2009年2月の日誌
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2 月 24 日 (火)  



 仙臺城三の丸址の市博物館で、仲間の勉強会がありました。講師は仙台市史編纂室主事菅野正道氏。
内容は仙台市内所在 中世の城館とその城主 です。

 城館主の系流の説明の際、戦国時代以前の系図不明が正しい。伊達家も綱村の時代に編纂している。室町時代までで 不詳が当然である。
 前回の勉強会に参加した方は気がつかれたか。「伊達略系は、藤原鎌足から始まって朝宗を第一世としています。大方の系図も朝宗から始まっています。鎌足からの系図には正確かの疑問符がありますのは重々承知しております」と「伊達氏の興り」を 1月25日あかとんぼ は語りました。
 「疑問符があります」より、明確に一世以前を否定された訳です。

 政宗公の治世下になり、それまでの城館主が移動している。旧領地と新領地での姓を調べると、家来は親子又は兄弟が別れ随行した事実が現る等、視点の異なる興味深い内容もありました。

 詳しく知りたい方に、「仙台市史・特別編7・城館」を紹介した居ました。早速紐解いて居ます。

 先般、冨塚家墓石・寄進灯籠について記載したところ、我は末裔であると語られ、仙台市図書館に保存されていない「冨塚と一族のすべて 資料編  山内和雄編」を持参されました。
 15日日誌に記載した宮城郡愛子邑の出、富塚玄門は、この系図では一族であると語られました。
 首をかしげたら、勉強しなさいと本資料を貸してくれました。
 「パソコンは出来ない、本ホームページは読んで居ない」と申していながら、あかとんぼ の動き・発言を知っています。不思議な御仁です。



2 月 22 日 (日)  



 境内は雪原です。お客様は雪が見られた、触れると大喜びです。

 ガイド希望、不思議に集中します。ただ待機している時間もありますのに。お声がかかると、我にもと 希望されます。ご一緒にどうぞと 聞いて頂きます。本日は待機時間ありませんでした。
 本日、邑の偉い人風の団体。「一人しかいないのか。我等をガイドせよ」と。そこまで云われるなら、予約してくださればと 思いました。でも 聞きながし 先にご依頼の方をガイド続けました。

 東北大学日本史専攻の大学院生S君とSK嬢が論文「軍都仙台の慰霊」と題する論文を持参してくれました。
08年5月27日日誌で提起した「殉難者の人数を、仙台市史において、1260人から906人と少なく記載した問題」から、なぜ、直ぐ慰霊が行われなかったか、2月8日新潟からの先生の行動等を伝え、弔魂碑内部撮影写真を御礼に差し上げました。1260人の氏名が碑内部に刻まれて居なかった証明です。

 なぜ、直ぐ慰霊が行われなかったかのブツブツ発言は 論文副題「賊軍の解消とと軍都への転換」を読めば、一発解決らしいです。これから読みます。

 今一度 瑞鳳殿をお詣りしたいとのことで、本殿まで案内しました。涅槃門の石垣は創建当時から変化していないかの質問が最後にありました。焼失前の写真と比較し、変わっていますと回答。手持ち資料に石垣の写真が無く事務室の閲覧図書で説明しました。

 弔魂碑等を研究し「紀念祭の時代」の著者高木博志氏が夏に仙台を訪れ、ここにも詣る計画があります。その節はよろしくとのお話。年寄りの寝言を大先生は 聞かないでしょうが、ご尊顔を拝し謦咳に接するも 人生の楽しみです。お待ちしています。
 



2 月 18 日 (水)  



 弔魂碑  朗報2本。

☆戊辰史研究の木村さんが、論文「仙台藩戊辰戦争受難藩士〔弔魂碑〕考」掲載の[東北戊辰戦争懇話会報]とその他の資料を持参されました。

 あかとんぼ が08年5月27日日誌で提起した「殉難者の人数を、近刊仙台市史において、精査せず1260人から906人と少なく記載した問題」から、なぜ、直ぐ慰霊が行われなかったか、その後の慰霊祭の推移をまとめられました。伊達家の戊辰の役殉難者と弔魂碑について最高に充実していると感じました。有効な資料です。感謝です。

 会報には その他 非常に興味深い論文が掲載されています。今号が6号で、連載論文が何本かあります。お勧め図書です。仙台市図書館に2・5号が献本されています。

☆東北大学日本史専攻の大学院生2人を07年10月28日にガイドしました。その2人から「戊辰戦争関係のこともご教授いただき、維新後の仙台の慰霊に関わる研究成果を発表いたしました。22日挨拶に訪れたい」とデーター添付のメールがありました。
 データーの開封が出来ず、内容を読めずに居ますが、拙い説明が 大学院生の研究に役に立った、且つ 挨拶に行きたい云われ、有頂天です。



2 月 17 日 (火)  



松島・瑞厳寺 平成の大修理に踏切る。

本日の河北新報に詳細が発表されました。その要旨は。
 政宗公が1604年から約5年の歳月をかけて完成させた瑞巌寺本堂は、2003年の三陸南地震と宮城県連続地震で壁などに被害を受けたためで、既に08年11月に始まっており、17年11月迄です。

 其の概要は、総工費は14億6000万円。本堂は屋根瓦や土壁、建具などを解体し、柱や梁(はり)は残す。敷地で発掘調査をした後、本堂を持ち上げ、基礎と柱を修理。組み立てて、漆を塗り直す。国宝の廊下も部分解体する。重要文化財の中門は本堂への資材搬入のため解体し、重文の御成門は屋根をふき替えるです。
 
 大修理中、本尊や政宗の大位牌(いはい)などは大書院で、また、特別に正室愛姫の御霊屋「宝華(ほうげ)殿」も公開されます。

 宝華殿は、既に06年から3年間で黒漆や金装飾を復元して、桃山様式の豪華な姿に戻したという。あかとんぼ の手持ち資料は 補修前03年9月29日(月)に開催された ボラガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」り勉強会のもので、今では歴史的価値を生じたかなニンマリしています。

 瑞厳寺のURLはhttp://www.zuiganji.or.jp/



2 月 16 日 (月)  



政宗公と冨塚家の関わり

冨塚家は古い家柄であり、系統も数ある家です。政宗公○将と云われた冨塚近江守宗綱は、宿老であり岩出山留守中の評定人の一人です。晴宗、輝宗、政宗公と仕え、輝宗公以来宿老を務め、勇にして知略、文武の才ありと言われ、1613(慶長18)年3 月 4日卒です。政宗47歳です。尚この月28日秀忠公を江戸屋敷に招いて居ます。

政宗公の補佐約と重視活躍の記録として、仙台市史・伊達政宗文書2に5本が記録されています。
文書番号 916 1592(天正20)年6月10日政宗26歳 宗綱他8人宛。国替噂について。
文書番号 946 1593(文禄2)年7月21日政宗27歳 釜山にて桑折政長病死について。
文書番号 992 1594(文禄3)年霜月28日
文書番号1182 1602(慶長7)年5月14日政宗36歳 宗綱他2人宛。佐竹等国替について。
文書番号1259 1607(慶長12)年2月14日政宗41歳 検地について。



2 月 15 日 (日)  



 日差しは春です。
 昨日20mを越える強風が終日吹きました。運休した列車もあるそうです。あかとんぼ運転の車も煽られました。この悪条件、体が飛ばされる懸念の中、仲間3人がガイドをしたそうです。敢闘賞ものです。でも、お客様お出でになったのか、聞いてくれたかの確認は出来ていません。

 境内は風折枝が敷き詰めた様に散乱していましたが、(財)瑞鳳殿の全スタッフで履き・掻き集めて参拝に支障無いように、素早く清掃されました。落ちこぼれ風折枝を懸念したか、本殿前の献香の種火の用意は休みでした。

 (財)瑞鳳殿の管理下で駐車場以外は全面喫煙禁止と成り、灰皿もありません。「喫煙出来る所はどこですか」と走り回っている若者が先日居ました。駐車場まで駆け戻ったかは確認しませんでした。駐車場では「これより上、境内は禁煙です。ココで吸ってから」と案内していると車整理担当Hさんが洩らしていました。ここまで徹底すると山火事の心配は無いでしょう。

 瑞鳳寺山門前でリックにスニカー姿で談合を続けていた6人、62段登りはじめ、段を数えて居ます。女子大生かと問うたところ「イヤ 社会人4〜5年生。オツボネサマです」と カランとした返事。自らオツボネサマと言うからには、虐めのお局ではなく、会社でそれなりの実績・実力を発揮していますの意思表示と聞きました。20代後半戦を戦う女子でしょうか。
 
 「ボラガイドいます。無料です」の看板が目に入らないのか10時30分から1時間、声がかかりません。日向の動きに合わせベンチを移動しジィーと待っています。
 Eさんから「拝殿向背柱の基礎石。写真と比較するに移動している」との事、この時間で確認しました。納得しました。
 寄進供養塔左側、1918年3月には5基確認されています。現在4基です。挌一族の中嶋監物意成が寄進した灯籠がありません。不思議に思っていました。このウロウロ探索の結果、拝殿敷末端に灯籠の躯体部を発見しました。これが行方不明の中嶋監物意の灯籠でしょうか。壁面が摩耗し苔で確認出来ませんでした。なぜ ここに移動したのか。中段に位置していた片倉小十郎寄進灯籠が最下段に移動しています。之も何故でしょう。創建当時は序列が厳しかった時代です。こんな事態になれば刃傷沙汰になったのではと思います。、一休息のEさんに以上を話ししました。復元工事の責任者でも担当者でもなかったEさんには答えられない話です。「ウー」此の後の言葉聞き漏らしました。

 冨塚家墓碑

 09年1月25日、瑞鳳寺の墓地に「政宗00人衆と言われた富塚家の槍形の墓碑があるそうだが」と問われ、初耳なので資料確認しましたら、槍形の墓碑は富塚家で、仙台三奇墓と称されるものでした。
境内に冨塚家の墓碑があり、また、冨塚家が寄進した灯籠がある所にある事も判明しました。冨と富 文字が異なります。ご注意下さい。

 瑞鳳寺墓地に冨塚家が4基と富塚家が1基ある筈と資料で確認しました。
冨塚家NO1は、冨塚信隆 1649(慶安2)5月7日卒。政宗、忠宗の両公に仕える。兄重信から300石分知された分家。(分家と別家は異なるます。宇和島伊達家は別家です。分家ではありません)

冨塚家NO2は、冨塚信義 1748(寛延元)年6月29日卒。信隆の孫。百軒翁信義源居士
栗原郡石越村、若柳村、加美郡王城寺村、宮城郡芋澤村併せ400石、召出家。

冨塚家NO3は、冨塚隆義1759(宝暦9)年9月11日63歳卒。信義の子。吉村公に仕える。宿老。500石。この代迄召出家。

冨塚家NO4は、冨塚隆長1791(寛政3)年3月卒。隆義の子。宗村、重村公に仕える。1783(天明3)年2月退隠。

富塚家は、富塚玄門。宮城郡愛子邑の樵夫で、吉村公御前試合で比類なき功名をあげ300石で槍指南となる。1759(宝暦9)卒の2年前、槍の穂先をかたどった墓石の裏面に「富塚玄門源隆義入道玄門全妙叟石流人一松居士之墓」側面に「宝暦七年三月二四日玄門自書建焉」と刻し建立した。先祖・系図は不明である。

冨塚家は、朝宗以来、伊達家に仕え、代々宿老を務めた家柄であった。本家は1718(享保3)年4月故あって胆沢郡水沢村大林寺に蟄居した。1749(延享5)年断絶しました。
瑞鳳寺所在の4墓は分家、石越村系です。

冨塚本家当主寄進の灯籠が現在 次の通り所在している筈と資料で確認しました。
仙臺東照宮 冨塚内蔵頭藤原重綱1654(承応3)年4月17日付寄進。参道右側下から3番目に。
感仙殿に 冨塚内蔵丞重信1664(寛文4)7月21日付寄進。階段右下2番目に。
善應殿に 冨塚長門藤原重標1716(正徳6)3月付寄進。位置不明。

 本日、ガイド前に瑞鳳寺墓地と感仙殿・善應殿地区を確認しました。
富塚半兵衛源と刻まれた石碑を発見しました。通称半兵衛と呼ばれた人は、NO3の冨塚隆義ですが、天明十年の刻みがあり、年代的に一致とは言い切れません。また墓石は俗名記載は少ないです。これらから、この人の墓石であるの確信はありません。
何れ、瑞鳳寺墓地で冨塚家も富塚家の墓標を本日、確認できませんでした。

善應殿の冨塚長門藤原重標1716(正徳6)3月付寄進の灯籠も確認できませんでした。

本日 未確認の墓碑等は 確認次第お知らせ致します。

本項まとめるに、
仙臺大人名大辞典、宮城県姓氏家系大辞典。私本仙台藩士事典、佐藤一夫編富塚物語、獅山公治家記録、WEB宮城地区の歴史等を参考にしました。また読者小夜様から資料検索について教示を頂きました。



2 月 11 日 (水)  



 建国記念の日 天皇誕生日と同様に 日替わりの無い祝日です。と言うことは日曜日との連休の可能性の少ない祝日です。昨年は月曜日で、連休となり600人を越える参拝があったそう。(非公式情報)果たして今日は?

 週の中日ですが、遠方から続々とお見えになりました。久々、感仙殿までガイドしました。

 福島県いわき市小名浜からのお嬢さん。「あの碑が戊辰の役殉難者の・・・・小名浜で激戦があり、弔魂碑あります・・・昨秋お詣りしました」 「激戦あったは知っていますが弔魂碑は知りませんでした」  当然の事です。
 途中から、京都からの若い男性3人が合流。波長が合い約束の20分若干超過し本殿まで。

 絵葉書2葉と映画会開催のチラシを頂きました。非常にセンスの良いチラシ。 興味深い字句。
 「日々、想うこと山ほどあって、想うことにも慣れ、それでも想う。でも何か物足りなさを感じる時。『何か面白い事あった?』『何か楽しい事したいね』20代後半戦を戦う女子、ここから有言実行。」
 転用させて頂きます「・・・・・70代前戦を戦う爺様、これから有言実行」。

 絵葉書に可愛い、鬚のお爺さんがアクセントとして描かれています。なにかシグナルを発しているのか。絵葉書は市売品でしょうか。お遊び作品ではありません。次のURL http://www.sonooka.org/gnome.html をご覧下さい。

 11時12分未だガイド中、既にブログに感想を掲載していました。実行力に敬服。たのしい出合いでした。

 ほのぼのした出合いのみで、記録すべき質問の無い日でした。

 事務所でコヒーと仙台ガイドブック 〔英語・中国語(漢字)、韓語(ハングル)、タイ語の4国語〕を頂きました。写真と記述は全く同じで国語が違うものです。タイ語は珍しいです。確かにタイからも参拝に見えています。会話が成り立たなかっただけです。さて、この資料をどの様に活用するかです。コヒーを飲み終わっても浮かびませんでした。ゴメン

 Uさんと久々の一緒。10月の行動計画を打ち合わせしました。数あり楽しみです。
 Eさんから貴重な情報を頂き図書館に立ちよりました。精査し3月14日の日誌に記載します。乞うご期待。



2 月 10 日 (火)  



2月1日記載 瑞鳳殿の向きについて、誤りではないが 誤解を招く表現ではないかと、Eさんからご指摘を頂きました。確かに表現不足でした。次の様な文言で修正・補足しました。

 瑞鳳殿は、仙臺城の方向と同時に経ケ峯の主峯を向いています。この峯には経ケ峯の地名由来となった萬海上人の経櫃が埋められたと伝えられています。この霊域に敬意を表してと思われます。
 感仙殿も善應殿も、この主峯を向いています。地形にもよりますが、精神的に政宗公にならったとも思われます。

 仙臺高等裁判所、東北帝國大学の正門が仙臺城の方向を向いているのは、伊達家の重臣屋敷正門にならい、270年間の治世の権力の象徴であった仙臺城址に敬意を表してと思われます。


 Eさんは 資料を賦してのご教示です。ガイド資料に有効です。転載させて頂きます。

 瑞鳳殿は、「経巻ヲ書写シ、年ヲ積テ若干巻アリ。終ニ塚ヲ築テ其中ニ納ム。是ヨリ後、此山ヲ経峰ト号ス。」(性山公治家記録 巻之一)とあるように、萬海上人が経塚を建てた。政宗はその生まれ替わりとも言い伝えられた。そなこともあり、政宗の仏や行者への信仰心、宗教心から「我死セハ此辺ニ在テ然ルヘキ所ナリト仰ラレ、御杖ヲ卓玉フ」訳で、経塚の方向に向けて建てられたのではないか。
 感仙殿も善応殿も中央の峰に向けて建てられています。
 経塚の位置は確認されていないそうでそうですが。

 東北大学・裁判所の正門の向きは、明治になってからの城や藩主への敬意と捉えてよいと思いますが、中世期の人々の信仰や伊達家の神社や寺、祈祷寺の存在や建築から考えると、神や仏への信仰心からの「向き」と捉え、意味は違うように思います。

 政宗が「経峰」に墓を求めたのも、霊山としての「経峰」であったであろうし、萬海上人にあやかりたいという思いがあってのことではないかと思いますが如何でしょうか。

 「九曜紋」は、細川家の紋を政宗が所望して自分の家紋にしたと云われますが、何故他家の家紋を欲しがったのでしょうか。所望した場所、文書など記録があるのかどうか私には分かりませが。「九曜曼荼羅は天地四方を守護する仏」ということで、政宗の信仰心から自分の家紋として使用したのではないかと思います。



2 月 9 日 (月)  



昨日の日誌 3ケ所 修正しました。宜しければ読み直してください。

昨日弔魂碑で語った方からメールを頂きました。その要旨は
@ あかとんぼ様が感じられている通り、近代日本は様々な矛盾や差別を内包していました。その名残が現代にも続き、「発言権」のない地域の歴史は、「中央」の歴史に吸収され、その存在をも歴史の闇へ消えてしまっているが現状です。

A例えば、長岡藩では、仙台まで逃れてきて病死した藩士は、明治二年の段階では慰霊の対象となっていましたが、明治七年頃には、慰霊の対象から外れてしまっています。もちろん、長岡藩士に徴用され、流れ弾に当たって死亡してしまった農民もその段階で除外されています。

B「官」や「賊」を超え、侍や農民の身分も超え、すべてに平等で優しい慰霊活動ができないものか考えております。

これについて、
Aの慰霊の対象基準の変化は、初めて知りました。非常に興味深い情報です。
瑞鳳殿の弔魂碑1260人には、徴用され死亡した農民等は除外されています。当時の身分制度故かも知れませんが、実際の殉難者はもっと多いです。
 
 後世の歴史資料として活用される仙台市史(2008年3月刊行)戊辰の役の項で犠牲者数 906人と記載された事です。実体から乖離しています。官尊民卑の思想です。仙台市議会本会議で同志代表の鈴木繁雄議員が質問してくれましたが、押し切られました。無念の思いははれていません。

Bの「すべてに平等で優しい慰霊活動ができないものか考えております」は まつたく同感であります。

NHKTV「篤姫」の影響は少ないでしょうが、幕末の政情不安が巻き起こした不幸な事件に関心を持って参拝に見える方がいる事 喜ばしい事でしょう。



2 月 8 日 (日)  



 風雪です。 3組14人ガイドしました。

 長身170余cm、長足美脚の東京のお嬢さん2人。政宗公フアンとか、瑞鳳殿は3回目でガイド付き初めてとか。3段石段で「段差が高いと高齢者に云われます。お嬢さんは苦にならないでしょう。足の長さ何センチあります」と聞いて、即、シマッタと思いました。「足の長さと測った事ありません。段差の高さは感じますヨ」と流してくれました。ホツし、御礼として 撮影ポイントを紹介しました。一眼レフでカシャカシャ撮影していました。

 五色水玉模様の政宗公陣羽織を気に入られ、背中モデルを所望されました。仙台市博物館で真物を見て来た。正確に復元した着用出来る物 売店で販売していますかと問われました。
 正確に復元した着用出来るものは、1着幾ら位の単価になるのでしょうか。値段を別として欲しいと洩らす方 います。ミニとか 風とか で製作販売出来ないでしょうか。

 ガイド中拝殿で「一緒に聴かせてください」と10人のご婦人からのお声。先約に断り、ガイド内容を巻き戻して一緒に聴いて頂きました。宮城県内の方々で初めて瑞鳳殿を参拝されたそうです。
 途中割り込み、ガタガタ質問し、先約の方を不快にさせるご婦人が、ママいます。今日の方々は違いました。この様な方々は、教養のある方、品格のある方と申すのでしょうか。

 拝殿で「ガイド初めからお願い」のお声。宇都宮の母娘。涅槃門迄戻って頂き、丁寧にガイドしました。「資料館もガイドして欲しい」に 「ビデオ見ている方々から クレームがありますので。ガイド出来ないので」と断りました。
 幾ら小さい声でも クレームが付きます。ビデオの音声を高くして貰えれば解決するかなと思います。


 以上のガイドを始める前、弔魂碑を四方から丁寧に撮影されている若いご夫妻を目にしました。チラリ眺める人が多いのに、誠に珍しい方々です。瑞鳳殿ガイドを中止にかけつけました。「戊辰の役 殉難者の末裔の方ですか」

 長岡の生まれです。河井継之助と伊達家家臣を含めた弔魂碑は、役後早い時代に作られている。白河等の弔魂碑をお詣りし、伊達家本来のこの碑に漸う到達した。ここも白河も明治10年代に創建されているが、伊達家の資金・指導で一斉に建てられたのか。何故明治10年なのか。この供養碑の氏名は欠落していますがわかりますか。120祭以後供養祭を催していますか。なぜ鉄製なのですか。等等。

 この方と名刺を交換しました。そして、次の様に話ししました。
@昨年10月10日市民有志である伊達藩志會が主催し140年祭を催しました。伊達藩志會は各地の慰霊祭に参列しています。

A供養碑の氏名は、可能な限り解明しました。HP「あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌・資料館・弔魂碑」をご覧下さい。

B本碑に祀られている1260人の戦没地・月日、遺族については、1917(大正6)年10月10日に開催された50年祭の記録「仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌」に詳細に記載されています。
また、敗者となった伊達家としての公式記録に相当するものは、同時に発行された「仙臺藩戊辰殉難小史」と見ています。古本屋での入手は困難です。宮城県立図書館郷土室で閲覧は可能です。尚(財)瑞鳳殿でも保管しています。

Cなぜ碑の建立が明治10年になったのかは推定ですが、戦後10年人心・世情が落ち着いて来た。また、西南の役が勃発するなど、評価も代わり、時の政権が ようよう 建立を許可したのではありませんか。本碑の建立許可の一件書類は宮城県公文書館で保管されています。

D建立に至る10年間の経過について、東北大学教授の指導を受け調査している方は、「資料が無くて皆目不明である」と申していました。

E半藤一利著「幕末史」新潮社刊を読書中ですが、明治政府的立場ではなく、公平な視点で分析していると評価しています。一読をお勧めします。
 
この方から高木博志氏の論文(題名は「紀念祭の時代」)は、佐々木克『明治維新期の政治文化』という書物に掲載されていて、東北大学図書館にもこの書物は所蔵されいます。参考になる。と教示頂きました。尚、宮城県・仙台市の何れの図書館にも蔵書されていませんでした。

仲間のNさんから、経ケ峯(瑞鳳殿所在)周囲、
@「鹿落坂」を何と読んでいますか。
A「大蔵寺」は現在の東洋館と聞いたがどうか。
B「黒沼」と云われる沼を知っているか。
C萬海上人は気仙沼市出身と聞いたが。

@「鹿落坂」は「シシオチサカ」と呼んでいます。
A「大蔵寺」の所在は古地図等でこの付近とは知っていました。大蔵寺は料亭東洋館に隣接している「鹿落観音」の別当寺でした。「鹿落観音」は何度かお詣りし尼様からウドンゲの話などを聞いています。
B「黒沼」の正確な所在は確認できていません。現竜口渓谷の流れは経ケ峯・向山を流れ広瀬川に合流していた時代(2600万年前)の河跡湖と聞いている。1978年6月12日発生宮城県沖地震で沼の埋立地に建築した豪邸が大被害を受けたの話しを聞いていますが、この沼が黒沼なのかは確証は得られていません。
C萬海上人の出身地は初耳でした。
と答えました。Nさんはよく勉強されています。貴重な情報源です。こんごも宜しくお願いします。

参拝者が途絶え、また吹雪いて来ました。熱いお茶をご馳走になり 本日お終いです。
11日建国記念日はガイド予定しています。どうぞ お待ち致しおります。



2 月 2 日 (月)  



昨日の続きです。

感仙殿前の板碑。親娘に説明していたら「あら あの墓石の色?」と母親。11代斎義(ナリヨシ)公室芝姫アツヒメ)の墓石が薄桃色から薄紫色に輝いています。どうした現象でしょうか。昨夜来のドカ雪に所謂 「ホトリ」で発熱したのでしょうか。

宇都宮の方でこんな話しをしてくれました。
☆私も夫の生家の墓石は黒御影石で立派です。石屋が来て「売ってくれ。今風の墓石作って上げます」と云った。現在では容易に入手出来ない高品質の黒御影石なので、分割・販売を考えたらしい。先祖を祀った墓石を売れますか。
★板碑は1000年前のもので、感仙殿の墓室の蓋石に使用されていた。通常、墓石等の再利用は無いだろう。から波及した話です。

☆大谷石の産出は今でもあります。昔日ほどではありませんが。採掘跡は音楽ホールやワイン・野菜の保管庫に利用されています。採掘場の上を利用している人々は、いつ陥没があるか戦々恐々です。
★墓室の石材 秋保石らしい。秋保石はブロックとの競争に敗れ、採石が殆どストップしたの説明から波及した話です。

☆「細工」と云う邑があります。日光東照宮造営工事に携わった細工師が住着いた邑です。昔は妻子を連れて来たのでしょうか。住居表示で地名として消失しましたが、タクシーは「細工」と云わないと、連れて行きません。
★日光東照宮造営工事の技術スタッフに、伊達家の技術が優秀であると認められスカウトされ携わっていますと説明から波及した話です。


☆夫が趣味で透かし彫りをしています。仙台は東京に行くより近いので、今度連れて来ます。
娘が聴衆限定のコンサートを聴きに来たので同行した。仙台は都会です。

瑞鳳殿でガイドしていればモット話を聴けたかも残念と思いました。昨日4組7人のガイドでしたが充実していました。



2 月 1 日 (日)  



 昨日の牡丹雪(濡れ雪)の大雪は夢のよう。晴天です。
 昨日は4回除排雪しました。路面は累計積雪30cm。Uさんから「明日行くのか。僕今日休みました」の電話。「明日は日曜日。行きます」と啖呵を切ったものの、車が走行出来る路面状況になるか心配です。
 朝明け方ブルトーザ2回除雪に来ました。バス通りは路面半黒です。所々圧雪があります。ソロソロ走行で瑞鳳殿に。瑞鳳殿・感仙殿と境内は雪折れ枝が雪原に散乱しています。


 「福岡から来ました。一人でもガイドしてくれます」と盛年男性。
涅槃門の透かし彫りで、「戦災焼失前は日本三大透かし彫りの一つと云われたそうです」と半分まで話しした時点で、「西本願寺の日暮門 素晴らしいですよ。1日見ていても見切れない、飽きないので日暮門と言います」と教えてくれました。初耳です。「ありがとうございます。知りませんでした」

 帰宅後、即ホームページで確認しました。正しくは「西本願寺 唐門。國寶です」
@日光東照宮のような豪華な装飾彫刻を施した四脚門の唐門は桃山時代の伏見城の遺構だと言われています
A建築細部に見られる彫刻は、これを丹念に眺めていると日の暮れるのを忘れると云われ、別名、「日暮門(ひぐらし)」とも云われています
B何処を見ても随所にほどこされた彫刻は極彩色に彩られ、精緻な飾金物とともに黒漆塗の柱や梁に映えてため息が出るほどです。
等の解説つきで、写真が掲載されていました。實に豪壮華麗な建造物です。
この項 URL http://syoindo.noblog.net/blog/r/10269363.html に依りました。

 拝殿の扁額「瑞鳳殿」の書。「書家佐々木文山書を復元したものです」に怪訝な顔。写真等資料を広げました。「時七十六歳 佐文山書 落款」を示しました。納得したようですが「復元した額 文字との比率が正確でない。署名も復元すべきないか」と独り言洩らしていました。

 西海波の門で独り言云われる前に、復元されなかった唐門を初め、国宝時代の本殿前面、内陣、御供所の写真等資料を広げました。先制パンチは成功しました。「さすが伊達。国宝は当然」に あかとんぼ ニンマリ。

 「本殿は何故城下の方を向かないで、お城の方を向いているのか。逆ではないか」のご質問。待ってました。
「1636(寛永13)年4月18日政宗公、経ケ峯と呼ばれる本地にて 終の棲家としての墓所建設の地をここと指示された。廟としての規模・雰囲気・景観からすれば、自然にこの配置になるのではないでしょうか。仙臺城の方に向いています。
 今ひとつ、仙臺城の方向と同時に経ケ峯の主峯を向いています。この峯には経ケ峯の地名由来となった萬海上人の経櫃が埋められたと伝えられています。この霊域に敬意を表してと思われます。
 尚、感仙殿も善應殿も、この主峯を向いています。地形にもよりますが、精神的に政宗公にならったとも思われます。

 参考迄、伊達家重臣の仙臺屋敷の正門は全て仙臺城の方に向いていました。重臣屋敷跡に設置された仙臺高等裁判所、東北帝国大学等の正門は仙臺城の方に向いています。テレビ等のオブズマンが提訴に向かう画面の門は、通用門(裏門)です。これは伊達家の重臣屋敷正門にならい、270年間の治世の権力の象徴であった仙臺城址に敬意を表してと思われます。尚、墓室発掘調査で御遺体は城下を向いていたと確認されています。」

 NHKTV「天地人」で伊達家も登場することを知っていました。資料館から40分後 満足した表情で出て来ました。
この人のガイドは、軽い緊張感で応接し充実感がありました。西本願寺の唐門を教えて頂きました。感謝です。


 Eさん「あかとんぼさん この石何の石だかわかる?」と指差したのは拝殿前の創建時からの石畳末端ある直径20cmの円形の穴のある基礎石です。「ハアー」 「これ、拝殿向拝の柱の基礎石です」 早速 平面図と焼失前の写真と突合しました。そうです。あかとんぼヘエーです。9年目の発見。Eさんは10年目の発見でしょうか。今まで極秘にしていたのでしょうか。


 (財)瑞鳳殿で通年で募集していた「瑞鳳殿(含む感仙殿等)の風景写真。締め切り今月10日です。主任との約束もあり、本日応募しました。「景も桃山様式」の題です。入賞を予感します。賞金○○百万円かな。発表が楽しみです。皆様 未だ間に合います。でも、競争率を引き上げない下さい。





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