2010年4月の日誌
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4 月 30 日 (金)  



藩祖伊達政宗公御霊屋瑞鳳殿ボランティアの会(略称・瑞鳳殿ガイドの会)の総会がありました。

昨年度活動実績のある13人が総会参加資格者。ご意見番のUさん 急用とか 開会直前 欠席の連絡。Uさんの活動実績に対する総括を期待してので残念でした。

E会長から、ガイドは、「NPOシニアネット仙台」と「ぐるーぷ・よっこより」と本会と、その他と3層ないし5層の組織構造になっていますと 太陽系の如くの 図面で説明ありました。

今ひとつ、9代周宗公の死亡と家老「中村日向」の活躍との 巷説について、果たして?の解説がありました。
本件は 別途項を改めめます。Eさんの説明に納得していますが、別面で私も 巷説に疑問を持っています。

坂本龍馬の配偶者「千葉佐那」については、別ブログに記載したところです。これについて 御教示を仰いだところ、父と言われる「千葉周作」は 栗原市と気仙郡の何れでも 出生地と称している。その真偽は不明である。いずれにせよ 伊達家の領内で出生した事は間違いだろう でした。

本件は、NHKドラマに関連し、「千葉佐那」が宇和島伊達家のお姫様の薙刀の師範であった。その記録が 宇和島・伊達博物館に保存されていると Y学芸員が、宇和島地元情報誌に発表しています。娘が話題になって なぜ 親が話題にならないのか。幕末の動乱の起因者と 東の伊達家の領民の係わりとして、何れ話題になるだろう。その深読みでの確認でした。

(財)瑞鳳殿で、我々の活動を評価してくれ、便宜を図ってくれています。我々は ガイドの場をお借りているのであって、決して 瑞鳳殿や 観光客の為にガイドをしているのでは無い。結果として、瑞鳳殿や 観光客に喜れ、かつ自分自身の満足に繋がるものである事を忘れないように。(財)瑞鳳殿に迷惑かける行為は決してしないように。が本日の纏めでした。 抹香臭い表現になりましたが 実際は 軟らかく話されました。

本日誌について
1.写真・図等が 本文と一緒に掲載出来ないか。さすれば 発言要旨の理解が容易である。
2.それなりに 参考なる記事がある。集約整理し 冊子に出来ないか。
有難いご提言です。実現に努力致します。




4 月 29 日 (木)  



自然特区経ケ峯
あかとんぼ が名付けた名称です。100萬都市仙台の高層ビル街の中心部に近くにあって、自然に恵まれ 貴重な動植物の宝庫ですとガイドしているところです。

今朝の地元紙河北新報の一面に2L代の写真と次の記事がありました。
ムササビも夜桜愛でる 仙台・霊屋下
「うっそうとした仙台市青葉区霊屋下の経ケ峰。「ジーッ、グルル、グルル」。午後7時、甲高い鳴き声が静寂を破った。バンドリ(晩鳥)の異名を持つ夜行性のニッコウムササビだ。
 するするとケヤキに登り新芽を前脚で手繰り寄せて器用に食べている。てっぺんの枝に着くと、じっと身構えた。次の瞬間、ストロボの閃光(せんこう)に滑空するムササビが浮かび上がった。
 皮膜と呼ばれる“マント”を広げた姿は、空飛ぶ座布団のよう。飛び移った先はサクラ。きれいなサクラの花も貴重な食料になる。
 長い尾でかじ取りしながら時速50キロで滑空し、登った木の高さの3倍の距離を飛べる。大都市の市街地近くでムササビが生息するのは、全国的にも珍しい。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/20100429t13016.htm」

瑞鳳殿券売所前に「かもしか注意」の警告掲示があります。従前からカモシカが散歩に来る事は知っていましたので、「そうか」と思い見ていました。お客様にも特段 警告をしていませんでした。
事務所の話しでは、過日 昼時刻 参拝者等の人影が途絶えた時刻に経ケ峯の主峰から表参道を横切り、幼稚園までの往復が見られたそうです。従前 親クラスが券売所を注視していた事がありますが、今回は若いカモシカだったそうです。修学旅行の学童・生徒が沢山 参拝に見える季節となり、若カモも冒険旅行をしたのでしょうか。

以上が 御霊屋自然特区の名付けの一端です。

本日 邑の寄合いが有り、午後から瑞鳳殿に。参拝者数は自動車道の渋滞に比例しません。

天気予報は 「昼から一時俄雨」と報じていました。的中しました。
1組目 石巻からの小5と母親絵のガイドは 未だ 曇りの中。
間もなく本格的に 大粒の雨です。
傘を持たない方は 参拝ソコソコに大急ぎで降りていきます。ガイドが傘を差して お客様がずぶ濡れの恰好でのガイドは出来ません。マイッタナと思いで手水所の屋根下で待機しました。
福岡からの若夫婦も一緒に雨宿りです。
「伊達政宗とは?」のご質問。黒田家の領民では当然でしょう。私の傘で 若夫婦で相傘して貰いガイドしました。本殿でのガイド終わる事は青空です。今暫く前の雨は嘘の様です。「勉強なりました。楽しかったです」と挨拶されましたが、内心は相傘が楽しかったのではの2組目。

3組目。阿吽の呼吸の年代の御夫妻。陣羽織効果で 御夫妻と別々に あかとんぼ とペアで写真を撮りました。事務所に送ってくれるそうです。入る一緒に撮影される事はあっても、その様に申して下さった方は珍しいです。写真に楽しみです。

表示板の政宗公を欧米系の巨漢3人の男女が撮影しています。資料を開示し 「これが原本のコピー 」 「オー ・・・・」 続いて仙臺藩志会の裃姿での行列写真に 「オー サムライ・・・」 
何処の国からと問に メキシコ イタリア アメリカとの事。 続けてガイドして欲しい様子。アブナイ 「no English‐speaking」

本日は3時間で3組半 9人でした。お客様の離合集散はありませんでした。



4 月 28 日 (水)  



天気予報が的中。 夜来の豪雨です。

甲子園野球にも出場実績のある高等学校の恒例の瑞鳳殿参拝です。
正式名称は、「1学年野外観察」で、 (地域学習フィールド・ノート ふるさとの自然・歴史・文学)と題する130頁の資料を片手に 化石木・断崖等から地質の変化、歴史遺跡を実地見学し、今後の国語・歴史・地理・地学・生物等の授業に資する目的。一面 遠足の面もあるのではと推測される 恒例行事。

本日は、280人を2回に、更に6班に分かれて貰い、7人の仲間で対応しました。

歴史・戦国武将に興味のある子はピタリと張り付いて聞いています。授業の1コマ 冷雨の中と カルガモの行列の様にモソモソとついてくる子もいます。私の班には携帯電話を操作する子はいませんでした。マナーは向上しました。
聞いている子、断片的に聞いている子、聞き流している子もいますが、断片的耳に残った事でも 将来 仙台や日本の指導者になった時「あっ あの時 あのお爺さんが・・・・・」と思い出してくれる事を期待して、丁寧に説明しました。

記憶に残った発言
1.扁額を彼女達 左から読みました。これは右から読みます。
  例えば「瑞鳳殿」を「殿鳳瑞」(デンホウズイ)と読まれたのです。
2.「感仙殿」「善應殿」 読めない子がいました。特に旧字体の「應」の文字でした。
  なんと読みますかと尋ねられました。
3.資料館で、綱宗公「石櫃」を見て、何の用途に供されたでしょうと 問いかけたら 「風呂」「トイレ」と返ってきました。奇抜な発想です。正解は、綱宗公の歯を入れた瓶を収納したものです。
4.綱宗公の日常携行品の説明の表示に漢字に「ブンマワシ」とフリガナしたものがあります。(漢字の転換出来ない) 「これ コンパスじゃない」と問われ「そのとおりです よく気付きましたネ」と返しました。が、この解説板は言葉不足であったのでは。

子達の半数は、政宗公の身長159.6cm未満でした。15歳 これから成長する年齢です。

人生経験豊かな高齢者間でも意思疎通に難儀します。まして 人生浅い15歳の子供達です。自由闊達です。この子達を 日本の将来を背負う自覚と自信に満ちた人間に教育することは、精神的に大変難儀な事ではあるが、遣り甲斐のある 楽しい仕事と推察しています。僭越ながら その旨のエールを最後に引率の先生達に贈りました。




4 月 27 日 (火)  



戊辰の役
 
2010.04.09.日誌に「秋田藩代表斬殺  秋田藩の背徳を憤ること甚しく、当時秋田藩の代表として國分町の旅店増喜方に滞在する両人の侍を誘い出し、今の宮古川の街路で油井某、蟹江某の両人が斬殺した。

さて、戊辰の役の際、仙臺・伊達家家臣が秋田殉難したと同様の事、久保田・佐竹家家臣が仙臺で殉難しているのです。仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌「戊辰日記」には〔6月7日秋田使者飯塚傳也仙臺に来る〕と、又、秋田での殉難も記録されています。しかし 本件[秋田藩代表斬殺]は記録されていません。それは、なぜでしょうか。あかとんぼ は初見です。世良修蔵暗殺程 歴史的価値が無いと判断されているのでしょうか。それとも電狸翁の記憶違いなのか。の疑問が湧きました。「復古記」飯塚傳也で確認出来るか。勉強の種です。」と記載しました。

事実は確認出来ませんでした。電狸翁の記憶違いか、歴史に残らない身分の者どもの刃傷沙汰では無かったかです。
秋田使者飯塚傳也は、久保田・佐竹家の兵具奉行でした。伊達家正使志茂又左衛門が、佐竹家を訪れた際、その対応の会議に参加しており、慶応4年8月4日に佐竹軍が南部軍に敗れた責任を問われ 家老戸村十代夫等と共に「生涯蟄居」の処分を受けています。
6月7日に飯塚傳也が仙臺に来た との記録は仙臺藩戊辰殉難小史にあるのみで、外の記録にはありません。この記録も不審です。日程的に伊達家正使志茂又左衛門を仙臺に迎えに来た事になります。

仙臺戊辰史 藤原相之助著には仙臺藩戊辰殉難小史の項に〔6月7日秋田使者飯塚傳也仙臺に来る〕と記載ありますが、本論には見当たりません。
飯塚傳也は、秋田縣史 第7巻年表・索引 (昭和41年3月31日発行)に記載有り、第4巻 維新編に4個所 飯塚傳也が記載されています。

「復古記」「仙台市史1920年刊行」「宮城県史1932年」「仙台戊辰物語 橋本虎之介 1935年」「戊辰戦争と秋田 加藤貞仁 2004年」「秋田・庄内戊辰戦争 郡義武 2001年」「幕末とうほく余話 加藤貞仁2006年」「仙台戊辰戦争 星亮一2005年」の何れでも記載ありませんでした。

秋田県文化財保護協会西仙北支部が「戊辰の役130年記念誌 わが町の戊辰役」には「新秋田叢書5巻70頁に「1868年6月7日仙台に使者として遣わされた江間伊織が帰着し」の記述がありますが、名前が異なり、生存し帰着してます。別人・無関係と判断します。

明治34(1901)年発行「仙臺市名家及実業家一覧図」によれば、旧町名の國分町三丁目中心に旅館が数あり、(仙臺)停車場前に支店もあります。「宮古川」は旧町名の東一番丁とトラヤ横丁角にある割烹で写真も掲載されていて 「八百粂」の感じの立派な建物です。110年前の仙臺の町並を知り、又 110年前から連綿と続いている「お店」の名前に 驚きと敬意を感じました。

以上 勉強の種の結果です。面白くもない話に 最後までお付合い頂き感謝です。ご感想頂ければ幸いです。




4 月 26 日 (月)  



経ケ峯 桜花爛漫です。
ガイド仲間の現地勉強会を開催しました。講師のE代表は、10余年間のガイド実績を集大成したと称する分厚い資料で100分間 熱弁を揮いました。
ある会合で、「ガイドは持てる知識の30%を語ればよい」と講義されたと漏れ聞いています。本日の熱弁は持てる知識の30%であれば、語られない知識70%。その知識は如何なるものか。驚異と脅威です。
参加者40人 内ガイドしている者10人 差し引き30人から何人が 「この位ならば」とガイドに踏み切ってくれるか楽しみです。

勉強会開始前、東京のお嬢さんに10分間のガイトしました。「本殿内御木像を拝見したい」とのご希望でしたが、資料を所持しておりませんでした故、5月24日の遠年忌法要にお出でなればと 直々に拝観出来ますとお誘いしました。本日は月曜日です。5月24日も月曜日です。本日お出でになれる身分であれば 来月も可能でしょうの発想です。
太陽暦では?月?日か。お嬢さんから質問、又 講義でもありました。6月27日です。尚、1636年6月27日は金曜日でした。

講師の講義中 私に次の質問がありました。 この行為は 教室で先生の話を聞かないで携帯電話をしている現在の大学生の行為に 相通ずるものと思いました。今時の年寄りは 先生に対する礼儀が欠けているのでは。

質問
1.涅槃門の扉 なぜ閉めたのか。
2.本殿前 門柱「青海波」の意味は。
3.御霊屋の所在(瑞鳳殿と感仙殿と別に)は、盛土では無いか。経ケ峯を切り、盛土し 三高を形成したのではないいか。
4.再建工事の際、地質調査を実施しているでしょう。判明するでしょう。

答 一部 反省会に報告・討議しました
1.補修工事完成と同時に、漆塗り面と 金箔の保護から、従前同様に閉られました。
2.本来は、豪壮な唐門が所在しました。唐門の復元が出来ずに 現在の姿です。なぜ「西海波」かは 分かりません。
3.現在地は、基本的に切土。それも施工上から地ならし程度と推察しています。ここを「終の栖」と定めた経緯(参照貞山公治家記録1636年4月18日の項)が明確です。また、当時と現在とでは土木工事の機動力は比較になりません。
4.事務所に「亜炭鉱害調査・発掘調査結果から考える 経ケ峯の現地形と地盤」なる報告書が保存されています。一緒に確認しましょうと申しあげましたが、無視し帰りましたので、それ迄。 

Eさんの講義終了後、漆専門と名乗る方から 次の発言がありました。興味深い話でメモしました。
漆は天然塗料である。故に紫外線に弱い。劣化すると白化現象が起きる。現 瑞鳳殿本殿正面に白化現象が見える。劣化する前に毎年拭き漆をすると効果がある。拭き漆とはの説明と 早急に補修すべきの発言は無かった。

確かに、日当たりの良い正面(西面)は、壁面の黒と極彩色の彫刻と 木陰である南面とでは、色の違いが明瞭です。これは劣化現象であるらしいです。
黒漆塗りは瑞鳳殿本殿のみで、感仙殿・善應殿は樹脂化学塗料です との事でした。尚、樹脂化学塗料は劣化しないのか、説明はありませんでした。 



4 月 25 日 (日)  



快晴温暖 春到来です。昨日は「霙」(みぞれ)が降下、3cmも積もりました。日々激変の天候です。

この不順な天候で早咲き 遅咲き 各種 櫻 一斉に開花 経ケ峯も城下も在も 町も野も里山も 櫻花爛漫です。昔 重臣の仙臺屋敷があった西公園では、3週待った 待望の花見の宴 が盛んに開かれていました。

瑞鳳殿本殿裏の櫻も満開です。光線の具合を視ながら撮影しました。仙台以南からのお客様は 今更の櫻の感じ 関心を示されませんでした。

お客様の参観エリアに入った時の行動は、3形態あります。
@、表示板に向かい政宗公像を視られるタイプ
A、手水鉢に向かい、先ず お清め するタイプ
B、夢中で 涅槃門を潜り 本殿に向かうタイプ

ループルバス 1から2番で到着した方々は、其の日によって 3タイプの何れかに分かれます。
先週はAタイプが主流でした。今日はBタイプでした。ガイド居ますの案内板も私も 目に入らず 本殿を目指して 行きました。お陰様で約1時間 日光浴しながら 櫻花爛漫を楽しみました。

以後、新潟・神奈川・埼玉等のお客様 5組20人4行程ご案内しました。途中の集合離散された方は別です。興味を示され 長時間ガイドに至った方には お礼として「せんだい市史たより」を差し上げました。開扉していませんから御木像を直接拝見できませんから、各年代の像が記載されています 本資料は 最高のお土産に なったのではと自負しています。

戦災で焼失する前の瑞鳳殿の木像の高さは約50cm 両眼は健全状態で表現されている。
瑞厳寺の像は座高75cmと等身大に近い。27歳の時の姿と言われているが、浅い皺や白髪などが表現されており、本来の中・壮年期の姿を意図していると考えられる。右目を伏して隻眼で表現されて 政宗公の遺言と異なるが、生前の姿を出来る限り正確に表現使用としたためと考えられる。
以上の要旨で 仙台市博物館酒井昌一郎学芸員は「博物館友の会だよりNO149」に記載されています。

本件は、過日の博物館見学の際、この事を知り、Uさんに相談したところ 今朝多用の中 わざわざ コピーして届けてくれました。感謝です。

本日のお客様には、昨日 瑞厳寺で御木像を拝見された方 おりましたので 早速 本情報を伝えました。 



4 月 24 日 (土)  



政宗公御命日

政宗公は寛永13(1613)年5月24日(太陽暦6月27日)江戸桜田屋敷で亡くなっています。

遠年忌法要は、太陽暦5月24日に確実に行われています。
例年 献花・献香・献尺奏等とともに 雀踊りも奉納されています。

今年は、雀踊りの奉納は、前日23日(日曜日)に行われます。どうして でしょう。

「仙臺すずめ踊り」を踊っている祭連のブログによると
催事名:瑞鳳殿奉納すずめ踊り
主 催:仙臺すずめ踊り連盟
開催日:平成22年5月23日(日)
時 間:11時頃〜12時頃まで
会 場:瑞鳳殿境内(瑞鳳殿涅槃門前・善応殿感仙殿前広場)
内 容:参進・舞台踊り・総踊りなど
となっています。

私見として、由来等無関係に「奉納すればよい」の発想ならば、少々拘り 太陽暦6月27日 に奉納されれば 政宗公に喜ばれると思います。



4 月 21 日 (水)  



祝 仙台市博物館新装開館。

昨日改装開館しました。開館と同時に見学を計画していましたが、所用の為本日となり、9時開館同時に入館。一番で常設展を静寂の中 ゆったりと見学しました。

総合展示室は、「伊達政宗仙台に」「城」「藩」「町」等14コーナーに分け、政宗公を中心に特化し展示しており、解説文は、日本国語、英語、簡体文字、ハングルの4言語であり、日本国語が不得意の人でも大丈夫です。

照明は工夫され落ちついた雰囲気を醸しており、パネルタッチでの参加型があり、老若とも楽しめる雰囲気です。
瑞鳳殿の参拝された方々に お勧め出来ます。喜ばれるでしょう。

考慮して欲しい点は
1.展示が2列になり 壁に掛けられた資料の解説文が 前列の同じ規格で文字が小さく また 硝子に反射して 高齢者には読めない事です。

2.解説が放送されると表示されていますが、機器の貸出の案内が 見当たらず 利用できなかった事です。

自分としては 軽く見学したつもりですが、それでも70分を要しました。で疲れましたので 「仙台市博物館ポケットガイド」500円を購入し、ボラガイド諸氏出動前に退館しました。ここのガイドは猛烈に親切で 断っても解説に寄ってきます。

収蔵品は之までと同じで新図録を発行していません。とA5版60頁余の「仙台市博物館ポケットガイド」を推薦されました。ポケットには入るかは? 「気軽に」の意でポケットと名付けたでしょう。その分 解説も軽いです。



4 月 19 日 (月)  



戊辰の役

過日急遽 秋田を訪れる機会があり、関係個所 西来院、慰霊碑、殉難地を訪れて来ました。

慰霊碑の小公園風に整備され、入り口の門柱脇に「仙台藩殉難碑」標柱があり説明が側面に成されていました。碑の周囲は除草・清掃されていました。碑正面の勝海舟の碑文は、碑の真後からの逆光で 読めず・撮影は出来ませんでした。碑裏面に受難者11名の氏名、右面に明治元年7月4日殉難 明治21年月建立、左面に永代供養料金拾圓と刻まれていました。

殉難地、旅館幸野屋は高層都市ホテルとなっており、屋根伝いに・・・と伝えられた 寝具店は昔日と変わらず盛業中でした。

首が曝された五丁目橋たもとは駐停車できず、観音様参拝は出来ませんでした。

上記の写真の一部を、昨日の仙臺藩志会で 志茂又左衛門の末裔の方に公開しました。慰霊碑は撮影されて居らず、殉難跡地は訪れていない様子でした。

受難者を弔う観音様は、今年が建立10周年とか、今年の参拝は日帰りせず1泊で実行すると事業部から発表がありました。

続く



4 月 18 日 (日)  



昨日41年振りの4月春の大雪でした。本日は晴天青空ですが寒気は残っています。世情では温暖化と喧噪ですが 実態は寒冷化 凶作の心配があるのでは。

本日瑞鳳殿ガイドは時間上調整つかず休みました。

仙臺藩志会の総会・講演会・懇親会が13時から18時10分まで ホテルセンダイプラザで開催され、初参加しました。
講演会は、平川新 東北大学教授の「政宗謀反の噂と徳川家康」の演題で100分間、A4版4頁に国内外文書を読み解いた資料での講演。
謀反・政宗陣立の噂が流れた背景に何があるか。幕府側の政宗に対する牽制の可能性もある。
「政宗公は終生抱き続けたであろうが、その野望を不発に終わらせるだけの知力策略を家康と秀忠は発揮し、政宗を忠実な徳川家臣とすることに成功した」が纏めでした。なっとく。

懇親会で、平川教授に「関山街道を歩く」等の著作を読んだ隠れファンですとご挨拶。
最上古海道は東北大学植物園内に一部残っているが、郷六に至る部分は 陸軍用地であった故 地図では不明であり、且つ 開拓等で変化しています。資料等ございませんかとお尋ねしました。未踏査であり 資料も無いとの事でした。何れ現地踏査の際 随行させてくださいとお願いしました。
最上古海道は、仙臺城築城後も、公表されない重要な道 抜け道として存在したと推察しています。

出席者は、宗家初め 何れも伊達家重臣の末裔と称する方々です。貴重な情報源です。
例えば 
1.古内家は岩沼と根白石以外 第3の系統があり、私です。根白石、大雄寺に墓所があります。
2.中村からも出席されましたので、過日の真壁の方との交流を報告しました。群雄割拠した地であり、伊佐城、中村城の外になにを指しているか見当つかないとのこと。

「他家の末裔が」とも言われますが、瑞鳳殿のガイドの際 知識の貯に 有意義な会合でした。





4 月 12 日 (月)  



 昨日の伊達家発祥の地 常陸國真壁郡・・・をお話しした お客様から 「職域?業界?か お仲間で話題になり、また 家族間でも話題になり 盛り上がり 瑞鳳殿参拝に實に有意義であった」 とお電話頂きました。
昨日のあかとんぼ日誌は未読の様子でしたが ご近所でしょうから 早速確認にお出でになり 感想等知らせてくださるのではと期待しています。
お名前は 聞き取れませんでしたが 瑞鳳殿参拝してヨカッタと早々の電話ありがとうございます。

 あるブログに「瑞鳳殿(伊達政宗公の霊屋)でガイドしてくださったおじいさんがガイド中に感極まって「正宗様は徳川にだって負けないんだよぉ!!!」と叫びだし」とありました。この「おじいさん」は、我々の仲間でありません。我々は かかる無責任なガイドは決してしません。本件は仲間に確認済みです。 

 本日 ガイド仲間の団体「ぐるーぷ・よっこり」の総会で、09年度の総括と10年殿活動計画を確認しました。
09年度のご依頼ガイド件数は70件+23件 延人数1,091人+40人です。土.日.祝日のガイド人数は計測不可能で集計されていません。又、研修開催は12回331人です。
本年度の研修は、瑞鳳殿での研修を含め13回実施し、質の向上と均一化を図り、信頼されるガイドを目指しましょう となりました。よろしく ご声援ください。



4 月 11 日 (日)  



花曇り 写真撮影には不向きな天候です。
臥龍梅 満咲 です。瑞厳寺の紅白の梅は、 政宗公が臥龍梅と一緒に半島から持ち帰った梅と云われています。門の中、境内にあり、現在 本堂補修工事柵の内です。見られる 観賞される事なく ひっそりと咲いているのかと心配していましたら、工事に支障の無い範囲内で公開しているそうです。ヨカッタ。

神奈川からの御夫妻。奥様をモデルに撮影しています。あかとんぼ 推薦のポイントを紹介しましたら、素直に撮影していました。竜頭でのトリック撮影 意図を即理解され撮影ニコニコ。
奥様の言 「私 梅の花が好き」 ハッ 「梅の花は上を向いて咲いて居ます。櫻等の花は下向きです」 誠に 上昇志向 素晴らしい。「たちあがれ○○夫妻」と声援を送りたい。○○は不明です。

今朝は9時から立て続きのガイド。
一番は若夫婦。埼玉からてすとの事。ガイド最後に家紋の図鑑を広げ「これは宇和島・・・・」 特段の反応。 「私 宇和島から嫁いできて、今埼玉です」 新婚旅行の続きの感じです。
「昨春 丸山公園の櫻の観測で 1ケ月滞在し 余暇に伊達家の史跡を満遍なく見学して来ました。山紫水明気候温暖 鯛に柑橘類が豊で よい所です。今週15日8時15分からNHKTVで 宇和島の観光と物産の特集番組があります」 と伝えました。
「親元が丸山公園に近い所です。」 となると あかとんぼ の宿舎の近所で 道ですれ違った事あったのかと思いました。御世話になった人々の一人に お返し出来たかと 内心嬉しくなりました。

熱心に聞いて下さった方々に 「はい お土産です」と 「せんだい市史通信 再発見 伊達政宗 あの貌 この像」を差し上げました。 「どのお顔が一番 御本人に 似ているのか」とまたまた 盛り上がりました。市史通信の性質上 現在本殿内の御木像は掲載されていません。「先程 ご覧頂きました御木像が 一番でしょう。頭骨のレプリカを基本にしていますから」 に 一同 納得 ガテンと手を叩いてくれました。

「仙台では みなさま 伊達様 政宗さま と呼ぶのですか」のご質問がありました。
「私は 政宗公 とお呼びしガイドしていますが 政宗 と呼び捨てしている方も居ます。人様々です」
「なっとく」

仲の良い親娘、昨日は瑞厳寺、今日は瑞鳳殿を参拝との事。フッと伊達家の始祖の話しになり 「常陸國真壁郡伊佐庄中村が発祥の地・・・・・・」  「真壁にゴルフに行く 何でこんな所に こんな城址があるのかと 思った。そこが伊達家発祥の地か」 本日は真壁郡伊佐庄中村の資料・地図を持参していませんでしたので 説明はしましたが かみ合いませんでした。メールを頂き 返信で所在をお知らせするを約束をしました。
お客様のゴルフ場が「真壁ゴルフ場」であれば所在は、茨城県真壁郡真壁町大塚新田45となり、中村城址は、栃木県真岡市中で主要部は遍照寺の境内となっており、伊佐庄・伊佐城址は、茨城県筑西市中館で観音寺が所在しています。お客様の語る城址と一致するか 此の後の照復の結果です。メール待ちです。 

帰ろうかなと石段を降りていたら 涅槃門の五色瑞雲を撮影しているお嬢さん2人。之までの分類では、年齢・性別・服装から登壇を急がれるタイプです。熱心さを買い、それではと門の外に戻って頂き、透かし彫彫刻をガイドしました。「お仕事 デザイナーですか 他の若い人は振り向かない この彫刻に興味を占めされるとは サスカです。偉いです」 ウフフーの笑み。 デザイン系専門学校生かな?

今日も事務所でコヒーを馳走になりました。自配機のコヒー以上に美味いと感じ馳走になっています。
W学芸員から ガイド時のノーハー 話法について聞かれました。
 Wさんがご案内されるのは、高貴な方、高級公務員等でハイレベルの均一の方々でしょう。私は老若男女千差万別色々の人々です。反応が良好で興味を示して頂けば 20分の約束が2.3倍の時間になります。比較にならないでしょうが、経験したこと、配慮していることなど申しあげました。なにか悩む事があったのでしょうか。 



4 月 9 日 (金)  



仙臺昔話 電狸翁夜話

「この本とっても面白いよ」とUさんから紹介されていました。所蔵図書館から取寄せ廣瀬図書館で借用しました。
1924年に発行された 電狸(デンタヌ)翁の口述を記録したものです。

興味を持ってメモ個所3項目

1.御止山
  伊達家では、肯山公(4代綱村公)以後代々藩主の碑石は、伊具郡丸森産の花崗岩を用いることに定めたので、同地産の花崗岩は「御止山」と称して、妄りに掘出することは無論、掘出したるものも蹈石(フミイシ)はいふまでもなく、燈篭にすることも禁止した。

 之で、瑞鳳殿でガイドの際 妙雲廟界の墓石の種類・産地を説明出来ます。
 さて、この「御止山」は、現在の何処にあるか。現在も採石していないのか。なぜ燈篭にすることも禁止されたのか の疑問が湧きました。勉強の種です。

2.秋田藩代表斬殺
  秋田藩の背徳を憤ること甚しく、当時秋田藩の代表として國分町の旅店増喜方に滞在する両人の侍を誘い出し、今の宮古川の街路で油井某、蟹江某の両人が斬殺した。

 さて、戊辰の役の際、仙臺・伊達家家臣が秋田殉難したと同様の事、久保田・佐竹家家臣が仙臺で殉難しているのです。仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌「戊辰日記」には〔6月7日秋田使者飯塚傳也仙臺に来る〕と、又、秋田での殉難も記録されています。しかし 本件[秋田藩代表斬殺]は記録されていません。それは、なぜでしょうか。あかとんぼ は初見です。世良修蔵暗殺程 歴史的価値が無いと判断されているのでしょうか。それとも電狸翁の記憶違いなのか。の疑問が湧きました。「復古記」で確認出来るか。勉強の種です。

3.輪王寺宮警護兵
  御警固として伊豫宇和島藩の兵隊約2小隊ほど詰めて居ぅたが、何故に宇和島兵が御警固申しあげたものか分からぬ。但し当時仙臺兵の武装は實に不備なものであったにも拘わらず、宇和島兵の武装は頗る立派に整備したものであった。

 さて、伊豫宇和島藩の兵隊約2小隊は輪王寺宮を警護したのか。宇和島で蒐集した資料によれば 戊辰の役では派兵しなかったとなっている。整合しない。なぜか の疑問が湧きました。勉強の種です。

電狸翁とは、
伊藤清治郎 安政3(1856)年4月18日生 1938(昭和13)年11月13日卒83歳。
仙台市河原町所在豪商小西利兵衛の一族。宮城の電気事業開業の祖とも言われ、宮城の政界・経済界に於いて活躍。
輪王寺宮が仙岳院に滞在時、御付に20-25歳の御坊主10人 13-17歳の子供9人が居て、本人はその1人と記載しています。親は士の資格を持つ商人であったことです。
以上 



4 月 8 日 (木)  



瑞鳳殿の梅 臥龍梅は4月4日満開咲でした。近年では 最高に見事な景を醸していました。

ブログを「瑞鳳殿」で検索すると20-30の感想が瞬間に出て来ます。大方は「豪華絢爛 さすか 伊達政宗公」と申す記事です。今回 「櫻が満開」と写真を掲載しているものがありました。

蕾から開花 散るまで 「臥龍梅」ですと その由来を私と仲間はガイドしています。この方は 我々が不在の時に参拝されたのでしょうか。それにしても、梅と櫻の区別がつかないでしょうか。樹肌・木姿・花が異なり 一目区別つくと思いますが。
先年 大学の先生を案内した際、「あの松は何年か」と 杉の大木を指指して 問われた事があります。松と杉は木姿が異なり、一目瞭然です。専門性は無いと思います。老人を 嬲ったかと思いました。

梅と櫻に松と杉の区別の出来ない大人が 発生した様です。それはなぜでしょう。

「臥龍梅」概要
国指定 天然記念物 仙台市指定保存樹木
樹種 ウメ 樹高/8.0m 幹周/1.3m 推定樹齢370年
    枝張り 東西17m 南北22m
 花 白一重大輪 香高く 果実大
所在  若林区古城2-3-1
所有者 日本国(宮城刑務所)
由来  文禄の役の際 持帰り 仙臺城に植え 楽しむも後 現在地に移植と伝えられている。



4 月 7 日 (水)  



戊辰の役 伊達家家臣 秋田殉難

仙臺藩志会では、慶応4(1868)年7月4日〔太陽暦1868年8月21日(金)〕殉難した人々の供養に、7月4日(日)に訪秋する計画があり、誘われています。
事件の概要は知っています。又、仙臺藩志会の中に 殉難者の末裔と申す方が何人か 居られるのも了知しています。しかし、些かの因縁から供養祭参加をお断りしています。

事件の概要を所蔵資料で抜書きし、整理してみました。

仙台市史近代1では、「同4日に仙台藩が秋田藩に派遣した使者志茂又左衛門實明(シモマタザエモンサネアキラ)ら10人が殺害された」と簡記されています。

戊辰戦争(平重道著)には 一文字の記載も見当たりません。
宮城県の歴史(高橋富雄著)にも、一文字の記載も見当たりません。
秋田県の歴史(今村義孝著)には、「4日早朝になって、藩主佐竹義堯(ヨシタカ)は対立を退け、みずから裁決して一藩勤王の決意を告げた。藩論の決定に勇躍した砲術所の志士等は、藩内の勤王の志気を鼓舞するふくみか、その夕方、久保田に在宿する仙台藩士をおそい、志茂又左衛門ら6人を斬殺し、5人をとらえ獄中に投じた」と記載されています。

秋田県史4巻では、「仙台の誅殺」と一項を立て「時を同じくして砲術所に於いては、主として後藤敬吉、青木理蔵の両人指揮役となり、150余人の同志の中から34人を選んで夫々部署につかしめ、4日午後4時頃、仙使宿所であった茶町扇の丁幸野屋方を襲わしめた。先ず志茂又左衛門(用人正使)・山野内富治(小人組随員)を殺し、小島寅之進(但木土佐の家来)を縛し、翌5日早朝よりその潜伏所を探して内ヶ崎順治(近侍正使)・佐々徳之進(同心随員)・川越新蔵(同心随員)・高橋市平(小人組随員)を殺し、高橋貞吉(志茂の家来)・棟方市七郎(小人組随員)を縛し、ついでこれ等の首級を5丁目橋の側らに梟首し、掲札して通行諸人に示した。以下略」と記載しています。

仙臺藩戊辰殉難小史では、第十六「使節殺害」と一項を立て「明治元年7月4日の夜久保田城下榮町扇丁【誤記 正は茶町扇の丁】幸野旅館に於いて秋田藩の為めに殺害せられたる氏名左の如し
正使御近習目付 志茂又左衛門
副使御近習    内崎順治
御小姓      山内富治
御小人頭     高橋市平
         棟方市七郎
         佐々徳之進
同心       川越新蔵
従者       高橋貞吉
又左衛門弟    志茂丁吉
但木土佐家来   小島寅之進
又左衛門僕    高橋辰太郎
右遺骸は藩主に於いて寺内村西来院に葬り明治3年時の秋田県大参事古川忠安謚号を附し墓標を立てしめ後22年仙臺有志相議して(仙臺藩殉難之碑)を建設し歳時祭典を行ふこととなせり  
志茂又左衛門略傳
諱は實明父は傳八郎實香母は・・・・・略・・・・全1015文字あり関係部のみ記載。
7月4日夜亥の刻過ぎ仙臺使節の旅館幸野方に赴き扉を叩き新庄藩士川田を呼出し之れと行違ひさま二階に闖入し総督府の命に寄り賊徒を誅すと叫ぶ 正使即起上り刀を按して使節を殺すは公儀に反くべし柮汝等総督の命を矯めて来れるならんと言い未だ終わらざるに一刀の下に斬殺し続て山内内崎等刀を抜くの暇なく空しく暴徒の凶刃に斃れたり 其他の従者は戸障子を蹴破り屋外に飛出したるも警戒せし壮士の為に殺され又搦められて後に斬首せらる 正使等の首級は翌朝に至り秋田城下五丁目橋側に於いて梟木に架けられらる・・・・以下略

仙臺大人名辞書の志茂又左衛門の項では、仙臺藩戊辰殉難小史記載をほぼそのまま引用しています。


さて、2009年7月3日の現地供養に参加した志茂又左衛門三女末裔の手記には、仙臺藩殉難之碑(角錐形)と五丁目橋袂観音像の前で正使以下13人の無念を慰霊したと記載されています。
所謂仙臺藩は11人であり、2人多いのは、仙臺藩戊辰殉難小史には 相馬・新庄の藩士各1人と訪秋したと記載があり、この2人を含めると13人になります。尚、その氏名は記録されておりません。

当然 仙臺藩戊辰殉難者50,年弔祭誌 殉難者遺族名簿でも確認出来ません。
殉難者遺族名簿には、@御小人頭 高橋市平 A従者 高橋貞吉 B又左衛門弟 志茂丁吉 C但木土佐家来 小島寅之進 計4人の氏名も記載されていません。これは遺族との連絡が出来なかった結果でしょうか。


戊辰の役 研究の第一任者星亮一氏の団体は、秋田を訪れ、現場幸野旅館跡に於いて記念写真を撮影ブログに掲載しています。


幸野旅館の跡は、秋田市大町三丁目4番18号
西来院は、秋田市寺内上屋敷11番地

仙臺藩志会の供養祭には参加しなくとも訪秋の機会に @幸野旅館の跡 A西来院 B五丁目橋袂観音像 を訪れ 詣りたいと思っています。




4 月 4 日 (日)  



春麗。
明日は、学校の始業式・入学式の日。今日は春休み最後の日で子連れの小団体が数多いです。

なぜか、オイソガシばかりです。手水鉢前に「ガイド居ます」の看板を立てています。「おはようございます」の挨拶を無視、券売所から手水鉢に、そして涅槃門を見上げる事なく、本殿に駆け足で登っていきます。
お客様の動線 目線の左右に 看板と私が立って居ますのに、今日のお客様は 全く目に入らないらしいです。
9時55分迄 1時間 ひたすら「おはようございます」の挨拶かけしていました。選挙運動の辻立ちの心境です。

9時56分 埼玉県熊谷市のご婦人3人。「お時間は如何ほど? 丁寧に それとも サラット 説明しましょうか?」に「一日でも結構です。丁寧に」のご要望。詳細にガイドしました。

11時01分 栃木県の小4の男児と母と名取市の高齢の御夫妻。男児を主客にすえ、日光東照宮を事例に子供向けに軟らかく説明したつもりです。其の効果か、はたまた 少年が落ちついてた性格なのか、同行した高齢の御夫妻が驚く程 沈着な態度で聞いてくれました。

11時45分 若林区からの高齢御夫妻。「サラット 説明して」のご依頼。「臥龍梅 満開です」に反応が予想外です。若林区居住であれば 「古城。若林城。宮城刑務所」ご存じと思いましたが、「知らない」との事。
高齢イコール郷土の歴史を些かでも知っているにはならない事を知りました。あかとんぼ の説明で居住している地区の歴史の一端に触れて頂きまして感謝です。

今日は、団体も、定観も、ハイヤーも 見かけませんでした。今日の流れは異なり、上記のガイドで終わりました。

Eさんから 半月に近い外国視察のお土産と土産話を頂きました。

事務所で伝言を頂きました。3月28日(日)に一番最後にガイドした女性の方から「帰る時間を延長して 丁寧にガイドをして頂き、とても楽しく 仙台によい思いでになりました」と お礼の挨拶をわざわざ事務所に立ち戻りされたました。の内容でした。喜んで頂けるは、ガイドとして至福です。
お客様と伝言をしてくれた事務所のKさん ありがとうございます。



4 月 3 日 (土)  



仙臺藩志会 新会員研修

09年度近来で最高。一般会員19人、賛助会員4人の新会員が誕生したとの事で、会長初め全役員参列の基で、会の成立ちから活動内容、会則等の説明がありました。

研修基本内容
成立ちは、
1935年、政宗公没後300年が挙行された際、〔(財)藩祖伊達政宗顕彰会〕が設立され、1948年に仙台藩ゆかりの7団体と共に、〔仙台瑞鳳会〕を設立、1957年に〔仙台藩志会〕と名称を変更した。この時から「士」ではなく「」になった。

目的は、
旧仙臺伊達家歴代藩主等の偉業を顕彰奉賛し、その歴史、精神、思想、文化を広く社会に伝えること

事業は
目的達成の為の事業として
1.歴代藩主等のの霊祭の奉賛、遺徳顕彰に関する事業
2.仙台藩の史跡、文化の研究と交流に関する事業
3.その他本会の目的達成に必要な事業

昼食を夾み 約3時間。実りある会合でした。

新会員の挨拶の時間で あかとんぼ は
伊達家領内家臣の末裔ではありません。2000年からの瑞鳳殿でのボラガイド活動を評価し、理事会審査で加入を承認頂きました事 感謝しております。昨春 宇和島市に1ケ月滞在し 宇油島伊達家の史跡を隈無く訪れた。今年の事業計画に 宇和島訪問がありますが ぜひ実現して頂きたく要望します。と挨拶しました。

一緒に加入を承認あった ガイド仲間のUさんは
瑞鳳殿でのボラガイド活動を評価し 加入を承認頂きました事 感謝しております。「伊達学」を含め 全事業に参加するつもりです。裃も用意しました。と声高らかに決意表明していました。

参加新会員はそれぞれ 挨拶されました。ハッと思った事があります。何人かが 「我が先祖は 士族 でした」の発言です。仙臺藩志会は、1957年に「士」から「志」になり、「士農工商」の身分区別 また 伊達領内の領民の別さえ問わない、志さえあれば となっています。なのに なぜ「我が 先祖は 士族」と 云わねばならぬか。役員の多数は、「一門・一家」です。それに背伸びしたのでしょうか。 



4 月 1 日 (木)  



人々は新年度、スタートの日と騒ぎます。

3月 会合の冒頭「年度末のお忙しい中お集まり頂き」の枕言葉を度々 聞かせられた。「お忙しいの貴方方、年寄は 何にも忙しくない」と内心 反論しながら、忙しい方々のお話を聞いた。さて、現役を卒業した人々がボラガイドを目指して 5月頃から 毎年押し寄せるが ガイドとして継続されるのは30人に1人位。今年も何人くらい希望者がいて、何人位 定着し 仲間になってくれるか 楽しみです。

ボラガイド10年目、いつも 意外な質問を頂き、勉強の種を頂いたと感謝しています。過日 こんな質問を頂きました。
「武左衛門一揆を知っているか。かって 百姓一揆の代表例として 全国の小学校で教えられたが」でした。
「はい 伊予吉田の百姓一揆ですね」と応えました。

「武左衛門一揆」とは、寛政5(1793)年伊予・吉田 伊達家領内で勃発した百姓一揆で日本農民運動史の中で特筆されるものだそうです。紙専売制度に反抗する農民が御用商人を襲撃。事態収拾に、宗家宇和島伊達家を当事者に巻き込み、百姓側の勝利に終わったものです。

この「武左衛門一揆」は、どの様な形で教えているか迄は確認しませんでしたが、この一揆の解決に努力した吉田伊達家の若き家老安藤義太夫継明の自刃の地(宇和島市伊吹地区)に石碑があり、社会教育としては、宇和島市教育委員会では学童に教えていました。昨春 宇和島に滞在した際 地域学習に招待され知りました。

上記の答えで会話は終わりました。質問者の意図は何処にあったのでしょうか。

私は 学校では習っていない事は確かです。時代が異なるか、先生の歴史観の違いでしょう。今 ガイドでの歴史知識は全て、ガイドしながら習得したものです下地は学校教育にあったでしょう。国民学校・小学校で習った歴史で 唯一記憶に残っているのは「皇国日本の天地創造」の経緯です。この詳細を話をすると必ず 冷笑 を浴びます。

以上から 新年度初日の決意は 「日々勉強 いつか芽を出す 花も咲く」です。





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