2010年1月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




1 月 31 日 (日)  



本日のガイドは3.5組でした。
1組目。臺湾の20代の男女7人程、ガイドブック「東北」を持参し、説明と現物と対照しながらの観光です。昨日は松島・瑞厳寺を参拝したそうです。仙台・台北間の便数は 山形の雪観光で増便なっているとの報があります。そのおこぼれでしょうか。好感の持てる一行でした。

2組目。埼玉のお嬢さん3人組でカメラ3台、最後にオジイサンも一緒の記念写真。

3組目。九州は別府からの青年男女3人組。車で自動車道を北上して来たらしいです。「昨日は片倉小十郎の白石を観光してきました。本日はここ瑞鳳殿を重点」と語っていました。
涅槃門傍の供養灯を指して「これ片倉小十郎重長が寄進したものです」の説明に、特段の反応がありません。どうも片倉小十郎景綱と混同している様子です。「有名な片倉小十郎は、政宗公より先きの元和元(1615)年10月14日享年59歳でに亡くなっています。寄進したのは2代目の小十郎で、寛永14(1637)年7月24日です。片倉家は代々小十郎○○と名乗りましたから、最後の2文字・名前に注意しないと」と補足ガイドしました。

0,5組は、中国の3人組です。英文パンフもガイドも要らないとの事、会話したのみで0,5です。

待機中、中央の山頂を目指しました。「経ケ峯」の地名の由来、経櫃を埋めたと云われるのは、最高地のこの場所ではないかとも云われています。ある方から「冬、草木が枯れたら 現地を確認して欲しい」と 注文されていました。杉の巨木群にあって2m四方の草むらが最高地点です。切り株があるのみ、石塔等は無く、一目しただけでは埋められているかの判断は出来ませんでした。急傾斜で落ち葉が堆積し非常に滑りやすい状態です。現地探訪はお勧めしません。

タクシー。常連が待機して、草笛を披露していました。心地よい音曲は森に響きましたが、誘われて乗車する人は皆無でした。

午後、講演「北目城」に。講師は仙台市文化財課埋蔵物発掘専門のK氏。会場は北目城跡に附近の八本松市民センター。1600年関ヶ原の戦いの際、政宗公が上杉家の白石城攻撃の拠点とした「北目城」の築城の由来、発掘調査結果をパワーポイント屈指しての講義。講師は20代でパソコンを縦横に使えます。資料も充実しておりパワーポイン使用で理解容易で 更なる学習意欲を増進させる講義で、春に現地確認したいと思いました。




1 月 29 日 (金)  



臥龍梅

昨28日 宇和島で梅が咲いたの連絡がありました。まだ1月です。
先日10-40?の積雪があったのに、雪が降る季節でも梅は咲く地です。驚いた!。

宇和島には、政宗公が朝鮮半島から持ち帰った梅(臥龍梅)の末裔が4本あります。
天赦園に1本、市役所前庭に2本、秀宗公墓所に1本。これらは いつ咲くのかな。
先日の講演会で、末裔の4本を紹介しましたから 訪宇された方 御対面をするでしょう。

持ち帰った梅(臥龍梅)は、若林城跡(宮城刑務所)に健在で、樹高8.6m 幹周1.3m 枝貼 東西17m 南北22m 花 白一色、大輪で 薫り高 く果実大と云われ、国天然記念物と市保存樹木にそれぞれ指定されています。

天赦園の1本は、瑞鳳殿拝殿前の1本と兄弟木であると天赦園の掲示にあります。天赦園では、実がなるのか確認しなかったが、瑞鳳殿では10年間で1回3粒 拾っただけ。少子化現象の梅です。なぜでしょう。過保護なのでしょうか。「櫻切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿」なる言葉あると ある知識人の言。正解でしょうか。



1 月 28 日 (木)  



秀宗公の宿舎

政宗公の葬儀が催された際、西の伊達家 長男の秀宗公と孫の宗時公が参列し、葬列の縁者の先頭が秀宗公、3番目が宗時公でした。東の伊達家 忠宗公は江戸に居て、仙臺城の城主は不在でした。政宗公の居所の若林城は「主」は不在です。

あかとんぼ が 仙臺藩志会の23日の「伊達学」で、この参列の事を伝えながら疑問に思ったのは、政宗公が亡くなった時、秀宗公親子は「江戸」又は「宇和島」の何れに居たのか。

葬儀参列は、国持挌の大名と、其の後継者の移動です。大名行列 即 軍団の移動です。当然 幕府の許可が必要です。許可手続きの日数は、何日を要したかです。現在郵便は宇和島・仙台間3日要しています。

仙臺迄の行程は、東の伊達家に習い、宿泊する本陣も東の伊達家の本陣を使用するでしょう。果て、標題の疑問です。仙臺城下では、何処に宿をしたかです。
政宗公は白石城に宿泊しています。片倉家の居城と云いながら 自分の城でもあり 当然の行為です。しかし、秀宗公は、別家です。仙臺城や若林城に 主が不在でもね入城・宿泊出来るかです。

25日ガイド仲間の勉強会で「城下絵図から」と題して、Eさんの講話があり、本陣に相当する「外人屋」が確認されたのは、1668(寛文8)年の絵図ですとありました。1636(慶長13)年に、果たして 名称は別として 本陣に相当する機能を持つ施設が存在したかです。

奥州街道を往復した 南部家・松前家は、仙臺周辺では、何処に宿泊したかの疑問が出て来ました。
参勤交代での往復の際、「城下での宿泊を避ける」と唱えた方がいました。果たしてそうでしょうか。伊達家は、福島、白河等で宿泊しています。

今年の宿題です。



1 月 27 日 (水)  



瑞鳳殿年報2008年を〔財〕瑞鳳殿から、ご恵送頂きました。
興味深い内容に
@観覧者満足度調査結果です。「満足」と「やや満足」の合計の主な理由の自由記載に、「ボランティアガイドの存在」が「政宗好き」「建築への賞賛」「資料館の内容」とともに載られています。
ガイド終わった時、「ガイドを聞いて、理解した。楽しかった」等のご挨拶を頂きます。お世辞でなく 満足された方が記入された訳です。
調査回答に、ガイドの存在は「邪魔だ、五月蠅い、不快」等の否定する記載が無かった様です。
以上から、ガイド活動は、08年は +と評価されたと理解します。

Aボランティア活動として「土・日・祝日、瑞鳳殿はじめ経ケ峯全域の説明をおこなっています。ガイドの氏名」を掲載して頂きました。

Bガイドの制服「陣羽織」を貸与して頂きました。

この温かい ご支援に感謝するとともに、お客様と(財)瑞鳳殿の期待に応えるよう今後も務めます。

尚、制服「陣羽織」は、「紫羅背板地五色水玉文様陣羽織」〔ムラサキラセイタジゴショクミズタマモンヨウジンバオリ」が正しい読み方でした。




1 月 24 日 (日)  



大寒にしては温かいです。

手水所でサラリーマン風の男性2人。清めながら「ここはナニ?神社?」と語り合っています。「ハイ ここはお墓です」と後方から 声をかけました。 失敗したの表情で ソソクサと本殿に駈けのぼって行きました。事前調査不足ですネ。

定位置で待機しています。「おはようございます」にお客様の反応は50%。反応あってもガイド依頼に結び付きません。涅槃門は工事再開しました。しかし、依然としてカバーの中です。シートに覆われた巨大な建造物 涅槃門 この前で 歩を止める人50% 立ち止まらず登段する人50%。

日本人の感覚では撮影ポイントにならない個所で撮影しています。「Korea ? China ?」 に「China 」。日本語バンフです。券売所から 英文パンフを貰い資料館迄 追いかけ渡しました。毟り取るように分け合って居ました。訪れたは良いが 訳がわからずにいたのでしょう。喜ばれて良かった。次回から10部位 手持ちしていた方が宜しいかなと思案しました。

資料館入り口で、「本殿前はガイドを聞いた。ほかをガイド出来ないか」と壮年の男性からの依頼。拝殿の扁額、涅槃門から弔魂碑、感仙殿と妙雲廟界とご案内しました。「名古屋から出張で来ました、ガイドをして貰うと ポイントを容易に把握出来る」と申し 喜ばれ タクシー乗り場に向かわれました。優秀な営業マンかな予想しました。時間と金の使い方上手です。



1 月 23 日 (土)  



 仙臺藩志会「伊達学塾」1月例会が戦災復興会館階段ホール開催され、75人の参加を頂き、演題は「西の伊達家 秀宗公の宇和島を訪ねて」と題して、80分間話致しました。
主な内容は、
◎なぜ宇和島を訪れたか。
◎宇和島の地勢は。
◎西の伊達家の領域は。
◎西の伊達家の成立。秀宗公とは、その一生は。
◎政宗公との確執は。
◎吉田伊達家の成立と歴史に残る出来事、その時。
◎歴代の殿様の履歴と東の伊達家との係わりは。
◎戊辰の役 前後の西の伊達家の動向。なぜ可能にしたか。
◎和霊神社。その由来と仙台の和霊神社
◎臥龍梅。。宇和島に何本在るか。
◎家紋、特に「竹に雀」紋の共通点・相違点。
◎恵まれた産物。温かい人情。

配布資料は、
☆宇和島伊達家系図・・・宇和島教育委員会作成
☆伊達秀宗公年表・・・・・あかとんぼ調製
☆宇和島伊達家墓所略図・・宇和島市文化財保護審議会作成
☆宇和島城下絵図・現代複合図・・宇和島教育委員会作成
☆伊達十万石宇和島 観光冊子・・・宇和島市商工観光課

あかとんぼ が撮影し厳選した 秀宗公墓所等の写真12枚を公開すべく準備しましたが、パソコンとの接続に失敗し公開に至りませんでした。残念でした。観光冊子でカバーに努めました。

お客様のお顔を見ながら、反応を確かめながら お話ししました。居眠りした人は一人も居ませんでした。反応を確かめた中に、臥龍梅 秀宗公墓所の前に植えられて居ます。植えたのは1987(昭和62)年10月23日、日専連仙台会歴史散策の旅の方々で、仙台市民墓参植樹と標柱が在ります。「健在です」と話すると ニコニコし俺が植えたのだ の表情でした。「只 手入れが十分とは?」と続けたら 「うーー」の表情に変わりました。キット当時のお仲間を誘い、肥料と鋏を持参し 宇和島を再訪するでしょう。

今回で 標題は別として「西の伊達家 秀宗公の宇和島を訪ねて」の内容で、講演したのは3回目です。3回聞いてくれた方、1人。2回聞いてくれた方、5人ばかり。半分は共通しましたが、後半分の内容は重複しない様に語りました。Kさんからズバリ反応がありました。

和霊神社の際、NHKたいがドラマ「龍馬伝」で 古里土佐の和霊神社を参拝する場面が在ります。この所在を調べ教えてくれたのが、ガイド仲間のNさんです。経過と事実は話ましたが、会場にいたNさんのお名前と御本人を紹介しなかったのは 大失敗と反省しました。Nさん コメンなさい。



1 月 17 日 (日)  




朝一番、若い青年が手水所で、和気藹々語っています。外国語です。例によって「Korea ? China ?」 「台湾」。 パンフレットは日本語です、券売所の応接では区別が出来ないです。 「English?」 早速 券売所から貰い渡しました。「台北?台中?台南?」の問に 「タイペイ」と返って来ました。

「手水所」の意味、作法の指南を求められました。禊ぎ 身を清めるもので と動作をしました。わかったと頷き、しかしながら、新しくなった柄杓を濯ぎ、飲料水の標識を確認し、ゴクゴクと飲んで居ました。

拝殿の扁額 「戦前の物は濃青緑色の珊瑚と聞いています」とガイドした途端、「私 邑で昔 視ました」は、若いペア。「どちらで?」 「沖縄の離島の浜で。見ました」 一見して10年から15年前の出来事と推測しました。離島の名前は 個人情報に立ち入る恐れがありますので、聞きませんでした。日本国の領域内に、在る、在ったの貴重な証言と聞きました。

オジサンが「これ 珊瑚に真珠です」と若い人々に説明していました。凄い、郷土史勉強会の人々も知らない、知る人の少ない事項です。振り返りました。(財)瑞鳳殿りOBでは無いようです、何処で勉強されたのか。敬意を表します。ただ「佐々木文山」の書ですの説明は在りませんでした。我等仲間のガイドを聞いて、今度ガイドする時は 書家も 語ってください。

仲間のNさん。久々です。「あかとんぼ さん 23日仙臺藩志会の勉強会で「西の伊達家」と題して 宇和島を語るそうですが、和霊神社は話題に在りますか。NHKTVドラマ 龍馬伝で 土佐から江戸に出奔する際 和霊神社を参拝する画面があります。アナログは今晩の放映でしょう。ところで、和霊神社は 伊豫 特に宇和島に限定される信仰ではなかったのでしょうか」と質問されました。

確かに、和霊神社の祭神は、秀宗公の家老山家清兵衛公頼が元和6(1620)年6月29日(太陽暦7月19日)に暗殺され、承応2(1653)年忠誠を追慕し創建されたものです。菅原道真の天満宮信仰と同系統として合理化され武士に浸透していき、商人・農民ににも拡大しました。その由来 故に冤罪・盗難・病苦等に悩む人々に救世の神と信仰され、各地に和霊講、屋敷神として、四国・西国巡礼とともに、四国・西国・中国・九州に拡大して居ます。

龍馬の参拝は史実として正しいかどうかは別としても、土佐にも和霊神社が江戸末期には存在した事は確かでしょう。貴重な情報です。感謝です。

寒気 老骨に凍みる感じでした。
昨日 ガイド仲間のY嬢から、「私2月一杯寒気休暇です。あかとんぼ さん これを飲めば 声が良くなり 寒さにも耐えられます」 と花梨酒を頂きました。 「熱い湯で薄めて」とアドバスされました。魔法瓶に詰め持参と思案しましたが、「花梨酒は酒です。飲酒運転は駄目 帰りは歩きますか」と支援機構理事長の一言ゴモットモです。断念しました。

追記 「花梨液です。ご心配無く」とY嬢からメールありました。果実酒と思ったのは 私の勘違いでした。訂正し 感謝致します1月18日

熱いお茶をペットボトルに詰め、湯たんぽかわりに胸に抱きましたが、小一時間で冷たくなりました。E代表は「ホカロン」をモミモミしていました。来週は 見習う事にします。
ガイド終了を待って、事務所でコヒーを入れてくれました。この温かい飲み物で 老骨肉の凍結が解凍した感じでした。ご配慮に感謝致します。



1 月 14 日 (木)  



政宗公は やはり 別格

4代将軍家綱の後見役、叔父の保科正之の伝記は数あります。その一冊、「保科正之の一生」三戸岡道夫著を読み終えました。政宗公に付いての記述はありません。

家綱は病弱で「そうせいの君」とも呼ばれた。「施政は良かった」との評価は保科正之の後見がよかったからであると、賛美の伝記である。

寛文12(1672)年12月17日病状悪化、明日をも知れぬ様態になった時、家老友松は「将軍家綱との最後の対面」を幕閣に願い出た。大老酒井、老中稲葉・堀田が協議した結果「先年、元老井伊直隆の際 御成は無かった。前例が無い」と否決、遂に 最後の対面は無かったと、記しています。

思い返すに、政宗公の場合、3代将軍家光は、医師、見舞いを派遣し、京からの名医を迎える手配、江戸の社寺に平癒を祈願させました。5月21日桜田屋敷に直々に 見舞いに訪れています。24日早朝亡くなる3日前です。

この違いは何か。別格の扱いの起因は何かです。次の様に感じます。
1.政宗公の人物・経歴の偉大性です。
2.将軍の指導性です。



1 月 11 日 (月)  



温暖な気候、成人式に参列の晴れ着の人々、恵まれた天候で幸いでした。あかとんぼ 待機中には 新成人が参拝にみえませんでした。

朝 お嬢さんの集団が 続々とお詣りに見えました。ガイドの依頼はありませんでした。歴嬢に見えましたが、旅慣れないのか、あかとんぼ は立枯木に見えたのでしょうか。

本殿扉を半開し、花筒の水を替えていました。お嬢さんに「絶好の機会です。直々 御対面出来るとは」と案内しましたが興味を示しません。「知っています」の返事。全て知っている方にガイドは失礼ですから 立ち去りました。聞かれれば、立て表示板記載以上の事を話します。頭上では烏が大合唱し五月蠅いです。烏並に扱われたのでは。

若い青年、周囲の樹木を見上げていました。動物に興味があるそうです。本殿脇の栗鼠 出て来ません。興味ある青年に見て欲しかった。沙羅双樹 夏椿 現在は葉が落ちて枯木状です。「平家物語で有名な木です」 「ハアー 出だし読み上げてください」 「はい 祇園精舎の鐘・・・・」 「ハツ 思い出しました。この木がそうですか」誠に素直な青年です。夏椿を撮影していました。

お爺さん 湯気の出ている紙コップを持って入ってきました。「ジイサン 三代綱宗 何で21歳で殿様 降ろされたのだ。〔故あって〕の故とはナンダ」

「伊達家としは、云いたくない、書きたくないから 故あって と表現しています」 「フーウン」

ガイドの最中に、突然 ガイドを聞いていない老婆 「御朱印は何処で貰えるー」 「ここは お寺ではありません。お墓です。御朱印はありませんが 御集印は 券売所にあります」 「此処はお墓か 手を叩いてお詣りしてしまった。どうなる」 どうにも ならないでしょう。ガイドを中断させないでください。

成人の日です。高齢者は若い人の門出を祝い 手本にならなければならないと思います。最近の高齢者にしては、男女の別なく 態度が悪いと思います。 

昨日は、表示板の政宗公の肖像画前に立ち止まる方が沢山でしたが、今日は皆無でした。この違いは何でしょうか。

千葉から2組、静岡2夫婦、秋田、そして川崎市幸区、北海道江別市と聞き覚えのある都会から お詣り頂き楽しくガイド致しました。



1 月 10 日 (日)  



寒気厳しい日です。参拝者の出足は遅いながらあります。

香港からもお出でになりました。泣き叫ぶ幼児を抱えて、手洗所で清めている5・6人の家族連れ。何か人恋しい表情です。アッ外国人と直感。「Korea ? China ?」 に 「HongKong」と返ってきました。手にしているパンフは日本語です。券売所から 英文パンフを貰い 上げました。 一団の頭目に見えるオカアサン 「謝々」。 これ以上の会話の出来ない あかとんぼ。 やむ得ず 日本人向け仕様で話しました。理解されたのか? 一同 笑顔で 「謝々」。 

外貨獲得の為、外国からの観光客誘致を強力にする目的で観光庁長官を更迭したとのレポートがありました。その真偽のほどは不明ですが、外国人の参拝の増加は、肌で感じます。
桃山様式の美を それなりの文化で味わって、満足して頂き、大いに散財し外貨を日本に落として欲しいものです。ボラガイドとして どの様に工夫すべきか。年頭の念想です。

表示板の政宗公の肖像画をシゲシゲと見たり、撮影する人が 数おりました。その日によって異なります。今日は多かったです。
手持資料の政宗公像と家康公像をお見せしました。 出る言葉は共通しています。 「ウーン」です。
狩野安信 狩野派 等が話題になりますが なぜか 話しが切れ 本殿までのガイド(定食コース)につながりません。名人Nさんに 今度 方法を伝授して貰いたいと思いました。

E代表からお年玉がありました。3代綱宗の画「牡丹」と「霊昭女」のカラコピーです。見事な作品です。若年で隠居は気の毒ですが、高齢者の年金とはことなり 高額の隠居料があったそうで、著名な先生の指導を受けられたそうです。我々だって同じ条件が設定されれば 描けると言いたいところですが 才能があるかです。綱宗公には才能があったから描けたのです。
手持資料のファイルに入れました。参拝の際 お声頂ければ。

振り袖姿のお嬢さん二人 11時30分登って来ました。「新成人参拝第一号です おめでとうございます」と御祝いしました。制作者・衣装調達者のご両親がピタリ付き添いです。虫除けでしょうか。
HPに掲載しますからとお断りして、桃山様式の豪華絢爛な美 本殿前で 後姿を撮影させて頂きました。美人で可愛いお顔なので 正面から撮影・掲載したかったのですが。残念です。又のチャンスを期待します。
仙台市の成人式は明日です。明日 新成人の参拝 楽しみです。

本日 内心 不快を感じた質問・発言。
1.家紋 三っ引両の三本の棒 意味が3以上あるだろう 説明せよ。
2.伊達家はなぜ家紋が8っもあるのか 不遜ではないか。

1.について
西暦1189年、約1000年前に決まったものです。三本にどんな意味を持たせたか 伝承されていませんのでわかりません。と答えました。 お宅の家紋を詳細に説明出来るのですか と聞きたい心境でした。

2.について
答えは従前通り、「伊達家は由緒ある家柄で整理保存がキッチリなされてきたからです」 お宅の家柄は 江戸時代 なんでしたか。家祖は はっきりしていますか。家歴の整理整頓出来ていますか と聞きたい心境でした。 

1.2 性別は異なります。


8日日誌ロザリオ この小説 読みました。何でご新造の方に? のメールを頂きました。
幾ら小説屋さんでも 過度の飛躍に やはり疑問を示していました。



1 月 9 日 (土)  



脇差・鎬(しのき)藤四郎吉光 2

本項は2007年10月30日 日誌の続記です。

 下記書き出しです。
「本脇差は、豊臣秀吉の没後、その遺品として政宗公に贈られ 家寶としていました。
本日、この脇差を収納していた「蒔絵二重短刀箱」を、酒田市・財団法人本間美術館にて 拝見してきました。
外箱・内箱とも、桃山様式の 精細で渋いながら 豪壮なデザインで、重要文化財指定の工藝品でした。」

1.この脇差・鎬(しのき)藤四郎吉光の由来と 政宗公が愛蔵し、徳川家光が欲しがったのはなぜか。
2.なぜ 収納箱が酒田の本間家に渡ったのか。
以上を疑問に思っていました。

1.について。
刀匠 吉光は、本朝三名作の一として名高くね鎌倉時代の建治・弘安の人と云われています。

本脇差は、初め 織田信長の愛刀で、三男神戸宣孝に譲られ、1583(天正11)年4月岐阜城の戦いで秀吉に敗れ自刃、秀吉に渡り、更に年月不詳関白秀次に譲られ、1595(文禄4)年7月高野山に追放され、死を命じられた際に小姓の不破萬作(17歳)が 本脇差で切腹・殉死をした。再び、秀吉に渡り、1598(慶長3)年秀吉65歳で亡くなり、形見の品 遺品として、政宗公に贈呈されました。

 政宗公は秀吉公との義を思い、又、その由来から愛蔵された様です。徳川家光が欲しがった訳もここにある様です。

2.について。
忠宗公は、家光が欲しがっているのは脇差で、美術工芸品として高い評価されている箱では無いとして、葬礼終了後の1636(寛永13)年6月23日に本脇差・鎬藤四郎吉光 そのものと茶入、掛物を献上しました。

刀箱は仙臺城二の丸寶物蔵に、明治に東京・大井町の屋敷に納められていて、1945(昭和20)年の敗戦の直後に、25万円で伊達家から本間家に売り渡された。以来、本間美術館の所蔵品となっています。

1945年の25万円は、現在の金額で幾らか。都電が20銭でした。バスが200円とすれば1000倍。2億5000万円となります。

長年の宿題の一つが、この冬休みの学習で解決しました。
本項は、「宮城の郷土史話」1975年刊行 三原良吉著によりました。



1 月 8 日 (金)  



ロザリオ

瑞鳳殿再建の為に発掘調査した際。副葬品の中に、ヨーロッパ伝来と思われる4点があった。
販売されている資料には「支倉常長持ち帰りと思われるヨーロッパ風の金製ブローチまたはロザリー。当時ヨーロッパでは、装身具として使われたと思われる。」と記載されています。

「これらの品は、倫敦で販売されていて、羅馬に輸出された らしい」の情報にも接しています。

以上を纏め 本殿前でガイドしています。

正月休みで読書していたら、ロザリオについて新解釈 「政宗公の一番目の側室 秀宗公の生母 ご新造の方の 遺品で、宣教師から貰い、亡くなった際に 政宗公に渡された」の内容に接しました。

調理師が食材を如何に生かすか が仕事 腕です。作家も同様に 自由に描きます。心配なのは 白紙の読者が 事実より先行して小説 粉飾されたものを読み 脳の深層に沈滞させる事です。

この小説は「黄金のロザリオ 伊達政宗の見果てぬ夢」で、217頁に秀宗、宗清の名も記載されています。
作者は 鈴木由紀子 幻冬舎から刊行されています。
参考文献として土生慶子先生の「伊達政宗娘五郎八姫」1987年東光出版等の50巻を列記しています。



1 月 7 日 (木)  



昨晩遅く(アカトンボタイム) NHKTV 〔歴史秘話ヒストリア「激突!真田幸村vs.伊達政宗〜めぐりあい大坂夏の陣〜」〕を視聴しました。

昨年末12月25日ガイドした際、タイ王国16歳の歴嬢から「政宗公の宿敵は誰か?真田幸村ではないか」と質問されました。戦国武将ブームの数ある武将の中で真田幸村が5指にはいるかな とは聞いていました。しかし、対政宗公までの発想は認識していませんでした。

政宗公存亡の危機の戦い、1585(天正13)年11月17日安達郡人取橋での佐竹・葦名の連合軍との戦いが、頭に閃き、宿敵は「佐竹義宣」と答えた所でした。

政宗公と幸村公は、同じ生年ながら、異なる生涯 色も黒と赤 勝ち組と負け組 対照的です。
番組の最後 結末は 伊達と真田の 結び着き 縁づき でした。


あかとんぼ 現役時代の先輩に 真田の末裔と称する方が居りました。それで伊達家家臣には 真田家縁の人々がいるとは知っていました。ガイド仲間で勉強会を主幸しているN氏から、真田幸村 末裔に関する資料を昨秋に頂いておりました。戦国武将ブームの恩恵と理解しています。

昨晩の結末を「落語のオチを聞き逃す」と 同様 聞き逃しました。今朝各資料で確認しました。

幸村の三女 阿梅が伊達と真田の 結び着き 縁づきのポイントでした。

大坂の夏の陣で、伊達政宗の重臣片倉小十郎景綱の嫡男、重綱は、道明寺口では、真田勢に対して奮戦し、大坂落城の際、城中から白綾の鉢巻に白柄の長刀を杖にした十六、七ほどの美少女が、重綱の陣に出てきた。
この少女が重綱の後室となった幸村の娘の阿梅(泰陽院)である。三代目小十郎景長(重綱の外孫)の養母として片倉家を盛り立てたそうです。
阿梅(泰陽院)は、白石の片倉家の墓所に祀られている と画像が出ました。

尚、幸村には3男7女の子があり、片倉家との縁は次のとおりでした。
六女阿菖蒲(おしよふ)は、姉阿梅に引き取られ、伊達政宗の家臣田村定広(後に片倉氏に改姓)に嫁ぎました。

次男大八は、姉阿梅の嫁ぎ先の片倉氏に引き取られ、片倉米之介守信と名乗って360石を知行された。守信より二代目の辰信より真田姓に復した。

本放送は、1月13日(水)8時15分からBS2で再放送されます。



1 月 3 日 (日)  



本日は日曜日ですが、ガイドはお正月休みです。

10日がガイド初めです。
11日は振り替え成人の日です。ガイドします。
今は昔、戊辰の役の際、伊達家家臣大槻安広は、片倉小十郎四の手 伊達数馬加勢として出陣を命じられ、慶応四年4月二日「瑞鳳山粗廟に墓参」と記録されています。

伊達家の士の階級の人々は、節目の際には瑞鳳殿を参拝する風習があったのでしょうか。
とすると、元服の儀式をした人々も 節目として瑞鳳殿を参拝したものでしょうか。であれば 新成人の何人かは瑞鳳殿に参拝に来るのではの期待を込めて待機し、ガイドします。



1 月 2 日 (土)  



仙臺藩志会 瑞鳳殿年賀拝礼式。初陣です。

01年ガイドを始めて以来、一般市民として参加してきました。今年は賀拝礼式に 会員として裃着用で参加しました。

本日の流れは。

 9時20分 城下の初売りには目をくれずに、集合場所 瑞鳳寺山門前「旅館天竜閣」に。既に重臣は到着。
 9時25分 大広間にて着替えを開始。初心者にて婦人部幹部に着付けて頂く。
       紐数本持参の指示であったが 1本のみでOK。着付けが上手なのと 我の体系が良いに起因?
       刀と扇子を腰に差す。刃が上向に。刀の止紐に作法があり 又、笠の被り方にも 作法があり、先輩 に指導を頂く。皆様はフサフサしています。我 年末に床屋した効果か、納まりが悪く、後頭部がヤケに冷たい。

10時30分 全員準備完了。背筋を伸ばして行進するように注意。会員の平均年齢は後期高齢者なのか。自然に背が丸くなっている故のご注意。
       伊達家18代御当主と一緒を ガイド仲間のUさんに撮影して頂く。

11時45分 二列縦隊に並ぶ要に指示。「並ぶ順番は?」、「新参者は後尾に」、「いや前に」との会話。「禄高の順番ですか」の大声が飛ぶ。途端 「ハミデマスー」の反応。そうでしょう 士のみならず農工商の末裔がいます。結果的に最先頭以外は身長順とのこと。安堵。
       先程までの強風で参道は杉の小枝が散乱、敷き詰めた状態です。清掃中にも次々落下します。
       観光客が 「紋は 各自のものですか」と質問。 「家紋」を知らない人も居るのか?。統一したもの、殿様の家紋を着用する所もあるのかな。
       行進路には積雪は無いが、凍結している故、62の石段はソロソロと登る。(観察者と当事者の違いか)
       一般観光客が関係者席に乱入。「お断り」がスピーカーで流れる。あかとんぼ として初見。
       職員が、涅槃門に移動柵を設置。これも10年来初見。如何に解釈するものか。
       「式」について 日本人としてのケジメが失った人が数見られた対応か。

11時00分 開式、読経 瑞鳳寺住職。
       焼香 伊達家18代御当主、殉死者後裔会、仙臺藩志会、大年寺会、(財)瑞鳳殿の順で。
       挨拶 伊達家18代御当主、仙臺藩志会会長、(財)瑞鳳殿常務理事の順で。
       本日は寒冷・強風です。式中 絶えず鼻水を啜る音色が響いています。小枝もトンで来ます。

11時40分 閉式 仙臺藩志会は拝殿前で記念写真。例年は涅槃門前ですが化粧直し工事中の為 変更に。
       この間 本殿前で 個人写真をUさんに撮影して頂く。表紙写真です。
       直後、本殿前青海波扉が閉鎖された。本殿の扉を閉めて あらためて一般参拝者の登段するようにしたのでしょうか。

12時30分 新年祝賀会。参加者60余名。
       会長挨拶「新規会員10余人。世代交代が出来るか。会の運営は透明性と質の向上を期す」
       新規会員紹介ある。話し長い人が居てはと警戒され、起立のみ。
       末席からは上座は後光さして見えない。御霊屋のある経ケ峯で、この部屋が、一番至近で、鮮明に見える個所です。あかとんぼ は御子様御廟から木立を通して案内しています。。仙臺城見せようと、配慮し非遮光化した故です。

14時20分 閉会。一式を車に積み 市街に出てサングラスの紛失に気付く。厄払い?
       
仙臺藩志会の 瑞鳳殿での年賀拝礼式は、再建なった年頃から行われているそうで 30年近くになる訳。なぜ 青葉神社でないのかは 確かめられませんでした。



1 月 1 日 (金)  



謹賀新年





inserted by FC2 system