2008年12月の日誌
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12 月 31 日 (水)  



本年も、瑞鳳殿は昨07年と同じ 72日回ガイドしました。

今年は、仙台・宮城デスネーションキャーペン関連で、東日本鉄道株式会社(JR)、全日本空輸株式会社(ANA)
の旅行関連部門のほか、旅行会社各社からのご指名により瑞鳳殿のほか、仙臺城址、大崎八幡宮、北山輪王寺、仙臺東照宮、陸奥国分寺跡と伊達政宗公と伊達家御縁の史蹟をガイドする事が出来ました。

仙台市、財団法人仙台観光コンベンション協会主導の「街中ガイド」 (仙台駅から名掛丁・国分丁・東一番丁と仙臺城下の町並みから、現代の商業地に変遷)と 過去から現代へのタイムスリップのガイドに参加しました。お客様からは望外の賛辞を頂きました。

瑞鳳殿62石段をお客様の先頭に立ち、お話しつつ登れ、そのままガイドを、以前は出来ました。今秋からは、肺活量の減少でしょうか出来なくなりました。お客様に先頭を取られ、登って一呼吸しなければならなくなりました。加齢を感じます。

今年、此までに、ガイドと拙い記録であります本HPの更新を継続出来ましたのは、読者の皆様、財団法人瑞鳳殿、仙臺藩志会、その他関係機関、ガイド仲間、草の根支援機構の温かい激励とご配慮を頂きました故と感謝致しております。

終日 降雪 日本海沿岸並の天候です。この状態で越年でしょうか。



12 月 28 日 (日)  



 猛吹雪です。寒いです。
 年始の休暇を利用して遠方から参拝に見える方にガイド出来ないは、申し訳ない、残念ですが、健康・安全確保を考慮し休みました。



12 月 25 日 (木)  



善應殿

私としては、ガイドの難しい御霊屋です。
通常は、「3代綱宗公の御霊屋です。公は19歳で殿様に、21歳で故あって幕府より逼塞を命じられ、終生、品川屋敷で過ごされました」に留めています。
「故あって」とは、何かと問われる事もありません。品川屋敷とは、今の何処か、その規模はと問われる事もありません。
世に言う、三代御家騒動。加賀騒動・黒田騒動・伊達騒動。この伊達騒動、仙臺では寛文事件と称されている。この御霊屋の主 3代綱宗公が故あって幕府より逼塞を命じられたに起因します。

なぜ、逼塞を命じられたか。
@本人の不行跡説で、親類縁者の警告を無視した。
A老中酒井雅楽頭忠清と叔父代兵部宗勝による乗っ取り説
B後西天皇との関係が幕府の忌諱に触れた説。
参拝の自称学者から語られる説はAであり、本当の真相はと語られるのはBであり、知らなかったろうと言われます。
しかし、逼塞に至った経緯、原因は、綱宗公の不行跡が正解です。

詳しくは。「綱宗の不作法と忠宗 新出史料の紹介を兼ねて」 平川新著(前東北大教授・仙台市史編纂室嘱託) 2002年7月発行市史せんだい14号107頁掲載をご覧下さい。

「九代将軍は女だった」古川愛哲著08年8月発行を読んでいたら、「主君押し込め制度」の記述があり、その例として「伊達綱宗隠居逼塞」と記載されていました。

「仙臺藩の御家騒動 平川新」A3版4頁の理解容易な資料を12月20日戊辰史研究の木村氏から頂いておりました。併せ、市史せんだい14号掲載の論文を読み直しました。
 ガイド仲間の基本は、史実に基づいた正しいガイドです。これで自信を得ました。
木村さまのご厚意に感謝です。



12 月 23 日 (火)  



 天皇誕生日 75歳で現役。持病を抱えながら激務に当たられている。下々は、隠居し、ボラガイドをしています。陛下は大変です。

 午前「町中ガイド」の当番で、仙台駅に。「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バスは2台待機、ループルバスは満員ながら、「町中ガイド」依頼はゼロ。
 それではと、早目昼食をし、瑞鳳殿に駆けつけました。予測は外れました。仲間はゼロ。参拝者数も予想外。

 栃木からのご夫妻。遠慮気味にご依頼。「栃木県だからと言われても、地元は知らないの(日光東照宮は参拝していない)。ガイドして貰って双方を知った。ヨカッタ」と感激され、恐縮。
 仙台市民も、瑞鳳殿を参拝しないで、日光東照宮を訪れ、絶賛している様です。オアイコです。

 酔っぱらい盛人の集団。バスガイドは、酔っぱらいは嫌いなのか、「ここは伊達家のお墓です。日光東照宮の真似したものです。自由に見て下さい」と云い、入場券を渡すとサッサと降りて行きました。「チョト 酷いじゃないの」。

 10人程、涅槃門前に立ち、屋根を見ています。一人解説を始めました「見事な仕事だ。素人は理解できない。現場で・・・・・。中心線を取り・・・・」仲間は一人去り、二人去り、傍聴していた あかとんぼ 一人残りました。

 涅槃門、お供所等の焼失前の写真を見せました。「ウーン」納得した様です。涅槃門、お供所は市松張り、現拝殿は亀甲張りと、工法等を解説してくれました。技術的な事でメモも取れず完全に理解できませんでした。御厚意感謝します。
 各職種の職人の旅行で、ご本人は板金屋でした。屋根を見ただけ。彫刻の素晴らしさは目に入らなかった様子。職人とは斯くあるものでしょうか。

 15時、ひとあしが途絶えました。黒雲が出て来ました。ガイドを切り上げました。
「しおからとんぼ さんを知っていますか。ブログでカタテブクロと語っていましたが、 私 両手袋拾いました」とWさんから。「ありがとうございます。伝えます」。

 コヒーを馳走になり「昨年までは 手袋を着用しなかった。階段を登りながら、そのままガイド出来たのに、今年は一呼吸・一休みしないと語れない。加齢現象かな」と反省しつつ味わいました。

 西公園の臨時駐車場はバス満杯でした。「光のページェント」見物の人々用です。まず、瑞鳳殿を参拝してから 見物すればよいのにと思いつつ。
 
 来年正月2日 年賀拝礼式が 11時からあります。仙臺藩志会の方々が、幟(ノボリ)を立て、羽織袴、帯刀の正装で参拝されます。読者の皆様 此処で新年の祝辞を交わしませんか。

 蛇足。正装の羽織袴を新調する際、金額と時間は、現総理が背広新調する以上を要するそうです。



12 月 22 日 (月)  



 扁額「瑞鳳殿」

 瑞鳳殿拝殿の扁額「瑞鳳殿」の書は佐々木文山の書で、戦災で焼失し復元したものです。宮城県内には、宮城郡七ヶ浜町湊濱の薬師堂扁額が唯一の真筆と言われています。参照07年6月1日日誌

 「今一額、真筆がある。松島町所在観瀾亭の扁額である。証拠文献として松島町史を参照にされたい」と聞きました。確認しました。

 「この亭を観瀾亭と命じたのは五代の吉村で、廊下の額はその時代の名筆である佐々木玄龍(文山)である」と記載ありました。1973年3月20日宮城郡松島町発行 松島町誌426頁

 小躍りし、次、ハテナ、文山の名は淵龍(エンリュウ)とは聞いていますが、玄龍とは初耳です。果たして、佐々木玄龍と文山は、同一人物か。

 玄龍と文山は、同一人物ではありませんでした。玄龍は文山の兄で、幕臣でした。文山は、幕臣になった経歴はありません。讃岐松平家には奉公しています。この原因は、六代将軍家宣の「文昭院殿御実記」1711(正徳元)年6月27日の項の誤記が、後世、混同される起因でした。 本項参照 06年10月発行「歴史研究」545号45頁
 
 従って、観瀾亭の額は、名筆でしょうが文山の書ではありませんでした。
 観瀾亭を訪れた際、玄龍イコール文山とガイドがあるか、楽しみです。

 本件は、12月20日開催の仙臺藩志会主催伊達学起こし塾の休憩時間に小耳に挟んだものに因ります。



12 月 21 日 (日)  



 「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バスを11時10分瑞鳳寺山門前で待機。若い人々、ループルバス利用で串団子状で登っていきます。タクシー10台近く客待ち状態。「ガイドさん、帰りはタクシー利用とよびかけて」と悲鳴を上げ、高齢者の参拝があれば利用してくれるが、若い人々は乗らない、とボヤイて居ました。
 タクシーの行き先は仙台駅が一番で、仙台城址に向かう人はバスを利用される傾向との事でした。

  「伊達な仙台浪漫号」到着。バスガイド曰く「11時50分バス停、12時発車」 「12時発車できる様にガイドします。おまかせください」
 10分後の11時30分、2台のバスガイド談合したのか涅槃門前で、「なんとしても、11時45分迄バス停迄誘導してくれ」の要請。残り15分で瑞鳳殿・資料館・感仙殿とガイドし駐車場迄です。涅槃門・拝殿・本殿だけの通常ガイドは、20分要しています。これでは駆け足ガイドです。ガイドとして非常に心残りです。お客様も同様でしょう。ボラガイドが40分要して丁寧にガイドするとの条件で集客しておりながら、25分の駆け足ガイドでは羊頭狗肉、食品賞味期限偽装と同じないかと、反省しきりです。

 一連の流れを通常ガイドしながら確認した元締めのH代表から「どうした事態ですか」と問われ「シカジカ カクカク」と答えたら、此また、正論そのもの 「JRとの契約は40分ガイドです。バスガイドに時間短縮の権限があるのですか」です。その通りです。

 ツアー終了時厳守の制約があったるにせよ、主たる観光個所を削除に等しい削減はいかがなものか、食事提供方法の工夫、サブ観光地の短縮等 工夫の余地があるだろうです。
 バスガイド女史は、時間厳守に協力、厳守してくれてと感謝しきりでした。
 本日でもって、JRのガイドは最終です。お陰様で25分駆け足ガイドの技術を習得しました。その面で感謝します。

 浪漫号のお客様も短縮された事情を見・識していまして納得の様子でしたが、心残り持たれた方から、「依頼すればガイドしてくれるか」と問われました。「交通費等の実費を負担して頂ければジックリとガイド致します。土・日・祝日はフリーでガイドしています」

 上記一行を駐車場まで誘導したら、老婆から「アンタの背中に着いてきたら、連れから迷子になった。新幹線に乗らなければならない、責任を取って探して来い」との事。
 「なんで来ましたか、バスですか。このバスですか」「・・・・・」 JRバスは点呼の結果 全員乗車を確認し発車していきました、
 この方は、ループルバスに乗車され、無料でガイドを聞こうとツァーに紛れ込み、結果としてはぐれた様です。「責任を取って探して来い」と言われても、自己意思で紛れ込み、又、連れの性別・年齢・風体・人数を明らかにしないで、探して来いはないでしょう。短時間で全境内を探す気力・体力はありません。
 「この道を降りて来ます。ここで待っていてください」と話し、駐車場管理のNさんによろしくとお願いしました。間もなく、再会したそうです。ヨカッタ。

 11時までの2時間は、心ゆくガイドできました。以後も結果として満足です。

 本日の地元紙にグループと新人ガイドを紹介した紙面があります。EさんとOTさんの談話と顔写真が掲載されています。ライターの○○女史の取材を受けたが、話したとおり正確に掲載されたとの事でした。普段を見ていて、読んで、正確です。チョットした驚きです。参照12月6日の日誌

 ライトアップは19日で終わりました。照明灯の撤去作業が始まりました。11月5日NHKTVで「瑞鳳殿のライトアップとガイド」が放映されました。被写体故にどの様に放映された見ていませんでした。仲間Yさんが録画し、更に友人に依頼しDVD化したものを届けてくれました。50日後拝見、ライトアップの素晴らしさ 再認識しました。
 ライトアップの美しさとして、3本の指に入ったでしょう。 



12 月 19 日 (金)  



 昨日、ガイド終了後、事務所でコヒーを馳走になりました。ホッとした気分の中で、同役のNKさんから、秀吉公遺品の脇差しの行く末を尋ねられました。勉強されている方で、政宗公が激怒されたエピソードもご存じでした。

 脇差しを収納していた「蒔絵二重短刀箱」は、酒田市・本間美術館で所蔵しています。
 脇差しは、1657年1月18日明暦大火で、江戸城本丸・二の丸と共に焼失しています。
 年月日抜きで、知っている事を答えました。NKさん 詳細は、07年10月30日「脇差・鎬(しのき)藤四郎吉光」に 調べた限りを記載しておきました。

 



12 月 18 日 (木)  



 寒気が訪れ後の平日の午前は、さすが怒濤の如く参拝者は見えません。参拝者はそれだけに、時間と気持ちに余裕を持たれた方々です。熱心に聞かれ、色々質問もされます。9時から11時まで、連続数組ガイドしました。

 コートを手にした方、「寒くないですか?」 「仙台駅から歩いて、瑞鳳寺の裏階段を登って来ました」 不思議なコースです。名古屋の方だそうです。
 瑞鳳寺前で待機中 降りて来ました。霊気・冷気の影響かコートを着ていました。「僕 この裏登ってきたの」と申され、今度はバス停を目指されました。

 10時30分本殿前でガイド一区切り着いた途端、「僕にもガイドして。簡単でいいから」  102万石日本一の大大名前田家の家臣の末裔、今は札幌在住、昨晩は作並温泉に投宿との事。基本的内容 政宗公の御霊屋(お墓)、桃山様式建造物、焼失前国宝、現在も祀られている、札幌白石区始め伊達れ御縁の方々の寄付で再建した等をガイドしましたら、初めて知った 貴重な文化財ですネ。前田家以外何者ぞと思っていましたが、さすが政宗公ですネ と、激変 色々質問されます。「簡単でいいから」の言葉 忘却。応答は止めどもなく続きます。「申し訳ありません。団体予約がありますので、次回また」と終わりにしました。
 お互いが興に乗ったのに、誠に 残念でした。

 11時10分瑞鳳寺山門前で、「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バスを待機。急遽お客様が増え、バスが2台に。車中案内の「町中ガイド」も私と同様ピンチヒッターで、元締役のKさんでした。

 何度も聞かれたのは、伊達家は存続しているか?現在仙台に住まいしているか?年齢は?でした。現在のご当主は34世18代です。住所等の個人情報はわかりませんと答えました。どうして そんなに詮索するのでしょう。

 今一つは、資料館に展示されている綱宗公の紅皿でした。何故、何に、でした。当然の質問です。ゆっくり語りたかったのですが、時間切れになりました。

 ガイド無し40分見学は短いとは思わないでしょうが、ガイドを聞いての40分は、皆様 短い、サワリだけ、残念の感想しきりでした。また どうぞ とお誘いしましたが。



12 月 16 日 (火)  



 「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バス2台。Uさんとガイドしました。
挨拶・出発する前から、五色水玉模様の陣羽織、注目の的です。説明をして、背を向けて撮影の時間を設けました。袴は別として、此の陣羽織は、お土産品として、絶賛、売れると思いますが。

 バスを送り、券売所奥で着替え始めたら、老婦人が入ってきました。62石段の先を登る五色水玉模様の陣羽織を目印に、後は登って来て、我々が入った所が瑞鳳殿と勘違いされた様です。 

 バス到着前、ガイド中、「どうして門松があるのですか」の質問を新潟から見えた2婦人に尋ねられました。一瞬 ハッと思いました。質問の趣旨が理解できなかったのです。
 「お正月の準備です。昨日、34世18代伊達家ご当主が先頭に、すす払いをし、準備したものです。仙臺の風物詩とも言われています。正月2日には年賀拝礼式があり、仙臺藩志会の方々が、羽織袴 登城の時の服装でお詣りされます。20日後 又 お出かけください。お待ちしています」
 

 昨15日は、年金支給日とか。「老人が狙われる日です。注意してください」と「ふりこめ詐欺」通称「オレオレ詐欺」の注意を喚起して居ました。
 「オレオレ詐欺」のオレは俺です。自分自身を俺と表現する人は少なくなっているかも知れませんが、日本語として理解して頂けると思っていました。

 「〔御霊屋〕の文字を〔オレイヤ〕ダーと読む方がいます。〔俺嫌ダー〕と、ガイドする前に読まれると「ガイドするの俺嫌ダーの気分になります。皆様はオタマヤと読んでくれまして・・・」 アハハーの歓声があります。
 14日 無反応。爺様ナニ寝言語っているノーの表情されました。この無反応の方は、東京の上流階級のお嬢様達らしく、通称「オレオレ詐欺」も、俺なる日本語もご存知なかったらしくて、俺(私)の空振りに終わった訳です。

 この話しを帰路、Uさんに話したら「俺なる言葉は高齢者用語かな。僕は俺とは言わないな」・・・・お若い。



12 月 15 日 (月)  



 瑞鳳殿(ズイホーデン)゙ランティア゙イドの会(略称 ズボラガイ)の懇親会が会員登録者13名中、7名が参加し、9日夜開催されました。
 数々の興味深い話題が提供されました。
1.麒麟は一角獣。頤和園(北京所在)の像
2.3本指龍。19世紀日・中の画人描
3.瑞厳寺五雲閣(埋木書院)が特別公開中
4.瑞厳寺孔雀の間安置位牌 戒名と微妙に異なる
  戒名 瑞厳寺殿貞山禅利大居士
  位牌 瑞厳寺殿前黄門貞山利大居士
  忠宗公は
  戒名 大慈院殿義山崇仁大居士
  位牌 大慈院殿前羽林義山仁大居士
5.陸奥国分寺創建理由
6.瑞鳳殿手水の龍吐の兄弟が松島に居る

 好きでガイドしている方々です。喋ります。一斉に。百家争鳴、聖徳太子の耳が欲しかった、聞き取れたのは以上でした。



12 月 14 日 (日)  



 晴れです。寒いです。

 寒さが老骨に達した様です。売店まで避難しました。外国の男女の集団がたむろしていました。これから参拝かなと温まりながら見ていましたら、其のまま降りて行きました。瑞鳳寺前の参道に座り込み、団体写真を撮影しています。日本人と亜細亜系外国人と、涅槃門前でも、撮影位置が異なり、国籍の違いがわかる事があります。此処でも、日本人を超越した発想の個所での撮影です。「you from china ?」  「タイレーン」 「? taiwan」 「no taiwan。 ダーリェン」 大連でした。此で会話は終わり。日本の爺様なんか相手にしていられないとトットコ降りていきました。

 国名を聞いたのに都市名を答える。我々 パリで国を聞かれて仙台と答えるだろうか。確かに、北京・上海に続いて大連は、日本人に馴染みの都会でしょうが?
 
 群馬県高崎からのご老婦人。「最近、日本画と歌舞伎に凝っています」と語られ、本殿忠宗公の直筆の扁額の濃青色地は、○○○と語られました。メモ出来ませんでした。「先日、○○主演の歌舞伎仙臺萩を見ましたの。三沢初子のお墓詣りしたいですか、ご近所ではないですか」と〆のお尋ね。「仙台駅東、孝勝寺さんの飛び境内にあります。タクシーご利用が容易です」と答えましたら、資料館の見学をそこそこに切り上げ向かわれました。

 本殿前でガイド終わりかけたら、続けてください。のお声。津軽・弘前からお出での女性2人。津軽ならおまかせください「此処は、藤代の革秀寺にあります、津軽家初代為信の桃山様式の御霊屋と同じ、政宗公の御霊屋です」 この一言で全てをご理解頂けたようです。本殿・拝殿扁額・涅槃門と通常の逆コースでガイドしました。最後「涅槃門は、創建当時は白檀が用いられていました。戦災で焼失し再建する際、柱は青森檜葉を用いています。伊達家と津軽家の御縁から、当時の青森営林局にお願いし、特別わけて頂いたと聞いています」 「アラー 青森檜葉は今は地元でも容易に手に入らない高級建築用材。最高ブランドです。余所の方 理解してくれますか」 「理解してくれそうな方のみ限定してガイドしています」  

 藤代の革秀寺。あかとんぼ 弘前に住まいした折りには、知る人のみ知る 無名の寺でした。知っている人にガイドできて嬉しい限りですが、女性2人仙台で、今、話題になったか不思議とは感じなかったのでしょうか。

 1日同様、「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バスの40人をガイドしました。前下車地で「ずんだ餅と抹茶」を楽しんで来ましたと、皆様 快速移動されましたので、瑞鳳殿・資料館・感仙殿。妙雲廟界と全てを所定時間でガイド出来ました。
 続いての昼食が牛タン定食です。期待の昼食でしょう。12時発車となっています。11時55分に「ガイドさん あと5分です。間に合いますー」のお声。ご心配無く、12時発車に間に合う様ガイドしました。

 サテ、閑話休題。

 1702年の旧暦12月14日(太陽暦1703年1月30日火曜日)は、赤穂浅野家元家臣が高家吉良氏を襲撃した日です。新暦の本12月14日各種の催事が行われている様です。

伊達家とのかかわりで。
★ 同役の伊達家は高家吉良氏に教授料を綺麗に払った。浅野家はけちった故にの、記述が暫し見られます。その際の伊達家を62万石陸奥守松平・伊達本家と混同している向きがあります。この馳走役は小大名の仕事です。62万石の大身には決して割り当てられない仕事です。この馳走役同役の伊達家は、伊予吉田3万石 宇和島・秀宗の五男宗淳(ムネズミ)が初代の伊達家です。

★ 1702年当時の伊達家の上屋敷は、汐留(現在の東新橋1丁目7〜9番、ゆりかもめ・しおどめ駅付近)に移転していました。襲撃団は泉岳寺に移動する際、伊達家上屋敷の前を通過しています。小説・謎手本忠臣蔵 加藤廣著では、その時の様子を、次の様に表現しています。

実際、伊達家上屋敷前では、一触即発のやり取りがあった。
元々、伊達家は、幕府成立当初、独眼流政宗が「徳川なにするものぞ」という傲岸な姿勢を取ったことから、反徳川の士風が強かった。
ところが、その後、幕府の相次ぐ弾圧を受けて屈服。晩年の政宗は、すっかり虎の牙を抜かれてしまった。
二代忠宗(政宗次男)、三代綱宗(忠宗の六男)は、父や祖父の抵抗の姿勢を、一旦は継承したものの、それは中途半端に終わり、当時の四代綱村は領国治世においては名君と言われたが、幕府への姿勢としては、将軍にひたすら媚びを売る存在でしかない。
それだけに、将軍への「点数稼ぎ」に何をしでかすか判らないという危険があった。
案の定、辻番は、同志一行を、ぎょろりと眺めると、いきなり、うんくさそうに、「その異様な風情、何事でござる。何処から来て、いずれに参られるや」と、厳しく誰何してきた。
もう一人が、いきなり拍子木を叩いた。危険の合図である。
聞きつけた侍が十数人、ばらばらと邸内から飛び出してくる。
この時、綱村は、登城準備が整い、六十人ほどの共揃えで前庭に出たところであった。奥には、さらに三百人ほどの江戸詰めの侍が、主君の見送りのために控えていた。
即時戦闘に入ることが可能だった。
すわ衝突。
ここで鼻ぱしらの強い十次郎が、予定外の行動に出た。
前に進み出ると大音声で叫んだのである。
「我等は赤穂浅野家の元家臣でござる。昨夜、亡君の意趣を晴らすべく吉良邸に乗り込み本懐を遂げ、唯今、亡君の墓前に、報告のために急ぐ途中でござる。ここに留まるわけには参らぬ。事情ご賢察の上、枉げて通過する異。お許し戴きたい」
ここまでは、まだよかった。
「場合によっては、たとえ少数とはいえ、刀にかけても通って見せますぞ」
この最後の一言で、仙台家士は、カチンと来たのだろう。
「小癪な、その言いぐさ片腹痛し」とばかり、刀に手を掛けた。
そこに、屋敷内から、江戸家老と江戸留守居役が、血相を変えて飛んで来た。
「静まれ、愚か者。浪人相手に殿の通られる街道を汚す気か」
と、まず家士を先に叱りつけると、間以下の浪士に向かっては、むっとした顔で、
「殿お出ましじゃ。邪魔するな。一刻も早く立ち去れ。しっ、しつ」
まるで犬でも追いように言うと、ぷいと背を向けた。「浪人相手は、刀の汚れ」とでも言いたいらしい。
この心ない応対に、さらに、いきり立つ同志を、内蔵助は、大手を拡げて押しとどめた。
押しとどめただけでなかった。
部下に己の両刀を預けて丸腰になると、屋敷の大門前に行き、腰を二つに折って、町人の姿勢で例を述べたものである。
「平にご無礼仕った、仙台殿。お見逃し忝のうござる」




12 月 7 日 (日)  



 暦は「大雪」です。車上に積雪、ワイパー動かし瑞鳳殿に。
 境内に積雪はありませんが、霙です。終わり紅葉です。時折のスポットライト様な日差しに、名残の紅葉と白銀の反射しての絶景。目にして動かないお客様も居りました。「京都より素晴らしい」のお褒め、今日も頂きました。

 「焼香したいが」がと申されるお客様。境内は、火気使用・喫煙禁止になっています。献花・献品される方はいますが、ワザワザ「焼香したい」は初めてです。火気使用です。「事務所で許可を頂いてください」
 許可が出たようで、線香と燐寸を持ってオトーサンが駈けのぼっていきました。政宗公に何を祈られたのでしょう。

 普段は、大香炉に種火と線香が用意されていますが、今日は、何故かありませんでした。風に因る事故防止であったのでしょうか。焼香が許可されヨカッタですね。

 盛年のご夫妻「ここの屋根に珍しいモノがあるそうだか?」と問われました。珍しいモノと言われて見当つきません。ハテナと首をかしげ「サテなんでしょう?」と返事しました。間もなく降りてきました。「ありましたか。屋根に珍しいモノが」と聞きましたら「阿吽の龍が載っていた。沖縄ならシーサー。普通は何も載っていません。
珍しい」との返事でした。

 創建当時から阿吽の龍が載っているので、当然と理解し、珍しいモノとは思っていませんでした。今後のガイドの際、特徴として強調しましょう。
 デモ、誰が、事前に屋根に珍しいモノと、この方に教えたのでしょう。

 涅槃門前でセルフを使って撮影している若い男女3人。陣羽織の背を見せ「モデルになりましょうか。一緒にどうですか」に 興味を示し 「真ん中に入ってくれ」。私とYさんが真ん中、彼等が左右で撮影しました。ウマク撮れた様で喜んではいますが言葉が違います 「you from china ?」に 「thai land」と返ってきました。これからがYさんの英会話の独壇場です。バンコック国際空港閉鎖以前に来日したのか、ビジネスですか観光ですか等の会話をされたようです。
 ワット・ポー(涅槃寺)の涅槃佛の足裏の話しを身振りと日本語で話しましたが、理解して貰えませんでした。

 私は、ワット・アルン(暁の寺)等のthai landの寺院の壮大華麗には驚嘆しました。thai landの若者は同様に、瑞鳳殿を参拝し、桃山様式の豪華絢爛な建造物に驚嘆してくれるだろうか。ガイドをして確認したかったのですが、身振り(ゼスチュア)では会話にならず断念しました。

 2組の夫婦が直進して来てガイド依頼されました。一人がガイド途中で知っている と繰り返されます。「ガイド途中で 私より先に話しないで」とお願いし、「どうして、そんなに知っているのですか」と最後に尋ねたところ、「新潟から来ました。前回、団体で来た際、面白く、真面目にガイドしてくれたので、連合い・親戚にも聞かせたくて、連れて来ました。居るか心配でした」とのご返事。 誠に、有難いです。リピター。友人・知人を集めて、参詣に再びお出で頂き、ガイドを指名して下さるとは。



12 月 6 日 (土)  



 瑞鳳殿でのガイド
12月1日地元 河北新報の取材の取材を受け、氏名・年齢・生年月日を聞かれました。本日 記事になりましたが 氏名も談話も載っていません、ガイド中の写真だけです。犯罪に関与している訳ではない。名前を記載しないとは失礼でないか。

 下記、URLです。http://www.kahoku.co.jp/news/2008/12/20081206t15046.htm



12 月 5 日 (金)  



菩提寺

 菩提寺とは、「先祖代々の位牌を納めてある寺」と手元の国語辞書にはあります。
 松島・瑞厳寺は、「藩祖政宗公によって造営された伊達家の菩提寺」と明言しています。
 瑞鳳寺は、「香華院として瑞鳳殿と共に建立された」と明言しています。又、山門前に、「政宗公・忠宗公・綱宗公の位牌寺」との看板を立てています。

 香華とは、「佛前に供える花や香」と手元の国語辞書にはあります。

 先般、山門前で待機中のタクシー氏と、歓談中に「菩提寺の定義・考え方」に色々あるを知りました。

 あかとんぼ は 「政宗公の菩提寺は、松島・瑞厳寺です。その証として、戒名は、瑞厳寺殿貞山大禅居士でしょう。又、瑞厳寺自体 伊達家の菩提寺と認めているでしょう。忠宗公は、政宗公の回忌法要は全て瑞厳寺で催しているでしょう。
 瑞厳寺は伊達家の、瑞鳳寺は政宗公等の菩提寺と分離されると、伊達家から中興の祖である政宗公を除いたと同じになりませんか。アンコのない饅頭になりませんか」と申しました。

 生母義姫は、覺範寺に埋葬、寶筺印塔が建立されました。そして、13回忌法要の際、保春院を政宗公は創建されました。
 満勝寺は、伊達家始祖朝宗公の菩提寺と言っています。朝宗公は、伊達郡桑折町万正寺の満勝寺に葬られています。現在の仙台所在の満勝寺は、義姫の保春院と同様に、寺と墓地とは離れています。この様に、菩提寺と墓所が離れて存在する事は、別に奇異な事でないと思います。

 タクシー氏は、山門前の「政宗公・忠宗公・綱宗公の位牌寺」の看板から、瑞厳寺は伊達家の、瑞鳳寺は政宗公等の菩提寺と分離されると、述べたと理解しました。
 バスの待機中に、営業者との歓談は、視点の異なる情報が得られ 有意義と感じています。



12 月 4 日 (木)  



戊辰の役

 「戊辰の役」とは云わず「明治維新140年」と西の方では云っている。と戊辰史研究の木村さんの記録にありました。あかとんぼ の私見として 「大東亜戦争」と言わず「太平洋戦争」と言い換え、・・・・・のたぐいのように聞こえます。

 木村さんは、「私怨を晴らすための偽勤王から朝廷を守り、真の王政復古を願い、そして会津救済のために戦った郷土の先人達が、国、郷土を守り、家族を守るために戦った戊辰戦争を多くの人に伝えていきたいです。将に戊辰戦争が現在日本の原点になっていると思います。歴史は現代と共鳴しており、未来への智恵と指針になる大切なものだと感じ、このメッセージを強く訴えています」と語っています。同感です。

 歴史を冷静に分析、未来の指針にする最良の節目の年140年目と理解しています。そして、倫理法人会など有識者の集まりで訴えている木村氏のご努力に敬意を表します。

 仙臺藩志会は1年半の時間を費やして、戊辰の役に関する講座を何回も開催しました。又、10月10日での瑞鳳殿境内弔魂碑前を始め 白河・小名浜で供養祭を催しました。福島民友新聞はシンポを開催し、供養祭を含め、詳細に報じました。仙台市は、瑞鳳殿境内の弔魂碑の補修を約しています。
 大きい節目の150年祭の準備が始動したと感じます。

 仙臺藩志会の幹部の方にお尋ねしました。「此まで1年半の諸活動を総括された報告書のとりまとめに入っているでしょう。いつ、どのような形で、発表されますか。150年目の節目にはどのような事業をされますか」に「具体的には、今答えられません」と申されましたが、検討している様子でした。

 瑞鳳殿でガイドしていて、「瑞鳳殿・伊達政宗公は、テレビ等で理解しているし、遠い過去の人故に何とも感じないが、140年前曾祖父の時代 割と近い時代の話しはドウモ」の、この反論に合うと、高齢者が昔の事の記憶はたしかであるが、昨日の出来事の記憶が定かでないに似ている感じがします。
 故に、瑞鳳殿で弔魂碑をも、ボラガイドをしている身にあっては、木村氏と仙臺藩志会の活動は、非常に心強いものです。



12 月 2 日 (火)  



戊辰の役

昨日のガイドの際 弔魂碑は極めて短時間・最小に留めました。
ガイド仲間でも、弔魂碑に対する対応の温度差は大きいものがあります。
「伊達」「伊達政宗」の名前を知らない人は限られますが、「戊辰の役」を知っている人は限られます。ガイド本人が興味ない、勉強してガイドしても 説明が容易にできないことから、当然、ガイドするのは数人に限られています。

11月23日「戊辰戦争140年in白石」なる講演会が開催されました。
加来耕三氏は基調講演の中で「列藩同盟は戦略無き感情論だった。知恵も作戦もなくタダ感情で動いた。政治は正義では無い、現実だ」と論じたそうです。

続いてのシンポでの、仙台・米沢・会津・秋田・盛岡・白石の博物館の発言要旨を読み、興味深かったのは、西では「戊辰の役」とは云わず「明治維新140年」と云っている。秋田は裏切り者と云われ、恩賞も無く、なんであったのか。盛岡は、戊辰140年と云われてもピンと来ない。と発言されたことです。

 基調講演、シンポでの発言。何れも 冷静で正しい分析、140年経過した現在故かと思いますた。
 以上は、戊辰の役を調べ、石巻倫理法人会など各地を講演している戊辰史研究の木村さんから送られた記録に因りました。



12 月 1 日 (月)  



 「伊達な仙台浪漫号」観光周遊バス(主催東日本鉄道株式会社)の瑞鳳殿のガイドを担当しました。
 バス下車し、参拝して、乗車・発車まで オール込み40分です。生涯学習等は、ガイドだけで120分で、下乗車・トイレは別枠です。日・祝のフリーガイドで涅槃門から本殿まで、早口で20分 質問が出ればきりがなくなります。これに比較してから 非常に厳しい時間です。

 要点・ポイントは語りました。また ゆっくりお出でくださいと 申しあげました。

 このツアー。「温泉宿の朝ご飯」の感じです。口に合った料理で食事し、売店でお土産にどうぞ と云ったスタイル。何カ所か巡り 気に入った所で 熱心に見学し、再訪されたら と云う感じに受け止めました。 

 バスを待機中に、客待ちタクシーの運転手各氏と歓談しました。常時待機しています。ガイドも勉強もしています。ハテナと思うことを含めて色々な情報が得られます。

 待機中、標記バスの運行が初日と云うことで地元紙の取材を受けました。質問は、@氏名A生年月日Bガイド歴C瑞鳳殿・町中の双方ガイドで感じたこと。Cを語り始めたらバスが来て中断しました。ガイド後に追加取材はありませんでした。これだけで 如何にまとめるか。乞御期待の心境です。
 





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