山とは、仙台市宮城野区二の森21番28号に 29世13代慶邦公の生母・後夫人等の墓碑が所在しています。1959年頃改葬されています。
 「1935年頃には、近所の○○氏が居住し 墓守りていた」との資料もあります。よっこよりの勉強会の対象に 未だなっていません。先ずは 現地確認に行って来ました。

 整理し 続報します。


 本日地元紙夕刊に NHKTVドラマ「篤姫」の養父島津斉彬は 23世9代重村の孫とありました。

 調査しました資料には、家康と政宗の子孫とありました。

 斉彬の母は 鳥取 池田治道と伊達重村の娘(生姫)の嫡娘 周姫です。
 池田家の祖は、池田輝政と家康の次女(督姫)の子である。これらから「家康と政宗の子孫」との表現になった様です。 

 血脈は理解しました。幕末の両家の動き 政治・経済活動の格差 ・・・・・



6 月 8 日 (日)  



 樹々の緑が色々に輝き 梅雨入りの前の快適な環境・気候です。

 開門早々 成人男子50人ほどの団体。緑間にきらめく瑞鳳殿を驚嘆していました。早起き三文の得  早い参拝 ○○円の得です。今日一日 良い事あります。

 長崎からのご夫妻。仙臺城を三の丸から本丸に登り、此処瑞鳳殿まで歩いて来たそうです。ガイドしている内 相当の知識を持っていてガイドさせているな と感じて「史学の先生ですか」 「イヤ 東洋医学です」

 東洋医学の学会が二の丸の国際会議場であり・・・・。時間の有効活用ですネ
 長崎・東洋医学と云われ 和蘭医学・腑分・前沢良沢・・・・と連想しましたが 東洋医学と和蘭医学は別です。気付く迄 数秒要しました。

 「江戸から遺体を1ケ月要して運んだでしょう。遺体が損傷しないようにどの様な工夫がなされました」 
 「ハイ 御遺体は350km7泊8日で運んでいます。江戸からの下向は通常7泊8日から8泊9日ですから、特急便であったわけでもありません。
 御遺体の保存のため周囲に詰めた牡蠣灰が、結果的に損傷防止に有効であったと思います」
 納得されたか 追加質問はありませんでした。身長・病名等全て知っていての質問ですから。

 「ハンコ 貰えますか」 「ハッ」 御朱印を欲しい 御朱印蒐集でした。「瑞鳳寺さんでありませんでしたか」 に「上に行きなさい」で 「ここに来ました」
 「御朱印はありません 私のサインでは 駄目ですのネ 代わりに ガイドします」
 「瑞鳳殿の御朱印なかったけど 満足いく お詣りできてよかった」 ホッとしました。

 涅槃門の透かし彫りを懸命に撮影されている方 「どうも 上手く撮れない」と独り言 「それなり あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌 ご覧なれば」と こちらも独り言。
 聞こえた様で繰り返していました。ご覧頂けでしょうか。

 「ガイドさん モデルになって」 ハイと素直にモデルになりました。政府認定高齢者ガイドは珍しいのでしょうか。六十路入り口の方々 ボラガイドしましょう。



6 月 6 日 (金)  



瑞鳳山

 瑞鳳殿地区の所在 霊屋そのものなのに なぜ 霊屋下 と表示になったのか いつも思う素朴な疑問です。
 瑞鳳殿の所在は、「経ケ峯」と古来より云われてと認識していました。瑞鳳山と云われた時代もあります。

 弔魂碑(瑞鳳殿に所在する戊辰の役)の研究者木村氏の論文に「明治13年瑞鳳山で・・・」の記述がありました。初見でしたので「ハテナ」と申したら、次の様に教えてくれました。
「瑞鳳山という呼び方は、昭和30年代頃仙台の古老が言っているのを聞いていました。瑞鳳殿のK学芸員は、「そのような呼び方は聞いた事無く知らない。もし使っていたのであれば、当時 誰か有名人が言ったのを“はやり言葉”として一時期流行したのではないだろうか。また明治の始めはこれまでの事を否定する時代だったので、経ケ峰を使わずに瑞鳳山と言い換えたのかもしれませんね」でした。

 これは、はやり言葉ではなく、幕末から明治初年には 瑞鳳山 と云われていたと確信しました。
政宗公に殉死した大槻喜右衛門定安の末裔で、戊辰の役、西南の役に参加した大槻安広の履歴書に「慶応4年4月2日瑞鳳山祖廟に墓参」と記載あります。この履歴書は明治3年に 明治政府に提出され、控えは明治18年4月までの事項が補筆されています。

瑞鳳殿の所在は、現在、「青葉区霊屋下23-2」と表示されています。住居表示以前は、「仙台市越路瑞鳳寺前丁20番地」でした。明治8年「宮城郡仙臺町地引図」では 第5区19(民有墓地)となっています。
麓一体 以前は、バス通りは霊屋下、参道は瑞鳳寺前丁でした。

以上から、理の世界 公式は「霊屋下」 情の世界 ボラガイドは 「経ケ峯」または「瑞鳳山」と称しましょうか。

以上は、下記によりました。
1.戊辰戦争殉難藩士弔魂碑 2008.1.10. 木村紀夫氏論文
2.大槻安広履歴 1969.8.1.発行「伊達政宗・戊辰戦争 平重道著」
3.宮城郡仙臺町地引図 2005.4.23.発行「絵図・地図で見る仙台」
4.仙台市文化財パンフ「辻標」
5.青葉区まちづくり課○○



6 月 4 日 (水)  



 綱宗公の298回遠年忌法要が善應殿で催されました。

 09時50分 読経 瑞鳳寺・善應寺2寺3住職
 10年00分 焼香 無縫燈(熊谷渓叟墓)に鎌田瑞鳳寺住職
 10時02分 焼香 
        1.仙臺伊達家十八代当主    伊達泰宗 様
        2.殉死者後裔会副会長      細目典夫 様
  3.仙臺藩志会長          古内重義 様
        4.大年寺代表            坂  和夫 様
 5.(財)瑞鳳殿常務理事      鹿野正利 様
10時09分 挨拶
        1.仙臺伊達家十八代当主    伊達泰宗 様
        2.仙臺藩志会長          古内重義 様
        3.(財)瑞鳳殿常務理事      鹿野正利 様
 10時15分 一般参列者焼香
 関係者多数参列滞りなく終ました。
 我々 ガイドは4名参列しました。

なんかヨイコトありました。
 ☆坂  和夫 様に ご挨拶しました。
 「失礼ですが、140年前 戊辰の乱で敗れ その責を問われ 13代慶邦公を守る為 その全責任を背負い 逍遙と旅立たれた 但木土佐・坂英力の両英霊の坂氏末裔の方でしょうか」
 「はい そうです。曾孫です。連綿と仙台に住まいしております。但木様はお嬢様の世代となり関東圏に移られました」

 「私 ボラガイドしております あかとんぼ と申します。弔魂碑もガイドをしており、HPで 負ければ賊軍の悔しさを 紹介させて頂いております。志を同じくする者どもで 140年の供養祭をと思慮しております」
 「有難い事です。在郷でありました○○でも 顕彰碑等建立の計画のお話しを伺っています」

 「只今は ご多用の中 お聞かせ頂きありがとうございました。機会をあらため色々お聞かせください」 「宜しいです。名刺を持っていませんので」

 ★裏山探検しました。
参列しました5名で、善應殿の裏山に入りました。ガイドは不用と善應殿の近道と入り込み立ち往生する人々多数の小径です。

 「道を踏み外すと大変」(ロープの外は危険)と注意を喚起しつつ ロープの外にはみ出て 足元は断崖から 広瀬川の流れをみて注意をナットク。 樹間に仙臺城址を望み更にナットク。

御子供廟に下り 11代斎義公側室の墓前で、「正室は夫妻で日当たりのよいところ、側室は此処、あくまで 日陰の身」「いや お墓造られただけ厚遇されている」「13代慶邦公の生母だ」「イヤ 生保背は美屋の方、山本七平敬勝の娘 この方は美壽の方で 1869年10月31日66歳で亡くなられた。出産は記録されていません」と会話。

お役所仕事とは これ(墓石・灯籠の見える個所に標識の貼り付け)と指摘されハッ。
ガイドの際の注意・穴場を確認し和気藹々と 探検しました。是非 オプションにて 勉強成果を確かめて下さい。お待ちしています。



6 月 3 日 (火)  



 「瑞鳳殿ボラティアガイドの会」総会を開催し、07年度の活動を総括し 08年度の活動目標を定めました。

 現役時代の表現をすれば 上記の通り硬くなりますが、要は、常時活動しているメンバー8人が集まり、昼食を摂りながら ガイドの楽しさを各人が披露し これからも健康で 喜ばれガイドに努めましょう でした。

 話題の中で 記憶に残ったこと
1.資料館展示中の政宗公の鎧兜スタイル 等身代を示す意味であるとの事ですが、政宗公が着用した具足と 誤解してます。具足姿にするならば 美術品としても評価されている「黒漆五枚胴具足」を着用させて欲しい。今のは 足軽クラスの具足にしか見えない。

2.兜 博物館所蔵の重要文化財の兜に比較し ハテナと思う 黄金の半月 これも違う。テレビでの残像から ハテナの質問がある。発掘調査の際 純金の半月が発見されなかった事 掲示して欲しい。

3.殿の頭骨と肉付け復元が展示されているが、頭骨を展示する必要があるだろうか。医者等の専門家でない一般の人々は 嫌悪している。

4.昔は、殿様関係の文書・表現には 「御」が冒頭に着いた。読む時 イチイチ お・・・と読まなくとも 良い のでは。TPOです。
 では 御霊屋は オタマヤではなく タマヤですか。となれば 花火のかけ声ですネ。

5.管理事務所の所在が「霊屋下」は可笑しく無いか。「御霊屋」そのもの 基準点が 点以下と 同じ扱いにされるのですか。独り言 あかとんぼ はいつもブツブツ申している。 

6.仙台市長は 政宗公が400年前に仙臺の町を造ったを知っているのか。財団の副会長でしょう。なぜ お詣りに見えないのか。
 一同 サー。 
 戊辰の役 弔魂碑の存在も知らなかったと市議会で話題になったそうです。過去に捕らわれず未来志向なのではありませんか。
 では、なぜ 旧町名復活を推進するのですか。
 一同 サー。

7.駐車場整理員は、グループ学習型の小学生には、此処はなにか、政宗公の生年等をメモして渡している。喜ばれています。
 それは 結構な事です。竹杖の貸し出しは、近年最大の快挙ですネ。「土・日は ボラガイドがいます」と一声 アナンウスしてくれれば ガイド利用者が増えるのでは 整理員に伝えて欲しいです。

8.ガイドの際 参拝客に質問は避けた方がよい。観光に来てテストされるのかと 不快感を持つ人がいます。
 一直線ガイドではなく 参加型和気藹々を目指していて 麒麟等についての問いかけをしています。なるほど といかた・ま・タイミング等 工夫しましょう。

9.四方から一斉に バラバラと 機関銃の様に 質問が浴びせられ 往生しました。
 聞いて 「それでは 移動しながら順次 お話ししましょう」と引き取らなければ 立ち往生 進みません 勉強し マア 余裕持たなければ・・・・  なっとく の声。

10.あかとんぼのHPから 「天女さん」等 削除を考えています。
 現場で 足の形等をガイドすると 感心され 喜ばれます。削除は良く考えて。



6 月 2 日 (月)  



昨1日の追加

 ガイドをする際 名札を首から下げています。A6版の大型です。瑞鳳殿本殿写真を背景に 4cm角で「無料」と派手な色文字で その下に姓名が記載されています。 お客様に 安心と内容の保障を伝える為です。

 全国の主要な施設には 無料のボラガイドが居ます。旅慣れし上手に活用される方 沢山お出でです。デモ、中には 無料のボラガイだから とチッカイをかける人もいます。歴史・美術 伊達政宗も桃山様式も 興味が無く 日光東照宮にも行ったことの無い人です。反応皆無でガイド至難です。ハー チッカイをかけたな 理解します。

 名札の姓名を読まれた方から 「あら あかとんぼ さんは お目出度い姓名ですね。お寺さんですか。お坊さんですか。戒名ですか」と立て続けに問われ、名前を色々 読んでくれました。戒名ですかにはマイッタです。二文字の戒名は無いでしょう。最近 戒名に娑婆の名を織り込みする傾向は見られますが。
 名付けてくれた両親は 極楽で苦笑しているのでしょう。



6 月 1 日 (日)  



 昨日までの低温故にか、出足は多く無いようです。
 駐車場で、富山ナンバーの大型車が難儀しています。「お詣りですか。ここは職員用です 狭くて足場が悪いです。ここから左・左と進めば 立派な駐車場があります」 「ハイ・どうも」 カーナビのセットの仕方でママある事です。ガイド用具をセットしていたら登ってきました。「お待ちしていました。杉並木の参道 ヨカッタでしょう」 とガイドをしました。

 欧米系のご婦人3人を中年男性が案内してきました。日本語バンフを持つています。「どちらからですか。英語圏なら英文パンフあります」 「早く教えてくれれば」独り言 「これより 早くと云われても、案内してきたのでしょう、券売所で拝観券を求める際に 貰うべきでしょう」
 ボラガイド不用と言い捨て、涅槃門をも説明しないで登って行きました。間もなく アタフタと一人駆け下りて来ました「本殿左右の石塔はなんですか。政宗のファミリーか、確認してこいと云われた」  「それは寶筺印塔で、政宗のファミリーのお墓ではありません。・・・・・・」と。この方 欧米系のご婦人に弱いのか、エエ格好したかったのか。 日本男子シッカリしろ。だからガイドしましょうと申し出たのに断って。

 一行20人ほど。券売所前でクズグズしています。涅槃門での別の方へのガイド終わってもクズグズしています。15分ほどでしょうか。東京・神奈川の俳句結社の吟行会だそうです。涅槃門から案内し、本殿前で集合写真を撮影したら、お詣りもせずに 「サー帰りましょう」 此処まで来てお詣りもしないで帰りましょうは 無いでしょう。お詣りしたい、聞きたい、見たいの方々にガイドしました。聞こえないのか、聞かないのか、話し途中に、今 話しした事を即質問をする人も居ました。聞いて下さる方々には、東西参道合流点(登り口)迄 ガイドしました。 俳人とは 斯くもバラバラなのでしょうか。

 「私 上杉謙信の甲府」「私 川中島 武田信玄なの」 途中から 「米沢の隣り 上ノ山からなの」の一行が合流。「竹に雀」の家紋 その由来を 上杉家に至るに 話題は昨年と来年のNHK大河ドラマと、皆様盛り上がり 賑やかです。上ノ山の方「何回も来ているけど そうか初めてわかった」と大喜びしてくれました。 アーヨカッタ。

 今一つ 良いことが。5月18日ガイドしました 上品なご婦人一行代表から 写真が送られて来ました。何回かモデルになる 一緒に写る事あっても 写真の送付頂いたのは初めてです。事務所の皆様にも披露しました。○○さん感謝です。





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