2008年7月の日誌
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7 月 27 日 (日)  



 今日も雨です。
 2組11人をガイドしたのみです。雨降りは 足が速いです。立ち止まりません。ガイドを依頼される方々 聞いてくださるボランティアかなと思い 懇切丁寧誠心誠意ガイドしました。

 7月15日「瑞鳳殿十字模様」について、Yさんと本殿前で模様を見ながら語りました。
 理の世界では、佐藤功先生の「幾何学的四弁花」かもしれない。
 情の世界では、老境に入った政宗公の宗教心 阿刀田先生曰「禁教の法度であったにも拘わらず、石母田大膳をして後藤壽庵に示したと同じ好意を晩年も切支丹に対し捨てなかったと見ざる得ない」が心情的に納得できますネ。となりました。

 単なる四弁花と見るか、切支丹にかかる十字模様と見るか。みなさまの心情におまかせ致します。


 城下中心部に屋根・透明壁のバス停があります。この軒壁に「竹に雀」の伊達家の家紋風が描かれています。と拘ったのは、正式には竹の葉52(内22、外30) 露16(内4、外12) 節8となっています。数え始めたらバスが来ましたので未確認故です。
 伊達家が認めたものは、その旨の表示がありますが 見つかりませんでした。
 仙台市交通局ですから、当然 許しを得て 正式な家紋を表示していると思います。まさか は無いでしょう。



7 月 26 日 (土)  



 10月10日午前10時から、弔魂碑前にて 戊辰の役受難者供養140年祭を仙臺藩志会主催で催すと 仙臺藩志会柳沼事務局長から公式発表がありました。

 基本は6月25日記載の線です。戊辰の役での敗戦が 東北を白河以北一山百文の8文字で蔑称されたに奮起して 社名を「河北新報」とした 同社が120年祭程の支援をしてくれるか。既に3〜5世代に至った遺族に 如何に周知し、参列して頂くか。過去・現在・未来に続く、実のある碑前祭になるか この点がポイントと思います。藩志会事務局に期待します。

 仙臺藩志会主催「伊達学起こし塾」講座が開催されました。
 演題1「磐城戊辰戦争U」は 会津史学会会員永山三男氏。相当に入り込んで居ます。A3版の地図3枚に多頁資料を配付、ワイドショーのキャスター並140年前現地で取材した如く 90分の熱弁でした。

 9月27日「史蹟が語る仙台戊辰の役」と題して伊勢氏の講演があります。何処の史蹟を紹介されるか 楽しみです。そして10月10日午前10時です。

 「戊辰戦争」「戊辰の役」と異なる呼称は、講師の史観の違いでしょうか。

 演題2「仙台藩主七代重村公の時代」仙台博物館友の会理事土生慶子氏。歴代伊達家当主の生涯を語るシリーズです。重村公の時代は、度重なる凶作・飢餓。 それは財政危機に至る。例えば1755年の凶作は54万石の不熟。62万石の歳入あるべきところ8万石しかない、87%の歳入不足です。火災。地震にも見舞われています。35年間の在任中 地震・火事・凶作飢餓と波瀾続きで、没後も波瀾が続く・・・で終わりました。 
 土生先生は語りませんでしたが、戊辰の役で伊達家が敗者になった遠因は、この時代にあると理解しました。

 



7 月 22 日 (火)  



昨21日補足

妙雲廟界で。
1.11代斎義公と12代斎邦公は、いわゆる婿様であれば政宗公の血脈が途絶えた事にならないか。
  繋がっています。
  11代斎義公は、一関田村家からで、5代吉村の孫で、吉村は忠宗の孫です。
  12代斎邦公は、登米伊達家からで、忠宗4男と5男、綱宗4男、吉村5男と8男が継いで居ます。

御子様御廟で。
1.御子様御廟の墓碑の大小は没年齢に比例するか。
  殿様(父親別)、没年、没年齢別に分類検討しましたが 比例すると認められませんでした。
2.笠と灯籠ある墓碑と墓石のみの墓碑の違いは何か。
  墓石のみの墓碑は御子様でない方と 移転改葬された方です。

以上、この方政宗ファンでNHKTV「伊達政宗」は何度も 「樅の木は残った」も見ましたと語っていました。



7 月 21 日 (月)  



 梅雨です。晴の予報・予想が外れました。
 
 海の日(7月20日)は、1996年に制定された国民の祝日で、祝日化される前は「海の記念日」であった。1876年、明治天皇の東北地方巡幸の際、軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって、横浜港に帰着したことに因み、1941年に制定され、いつの間にか日替わりに成りました。

 三連休の前半、19・20日は1,000人位の参拝です。今日21日も同様の人出です。デモ、2組6人のガイドで終わりました。

 降雨で涅槃門前の四阿で待機していました。9時開門と同時、「あら ボラガイドさんいるわ。おとうーさん 頼んで」 小学生2人に両親親子。お母さんが熱心に話を聞き・撮影しています。50分ガイドです。

 「資料館は右回りで見学し、最後に珍しい本物があります。さて なんでしょう。見学終わったら答え合わせしましょう」10分後 降りてきました。「わかりましたか」
「アー 小判ね あれ本物?」 「小判は真物か。?です。小判の入っていた甕。綱宗公の甕棺です。真物です」  「ヘッェー・・・・」

 話し中に「ガイド出来る?2人親娘です。千葉から来ました」 「ハイ 只今のお客様も千葉の方でした。今日は千葉の日でしょうか?」 「瑞鳳殿テツテ これだけ?」 小さいな見るところあるかなの感じ  「時間 どの位あります?」 「14時まで 4時間あります」 「ハイ でも 今日は2時間で勘弁して下さい」 
 普通の人以上に いろんな事知っています。例えば 「愛姫にも殉死者7人居ましたネ。」 愛姫の殉死者は16人が正解です。数の相違は別として 殉死者がいた事を知っているとは驚きました。歌舞伎伽羅千代萩をもご存じ、知らない事以外はなんでも知っている 知識が ヤヤ こぼれ気味でした。
 昨日は、猛烈にこぼれ気味の方 一言ガイドに 三言語られ キキトリガイドでしたが、今日の人は 軽症で 楽しい方でした。

 「伊達家の墓所 政宗公から3代までと9代11代の殿様は 此処に。4代から8代10代と12代以降は 大年寺山の「法華林」「無盡燈」なる墓所に。政宗公以前の殿様は、関係寺院に墓所があります。ここだけ公開されています。如何でしたか」「ドウダ大きいだろう」の あかとんほ の気持ち

 「普通のツァーでは 通り一遍で ゆっくり見学出来ない。今日は心ゆくまで見学出来た。ガイド ヨカッタ マンゾクした」 ご満足頂け 我も満足。

 以上2組6人で気力・体力 限界で終わりました。994人以上のミナサマ 又の機会にガイド致します。



7 月 20 日 (日)  



梅雨あけ宣言されましたが霧雨の蒸す暑い天候でした。
 この悪天候と昨日の震度4(特徴・長時間の揺)の地震にも拘わらず、参拝者は多数です。子供は夏休み・親は三連休故でしょうか。昨日は1,000人の大台寸前であったそうで、本日は越えたのでは。バス停は15分間隔運行ながら参道に至る長蛇の列でした。冷たい麦茶を差し上げたい心境で通過しました。

 手水鉢を目にすると 大方の女性は反射的に向かい、連れに「ハンカチ」と叫んでいます。次に、若い方は携帯を取り出して「竜頭」を正面から撮影します。
正面からの竜顔は その表情をうまく撮影出来ないです。側面が面白いですが、側面に廻る方は少ないです。何故でしょう。

 奉納灯籠(茂庭周防守良綱・松山・一族)の基に山百合が咲いています。その香りに気付いて立ち止まる人が皆無なのは何故でしょう。
 Eさん 「この百合 2年生ですネ」 確かに正解です。06年以前には咲ませんでした。 「間もなく 東参道にウバユリが、瑞鳳寺前に半化粧が咲きます」と咲き始めから満開までの写真をして説明してくれました。

 涅槃門は開門されています故、扉の伊達家の家紋「菊紋」に直接触れることができます。皇室の菊紋と誤解されている方が大方で、喜んで触られています。
 「此は伊達八家紋の一つで、皇室の紋とは花弁の枚数が異なり」に 一様に「ヘー」と。  「お宅の家紋は?」 若い故に 「わかりません」の答えだろうと思いましたら 「☆☆☆ 平家の末裔です 鞆の浦の隣です」 予想がハズレ完敗です。



万葉集(7世紀後半から8世紀後半)に 
吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき (大伴旅人)
鞆の浦の 礒のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘られめやも (大伴旅人)



7 月 17 日 (木)  



拝殿 扁額

通常 「扁額 瑞鳳殿の文字は、当時一流の老書家 佐々木文山が76歳の時、500両のご褒美を頂いて、長持2棹 練習した上の文字です。1945年7月10日の米軍の空襲で焼失しましたが、これは復元たものです。赤色の下地は赤珊瑚の粉末を数回塗り重ねたもので、《瑞鳳殿》の白色の三文字は木彫の上に真珠の粉末を持って書いたものです。本物の写真は資料館に展示してあります。それには落款・落款印があります。・・・・・」とガイドしておりました。

さて、資料館の写真は、緑青色に着色されています。現在のものは赤珊瑚であっても、その昔 本物は緑青色ではなかったか の懸念が拭い切れずにいました。

1961年2月刊行「宮城県名勝地誌」瑞鳳殿の項に、「拝殿の正面には佐々木文山翁の揮毫瑞鳳殿の三大字俗に八方にらみの字とみるはこれ又殿の威風を授けて殊に額の装飾は南洋珊瑚の粉末の緑青色は実に面白く配合せられている」とありました。

 珊瑚の色 通常 赤・白・桃色のみ接していませんが、宝石・アクセサリーには緑青色がありました。

 焼失以前の真物の色は、緑青色と確信しました。ガイド内容を変更します。



7 月 15 日 (火)  



瑞鳳殿十字模様

阿刀田令造論文(1931年3月)に「政宗が設計し、その死後に於て廟が成ったと推定し得られるならば瑞鳳殿拝殿のうちに取りこまれている十字模様が問題になって来ねばならぬ。即ち第一図第二図はクロスの影響を被ったものであること疑ふ余地もないと思ふが、これを思想的に入れたか、或いは機械的に入れたか、これを政宗の生涯から朴するとき、思想的の入れたであると断ぜざるを得ない。禁教の法度であったにも拘わらず、石母田大膳をして後藤壽庵に示したと同じ好意を晩年も切支丹に対し捨てなかったと見ざる得ない」とあります。
下線は論文に点で表示されています。
この論文は、「瑞鳳殿の設計は全く政宗の意図に出ている」と論じた続きにあります。
模様を単なる模様と見ないで、思想的・宗教感で見ていることに興味を覚えました。

「宮城県名勝地誌」(1931年2月26日発行)遺物・瑞鳳殿の項に「実はキリスト教の十字架を図案化したものに相違ないということを最近第二高等学校教授阿刀田令造氏が発見した」と斎藤養治氏が記載しています。
当時、それなりに話題になったのでしょう。

論文の図と対照するにも、拝殿は焼失し、現拝殿は現代様式で再建されており検証不可であります。
論文は本殿を論じていません。しかし現在の本殿の通肱木(?)に、第一図記載と同じ十字模様があります。

瑞鳳殿再建期成会刊行「瑞鳳殿伊達政宗の墓とその遺品」の「X瑞鳳殿の建築 佐藤功」の「3.瑞鳳殿の建築と装飾」の項の拝殿に「幾何学的四弁花の連続模様帯」の表現がありますが、十字模様の表現は在りません。同じく本殿に「軒桁の装飾には円と隅切角と交互に連続させ、うちに四弁花及び・・・」の記述があります。これに基づいたものが現在の十字模様でしょうか。

さて、現本殿の装飾は、焼失前のものに如何ほど忠実に復元しているか。この阿刀田論文を前提に装飾されたか。研究課題です。近々に、装飾等に詳しいE・N両先輩に、現地で解説を頂きたいと思っています。



7 月 14 日 (月)  



瑞鳳殿の補修周期について

7月10日の日誌「築30年程度で補修」について「ハテナ」のメールを頂きました。
阿刀田先生も言い切っていません。県図書館所蔵各資料を検索しましたが、補修記録を確認出来ませんでした。日誌を補正しました。

あかとんぼ が 築30年程度と記載したのは
1.1666(寛文6)年の補修の程度が判然としません。しかし奉行原田甲斐が 手水盤を献ずるは、記念に価する大修理と理解しました。築30年目です。
2.伊勢神宮の式年遷宮は20年です。久能山東照宮の塗直し等補修は20年間隔。日光東照宮も20年間隔と聞いています。
3.現在の家屋は、20〜30年で補修工事が行われるのが通例です。
以上からです。

補修の記録は、重訂宮城県郷土史年表 でも確認出来ませんでした。

伊達家には「御修復帳」なる記録があり、「神社仏閣諸寺院諸役所萬御蔵共建替破損披成置候御修復本帳」と記載あります。

「御修復帳」は、1672(寛文12)年 1680(延宝8)年 1886(貞享3)年 1698(元禄11) 1773-5(安永2-4)年 1815-7(文化12-14)年に作成・補筆されています。

ほぼ同じ内容の「伊達藩封内神社仏閣等作事方役所修繕に属スル場所調」なる綴りがあります。1672(寛文12)年 1680(延宝8)年 1886(貞享3)年に作成・補筆されています。

両綴りの瑞鳳殿の図面を比較するに 些細な個所が異なります。作成年次の違いでしょう。補修工事施工の注書はありませんでした。
各御廟等の図面に接し 非常に参考になりました。

「御修復帳」は東北大学所蔵、仙台市博物館保管とのこと。原本はカラーです。
白黒の写本を宮城県図書館で閲覧しました。
「伊達藩封内神社仏閣等作事方役所修繕に属スル場所調」には、「此冊子戊辰ノ際散逸人民ノ所有ニ属セシヲ復収シ修綴ヲ加ヒ後世ノ記念トス 明治二五年三月修綴者誌」とありました。先見の明ある偉大な人物の名が伝わらぬとは、残念です。

本調査に「仙台城下絵図の魅力」仙台市文化財パンフレット第45集を併せて参考にしたらとE氏からアドバスを頂きました。感謝致します。



7 月 13 日 (日)  



 夏です。猛暑です。

 相馬市老人クラブからの依頼ガイドしました。お元気です。伊達家と相馬家4・5
百年からの諸交流から家紋・九曜紋、そして戊辰の役での苦労まで ご存じの方々です。60分の依頼でしたが、ジックリ聞きたいで100分ガイドしました。

 「あかとんぼ いますか」と券売所で声が。昨07年2月13日と06年12月25日の記事をご覧なった、伊達家序列永代着座二番座9位伊具郡丸森邑預かり3036石佐々家につながる方でした。

 亘理・伊達家に仕え、1870年北海道有珠郡に移住し開拓に従事した家系との事。瑞鳳寺境内の佐々家の墓所にご案内しました。三分の二に縮小され、草茫々の墓所に目前にし、其の心境如何なものでしたでしょうか。

 瑞鳳寺にて、佐々家の墓所が認められた歴史的経緯を確かめられるをお勧めし、「史料仙台伊達氏家臣団事典」佐々家の項のコピーを送るを約しました。


 弔魂碑前の蝋燭型灯籠に 幼児がピタリと抱きついて歓声を上げています。保護者は無関心に仲間とお喋りに耽っています。思わず「危ないヨ 降りて」と。保護者から 「無関係のジッコ 何を言うか」の目でギョロリされました。

 この灯籠 倒れた経緯があります。万が一 倒れれば何百キロの石塊の下敷きです。生命の安全は保障されません。将来の日本を背負うかもしれない人材の危機を見逃し出来ません。保護者の方 ご理解下さい。



7 月 12 日 (土)  



忠宗公の351回遠年忌法要が感仙殿で催されました。

 10時00分 読経 瑞鳳寺2僧侶
 10時15分 焼香 
        1.仙臺伊達家十八代当主    伊達泰宗 様
        2.殉死者代表            細目典夫 様
  3.仙臺藩志会長          古内重義 様
        4.一関藩志会            中鉢  弘 様
        5.大年寺代表            建宮文雄 様
 6.(財)瑞鳳殿常務理事      鹿野正利 様
10時20分 挨拶
        1.仙臺伊達家十八代当主    伊達泰宗 様
        2.仙臺藩志会長          古内重義 様
        3.(財)瑞鳳殿常務理事      鹿野正利 様
 10時25分 一般参列者焼香
 関係者多数参列滞りなく終ました。 我々 ガイドは3名参列しました。

夜来の豪雨で、俗塵が洗い流され、玉砂利は撒水された如く 清浄光輝の雰囲気の中での遠年忌法要でした。

 定期観光の乗客 アッと驚くばかりの人数。ガイドは政宗公遠年忌法要の5月24日にやはり多数を案内した○橋○子さんでした。「私ツイテルー。政宗公に忠宗公の法要にお詣出来た。綱宗公はいつかしら」 「6月4日でした」 「大丈夫 来年がある」 「あと60年はチャンスがあります」  「いや 来年迄です」  バスガイドは任期契約なのでしょうか。 でも誠に前向きなお嬢さんです。

 丁度法要が終わった所に20代のお嬢さん2人。「なにがあったのですか」 「ハイ
二代藩主忠宗公の351回遠年忌法要が終わったばかりです。皆さんの所では 何回忌迄法要されます。仙台では 33回忌までは普通。50回忌は少なくなります」  「ハアー 351回 考えられないわ」

 「この扉は 法要の際しか開かれません。365分の1日です。そして法要の前後の時間のみです。24分2の時間です。僅少のチャンスです。普段からの願望 願い事 お願い されれば叶うかも?」  お賽銭を投じ 頭を垂れ手を合わせていました。願いが叶えば 良いです。

 「あかとんぼ さん それがパワーポイント オーラー 風水 若い女性に人気よ
知っているじゃない」 と一緒の熟女ボラガイドから すかさず声を掛けられました。 「パワーポイントって 講演会でパソコンを使ってのアレじゃないですか?」  「アレー 意外とずれてますネ」 ガックン。



7 月 11 日 (金)  



読者の方から確認のメールを頂きました。
 
昨10日の内容中 「1666(寛文6)年5月24日」は、「1668(寛文8)年の誤記では? 文中に〔今に殆ど31年〕とあり、1637年に瑞鳳殿完成しており、又、同年地震があったから、1668年であれば 一致するが」 

 確かに、地震で本丸城壁等が崩壊しています。それは1668(寛文8)年7月21日です。同年は政宗公33回忌年で5月24日迄22日から2夜3日 瑞厳寺で法要を催しております。
 
 柴田外記が廟前に献じた手水盤を確認すれば最適ですが所在確認できません。寛文事件(俗に伊達騒動)処理で破棄されたと推定されます。阿刀田令造が著の「郷土史漫筆」の原(源典)を辿りました。

瑞鳳殿盥銘
奉献手水盤一個
正宗山瑞鳳殿前
寛文年五月二十四日柴田外記朝意
予甞少年奉仕英主
政宗卿且受抜羣之恩。一旦英主卒。今殆三十一年。祠廟巳破損。幸使予総督其修覆之事。因具此盤於廟前。輸微志者也

仙臺金石志上巻に以上を発見しました。
1666(寛文6)年です。阿刀田先生も誤記ではありませんでした。

 この仙臺金石志は、「吉田友好の著はす所にして仙臺領内の古碑古銅銕の像器等の文字あるものは細大漏さず金石文集の大成したものなり」で、仙臺叢書1927(昭和2)6月30日発行によりました。

「今殆三十一年」の数え方 数え年の数え方 1636年を含み(+30)と数える。満2年目が3周忌なる数え方と考えました。

 以上に至る資料は、宮城図書館郷土資料室書架
仙臺叢書仙臺金石志上巻 1927(昭和2)年6月発行
宮城県史跡名勝天然記念物調査報告書5輯 1931(昭和6)年3月発行
宮城県名勝地誌 1931(昭和6)年2月発行
重訂宮城県郷土史年表 1931(昭和6)年11月発行
伊達冶家記録 肯山公 前編 巻の5
によりました。 

 修復の記録・周期については、「仙台藩修復帳(宮城県図書館蔵)」を閲覧したら」のアドバスを頂きました。明日12日忠宗公遠年法要後 訪・調査します。
読者皆様の声援に深謝します。



7 月 10 日 (木)  



 瑞鳳殿は1945年 63年前の今日7月10日未明 米国空軍の爆撃で焼失しました。

 復元された現・瑞鳳殿に平成19年度167,158人以上の方々が、世界各地からお詣に見えました。そして口々に「絢爛豪華 さすが伊達様」と洩らされます。

 さて昔は、どの様に表現されていたでしょうか。「珠玉金銀を鏤め、黝堊丹漆を雑へ、彩画厳篩輪奐美をつくす盡す者、口宣ぶる所にあらず、心測る所にあらず、寔に扶桑中を盡して迫゙少きの寶殿なり」と云われた様です。(読めない文字ありますが、大意くみ取って下さい)

 補修については、1666(寛文6)年5月24日柴田外記朝意 手水盤を廟前に献じ、その盥銘の中に「英主卒し今に殆ど31年祠廟己に破損により修理」と記載があり、補修を繰り返し、1945年7月10日を迎えた様です。

 「廟の起工・竣功の年月は東藩史稿、仙臺武鑑、伊達秘鑑にも明示されていないが、1636年から足掛2ケ年で造営された。短期間工事に果たしての疑惑があり、忠宗公の造営に相違無いが、設計は政宗公の意図による。趣味・好尚がそのまま表れている、ただ これを証明する文献がある筈が無いだうが 発見されない」

以上は、郷土史家 阿刀田令造が1936年9月「郷土史漫筆」と題して刊行した図書の一篇に記載されている要旨です。

 創建当時・焼失する以前の瑞鳳殿は、
作事奉行 奥山大学助常長。工匠 米野内蔵助近吉、山内四郎兵衛貞次。書師 狩野修理進定吉。唐蒔絵 中村静六常長。

全体構造は、
涅槃門、拝殿、向唐門、霊屋、御供所、廻廊、玉垣からなる。

涅槃門は、
屋根切妻造銅葺、四脚門。構成装飾の美を尽くし 彫刻漆塗金具等に粋を尽くしている。

拝殿は、
七間の三間で正面に向拝をつけ廻縁を廻している。屋根は入母屋造銅板葺、総体和様。正面に唐戸、左右に揚蔀戸を開き、漆塗・胡粉彩色で彩られている。

霊屋本殿は、
方三間、19尺3寸四方。石畳上に直接立ち、屋根は寶形造銅瓦葺、異様な露盤寶珠を載せ、降棟には銅製龍首。総体唐様で尾垂についた三手先の枡組の複雑な構成。彫刻彩色金具を豊満煮付け、極楽浄土を表現している。
内部は、石敷。二本の来迎柱の前に石檀を築き、家型厨子を置く。内に政宗公木造を蔵める。虹梁大瓶束等唐様手法を鳥、内壁には板壁の上に金地に佛画を書き貼付。天井、厨子裏壁には胡粉で佛画を書いている。

向唐門は、
彫刻、金具、彩色で豊満に装飾し天井は金箔張り。金唐門とも称する。

御供所は、
竹楼とも称し、簡素な素木造。屋根は入母屋造銅板葺。吹寄の垂や筬欄間で住宅建築の趣がある。古城の書斎を移築したもの。

廻廊、玉垣は、
記載が無い。

霊屋は将軍・大名に行われた神社と佛寺を混合した特殊な建築である。瑞鳳殿は、神社風な拝殿。佛寺風な霊屋本殿、涅槃門、鐘楼が設けられていた。
霊屋本殿は、極楽浄土を表現し、遺骸を埋め即身成佛の思想が盛られていた。
日光・芝・上野の霊屋は権現造であるが、瑞鳳殿は本殿・拝殿を別棟にした所に特色がある。
江戸初期の建築であるが、桃山式の豪華雄渾な手法が随所に見られ、日光に勝る芸術価値がある。1931年國寶に指定された。

感仙殿は、
拝殿・門もあったが明示初年取り壊された。
本殿は、方三間、屋根は寶形造銅瓦葺。床は石畳、総体柄様。瑞鳳殿と同規模。
装飾は簡略。これは、時代風潮と政宗公との区別と云うことか。
1931年國寶に指定された。

善應殿は、
規模は同様である。江戸中期の建築であることから装飾も落ちて簡素なものである。

以上の様に、歴史・芸術価値がある建造物が、心ない空襲で灰燼に帰した日が、1945年7月10日です。
本項後半は、1950年8月に刊行された仙臺市史3別纂1によりました。



7 月 8 日 (火)  



 瑞鳳殿ボラガイド懇談会が開催されました。

 (財)瑞鳳殿から、20年度事業計画、参拝者動向等が説明されました。
 Hボラガイド会長から、活動実績と予測を報告しました。

 ボラガイドから、安全・快適に 感動的な参拝が出来るように、配慮して頂きたい事として。
1.62石段、拝殿に至る石段の昇降の安全確保策、手すり等の設置を。
 特に拝殿に至る石段は、足腰に障害ある方は、細い植木の枝にすがって居ます。枝折れし転落に繋がる可能性ゼロではありません。苦労されています。
2.トイレの増設を。冬季に所在の問いが急増します。歩行困難で参拝を断念された方 駐車場で待機中に不自由しています。
3.貴重な動植物の保護に考慮した環境整備を。

 容易に対応可能と思われる要望として、
1.涅槃門の閉扉。人命の安全確保は必至であるが、参拝者の満足度向上から。
2.音声ガイド設置位置の明示。

 参考意見として
1.七夕飾 和紙で職員が作った旨 表示されたら。
2.七夕飾解説 拡大・固定表示されたら。

 まとめとして
 (財)瑞鳳殿は、仙台市民には文化財的施設。観光の方々には、満足して頂ける施設に、ハード面で務めます。
 ボラガイドは、ソフト面でさらに勉強・努力しましょう。

 以上の記録では、硬い懇談の印象ですが、事務局長始め4人から ざっくばらん に数々話題が提供され、ボラガイド7人 釣られて ポロポロ語り 予定オバーし、150分の懇談でした。

 今後の催事等として
7月5日から、 「伝統七夕飾り」の展示・解説
7月12日は  10時から忠宗公の遠年忌法要
8月5日は、  市民参加の七夕前日祭
8月6日から、 七夕ナイト・コンサートの開催 
8月18日から、「仙臺藩の星辰信仰と天文学展」の開催



7 月 6 日 (日)  



 梅雨があけた暑さです。

 「松山から来ました。ガイドして下さい」 盛年5人。チョコチョコ質問してきます。夏目漱石の小説 坊っちゃん の先生風です。昨日から開催されている「日本古生物学会に出席ですか」と問ましたら、「昨日 仙台は愛媛に完敗したでしょう」 サッカーの応援で来仙。最高の気分での観光でした。
 なるほど 新聞に大きく「仙台走れず完敗」とありました。童話「ウサギとカメ」では走れるウサギが負けましたが 現実には 走れないと負けるの証拠の様です。

 欧米系男性を初期高齢ご夫妻が 通り一遍の案内をしています。全く 印象に残らず仙台を去られるのも残念と思い、拝殿の扁額 三ケ国語表示の頁を開きガイドしました。英語 読めないようです。佛国人だそうです。フランス語も英語も似たものと思いましたが 駄目でした。
 
 夫人から「なぜ この原色を使用したのか。なぜ 日光東照宮の真似をしたのか」の 質問がありました。

 今 別のご婦人が「これは 中国の模倣だ」と叫んでいました。桃山様式の建造物と聞いて呉れそうもない剣幕でしたので 聞こえないフリをしました。

 沙羅も臥龍梅も旬は終わりました。

 仙臺七夕 原型が飾られました。
 地震の警告文が掲示され、涅槃門は開門されています。警告文を読まず、開門の有難味を感じないで通過していきます。

 暑さ対策しましたが、予想が外れ、先週比 待機時間が長いので 早めに切り上げました。





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