2009年10月の日誌
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10 月 31 日 (土)  



仙臺城二の丸跡に、徳川将軍家、仙臺・伊達、米澤・上杉、二本松・丹羽、桑名・松平、庄内・酒井、長岡・牧野の旧大名家の現当主が一同に會しました。

「戊辰戦争終結140周年記念歴史シンポジュウム」が、東北大学百周年記念会館(川内萩ホール)にて、500人程参加して13時30分から17時05分迄 開催されました。

第一部 
講演 1 13時35分-14時15分
 「会津の精神」 徳川恒孝氏・徳川宗家18代当主
講演 2 14時16分-14時46分
 「戊辰戦争の漢詩」 石川忠久氏
第二部 15時10分-17時05分
集団討議
 「戊辰戦争とその戦後処分について」
  伊達泰宗氏・仙臺伊達家18代当主
  上杉邦憲氏・米澤上杉家17代当主
  丹羽長聴氏・二本松丹羽家18代当主
  松平定純氏・桑名松平家17代当主
  酒井忠久氏・庄内酒井家18代当主
  牧野忠昌氏・長岡牧野家17代当主
  野口信一氏・会津若松市立会津図書館長
  白石宗靖氏・漢字文化振興会事務局長

昨秋、会津若松での戊辰の役140年祭時のメンバーそのまま 揃い豪華な顔ぶれでした。
演壇至近距離に席しましたが、音響効果に不適切があるのか、肝心の部分が聞き取れないところがありました、残念でした。

昨年の弔魂祭以来の方、ガイド勉強会・街道・四ッ谷用水等の活動でご教示を頂いている方々にもお会いできました。懐かしいと思うと共に、皆様絶えず研鑽に務められている。我も同様に健康で勉強しなくてはと思いました。

主催が河北新報社ほか、共催が仙臺藩志会と(財)瑞鳳殿。
設営に9時30分から参加しました。共催であるから主催側の指示あるまでは 一切行動してはならない。又指示以上の作業をしてはならないと厳命がありました。近年 稀なる経験でした。



10 月 29 日 (木)  



天女の肌の色

「瑞鳳殿の天女さんの肌の色は創建当時の瑞鳳殿の色を再現したもので「色白天女」が本来の色であります」と(財)瑞鳳殿学芸員のWさんからメールでご教示を頂きました。

上ノ山のお嬢さんと一緒に疑問を持たれた方 宜しいでしょうか。11月1日(日)以降 Wさんにお会いした際 更なるお話しを伺うつもりです。


とある歴史勉強会の方から「宇和島藩立藩の経緯と藩祖伊達秀宗公について」語れと、お誘いを頂きました 我ながら強心臓と内心思いながら、100分程 秀宗公を中心に宇島で見分したことを語って来ました。
その際、「瑞鳳殿を中心にボラガイドを致しませんか」とお誘いしました。晩 「ガイドしたい。教習はどうなっているか」のお電話を頂きました。当面 ガイド養成講座の開講はありませんので、一度現場を覗き、納得されれば 習得のお手伝いをします。瑞鳳殿から順次 仙臺城・大崎八幡宮・・・・とガイド対象を広げるのが 宜しいと思います。毎日曜日午前は、特別の事態が無い限りガイドしています。覗いてください」とお答えしました。



10 月 28 日 (水)  



 本日の「歴史の窓」は、「定義さん」です。青葉区大倉字上下に所在する1706(宝永3)年の創建の浄土宗西方寺です。宮城県内の寺社では、松島瑞巌寺を除くと、日常的に参拝者数のトップであるらしい。

仙台市に住民登録のある高齢者は70歳になると自己負担をして「敬老パス」の交付を仙台市から受けられます。仙台市営バス・地下鉄は乗り放題となります。
70歳で敬老パスを取得すると、パスを利用して一番先に訪れる個所が「定義さん」と云われています。

定義行きのバスの乗客99%が敬老パス利用者と噂されています。片道1,000円往復2,000円が無料になり、阿弥陀如来に長命長寿を祈願し、揚げたばかりの「三角あぶらげ」で お酒・ワンカップをして堪能し、友人と一日語れば、正に極楽浄土です。浄土宗の世界です。

この定義の読み方、「じょうげ」と読む人が多いが、行政は「じょうぎ」を基本としていると記しています。行政は濁音を排除する傾向が全国的に見られます。しかし、地名は地元原住民の読み方が正解であると あかとんぼ は思っています。

ここの行政地名が「上下」とは知りませんでした。「宮城県の地名 平凡社刊」定義の項(221頁)には、上下とも書くとあります。上下であれば、やはり 、「じょうげ」が正解では無いでしょうか。
角川日本地名大辞典宮城県には、記載ありませんでした。

筆者菅野さんは「「じょうげさんのアブラゲは、んまい」と言い続けるだろうと結んでいます。「んまい」


本日 ガイドのご依頼がありました。大阪からのお客様です。大阪空港渋滞のため 離陸が10分遅れたので、瑞鳳殿到着が15分遅れると2系統で連絡がありました。2日前に会社から日程確認と添乗員の名と携帯の番号を知らせて来ました。お客様に不都合・不満を持たれないように 十分に配慮する会社です。

お客様の半数は、真剣に聞いてくれました。残り半数は興味ある所で自説を語っていました。
「ボラティアだろう。僕もボラティアしている。これ」と数千円の札束を差し出しました。「ご厚意ありがとうございます。規程のガイド料頂いています。お気遣い無用です」  スーと札束は 元のポケットに戻りました。大阪流?


待機中 バスが何台か登ってきます。「2009年孝勤と創造の旅」のタイトルでバス3台です。下車すると 指示される事なく 見事に2列縦隊になり登っていきました。タイトルの意味を理解できなく 如何なる団体が不可思議を感じました。

若い女性 10余人 登って来ました。若い女先生「今日は専門学校の野外勉強会です」と聞かのに答えています。 それではと「ここは桃山様式の建造物です」 とたん 「豪華絢爛 ゴウカケンラン」と 女学生が唱和しました。 ガイドの口ぶりを真似され 先手取られた感じ。


タクシー 何台か待機したまま 動きません。「先日は よかった。歴女と云うですか、若い女の人ですけど。仙台市内の主な伊達家史跡を案内し、白石往復 秋保の旅館まで送り、翌日、塩竈神社 そして松島海岸で埠頭で待機 それから瑞巌寺等。 マメ(丁寧)に参拝・見学するもので4時になった。石巻のサンファン号までと云われたが、到着した時刻では閉館になっていますと、仙台駅迄 乗せた。よかった」と 語りつつ 10時頃から12時過ぎ ガイド終わって帰る時 未だ お客が着かず 待機していました。タクシーも大変だ。

歴娘の特徴。単独か、せいぜい2人連れ。概して 孤独を好むタイプ。一眼レフの大きい ガサのデッカイカメラを持っている。待機中 3組通過。4組目 香港娘でした。背中の紋所のペア写真撮影。香港には「家紋」の風習は無いと 珍しいとハシャイでいました。日本の歴娘の特徴は全て合致しました。



10 月 27 日 (火)  



台風(?)一過晴天です。残風と落ち葉に晩秋を感じます。

10月14日日誌記載 「東遊雑記 奥羽・松前巡見私記  古川古松軒」 平凡社 東洋文庫 刊 手元に届きましたが 頁を開く余地無く今日に至りました。

1788(天明8)年幕府巡見使に随行して東北から北海道まで視察に行った見分を綴った全12巻の紀行文です。仙台城下の項を開きました興味深々です。

 
巻之十一   (257頁)
九月晦日の夜四っ時にようやく仙台城下に着きぬ。
人びとは疲れてそのまま休息セ氏に、予は人足の男を頼み忍びて立ち出て仙台城下諸士の屋敷屋敷を見巡利子に、所どころに番人ありて咎むるゆえ、くわしく見ること能わず、詮方なく案内者に聞き芝刈りなり。城下は定めて宜しき構えなるべしと思いの外、萱葺きの小家多くて、甚だ侘びしき市中なり。町の長さ50余町、道筋小石数有り手河原のごとし。御巡見使夜に入りて到着ありしゆえ、町まちにともし火を出すに、灯燈は稀にて角行燈の古き多し。これを見ても町内の困窮を察せしなり。六、七年以前、寅卯凶作に逢いて、下民数多餓死せしかば、それより困窮人多く出て来て、今は昔の形話し問襟。芭蕉の辻という町、一、二丁ほどよく見えしなり。
  
 定寧寺という院あり、麻布公建立、鐵牛禅師開基なり。佛殿・回廊・諸堂全くして、山内に麻布公・中山公・開山の墳有手、宜しき寺といえる。
瑞鳳寺は藩祖政宗卿の祠堂有手、甚だ結構を尽く美を尽くせし寺にて、天台宗なり。
萬壽寺という禅院あり、御領主建立ありて宜しき寺なり。
東照宮の御社あり、甚だ結構なりといえり。
仙台城は山上にありて壁厳削るがごとく、一夫これを守れば万卒も当りがたき名城なり。昔は青葉山と称せしを、松島より仙人飛び来たりてこの城山に遊観せしより仙台と改め、今城中に仙神窟という所ありといえり。誠に全郭鐵柵、無双の構えなりといえり。  

 市中産物に煙草・火箸など。、他国にこれなき細工なり。その外いろいろといえども略す。右に記せるが如く、御用先にて、心ままに家中・市中見物ならずして、残念に思いし異なり。おいおい聞けば、むかしにかわり大いに衰え市事と、土人の物語なり。


あかとんぼ の見解は後日。



10 月 26 日 (月)  



本日のガイド仲間の現地勉強会は、大崎八幡宮でした。なぜか 現地勉強会は雨の確率が高いのです。今回も予想的中 雨でした。

さて、上ノ山お嬢さんから、「気になったのは大崎八幡宮の天女さんは肌の色が肌色です。瑞鳳殿の天女さんはもっと色白の気がしたのですが…瑞鳳殿の天女さんの方が個人的に『天女』のイメージなのに大崎八幡の天女さんは肌の色のせいか、心持ち『人』に近い感じがしました。
大崎八幡宮も修復工事の際に当時の顔料を調べて塗り直し作業をなさったと伺いました。元より肌の色この色だったのでしょうね」の ご質問を頂いておりました。

所用で参加出来なく、Uさんに 質問をお願いしましたら、快諾頂き、次の様な回答がありました。

「説明者は判りません。瑞鳳殿で聞いて見てくださいとの事でした。八幡宮の天女は肌色でした」 


(財)瑞鳳殿の学芸員に瑞鳳殿・感仙殿の天女さんの肌の色の根拠を確認します。上ノ山お嬢さん少々 お待ちください。

今日は、拝殿の中の彫刻などを説明をして頂いたそうです。欠席せざる得なかったは 誠に残念でした。




10 月 25 日 (日)  



朝冷の候とあいなりましたが、参拝者は 国内 熊本・大分・宇和島・長野 国外は韓国・欧米系と各地から多数の方がみえました。

朝一番は、自称東京の人(都内中心部の地理は不案内)、三世代6人。財布は嫁様に、孫を初め一同 長老を盛り立てている 理想的家族像の団体。タクシー運転手からのご依頼。のんびり参拝していました。賃走ではなく貸切でしょうか。

熊本の2嬢。二泊三日の行程で、仙台は瑞鳳殿と仙臺城、松島は瑞巌寺を参拝・見学。平泉・山寺は行かないとの事。ツァーでは考えられないユックリした行程は 「歴女」かも?涅槃門以降のガイドは不要と断られました。

宇和島の青年。あかとんぼ 3月に1ケ月宇和島に滞在・勉強しましたに、懐かしかり 「ジャコ天」食べたか・・・・ローカルな話題が飛びだし、同行者に ゴメンと謝っていました。
昨日、瑞巌寺と寶華殿を参拝されたそうで、寶華殿が化粧直しされ ピカピカに驚いて「あれ 本物ですか」と質問されました。

先程 町中で「雀踊り」を踊っていて、解説に 伊達家の家紋「竹に雀」に由来するとあったが、本当か?の質問。
この様に確認する人はよろしいですが 真に受けて帰る人もいるでしょう。正確でなく、無理々 何でも政宗公等に結び付ける輩にはコマッタものです。

高齢(八十路の中高期とお見受け)のご婦人6人に 付添い6人の12人の小団体に添乗員1人。余裕のある団体です。「涅槃門は現在化粧直中です。櫻咲く春完成します。その頃又 どうぞ」と申しあげたら、 「来年の櫻みられるかな?」と即 返って来ました。「目も耳も口も達者ですー。弱いのは 足腰ですー」と 段差があれば 何処でも腰掛けて ガイドを聞いています。こんなに口も達者ですと 付添いの人は 何かと大変だろうなと密かに同情しました。

数か月振りにあったガイド仲間の冨塚氏に「槍の冨塚氏の墓碑 瑞鳳寺墓地に発見しました。ご存じですか」と語り掛けたら「樵の冨塚は 私の家系と異なります。我が家系は・・・・・」となりました。
我が家系は と語れる家系の人は羨ましい限りです。

「我が先祖は 〔白石ヒゴの守〕 源義家を祖とし、伊達家の家老職を務めた。ナガーイ系図があります。私は 今 シライシと称していますが、白石氏の会からも連絡が来ます。今日 整理しないでお詣りに来ましたが 先祖に由来するものあるでしょうか」 盛年のご婦人のお尋ね。

頭脳PCは急速回転 「御一門の登米の伊達家は 白石家です。資料の手持ちはありません。詳しい事は帰宅・確認してから。漢字文化振興会の白石宗靖氏を御存知でしょう」 「いや アノ漢字検定ですか」  「イエ 違います」

「登米の伊達家 白石刑部大輔宗貞が 奉納した燈篭があります。之です」 「これですか 新しい石では?」「ハイ 米軍の空襲で被災し 造り直しています」 同行者が撮影

家系図を確認後、メールをくださるとの事、名刺を差し上げました。楽しみです。

あかとんぼ 資料「史料 仙台伊達氏家臣団事典 本田勇編著」による 一門の伊達家(白石家)は、姓は藤原、本姓は白石、藤原鎌足の14世孫 刈田左兵衛門経元が祖。源義家の麾下となり 功を挙げ刈田・伊具郡を賜り、白石城にて 白石を称すとあります。御一門ですから 家老職には就任していません。

久々 仲間のYさんと一緒になりました。Yさんは笑顔がよろしく お客様が吸い寄せられらしく 初めYさんに尋ねられたのです。 


お客様が途絶えましたので 帰路に着きました。ら 全日本大学女子駅伝が 市街地真中を交通規制して開催していました。バス等が走れなくなり 参拝者が途絶えたのでした。あかとんぼ の進路も次々 交通規制 通行止めになりました。迂回路のある地点で その旨を教えてくれず、Uターン出来ない地点で停めます。警備員が 後30分は解除にならないでしょうと広報しています。Uターン出来る地点で案内すべきはと 抗議したら 「私わかりません」 確かにそうでしょう。その場所限りのアルバイトでは。

ヘリを飛ばし、多額の経費を費やしての大会、反面 多数の人々に時間損失を負わせての大会。費用効果はどうなるのかと 内心 ブツブツ呟き 携行食で餓えを凌ぎ ひたすら解除を待ちました。

ボラガイド支援機構理事長は「今日 大会があるのを知っていたでしょう。ガイドをソコソコに帰れば 辛い時間を過ごすこと無かったのに」 誠にゴモットモです。でも ガイドを依頼される方をお断りして帰る訳にはまいりません。

モミジの紅葉 光の具合からか 思うように撮影出来ませんでした。表紙の更新が出来ません。残念。



10 月 23 日 (金)  



メモ です

仙臺城にあった御懸造の名称は、眺瀛閣 チョウエンカク。
愛姫の側近は、小侍従の局。
出自は、愛姫の父 田村清顕と側室の子 大槻上衛門の娘。叔母と姪の関係。

瑞巌寺・陽コ院・寶華殿 左後方に所在する墓碑は この方?

以上は、隆慶一郎著「捨て童子松平忠輝」第1巻270頁等記載に依りました。
著者は、「五郎八姫」について、土生慶子先生の「いろは姫」を参考にしたと明記しています。丹念な資料収集に敬意を表はます。

墓碑の確認は、11月2日に確認します。

愛姫は、眺瀛閣から 初入国し、忠輝との婚姻を祝した城下町々の篝火を見たと小説にありました。手元資料では、1606年艮櫓(ウトシラヤグラ)からとあります。要再確認です。
小侍従の局の出自は確認できるかは 自信ありません。


報告・お礼
10月15日9時ガイド開始直前、(株)東陽写場板垣フォトグラファーから、露出補正をして自然を美しく撮影する技術等を伝授して頂きました。表紙のモミジがその成果です。完全紅葉まで 毎週撮影し掲載します。お楽しみに。
板垣様 ありがとうございました。



10 月 18 日 (日)  



忙しい日でした。終日奮励でした。

7月19日ガイドした群馬のお嬢さんから、続きを聞きたい、ついては都合は如何ですかとメールを頂いていました。
後述の都合で、開門時間ギリギリ調整可能の8時45分券売所前を約束していました。ガイドは開始20分前先着が原則です。到着しました時刻が丁度職員の皆様の登庁(?)時刻でした。

8時35分に親子4人が登ってきました。1番客と見ていたら、5分後、青年が涅槃門工事現場から「ありがとうございました」と参拝を終え出て来ました。「オジサン 素晴らしいものを羽織っていますネ。撮らせてください」 オジイサンと云わずにオジサン。素晴らしいものを羽織ってと、落語の世界ではありませんが、今時の青年にしては、ウレシガラセの日本語を使う青年です。

続いて質問です。「オジサン 熊の毛皮で作った鎧が展示されていると聞いて来ましたが、資料館にありませんでした。何処にあるでしょう?」 オドロキ・ビックリの質問です。

「何処でその様なお話しを聞きましたか? ここの資料館にはありません。伊達家関係資料は仙台市博物館が充実していますが、図録で見たことも 保存されているとの話も聞いた事がありません。所で、熊の毛皮をご存じですか。鞣すとある程度 軟らかくなりますが 硬くてゴワゴワしています。背当てか、敷物には利用されていますが、鎧の用材には適していません」と 答えたところ。

「僕 都会の人です。生きた熊を見たことありません。まして毛皮に触った事もありません。鎧は無理ですか。そうですか」
「9時から会合があり、其の前に 是非お詣りしたいと来ました。9時開門なのに 係員が入れてくれました。スッキリした気持ちで会合に出席出来ます。急ぎますので係の方のご配慮に感謝します、よろしく伝えてください」ソソクサと降りて行きました。


9時 群馬のお嬢さんが息を切らせ登ってきました。御生母様と妹様が同行されました。7月19日のガイドの続き、沼田家(仮称)が九曜紋と聞いていましたので、話しは家紋から始まりました。涅槃門からの石段の段差が高いことから、母上は「現在の標準より10cmは高いですネ」 とズバリ指摘されました。 今日2回目の驚きです。 「建築関係の仕事しています」  ハイ納得しました。 「瑞鳳殿は戦災で焼失し 昭和の技術で再建された建造物です」の説明で 本殿の構造等は理解されたのでは。

沼田家のお嬢さんは、歴娘となり、政宗公から支倉常長に至って、「支倉常長が政宗公の具足一式をローマ法王に奉納(?)したと 聞いたのでヴァチカン市國を訪ねた。政宗公からの書簡は国宝クラスなので見せて貰えないであろうと当初から諦め、之なら、可能と思ったが わからないと断られた」と話してくれました。

あかとんぼ には 具足一式は初耳の話です。あかとんぼ がヴァチカン美術館を見学した際、この話は聞いていません。壁画の常長謁見の図は見てきました。お嬢さんは、これは初耳との事。ヴァチカン市國の図録に見当たりません。美術館は撮影が自由でしたので、謁見の図 写していた筈です。探してみます。又 具足についても おりをみて調べて見ます。

昨17日 瑞巌寺と寶華殿を参拝されたそうですが、寶華殿の外観も撮影禁止になっていたとガッカリしていました。本HPの表紙に寶華殿全景等を公開しましたが 見逃したとの事、後日 写真を送信することを約束しました。なぜ 外観まで撮影禁止になったのでしょう。

お土産頂きました。群馬県沼田市産の「赤城」と云う新種の林檎です。あかとんぼ は日本一の林檎の産地 津軽で生活した事があり、かの地には林檎博物館があり、林檎については一言あります。食べた事の無い新種の林檎です。一人で食べたら天罰が下るでしょう。幸いは広く味わいたいと、(財)瑞鳳殿とUさんと仙臺藩志会のYさんと分かち合いました。1個貰ったUさんは大家族です。公平に味合うのに苦労されたかも。

群馬県沼田市産の林檎を頂きましたので、群馬のお嬢さんを 沼田家としました。 

10時、伊達家発祥の地「常陸國真壁郡伊佐庄中村」現在の栃木県真岡市中です。伊達家始祖朝宗が1156年に中村城を築城と伝えられ、東西450m、周囲に幅8m深9mの空堀が現存しております。08年11月15日仙臺藩志会で訪れております。その際、邑の人々は伊達家始祖を祀った云われる小太郎神社の祭典を日延べして歓迎してくれました。このご恩に報いるべく、Uさんとガイドをさせて貰いました。

中村城址の大部分が遍照寺の境内となっており、邑の大部分の人々が檀家となっているそうです。本堂には天女さんが描かれています。瑞鳳殿の天女さんとそっくり、足の裏表の表現まで同じです。昨年、質問に答えてくれました住職様は不参加でしたが、寺大黒さんと檀家のご一同様、説明したら「ウーン」と肯いていました。明日 帰ったら早速 寺に駆けつけ確認するでしょう。

11日に 英語でガイドする人々の第2陣が見え、頼むとの事。事情を話して 中村の人々と一緒で良ければ、且つ、英語で質問されなければ、どうぞと、結局 全行程を一緒されました。最後に「今回は 伊達家発祥の地の方々向けでした。全世界向け仕様が必要でしょう。、補習授業的なもの必要でしたら、毎日曜日午前はガイドしています。どうぞ」と話しました。

11時15分、中村の人々は、仙臺城址見学に向かいとの事。同乗し、大橋を渡った所から仙臺城ですとガイドしました。坂の途中 渋滞しながら 11時30分に本丸に到着。日曜日にしては 早い到着した。先週は渋滞で ループルバスは、坂の途中で 「見学の方降りられたら」と 停留所でない所で下車させたそうです。

添乗員、我々が 瑞鳳殿と仙臺城址をガイドする事 聞いている筈なのに、何んか不満・不機嫌です。「仙臺城址 なにがあるですか。何も無いでしょう。何をガイドするのですか」 「ガイド 最低30分は必要です」 「では 15分だけ」 時間が半分になれば 内容も半分になります。仙臺城について興味を持って聞いていた方々、ガイドしたUさんも 双方 不完全燃焼では。

昼食後、孝勝寺 そのものに向かうとの事。何で孝勝寺に詣るのか、今度は我々が、その意図がわかりません。別地にある伊達家墓所(2代正室振姫、3代側室初子、4代正室仙姫の墓所)をお詣りしない事には、「伊達家の縁を探る旅」のタイトルにしては、合致しない、お粗末と感じます。

12時30分 瑞鳳殿に引き返し、ガイドを続けました。午前の雑踏?は夢の如しながら、参拝のお客様も、ご依頼も途絶えません。
高齢のご婦人「一人でも 宜しいですか」 ハイどうぞ と ガイドしながらお話ししていたら、「生家は伊達家家臣の末裔で、父親は仙臺藩志会の会員で、行事等に積極的に参加していました。オマエは女の子と云われ 連れて来て貰えなかった。20年前に旅立ったが、焼失する前の瑞鳳殿、御木像、家型厨子も見ていたでしょう。姓は○○タと申して、竹に雀の家紋ですが、雀が阿吽の2羽でなく3羽で「紋屋」にブツブツ言われたの知っています」と語られました。

雀が3羽の家紋。2羽は 裏表になり、阿吽になっていますが、3羽目の雀は、裏表・阿吽がどうなるのでしょう。拝見したいものです。

「ここが焼失したのは、戦災ですか。何時ですか」 「ハイ、1945年7月10日です」 「私の誕生日1945年6月10日です」 この男性64歳となります。突然 「貞山運河は、政宗が石巻から岩沼まで、石巻の米を仙臺に運ぶため 開削したものだ」 知らないだろうの口調で語り始めました。

間違いでありませんが、正確でもないので「明治時代迄の数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結したもので、政宗公の命により開削されたため、諡の貞山に因んで明治時代に貞山堀と名付けられたものです」と答えた所で、疲れを感じましたので本日のガイドを終わりにしました。

事務所で、2度目の御茶を頂きました。甘露 甘露でした。

追書
中村の人々、大崎八幡宮を本日の行程として参拝したそうです。平成の大補修の現場責任者を務めた 清水建設の元棟梁で、仙臺藩志会員のS氏が説明されたそうです。あかとんぼ も聞きたかったです。肝心の情報が 事後に入ってくるは、マイッタナ。



10 月 15 日 (木)  



秋晴れ 温暖 行楽日和。

仙台観光コンベション協会様からのご依頼ガイドです。お客様は各地の観光関係の責任者との事。協会には何かとお世話になっています。又、お客様は観光関係の責任者と聞けば、仙台と瑞鳳殿でのボラガイドの程度は この程度か、お粗末と評価されては、(財)瑞鳳殿や協会等の関係者皆様にご迷惑を掛ける事になると、内心緊張してガイドしました。

ガイド時間80分頂きました。瑞鳳殿を主体に、ポイントは外さずガイドしました。協会は、その配布資料等で見学時間の目途を40分と 記載していますが、無理な時間設定と実感された様です。
協会職員で 「瑞鳳殿を初めてガイド付きで参拝したが、ガイドは有効」と洩らされた方がいました。有難い評価です。緊張が解けました。

前後して 団体が続続と、「仙台市施設を見る会」バス1台。「北上市生涯学習教室」バス2台で、UさんとNさんがガイド。聖ウルスラ学院は、スクールバスがピストン輸送。ご当主がその都度、説明していました。この学院はお嬢様学校の噂。噂に違わず 行儀の良い事 驚くばかりです。2列直線に並び、直立不動でご当主の説明を聞いていました。公立高校は、足元にも及ばないと感じました。 



10 月 14 日 (水)  



大年寺の盛衰

本日「歴史の窓」の副題です。
伊達家直営のお寺は、戊辰の役、廃仏毀釈等の動乱で、廃寺、廃寺寸前に追い込まれました。
瑞鳳寺、瑞巌寺は卓越した住職の努力で現在の隆盛にいたっています。
定禅寺は、都市計画道路に名を留めるのみです。
萬壽寺は4代綱村公が創建した、正室仙姫の菩提寺です。本寺も廃寺となり、末寺が名跡を継いでおりますが、御霊屋は取壊されて唐門は北山・大願寺の山門となり、御遺骨は、孝勝寺伊達家墓所に改葬されました。
寂光寺は、青葉山から北山に移されて明治を迎え、その場所にお寺が有り、寂光寺の流れを汲む寺と自称している聞きましたが、寺名は異なります。廃寺になったと理解するのが正しいようです。
大年寺も同様、廃寺となり、大年寺山と門前町の地名、惣門と長急石段、伊達家墓所(無尽灯廟・寶華林廟)、堂宇を囲んでいた土類のみと理解されています。6月20日綱村公を偲ぶ人々の「大年寺会」が、惣門の脇に所在する大年寺で回忌法要が営みました。現住職は黄檗宗の本山からこの春に派遣され、会の法要も始めて当寺で営なむ事が出来たと役員は喜んでいました。と云うことは、大年寺は廃寺になり、現寺は名跡を継いだものと理解していないことを物語っているのでしょうか。

さて、菅野さんは「仙臺随一の名刹となり、仙臺を代表する名所の一つなり、藩内のみならず多くの旅人が訪れる所になった」「地理学者として名高い古川古松軒が天明8(1788)年に旅した際の紀行文「東遊雑記」に鋭い観察眼で〔よき寺といへり〕と賛辞を惜しまなかった」と記しております。
併せて、全盛期を描いた絵図が掲載されています。

現在は伊達家の墓所を除いた周囲は公園化が進行していますが、その絵図をして昔日の様子を偲ぶものは何も在りません。破壊と創造と云いますが、政権交代そして文化の破壊です。人類の歴史、宿命でしょうか。

「東遊雑記」には、「仙臺城下には〔町内には小石数多ありて河原のごとし〕と手厳しい評価を与えている」とありました。現代訳つきで是非読みたいと、市図書館蔵書を検索しましたら平凡社から刊行されていました。早速予約しました。明日には手元に届くでしょう。楽しみです。


歴女 本物?

11日のお嬢さん。自分で「歴女です」と洩らしていましたが、〔真性・政宗歴娘〕の様です。
11日は、御子様御廟を参拝後、仙臺城に向かい、大橋の袂から大手門を経由本丸まで「あかとんぼ 仙臺城祉ガイドマップ」を頼りに散策後、大崎八幡宮を参拝し、その感想・疑問点のメールがありました。
ガイドのあり方の反省もなりますので、その要旨を紹介します。

1.本殿の周りを回って一通り写真を撮った。正面で見られる方は沢山いますが、後ろまで回られる方はこれまた少ない。本殿は四方何処から見ても美しいので、もったいないです〜!

 正面と南面を詳しく紹介しています。最近は塀外一周をお勧めしていませんでした。反省します。

2.残念だったのが、今回は資料館のビデオを隅から隅まで見るつもりが、館内が混雑し観覧客の話声で音声が殆ど聞こえませんでした。結局一巡目はあまり聞き取れず二巡目に突入しても。

 ビデオ鑑賞の障害になる事から、団体を案内した際は、出口付近の展示品を小声で紹介し、外に出て展示品の解説をしています。音声ガイド装置があれば展示品の解説には有効と思いますが、費用効果から無理でしょう。これでも「聞き取れない」の解消にはなりません。混雑時 音声を上げて貰うが当面の解決策でしょうか。
資料館を拡充し、展示品の充実とビデオ室の別室化が最良と思いますが?。

3.気になったのは大崎八幡宮の天女さんは肌の色が肌色です。瑞鳳殿の天女さんはもっと色白の気がしたのですが…瑞鳳殿の天女さんの方が個人的に『天女』のイメージなのに大崎八幡の天女さんは肌の色のせいか、心持ち『人』に近い感じがしました。
大崎八幡宮も修復工事の際に当時の顔料を調べて塗り直し作業をなさったと伺いました。元より肌の色この色だったのでしょうね。不思議です。他の天女さんはどうなのか疑問が生まれました。

 天女さんの姿の共通性を認識し、特に足裏等について紹介していました。肌色迄は気が付きませんでした。やはり 女性特有の鋭い観察力でしょうか。非常に参考になりました。
 平成大修理記念誌「國寶大崎八幡宮」仙台市博物館協力には、肌色の解説はありません。26日仲間の勉強会が大崎八幡宮です。昇殿しますので確認の機会です。が所用のため欠席です。千載一遇の機会を逃がす訳にいきませんUさんに質問をお願いします。

4.瑞鳳殿はやはり他とはどこか雰囲気が違っていて、心身共に浄められる気がします。
そして、やはりガイドさんの力って凄いです!!感じるままに訪れるのも良いのでしょうが、プラス色んな背景や意味を知るとさらに充実した時間を過ごせます。そう言えば、瑞鳳殿は有り難いかな無料でガイドしてくださいますが、他の史蹟も案内して頂けるのでしょうか??

 御子様御廟では「霊気を感ずる」と洩らされる方が数います。瑞鳳殿の桃山様式の豪華絢爛な建造物に接し非日常性を実感するは、一服の清涼剤かも知れません。
 ガイドする事は勉強になります。今回の様に 感想・疑問を教えて頂ければ、勉強の機会となります。有難いです。

 伊達家関連の史跡。今回以外、例えば、仙臺城御裏林、北山の五山、仙臺東照宮、陸奥国分寺等を案内出来ます。松島も勉強しました。

〔真性・政宗歴娘〕であれば、政宗公の灰塚を訪れたらと思います。灰塚のみならず 伊達家関連の史跡 ご希望あれば ご案内致します。



10 月 13 日 (火)  



明日 水曜日は、博物館・菅野さんの「せんだい歴史の窓」の日です。楽しみです。
さて8月12日は「銘菓の系譜」でした。内容詳細は日誌を一読お願いします。
印象に残ったのは、
「仙臺における銘菓と云われる菓子の本格生産は1663(寛文3)年から菓子ご用になった大町一丁目 明石屋が、4代綱村の斡旋で製法を導入した。一方、官に対する民の立場で 南町玉屋が自力で製法を取得した。この菓子が江戸で評判の味の「塩瀬饅頭」であった。共に伊達家御用達なったが、玉屋は明治初め、明石屋は仙台空襲で、幕を閉じた。」でした。
仙台での「塩瀬饅頭」の製造は終わりましたが 江戸・本家の流れでしょうか、塩瀬総本家がHPで検索されました。試食しなくてはと思っていました。

この「塩瀬の饅頭」に相当する美味は、「井ケ田の喜久福」であると、ある通人から聞き、早速、試食して納得していました。9月27日ガイドした札幌のお嬢さんから、仙台土産に、この「井ケ田の喜久福」を求め帰宅したとメールを頂きました。「喜久福」は通人には 知られている、仙台の隠れた銘菓とあらためて理解しました。

さて、「塩瀬饅頭」は江戸に行かなくて買えない様で、今 暫く 出府(上京)する予定が無く、試食はお預けになっていました。
あかとんぼ の心情を知ったある読者(匿名希望の奥ゆかしい)の方が、10日午後 (財)瑞鳳殿に預けてくれました。11日朝受取りまして、ボラガイド支援機構理事長との茶話会の席で御馳走になりました。

流石、天下の伊達家の殿様のお声かがりで、官民競合 伊達家御用達なったお菓子です。「大人の味」でした。
原材料に、小豆、砂糖、米粉、山芋、水飴、膨張剤が使用されています。米粉、山芋の使用が、他の饅頭との違う所です。栞に「大和芋の皮に極上の小豆餡を包んだ薯藷満場で・・・・・」とあります。納得。
あかとんぼ の結論として 通人が賞味する「大人の味」です。美味です。

仙台・明石屋と仙台・玉屋の各塩瀬に繋がりが理解できる系図〔まんじゅう屋繁盛記川島英子著 岩波書店刊〕迄添付してくださいました。
ガイトの際、仙台土産・仙台銘菓を語るに、自信を持てる強い裏付けです。ある読者の方、至り尽せりのお気配り ありがとうございます。



10 月 12 日 (月)  



祝日。さて 何の祝日か? 体育の日でした。10月10日は晴れの特異日。故に東京オリンピックの開催日に決まり、それを記念しての体育の日です。決定趣旨に無関係に2日も日延べ。何の祝日が意識されなくなりました。之で宜しいでしょうか。

人出は早いです。8時50分に到着したら、早くも、参拝を終え帰る人がいました。
涅槃門は、すっかりカバーに包まれ、中の様子が見えなくなりました。昨日、残留していた獅子頭を撮影しました。千載一遇の機会であったようです。

群馬県の親子4人、6年生になり、授業で伊達政宗公を学んだので、両親に連れてきて貰ったと語っていました。数年前まで、5年生に習ったと聞きました。「ゆとり教育」で1年遅れになったのでしょうか。政宗公が1年遅れても構いませんが、教育全体が薄められ 先延ばしになっているのではの懸念を持ちます。

9時から13時迄、途切れなく、信州松本から神戸・須磨、宇都宮からのお客様。高齢女性の小団体が連続しました。故に、違います。「長持」を知っているだけではなく、「長持持っています」が、片手指位いました。又拝殿の扁額の際「私 濃深紅の珊瑚持っています。お高かったのよ」と叫んだご婦人がいました。後で仲間にイジメラないか心配になりました。このようなハイクラスの生活の人々えのガイドで、若い歴女えのガイドありませんでした。

今日の質問は、「飾金具の製作地は何処か。材質の違いを説明してほしい」「拝殿柱の下部金具の材質、模様の意味を説明して欲しい」が青年と高齢婦人からありました。「わかりません、調べましょう。アドレス等を教えて頂ければ」  「いや 調べて連絡されなくとも。関西・京都の人間は この面について 拘り 五月蠅いですから」と去っていきました。

10日の「壬申の乱」のお客様は京都。この3日間 京弁がチラチラ聞こえました。ガイドを求めないながら 京都から結構 見えているようです。6日の日誌に仲間の発言として「関西からの参拝者に、京都の社寺仏閣に比較し、造作が粗末と云われた。悔しい」と記しました。あかとんぼ の私見として、1000年の歴史ある社寺仏閣と、30年前に、その当時の考え方で復元された建造物では全く基本が違いますと申しあげたい。

今日のお客様にも、「ループルバス 1台目に乗れなかった」と申された方いました。お客が多く、路線延長でバスが不足、路線バスの車両を投入、乗せ残しの無いように、待たせないようにの 努力は認めますが、機械の関係で「一日乗車券」が使用出来ないらしい。となると 一回毎の運賃精算で 瑞鳳殿。仙臺城址と主要地で下車観光すると 割高運賃となり、又、施設割引が適用されない。それでは全体が高額なります。それで、幹事や財布を持った人の怒りがフツフツとしている の話しがありました。ゴモットモです。

1日から「仙台・宮城〔伊達な旅〕キャンペーン」を実施し、観光客を誘致していて、この様な事か本当ならば、逆効果ではないと 一市民として心配になります。

4時間喋りますと、口も足も疲れます。秋の3連休は13時で終わりです。NKさんは弁当持参で頑張るようです。3日連続ご苦労様です。若さです。



10 月 11 日 (日)  



今日も爽やかです。
8日大型台風18号来襲の際、仙台は豪雨に悩まされ、電車は相次いで運休になり、学校も休校なりました。瑞鳳殿に参拝者は幾ばくであったしょう。興味有りながら聞くに聞けないでいたら、「77人もお出で頂きました。有難いことです」と、○○主任から発表がありました。東北最大の地銀の商号と同じです。メデタイのかな?

代表のEさんは常に「お客様は計画で行動する」と申していますが、台風・豪雨でも、計画変更しない方がいる訳です。で、3連休の中日の日曜日。8時58分スタンバイ。即、お声がかかりました。今日は先々がよろしいようです。

9時30分。「仙台駅に着きました。ループルバス満員で乗れません」と上ノ山お嬢さんから電話。
「9時45分に行く」と従前連絡された方を瑞鳳寺門前で待機していましたら、影も形も見えません。日を間違えたか。
9時50分に上ノ山お嬢さんが登って来て、「臨時便が出ました」

10時仙臺藩志会事務局長「昨日の141年祭の模様、会報に掲載します。写真が欲しい」と見えました。差し上げました。本HPの表紙の掲載している写真等数枚です。会報に採用になれば嬉しい限りです。

外国語で仙台をガイドする人々を佐藤わか子市会議員が引率してきました。「あかとんぼ さんお願い」。本殿前でガイド。一人が英語を通訳。質問も英語。
日本語に変換された質問は「なぜ 座った姿で棺に入ったのか。侍の作法なのか。3代全て同じ作法か。」です。「当時は棺桶です。棺箱ではありません。土葬の場合は棺桶です。火葬が普及してから棺箱になりました。政宗公は棺桶、綱宗公は甕棺です。この作法の違いは〔時の流れ〕と理解しています」
亜細亜系の顔をして英語で質問されますので「日本人の方いますか?」 全員挙手。全部仙台市民でした。英語での質問は、自分の勉強なのか、あかとんぼ の語学力をテストしたのか。
資料館の壁面を眺め、次の予定があるからと足早に去っていきました。一陣の風でしょうか。

上ノ山お嬢さん、発掘調査のビデオを見ながら懸命にメモをしていました。前回 ガイドしなかった所 説明して欲しいとの事。天女さんの姿、弔魂碑、感仙殿、善應殿、9代様、11代ご夫妻様、板碑、御子様御廟、望仙臺城、マムシ草と案内しました。側室のお墓を説明する際、相手がお嬢さんなのてせ一瞬説明に苦慮しました。

この後の予定、仙臺城に、博物館前で下車し 大手門から本丸に、本丸見学後、清水門から三の丸に至るコースを徒歩で、再び博物館前でループルバスに乗車、大崎八幡宮を参拝の予定とのこと。
同行しガイドしたい所ですが、お爺さんには体力的に厳しい事と依頼がありませんでしたので、以前(07,0625)の勉強会の資料〔仙臺城址ガイドマップ A3版表裏〕を差し上げ、昭忠碑の金鳶は何れを向いているか、大崎八幡宮の天女さんに瑞鳳殿との共通性を発見できるか等を見学のヒント、宿題?にしました。

お土産 頂きました。本の栞ほか です。この栞 自作との事。紫色の下地の底に躍動する龍。下部に「五色水玉模様」。表面に政宗公辞世のの歌「曇りなき 心の月を 光たてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」があります。
お嬢様の遊び芸ではない、商品となる見事な作品です。市販を考えませんか。

ループルバス 大崎八幡宮まで 路線延長した結果でバスが足りなくなったのか、利用者が急増した故か、普通の路線バスを投入していました。車内ガイドが十分に出来るのか。単に運ぶ手段であれば 仙臺の信用に関わります。瑞鳳殿前停留所50m位の行列。待ちきれず 歩く人、タクシーを待つ人 が散見されました。

本日も實多き日でした。



10 月 10 日 (土)  



戊辰の役殉難者供養141年祭が10時から碑前で催されました。

仙臺藩志会の主催で昨年よりはささやかでした。挨拶・黙祷、篠笛の流れる中、殉難者末裔の煤孫・飯田・石川氏等5人に続いて参加者一同30余名が、各自の信条・作法で献花をしました。

来賓として、(財)瑞鳳殿常務理事がで席されされました。常務は職員をして設営に多大の協力をされました。有難いことです。宮城県知事は選挙期間中ですから別として、仙台市長と伊達家当主のお顔が見えなかったことは淋しい限りです。

祭事の際、瑞鳳殿参拝者が不思議そうに立ち止まる方々に、低音で説明しました。
韓国からの方、「日本では141年前の犠牲者を、こんなに丁寧に供養しているのか」と驚いていました。
京都からの若夫婦は、「先の戦いと云えば壬申の乱(672年)を指す高齢者がいますが、ここ仙台では141年前を指す方がおられるのですネ」と洩らしていました。


戊辰の役の殉難者数。碑文には「無慮1千人」と刻まれており、大正6(1917)年の50年祭には1200余人とされ、碑前の解説では幕臣を含み1260人となっております。正確な数は不明ですが、犠牲者は1200人以上であることは、周知の通りです。なお、仙台市史近代1では906人と記載されており、市議会本会議で質問が成されています。

週刊新潮「明治めちゃくちゃ物語」文芸評論家野口武彦著(09.10.13.号)。興味深い記事です。
1.会津で「戦争」と云えば「戊辰戦争」のことであった。
2.殺戮と好奇心の為で、一種の侵略戦争であった。「宮崎十三八〔会津人の書く戊辰戦争〕」
3.厳密な死傷者数不明であるが、一応の標準となる〔明治史要〕では、東軍の死者4680人。
4.会津の死者は、女性194人を含み、2557人。
5.〔幕末維新全殉難者名簿〕明田鉄男著によれば3136人となる。氏名を明記しているから正確では。
  伊達家関係は如何に記録されているか図書館で調べる必要があります。
6.追討令に対しての家老但木土佐の強硬な抗議。
7.大条孫三郎持参の上奏文。奥羽62万石にふさわしい堂々たる論陣。
8.世良修造の人選の誤り〔天皇の世紀〕大仏次郎著。
概要です。全文の一読をお勧めします。

本HPの資料館「弔魂碑」を一読頂ければ。



10 月 9 日 (金)  



台風一過。

青葉神社の秋の例祭に参列しました。
神官等7人、篠笛奏者6人、参列者 伊達家18代当主ほか99人。所要時間90分。
本日は宵宮で、篠笛が午後2回。明日の本宮には、餅つき奉納が3回、古式雀踊り、神楽の奉納があります。
市道側 鳥居周辺にお祭り煮無くてはならない露店が出ています。

春の大祭の5月24日は政宗公の命日。秋の例祭は10月9日に催されるの根拠は、これいかにと仙臺藩志会員の方から口答諮問されました。
正解は、寛永3(1626)年8月19日権中納言(従三位・黄門の位)に任じられたを記念、太陽暦に換算して行われています。

今回の発見は、「お野初め」の大絵馬(長9m.幅2m位)です。その解説文です。
 江戸時代の仙台では二代目忠宗の代から、新春に家臣が繰出して城下の近郊で狩りを繰り広げる「お野初め」が行われている。泰平の世を迎えて軍事的行動が殆ど姿を消した中で、武門の力と精神を維持してゆく恒例的行事。春の広々とした野山に思いっきり体を躍動させる催しとして大切に継承された。正月三日に案内の野に出向いた藩主の面前を、家臣団が堂々と行進して勇姿を披露し、続いて鉄砲の一斉射撃を合図に雉狩りに移り、岩切付近まで展開して獲物を追う野だった。優秀な働きをした者には褒美が下賜去れ、七種連歌や謡初めが雅びやかな文の世界であれば、これは武の領域の最たるものとなっていた。
 その一大絵巻を華やかに再現して神前に奉納したのが本図である。絵馬としては最大な造りを生かして、正面の仮屋に出座の藩主と重臣たちを配し、出陣の支度をした家中の面々が隊列を組んで行進するのを閲兵する情景を写している。伊達家の「日輪」や「師掛」の軍旗が翻り、陣幕には「竹に雀」、行進の中に片倉家「釣鐘」の旗等が見られる。
 伊達政宗を祀る青葉神社は、明治七年(1874)に創建され、以後、仙台の主要神社の一角を占めて信仰や祭礼に重要な役割を担ってきた。その立場に恰好な、意義深い絵馬とすることができよう。

以上は前仙台博物館長濱田直嗣氏撰文です。

高齢参列者が「仙台の現在の青葉まつりは、青葉神社の祭典から遊離しているに拘わらず、青葉まつりと称し、日を変えたほかに、山車が先導するはもってのほか」と痛烈に呟いていました。尤もと思いましたが 黙して語らず。

承前ながら由来を略記。
仙臺藩祖贈二位伊達政宗公(神号武振彦命タケフルヒコノミコト)を祀る。元仙臺城内に勅額迄賜った社殿があったが、明治7(1874)年 県社に列せられをもって、本地(仙台市青葉区青葉町)に社殿を造営し移転した。青葉神社社務所



10 月 8 日 (木)  



大型台風18号来襲です。大雨です。この後 風が強くなるのでしょうか。
午前にガイド予定であった「八木山市民センター・長壽教室・瑞鳳殿参拝」が中止になりました。「70 80歳の高齢者を風雨に曝すことは出来ない。協議の結果中止します」と昨昼に電話がありました。迅速で的確な決断でした。

晴天・温暖の条件下であれば、聞く・見るともに楽しく実のあるものになります。年間計画から 今年の再実施は無理でしょう、来春早々に計画して頂ければと思います。

(財)瑞鳳殿では、瑞鳳殿だより「経ケ峯の四季」を発行しており、最新版を6日頂きました。非常に興味深い内容ばかりです。

巻頭の写真と随筆。
写真。評定河原橋からの経ケ峯の遠望。森をモリアゲ強調し撮影しています。私は 感仙殿裏の断崖に視線が走り、それを中心にした撮影に至ります。廣瀬川と経ケ峯と一対になり、仙台市街地にあっての自然を素直に表現しています。瑞鳳殿参拝に帰路 橋の上から この実景を確認され楽しまれることをお勧めします。
随筆。仙臺城跡の青葉山と対座し、400年前と変わらぬ悠久の時を刻む。独逸のシュヴァルツヴァルトと呼ばれる森林地帯を想起させる。時歴の縦糸と地球の位置の横糸を組み合わせた随筆。鹿野常務理事の慧眼です。

資料館展示品の紹介 綱宗公の煙管(キセル)。資料館内はビデオを見ている人の邪魔になることから ガイド出来る機会は少ないのです。この記事は、規格等が記載されており、殿様の日常生活を紹介するのに有用です。全展示品の解説目録を早々に作成して頂ければ、ガイドも観覧者も喜ぶと思います。僭越ですが、作成の際手伝いさせてください。

20年の観覧者月別数の記載があります。年間総数が189,795人とあります。最高月は8月の24,117人です。実感として、21年度は20万人を軽く越えたでしょう。黄金・白銀週間、夏休の怒濤の参拝者には圧倒されました。

このほか 興味深い、有用な記事が満載されています。是非 ご覧ください。参拝され、売店奥の事務に声をかけると頂けると思います。資料配付コーナーにはありません。



10 月 7 日 (水)  



歴史の窓を読んで。

瑞鳳殿でガイドの際、宗派を問われる事があります。
「政宗公は臨済宗妙心寺派です」と答えます。更に、5月24日の回忌法要に至れば、「松島青龍山瑞巌圓福禅(ショウトウセイリュウザンエンプクゼンジ)」か、「正宗山瑞鳳寺」の和尚様を先頭に、伊達家御縁のお寺の住職が法要を務めます」と答えています。
それ以上、追求されたことはまだありません。

先日、松島瑞巌寺等研修の講師を務め、資料を整理し、天台宗からの臨済宗への改宗をあらためて認識しました。

さて、菅野さんの「歴史の窓」。古刹を訪れて 國分寺と薬師如来です。
國分寺建立の詔ではも本尊として釈迦の像を祀ると記せられている。全国の國分寺の8割近くが薬師如来を本尊としている。これは 如何なる事情か結論は得られていない。

天台宗等の密教系の古い寺院が中世後期に、進行の曹洞宗に鞍替例が多い、しかし、國分寺は改宗する事なかった。政宗公は素木造りの伝統性が高い意匠で薬師堂を再興した。政宗公の権威だけでなく、國分寺薬師堂が中世の間に積み重ねてきた、記録に残らない宗教活動の集大成をも読みとるべきなのかも知れない。

以上が要旨です。是非 本文を読まれるをお勧めします。

瑞巌寺のご本尊は、聖観音菩薩です。瑞鳳寺は釈迦牟尼佛で、文殊と普賢の2菩薩が脇佛です。
之まで、古刹をお詣りした際、御本尊はなにかを教えられて、ハイと素直に聞いていました。
なぜ 臨済宗妙心寺派で 御本尊が統一されていないのか ささやかに疑問を生じました。

瑞鳳殿で宗派を問われる方々は、その先 なにを考え問われたのか。以上の様な背景を知って、知識があって問われたのでしょうか。今度、陸奥國分寺をガイドする際、キッチリとガイドします。



10 月 6 日 (火)  



陣羽織  瑞鳳殿でのボランティアガイドの際に着用し、お客様からガイド内容に信頼を頂いております。ガイド15人に10着しかなく、争奪戦になることも有り、(財)瑞鳳殿では、更に追加をつくりました。

瑞鳳殿本殿を開戸し、政宗公御木像 直々の面前で、貸与式がありました。
(財)常務理事からご挨拶
「ガイドは真面目と好評です。全員分用意しました。今後とも誠心誠意奮励していただきたい」。
続いて、貸与を受けていなかったボラガイド各人に親授しました。
Eさんを先頭に全員で、決意を込めて合掌拝礼しました。
最後に、関係者一同 記念写真を撮影しました。

本日参加ボラガイド10人をして、(財)瑞鳳殿2階応接室を借用し勉強会を開催しました。
冒頭、瑞鳳殿ガイドの会会長Eさんから、次項が提起されました。
1.瑞鳳殿の魅力について何を主眼に説明するか。各自信条をもって欲しい。
2.涅槃門は工事中である。なにを説明するか。
3.戊辰の役弔魂碑の位置に何が在ったか。その関係は。
4.涅槃門からの奉納燈篭の位置変更を了知されているか。時間経過を圧縮していないか。
5.政宗公像を小説の脚色されたものをガイドしていないか。
6.「霊屋」と「墓」は本来異なる。
7.陣羽織を着用して効果的に説明しているか。
8.本殿前ての説明は 後続のお客様に配慮しているか。

此の後の意見交換で、
1.本殿前で お客様に拝礼を促すのは、日本国憲法に反する 憲法違反でないか。
  これについて、
  ○お詣りする、しないは自由であって それ以上の強要はしていない。
  ○拝礼の仕方も自由であって、仏式、神式、その他 好きな仕方でして貰っている。
  あかとんぼ は
  写真撮影した人には、特に 「ここに眠って居られます。肖像権があると政宗公に云われる前に お礼の気持ちを込めてドーモと軽く挨拶されると」とニッコリ話すます。大方は納得されます。
  ロシアから欧米系の 明らかに佛教徒でない人々は、偉大な先人と理解し ほぼ全員 拝礼、合掌されます。その反面 日本人は戦後教育の欠陥なのかどうか、拝礼しない人が結構いる。
  私は、本殿前ガイドの際は、脱帽しています。  (ヘッー)の声有り。

2.関西からの参拝者に、京都の社寺仏閣に比較し、造作が粗末と云われた。悔しい。
  これについて、
  ○1000年の歴史ある建造物と、30年前に、その当時の考え方で復元された建造物では全く基本が違う。現在の様に「完全復元」の思想があれば 又異なったでしょう。

3.政宗公と忠宗公の御木像、どちらが 社会的に価値あるか、それは、作者の経歴、社会的名声から判断されるべきである。
  ○ ハッ。  (お客様に説明する必要あるだろうか)


大変に勉強されている方おり、心強く感じました。で、感仙殿と善應殿の現在の扁額 点刻方式で、瑞鳳殿とは彫方が異なりますが、どなたの書をどなたが彫刻されたか ご教示頂きたいとお願いしました。
本ホームページの該当頁(扁額)をご覧頂きたいのです。不明て、行き当たらないのです。



10 月 4 日 (日)  



なぜ、一般的にはお墓である「御霊屋・瑞鳳殿」に手水鉢・手水所があるのか、神社でないのに、不思議と申す方います。その議論はさて置いて、過半数の方が手を洗い、口を漱ぎます。勇気ある人達と驚嘆して見ています。至る所の施設の入り口にアルコール消毒薬が設置されているご時世に、不特定多数の方が洗浄もしない手杓を口にされています。

この水槽に、お金・硬貨を投ずる方がいます。その意味は何でしょう。お賽銭ですか。水道料ですか。1円玉、5円玉、10円玉しか入っていませんでした。之では水道料でしょうネ。お賽銭なら 頼み事でしょうから100円玉か500円硬貨でしょうネ。

朝40分、ガイドを求める方がいません、断られたので、写真撮りをしていました。Sさんが見えたら ご依頼が続々。仙台四郎、福の神です。仙台四郎については、何れ解説します。

今日は2団体、1グループでした。
東京の団体、幹事がガイド付けましたと連呼しているのに、「○○と煙」の諺。大半が先行登段しました。昨晩の宴会が目的、今日の参拝は時間つぶし の感じの団体でした。
ビニールカバーに入って何も見えない 詰まらない とベンチで大きい声でボヤいている方おりました。だから ファイルをつくりガイドしているのに、ガイドを聞いてくださいヨ。

札幌の団体。白石区の方も居り、熱心に聞き、撮影もします。本殿前で集合写真も、幹事さんは あかとんぼ の背中とペアも撮影しました。この乗車したバス会社は、地元の会社ですが ガイド嬢 新人なのか 私を見て ホッした表情でお願いします。そしてガイド中 バッチリとメモっていました。最後に「大変勉強になりました」と挨拶されました。礼儀正しいのには感心しますが。サテサテ 車中、各地をどんなガイドしているのか人ごとながら心配になりました。

仙台・宮城[伊達な旅]キャンペーンの協賛で 瑞鳳殿のライトアップが始まりました。昨晩が初日、ループルバスも運行され、当事者発表によれば予想以上の乗客との事。結構です。

昨日、白石で2代片倉小十郎重長(1584-1659)の武勇を讃える「鬼小十郎祭」が催され、全国各地から「歴女」が多数参集、早い人は 昨晩のライトアップに、今朝も早くから 「白石城」の袋を下げた 一見「歴女」が見えました。朝一番の「歴女」には、ガイド不要と断られました。2番手は「頼む」。快活なお嬢さんです。白石では楽しかった。「兜の金の月形 金具で止めるに難儀していた」「オジサンの羽織と同じ模様の羽織を着た侍がいた。今仙台で流行なの?」 等を申してデジカメ画像を見せてくれました。BASARA風にアレンジしたものでした。又 オジサンは背中モデルになりました。

春に続いて 今回もハトバスで東京から見えたそうで、お客様が「歴女」故か、運転手は女性で15時駐車場でフロントガラスを洗浄していました。でも、白石から仙臺までで 虫に汚されるとは?「歴女」故、虫がついたのか。???

発言者不詳。松島・瑞巌寺と寶華殿をお詣りしてきましたと洩らされた方に、03年に撮影した寶華殿の写真を披露しました。トタン「あれー スピン。今のはキャバクラだー」 強烈なご発言。あかとんぼ 紅燈の巷を卒業しましたので不確かですが、的を得た批評と聞きました。9月28日勉強会に参加された仲間の皆様 如何ですか。


午後、東北大学の階段教室を会場にした 「宮城マスター1級」を受検しました。書取は山が当たりましたが、知ってはいるけど 名前が出て来ない 糞詰まりが何問かあり。来年再受験の資格を取得したようです。
仲間のUさんも 多賀城史跡ガイドのSさんも受検していました。噂では合格率2%とか。今年の受験生165人、3人しか合格しない事になる。ハテハテ、Uさん Sさん あかとんぼ とはならないな。



10 月 3 日 (土)  



新聞を読んで

新聞は最高の教材です。

毎週水曜日の「せんたい歴史の窓」は早起きして読んでいます。9月30日は、寛政8(1796)年伊達家(松平陸奥守家)は大きな危機に襲われた。その対応の後ろ盾になったのは、幕府若年寄堀田正敦。この方は7代重村公の末弟。外様から譜代に養子に入り、幕府の中枢に42年間在席した。三段論法指揮表現をすれば、政宗公の夢 天下をとるが 末代に至り その血が日本の政治を司ったになります。

堀田正敦については、登米伊達家の末裔伊達宗弘氏(前宮城県立図書館長)も高い評価を示し、紹介していました。

博物館の菅野さんの論文をヒントに、上記を夢想しながら 伊達家の大危機について、仙台市史・近世3(藩政の推移)を読み返しています。

10月3日の県内版に、登米市東和町米川綱木地区で9月20日大名行列が催されたと報じています。2週間前の出来事を昨日の出来事如く掲載するマスコミの神経の太さに驚きます。いま一つ、驚きというか、理解できないのは、この祭は1564(永禄7)年に始まったとあります。1564(永禄7)年とは、織田信長の桶狭間の戦いから4年後、いまだ戦国時代です。東和町付近の歴史 取りあえず「宮城県の歴史、高橋富雄著」を開きましたが、半行も記載されていません。何れ 東和町史を紐解かないことには、判然としません。当時の当地の統治者はどなた調べますが、その当時から445年続いた行事であれば、今少々 有名と思います。年中行事の頁にも記載ありません。

街道に興味を持つ仲間のMさんは「私の邑の○○、伝統行事で古い事は古いですが、由来は不明です。有力者が古い方が箔がつく と称して 裏付けなく800年来と語れと指示した。それ以来、パンフを作るようになったら800年来と記載されている。兎角、伝統行事の由来は眉唾が多い」と語っていました。「嘘800」と云う諺があります。800年はこの諺に由来しているのでしょうか。人心を惑わすものです。困ったものです。新聞は裏付け調査して記事を書いたのでしょうね。何れ 東和町史を紐解きます。

最後。
作家の森まゆみ さんが祖先墳墓の地 丸森での交流を、「丸森いったりきたり」と題しての随筆を毎土曜日に掲載しています。アッとする意外な事を教えてくれます。

本日の随筆に、少々以前、邑の寄り合い等で「ご一統様」「さようでござりす」の言葉が使われいた。昔は1年間は365日では無かった。旧暦では1年は354日で、閏年は387日で33日多かった。昔は録は年単位。33日も多かった閏年は支出を抑えるため諸事倹約し大きい行事、例えば法事を延ばした。

仙臺候に、家臣である丸森の殿様佐々候等が、江戸にお供する場合、集結場所が決まっていて、そこまでの諸費用は自己負担で、「中嶋伊勢、只今到着」と申告すれば、そこからの飲食・宿泊が仙臺候負担となる。

これらを、古老から教えられたと、サラリと書かれています。

閏年、閏月があったは知っていました。でも年間で33日も多くなるは、意識の外。
殿様と随行家臣の経費負担区分も知っていたようで知らなかった。

斯様 まことに新聞は、ボラガイドの私には 最高の情報源です。





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