2009年4月の日誌
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4 月 29 日 (水)  



「昭和の日」 又名前が変わっていた。「天長節」とまで云わないが「天皇誕生日」から「みどりの日」になった迄は理解していた。パソコンの日程表は「みどりの日」で、新聞と今年のカレンダーは「昭和の日」となっていた。

週の中日の祝日なれど晴天であれば 参拝者はゾクゾク続くと予想。ガイドに行かねばならぬと思いつつ、「連合町内会防火連絡会」の総会。消防署長のご臨席があるから、役員の末席を汚しているシオカラトンボさん 決して欠席しないでと会長から念押しの電話。一朝有事の際にはと、鼎の軽重を問われれば、自からの理。瑞鳳殿ガイドを惜涙つつ 休みました。
10時40分から13時10分まで 昼食の用意も無い会合。午前か午後に絞れば 午後か午前にガイド出来るのに悔しい。
5月2日から5日まで午前はガイドの予定。6日は終日 依頼ガイドの予定。



4 月 27 日 (月)  



 ガイド仲間の現地勉強会が瑞鳳殿で開催されました。世話人のEさんは、「既にガイドしている者は参加不要(五月蠅いから参加拒否?)これからガイド活動する者歓迎」と宣言していました。が、参加したのは ガイドしている者が大部分。
 日々のガイドとの軌道修正個所ないか 既ガイドは真剣に聞いていました。あかとんぼ としても 研究課題が出ました。

 本日は「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会で、「瑞鳳殿ボランテイァガイドの会」の勉強会では無いと理解したのか 偽陣羽織を着用しガイドしている者がいました。ガイドは自由ですが、参加し講師の内容に疑義あれば 討議し共に質の向上 均一化が必要とおもいます故 一緒に勉強して欲しかった。 

 (財)瑞鳳殿で用意された 政宗公陣羽織風は非常に好評です。19日 本格的に復元したものの販売を問われました。限りなく近いと思われるのは仙臺藩志会婦人部着用のものです。予備があり頒布しているか 問い合わせをしたところ、現在 在庫皆無で新規会員に配布出来ないで居る。背中の「竹に雀」紋は、金糸で刺繍したもので現在 製作出来る人が居ない。10年程前製作したのが最後で1着10万円に近い金額であったと、事務局長の回答でした。
 我々が着用しているものは、定額給付金相当額では と推定していました。ハテ、年寄り子供か 現役の人々の額なのか 聞き漏らしました。



4 月 26 日 (日)  



大雨です。参拝者 お出かけくださるか 心配でしたが、怒濤の如く、お見えになりました。
雨が強く お客様が濡れないように配慮。拝殿から本殿を説明をする方法を主体としました。この怒濤も11時なると ピタリと停まりました。
どうしたのでしょう。Uさんと分析しました。瑞鳳殿を参拝しようと計画し来仙された方々は 大雨を厭わず 開門と同時に参拝に見えた。迷いのあった人々は、濡れるのを厭い中止されたのではの結論になりました。
さて 正解は わかりません。

滋賀県からの姉妹一行。涅槃門の菊紋、皇室との違いを語り、「延暦寺、三井寺の寺紋は、皇室に一見同じですが、ここが異なります。似て非なるデザインです」と延暦寺、三井寺の寺紋印をお見せしました。「県内に所在しても お詣りする事も無いから知らなかった」のお返事。その通りです。息子で甥が東北大学生で その激励団でした。

本日の若いお客様 るーぷるバスで勉強してきたのか、伊達家の家禄62万石 石段ね62段とスラスラ答えられていました。
やや高齢のご婦人から「伊達家 最盛期の収入は如何ほどか」のご質問。「表高62万石 実高100万石とも云われましたが」とお答えしました。勉強していないボラガイドだなと ご不満の表情でした。
伊達家治世約270年間の歳入・歳出の決算一覧書に接していません。伊達模様と云われる豪華絢爛派手な建造物を建立した政宗公ですが 晩年は幕府から金子借用をしてます。幕末には相次ぎ凶作等で財政破綻に近い状況にあった様です。ひいては 幕末争乱の世に 仙臺伊達家と宇和島伊達家の動向が 大きく異なったことに起因している様です。勉強課題です。今回の宇和島滞在期間中 幾ばくかの解明資料に接しましたが 断言する程の整理に至っていません。答えられなかった 非常に悔しい思いです。

会津若松城祉、姫路城、金澤城祉等での ボラガイドは「我が○○家の最盛期は ○○年で歳入は金に換算して○○万両あった」と 語り 答えているだろうか。来月25日例会「仙臺城址ガイド」の際 質問してみようかな。


本HPの20日を読まれた方から「政宗公の孫 忠宗公の世子で 将軍家光の偏韓を頂いている 光宗の名前が無かった故です」について 何故無かったかの確認がありました。

 光宗は、寛永4年(1627)2月8日江戸で生まれています。政宗公が亡くなった寛永13年(1636.)は9歳て、元服前です。それ故 一人前に扱われていなかった為と理解しています。尚、元服は寛永16年(1639)4月14日で、この時 将軍家光の光を頂き 「光宗」となりました。幼名は「萬助」でした。

 宇和島伊達家 宗時の墓地は 宇和島・金剛山大隆寺と記載しました。ここは宇和島伊達家の殿様・正室の墓所です。正確には、9代宗コ公の前 7代宗紀公夫妻の後の一画にあり、2代を嗣がなかったが 殿に準じた埋葬がされています。



4 月 20 日 (月)  



伊達左京亮宗時とは

貞山公治家記録巻之39下に、次の様な要旨で記載されています。
寛永13年5月13日(太陽暦1636年7月15)暁雨少降、夜明ヨリ晴、段々快晴、炎蒸甚の気象のもとで 政宗公の葬儀が催されました。覺範寺を出発した葬列は、輿の保春院清岳和尚。鉄砲・弓・槍の各20挺を先頭に、第1集団から第13集団とシンガリです。
この第6集団に 総御牽馬11匹 1番宇和島侍従殿  2番伊達三河守殿宗泰(政宗4男岩出山) 3番伊達左京亮殿宗時 4番伊達治部殿宗實(9男) 5番伊達兵部殿宗勝(10男) 6番石川民部 ・・・。

義山公治家記録巻之1に、次の様に記載されています。
(略)  公御家督ノ御禮トシテ登城、(中略) 宇和島侍従殿秀宗 伊達三河守殿宗泰 同伊達左京亮宗時 御禮仰上ラル、御家臣石川民部 ・・・。

伊達左京亮宗時の名前は政宗の子供達一覧にはありません。家臣ではありませんことは明白です。さて如何なる人物か?あかとんぼ の調査能力を超えました。昨19日のガイドの際 有識者の方々にご教示を願いました。今朝迄 相続き ご教示頂きました。

伊達左京亮宗時とは、宇和島侍従殿秀宗の次男。長男宗實が病弱な為 寛永9年(1632年)世子となる」「です。あわてて開きました、宇和島市立伊達博物館から頂いた資料には、「父秀宗 母亀姫(彦根井伊直政女) 次男。元和元年(1615)生 承応2年(1653)没 39歳 墓地 宇和島・金剛山大隆寺。 寛永11年(1634)将軍家光上洛に供奉する」等ありました。
寛永13年(1636年)の政宗公の葬儀に参列、将軍に御禮言上に 忠宗公、秀宗公に同行された 事情を理解しました。葬儀の際の順位は 疑問の残る所です。

なぜ あかとんぼ の調査能力を超えたか。息子に拘り 孫に至らなかったか。それは、政宗公の孫 忠宗公の世子で 将軍家光の偏韓を頂いている 光宗の名前が無かった故です。

すべて 整理の上、講座「政宗公灰塚を詣る」5月22日10時から柏木市民センターで、ガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」の例会「宇和島伊達家見聞録」7月27日10時から市民会館で 報告致します。









4 月 19 日 (日)  



櫻は散りました。
暖かくなり 1000円効果か 車利用の参拝者が多かったです。朝一番、沼津からのバス。昨夕 関東圏を出発しジャンボ銭湯?で休息、開門を待って参拝に来ましたと タフな一行の方もおりました。

 一番の遠方は、中華民国台湾の一行、仲間内の会話とあかとんぼとの会話での国語が異なります。(意思疎通OK) 二番は、沖縄本島からのお嬢さん2人 タクシーが待機中とか 10分ガイド。二人は(唐獅子を見てシサー。本殿を見て守礼門!)の会話。そうでしょう。

 姉妹と間違った親娘。娘が政宗公にハマッテいると云いながら、親もハマッテいる様子 良くご存じです。
 政宗公の半月の前立てついた兜が、「久月」で売っている、買いたいがと洩らしつつ 写真を見せてくれました。
 伊達家家紋についての思いこみがあり 「ケーキ屋に竹に雀の家紋のケーキを頼みたい」と洩らしていました。「竹の葉52(内22・外30)露16(内4・外12)節8が正式です。根の形も仙臺と宇和島と異なります」と申したら 「アー無理ネ」のご返事でした。
 ガイドのユニホーム 陣羽織をデザインしたものとご存じで、袖があり 黄金の竹に雀の家紋付の完全復元の陣羽織を買えないかのお尋ねがありました。仙臺藩志会婦人部着用の陣羽織は復元ですが 余裕・予備が在るか?仙臺藩志会事務局長に近々会います。聞いてみましょう。
 この方々の会話 勉強になりました。

 「定年後のただならぬオジサン」中公新書に「このボランティアを初めて3ケ月ほど経った時のことです。説明を終えた瞬間、それまで耳を傾けてくれていた10人ほどのお客様が、一斉に拍手してくれた。まったく 思いかけないことだったので、これが本当に嬉しかったと語り、以来 しっかり病みつきなってしまった」とあかとんぼ を紹介しています。その通りです。
 街頭演説型ガイドから 最近は 個別面接型ガイドをしておりますので 拍手は頂けなくなりました。でも、今朝2番目のお客様夫妻から 握手を求められました。これは本当に嬉しかった。

 この方の質問に「キリシタン文化の影響が装飾に表れていないのか。あれが十字を表しているのでは」がありました。指した模様は「向かい揚羽蝶」でした。
 本殿 最上部に4個の葉が十字型に描かれています。あかとんぼから「この様なデザインが 焼失した拝殿に似た模様が描かれいて、1931年に宮城県史蹟名勝天然記念物調査委員阿刀田先生が〔取り込まれている十字模様、クロスの影響を被ったものであると疑う余地もない〕と述べています。ただ、現在 論議されていません」と話したのが 喜ばれ握手に至ったと思れます。

 本日 答えられなかった質問
 石段の途中で「あなた さっき 阿吽の唐獅子とガイドしていましたネ どちらが雄で どちらが雌ですか。はっきりガイドしなさい」  ガイド途中に割り込みし厳しい ご発言。この様な発言する方の性別・年齢は見当つくでしょう。
 「わかりません。メールアドレス教えてくだされば 調べてご返事します」を 無視・・・・降りて行きました。

 ひとり悩んでいたら「どうした」とある方 「シカジカ カクカク」の説明に 「ナーンダ そんなこと 知らないのか。女はお喋りだろ 口を大きく開けている 阿 が雌に決まっているでしょう。 男はペラペラ語らない。吽は雄ですヨ」
 ペラペラとガイドして者は 雄か雌か。



4 月 13 日 (月)  



 櫻花爛漫と豪華絢爛の瑞鳳殿との組み合わせ。

 参拝と撮影に お出で頂けない 遠方の方に ご紹介したくて挑戦していましたが 成功しません。
最低の撮影環境は、晴天・青空で櫻の花色が映え、瑞鳳殿本殿に陽光が差し 燦々と光輝いた時点です。

 本日12時すぎ 挑戦しました。表紙の写真です。如何でしょうか。60点の評価は頂けますでしょうか。
高額カメラを持参し、あかとんぼ 同様に狙っている方いました。首を傾げているところからして 失敗?

 参拝者はおりました。申し訳ない・残念と思いましたが、所用ありガイドしませんでした。仲間もいませんでした。



4 月 12 日 (日)  



 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿も瑞鳳寺も、そして城下も在も、一斉に櫻咲きました。

 開花宣言から例年なら1週間で満開になるのが今年は、3日で満開です。仙台を中心とする全ての地区で満開となりました。櫻花爛漫です。140年前には伊達家重臣の屋敷であった西公園ではブルーシートを敷いての花見の宴所狭しと繰り広げられていました。本日は何回転するのでしょう。昼は家族との、夜桜をアノ人と楽しむ人達と。

 「アー シクラさんの事 教えて」とのお声。「ハァー」 了解しました。ハゼクラさんです。支倉常長の事です。仙台以外の方の方には難しい読み方かも知れません。「御霊屋」をオタマヤと読まずに、オレイヤと読む方がママいます。アカトンボは オレオレ詐欺の出店でガイドしている気分になり 苦笑いしています。それに比して なんのその。

 このご夫妻、南部八戸からの方で、斗南開拓、会津松平家の悲劇をも 良くご存じで、20分の約束で ご案内しましたが、相性がピタリであったのか、お客様も語り、本殿前で終わったとき 時計の針は一回りしていました。

 以後、何組かガイドし、感謝されました。きょうの運勢、「良いことは続かない」でした。ナント的中しました。

 本殿前でガイドを終えたトタン「私にもガイドしなさい」。オバアサンです。 「どちらから」 なんで そんなことを聞くのかの表情です。お客様との接点を求め 楽しい参拝になるガイドをしたいから聞いているので、別に個人情報を収集している訳ではありません。答えて頂かなくともガイドはできます。

 前の方にガイドしたのを どの程度聞き 依頼されたかさぐりながら ガイドしました。3分ほどしたら「時間です」のお声。即刻ストップしました。お連合いのオジサンが 何かブツブツ言っています。今これから説明しようとした事についての質問です。中止派と継続派との 板挟みになりました。中止派の力が強い様です。質問には標題・要点のみ答え 終わりにしました。

 なぜ ガイド途中でストップのサインが出たのか。ガイド内容がオバアサンの期待に添わなかった事は確かですが。政宗公の御霊屋(お墓)、桃山様式の建造物、国宝であった等の基本的な話しの途中です。そんなことは承知しているのであれば、ガイドを求めた際に コレコレを話してくれと云われれば 応ずるのに。何を求められたのか。ボダイブローの如く 悩みます。 

 まもなく、運勢は回復しました。
 この春 東北大歯学部と看護学部に入学された女子学生3人、先生風の方に案内されてきました。先ずは仙台を知ろうです。
 これからの学生生活に参考になるかなと、発掘調査時に医学部等の諸先生が詳細に調査されました。報告書の概要が売店で25,000円で販売されていますと紹介しました。歯学部は6年の在学です。その内 教授からも云われ読むでしょう。

 欧米系 3世代。女親、夫婦、男孫です。夫婦は二人で写真を取り合っています。祖母は孫の面倒を見ています。
嫁姑か親娘か その関係は不詳ですが、祖母と孫の関係は、全世界、肌の色合い関係なく 共通するな と見えました。

 本日のガイドはYさんと2人。参拝者は途切れる事なく 続々と。12時をすぎたら 口が渇き 空腹を感じましたので 終わりに。事務所でコヒーを馳走になりました。美味。



4 月 11 日 (土)  



櫻花爛漫。
宇和島短期滞在の整理が続く。3月14日の古新聞が出てきた。
NHK「大河ドラマ」が好きですか。「心に残る作品は」10,000人に聞きましたの記事。
1位は 篤姫。28% 2位は独眼竜政宗。17% 6位が樅の木は残った。10% 。
1位の篤姫は 昨年の今年故 当然として、独眼竜政宗が 赤穂浪士や太閤記を引き離して2位とは、意外。嬉しい限り。
ただならぬオジサンは明日も頑張るぞ。



4 月 6 日 (月)  



 ガイドグループの総会。年会費1000円の団体ながら 予算・決算、事業報告・計画の審議があり、シャンシャン。
 
 事業計画とは、月1回の勉強会(例会)の予定です。ガイドはしないが勉強はしたい人、ガイドの際の資料を補強したい人、さまざまです。全員満足の計画は至難です。結果的に、ガイドに直接の内容でなくとも、ガイドの際 手持ち(頭の中に)資料が厚くなるものであればと、
@松島瑞厳寺中心に所在する 政宗公正室愛姫の陽コ院内の寶華殿、娘五郎八姫の天麟院内の定照殿、孫光宗の円通院内の三慧殿の三殿の参拝の実地研修。
A宇和島・吉田伊達家についての座学。
の2講座が追加されました。

宇和島・吉田伊達家が話題になった際、「宇和島に1ケ月滞在して」の紹介がUさんからあり、「何で1ケ月滞在したのか」の疑問のどよめきがありました。講義は7月の予定です。あかとんぼの1ケ月研修の実績が評価されます。それまで 宇和島観光のパンフ届くでしょうから 話は 容易でしょう。



4 月 5 日 (日)  



 
 臥竜梅が満開です。見事です。関東以南からの参拝者は櫻花爛漫 と見ていましたので、ガイドしました。
「梅です。政宗公が文禄の役1593年 朝鮮半島から 兜に入れ持ち帰ったと伝えられる臥竜梅の孫か曾孫です。原木は現在 誰彼立入出来ない個所で 咲いて居る筈です」 撮影する方 それなりに居ます。

 宇和島では、この木と同様に 末裔が 市役所庁舎前に3本、天赦園(宇和島伊達家7代宗紀が隠居所として造営した庭園。命名は政宗公の「馬上少年過 世中白髪多 残躯 不楽是如何に由来)に1本ありました。

 市役所庁舎前の由来書は、1975年11月3日姉妹都市締結記念に仙台市から贈られたもの。宇和島伊達家藩祖秀宗公の父 政宗公が1593年朝鮮半島から持ち帰り 仙臺城に植え後 晩年の居城若林城内(現宮城刑務所)に移植したと伝えられる。朝鮮梅の愛称で知られ1942年國の天然記念物に指定された。とあります。

 天赦園の由来書は、1999年姉妹都市締結記念に植樹。仙臺城にて幾星霜大樹となり1937年國の天然記念物指定を受けた。岩出山町大学町27○○氏宅で育成されたもので、瑞鳳殿と兄弟木である。とあります。

 由来書の表現に微妙な違い(アンダーライン部)があります。これは 市役所内部での所管の違いに依るものでしょうか。尚、仙台市保存樹木名鑑によれば若林の臥竜梅は1942年指定となっています。

 臥竜梅と標示していませんが、秀宗公墓所前に梅の木がありました。標柱表に「1987年10月23日日専連仙台歴史散策の旅、仙台市民墓参植樹」 裏面に「(財)瑞鳳殿 協力日専連仙台会」と標示がありました。形は自然体、臥竜を目指していません。 

 未だ 新学期が始まっていないのか、小学生と一緒の親子が散見されました。

瑞鳳殿でのガイド 約1ケ月振りです。

 先ずは、(財)瑞鳳殿K氏、仲間のUさんEさんに 宇和島伊達家10万石、吉田3万石の伊達家史蹟を丹念に探訪してきた事を報告、「牛鬼」の除厄招福のお札をS主任と4人に お土産のかわりに差し上げました。
 このお札は、夏祭りに出動する「牛鬼」祭りを あかとんぼに特別に公開してくれましたので、ご芳志として購入したものです。宇和島城と牛鬼がデザインされた 趣のあるものです。除厄招福の御利益があるかは ご当人次第。

 Uさんから 宇和島に1ケ月滞在し 伊達博物館等での 史蹟等調査ご苦労と 自作竹細工の蜻蛉を頂きました。目玉に宝石が埋め込まれ、邪悪な事たくらんで居ないか見ている感じです。ありがとうございました。

 第4回瑞鳳殿四季写真展。13点の出展を得、3月20日〜31日の期間で開催されました。留守中で観賞出来ませんで残念でした。あかとんぼの出展作品は入賞したのか?本日発表はありませんでした。



4 月 3 日 (金)  



扁額
 宇和島市立伊達博物館の展示を、Y学芸員に解説をして頂きながら、1階から3偕に至りました。展示物の最終は「壽命山長遠寺観音菩薩像36体」 金箔が多少汚れても 静寂の中に仏像の持つ尊厳に圧倒され、ふと 横壁に掲げられた写真を見て、驚きました。

 宇和島5代村候(ムラトキ)候の直筆で、潮音寺の観音堂の扁額と解説していました。下地が濃青色で、文字が白色です。瑞鳳殿拝殿の扁額、焼失前の現物は、青珊瑚の下地に 真珠であったと記録されています。

現在、宇和島市は真珠の養殖が盛んです。珊瑚の産地と言われる土佐・高知は隣県です。全て 地場産品 容易
に入手出来るもの。
 村候(ムラトキ)候の母は仙臺5代吉村公と正室久我氏冬姫との娘富姫です。
しからば、この扁額の色は瑞鳳殿拝殿の扁額、と共通するものと直感しました。

 Y学芸員に「しかじか かくかく」と尋ねました。「即答出来かねます。先輩学芸員と現物を確認してから」と。当然です。既に2時間以上経過しています。 

 連絡を得、再訪しました。
 収蔵庫から 館長室に運び込み 特別に拝観と撮影が許可されました。
 下地の濃青色は珊瑚では無いことが歴然としていました。文字色は金色が薄くなったもので 撮影の際の色変わりでした。瑞鳳殿拝殿の扁額との共通性は否定されましたが、眼福の一瞬でした。

 「市内、伊達家墓所のある竜華山等覺寺の隣に所在した潮音寺の観音堂の扁額で、私(Y学芸員)が現地調査した時点では、既に観音堂は解体撤去され更地になり、灯籠2基のみ残っていた。現在、住職無住で隣の選佛寺が管理しています」との解説があり、本堂・灯籠等の現況写真を頂きました。
 またまた 1時間以上経過しました。

 以上の様に、ご多用の中 長時間 懇切丁寧に ご教示頂きました。館長初め館員皆様のご配慮と気配りに感謝致します。

 撮影許可は頂きましたが、HP等の公開の許可は頂いておりません。ご覧なりたい方は、瑞鳳殿でガイド中のあかとんぼ を訪ねて下さい。



4 月 1 日 (水)  



なぜ 瑞鳳殿ガイドを約1ヶ月 お休みしたか。3月1日の日誌 末尾に記載しました通りです。
元気に帰って参りました。5日からガイドを開始します。

「目指せ 櫻の開花 日本一」 四国・愛媛県宇和島市の一大プロゼェクトです。
測候所が廃止されたことから、日本一早く開花しても、広報される事も無く埋もれてしまう。このまま埋没してよいものかと、市役所若手女性職員が奮起し、上司に市長を説得し立ち上げたプロゼェクトです。
気象庁で観測していたOBを探しだし、ボランティアで指導員をお願いし、小学生から高齢者までの市民の参加を呼びかけて、蕾から開花・満開・散り始め迄 1日2回観察し、ブログ等で発表し、日本一の座を公認指せようとする物です。
今年で3年目。初めて姉妹都市からの参加を公募して、結果として10倍余の難関から、観光ボラガイドの実績が評価され選抜されたのです。日に2回の観測は、時間的に厳しい制約でした。

観測隊発足式、開花宣言には市長自ら参加、花見の宴、満開宣言に参加、多くの市民との交流も致しました。NHK
を初めとするマスコミの取材も受けました。

1951年宇和島で観測以来の新記録、平年に比べ12日、昨年に比べ9日早く、13日開花しました。ホッしました。

あかとんぼ の今一つの目的 宇和島伊達家、吉田伊達家の史蹟の見学があります。観光課職員のご配慮で、宇和島伊達家の史蹟「宇和島城」「天赦園」「市立伊達博物館」「墓所(竜華山等覺寺・金剛山大隆寺)」「和霊廟」「和霊神社」「宇和津彦神社」 吉田伊達家の史蹟「墓所(大乗寺)」「陣屋跡」等をガイド付き また ガイド無しで2度3度と訪れ、撮影しメモしてきました。

これらについて 整理出来次第 本日誌で報告致します。

宇和島の地形は、リアス式海岸と摺り鉢型で、景観に恵まれ、農水産物の豊な所でした。各種柑橘類の産出は日本一とも聞きました。湾では、真珠・ハマチ・鯛の養殖が盛んで、最近は鮪の養殖も始めたそうです。「ホッタレ」と称する美味なる魚も豊漁で、仙台のササカマに負けない 練り製品「ジャコ天」がありました。
観光課職員のご配慮で、市内全域 隈無く 見せて頂きました。

市民の皆様は人情味溢れ、仙台では容易に感じられないものがありました。
これらについての所感は ブログ「シオカラトンボ」に記載しております。ご覧頂ければ幸いです。

以上 伊予の國から 陸奥の國えの帰國のご挨拶です。






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