2009年11月の日誌
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11 月 30 日 (月)  



温かいです。

仙台市と観光コンペ協会の共催で、(財)瑞鳳殿の全面的協力で 「仙台街中ガイド」参加者を対象とした研修会が開催されました。
瑞鳳殿を舞台に我々が ガイド役を演じ ガイドのあり方を研究するものでした。E代表が活動10年の実績を集大成した18頁の資料を配付し、Uさんと2人で2時間。普段の生涯学習バ−ジョンに、研修バージョンを加え、境内施設全部を紹介しました。


参加者総員30余人です。伊達家関連施設でガイドしている人もいます。なにか 建設的な質問があるかと期待したのでしたが。
あかとんぼ にあった質問は、@34世18代伊達家御当主の住所・電話番号は。Aあかとんぼの出自は。の2点でした。@は知っていても答えられない個人情報です。本当に知りませんので と回答しました。 Aはガイド内容と無関係な個人の覗き趣味と理解し無視しました。

研修であるのに、講師の話方、内容は理解できたか、改善すべき点はどこか等のアンケート調査がありませんでした。父祖400年伊達家の領民であった二言目に発言される人も参加していました。是非 感想を聞かせて頂きたかったです。
市と協会には、機会を捉え調査し、教えて頂きたいとお願いしました。

全て終了後、(財)瑞鳳殿常務理事からねぎらいの言葉を頂き、「瑞鳳殿参拝者に満足して頂くには」のテーマで管理者とガイドの立場 それぞれの立場での夢の交換をしました。



11 月 29 日 (日)  



最低気温3度の予報。本当かなと冬・防寒装備で。その割に温かくないのは、やはり寒気厳しい事でしょうか。

会社の社員旅行、同級会と思われる10人から20人のご婦人の団体が連続しました。
復元された政宗公の尊顔を示しながら、この方々は40〜50年前 紅顔可憐であったろうな、お肌の衰えはあっても知的に輝いて同級会を企画実行しているは 人生の成功者でしょうね とフッと思いました。

券売所で「財布を車に置いて来たので、駐車券に確認印下さい」と交渉している方おりました。券売所のおねいさん 素直にハンコを押したようです。 ヒョットして バスで「細かいお金の持ち合わせなくて」 「次ぎに乗車する際 今回分も払っていください」と云う運転手がたまにいます。この手 拝観料無料を計画して、素直なオネイサンに敗れたのではと 眺めました。



11 月 28 日 (土)  



仙臺藩志会主催「伊達学おこし塾」が開催されました。「経ケ峯 伊達家霊廟について」の演題で、(財)瑞鳳殿学芸員のK氏です。

「霊廟とは」に始まり、古代中国では先祖を祀る場所で墓は別に、日本では、特定の人物を祀る建物を指し、神式と佛式がある。霊廟は一般的に徳川将軍家の廟に限って用いられた等。

経ケ峯、大年寺の伊達家の、亘理伊達家の、二本松・丹羽家の、米澤・上杉家等の墓所の写真を掲示し その特徴を語られました。

司会から質問はと、促され、誰も居ませんでした。之では講師に失礼と思い、拙い質問をしました。

1.最近 歴女と自称する人々は、治家記録等の資料を精読し、松島を経由し、瑞鳳殿に見えて、こんな質問をします。〔愛姫は陽徳院の裏山に埋葬したとあり、五郎八姫は天麟院の裏山に埋葬したとあるが、埋葬した場所に御霊屋「寶華殿」 「定照殿」を創建したと 明確に記載されている資料に行当たらない。果たして 何処に埋葬されているか。〕

政宗公以来、三代は御霊屋イコール墓所です。4代夫人仙姫は萬壽寺・瀞寂殿に埋葬されていた事は、1961年の改葬の際に確認されています。となると愛姫は寶華殿、五郎八姫は定照殿の真下に葬られていると理解して宜しいでしょうか。

本日はガイド仲間のU NK S O O2 の諸氏が参加していました。明日からのガイドに熱を帯びると思います。 



11 月 26 日 (木)  



江戸城を訪れました。
正確には、吹上御苑の一部、桔梗門から坂下門前、宮殿前、正門鉄橋(二重橋)を渡り、往復、桔梗門に帰る、約1時間の一般参観コースです。

あかとんぼ は誤解していました。江戸城本丸の主が明治維新で替わったと理解していましたが。江戸城の本丸・二の丸は、現在の皇居東御苑でした。自由に参観出来ます。

皇居は許可制です。氏名、生年月日、年齢、住所は事前に届けてあります。が、個々に免許証との本人確認はありませんでした。入城直前に 案内人から 「あなた達の団体は〔大黒天奉賛会〕です。くれぐれも間違いないように」と注意されました。これは 何でしょう。申請代理店があり、その名称でしょうか。

案内の皇宮警察の係官は「本日は500人です。4列縦隊、撮影は自由ですが、立ち止まらないで 粛々と歩を進めてください」 立ち止まらないで撮影は困難です。立ち止まり、4列縦隊が崩れると皇宮警察の係官から注意されます。大型電気メガホンで、外国人にはボイスレコでのガイドです。一人で500人にガイド、内心の感想は如何でしょうか。

粛々と善良な日本人と外国人は参観を終わりました。「これで本日の参観は終わりです。売店の営業は終わりました。トイレは 桔梗門を出てからです」 パンフは(財)菊葉文化協会の発行です。宮内庁ではありません。

追加
 売店は10分程度の営業です。売上増進は論外らしく、ノンビリとレジ打ち・包装をしています。職員はお公家様の末裔でしょうか。冊子1冊を漸うに求め得ました。レシートには宮内庁生活協同組合 と記載され桐紋がありました。

クッキーやチョコレートが500円から1000円です。製造元は老舗の名前になっています。売れているのは、菊紋の500円の菓子です。ご近所に配りやすい単価でしょうか。3 5個と求めています。

さて、菊紋ですが 16弁の単葉です。皇室は16弁の複葉と習っています。皇居内で販売するからには、本物風であればヨイ、一般人民は 目くじらを立てない、知らないだろう の発想ではないと思いますが。
なぜ 伊達家の家紋と同じ花弁枚数のデザインなのか。



11 月 25 日 (水)  



浅草・浅草寺を参拝しました。本堂は大修理中で鞘堂に覆われた感じです。大収穫は本堂天井の飛天女の2画 撮影に成功した事です。足の描き方 瑞鳳殿等 伊達家史跡と異なります。比較するのが 楽しみです。

日光でも 浅草でも 外国から観光客が沢山います。生活習慣の違い 事前教育不十分なのか。連れがトイレに入った途端 「駄目 とっても」と出で来ました。尻を拭いた便所紙が山盛りになり、悪臭を発していたそうです。「塵も積もれば山となる」
瑞鳳殿のトイレでは、このような事は まだ聞いていません。瑞鳳殿も亜細亜系外国人の参拝が増えて来ています。何れ この様な事が起こるのでしょうか。

日本は観光に出掛ける国から、観光客を受け入れる国に既に転換していると説く 自称知識人がいます。そうなるとこの様な社会資本整備の格差がもたらした文化の違いによる摩擦が まだまだあると云うことでしょうか。



11 月 24 日 (火)  



日光・東照宮参拝に行ってきました。プロガイドの解説付きです。参拝・観光はガイドが付くと、一段と理解が深まり楽しいものになると、立場を変えて実感しました。
1.三猿 人の一生に拘わる教訓で 8画面で構成されている。
2.政宗公奉納鐵燈篭、反対側の青銅燈篭は島津家の奉納である。
3.本殿石の間は、寒い・冷たいから畳等を三層に敷いている。
以上を知りました。

プロガイドです。
1.仙台からと知り、政宗公を暫し引合いし、鐵燈篭も丁寧に説明しました。
2.遅からぬ、早からぬスピードで解説します。この間(マ)の取り方は参考になりました。

輪王寺も東照宮も、「神様・佛様の功徳を速やかに分かち与えてくれる」の話法には違和感を痛烈に感じました。

瑞鳳殿涅槃門には、白檀が用いられていたと伝わっています。さて、東照宮本殿石の間で、この白檀の香袋がお守りとして、僅か500円で頒布していました。来春 涅槃門の改修工事完了後に資料として使用する目的で、分けて頂きました。包装箱から袋を取り出すと3m四方に強烈に香ります。バスの車内で顰蹙を買いました。デフレの時代と申せ安すぎるは、合成品でしょうか。



11 月 23 日 (月)  



勤労感謝の日(祝日)、三連休の最終日です。開門前から参拝の方々、全国・世界各地からお出でになりました。

松前からのお嬢さん3人。「どちらから?」に 「ハイ 松前から」 松前の地名は現在もありますが、通常 北海道と答える所 松前と返って来たのに、驚くともに新鮮さを感じました。夕方の水戸黄門漫遊記も「松前に渡る」とあり、松前交易、凾館戦争・・・・・を思い起こした故です。

仙台からレンターカーを利用し、朝一番、仙台一番の観光名所として瑞鳳殿を訪れたそうです。予備知識 ゼロであったか 「伊達政宗公の御霊屋(おはか) 豪華絢爛な桃山様式の建造物です」 に一人 シマッタの表情が流れました。ガイドは要らないと涅槃門を潜っていきました。

大学生3人。昨日 瑞巌寺を参拝したが、博物館「青龍殿」の存在を知らずに見学しなかったそうです。入場料が高価だから安価な円通院を参拝したと答える方 いますが、高い入場料払って「青龍殿」を見学しないとは モッタイナイ話しです。

表示板の政宗公肖像画を見て、「これ両眼明いていますネ。この画を描く時は片目でなかったのですか」 別学性「義眼だよ」 マイッタ 「1600年代 日本で義眼の手術出来たでしょうか?」と返しました。

続いて、神奈川県川崎市の小6の男児、両親と一緒です。政宗公フアンとか、小6とは思えないほど知識があります。色々な小説等で汚染されている所ありましたが、本殿までのガイド30分 真剣勝負でした。先の大学生に、この小6の男児の「爪の垢」飲ませたい位。
何か疑問が出た等調べて欲しい時は、お爺さんのHPを見て、メールあれば 調べ返事しますと約束しました。

「拝殿の金具に「ハート」等があるがどんな意味があるのか」の質問が妙齢のお嬢さんからありました。「円通院でトランプの模様が全てあります」と説明されたでしょう。「ハイ」 「ハイ この拝殿は 創建当時の建物に忠実に復元していません、今風です。円通院の考えを取り入れたかどうかも わかりません」と答えました。妙齢のお嬢さんはハートが好きなのかな。

ループルバスに乗車する方々、超長蛇の列です。又 乗れないお客様 沢山ではないでしょうか。Yさん情報によれば、「昨日12時30分頃 予定時間より15分ほど遅れて来、乗れないお客様がいた。大橋から仙台城址の区間の渋滞が激しいので路線変更して、変更した路線も渋滞がひどく仙台城址まで30分ほど要した。普通10分もかからないでしょうに。定禅寺通りまで2時間余りかかりました」とありました。これでは、観光のお客様 日程が狂い 大変な迷惑をしたのではないでしょうか。バスの車両が不足し 路線バスの車両を投入している理由も理解しました。

ガイド仲間のOさんから フラダンスの踊り方 ご教示頂きました。腰から上は動かさない。ハーと聞いていたら 生け垣に吊した水筒持ち帰りを忘れました。来週まで待っていてスイトウさん。




11 月 22 日 (日)  



朝 あかとんぼ の巣周辺では 氷が張りました。初氷です。峠の閉鎖も始まりました。冬も間近です。
瑞鳳殿の紅葉 京都に負けない見事でしたが今年は 期待通りに紅葉しません。マイッタ。

11月の3連休中日で、参拝者の出足は 快調で、ループルバスは 例によって車両が不足し 一般営業車を投入しています。バス事業管理者としては 悩める事でしょう。

お嬢さん3人、「オジサン 裏山えの道 真ん中に階段あるのは何ですか」 「あの道は、感仙殿等 再建工事の際に作業等の車を通すため 傾斜を付けた名残です。あちらの石畳は時代的に新しいものです」 「先週来て不思議思ったもので」 「ご案内しましょうか」 「いや わかりますから。先週も来ました。今週も来ました」
 なんかテレビCM的発言です。2週連続しても 眺めただけでは 瑞鳳殿の美しさ 良さはご理解できないと 思います。日曜日のガイドは無料です。途中打ち切り勝手です。活用すべきです。

大阪からのご夫妻。分厚いガイドブックを持参、瑞鳳寺を参拝され、疲れたか「ガイド頼みます。ガイドブックは邪魔」との事。旅行前の事前調査には役に立ちますが、ガイドブックをチエックしながらの観光は 疲れます。本殿撮影中に置き忘れする所でした。

「書を嗜みますか」に ご婦人「いささか」 「涅槃門前の敷石 雄勝石です。宮城県特産品 雄勝石硯 の原石です。水に濡れると綺麗です」 「なるほど 端渓とか・・・・は存じていますが。漢字で如何に書きますか。どこで現物 見られますか」 「仙台駅3階物産コナーに以前はありましたが 申し訳ありません 昨今は確認していません」確認していないことを話するはマズイ 早々に確認しなくては 拝殿・本殿の扁額の説明 気が入りました。書を嗜む人は 文字を楽しんでくれます。

静岡からのご夫妻にお嬢さん2人の一行。ガイド始めたら 何か詳しい様子です「歴女ですか?」 「ハイ」 歴女と自称されましたが 理学系の研究職かなと 推測しました。扁額の説明の際 「宝石が使われています。さて 何でしょう」と常の調子で問ましたら「パピプペ パピプペポ」とカタカナで返ってきました。所謂 学名です。いろいろと列挙します。珊瑚と真珠を日・米・韓の3ケ国語を知ったばかりの お爺さん 目が白黒になりました。 一緒のお姉さん 「○○ 専門用語駄目ヨ」と止めに入った経過がありました。
お母さんも、身長・血液型まで 既に了知されていました。どうも一家歴女らしいです。

三世代の団体。所謂 団長のお爺さま 手洗鉢で「おじいさん お金入っているよ、どうして?」 「それはネ ローマの泉と同じで 願い事が叶うようにと・・・・」 孫はローマに旅行しているのかな。 涅槃門の工事カバーを見て 「涅槃門 ネタローの門ネ 三年寝太郎ー・・・」  面白いと云えば 面白い テレビCM的発言で、ユニークなお爺さんですが、幼年期の孫 三つ子の魂百までと申します もっと真面目に 説明すべきではないでしょうか。

現在、工事中の涅槃門、工事現場で工事責任者・職人からの説明して頂ける勉強会、12月16日(水)13時からのご案内を(財)瑞鳳殿から頂きました。今後のガイドに誠に有効なものです。有難い企画です。万難を排して出席します。楽しみです。

本日は、E・Y・Sさんと一緒になり、Eさんからご教示を受け、フムフムと車中の人なり、評定河原橋を渡った時点で、「水筒を生垣に下げたまま」とハッと気づき、急遽片平丁からUタンしました。Uさんは腰巾着の如く下げています。これなら忘れ物しないでしょう。検討の余地ありです。



11 月 19 日 (木)  



伊達領 龍ケ崎 訪問記                     

龍ケ崎と聞いて、何を連想するでしょうか。
 歴史に興味のある、特に伊達家の歴史、62万石に拘る人はピンと来ますが、大方の人はその所在すら知らないでしょう。伊達62万石の内、1万石の領地が、現在の茨城県龍ケ崎市と周辺の地でした。
1606(慶長11)年3月3日、政宗公は幕府から常陸國河内郡龍ケ崎村で1,238石249 龍ケ崎村以外の河内郡12ケ村で、3,473石325 信太郡13ケ村で5,344石97の合計10,056石544が飛び地として与えられ、その総称が仙臺藩常陸國龍ケ崎領でした。

龍ケ崎村には、龍ケ崎奉行が代官を派遣し、陣屋を設け領内の行政、徴税、治安等の任に当たっていました。
2006(平成18)年は、政宗公に与えられてから400年目に当たります。(財)龍ケ崎市文化振興事業団は、仙台市、大和町宮床等に協力を求め、龍ケ崎市歴史民族資料館にて「仙台藩常陸國龍ケ崎領四百年記念」特別展示を、9月22日から10月22日迄開催し、部厚い「展示図録」を発行しました。

瑞鳳殿でガイドしているからには、伊達家について十分な知識を持つべきであり、「百分は一見に如かず」の言葉があります。実見したい 訪れたいと思いながら、自動車道で片道5時間の距離、地理不案内の者が史跡を探し歩く事は非効率でありますことから、躊躇していました所、仙臺藩志会では龍ケ崎市訪問を企画しました。早速に参加申込をしました。

10月16日次の個所を訪れました。
01.龍ケ崎市歴史民族資料館
02.愛宕神社 1641(寛永18)年8月忠宗公によって勧請
03.般若苑・金剛山観佛寺 1628(寛永5)年2月、伊達家の御位牌寺となり、3石の供養料
04.龍ヶ崎陣屋跡
05.龍ヶ崎城址・鹿島神社 天正年間(1573年頃)勘請、1813(文化10)年伊達家からの下付で修復
06.龍峰山大統寺 伊達家の菩提を弔う寺として3石の供養料
07.八坂神社 現社殿は1716(享保元)年に旧領主末裔、旗本土岐朝治が再建
08.懇親会 龍ヶ崎市長、龍ヶ崎市文化振興事業団理事長等 市幹部
   市長挨拶要旨「「伊達領以前からの文化を大切にしています。わざわざ龍の文字、難しい文字を使用しています。小学生にその思いを直接伝えるべく、順次、教室で懇談をしております。この思いから 62分の1の龍ヶ崎市ですが、仙臺との交流を深めて行きたいと思っています。ついては、仙臺七夕の飾を頂けるように関係機関に伝えて頂きたい」

10月17日次の個所を訪れました。
01.水戸 彰考館徳川博物館  館長14代当主水戸 徳川圀齊氏が当初案内予定、急遽中止
   最大の成果は、「(財)水府明徳会 水戸コ川家墓所 常陸太田市内遺跡調査報告書」を購入出来たことです。水戸徳川家の当主・夫人をはじめとする御一族の墓所の総合調査の結果です。


尚 「龍ケ崎」なる地名の由来は、古代の龍ケ崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことが暫しありました。川の水は巻き上げて天に届く龍巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍の立つ崎」龍ケ崎となった。1959(昭和34)年編纂の「龍ケ崎市史」の説です。葦原から都市に変貌を遂げても地形そのものに変化は無く、今日でも竜巻に襲われ、地名の由来の正当性を思い起こさせます。

訪問記 要旨です。



11 月 18 日 (水)  



 メールを頂きました。ご子息が 花園での第89回全国高校ラクビー大会に 出場決まったの知らせです。
早速検索しました。仙台育英高校22-15仙台三高校に勝。その記事とご子息の奮戦の写真が掲載されていました。正直 ラクビーは弱いですが 年末年始 声援を送らなくては。

ご両親は、09年07月20日の日誌に記載しました、わざわざ北九州市から写真を持参されたご夫妻です。

日誌を再掲します。
本殿前でガイド終わったトタン「あかとんぼ(本名)さん お元気で。お陰様で息子2年生になり 元気に部活しています」と絶世の美人から声をかけられ ツーショト写真を渡されました。驚き ビックリです。
本殿も奥様も 輝いて写って居ます。HPに載せたいくらいです。ご主人から名刺を頂き、息子さんの名前お聞きしました。新聞で 活躍を確認・応援します。
モデルには度々なりますが、名前を忘れずに ご持参頂いたのは 初めてです。北九州市からの再来を約してくれました。「超カンゲキ」です。毎日曜日 欠かさずに ガイドしている継続の成果です。



11 月 17 日 (火)  



昨日は懐と背が寒かったが、降雨がありませんでした。今日は氷雨です。

巣籠もりして 昨日の資料と地図を広げ、復習しています。視察個所は次のとおりです。資料希望の方取次ぎします。一報してください

01.時宗・真福寺  若林区土樋1-11-16 022-223-2931
02.愛宕橋
03.誓願寺渡跡
04.阿部次郎旧宅跡 若林区土樋244
05.福島美術館    若林区土樋288-2 022-266-1536
06.愛宕堰「七郷堀・六郷堀」
07.駄菓子 石橋屋 若林区舟丁63 022-222-5415
08.南材木町・奥州街道跡
09.丁銀根跡 町関所 若林区河原町 プラザ河原町 付近 
10.五軒茶屋跡     若林区河原町 ライオンズ広瀬川公園 付近
11.桃源院・叢塚    若林区河原町2-14-10 022-225-1576
12.旅立稲荷神社 若林区河原町2-1-3
13.廣瀬橋
14.橋姫明神      太白区長町 廣瀬橋 たもと 
15.常蔵院観音堂   太白区長町1-7-34

00.中山観音 は 泉区実沢に所在しています。廣瀬橋の城下側袂 河原町から 直線距離にして10kmあります観音様が 直視で拝めたのです。中山観音の足下に巣籠もりしている あかとんぼ には感激でした。



11 月 16 日 (月)  



ガイド仲間の現地勉強会。降雨が通例ですが、今日降りませんでした。どうしてでしょう。只 寒かった。

廣瀬川河畔を辿る の標題です。 愛宕橋から廣瀬橋迄 この間の奥州街道・堀・寺・史跡を Uさんが講師となり散策しました。
あかとんぼ は城下の北は比較的馴染みがありますが 南は疎いです。再確認・再認識するもの数あり有意義でした。
Uさんは 現職時代 保険調査員ではなかったかと想像させる、行き届いた資料を作ります。それ故か質問はありませんでした。Uさんの努力に敬意を表します。

八十翁のAさん 終盤 列の後尾につくようになりました。飴を上げました。忽ち 元気回復し解散地点まで無事到達しました。地下鉄を待つ間 飴の残りを放出しました。「生き返った」「餓えが凌げる」の大げさなご挨拶がありました。これは 人道的支援?と評価して頂ければ。



11 月 15 日 (日)  



瑞兆? 御霊屋橋を渡り瑞鳳殿に向かう前方。経ケ峯から立ち上り、仙臺城方向に虹が架かりました。瑞虹?

清掃・駐車担当一斉に「あかとんぼ さん 今ひと足早く お出でになれば。素晴らしいもの、絶対撮影したくなるものありました」の言葉。昨夜来の木枯らしで落ち葉が境内に敷き詰められ、その景観 見事であったらしいです。ブルーシート2枚山盛りの量であったとの解説でした。

9時から12時まで、切れ間無しのガイドで、一服する余地無しです。珍しいです。

「どちらから」  「桑名から」 「先日 桑名の殿様 松平様 仙臺に見えました」 「そんなこと無いだろう NHK歴史は動いた松平だろう!」 「イヤ 桑名松平17代当主松平定純(サダズミ)氏です。戊辰の役140周年記念シンポに仙臺・伊達家、米澤・上杉家、庄内・酒井家、越後長岡・牧野家、徳川宗家の各御当主が参列しました。会津・松平家のみ都合で欠席されました。桑名松平定敬は、会津・松平容保の弟です」  納得されたようです。

桑名松平17代当主は、東京都で生まれ、米国の学校を卒業され、外資系会社に勤務の経歴から、地元では馴染みが無いのかも知れません。

この方に、政宗公肖像画と「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」を披露した所 「それ どんな意味ですか?」の問。 「ウー 僕の現在の心境とピタリ」と ご令室に振り返っていました。
現役時代 国家・国民の為?働き、還暦・古希を健康で迎え、夫婦で漫遊に出た現在、ピタリの20文字でしょう。

こんな事 洩らしていました。松島で「みちのく伊達政宗歴史館」入館料高い でも、時間つぶしと 思い入ったら、これは面白い、良くできている。2時間費やして見た。 あれは 良かった と絶賛されました。

実は、あかとんぼ 11月2日に初めて入館見学しました。単なる蝋人形館と認識していました。後藤新平等の郷土が生んだ偉人の蝋人形がありました。しかし、政宗公の生涯は、蝋人形で紙芝居調の構成ながら、解説はキッチリしたものです。支倉常長コーナーも明確な資料で掲示されています。
折りを見て、再度訪れたいと思っています。そのように申したら お客様も 同好の士いたと肯いていました。

昨日、松島を訪れた方 それなりにお出でになり、瑞巌寺に入寺しながら 寶華殿を参拝しなかった人 いました。参拝した人の感想は「ピカピカ過ぎる」「ケバケバしい」でした。確かに そうです。古色蒼然とした社寺仏閣を見慣れた目には 異常に見えるでしょう。大崎八幡宮も 化粧直し完了直後には その様に云われましたが 最近は効いていません。時間が解決する問題です。

珍しく 五郎八姫の天麟院・定照殿を参拝されたと 話されたご婦人のお客様がいました。思わず聞き返しました。定照殿・三慧殿・寶華殿の順で参拝されたそうです。「イロハ姫をゴロハチ姫と 呼っでいた人いました」と小声で。ママあります。でも、この方 通と申すか 歴史を勉強している方です。 


朝一番、セット中にご依頼のお声。通例の「どちらから」 「横浜から」 次です問題は  「乗り物はなんで?」 「新幹線です」 ループルバス到着前の時間です。タクシーとの返事を期待しましたが。 「仙台駅から歩いて御霊屋橋を通ってきました」でした。

「仙臺城を目指しますか?」に 当然との返事。瑞鳳殿から評定河原橋、大橋、三の丸経由 本丸と歩けば、特に三の丸経由 本丸の道は政宗公が歩いた道です。仙臺の造り酒発祥の遺跡等楽しめるモノがあり、バスでの登城とは異なり、味わいがあります」とお勧めしました。キット 体験されたでしょう。本日 地図の手持ちがなく 着色差し上げられずに終わりました。不覚でした。

宇都宮からの6男性、拝殿の扁額の説明の際、一行に高齢者がいたので「長老はお幾つですか?76歳ですか?」「そうだ」  「そうですか お元気で何よりです。此の作者は数えの76歳の時の書です。78歳で亡くなり 東京・青山墓地で眠られてます」 下線部分は余分な発言と反省しました。


この方々、大谷石に関連あるのか、石段、墓室等の石材について反応がありました。しかし、彩色には反応はイマイチでした。また日光・東照宮には、お詣りしている様子がありませんでした。どうしても 地元より 遠くの神様 になるのでしょうか。ま それが観光でしょう。

「宮城・仙台 伊達な旅」キャンペーンで、今月もアンケート調査していました。なんか、お客様に頼み損ねています。余分な事と知りながら 「お客様 こちらでアンケートお願いしています」と声を掛けました。先日の会議の際、E代表から「余分な事をするな」と注意されたのを 思い出しました時 遅し。

先月のスタッフは、早々と終了し帰りました。今月は規定枚数のアンケートを集めれずに 昼休みをして 午後も頑張る様子。「ガイドさん 帰るんですかー」と淋しそうに云われましたが「余分な事をするな」と注意を思い出しました。もう駄目です。



11 月 13 日 (金)  



ガイド仲間のE代表から 招集がかかりました。
「JR東日本会社は、12月1日から27日まで、伊達な仙台浪漫号なる定期観光バスを運行する。ついては、瑞鳳殿と仙臺城址のガイドを我がグループに指名があった。各自奮励努力されたい」の訓辞がありました。

このコースには「ズンダ餅で御茶」「ササカマ工場見学」「牛タン定食」「ビール工場試飲」の美味しい味巡りがあります。この美味しい個所は出番が無く、夕闇せまる時刻からのガイドだけです。

午前から美味コースもガイドしたかったの声は上がりませんでした。皆様は食べ飽きているのでしょうか。

さて、本題です。コースとガイド内容検討に入りました。
瑞鳳殿から仙台城に移動するバスは、評定河原橋経由か、青葉通り経由か。青葉通り経由であれば 車中でなにを語るかとなり、「良覺院丁庭園と緑水庵」を語るか、イヤ、「蛎崎神社〔ゴトバカ〕」はどうかとなりました。

〔ゴトバカ〕とは、現在蛎崎〔カキザキ〕神社境内にある「伊達政宗公の愛馬に五島と称する駿馬がいて、政宗公が冬の陣に出陣する際に、五島は老馬であるので、留守を申しつけられた所、本丸を飛び出し崖から落ちて死んでしまった。政宗公はこれを哀れんで蛎崎神社の側に墓を建て、ねんごろに葬ったという。 神社はもと仙台城の崖下にあったものを、明治18年(1886)に現在地に移された」です。

以上は2002年3月仙台市教育委員会発行、片平・霊屋下・向山地区歴史と文化財ガイドボランティアの会編集 [仙臺 政宗公が夢に描いた理想郷 開府ゆかりの地をあるく] 記載のもので 上記の項は あかとんぼ が担当したものです。

会議参加者は博識多彩の方々ですから、沈黙 拝聴しました。
その中に「ゴトは 五島では無く、後藤という侍の名前で 馬と心中した侍の名前だ」がありました。初聴です。

帰宅調査した結果、そのような伝承があることを確認しました。
伊達軍団の猛将「後藤信康」が その侍で、大阪の陣 出陣したい旨 政宗公に直訴したが適わず、悔しさのあまり愛馬とともに自害したという伝承も残ると記載した図書を発見しました。
PHP研究所発行 伊達政宗 秀吉が舌を巻き、家康が恐れた独眼竜124頁記載

09年1月15日追記
仙臺大人名辞典によれば、「後藤信康(ノブヤス)は、通称 孫兵衛 後 肥前と改める。名将、会津桧原、佐沼の戦いで奮迅戦功を挙げた。慶長19(1614)年8月29日没 江刺郡三照邑源正寺に葬る」とあります。馬と心中したとは記録されていません。江刺郡三照邑は 現在の行政単位 市町村名までは未確認です。
(財)瑞鳳殿 資料室図書を W学芸員のご指導頂き確認しました。



11 月 8 日 (日)  



小春日和。温かい。参拝者続きます。

朝一番はご依頼ガイド。松島を8時30分に出発して9時15分到着予定です。早め30分前の8時45分に瑞鳳殿に到着し、陣羽織着用の身支度をしていたら、「本日よろしく」と確認の電話。階段を下り始めたら「只今到着しました」相役と駆け下りました。下車始めた所でした。

約束の20分前に、約束の場所にて待機をするを原則にしています。21分早く到着されました。松島を30分繰上げ出発されたそうです。松島から約1時間で到着した訳です。計画では45分。
松島から連絡を頂けば、少なくとも22分前に待機に着きました。お客様を数秒でも待たせる無様には至りませんでした。残念です。

10時の新幹線に乗車するのでガイドは45分間での注文。駐車場到着9時45分時間厳守しました。若い人々が多く、歩行に支障はありませんので、全ポイントをガイドしました。終わって、忙しかった1日分のエネルキーを消費した感じでした。


仙○バスのガイドの佐○嬢「あら 涅槃門 工事入ったのネ いつから、いつまででか」 「これから仙台城を案内します」 「午後 同じコースで廻ります。又来ます」 「ハイ お待ちしています」
○城バスでお友達になった若い人は卒業して、後続がありません。仙○バスのガイドは雛鳥の様なガイドさんです。将来が楽しみです。

身長から5歳児に見えます。拝殿の石段をドンドン登ります。跳ねて降りています。「5歳ですか?」 「2歳です」両親の体格は標準以上ですから当然か、子育てが上手かなと感心しました。

手水鉢の龍を指して 「龍」 「リュウ」と呼合っていたので 「御名前 龍に因みます?」に「龍徳です」 聞取れない・理解できないでいたら「龍の龍、徳川の徳です。私が付けました」と父親が教えてくれました。

徳はコ川家康のコですか 私の名前にもコがあります。 ここで漢字の分解が始まりました。結論として 徳 でした。「徳の漢字が2ケあるとは知りませんでした。人名漢字に依りました」とスラスラ教えてくれました。

改めて、戊辰の役140周年シンポのパンフ開きました。徳川宗家18代 徳川恒孝(ツネナノ)氏は コではありませんでした。コ に拘るのは あかとんぼ のみでしょうか。

紅葉か進んで来ました。相役のNさんにモデルを依頼しながら  数カ所撮影しました。表紙に採用なるのは どの場面でしょうか。



11 月 7 日 (土)  



神楽

瑞鳳殿は、神様の 佛様の 施設かと悩む人 単なるケバケバした建物と割切る人が居ます。
券売所から 「手水鉢」に直行し、禊ぎをしてからと申す方々、本殿前では、手を合わせ合掌しています。決して「2拝礼2拍手1拝礼」の神道の参拝形式をされません。では、禊ぎは何であったのか。不思議なります。 

さて、柏木市民センターで、城下で唯一残っている神楽についての講座がありました。昔は各神社にあったが、現在は、通町熊野神社のみとなり、その起源は1757(宝暦7)年6代吉村公の時代に始まったされています。
一人で舞える「種コ播き」を約8分程 披露してくれましたが、終わると息が上がっていました。77歳とか。さて 伝承されるかが心配なところです。

10月10日の青葉神社の秋の例祭で奉納されたそうです。知りませんでした。

冒頭の禊ぎは何であったか。昔は神仏混合で、確かに瑞巌寺の政宗公の御位牌の戒名は、神仏混合といえます。お寺でも神楽の奉納があったそうです。では、瑞鳳殿においても奉納があったのか。之までの図面、書物では 神楽殿の存在、奉納の事実に接していません。
瑞鳳殿は、神仏を越えた 御霊屋であったのでしょうか。




11 月 6 日 (金)  



ご依頼ガイド。
当初15時50分からのご依頼、本来なら10分後の16時に閉門です。果たして十分ご案内できるかと心配しながら、早めに巣を出ました。予想されたとおり 城下は渋滞しました。原田甲斐屋敷跡である裁判所正門前ではTVカメラの一団がレンズを向けています。善良な市民にレンズを向けるとは不届きな振る舞いと思いつつ通過しました。答えは、裁判員裁判、仙台初の判決があって、関係者に対する取材でした。

胸の携帯が鳴っています。運転中で取れません。駐車場で確認しました。到着が15時30分と早くなる、且つ、待機は山門前で無く、駐車場に変更したい。で了解。

珍しく バスガイドが乗車です。今朝 神奈川県厚木市を出発、ある業界の研修会で、取引先で研修し、仙臺城のみ見学、閉門前入場と急いで駆けつけたと申しておりました。全員 アルコール臭がし、半分の人々が「酒呑童子」「赤鬼」の様な紅顔です。アルコールが入るとどうしても 口の回転が良くなります。矢継ぎ早に 色々 質問等されます。到着1時間経過した故か、トイレに駆け込んだ故か、静かになってきました。

添乗員は冒頭「1時間の約束であるが、1時間半 2時間でも構わない ガイドをしてくれ」の言。16時30分を過ぎると 夜のとばりが降りてきます。視界不良となります。石段が心配で躊躇していました。添乗員の彼、以前、妙雲廟界の下々の墓石の何倍ある大きい墓石と苔蒸した状態に感動し、お客様に披露したいらしく、妙雲廟界を是非案内してくれとの言。彼 墓石が綺麗になった 雰囲気が損なわれた イメージが変わったととブツブツ。
「墓石の裏面に 経歴等が刻されています、読みやすくなりました」と 説明しましたら、数人が見るに行きました。

仙臺城はガイド無しで、何もない城の気分で見学されたのか、ガイド付かなければ 仙臺城の二の舞であった よかった・わかったの言が10指はありました。些か心配しましたがホッとしました。

今晩は、秋保・作並の温泉ではなく、市街 中心部のホテルに宿泊であるので、17時の到着では早すぎるところから、ガイドを2時間でも構わないの発想もあるようですが、懐中電灯持参でないと足元もおぼつきません。バス発車したら17時。有料地区は全て施錠されていました。駐車場に辿り着けるか一瞬の心配しながら事務所まで。最後の関門を開錠して貰い無事通過、 乗車帰巣しました。

お客様は、国分町の夜を楽しみ、地域経済の活性化に寄与してくれたでしょうか。明日は、松島・瑞巌寺参拝だそうです。



11 月 5 日 (木)  



残念。中村神社参拝。

「仙臺暖簾を守る会」結成15周年記念行事として、浜海道 相馬・中村神社を訪ねての企画に参加しました。

中村神社は、1643(寛永20)年相馬義胤によって創建されたもので、社殿は創建時以来のもので、ほぼ20年毎、都合9回修理を重ね、1989年平成の大修理し、屋根は創建当時のこけら葺きに改修されたものです。本殿・弊殿・拝殿は桃山様式で、国指定重要文化財です。

車中で、伊達氏と相馬市の確執について、仙臺郷土史の世界で第一人者の伊勢民夫先生から講義があり、且つ、桃山様式の国指定重要文化財である社殿を拝見出来ると 期待していた所でした。

「百尺観音」の参拝が終わり、いよいよ本命「中村神社」に向わんとした時、中止の知らせ。理由は、
@.相馬市内全小学校のマラソン大会で、駐車場が確保出来ない。
A.表参道からは、片道約1q近く有り、参加者は高齢者が多く、無理と判断される。
B.参拝を強行すれば、昼食開始が13時頃になる。午後の予定に支障を来す。

目玉商品が簡単にカットは〔計画が杜撰〕と云いたいが、抗議する立場でもなく 素直に諦めました。
ガイド勉強会「ぐるーぷ・よっこり」の会員も多数参加しており、「会の企画か、個人で、訪れないと駄目ね〔他人の褌で相撲は取れませんネ〕」と云われました。そのとおりです。そう思いました。


役員として、仙臺一流の店「蕎麦のさん竹」・「鰻の開盛庵」・「寿司の橘」の女将さんが同乗され、隣席から色々 面白い話しを聞かせて貰いました。

1.仙臺づけ丼 白身魚10種類以上使っており、各店工夫しており、好評で食比べしているお客様がいます。

2.土日の急な寒気、鍋焼き饂飩の注文が殺到し、饂飩、出し汁が足りなくなり、打つ、つくる を併行となった。食べ物商売は気候に敏感に反応すると知っていましたが 見事でした。

3.お店で、美味しく頂く秘訣は、調理場に近い席に座る事です。沸騰のプチプチ 40秒が勝負です。リフト使用の一番遠い席まで40-50秒を要します。鰻も同じです。

4.寿司、鰻、蕎麦 何でも 出されたら直ぐ食べるべきです。食べ物は生き物です。美味しく食べるには。何時までもお喋りして食べないお客さんには イライラします。

5.仙臺イコール牛タンと若い人が云うのは、一種のフアンションではありませんか。

又、自動車道の土日割引の効果か遠来からの人、外国人特に中国の人が、多いと感じられます。瑞鳳殿感じられると同じように感じていました。その他 色々語りました。

これからの旬の食材 牡蠣の料理を遠来のお客様に勧めましょうとアピールされました。

伊勢先生からも ご指導を頂き 瑞鳳殿でボラガイドをしていますと伝え、さん竹に牡蠣料理を食べに、ボラガイドのいる瑞鳳殿を参拝しましょう とお互いにクチコミしましょうと意見一致した所で、仙台商工会議所終点でした。



11 月 3 日 (火)  



寒いです。昨晩の例があります故、十分厚着で出掛けましたが寒かったです。手袋が欲しかったです。手が冷たい。頭 後頭部がシンシンと痛いです。原因は夏帽子で後頭部がメッシュです。寒気が凍みました。
昼 ガイドを切り上げ、事務所で熱い紅茶を馳走になりました。生き返った心境 温まりました。

なぜ、頑張ったか。中華民国台湾省台中市の李さん劉さんの一行5人が来るかと待っていたのです。昨晩19時 松島海岸駅に降り立った李さん一行と語らい、「明日午前 瑞鳳殿でボラガイドしています。待っています」と伝えましたので、Uさんと待つました。昼までには見えませんでした。松島を見学し午後に見えたか。

可愛い感じのペア、ガイドブック広げ 相談しています。「どうしました」に「no speaking Japanese。we Hong Kong」
納得。手持資料三ケ国語表示 拝殿扁額 を広げ見せました。肯いていました。新婚旅行で来仙したのでしょうか。瑞鳳殿の次ぎ、蔵王に廻れば 香港に無いもの「雪」がみられた筈ですが。そこまでガイド出来ませんでした。

山形からのお客様 「最上家の家紋は横三です」と申していました。最上家の横三の由来を訊ねましたが 教えてくれませんでした。やはり1189年に遡るのでしょうか。何れ確かめて見ます。

午後、仙台国際センターで開催された仙台学長会議(宮城県所在20大学で構成)主催、「地域の歴史を学び、地域の将来を展望する、特に北上川と貞山堀の利用をめぐって」の市民公開シンポジュウムに参加しました。

これぞ 真のシンポジュウムです。発表する各教授の内容は充実したものであり、参加者の発言も、それぞれ蓄積された思いのこもったものでした。仙臺藩志会員、瑞鳳殿ボラガイドの仲間 多数参加していました。

16時 瑞鳳殿に戻りました。山門前のタクシー 馴染みの無い顔でした。 あかとんぼ をこれからの参拝と勘違いし 「今日は暇なの 帰り利用して」とこえをかけて来ました。寒気のこの時間です。参拝者の人影は見えませんでした。ループルバスは終バスの時刻です。乗ってくれる人いればよいな と案じつつ マイカーで帰宅しました。

テレビは各地の降雪の模様を報じていました。



11 月 2 日 (月)  



「松島の政宗公遺跡と芭蕉翁もみた名月観賞紀行」に誘われ参加しました。

行程は12時40分松島海岸駅集合・出発で、@みちのく伊達政宗歴史館見学、A瑞巌寺・青龍殿(博物館)見学、B瑞巌寺参拝、C陽コ院・寶華殿参拝、D円通院・三慧殿参拝、E天麟院・定照殿参拝、F松島博物館見学、G観瀾亭見学、G観光船乗船、船上より名月観賞・夕食、18時30分下船・解散でした。

実際の行程と参拝・見学と排除された個所に就いての感想です。

A.天候は小雨で低温と申すより寒いです。現地ガイド 裏小路を時速6qで誘導先行します。後期高齢者で構成されている団体です。「早い」のクレームで時々立ち止まりますが、急ぎます。

B.みちのく伊達政宗歴史館の見学は、短時間ながら満足しました。納得する迄の見学は団体では駄目です。支倉常長を含めた政宗公コーナーは、ジックリ見る価値があります。栃木のお嬢さんが度々通い、展示を見ている内 現物確認に、遂にヴッチカンに飛んだと語っていましたが納得しました。出直しユックリ見学します。

館長は、松島のボラガイドの会の元締めで、竜ヶ崎陣屋視察の際、瑞鳳殿を主体とする 私らグループと松島のボラガイド会と 手を携えて進みましょうと、誓った仲です。

展示品の瑞鳳殿の全景写真、2000年の化粧直し以前の写真でした。(屋根阿吽の龍で判別)
Uさん「写真、いつ取り換えます」と聞いていました。Uさんは現役時代セールス日本一の成績を上げ、海外観光旅行に会社から無料招待された事あるそうで、ものの言い方が相手を傷付けないように、上手に云います。見習わなければと思います。

C.石巻街道跡と水主(かこ)屋敷一帯跡を通過しました。なぜ ここが石巻街道跡? 昔は瑞巌寺の山門前まで海岸線でした。現在の国道45号線の発想で見ての発想でした。昔々、水主屋敷の濡縁先で、参拝者に土産物を販売したとの伝承も併せて理解しました。
 
水主屋敷の区画は、140年前と変更ないとのガイドの説明。推測150-200坪単位の屋敷です。

D.コース変更。陽コ院・寶華殿参拝に。山門から臨済宗修行道場陽コ院を見て、「建物が新しいが、明治に廃寺になり最近再建したのか」と ぐるーぷ・よっこりの松島勉強会に参加した人がガイドに尋ねていました。ガイドは驚いて居ました。E代表は「勉強会では資料は配付しないと駄目、聞いていない」と申しましたが、この事例では 読んでもいません。勉強会は講師を務めると一番に習得するようです。講師の勉強会です。

寶華殿の前には、撮影禁止の札が至る所に貼って有り、修行僧が無線機を携帯し、立ち止まらないで、撮影しないでと 牽制していました。歴史ガイドの説明もソソクサに終わりました。

今回の化粧直しの工事費は1億円以上で大半が国・県等からの補助金とだ修行僧が語っていました。税金が投入しているわけです。国民の共有の財産です。宗教的尊厳が損なわれない外観まで撮影を禁止するのはなぜでしょう。尚、9月1日は規制されていませんでした。

10月23日記載「愛姫の側近は、小侍従の局。出自は、愛姫の父 田村清顕と側室の子 大槻上衛門の娘。叔母と姪の関係。瑞巌寺・陽コ院・寶華殿 左後方に所在する墓碑は この方?」 警備の修行僧に尋ねましたか、皆目わかりませんでした。戒名のメモに努めましたが 不正確にしか出来ませんでした。歴史ガイドも、関心の範囲外か はっきりしません。解明に時間を要します。

E.瑞巌寺庫裡・大書院を拝見。案内役の歴史ガイのガイドもありません。ワイワイ流れるだけです。

政宗公の御位牌、今日3回目にして直前で拝見しました。(拝観者減少) はっきりの戒名「瑞巌寺前黄門貞山禅利大居士神儀」が読めました。「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」と諸資料はなっています。アンダーライン部です。

歴史ガイドの先生に尋ねた所「神仏混合の時代であったから、尊称の全てが集結したものである」との事でした。
黄門は1626年8月に中納言に任じられているから素直に納得。瑞巌寺殿では無く、瑞巌寺となるのはなぜか。菩提寺に安置する位牌とそれ意外に安置する位牌とでは戒名が異なる事があるのか。理解できない。
尚、忠宗公は大慈院殿儀山崇仁大居士」が「大慈院前羽林儀山崇仁大居士神儀」となっていました。

「1918年に従二位が贈られているのが、戒名にどの様に反映されているか」と熱心に質問されている方が居りました。

F.瑞巌寺・青龍殿(博物館)見学は削除されました。主催団体が仙臺藩志会ですから、入館すれば「北条政子奉納、水晶舎利」が拝見出来ると期待していました。又、会員は政宗公、愛姫、五郎八姫の夫婦・娘の三像の拝観を期待していたと思います。現地実行の「おくの細道松島海道」の勉強・配慮・気配りが欠如しているのではとの思います。

G.円通院・三慧殿参拝。院のガイドが案内しました。観光客向け内容です。先般の勉強会の際、このガイドを活用し、併せて講師が調査資料の説明をすれば、質・量とも最高であったなと反省しました。

H.天麟院・定照殿参拝も、勉強会で説明した三聖堂、地蔵尊等の一切存在も説明なし 省略です。

I.松島博物館の見学は、時間がありませんと、仙臺城大広間の障壁画を屏風に仕立て直し、明治天皇行幸の際、供覧の榮を頂いた画を5分間見学。他の展示品を見ることなく退場。

J.観瀾亭見学、雨天の15時30分です。照明がありません、月の明かりで襖絵を楽しむ趣向らしいですが、肝心の襖絵が隠されています。暗黒です。雨戸等は外され 外気と一帯です。「御茶」を馳走とのことですが、せいぜい15人
が一回で接待できる限度(座敷・茶器の容量)に団体52人一般客20余人を 隙間無く入室させました。御茶を楽しむ雰囲気は皆無です。結果として暗闇の寒い座敷で1時間待機させられ、ソソクサと抹茶を啜ったでした。

政宗公が小田原参陣の際、秀吉に岩室に入れられた故事を体験させようとした 主催者の配慮でしょうか。
団体を御茶の接待出来る範囲に2か3かに分割し、待機の間 松島博物館の見学にあてるべきで、完全に設営ミスです。

K.船上から月も島々も何も見えなく、レストランで箱弁当を食べてると同じでした。

振り返って「松島の政宗公遺跡と芭蕉翁もみた名月観賞紀行」のタイトルは、あかとんぼ のハヤトチリでした。芭蕉が松島を訪れたのは旧暦の5月9日10日、太陽暦で6月25日26日です。11月の今月今夜の月ではありませんでした。
尾崎紅葉作「金色夜叉」寛一・お宮のセリフが思い起こしました。正に今月今夜の月 涙でなく雨(雪)で曇らされました。

政宗公が船上から、名月を観賞したか、その年月日はいつか は確認次第 記載します。
お楽しみ会と勉強会は目的がことなりますから、それは納得していましたが でも。



11 月 1 日 (日)  



効率の面で評価すれば 効率の悪い日でした。
9時から9時50分迄 ガイド依頼が無く待機していました。みなさま手水鉢に直行されまして、其の前に「ガイド居ます。無料です」の立看板も、その目線の先(日だまり)にて、待機している あかとんぼ の陣羽織が目に入らないらしいです。ご依頼がありません間 経ケ峯高峰の紅葉を撮影していました。

仙台市主催「街なかガイド」の当番日です。車中での早めの昼食は自家製カツサンド、紅葉の景観とマッチし實に美味也。仙台駅待合室に急ぎ13時10分迄 待機しましたが ご依頼は皆無ゼロ。ガイド団解散。15分発ループルバスに間に合い乗車したトタン 満員発車で、「15分後来ます」のアナウンスを残して途中2ケ所の停留所を通過。乗れなかった人 15分待っていたカモ知れない、すると計30分待ちになります。がそれも乗れる保障がない。
瑞鳳殿前停留所でほぼ全員が降りました。「現金の人のみ前で精算してください。カードの人は中央口から、チェック無しで下車し観光してください」のアナウンス。

次の便からの人々を待つましたが、意外にもチラリホラリ。満員通過と 1周1時巻のバスを1時間待っているアホらしさに、嫌気をさして乗らなかったのかな。

本日 記憶に残ったお客様
☆千葉からの三姉妹。谷崎文芸「細雪」の様な美女。昨晩は秋保温泉に宿泊されたとの事で、「部屋等から採石場の跡が見えませんでしたか。政宗公の墓室の石材は、秋保石ではと云われています」に 「アラー 知っていれば 仲居さんに聞いて見たのにー」でした。

☆名古屋からの青年夫妻。「伊達家には三代目の殿様 2人いるのか」のご質問。午前 円通院を参拝されて、忠宗公の長男であって、且つ、あれだけ豪華な御霊屋であれば、当然三代目に就かれたとの印象でお詣りされて、今瑞鳳殿のパンフを見ると三代目は綱宗公となっている。さては?
 「円通院は 光宗公を祀るお寺であって、政宗公と家康公と双方の血が流れており、徳川家・伊達家双方の期待の人であった。故に、父忠宗公が大変悲しまれ、豪華な御霊屋とお寺を創建されたのです」とガイドすると 「なるほど」と納得され、以後 夫婦でユックリ参拝するからガイドは不要ですと表示板前で断られました。ですので、本殿内の御木像、ご尊顔はお見せする余地ありませんでした。 

☆高盛年の2組のご夫妻。一組は、以前仙台に居ましたと。極楽の絵図から檀家寺が向山地区で、極楽図をお寺で拝見したことあります。又、ハイでの扁額の説明で「長持」になりましたら、「ガイドさん私に喋らせてくれ」と 「私らの結婚披露宴の際、邑の人が長持を背負い、私等新郎新婦が続いて 長持唄を唱いながら入場し、皆様から祝福されました」と 数十年前を思い起こして 連れのご夫妻に語っていました。

長持唄 、嫁入道具の長持を運んでいくときに唄ったもので、宮城と秋田とありますが、「蝶よナーヨー花よとヨーハーヤレヤレ 育てた娘 今日はナーヨー 他人のヨー オヤ手に渡すナーエー」が先に 後にくるかの違うようです。

★瑞巌寺が修理で公開していないと誤解され参拝されない方、それなりいました。「庫裡と寶華殿を公開しています。寶華殿は参拝される価値あります」に 知らなかった。残念と 見逃した皆様が申していました。

「街なかガイド」の待機中、同役の「三の丸会員(市博物館ボラガイド)」氏曰く「お客様から質問あれば学芸員に繋ぐだけ」 偉い気楽です。 協会職員曰く「瑞鳳殿に学芸員2人いるから 勉強しなくとも 教えてくれるでしょう」

あかとんぼ は 「石の上にも3年」の言葉ありますが9年になりました。それなりに万巻の書を紐解き、それなりに知識は蓄積しました。しかし、お客様から 之までの実績を越えた予想外の質問を頂く事があります。その場合、帰宅し資料を紐解き、図書館に走り、仲間に問います。そして Eメールで質問者に調べたことを知らせています。

調べ解決できなかった時、最後の救いの佛として、初めて 瑞鳳殿学芸員に伺いを立てます。卓越した知識と調査能力で ほぼ2日以内にご教示頂いております。

「勉強しなくとも」はありません。「勉強し、最後の救いの佛として頼りにしています」と答えました。





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