2008年11月の日誌
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11 月 30 日 (日)  



 城下は強風で、中央分離帯の銀杏がバラバラと車を直撃し、駐車場は折れ枝が散乱していました。境内は、強風被害痕は清掃され皆無です。
 時折、小雪が舞います。手袋を忘れました。冷たいです。ポケットに手を入れたいのですができません。陣羽織にはポケットがありません。衣服のポケットに手が届かないのです。

 朝一番の男女5人。券売所で「おはよう」と挨拶して参拝をしないで、今来た石段を下りていきました。朝早く 長い坂道・石段を登られて、「おはよう」の挨拶だけで帰っていく。不可解な行動です。券売所のお嬢さんも「不思議」の表情でした。
 事件があると「不審者がいた」と報じられるのは、こんな人々でしょうか。

 参拝者は寒さに比例しないで続々と続きます。間断無くご依頼がありました。「20分頂けます」に、皆様「時間あります」。午前で6〜7組のガイドでした。ガイド終わっても、去りがたいのか、色々お話しをされる方がいました。「おしゃべりボラ」から「聴き取りボラ」になり、お付き合いしました。

 本日 最後は、欧米系の美男子に、大和撫子風の美人妻に、1歳の幼児の親子でした。時折 夫人が夫君に説明していました。1・2回 夫人から 「ウーン」と問われました。通常の内容でガイドしています。どうしてでしょう。年齢・日常生活の格差でしょうか。
 ビデオ撮影していましたが、肝心の本殿前では電源切れで 無動撮影になりました。せっかくのガイド、録音されないとは残念と内心思いました。

 欧米系の男子と日本女性の組会わせは珍しくありません。長年ガイドしていますが、逆の組み合わせ、日本男子に欧米系の夫人のご夫妻に 遭遇した記憶ありません。どうして この組み合わせの方々は瑞鳳殿にお出でならないのかな。

 27日の日誌に記載した「大阪夏の陣」の屏風。掲示は戦闘前の陣立ての景のみでした。伊達家・片倉家の家紋等の旗印が描かれています。



11 月 29 日 (土)  



 「辞世からみる仙臺戊辰の役」と題する講演会に参加。
伊達家臣関係だけで1260人以上の犠牲者を出した、この政治闘争。時間的余裕があっての旅立ちであれば辞世の歌もあるだろうが、戦乱にあっては 辞世の歌を纏める・記録する余裕も無かったろう。
 講師は予想以上に発見が困難であったと云いつつ、但木土佐・坂英力・細谷十太夫・玉虫左太夫・飯沼貞吉・梁川播磨・和田織部・若生文十郎・安田竹之輔・柴田中務の和歌・漢詩に、伊達慶邦の弔歌「國のためふかくはかりし此君に 千代のよはひをゆずるとぞおもふ」を披露された。

 和歌・漢詩の素養は貧しいながら理解するに、140年前の戦乱はなんであったか。先人の思いを偲ぶ講座であった。

 尚、10月10日の瑞鳳殿の弔魂碑前での140年祭には参加されなかった面々が見られ、参加は約100人と盛況でした。



11 月 27 日 (木)  



 大阪夏の陣

 瑞鳳殿売店に大阪夏の陣(1615年5月8日)の屏風絵図(圧縮)が掲示されています。多勢の人々が描かれ 其の中にあって 伊達軍勢は これですと解説されて居ます。なるほどとガイド前に見ています。

 昨晩放映のNHK「その時歴史は動いた。アンコール大阪夏の陣の惨劇」。この屏風は2双で右半分は開戦前の状況 伊達軍勢を初めとする陣立てを描いており、左半分が開戦後 戦いに巻き込まれた民衆の悲劇を克明に描いて居るとの事でした。

 30日 ガイド前に左半分を意識して見ます。瑞鳳殿・政宗公と狭い視野で屏風画を見ていたと教えられるでしょう。  



11 月 26 日 (水)  



 仙臺城址を案内する際、大手門から登り、清水門から三の丸に至るコースを常としております。

 大手門は1945年焼失し、再建されず 僅か 隅櫓が1964年RC造で復元され、多聞塀が唯一現存する建造物と云われ淋しい現況です。その偉容は資料説明に頼っています。
 門の目的、用途を質問される事があります。防衛能力を問われても 答えられずに居ました。

 多門櫓には、「嘉永元年8月大手脇御多門櫓大筒調帳」によると、唐鐵鋳又は鐵鋳台車付 大砲24門、筒長3尺8寸300目の弾丸を発射する大銃を始め 総数77挺の大筒が備えられていたそうです。

 本項は、ある武士の一族の記録 著 橘川孚 外 2007年発行によりました。



11 月 24 日 (月)  



 3連休最終日。松島・山寺・仙臺城址と廻り、瑞鳳殿をゆっくり参拝したいと申す方を始め沢山の方々。ガイド依頼も途切れる事なく「おこえかけ」がありました。

 朝一番、裏口から。「専門の方よろしく」と口の達者な個人ハイヤーの案内です。80歳代と還暦すぎの母娘の2人。3段一段の石段を目にして「ウー 駄目だ」 「運転手さん 娘さん 両脇抱えて。わたし高齢で体力無いから」 超特大の一眼レフを首に下げた80歳代の母 登りました。「今はこうですが、ヒマラヤに登ったのよ」
 はい そうです 人は生まれながら老人ではありません。私も抱えてあげられる体力 昔はありました。

 若い母娘の2人。母娘で別々に撮影しています。ツボを心得た質問をされます。静岡からの方で、久能山・東照宮に、三保の松原・天女伝説をもよくご存じでした。最近は地元を知らない人が多い世情から、地元を知って他国漫遊にお出で頂くとTBSの水戸黄門に出会った感じ 無性に嬉しくなります。そんことから 最近 あまりガイドしていない「天女さん」にも話しが及びました。明日にでも、三保の松原で、瑞鳳殿の天女さんとの相違点を探るでしょうか。

 お嬢さん4人。「どちらから」 「はい 私は気仙沼で、3人は北海道です」 「あら気仙沼では、殿様 鮎貝様 御一家筆頭1000石ですネ」 「ハイ 細かい事は存じませんが 鮎貝家のお屋敷の近所です」 「北海道は 札幌・白石区ですか」 「伊達市です」 「あつ 伊達市を開拓したのは 亘理の伊達家家臣の方々です。伊達開拓記念館 ご存じですか。札幌・白石区は白石の片倉小十郎の家臣の方々が開拓した所です。その伊達家の中興の祖政宗公の廟所です」 「ハイ」 
 本殿前で 家紋の話しになりましたが 皆様 「見ています 細かい事は知りませんが伊達家のものとは知っていました」でした。素養があります一団です。語り合い、撮りあい、楽しげに熱心に聞いてくれました。資料館も時間を要して居ました。

 お母さんと娘と息子。「この子供達にわかるようにガイドして」 「ハイ 5年生と3年生ですか」 「ハイ そうです どうして一発でわかりました」
 小学3年生が理解できるように説明。普段から 誰でも理解できる様にガイドしているツモリですか、一瞬 ウーンと内心唸りました。 あかとんぼ の孫に説明するつもりで語りました。聞いていたところを見ると 幾分なりとも 理解してくれたのでしょう。
 目の前に並んでいる寶筺印塔を省略する訳にいかず語りましたが、詞詰まりました。お母さんに お願いしましたが お母さんは若い故に十分 理解できなかったようです。当初 殉死とは、政宗公に恩義を感じた人が寿命で亡くなった時 側に葬ると理解していたようです。「イヤ 政宗公の了解を事前に得ての後追い自殺です」にウーンと唸りました。子ども達への説明はおまかせしました。どの様にされたでしょう。

 「竜頭を前面に、背景に今 盛りの紅葉を入れ、中間にモデルが立って撮影すると よい写真が撮れますよ」 と 俗にオバサンと云われる年齢のご婦人に案内したら 何を勘違いされたか 頬を紅葉させて 喜んでいました。

 再建寄付芳名録を熱心に見入っている老ご夫妻。「お名前ありますか?」 「ウン この筆頭にあるヨ」 寄付金額2億5千万円 寄付者宮城県を指差していました。なかなか 洒落た回答される方です。
 「ガイドイラナイヨ」 これ程 洒脱な方にはガイド出来ません 「はいー ごゆっくり どうぞ」 

 「千葉から牛タンを食べに来ました。時間が余ったから来ました、ガイドして」とスラスラ言えるご婦人からの依頼です。例によって ガイドする前にバラバラと質問の矢が飛んできます。「戦災で焼失した」 途端 「それで 政宗は 遺骨になったのか?」 「イエ 御遺体は焼けていません」 「イヤ そんなことは無いだろう。火事で焼けたから火葬しなくても良かったろう そうでしょう」  
 どうして ガイドを依頼していて 聞かないで 自説をガイドに押し付けるのですか。 「約3mの地下墓室に 棺桶に入って埋葬され 御遺体まで火力は届きませんから それなりに無事でした」の説明に至るまで 相当の時間を要しました。
 私は「瑞鳳殿をお詣りに来ました、ついでに牛タンを食べて帰ります」と云って欲しかったですが、この方「モウ 牛タンを食べたもの」とアッケラカン。正直な方です。 この様な 会話があることが ボラガイドの楽しみです。

 紅葉 南側が盛りです。拝殿前から 涅槃門越しで 太陽が燦々と輝いた時が見事です。撮影のタイミングです。 券売所前のモミジ等の色つきは イマイチです。

 全体案内板に、「携帯電話で昔の風景が見れます」のパーコード標示が貼り付けられました。「まちなかタイムトラベル」だそうです。
 あかとんぼ は 携帯電話操作の初心者で 操作出来ず 実見は出来ませんでした。「瑞鳳殿前の昔の風は 写真・絵葉書を持っているから ヨイ」のは 負け惜しみです。

 本日のY新聞地方版に「地元ガイド ただ今奮闘 伊達家ゆかり 名所案内」と記事とH代表が大きく映った写真が掲載されています。
 事務所で 「あかとんぼ さん 読んだ」と話題になりました。

 昨日 記載した 陣羽織 私の名札のみ残っていた原因は 月1回程度の人を含めてガイド12人です、羽織が10着です。コレでした。不足2着が 弱肉強食?となった様でした。事務所では 「来年追加します それまで なかよくネ」 と云ってくれました。お願いします。  



11 月 23 日 (日)  



 瑞鳳殿 紅葉 見頃です。
 先週16日は、研修の為休み2週間振りです。季節の変化を感じました。

 「あれ あかとんぼ さん 陣羽織 どうして着用しないの」 と事務所の皆様からお声が一斉に飛びました。
 「名札はありますが、羽織 私のだけ 見当たらないのです」
 「陣羽織は ガイドさん自身で責任持って管理して頂かなければ」
 「ハイ そのとおりです」
  
 16日はガイド全員休みです。Eさん、Uさんのはあります。私の陣羽織だけが無い。不思議です。誰か2枚着用しているのでしょうか。

 本日は、ANA(全日空)の企画商品「感動案内人プラン 奥羽の覇者政宗の足跡・伊達家ゆかりの地をたずねて」 の専用ガイドでしから 着用しなくても支障はありませんでしたが。明日からどうしよう。
 霙降る枯れ田圃の濡れ案山子の様に立っているだけのガイドになるのか。

 尚、本日の主なガイド個所は瑞鳳殿・仙臺城址・大崎八幡宮・仙臺東照宮です。仙臺城址・大崎八幡宮のボラガイドが、あかとんぼのガイド中に急接近してくるニアミスがありました。その意図・原因はなんでしょう。想像してください。



11 月 17 日 (月)  



 昨15・16日 戊辰の役 殉難者供養碑参拝団に参加致しました。
 1868年の戊辰の役から140年 中節目の年にあたり 仙臺藩志会は、「伊達學おこし塾」で、殉難者の末裔の方々等が講師として講座を昨年来開講していました。そして10月10日 瑞鳳殿境内弔魂碑前で慰霊祭を催しました。その締めくくりが、今回の「白河市女石」と「いわき市二ッ橋」での供養祭でした。

 15日は、白河市女石の「仙臺藩士戊辰戦没の碑」前で仙臺藩志会と地元仙台藩士供養会(会長石田絹子)と合同で供養祭が催されました。白河市ほぼ全域が戦場となり、300余の伊達家家臣が戦死し、約150人が埋葬されています。覺範寺副住職の読経の中、殉難者 中村嘉右衛門(行年35歳)、飯澤左久馬(行年36歳)の末裔の方々を始め一同 香華を手向けました。
 飯澤左久馬の曾孫は「遺体は帰って来なかった。出陣前の遺髪を林宅寺に埋葬した」と語っていました。

 16日は、いわき市小名浜二ッ橋の「仙台藩戦死者之碑」前で戦死73人の供養祭が仙臺藩志会主催で催されました。10月10日瑞鳳殿境内弔魂碑前での慰霊祭での弔魂の詞朗読の録音再生、藩士会副会長の鎮魂の詞、いわき市長(教育長代読)、地元富岡区長の鎮魂の挨拶、覺範寺副住職の読経の中、一同 香華を手向けました。
 1917年の墓碑建設施主富岡村 斎藤清八と1868年の殉難者 山路章之介の各末裔が対面・握手を交わしました。

 白河、いわきの両碑とも、地元の人々が清掃をされ、供養祭を催されていました。140年前 戦火に見舞われ、田畑を蹂躙される被害を被った人々 そしてその末裔の人々です。
 白河の老婦人は「私はよそからここに嫁いて来ました。姑から 気の毒な人々です。祀らなければと教えられた。守っているだけ」と淡々と語りました。
 
 これが 日本人の心でしょうか。

 あかとんぼ は仙臺藩志会会員ではありません。しかし、瑞鳳殿でガイドの際、弔魂碑も丁寧にガイドをしている。HPに頁を開設し広報している。清掃作業・慰霊祭・直会に積極的に参加している等が評価され、U氏とともに 特別に参加が認められました。140年前の歴史的出来事に思いめぐらす日々に、仙臺藩志会のご厚意に感謝します。

尚 今回の慰霊祭は、つぎのとおり 掲載されています。
河北新報は 16日 URL http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2008/11/20081116t15004.htm
福島民友新聞は、16日15日の両日報道しています。URL
http://www.minyu-net.com/news/topic/1116/topic2.html
http://www.minyu-net.com/news/news/1117/news4.html



11 月 16 日 (日)  



 本16日は、常陸國真壁郡伊佐荘(茨城県筑西市中館521)の、中館観音堂、七世行宗(行朝)公墓、伊佐城址、観音寺を訪れました。

 早朝、大雨の中、住職、寺族、檀信人10余人の出迎えを頂き、お話し伺いました。
 七世行宗(行朝)公供養の為の法華三昧の儀式が17回忌の1364年から営々と行われ、11月23日に行われるとの事。日程が1週間早かった事が悔やまれました。

 ここ伊佐城は、中村城から約8km離れて居ます。
 中村大明神の由来によると、伊達家祖朝宗の子 宗村が伊佐の庄を併領し常陸介に任じ、1189年文治の合戦後、為宗が中村庄を、其の子義宗が伊佐に移り、領したとあります。この項に異論がある方もおいででしょう。09.01.26.10:30仙台市民会館ぐるーぷ・よっこり の勉強会に参加してください。説明致します
 
 法華三昧とは、天台宗唯一の厳儀であって、往時は10月1日より三七間(サンシチヒカン)四坊六供院を上げて堂上に祈り、堂下の勤行川(現 五行川)で水垢離をし、法華経八巻の写業を営み、満願に際して行朝公の廟中に納めました。現在は法縁を拡げ供養しているそうです。

 観音寺は、1336年に行朝公が本堂等を新営寄進したものです。
 1705(元禄16)年 4代綱村は行朝公350回忌に当たり50石を永代寄進。
 1736(元文元)年5月13日には、5代吉村公が帰国の際、参詣、狩野探幽描く「八景の図」「螺鈿硯箱」(何れも茨城県指定文化財)寄進をしています。時間の都合で拝見できなかったは、誠に残念でした。

 2日間 「伊達氏の源流の地」の著者で、研究の第一任者の土生慶子先生からバスの中、現地で詳細な ご説明を頂きました。多少なりとも抵抗のあった中でお誘い、ご指導くださいました土生慶子先生ありがとうございました。
 恩返しとして、ガイドの精度向上を期します。

 著書を読み返すに 現地での時間不足が痛感されました。今回一緒したU氏と 再度訪れたいと思っています。



11 月 15 日 (土)  



15.16日 伊達家・源流の地を訪れました。故にガイドは休みました。

 「伊達家第一世 伊達朝宗は、鎌足十七世の子孫に当り、・・・略・・・従五位遠江守、常陸介に歴任し、常陸國真壁郡伊佐荘中村に住したので伊佐或いは中村を姓とした。・・・」と伊達家公式記録「伊達治家記録」に記されています。
 瑞鳳殿等でその様にガイドしていながら、これまで現地を訪れた事はありませんでした。「講釈師 見てきたように語り」の謗りと批判されないか忸怩たる思いで居ました。

 今回、「伊達氏の源流の地」の著者で、研究の第一任者の土生慶子先生から、「瑞鳳殿ではご苦労様です。今度 源流の地を訪れます。一緒にいかがですか」と直々のお誘いを頂きました。千載一遇の機会です。断る馬鹿ではありません。即、「お供させてください」とお願いしました。

 15日は下野國芳賀郡中村 (栃木県真岡市中)の中村城址(2406番地)、中村八幡宮(506番地)、遍照寺を訪れました。
 中村城址所在、中村大明神では、真岡市長始め地区老若男女100余人が、例大祭開始時刻を遅らせ、待っていました。熱烈歓迎の中、祭事に参加しました。

 由緒には、代々の中村城主の霊を祀って居り、初代中村小太郎朝宗は1159〜1160年間に中村城に入城し、中村氏の祖となる。以下記載省略とあります。非常に興味深い社です。

 遍照寺(ヘンジョウジ)では、住職よりご本堂にて由来を拝聴。
 見上げた欄間 極彩色の天女さんが様々描かれています。足が表裏描かれています。ゲスト参加ながら意を決してお尋ねしました。「足が表裏描かれています。政宗公が創建された大崎八幡宮、御霊屋瑞鳳殿に描かれている天女さんと 同様であります。私は 伊達家の特徴と理解しています。当寺様で拝見し太い御縁を感じました。描いた由来等をご教示願えれば幸いです」
 「気がついて居ませんでした。ご教示に感謝します。来年にでも瑞鳳殿をお詣りしたいです」 

 遍照寺は祈願寺であり、仙臺にも遍照寺がありました。これは、伊達・米沢・岩出山と伊達家と共に移転したものと思われます。要確認事項です

 中村八幡宮では、昇殿参拝しました。
 4代綱宗公が奉納した太刀・太刀箱(何れも栃木県指定文化財)に、15代宗基公奉納神号扁額、神号扁額奉納銘文額を拝見しました。これらは容易に拝見出来ない品々で、感激です。

 亀岡八幡宮は、梁川から遷宮したもので、伊達郡誌には「建久元年下野國芳賀郡より中村八幡宮を遷祀し、・・・亀岡八幡と称し・・・」と記載があります。大基を参拝しました。此また感激です。

 地元中村城顕彰会と仙臺藩志会との第1回交流会が1993年10月9日 当真岡市で開催、17代貞宗娘 伊達真美様が出席され、欅を植樹しています。この記念樹の銘板の除幕祭も併せて行われました。欅は20〜30m高に成長していました。

 夜、真岡市長・前市長・中村八幡宮宮司・遍照寺住職・市議会議員・中村城顕彰会会員等15人程のご参加を頂いた交流会の末席を汚し 貴重なお話しを伺いました。 



11 月 13 日 (木)  



 殿様は東参道を如何に登ったか?

 10日「仙臺藩志会」役員6名と(財)瑞鳳殿常務理事との参詣の際、話題になりました。
 修行中のあかとんぼの私見ですと断り 次の発言をしました。

☆忠宗公は乗馬したまま登ったかも知れない。
根拠として
@武将として この程度の登坂は容易であったろう。
A石段に改修されたのは 古地図から後の時代と推定される
B現在の券売所に厩が所在した時代が古地図に見られる。

☆忠宗公以外は、現在のループルバス停から徒歩で登ったのではないか。
根拠として
@石段に改修された。
A貴族化し、乗馬で登坂する技量を持っていたか。
B金比羅山の駕篭の様に、殿様を乗せたままで横向き登坂は無礼では。
C下馬石で、乗り物から降りろと指示をしていて 殿様のみ駕篭で登れるか。

以上から、全員納得し、62段を改めて数えて登りました。

忠宗公は、「生涯 何回 参詣されたか」問われました。
「在国中 年1回は参詣されたようです」と答えました。

その根拠は、平重道 解説 伊達冶家記録5巻53頁「承久3..3.24.瑞鳳殿参詣 29日例年のとおり御西館に饗応として御出 瑞鳳殿参詣と姉御西館訪問は忠宗の参勤直前の恒例行事」によります。

忠宗公の供養の詳細は、次の通りです。
@ 1636.09.05. 38歳 百ケ日法要 瑞厳寺
A 1637.05.23. 39歳 一周忌法要 瑞厳寺 名代伊達安房成実 
B 1637.07.22. 39歳  瑞厳寺
C 1637.10.24. 39歳  瑞鳳殿落成
D 1638.05.24. 40歳 三周忌法要 瑞厳寺 名代伊達武蔵宗利 江戸在勤
E 1640.05.24. 42歳 瑞鳳殿に木像安置
F 1641.12.24. 43歳 瑞鳳殿 参詣
G 1642.05.21. 44歳 七回忌法要 奉行中嶋監物 江戸在勤
H 1643.05.24. 45歳 瑞鳳殿 参詣 総足軽・御小人に御酒下さる
I 1646.05.24. 47歳 瑞鳳殿 参詣
J 1647.03.24. 48歳 瑞厳寺 参詣
K 1649.04.24. 50歳 瑞鳳殿 参詣
L 1652.07.24. 53歳 
M 1653.02.22. 54歳 17回忌法要 在国中 繰上
N 1653.02.24. 54歳 瑞厳寺 参詣 木像安置
               忌赦 罪人5人放牢 死罪1人赦免
O 1654.12.24. 55歳 瑞鳳殿 参詣
P 1655.03.24. 56歳 瑞鳳殿 参詣
Q 1656.05.24. 57歳 朝 瑞鳳殿 参詣
R  1657.01.24. 58歳 瑞鳳殿 参詣
S 1658.05.24. 59歳 瑞厳寺 参詣
1658.07.12. 仙臺城二の丸にて逝去。





11 月 10 日 (月)  



 御縁があって「仙臺藩志会」役員6名と(財)瑞鳳殿常務理事に、あかとんぼのガイドの実際を 2時間余を要して見て頂きました。

 県内の生涯学習団体のバージョン(一応の知識のある方々)でガイドしますとお断りして、券売所前から、ご芳志芳名録板、表示板(狩野安信描肖像画)、涅槃門(透かし彫り・白檀)、三段石段(石灯籠奉納者・段差)、御供所(資料館)、拝殿(焼失前写真・文山・真珠)、龍、本殿(内外・8家紋・十字模様)、弔魂碑、感仙殿(逆阿吽瑞鳥)、善應殿、妙雲廟界、西参道、西討戦没之碑、御子様御廟、東参道(62段)と廻りました。カッコ内は特記話題。

 途中での貴重なご発言等の一部を記載します。

 本殿前で、「完全復元と理解していた。昭和の技術主体とは。なぜ創建当時と同様に復元しなかったのか残念だ。焼失前の拝殿・唐門の様子を初めて知った。」

 善應殿で、綱宗公は甕棺で水銀が詰められたに「なぜ水銀なの。政宗公は石灰だよネ」の確認が入りました。
 「なぜ甕棺で水銀なのか、なぜ埋葬が変化したかは、勉強不足でわかりません。政宗公は牡蠣灰と説明しています。学問的には石灰です」

 弔魂碑で、碑の内部撮影写真を公開し、殉難者1260人の氏名が刻まれていなかったとの報告から、「市で補修工事計画があるらしいが、日光東照宮の寄進灯籠は、政宗公だけがポルトガルから輸入した鐵材で鋳造された鐵灯籠である。各地の弔魂碑は石塔である。この伊達家の鐵に対する拘りを無視する様な工事を実施しないで欲しい」で、意見が一致しました。

 供養燈の奉納者名 欠落部分を確認出来ないまま HPに掲載していますの あかとんぼ発言に、藩志会に全氏名記載の資料が保存されている筈、調査し発見次第 贈呈しますとの 温かいお言葉。期待しています。

 感仙殿地区が、戊辰の役後 附属施設が撤去、整理・統合されたは、不知であった。

 9代周宗公墓前にあったとされる「水盤」(正しい名称失念中) なぜ 門後に移動したか 奉納者末裔の方は事情不明と申していたと親しい方 小首を傾げていました。

 妙雲廟界で、板石塔婆にあったの雨屋の存在・規模が話題になりました。

 「満海上人の墓は?」の問がありました。古文書によれば創建工事の際、錫杖等が発見された。古地図には満海上人塔の記載がありますが、お骨が発見され、埋葬されたの記録には接していません。1989年暫屈跡に満海上人塔画再建されました。あそこです。
 所で、本殿の寶筺印塔の説明に「お墓」と記載されていますが、下に埋葬されて居らなく、各自のお寺のお墓に遺骨は埋葬されています。となると 虚偽の記載になりませんか。の話になりました。

 御子様御廟では、「霊気を感ずるので怖くて入れに無かった、皆様と一緒なら」と意を決した方から、11代斎義公の側室の、13代慶邦公の長男・長女等の お墓はどれですか、そのほか 現在の倫理を超越した厳しい質問がありました。

 最後 多くの参拝者に満足して頂くにはどうしたら良いか と前向きの発言が皆様からありました。主なもの。
○各石段に手すりの設置。
 高齢者の安全・安心の参拝の為に。竹杖の貸出は好評です。
○展望台の設置。
 仙臺城跡、城下、広瀬川の蛇行 これらが一望出来る位置にある。設置すれば 政宗公が なぜ ここを終の棲家に定めたか その心に至るので無いか。
○売店・土産品の設置。
 拝観後に ゆっくり参拝記念品を求め、休息する施設が必要でないか。
 何故、坂下の民地に門前町の様に 開業されないのか。瑞鳳殿に対する遠慮なのか、採算性なのか。
○トイレ・貸しロッカーを駐車場に設置出来ないか。

(財)瑞鳳殿常務理事から、
 安全性の向上、景観の整備等 検討し関係機関と協議を続けています。参拝者の意見の尊重が基本です。アンケートを実施しています。今後とも よろしく ご支援の程を。

 本日は あかとんぼ のため ご多用の諸先輩 時間をさいて ご指導して頂きました。誠に ありがとうございました。今後も よろしく お願い致します。



11 月 9 日 (日)  



 境内の樹木は紅葉を始めました。
 開門と同時に参拝者が、そして ガイド依頼が続々と。

 茨城県からの若い女性。伊達家の発祥の地は「常陸の國真壁郡伊佐の庄」と聞いた途端、真剣になりました。現在 筑西市・・・の呼称ですが お住いなのでしょうか。20分の約束が延び仝40分。資料館をゆっくり見た後、本殿に戻り 桃山様式の建築美を堪能していました。

 神奈川県からの中年女性2人。足と口が急ぎます。本殿を目指します。ガイドする前にあれこれ質問します。「コレの戒名は」 「はい 政宗公の戒名は瑞厳寺殿貞山大禪居士です」 「ウー」 戒名とは何ですかと聞かれる事暫しにあって 戒名はと問われるは、なんか有難い事ですが、口調が トゲトゲしています。波長が合致しません。20分の約束でしたが10分でまとめました。

 殉死者の末裔の方が見えました。「殉死者の名簿ありますか。お墓ありますか」のお尋ねでしたので、資料を開きました。
「お墓は 各々お寺さんにありますが。此処にありますのは供養の寶筺印塔です」 納得され 一同4人で撮影されました。「私は○○です。○○△夫は従兄弟です。近所に住まいしていると聞いて来ました。ご存じでしたら教えてください」 「後裔会の役員をされてる○○△夫さんであれば存じています」 ご案内しました。
 間もなく戻ってきました。「体調不良で会えなかったが家人と話しをしてきました。ところで、高野山に政宗公と殉死者一同のお墓があるらしいが知っていますか」 「はいあります」 手持資料をお見せしました。
 「私ら夫婦は、84歳です。先般モロッコ?に旅行した際、一緒になり親しくした方 殉死した先祖に 殉死した家来の末裔の方でした。驚きました。その様な縁から本日お詣りしました。今度 高野山にお詣りに行きます。ありがとうございました」

 今一組、殉死者の末裔らしい、雰囲気、質問された方 おりました。明言されませんので 詳しいことは聞けませんでした。

 福岡からの高齢のご夫妻「この後 どこを見たら良いでしょう」のお尋ね。「桃山様式で、政宗公ゆかりの建造物であれば 大崎八幡宮。忠宗公建造の仙臺東照宮も 素晴らしいです。大崎八幡宮は市内循環観光バスで行けます。仙臺東照宮はタクシー利用となります」
 
 そばで聞いていた中年女性 「アレー ループルバス 大崎八幡宮に行くそうよ。サー アナタ 行きますよ。仙臺東照宮子供の時代は欄干に上がって遊んだのヨ。今 金網の中に収容されたと聞きました。ホント?」

 仙台駅に総合観光案内所がありますが、あかとんぼ 今日は私設移動案内所でした。 



11 月 8 日 (土)  



 瑞鳳殿お詣りせずに仙臺を語る事なかれ。
 柴又の寅さんのセリフに「日光見ずに結構と云う無かれ」があったと思います。そのパロティです。デモ、そう思っています。

 仙台・宮城DCの「町中ガイド」を依嘱され、本日もガイドしてきました。新潟県の或市の青年会議所の面々です。仙台市には、早くから予約したそうです。ガイド指示があったのは、家を出掛ける直前です。団体をガイドする際、事前に指示があれば、どのような目的の団体で、仙台との縁故等をWEBで調査します。さすれば、ガイドの雰囲気は一辺します。この余裕無くガイドに望みました。

 仙台駅から名掛丁・新伝馬町・大町・国分丁・東一番丁・定禪寺櫓丁(旧町名)と、400年前から1945年そして現在にと変化を語りました。
 このコースには、呉服屋さんが4・5軒に和装品店が盛業中です。何故か話題になりました。高齢者率の低い町 若者の町ですが、専門店としての個性を強調している故に、山形・福島等から 「あそこに行けば 確かな良品がある」とお出でになる。コレがポイントと経営者から聞いていますと回答しました。

 人口は問われました「夜間人口は103万人、昼間人口は110万人を越えるかも」と答えに、「私らの町は、昼でも人通りが無く、北陸新幹線が開通すれば 単なる通過点になるかも その対応の勉強にきました。この人出が羨ましい」でした。

 青年会議所の面々の研修です。銘菓・名産品の老舗も案内し期待に応えたツモリです。仙臺城址も瑞鳳殿もありません。仙臺城址から城下を臨めば、何故仙臺に町を開いたか 政宗公の先見性を理解できたのにと思いました。

 スタートの際、日程を確認しましたら、上記町中を視察し、牛タン定食を食して離仙とのこと。思わず 口に出た言葉が「瑞鳳殿お詣りせずに仙臺を語る事なかれ」でした。 



11 月 7 日 (金)  



 10月2日 大崎八幡宮を関西からの方をガイドした際、「石段登り初めの左側の石柱は何を意味して居るのか。珍しい形状である。右側の石灯籠は変形しているが何を意味して居るのか」と問われて、即答出来ませんでした。

ガイド仲間のUさんが、昨6日 宮司・小野目博昭様に尋ねてくれました。
 その答えは「石の階段、下より見て左側の細く高い石の物は、石鳥居の残材を活用し作った灯篭です。右側に丸い石で出来た灯篭(下から見ると三日月で、階段の上から見ると丸い形に見えます)と長短の対になった灯篭です」でした。

 右側の三日月の石灯籠は面白いと撮影はしていました。左側の石柱は灯籠とは知りませんでした。「長短の対の灯篭」 それは何を意味するのか。お客様との問答が楽しみです。

 Uさん 感謝です。
 Yさんからは、5日のVTRをDVD化準備中とメール頂きました。感謝です。



11 月 6 日 (木)  



 三慧殿 (サンミンデン) 政宗公嫡孫光宗公御霊屋を参拝しました。

 縁あって、昼、大梅寺に、夕方 瑞厳寺、円通院を参拝しました。

 瑞鳳殿本殿前に、直径1.5m程で、銅板を打刻製作した仙臺銅器職人の傑作とも目される大型香炉2基があります。この香炉を寄贈した仙臺最古の店と自称する「タゼン」さん等の「仙臺暖簾を守る会」の行事に参加した結果です。

 大梅寺で95歳の住職から言語・意味共に明瞭な直々の説法がありました。石段も矍鑠と上下していました。「仙人」に会った感じでした。
 仙臺藩志会理事の一人も世話人で参加していました中で、他の世話人から「大梅寺と瑞厳寺は姉妹寺です」の解説があり アレー。親寺と末寺との関係は知っていましたが、初めて聞きました。兄弟寺なら と思いました。お寺は 「女」だったのでしょうか。母港と云います。悩める者全てを救う 受け入れるのが お寺。お寺は母親。やはり 女で姉妹寺となるのでしょうか。

 瑞厳寺参道は、静寂で暗闇で蝋燭の灯で一線を描き、本堂に導いて居ました。この演出は、瑞鳳殿の七夕ナイトのアイデアを借用したものでしょうか。
 Uさんは、この暗闇の森の中で 虚無僧姿で尺八を奏したと 以前 洩らしていました。如何なる心境で どんな世界に溶け込み なにを感じたとったのでしょうか。

 円通院は、「幽玄の世界にあなたを誘います。松島紅葉ライトアップ」と称していまして、庭園を照明していますが、御霊屋・三慧殿はライトアップしていません。暗黒です。建築美を観賞するには やはり日中の参拝です。

 昼夜 豪華華麗な桃山様式の建築美を観賞されるなら 瑞鳳殿 に勝るものはありません。金曜日16時から19時迄 ぜひ 瑞鳳殿にどうぞ。

参考
 大梅寺とは。
 仙台市青葉区 蕃山(標高320.7m)麓に所在。1650年 瑞厳寺の中興開山となった雲居希膺が、瑞厳寺を退いてから小庵を結んだが始まり。
 修行寺と位置付けられ檀家の無い寺です。尚、夏路漱石の「草枕」に「陸前の大梅寺に行って修行三昧」と記されています。

 三慧殿とは。
 宮城郡松島町に所在。政宗公の嫡孫光宗公の御霊屋です。
 光宗公は政宗公の嫡孫で、かつ、家康公の曾孫で、徳川と伊達の両家の縁戚の結実で、伊達家三代目として期待されながら、1645年19歳で突然死しました。暗殺説もあります。円通院殿要山関公と号し本地に埋葬されました。御霊屋は1646年に創建されました。
 国指定重要文化財。規模は、単層方三間、回縁付、素木造。内部は床板張り、挌天井。須弥檀に家型厨子を安置。厨子は漆塗胡粉彩色、金箔押。厨子内に束帯姿で白馬に跨った光宗公像中心に、左右に金剛神を擬した殉死者立像を配しています。



11 月 5 日 (水)  



 本夕、NHKTV仙台・「てれまさむね」の番組では、仙台・宮城デ゙スネーションキャンペーンの一環として、ライトアッフーをしている瑞鳳殿を18時33分から3分間、生中継をしました。
 月は、政宗公の兜の前立てと同じ位の半月です。その暗闇に突然の点灯 ライトアップされた瞬間 瑞鳳殿は、真黒い漆塗りの背景に、黄金と極彩色の飾・彫刻が、輝き立体的に浮き上がりました。

 案内役のリポーター遠藤育美さんが、「アッ 綺麗 豪華」の雄叫び。以後は滑らかに彫刻等を語り。H代表は、忠宗公直筆の扁額の金文字の輝き、美貌の天女さん全体が立体的に浮き上り見える等、昼と異なる美しさを説明しました。

 ガイド仲間「ぐるーぷ・よっこり」「瑞鳳殿ボランティアガイドの会」の 9人。今、参拝者に評判の政宗公陣羽織・五色水玉模様をデザインした羽織を着用し、花組は前列に、枯木組が後列に並びました。
 「背中写さしての依頼が多いですよ」に、内海祐実デレクターから急遽、「Sさんがカメラ移動に会わせ、反転して」の指示。無事 背中の「竹に雀」の家紋をご披露しました。

 緊張の放送終了。最後 右手を全員で振りました。スダジオ見学の小学生の真似です。Nさん曰く「コレ よっこり5年1組だね」

 放送直前に、リポーターの遠藤さんはH代表とチョチョコ打ち合わせし要点をまとめました。本番では綺麗で通る声で、深い知識がある様に紹介しました。高齢者には出来ない芸当です。見事です。レポターの出番の無い日 一緒にガイドして頂けませんか。
 
 このライトアップは金曜日16時から19時迄 行われています。極彩色の御霊屋が幻想的に浮き上がり 極楽か 竜宮城かと 思う美しさです。ぜひ ご参拝・ご鑑賞されますよう お勧めします。

 あかとんぼ家のVTRは録画を拒否しました。で、本人は見ていません。もし 録画された方 コピー頂ければ 幸いです。宜しく。



11 月 3 日 (月)  



 文化の日です。365分の1の文化的生活をする、又は文化財を大切にする日で、常の非文化を反省するのでは無く、より文化的に過ごす日と理解しています。

 その様な思いの人が沢山参拝に見えました。6〜7人の一族一家の団体が何組か、5〜6人のお嬢さんの集団も目につきました。

 朝一番、静岡からの一族一家。「静岡からですか。久能山・東照宮と基本的に同じ 桃山様式の御霊屋です。家康公と政宗公の違いです」 に全員 納得の表情。以後ガイドは好調で、40分要しました。
 家長。涅槃門の彫刻を一見 「アッ 麒麟 だ」朝一発麒麟との回答には驚きました。99人迄 龍と答えます。あかとんぼ の感想を素直に伝えました。マンザラでもない様子 ニヤリとしていました。
 息子は家紋に興味があるとか、涅槃門の菊紋から質問の連発です。本殿・斗供の飾紋をも熱心に見ていました。
 最後、飛天を説明し、「みなさまは天女の本場からでしょうから ここの特異性 お分かりでしょう」 に全員 「ウーン」 
 「静岡に帰ったら久能山・東照宮にお詣りに行こう」と囁いていました。「石垣苺の頃ですか」にまたまたニヤリしていました。

 大阪からの一族一家。ゆっくり、詳しくの要望で、やはり40分要しました。

 5〜6人のお嬢さんの集団の一つ。「ガイド無料てあるよ」と囁いて居ます。代表が「オジサン 無料って タダ?」 「ハイ そうです」 先ずは 涅槃門前で記念写真です。 「オジサン入って?」誰がシッターをオスのでしょう。 運ヨクか Uさんが来ました。 「オジサン シャターオシテー」 ガイドのオジサンはモテテいるのか、安売りされているのか。

 「ここは 伊達政宗公の御霊屋です」 「オレイヤと書いてあるよ 御霊屋ってなんですか」 「お墓です」 「お墓なら 松島瑞厳寺にあるでしょう」 「あそこは 菩提寺です。因みに 戒名は 瑞厳寺殿貞山大禅居士です」 「戒名ってなんですか?」
 「皆さんは 佛教徒ですか。キリスト教徒ですか。それとも。戒名は佛教徒が 亡くなって佛様になったとき頂くお名前です。似たものにキリスト教徒の洗礼名があります。寺殿 が附いているのは最高位です。みなさまのご先祖と比較してください」 「お寺って 瑞厳寺のほか 行った事ないヨー」
 この様な問答をしていたら、一緒にガイドを聞こうとしていた和服姿の奥様集団笑いを堪え 一緒に居られないわ とばかり 登段していきました。ごもっとも。

 核家族で20代前半のお嬢さんでは 無理もない事でしょうか。知ったふりしないで積極的に聞く ホメラレ事かも知れません。楽しいガイドでした。
 文化の日にふさわしい 出合いでした。

 本日 一時 休息がとれ Uさんと語り始めたら Uさんにテレビ取材が申し込まれました。先方はUさんを知っていて 目指して来たのでした。Uさん キョトンとしていましたが すぐ滑らかに カメラに向かっていました。仙台中央図書館で公開されるラシイです。御期待下さい。



11 月 2 日 (日)  



 小春日和の三連休の中日。
 例年、京都に負けない鮮やかな紅葉となる券売所前。今年は何か樹勢に衰えが見えます。弔魂碑前が、今年のポープの様です。

 伊達五色水玉模様が燦然と輝く ガイド陣羽織 資料と背とを見比べて 「ステキー 」 の歓声 背中モデル 3回しました。お客様が 他のお客様に 紹介するのです。「素敵よ 貴女がた ハヤクハヤク」と。

 市内の方々も沢山見えました。88歳を筆頭に三姉妹の方々は石段を苦にしません。元気です。耳も達者です。又、団塊世代のご夫妻は、時間心配無用と申され 色々自説を披露されながら、何れの方々も熱心に聞いてくれました。

 Eさん、Yさんも、それぞれ熱心な方々にガイドをされ、休息を兼ねた情報交換の時間、今日は有りませんでした。9時から13時まで 休みなしは初めてです。
 Nさんに 山形県の小学生から 分厚い感想文 30余人でしょうか、が届いて居ました。今日もお茶を馳走に成りながら、Nさんの勲章と眺めました。





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