2009年6月の日誌
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6 月 29 日 (月)  



忠宗公灰塚

1950年頃 仙台市当局が破壊しました。
大法寺の境内にありましたが 中学校敷地になりました。
大法寺住職に直接尋ねましたが「当寺の境内に在ったとは聞いています。現在は中学校の敷地になっています。生まれる前の出来事で正確な場所はわかりません」と言れました。

真偽不明の話しとして「灰塚跡では、怪我・事故が多発し、柵で立ち入られないようにした」がありました。
忠宗公が自分の領内の 純真な中学に 祟りを銜える筈がありません。

本日 中学校と市民センター共催の「中学生と共に学ぶ」で、校舎に入りました。校舎配置図を基に3階から敷地を展望しました。グラウンドにも憩いの杜にも 柵は やはり 見当たりませんでした。

現在地に灰塚の位置を示せるのは、80歳以上で 60年前の現地を知る人です。



6 月 28 日 (日)  



猛暑 

職員駐車場に見慣れない車。突然「瑞鳳殿に行きたいケドー」 「此の山裾を左・左と走れば お客様専用の立派な駐車場に入ります」 「カーナビでは行けない?」 「木立の中に見えているのが瑞鳳殿本殿です。高性能のカーナビほど 図張り 標示しますが。駐車場からの参道も 素敵です。 お待ちしています」

陣羽織着用 待機しました。「どちらから?」 「カワサキから」 「村田の川崎でしょうか。神奈川の川崎でしょうか」
神奈川の川崎を 今朝4時に出発 5時間で到着。高速代1,500円で。500円高いのでは 首都高がプラスです。
息子の○○資格試験 仙台で今日なので 応援に来たとのことで、合格祈願ですネ と丁寧にガイドしました。

感覚的ですが、1,000円乗り放題が始まってから マイカー参拝が増加したようです。時間に余裕があり ジックリ参拝し、ガイドを聞いて頂けます。楽しんで頂けます。この限りでは、良い傾向と理解しています。

Sさんの分析によれば 高齢者のペアは JR大人の休日12,000円3日間乗り放題を利用されている方が多いでした。

涅槃門から 反応を確認しながら 本殿のガイドに至った時点で 之までガイドを聞いていない人が突然 割り込んで 話しの流れと無関係な事を話しかけてくる方がいます。 今日 2人 いました。

2人目の際 完全に流れを切られ、30秒 話せない 空白を作ってしまいました。流れを断ち切ったご婦人 それを見て 笑みを浮かべ去っていきました。 
我 敗れたり 未熟を実感しました。米澤市ボラガイド老は さすが 切りいる隙が無かった。

午前UさんOさんと3人で 対応し「ガイド居ないのか」と叱られることなく、午後はO嬢が駆けつけてくれました。

UさんとNDさん から 非常に興味深い 資料を頂きました。暑さにめげずガイドした御利益でしょうか。感謝です。



6 月 26 日 (金)  



梅雨明け? 灼熱の暑さ。
ご依頼ガイドです。事前情報は、姓は○○で、はやて7号で仙台着、瑞鳳殿に直行。それ以外の名前・年齢・性別・構成等 一切不明の5人組。

「五色水玉模様陣羽織」を着用、約束の時刻より25分早く待機していました。予感的中、15分早く到着しました。庄内・羽黒山の麓で1946年生まれた同級生、男3女2の構成。「東京の人」と自己紹介する言葉が庄内訛り。昨日はバス車内で終日 強烈な出羽・置賜訛りを聞かせられ、今日は庄内。こちらも些か訛りました。
「今 訛っていませんでしたか」「ウンニァ 訛ってネー」と庄内訛りで励まされました。

当初、1時間の約束でしたが、30分延長するので 全てを案内して欲しいとので、久々 御子様御廟まで案内しました。

手水場て 清めなくてはと「祓えたまえ 清めたまえ」と清めていました。一見「穢れて」いるようには見えませんが、穢れる事をしてきたのでしょうか。幼少からの羽黒神社参拝の作法が 素直に出たのでしょうか。

一人、「なぜ」としつこく聞かれる方いました。「西参道62段です」になぜ62段にしたの。「涅槃門の麒麟」 見たこと無いのになぜ麒麟と云えるー 「涅槃門の石段」に昔の人脚が短いのに なぜ段差が高いノー。  幼児の「ナゼ?」とそっくりです。同行者は呆れていました。
でも、ふるさとの○○を見物している様に楽しんでいました。ヨカッタ。

今晩 秋保温泉泊まり。政宗公の墓室と同じ材質の秋保石の採石場跡を見ながら、涅槃門を思い起こし、麒麟麦酒で乾杯し、庄内訛りで、爺さんガイドを批評しているでしょう。


21日 券売所前に置き忘れた傘。その場所にありました。瑞鳳殿にお詣りされる方は善人ばかりですので、あかとんぼ と記名された傘 お持ち帰りにならなかった様です。




6 月 25 日 (木)  



ガイド研修

瑞鳳殿ボラガイド会 外 生涯学習団体を含めた18団体の 観光ボランティア合同研修が 上杉家のご城下 米澤市を会場に、仙台市主催で開催されました。

講師は、上杉・米澤城周辺をガイドしている団体「おしょうしな」(米澤弁で ありすがとう の意、決して読者が想像したものではありません)の幹部女性です。実績15年 大声が取り柄と自称は 確かです。明確に聞き取れる様に生の音声でガイドしました。バス2台でも大丈夫とか。話題の転換 巧みで、質問等のツッコミの余地を与えません。年期が入っています。
あかとんぼ は25人を越えた場合 ハンドマイクを使用しています。

ガイトの実演は、松岬神社・上杉神社・寶物館稽照殿・上杉博物館・林泉寺・上杉家御廟です。短時間でサワリのみです。歴史の勉強が目的の人は意に添わなかったでしょう。

今日の収穫
1.上杉謙信の御遺体は、漆を塗られ、甕棺に修められ、越後、会津、米澤と点々と移され、明治初年に現在地に埋葬され 御廟が建てられた。甕棺の大きさ、中の状態は不明である。
 伊達家三代・仙姫との類似・相違点を知りたかったが駄目でした。

2.林泉寺の3×3の穴の開いた墓碑は、実際は鞘堂である。軟石であり、軽く 女2人で持てる重量である。戦時に攻撃された場合 トーチカになるものである。
 城下を作る際 町外れに寺町を配置し、防御線を構成するは通説。その通り。置賜地方は硬い石が採れないのか、上杉家時代の城に石垣はなく、寺の墓石も軟石が主体であった。


3.林泉寺 直江兼続夫妻の墓碑は、鞘堂で中に五輪塔がある。現在の墓碑になった事情、年月は寺間に故あって語られない。ガイドの独り言では 僧侶の権力闘争があったらしい。但し 子文書での記録が無い故 語れないであった。

4.NHKTVの直江兼続の兜 前立 「愛」は lOVE を連想させているが、軍神 愛宕大権現、愛染明王への信仰に由来している。納得 当然 当時 命をかけた闘いに 愛を語る余裕がある筈が無い。


上杉家御廟で 「上杉家は現在も存続しているのか」とガイドに質問が飛んでいました。瑞鳳殿でも 同様の質問があります。
歴史教育の欠陥です。明治維新とフランスやロシアの革命と同一視している様です。近世日本は 革命をしても基本的に生血は流していません。穏やかな民族です。



6 月 24 日 (水)  



萬壽寺 静寂殿

4代綱村公 正室稲葉氏仙姫の御霊屋です。この変遷について調べ 08年08月08日A4版12頁にまとめました。
調査未了の部分があり、本頁に掲載を躊躇していました。

幸町市民センターでは、地元学として、6月3日(水)から毎水曜日の4回の萬壽寺に関する講座を開催しました。
6月10日 萬壽寺跡 静寂殿跡 現地(青葉区小松島2)を案内して頂きました。現地は、住宅地になり、20m程の石垣が僅かに残っているだけで、御霊屋があった趣は皆無でした。
又 祥麟山(宮城野区二の森)と称する伊達家の墓所を1年振りに、講座と別に詣りました。地震の影響か 墓石・石塔に移動(ズレ)が大きくなった様に見えました。

6月24日 1960年03月に改葬されました現在地(宮城野区榴ケ岡5)を案内して頂きました。
仙姫の墓碑の左に、綱宗3女 三姫の墓碑がありました。この方の母は側室平田氏です。岩ヶ崎中村日向成義に嫁ぎ、1753(元禄3)年6月18日83歳でなくなっています。
右に、綱宗5女 智恵姫の墓碑がありました。この方の母は側室黒江氏です。筑後柳河 立花弾正貞晟に嫁ぎ、離縁。1724(享保9)年1月13日50歳でなくなっています。
このお二人は、正室仙姫の子供ではありませんのに、なぜ 正室仙姫の左右側に墓碑があるのか、いつ この場所に祀られたか疑問の残る所であります。

静寂殿の改葬の際に確認した墓室の断面図。そして墓室に安置されていた白木作りの籠と御位牌が資料館に展示されておりました。御遺体は座棺と共に埋葬されたと管理者「孝勝寺」僧侶は申していました。白木作りの籠は生々しい感じです。
政宗公、忠宗公、綱宗公三方の埋葬と大きく異なる面があります。


昨日は、綱村公が自らの廟所とする為、1701(元禄14)年角五郎丁に創建され、1715(正徳5)年に吉村公が移転させた「河北山臨済院」の廃寺跡(青葉区国見ケ丘4)を実査しました。仙台市歴史公園に指定されています。 

20日には、綱村公が創建した黄檗宗両足山大年寺とその墓碑を お詣りしました。
正に、6月は綱村公と正室稲葉氏仙姫の月でした。得られた資料を早々に整理し 改訂版を作成し、本ホームページに掲載致します。


今日の講座で、一考すべき 又 ご尤もな 発言が聴講生2人からありました。
@本日の講師は、私見の押しつけが多い。所詮 地元の歴史好きの話しである。大学の先生との差が大きい。
  今回の参加者は高年齢層で、調べてから、調べ中で参加している人が多く(男女共)、求めるレベルは高いとは感じられた。我がグループでは「私見の押しつけ」は厳しく諫められて居り、皆無に近いです
Aここは、2代忠宗公正室コ川氏振姫、3代綱村公正室稲葉氏仙姫の墓碑があるのに、なぜ 「政岡廟」と看板にパンフに表記するのか。2代忠宗公正室コ川氏振姫墓所とすべきではないか。長幼の順、表裏が乱れていないか。なぜか、以前から図書類(含地図)は、「政岡廟」と表記している。



6 月 23 日 (火)  



綱村公と塩竈

20日綱村公315回忌法要にて、塩竈市長が、厳しい情勢の中にあっても献花する程、塩竈市民がいまだに綱村公に感謝しているを知りました。しかし その由を不覚にも知りませんでした。

博物館の菅野さんが 早速知らせてくれました。

仙台藩は寛文年間頃から舟入堀・舟曳堀の開削や七北田川の改修を進めた。それまで塩竈に入っていた船が蒲生に行くようになり、急激に塩竈がさびれはじめたので、塩竈の住人らが塩竈神社門前として街を繁栄させる必要があると綱村に訴えた。その結果、蒲生へ船が回ることの制限や塩竈への各種の特権付与(租税の一部免除、市を立てることの許可など)を綱村が決し、塩竈の繁栄が回復した、ということです。
「仙台市史 通史編 近世1」336頁や「近世2」282,3頁あたりで簡単にまとめられています。


近世1 336頁には、1685(貞享2)年の塩竈振興政策により、物流の中継地点として整備された蒲生の役割が限定的となり、町として大きく発展するに至らなかった とあります。

近世2 282,3頁には、塩竈振興策として、蔵入地(直轄地)として年貢の軽減。諸役の免除等の9項目の特例 特権が付与され、8項目は幕末迄続いた とあります。

なるほど、これでは、塩竈の人たちからすると町の繁栄をもたらしてくれた「名君」となる訳です。

伊達家の施政が終わって約140年、また施策の始まりは324年前です。依然として 感謝の念を示す続ける塩竈の人々に驚嘆すると 供に 歴史教育の重要性を痛感しました。

菅野さんは、「一つの歴史事象も、見る視点を変えれば違った評価になるということをよく示す例といえるのではないか」と 投げかけています。
確かに 領内の均衡ある発展、公共投資の有効性からは、一考すべき政策であったと思います。

近々 図書館にて「塩竈市史」を紐解いて見ます。ご教示に感謝致します。



6 月 22 日 (月)  



ご依頼ガイド。瑞鳳殿・仙臺城址・大崎八幡宮です。

8時15分市内中心部のホテルを出発。
一行は観光庁のお役人さまと全国の観光関係会社の責任者で、仙台のボラガイドの器量がどれほどか、仙台の観光の魅力をどれだけ発信できるか 隠密調査であるの 未確認情報を与えられ、その気になりました。

発車早々 マイクを預かり 東二番丁通り、定禅寺通り、晩翠通り、片平丁経由 瑞鳳殿に至るまで、仙臺城下の町並、戦災復興、現在の恵まれた景観 そして各イベントの様子などを語りました。

瑞鳳殿では、陣羽織を着てガイドしました。デジカメ持参されていない様子。「モデルに」のお声も 本殿前の集合写真もありませんでした。

瑞鳳殿から仙臺城址に向かうに、通常 バスは旧琵琶首丁に曲り、大橋に抜けます。がこのバス、藤坂に直進しました。内心驚き 解説しました「こ子は、見えている通り、急坂のヘヤピンカーブです。並のバスは通らない所です」 これに 運転手 「マイッタ 直進するつもりであった」と独り語。 見事 急坂のヘヤピンカーブを登り曲がり切りました。車内から 一斉に拍手。

仙臺城址での質問。天守閣はどこに在ったのか。昭忠碑を指して あれはナンダ。の2点だけでした。

大崎八幡宮には、東北大学植物園、工学部キャンパス、教養学部キャンパス、仙臺三十三観音1番札所前、牛越橋を渡り、45号線大鳥居前バス停車。之までは大鳥居前停車を嫌がられ 断られましたが、本日 スンナリと運転手承諾してくれました。技能の違いでしょうか。それとも、大崎八幡宮の素晴らしさを本当に理解するのは、参道を辿るべきである。乗客(観光客)に最高・最良の状態を提供するのがプロの精神と理解しているのか。感謝。

四ッ谷用水を説明し、「石段を振り返らないで登って下さい」に 全員守ってくれました 頂上より振り返り 「なるほど」のお声。仙臺城との位置関係、政宗公の意図等をご理解頂きました。
本殿の外観は見えますから その通り説明できます。しかし、内部の障壁画、石畳の挌天井画、本陣等は、祈祷をお願いし昇殿しなければ見られない。宗教施設ですから当然かも知れません。でも本物を前にして手持ち資料で、桃山文化を説明するもどかしさを今日も味わいました。

11時45分仙台駅前○○牛タン屋さん前まで送って 終わり。

隠密調査に合格したようです。ガイドの依頼窓口、有料・無料を問われました。 



6 月 21 日 (日)  



最近 参拝される方々の出足が速く、沢山です。
長野、東京、北海道、広島から、「時間あります」と申される方、続々です。全て 涅槃門から 丁寧にガイド致しました。

拝殿の前で、お爺さんから突然 大声で「ほかに ガイドいないのか」と怒鳴られました。今ガイドを聞いている方々を突き放して 「自分をガイドをしろ」の剣幕です。聞きたいとき 聞く 之が最高ですが 下からご案内している方を放る事は出来ません。ガイドはご依頼順にガイドしています。拝殿に先に到着していますから、ガイドを聞いている方より、先にガイド依頼できる機会があった訳です。

叫ばれた方を年寄りの我が儘とは申しません。「聞きたいとき 聞く」 コース料理でなく 一品料理を楽しむも 一つの方法です。たまたま あかとんぼ 一人で対応出来なかっただけです。
30分後 仲間が来ましたが お爺さんは帰った後でした。

昼 仲間のSさん、漸う 時間出来たのこれから ガイドするわ。先日 お客さんに 言われたの。
涅槃門の石段を下り始めたら「ガイドいます と看板ありながら いないんでないの」と 苦情風に言われたの。でも、私 感仙殿地区迄を ガイドする途中なの。言われても 止めるわけにいかないの。困ったわ。でした。

土・日・祝日の参拝者 最近多い様です。又、陣羽織効果か 気軽にガイドを依頼してくださる様です。
ブログを検索していたら、この様な書き込みがありました。

「毎年2回は必ず来て、俺のご先祖様のお殿様である政宗公に手を合わせています。瑞鳳殿の地下3mには実際に政宗公が眠っていて、感慨深いものがあります。
今回、初めてボランティアガイドなるおじさんたちが待ち構えていて、正直、俺と政宗公の一年にたった二度しかない1対1の対話が、そのおじさんの邪魔により出来ませんでした…。」

あかとんぼ 自体 余所を訪れた際 ガイドの無理強い・強烈売り込みは 不快です。ですから、ご依頼されるまで待機しており、所要時間等を納得された方のみにガイドしています。

本ブログの内容を、ガイド仲間に伝え 不快にならないように務めます。出来れば 土・日・祝日に お出でください。満足感一杯でお帰りになるように 努めて居りますので。

朝刊によれば、首都圏の歴女60余人が昨20日 片倉小十郎の白石を訪れ、市長の歓迎を受け、片倉家墓所、白石城を巡り、秋保温泉に宿泊したとありました。

秋保温泉のホテルから朝一番に訪れるのは、瑞鳳殿以外にある筈はないと思い、S主任に「間もなく 歴女一行 到着でしょうか」と尋ねました。期待を裏切りるものでした「午後です」ガックン。
朝風呂ノンビリ。仙臺城址、牛タンの昼食後なのでしょうか。首都圏の歴女60余人との対面は断念しました。



6 月 20 日 (土)  



4代 綱村公は4年6月20日享保4(1695)年6月20日61歳 江戸屋敷で亡くなられています。
本日 綱村公が創建された黄檗宗両足山大年寺と廟所 無尽灯廟で315回忌法要が、執れました。

11時から大年寺で僧侶4人での読経の後、焼香が
@伊達家18代御当主伊達泰宗氏
A伊達家一門伊達洋司氏
B臨済宗妙心寺派東園禅寺ご住職
C日蓮宗東北本山光明山孝勝寺ご住職
D仙臺藩志会会長古内重義氏(藩志会員一同
)E後裔会会長細目典夫氏(会員一同)
F(財)瑞鳳殿常務理事鹿野正利氏
G大年寺檀信徒会(会員一同)
H大年寺会代表阿部氏(会員一同)の順で行われました。

続いて、大年寺の和尚から
綱村公は、塩竈港の開港に尽力され、その徳を現在での塩竈の人々は忘れる事なく、その功績を称えた碑のある塩竈、東園禅寺にて 盛大なお逮夜が催されました旨の報告がありました。

最後に、18代御当主伊達泰宗氏から、参列頂ましてと御礼の挨拶がありました。

以上 本堂での法要の後、健脚の人は280余の石段を登り、並脚の人はマイクロバス等で、山頂の廟所 無尽灯廟に向かい、墓前にて読経・参拝をしました。

無尽灯廟内の 5代吉村公ご夫妻、11代齊宗公ご夫妻、12代齊邦公ご夫妻のお墓をお詣り。移動し、寶華林廟にて、13代慶邦公、14代宗基公ご夫妻、15代邦宗公ご夫妻、16代興宗ご夫妻、17代貞宗公、歴代側室47基をお詣りしました。時間配分を誤り、更に奥の6代宗村公ご夫妻、7代重村公ご夫妻、8代齊村公ご夫妻、13代慶邦公夫人等のお詣りを洩らしました。通常は施錠・閉門しており 参拝の叶わない個所です。本日は千載一遇の機会でしたのに、誠に残念です。悔やまれます。

大年寺にて、会食が行われ、13時に中締められました。

本堂と墓前に 「志波彦神社・塩竈神社」の宮司と敬信婦人講から、又 塩竈市長から献花があり飾られていました。なぜ これらの方々が献花されたか不明でした。大年寺の和尚のお話しで、綱村公の功績に対する感謝の表れと今回おぼろげながら理解しました。

綱村公の事績については、勉強しておりませんでした。今後の課題です。

昨年まで、法要は山頂の市の施設を会場として行われました。今年、本山から住職が派遣され、本堂での法要が行われる様になったそうです。

一緒したUさんは、散失した大年寺の寺宝は、多賀城の某寺に所在していると洩らしていました。




6 月 18 日 (木)  



仙台市博物館市史編纂室菅野正道氏を訪れました。
菅野氏は河北新報掲載「せんだい歴史の窓」の著者です。本日誌に、読後感を記載した所、メールで貴重な教示を頂きましたので、年寄りの気ままからアポイントを取らずに、御礼に伺いました。

受付で「菅野正道先生(以下 先生と記す)にお会いしたいです。あかとんぼ と申します。お取り次ぎお願いします」
先生の講義を聴講しており、自称熱心な読者ですが、直接にお話しをしたことがありません。HPとメールの縁です。ハンドルネームでは、受付嬢の判断で 「先生は忙しいです 無予約では 先生は会いません」と 取り次ぎを断られると心配しましたが、無事 お会いでき 名刺交換し、御礼を申しあげました。

次の様な ご教示等を頂きました。
★ すずめ踊りの政宗起源説、5月27日の日誌に 先生の説に同感である旨記載したところですが、政宗起源説を採る人からのクレームを期待したがなかった、残念と申していました。
裏話として、旧制仙台一中のM先生、元博物館長H先生、TK大学S教授 三人合作の作り話が始まりとする話しがあります。ブログ〔仙台の「すずめ踊り」について・歴史を捏造するな〕 http://www2.ocn.ne.jp/~obayashi/link9.htmを是非ご覧くださいと薦められました。

★瑞鳳殿の弔魂碑について、伊達家家臣等1260名が祀られているとなっているが、戦死した侠客たちが祀られているか。当時の考え方として、正規軍であった伊達家家臣を祀る 鎮魂する であって、軍属・軍夫、義勇軍、領民の鎮魂は、頭の片隅にも無かったでしょうと記載しました。

これについて、私の結論は逆です。その根拠は、弔魂碑の碑文です。
今回、再度確認しましたが碑文には、「戊辰之乱仙台士民為本藩致命四方者無慮一千人」、すなわち戊辰戦争で藩のために命を失った「仙台士民」おおよそ(=無慮)1000人のために祖廟(=瑞鳳殿)の側にこの碑を建てる、という趣意が刻まれています。
ここでいう「仙台士民」とは、仙台藩の「士(=藩士、武士)」&「民(=領民)」と考えるのが妥当と私は判断しています。
それでは、犠牲者の数が「無慮一千人」というのはなぜでしょうか。
それは、明治中期まで仙台藩側の見解としては、藩士の犠牲者が906人という数字があるからです。
仙台藩士の犠牲者1260人(一部、藩外の人数も含まれるが)という数は、大正期に行った調査の結果、判明した数であって、あくまでも明治期における仙台側の公式見解は906人なのです。

そして、犠牲者は「民」にも多く及んでいるという認識がこの弔魂碑を造立した人たちの意識にあり、906+αで約1000人、すなわち「無慮一千人」という言葉になったものと判断されます。
もちろん、犠牲者の数はその後の調査でさらに増え、大正期には1260人の藩士が犠牲になったことが確認されたわけですが、残念ながら領民については今もって犠牲者の数は不明なままです(おそらく、判明することはきわめて難しいものと思います。

以上から、碑の説明は「この弔魂碑は、戊辰戦争で犠牲になった仙台藩の藩士や領民のために明治10年に建立されたもので、その時点で犠牲者数は藩士906人を含めておおよそ1000人位と推定されていた。しかし、その後の調査で仙台藩士の犠牲者は、明治期に把握されていた906人より300人以上も多かったことが判明しており、領民の犠牲者数は残念ながらいまだに判明していない。」となります。

納得しました。弔魂碑を説明する機会は少ないですが、正確なガイド・説明をするが信条です。先生のご教示のとおりに、これからガイドします。

★伊達家家臣に軍属・軍夫は含まれるかの あかとんぼ の疑問について、含まれるの見解でした。詳細については「仙台市史通史3 近世1〔144頁〕仙台藩の軍役」を紹介してくれました。

★先生からの宿題として、瑞鳳殿と感仙殿との中間に所在する経ケ峯の最高峰には、何か無いか 古図をみると 五輪塔が描かれている。その痕跡を示すものが無いかを草が枯れた時期に探して欲しいとの事です。
冬期 参拝者が少ない時に探してみますと約しました。

以上のほか、ご多様の中 諸々ご教示頂きました。ありがとうございました。今後とも宜しくご指導をお願い致します。


   



6 月 14 日 (日)  



8時35分瑞鳳殿に到着。既に参拝者が続々と、11時35分までガイド依頼が相続きました。

若いペア。夜明けに、仙台に到着。仙台駅から青葉通、東一番丁、定禅寺通、大橋、東北大学教養学部、仙臺城本丸、清水門跡、三の丸を経由し、瑞鳳殿までの全行程を歩いてきましたと、疲れを見せずに涼しい表情。

若い人は元気です。仙臺城と城下を巡り、瑞鳳殿を参拝にお出でになるとは、素晴らしい。そこで、「欲を言えば 仙台駅から青葉通でなく、1本北側の通り 名掛丁、大町と云われた通りを、お城に向かい、芭蕉の辻の交差点に至れば。伊達時代の道路を足裏で感じられましたのに」と、故事を語りました。余裕があります。時間があるから、お爺さんのアドハイを参考にしようかとと相談していました。歩るくに決断したようです。

昨秋の「仙台・宮城DC」の町中ガイドの際に、この二人にをガイドする機会があったならば 盛り上がったろうと思いました。

昨日、松島瑞厳寺を参拝された方、それなりにおりました。有料の円通院をお詣りされても、無料公開されている政宗公の娘 五郎八姫の 定照殿〔松島・天麟院〕を参拝された方は皆無でした。

円通院をお詣りされ人が、こんな解説をしてくれたました。〔三慧殿〔円通院〕の主、忠宗公の二男光宗公は、非常に優秀な人物であったので、徳川家の将来に危険であると、江戸城内で徳川家から一服盛られた。〕
恐ろしいお話しです。
光宗公は徳川家康の外孫、政宗公の内孫です。徳川と伊達の両家・両巨頭の結合の証です。将軍家光の「光」を貰って居り、若年で越前守・侍従に任じら、両家期待の星で、徳川家から命を狙われるとは考えられません。正保2(1645)9月 19歳 江戸でなくなりました。
将軍家光と従兄弟であり、伊達家の世子が江戸城内で急死となれば 大事件です。歴史書には残っていません。
と申しあげました。

伊達家関係の史蹟は、瑞鳳殿と仙臺城のほか どこに何がありますか。又、大崎八幡宮、北山五山、仙台東照宮を訪れたい。時間的に無駄なく回れる交通手段は何か。バスの便は。のお尋ねが3組の方から相続きました。

時間的に無駄なく回れる交通手段はタクシーです。バスは駅から直線的運行で、環状線的路線がありません。とお答えしました。いつも 観光客の皆様 交通面の整備不良申し訳ありませんと内心でお詫びしています。
住民と観光客の利便からマイクロバスで結構です。運行を約する指導者が現れないでしょうか。

スケッチされているご婦人2人。豪華絢爛 ニキニギしく 大変だとボヤいていました。「かって高校生 土日のみですけど2ケ月通いましたよ」と申しあげたら 「ウーン。デジカメで撮影しました」との返事からして、本日一発勝負の様です。

お嬢さん2人、「モデルお願いします」 に Uさんと二人 ウラオモテスタイルでモデルになりました。陣羽織効果。
宮城学院女子大生で、7月11日(土)13時から同大学でのミュージアムとユニバーサルデザインと題するシンポジュウムの資料蒐集との事でした。

シンポジュウムは、博物館等で年齢・障害などに関係なく、全ての人々が利用できるようにという動きが盛んである。学芸員を目指す者に何ができるか考えるキッカケを求めるものとの事です。ここ瑞鳳殿でボラガイドは、如何に考え、行動しているか教えてとの事。本殿迄 ガイドしながら、普段配慮していることを伝えました。
Uさんと発表を聞きに行きましょうと約しました。

時計は11時35分を指しています。別のペアからガイドを依頼されました。之まで 頼まれて一度も断った事はありません、また 断らない事にしています。が、遅刻出来ない先約の時間が迫っています。Uさんを携帯電話で探し出し、お願いしました。助かった。Uさん感謝します。

本日誌は、遅刻出来ない先約の都合で16日18時20分記載しました。



6 月 13 日 (土)  



御霊屋の名称

伊達家は、政宗公から綱村正室迄の間は御霊屋が九殿創建された。綱村公以後は御廟〔石墓〕となった。
創建当時から現存するのは、寶華殿、定照殿、三慧殿の三殿のみである。
瑞鳳殿、感仙殿、善應殿の三殿は1945年の戦災で焼失し、昭和の建築で再建されたものである。

政宗公             瑞鳳殿〔仙臺・経ケ峯〕
  正室 田村氏愛姫    寶華殿〔松島・陽徳院〕
   娘  五郎八姫      定照殿〔松島・天麟院〕

忠宗公    感仙殿〔仙臺・経ケ峯〕  
  正室 徳川氏振姫   ??殿〔仙臺・孝勝寺@〕
  二男 光宗公       三慧殿〔仙臺・円通院〕

綱宗公             善應殿〔仙臺・経ケ峯〕  
  側室 三沢初子      ??殿〔仙臺・孝勝寺A〕

綱村公 B             
  正室稲葉氏仙姫      静寂殿〔仙臺・萬壽寺C〕


補足
@Aの御霊屋は、伊達家御修覆帳に「孝勝寺殿・淨眼院殿御霊屋」と記載されており存在した。
Cの御霊屋も、「萬壽寺殿御霊屋」と記載されており存在した。
この三方は、石標となり、孝勝寺管理地に存置している。
Bは、御霊屋は御本人の意向で創建されず、以後 御廟〔石墓〕となった。

伊達家御修覆帳の原本は東北大学図書館、写しは県立図書館資料室で保管している。



6 月 12 日 (金)  



戊辰の役・弔魂碑

河北新報10日付文化欄「せんだい歴史の窓」の記事。公式歴史書には記載されていない内容で、非常に興味深いものでした。

その1に.徳川幕府は目明を公認しなかったが、仙台城下では町奉行配下の町同心の下に目明が存在した。多くは江戸と同様に侠客であった。
徳川幕府と伊達家 同じ職業の人であったも、人事処遇に制度上の格差があるとはなんと理解するかです。

その2は.戊辰の役の際に侠客たちが聚義隊を編成・参戦し、戦死している者もいる。
死を覚悟してまで参戦させた義はなんであったか。果たして 単なる家族と郷土を護る自衛権の行使なのか。

瑞鳳殿の弔魂碑は、伊達家家臣等1260名が祀られているとなっているが、「その2」で戦死した侠客たちが祀られているかの疑問が生じました。

1917年発行の仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌。仙臺藩戊辰殉難小史。何れの資料の戦死者名簿に記載ありませんでした。

当然でしょう。当時の考え方として、正規軍であった伊達家家臣を祀る 鎮魂する であって、軍属・軍夫、義勇軍、領民の鎮魂は、頭の片隅にも無かったでしょうから。
これらの軍属・軍夫、義勇軍、領民の犠牲者の鎮魂は、遺族が行ったのみとなるでしょう。
あかとんぼ は「1260人の弔魂とありますが、伊達領内の犠牲者は この数字以上とみています」とガイドしています。

義勇軍は、二男以下の士分、農工商・宗教者・遊民で組織された諸隊が参加している。そして一部は箱舘戦にも参戦している。諸隊で最大規模は1,600人であった。
隊名を列記
@額兵隊 A折衝隊 B聚義隊 C衝撃隊 D猛虎隊 E勇義隊 F熊罷隊 G天代隊 H震激隊 I飛龍隊 J貫山隊 K飛行隊 L抱義隊 M見國隊 N保勝隊 O回天隊 P機進隊 Q龍虎隊
この義勇軍の項は、仙台市史通史編6近代1によりました。




6 月 11 日 (木)  



菩提寺

過日 菩提寺、位牌寺、香華寺の違い。観光タクシー氏と討議をした事があり、ガイド仲間の例会でも話題になった。明確な定義が示されなかった。

菩提とは、古代印度語サンスクリットのボーディーの漢音写表記で
@智・道・覺と訳す。
A煩悩を絶ち、悟りの境地に達する事。
B悟りの知恵。
C死後の冥福を意味する。
以上から、Cの為 善行を行う寺が菩提寺である。
善行とは、寺を建てる、僧侶に供養布施をする等の行為である。

位牌寺とは、被祭祀者の法号を記載した位牌を安置した寺。
香華寺とは、香華を手向けるので香華寺。

結果として、目的によって名称が異なるが 実際は同一となるようです。

以上は、瑞厳寺寶物館学芸課長堀野宗俊著「大崎八幡宮と瑞厳寺」によりました。



6 月 10 日 (水)  



静寂殿

4代綱村公正室 稲葉氏仙姫の御霊屋です。
陸奥國宮城郡小田原邑開元山萬壽寺が菩提寺であり、御霊屋がありました。
1869年尊像は瑞鳳殿?に移り、1879年に角石標三重臺の墓になりました。この間 年月不詳なれど 門は常念寺、唐門は大願寺に売却され増した。拝殿・御本堂の行方は不明であります。
昨春来 ここまで 調査しHPに掲載すべく準備していました。

5月22日柏木市民センター講座において、大願寺にて唐門を紹介しました。
6月3日から毎週水曜日に、幸町柏木市民センターで、萬壽寺と稲葉氏仙姫の御霊屋についての講座が開かれています。

当地区で生まれ育った80翁東海林一氏が講師です。書籍に記載ない真実?が語られました。
◆御霊屋静寂殿は1960年に 孝勝寺管理地に移転するまで移動していない。
あかとんぼ調査 書籍にある〔1879年に「祥麟山」伊達家墓所に移転した〕は否定された。

◆1960年に 孝勝寺管理地に移転するまでの地は、現在は個人住宅、賃貸住宅として利用されています。
現場を案内しますが、十分なご配慮の程を。

◆御霊屋の周郭の基礎石は之です。
なるほど 30〜50cm角石 地表部2段積で20m程 現存していました。

◆萬壽寺は廃寺になり、末寺の「三味院」が継承しています。「三味院」は 現在の萬壽寺の庫裡付近に所在し、間口三間位の小さいお堂でした。お葬式の際 僧侶のみ本堂内に、遺体と関係者は本堂の外でした。庫裡は、代官所の様な?構造でした。これらを撤去し 現在の本堂が1億6千万円で平成の始に建てられました。
現在 檀家は500戸 墓地は3号墓地まであります。

講座修了後、U氏 NK氏を案内し、1年振りで宮城野区二の森地区の伊達家墓所を参拝しました。
地震の影響か石燈篭がズレており、草は勢いよく生育していました。



6 月 8 日 (月)  



伊達家は長命?

昨日栃木のお客様 三御霊屋から妙雲廟界に移動直前に、「伊達家の殿様は皆様 長命の家系ですネ」と。
三御霊屋のみなら 「ハイ そうです」で終わりますが、妙雲廟界に 9代 周宗公、11代齊義公の墓碑があります。「ガイドは知っている限り正確に」鉄則です。正直に 「長命の方も短命の方も居りました」と答えました。

参考まで (数年)歳
 1. 政宗公 70.
 2. 忠宗公 60. 
   光宗公 19.
 3. 綱宗公 72.
 4. 綱村公 61.
 5. 吉村公 72.
 6. 宗村公 39.
 7. 重村公 55.
 8. 齊村公 22
 9. 周宗公 17.
10. 齊宗公 24.
11. 齊義公 30.
12. 齊邦公 25.
13. 慶邦公 50.

8代 齊村公から12代 齊邦公まで 極めて短命続きです。
その原因の概説として社会構造の変化(運動不足・食生活の変化)による虚弱を指摘する向きもあります。



6 月 7 日 (日)  



全山 濃緑です。曇りの天候故か 参拝の方々の出足はゆっくりでした。

濃緑に包まれた瑞鳳殿の撮影が終わったところで栃木から母娘。瞬間 姉妹と間違えました。
「昨日 平泉を参拝、本日は瑞鳳殿が目的です。ループルバスの始発前であったので路線バスで来ました」と。瑞鳳殿が目的と断言される故 涅槃門から丁寧に視れ 熱心に聞いて頂きました。

約50分後 何組かガイド終わりホッとしていた所 降りてきました。「ビデオ全部見ました。甕棺も見ました」と。
弔魂碑、感仙殿、善應殿、妙雲廟界、御子様御廟とひさびさにフルコースのガイドとなりました。

「政宗公の身長等を知っています。180cmの大男でしょう」 どんな資料で勉強されたのでしょう。体格が良かった。イコール 現代の物差しで判断したのでしょう。

「資料館で 紅皿に櫛あったが」のご質問。綱宗公299遠年回忌法要記念栞 記載事項そのままのご質問です。栞の余部を持っていなかったので 差し上げられず 説明に終わりました。

「旅行会社に就職が決定したので、取りあえず母娘で来ました。夫も息子も歴史が好きです。今日の様にガイドして頂けますか」に、「日曜・祝日の午前なら ガイドしています。お嬢さんも 入社したら瑞鳳殿参拝のツァーを企画して 沢山のお客様連れてきて。お待ちしています」 仙臺城に向いました。 また どうぞ。

西参道口で突然 「今 お詣りしてきましたが、政宗公尊顔に片目切り傷ありませんでした。どうしたのでしょう」 疑問解決しないと帰れないと申す表情で尋ねられたご婦人がいました。
「政宗公の失明は戦傷ではありません。眼帯はNHKの創作です・・・・・・」に 安堵の表情でバス停に向かわれました。 こちらも安堵。

涅槃門まで 「ガイドさん ニッコリ笑って」 バシャバシヤ 超特大のカメラを向けられました。最近 背中モデルで人気がありますが 顔を頼まれたのは久々。グラビアの表紙を飾る顔でも無いし。撮影目的は何でしょう。

若い2人連れの女性 「シャツター押してー」 「ハイ 折角です ここで2番目に背景の宜しい所で撮影しませんか」  涅槃門の妻側、竹、御供所、臥龍梅、拝殿扁額を背景にシャッターを押しました。フラッシュを発光させました。人物も鮮明・綺麗に撮れました。美人姉妹と間違えました。実は・・・

本日は之にてお終い。



6 月 4 日 (木)  



綱宗公299回遠年忌 法要が執り行われました。

所  御霊屋 善應殿にて 
開  午前10時
読経 瑞鳳寺2和尚 善應寺1和尚
対象 綱宗公 及び渓斐(下記1)
焼香 1.仙臺伊達家十八代当主 伊達泰宗 様
    2.殉死者後裔会副会長   細目典夫 様
    3.仙台藩志会会長      古内重義 様
    4.大年寺会代表       建宮文雄 様
    5.(財)瑞鳳殿常務理事   鹿野正利 様
挨拶 1.仙臺伊達家十八代当主 伊達泰宗 様
    2.仙台藩志会会長      古内重義 様
    3.(財)瑞鳳殿常務理事   鹿野正利 様
閉   午前10時30分 

参列 仙台藩志会会員・大年寺会会員 20人
    (財)瑞鳳殿職員            7人
    瑞鳳殿ボラガイド会会員       3人

補足
0.御木像
  綱宗公自画像を元に造られています。(談・伊達泰宗様)

1.参列者に記念栞が贈られました。
  内容は、綱宗公画像 (仙台市博物館蔵)と副葬品の蒔絵櫛と花唐草文染付紅皿についてです。
  この2品は 資料館に展示してあり、ご質問の多い、謎を秘めた品です。
  写真数葉掲載した内容の濃い栞で謎解きをどうぞ。

2.渓斐について
  綱宗公の没した1711(正徳元)年は、殉死禁止から48年を経過しております。近習頭 熊谷斎直清は出家し渓 斐(ケイソウ)と号し、善應殿の近隣の庵で綱宗公を弔いました。1733(享保18)年71歳で没し、遺骸は善應殿 前方南側に埋葬されました。
  墓石の頭部は 僧侶の墓石を示す 丸くなっています。

  読経の末尾に、瑞鳳寺大和尚が 別途 墓前で読経し、供養しました。

3.善應寺について
  宮城野区燕沢二丁目(旧称 燕沢字西山)に所在。大雄山聖コ善應寺と号し、臨済宗妙心寺派。
  綱宗公の没後、逼塞していた品川屋敷の殿舎一宇を施入し佛殿・庫裡を造営し、大雄山善應寺と改め 香華院  とした。
  本尊の正観音菩薩は慈覺大師昨と伝えられています。佛殿に開山堂が現存し、仙台市指定文化財です。
  綱宗公が障子に使用したと云うギャマン1枚が寺寶としてあるのでギヤマン寺とも呼ばれている。

  06年11月27日にガイド仲間「ぐるーぷ・よっこり」で、本寺の現地勉強会を開催しました。寺寶のギャマンは残念  ながら拝見出来ませんでした。



6 月 2 日 (火)  




「中身でなくて容器をしっかりご覧ください」

本殿での参拝を終えて資料館に入館される方々に「館内のガイドはビデオを見ている人々から五月蠅いとクレームがありますのでご自由にご覧ください。右から順次ご覧になり、左手出口に近い所の展示物 中身でなくて容器をしっかりご覧ください」と案内しています。

「お客様 ご覧になりましたか」に 「ウン小判があった あれ本物」 この方はアドバイス無視派 中身でなくて容器と申しあげたのに 中身を見てきた人です。

「ウン あの甕だろ。今 どうしたの」と 答える方はシッカリ 見てきた人。正解は綱宗公の甕棺です。本物です。

小判に目がくらんだ人の次の質問は「あれ 本物? 幾らするの」です。慶長小判の最高美品は 10,000,000円以上するそうです。綱宗公ですから 時代は下がります。で幾ら位するのでしょうか。
本物の小判が あの様に 展示されている筈はないでしょう。

最近のご質問に「伊達家では 全て 甕棺で埋葬しているのか」がありました。
「4代様以降は発掘調査を致しておりませんので 以後の方にも甕棺が用いられたかは 不明です」と答えました。

増上寺の徳川将軍家の墓所改修の際に ご遺骨の調査をされた東京大学鈴木尚教授の著書「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」には、「綱宗公 甕棺」の記載はあります。外の方々に甕棺の写真 記事がありません。綱宗公のみの独特な埋葬かと 推定していました。

加賀・前田綱紀の伝記「われに千里の思いあり 名君・前田綱紀」中村彰彦著を読んでいましたら、さる大名家の美貌の側室の墓改葬の際 「甕棺が出て来た」の記載が196頁にありました。
となると 綱宗公独特の埋葬であった訳でもないとなります。



6 月 1 日 (月)  



昨日(5月31日)の補足です。

中高年の女性は 他人の血脈・生活に興味を強烈に示すのは 何故でしょうか。

瑞鳳殿本殿前に24日の献花が未だ飾られています。「伊達家十八代当主 伊達泰宗」の名札を目にされると、ガイドは耳にはいりません。

「ヒー 十八代?」「どこに住まいしています。仙台ですか?」「職業は?」「収入は?」テレビワイドショーのレポター張り。 「伊達政宗公から数えて十八代目、伊達家始祖から数えて三十四世。更に遡れば 藤原鎌足に至るとも言われています。十八代は仙台に住まいしていると聞いている以外の個人情報は 一切知りません」
個人情報は一切知りません この一言で 質問はピタリ止まります。止まりました。

円通院でお話しを聞いて、今日 善應殿・綱宗公の名が話題になり、頭中 グリグルになった整理してくれの要望があり、次の会話となりました。

円通院に祀られている光宗公は、二代忠宗公と正室振姫(徳川秀忠二代将軍の養女として婚姻。播磨池田輝政の娘で、徳川家康の孫娘)の間に生まれた次男です。長男虎千代丸は7歳で卒
徳川家康と伊達政宗の両英雄の血が流れていて、3代将軍家光から 「光」を頂き、「越前守」「侍従」の官位に昇進し、両家から期待されていました。正保2(1645)年9月19歳で突然死しました。
円通院に供養の間がありませんでしたか。

それでは、三代綱宗はどこからか養子に来たのか。

綱宗公は、忠宗公の6男で、母は贈左大臣櫛筍隆致の娘と伝えられています。

それでは、側室の子か。伊達家は断絶し、養子で入れ替わってはいないのか。

伊達家は、5代吉村は宮床伊達家、11代斎義は一関田村家、12代斎邦は登米伊達家から、それぞれ仙臺伊達家を嗣いでいます。
「皇室の男系男子」と同様と云えるか知りませんが、すべて伊達政宗公の血脈です。

ここで 会話質疑は終わりました。
あかとんぼ も整理に一日要しました。





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