2010年5月の日誌
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5 月 30 日 (日)  



薫風馨五月晴

朝一番、若い男性4人。ホテルからタクシーで直行されたそう。確かに「ループルバス」運行開始前に瑞鳳殿に到着しています。草食系なのか、静かに聞き、撮影しています。

資料館入館前に「見誤らないでください」と注文を。見終わって出て来た所で、ニコニコしています。「分かりましたか?」に 「ハイ 甕です」 「そうです 三代綱宗公の甕棺です。アレに入れられ、水銀等が従鎮されました」
「フー」 「お前なら大丈夫だな」 「お前はデブだから駄目だな」 「いや 肉を落とすと 骨だけになれば 大丈夫」
「お客様 甕棺も棺桶も 御遺体をそのまま 葬るもので 肉と骨とバラバラにしないものです」
「アッ そうだ」 昨晩賞味した牛タンを連想していたのでしょうか? 草食系から肉食景に転換した一瞬でした。


可愛い感じの女子高校生2人。一人は明らかに外国の方です。尋ねました。「東チモールからの留学生です」 「恐縮です。地球のどの辺にある国でしょうか?」 「インドシナ半島の下の方です」 「ありがとうごいます、見当つきました」以後 本殿までガイドしました。

ウィキペディア フリー百科によれば
東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称東ティモールは、アジア(東南アジア)地域に位置する共和制国家。1999年8月30日、国連主導の住民投票によりインドネシアの占領から解放され、2002年5月20日独立した。国際法上はポルトガルから独立したことになる。21世紀最初の独立国。ポルトガル語諸国共同体加盟国


拝殿の扁額を説明した際、「青珊瑚 我が国にあります」と返答がありました。
東ティモール民主共和国に青珊瑚を見るに行きたいものです。この留学生にガイド頼めるかな。
 
案内している女子高校生は仙台市東部の高校二年生で、東ティモール民主共和国から留学生と同級生。2回携帯翻訳機を使用しましたが、それ以外 生で あかとんぼの説明を伝えていました。偉いものです。
24日 瑞鳳殿を英語でガイトするを目的にしたボラティアの研修があったそうです。この人達「沈まない太陽」と自称する年代の方々。でも、この孫の様な女子高校生 登る太陽の世代に ウカウカすると追い越されます。
爽やかな二人でした。写真のHP掲載快諾頂きました。表紙をご覧下さい。


仙台市内の中学校を卒業した仲間 同級会を作並温泉で開催。久しく参拝していない瑞鳳殿をお詣りしたい。ついては90分程度でガイドして欲しいとのご依頼。

瑞鳳殿を主力に、弔魂碑、感仙殿地区と案内しました。一行の中に、戊辰の役の殉難者の末裔の方が居られ、弔魂碑について 普段以上に丁寧にガイドし、10月10月10時の慰霊祭のご案内も致しました。

善應殿の前で突然 「子供の頃 柱が一本立っているだけであった。登り、跳ねて 遊んだものでした。タチションは しなかったが 今考えると 偉く不敬な行為でした。ゴメンナサイ」に、 一同 驚愕の表情。再建前の写真を皆様にお見せしたら 事情を納得され ホッとした表情に戻りました。私も安堵しました。


事務所で「あかとんぼさん宛 親書 預かっています」のお声。
5月5日に肥前名護屋から参拝に見えられたY様からでした。

「24日本日貞山公遠年忌御法要に伺わせていただきました」 「先日は 大崎八幡宮、四ッ谷用水、輪王寺、覺範寺、青葉神社等をまわりました」 の要旨です。

あの豪雨の中 肥前名護屋から奥州仙臺まで 375回忌法要に駆けつけてくれたのです。1000q以上ある遠方からです。驚きました。有難い事です。34世18代伊達家御当主に、仙臺藩志会と(財)瑞鳳殿の幹部の皆様に、早い機会に報告致します。

大崎八幡宮、四ッ谷用水、輪王寺、覺範寺、青葉神社等は、山形・群馬の歴嬢様から 案内してと昨秋から ご依頼を頂いておりますが 歴嬢様の日程の都合で まだ実現していません。先手取られました。
名護屋のY様の行動力に完敗です。行動力に乾杯します。



5 月 28 日 (金)  



板碑 昨日の続き

経ケ峯板碑群 5基
1981年以降に行われた伊達忠宗の廟所である感仙殿の発掘調査の際に、石室の蓋および周囲の土留めの石に使われていた板碑が発見された。いずれも碑面が摩耗しており、感仙殿石室の石材として用いられる以前に橋や敷石に用いられた可能性が高い。その中でも大型で、摩耗が少なく碑面もよく読めるものが瑞鳳殿資料館の中に2基展示それている。ほか、感仙殿前に2基、さらにその脇の妙雲界廟には、銘文の断片からもと同一の板碑だったと推測される3片の断碑が存在している。瑞鳳殿・感仙殿の発掘調査は近世初期の伊達家の日常生活を目の当たりにさせてくれる多くの史料を提供したが、それとともに板碑を霊廟石室の材料に使用するという、現代人の意識とは大分違った信仰感覚をも教えてくれ、その後の板碑研究を深める上に役立つ史料となった。
(仙台市史・板碑268P)

板碑の石材分布の特徴
3.粘板岩(井内石)製板碑の分布は岩切周辺と経ケ峯・八幡町・川内など旧市街地西縁に限られている。
(仙台市史・板碑543P)

仙台市内の板碑分布を見ると、青葉山・川内から経ケ峯にかけての地域の特異さが目立っている。それは第一に石巻地方の井内石が多く使われていること。第2に巨碑が多いこと。また刻まれている種子にカンマーンなどの特殊なものが多いことも挙げられる。ここから この地域が何か特別な場所(霊場)だったのではないか、という見方が出てくる。
(仙台市史・板碑290P)



5 月 27 日 (木)  



「まざらいん会」(生涯学習団体)の例会が博物館で市史編纂室長の講演と聞き、無理に参加をお願いしたら延期になり、代講でした。

演題は「古代・中世の仙台平野」と題して、律令国家と多賀城の成立と滅亡。そして「多賀国府」と呼ばれ、岩切に移動した。
結論として、岩切東光寺・仙台青葉山も陸奥府中に深く関わる霊場(彼岸・浄土への入口)であった。

さて、感仙殿前と資料館には、計4枚の板碑がある。仙台青葉山(仙臺城御裏林)にある板碑は1287年1302年のもので、感仙殿前の板碑と年代的に同年代である。となれば 感仙殿のある経ケ峯は地名からも霊場であった根拠になるのでは。
感仙殿前の板碑は、感仙殿の墓室の蓋板に使用されていた事と、表面の摩耗状況からも 現地経ケ峯以外から運ばれた可能性があります。 

本日 質問の時間がありませんでした。明日にでも 仙台市史「板碑」を確認 整理します。
聴講を配慮下さいましたNK様に感謝します。



5 月 26 日 (水)  



廣瀬川

21日仙臺城本丸から大橋を渡り、廣瀬川左岸を経由、評定河原橋を渡り、瑞鳳殿まで ガイドした際 次の質問がありました。
仙臺城下に水害の歴史はあるのか。最近は如何か。

次の様に答えました。
廣瀬川は清流に見えます。実際は日本の典型的急流河川です。大橋は標高35m水面22m 評定河原橋は標高27m水面18mです。数百mで水面6mの落差があります。
ですから 大雨にすぐ 河川敷一杯の濁流となり、数年前 中州に居住していた方々がヘリで救出された事があります。
藩政時代、大橋等 流失した記録はあります。片倉屋敷等 大身の屋敷がが流失した事実は無いようです。


24日 ある会合の際、追廻住宅付近(片倉屋敷か 馬場を指すのか不詳)に、船着き場があり 石材を荷揚げしたと、石巻から参加された方が解説していました。稲井石を指しているか不詳です。如何と問われたので

築城の際、石は国見の山から ウナリ坂を下り 牛越橋付近の川原を渡り 運ばれたと聞いています。又、米は、苦竹御倉に船曳堀をして福田町にて積替え運ばれたと聞いています。今回のお話しは初聞です。勉強になりますと 答えました。
仙台市史等を紐解いても、疑問を感ずる説です。7月26日「政宗公の町つくりと水利・水運」の講義がガイド仲間勉強会であります。期待し、質問したいと思います。

廣瀬川 今日も川一杯茶色く 滔々と流れていました。



5 月 25 日 (火)  



御一門格寺院

伊達時代、城下と松島・塩竈に所在する寺院の中で17ケ寺が「御一門格」をもつて待遇されていました。

さて、昨日 臨済宗妙心寺派等8ケ寺が参列されました。
なぜか、法要の際 寺院名は公表されませんでした。由緒ある寺院で その序列について 厳しいものがあるのではと想像しています。

「御一門格」17ケ寺の序列は次の通りです。

@仙岳院 天台宗 東照宮別当寺
A龍寶寺 真言宗 大崎八幡宮別当寺
B法連寺 真言宗 塩竈六ケ宮別当寺
C定禅寺 真言宗 (現在廃寺)
D千手院 真言宗 亀岡八幡宮別当寺
E瑞厳寺 臨済宗
F覺範寺 臨済宗 十六世輝宗菩提寺 政宗公母保春院墓所
G保春院 臨済宗 政宗公母保春院菩提寺
H瑞鳳寺 臨済宗
I陽徳院 臨済宗 政宗公正室愛姫菩提寺
J東昌寺 臨済宗 四世政依公菩提寺
K光明寺 臨済宗 始祖朝宗公夫人菩提寺
L満勝寺 臨済宗 始祖朝宗公菩提寺
M輪王寺 曹洞宗 九世政宗正室菩提寺 十七世政宗公正室愛姫の母の墓所
N孝勝寺 日蓮宗 忠宗公正室振姫 綱宗側室初子 菩提寺・墓所
O大年寺 黄檗宗 綱村公初め伊達家墓所
P萬壽寺 黄檗宗 綱村公仙姫  菩提寺・墓所(現在墓所は孝勝寺)

以上17ケ寺の内 太字のお寺が参列。又、参列した 
資福寺 は、次の序列「返杯着座格」で、三世義廣公夫妻菩提寺
善應寺は、「着座挌」「召出挌」でも無く、十八世綱宗位牌寺

行列の際 お寺様は如何なる順であったかは定かではありません。仙臺藩志会では、旗、御当主、会長、幹部、裃、平服、婦人部陣羽織、平服の順です。
以上



5 月 24 日 (月)  



政宗公375遠年回忌法要が瑞鳳殿で、豪雨の中催されました。

開式10時

○奉献の儀
 献花 本原遠州流華道七世家元 朴澤 一草 様
 献香 仙臺藩作法宗家       伊達 泰宗 様 
 献茶 石州流清水派宗家十世   大泉 道鑑 様
 献笛 仙臺藩虚空山尺八寺    布袋軒玉堂 様

○読経
 瑞厳寺・瑞鳳寺・覺範寺・資福寺・保春院・東昌寺・満勝寺・善應寺 8ケ寺

○焼香
 仙臺伊達家18代当主        伊達 泰宗 様
 殉死者後裔会副会長        細目 典夫 様
 仙臺藩志会会長           伊達 洋司 様
 大年寺会会長             阿部 和子 様
 財団法人瑞鳳殿副会長       丸森 仲吾 様
 宮城県町村会会長         佐々木功悦 様
 再建事業建設会社会長      松井 角平 様 
 霊屋下町内会会長          佐藤 静郎 様

○挨拶
 仙臺伊達家18代当主        伊達 泰宗 様
 仙臺藩志会会長           伊達 洋司 様
 財団法人瑞鳳殿副会長       丸森 仲吾 様

閉式11時10分

あかとんぼ 下段から、今年は上段に座して、本法要は10年目。降雨は初体験です。それも 豪雨です。例年 青葉祭は降雨があっても、法要は晴天に恵まれました。今年は 正反対になりました。

全国的豪雨が予報された為、仙臺藩志会会員の裃羽織袴・五色水玉陣羽織をはじめとして、ご当主の羽織袴、奉献の儀の各人の和装を含めて全ての着用が取りやめになりました。噂によれば 茶人の和服は100万円以上するからネ でした。

ガイド仲間は、Uさんと私が会員になった故、E代表が単独でガイドされました。

仙臺藩志会会員約50人が参列、殉死者後裔会会員は、そのまま総会に残り、半数以上が 青葉神社に移動し、春の例大祭に参加しました。豪雨の為 野天に移動する催事は簡略に催されました。

(財)瑞鳳殿では、〔ホトトギスの一聲を求めて〕と題する「伊達政宗公375遠年忌 法要栞」を発行されました。力作の資料です。内容の紹介は、今日は慎みます。
  



5 月 22 日 (土)  



サン・ファン祭
1613年10月28日(慶長18年9月15日)、牡鹿郡月浦から、サン・ファン・バゥティスタ号に乗船した支倉常長一行が遣欧使節として、政宗公の親書を携え、羅馬に向け出航しました。

日本の最近の祭典は、由来に無関係に開催されます。あかとんぼとしては誠に心外であります。青葉祭然り。 なぜ 月の浦で本日 祭典を催されたかは理解できませんが、仙臺藩志会が開会式に招かれ、会長に、支倉常長の末裔の方等 一行10名とともに裃姿で出席致しました。

宮城県慶長使節船ミュージァム館長(前・仙台市博物館長)濱田直嗣氏と昼食をご一緒致し、仙台市史特別編「慶長遣欧使節」について、
@支倉常長は政宗公の側近であって評価されていたから使節として派遣されたのである。帰国御の社会情勢の影響で不当に低く評価されているのでは。
Aキリシタン禁制の発端は、慶長遣欧使節派遣がきっかけになっているのではないか。
B執筆者の平川新先生は、ある見解を示している。
以上の様な 貴重なお話しを生で拝聴しました。尚、Bの内容は、仙臺藩志会総会記念講演の平川新氏の要旨でした。

この本は、支倉常長と慶長遣欧使節について 近年発見された事実も掲載していますと力説されました。市史編纂室長にも勧められています。
全編 読み切らずに 参加し、執筆された濱田直嗣氏の隣に座しました。読み・勉強不足で 絶好の機会を生かせなかった事 悔やまれます。


帰路、松島町の「みちのく伊達政宗歴史館」にて、昨年10月16日訪れた龍ケ崎市の市長はじめ一行50人を出迎え、交流をしました。
「仙臺藩志会」と墨痕鮮やかな幟を立てお待ちしました所、大変な感激で 仙臺と龍ケ崎 双方一緒での記念写真撮影となりました。
会で用意したお土産かわりの資料袋に「藩報きずな」最新号が入れ洩れた様です。龍ケ崎訪問記が3頁記載されていましたので、龍ケ崎市民の皆様にも 恰好の資料であったのではと思いました。

皆様は歴史館に続いて瑞厳寺を参拝されるそうです。瑞鳳殿の参拝予定の確認を洩らしました。うかつでした。  



5 月 21 日 (金)  



仙台城本丸から瑞鳳殿までのガイドをしました。

コースは、仙台城本丸バス駐車場を出発。城下が見える動線で移動、騎馬像前で集合写真を。見聞館で「日本の名城100」のスタンプを獲得、沢門から清水門を経由、三の丸に、大橋を渡り、廣瀬川左岸を下流に、銭形不動を参拝、花壇地区を縦断、評定川原橋で再び廣瀬川を渡り、瑞鳳殿に。

時間は、14時25分から16時56分まで。

お客様は、東京の旅行会社のツァーで、明日 松島で35kmのウォーキングが目的の35人程。歴女と言われるには年輪を重ねており、移動の最中 色々話しかけられます。「綱宗は吉原に通った」等です。仙台市史通信をお土産に差し上げました。喜ばれました。
皆様 自称34,,35,36,37年生まれの男女。瑞鳳殿バス駐車場で、「ガイドさん 楽しかった 所で何歳ですか?」のお話しからの答えです。あかとんぼ 自分では若いつもりですが 同年配と見破られました。

このコースを、この所要時間で 瑞鳳殿での駆け足参拝を含めて歩いたのです。健脚です。この年代は人生 盛り 華の時代なのでしょうか。

あかとんぼ 瑞鳳殿裏に駐車。コース再点検のため歩いて確認し、待機 そのコースを案内し、瑞鳳殿では一周しバス駐車場まで。お客様の2.5倍は歩いた計算で、駐車場に戻るに西参道石段で、足が上がらなく、手摺りに助けを求めました。散り華でしょうか。

西参道の手摺りは、本来は 下段する際の高齢者の安全確保が目的で設置されたでしょうが、本日は助かりました。設置された(財)瑞鳳殿常務に感謝です。

4月29日にガイドしました栃木県の御夫妻から写真二枚同封のお手紙が事務所に届いていました。
ご主人とあかとんぼの背 の1枚と ご夫人とあかとんぼ正面 の写真です。モデルになることは暫しありますが、写真を頂いたのは、昨春の博多のHA様以来 久々です。ありがとうございました。
お陰様で 元気になり、帰巣しました。



5 月 20 日 (木)  



戊辰の役 弔魂碑

瑞鳳殿の鐘楼跡に1877(明治10)年10月、伊達家30世14代伊達宗基公の碑文をして戊辰の役 弔魂碑が建てられました。史跡であります。
爾来、133年を経過し、鉄製碑柱に亀裂・錆、石組基礎に隙間を生じ 又 標柱と基礎との結合の遊離が見られます。速やかな 維持・補修工事が求められていました。

仙台市は、この史跡の活用に目覚め、関係者(仙臺藩志会)の思いを聞きたいとの事でした。
仙臺藩志会から Y事業部長、受難者末裔の3役員に、ガイドし観光客の反応を熟知している平会員の あかとんぼ が スーツにネクタイの社会人の正装で 訪れました。高齢者の正装ではありません

市の窓口は、国際経済、観光部 観光交流課でした。驚き。ボラガイドの統括のポストです。観光資源として活用となれば 当然かも。

要望としての 基本は原形を変えない とする。
市の方針も その通りでした。

標柱の鉄板は腐食等から 再使用は困難である。碑文・銘板は現物を其のまま再使用するでした。
あかとんぼ としては 日光東照宮の鉄燈篭の寄進と同様 伊達家の鉄に対する文化の現れでないか。既に133年経過しており、古資産としての価値がある。の2理由を上げ 保存・再使用を希望しました。聞き届けられませんでした。残念です。

末裔の3役員は、更なる整備、資料館の設立、案内板の建設等 切々と希望を訴えていました。(財)瑞鳳殿との関連もあり いつ 何処まで 叶えられるか です。

何れ 今年の10月10日10時からの弔魂祭以後に、工事が始まると知りました。




5 月 16 日 (日)  



あかとんぼ は元気ですが  高齢化社会では 若年故 身辺煩雑で ガイドを休みました。
毎日曜と祝日は ガイドしていますの 公約が実行出来なかったは 残念です。



5 月 14 日 (金)  



「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」 昨日の続きです。

某精通者からの情報です。
竹に雀の家紋の確定から、時代は江戸中期ではないかと以前から唱えていたらしい。

博物館では、しばらく前から展示の際は必ず「伝政宗所用」と「伝」の字を入れたり、、「伊達政宗所用と伝えられるが、製作年代が政宗の時代より下がる可能性も指摘されている。」といった解説をつけていた。

08年の「最後の戦国武将 伊達政宗」展でこの陣羽織を展示されなかった。

山形紋陣羽織が国の重要文化財に指定され、水玉が市指定にとどまったのは、「政宗所用」という伝えの正確性に格段の差があったから。

博物館のHPの資料解説 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/syuuzou/04_fukushou/02.html)を参照すれば、大きさ(cm) 丈91.0 裄62.5 。年代 江戸前期〜中期 。作者欄 空欄 となっています。

又 解説の続きに、
なお現在は水玉模様の陣羽織として知られるが、明治時代の伊達家の宝物目録には、「紫地羅背板五色乱星」の名で記されており、水玉ではなく星とされていた。また伊達政宗所用と伝えられるが、製作年代が政宗の時代より下がる可能性も指摘されている。伊達家寄贈文化財。
とありました。

正に、「いつの間にか政宗に結びつけられ、史実がねじ曲げられてていくのだとしてら困った事」と市史編纂室長の菅野さんは、青葉祭と雀踊りの由来について呼びかけていましたが、この水玉模様陣羽織も 同様です。

博物館の表示「伝」の文字、「伊達政宗所用と伝えられるが、製作年代が政宗の時代より下がる可能性も指摘されている。」の表示。何れも 見逃して 不正確に お客様にガイドしていた事になります。
明日からのガイドの際 表現を修正します。某精通者の ご指導に感謝致します。

5月4日にご案内し、メールを頂きました方 「石田道場」http://55768726.at.webry.info/に11,12,13日と3日連続で、ガイドの模様が詳細に記載されています。是非 ご覧下さい抜群の記憶力です。この陣羽織えの あかとんぼ の思いこみも 細かに記録されています。現在 マイッタの心境です。




5 月 13 日 (木)  



仙台市博物館を訪れました。目的は3点

政宗公の「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」の確認です。別室に展示のため4月21日見逃したのです。
羅紗より薄手の毛織物と表示ありましたが、厚手に、又 紫地色は写真等資料より色落ちに 見えました。

近世初期の大名の服飾資料として貴重なもの。
黄色、萌黄、白、青、緋の五色の水玉を裾から袖の半ばにかけて大小取り混ぜて散らした卓抜な意匠です。
水玉は地を丸く切り抜いて、模様を嵌め込む「切嵌」技法です。打紐で輪郭を縁取りしています。
背板の竹に雀の家紋は、金糸で縫い取りされ、胸紐は木の葉を形取り、釦地目になっています。
仙台市指定有形文化財です。
以上の様に掲示・図録で再認識しました。

尚、重要文化財の「山形文様陣羽織」は展示されていませんでした。

同行者から次の質問がありました。
「兜の前立」  政宗公は「三日月」 忠宗公以下は「半月」であるが、此の違いは何か。いつ、如何なる理由で改正・統一されたのか。
調べた記憶がありますが 咄嗟に答えが出ませんでした。現在も 思い出していません。老化?

2点目
「市史通信」を市史編纂室長の菅野さんから調達して頂き受取です。瑞鳳殿ガイドの際、政宗公ファン差し上げて好評で残部僅少となり お願いしたものです。併せて、伊達家家紋に関する資料を頂きました。
御厚意になにか報いるものはと「宇和島伊達博物館09年展示資料 家紋」のコピーを持参しましたが、同行者から「博物館 まして 伊達家こ縁の博物館は 密なる交流があるでしょ」と指摘され 思慮あさはかと赤面の至りとなりました。

「仙台市史・慶長遣欧使節」は、これまでの研究・資料のの集大成と云えるものと紹介を頂きました。「政宗公の副葬品 欧州伝来と伝えられるペダント」を手持資料で説明しているからには、勉強しなくては思いましたが博物館で買い洩らしました。城下の書店で表示価格より「1円」安く購入出来ました。さて どうしてでしょう。

3点目
常設展示室大幅改修記念「聖地チベット」展を、地元紙主催で、酒井学芸員の解説を聴講の上、見学する会に参加する為です。何で 伊達家関係の展示でなく、チベットなのかは 摩訶不思議です。宇和島は伊達博物館と名乗り 特化しています。仙台は何かと 政宗公と言いながら 総合博物館で 伊達家に特化していません。これも摩訶不思議です。
チベット展は 学芸員の解説後の見学で、硬化した頭脳でも 理解でき 満足しました。


此処まで 記載したところで 夕刊が配達になりました。衝撃的記事です。
伊達家に伝わる水玉模様の陣羽織を「伊達政宗が愛用した」と書いたら、読者から「間違いではないか」と指摘があった。
博物館に尋ねると、確かに政宗の所有だとは確定していない。背中に刺繍された家紋「竹に雀」が政宗の時代より新しいと思われ、江戸中期頃まで下がる可能性もあるという。

確定していない。可能性もある。です。 確定するまで 上記した内容でガイドします。
内心 ウーンと唸る心境です。

記事は、明後日からの青葉祭、雀踊りの起源についても 触れています。
「いつの間にか政宗に結びつけられ、史実がねじ曲げられてていくのだとしてら困った事。本来の伝統をきちんと伝えることが大事では無いか」と市史編纂室長の菅野さんは呼びかけています。同感です。

太陰暦で亡くなった政宗公の命日を祭日と定めた 青葉祭が太陽暦になり、これは やむ得ないとして、更に 第3土日にと 本来の趣旨から 外れ催される事に違和を感じています。



5 月 11 日 (火)  



この黄金週間に ご案内しましたお客様からメールを頂きました。

肥前名護屋からのY様からです。その要旨は
少年時代に肥前名護屋城址周辺で見かけた『伊達政宗公陣跡』という文字でから貞山公に関心を持ち、九州の辺境地で、地元の書店や図書館を訪ねてみても「伊達家」に関する資料に巡り合う確率は極めて低く、当初は山岡壮八著『伊達政宗』と小林清治先生の『人物業書・伊達政宗』が唯一の手掛かりだったと記憶しています。山岡氏の小説版政宗公は左隻眼で、小林先生の解説版政宗公は右隻眼。おまけに画像・木像類の殆どは両眼。周囲の年配者に尋ねると「矢で片目を射抜かれた豪傑武将」という異なる話まで出てくる。

独眼竜が代名詞のような戦国武将にも係わらず、書き手・作り手・語り手によって身体の描き方すら異なってま@す。

風土・匂い・肌触りやスケール感を体感しながら“本物”に接することに勝るものはないということを再認識させて頂きました。「百聞は一見に如かずA」とはこのことです。

@について、参拝者の全てが、Y様の様に、精通された方ばかりではないのです。小説を真実と理解しお出でなる方がそれなりにおります。それ故 ガイドの存在価値があると理解しています。

Aについて、確かに瑞鳳殿は復元されたものです。仙臺城も岩出山城も址です。でも 風土・匂いの体感は絶対と私も思います。

Y様は九世政宗公まで了知されています。この様な精通したをご案内した事は望外の喜び、収穫でした。
今回 訪れた様子の無い 大崎八幡宮・陸奥国分寺・四ッ谷用水、又 政宗公の時代に着工した貞山運河等の・史跡等を実見・肌に感じられるに 再来されるをお待ちしています。

陸奥南部からのY様からです。
御夫妻での参拝でしたが、途中で配偶者を拝殿に休息させ、ガイド内容を携帯に即時記録し、撮影していました。数いる歴女でも、誠に達者な方です。
本殿で極楽を語りましたら反応されました。して、伊達家の宗派を問われました。何か宗教関係に御縁のある方かなと思いましたら、人生相談等を成されているとの事でした。

今日から、ブログhttp://55768726.at.webry.info/に瑞鳳殿参拝の様子の掲載が始まりました。ご一読を。



5 月 10 日 (月)  



本 2冊

1.戦国武将ゆかりめぐり旅 政宗公と幸村公 
2.毛髪で縫った曼茶羅

1の本は、4月に発行された本で、瑞鳳殿ガイド仲間のNさんが取材協力されたものです。

帯には、「戦国武将の視点の旅行案内。ゆかりの地をめぐり、生き様をたどる写真と文章で再現する戦国の臨場感。名跡95ケ所の行き方とおみやげ 散歩地図付」とあり、著者はProjet.de.Lundi(プロジェ・ド・ランティ)。夫が文章と編集、妻が写真とイラストを担当とあります。夫妻は仏蘭西国籍の人でしょうか。

小林清治著「伊達政宗」 佐藤憲一著「伊達政宗の手紙」等の学者の文献を参考にしており、小説を参考にしたとは明記していません故 信頼おける記述になっています。
文章は簡潔にして、情緒があり、写真の対象選択のセンスには敬服、イラストも綺麗で、絵本感覚で、史実を楽しめる本です。 私の好みです。

残念な点は、政宗と正宗が混在記述している事です。年代的に書き分けた様子がありません。校正不十分と見ます。
発行は双葉社 定価1400+税金

2の本は、青葉区 昌繁寺に元禄5(1692)年 法師空念作と伝わる「毛髪曼茶羅」についての専門書です。
瑞鳳殿でのガイドの際、本殿は極楽を表しています。「極楽とは どんな所でしょうか」の説明の際、昌繁寺所蔵のこの「毛髪曼茶羅」等をお見せしています。

昨日 市内の御夫妻をガイドした際 「毛髪で作った当時は 白黒でしかつくれなかったでしょう。現在 毛髪を寄進する方がいるか いないかは別として カラーで作れるかも」 すぐ反応したのは奥様。光頭の配偶者はポカンとしていました。

このように世話になっている「毛髪曼茶羅」。朝刊新刊案内欄 トップに紹介されています。
内容は、空念は漂白の僧で、昌繁寺とほぼ同じ図柄の毛髪曼茶羅が 大分県宇佐市・極楽寺に、又、青森県藤崎町・摂取院にも伝わっている。又、毛髪を喜捨して極楽往生を願った民衆の祈りとは。と広い論考で、謎解きの楽しみも味わえると紹介しています。早速 書店に注文しましょう。

著者は、名古屋大学研究員の日沖敦子。発行は 新典社 定価1,500.



5 月 9 日 (日)  



快晴 新緑輝く これが「五月晴れ」でしょうか。瑞鳳殿の八重櫻が満咲くです。

午前中に所用を済ませ 12時直前 城下に入った途端 交通規制。瑞鳳殿に向かう行く手が遮られました。やむ得ません、裏通り・路地をクネクネし瑞鳳殿に到着。
NKさん「今日は沢山の仲間が待機していましたが 仙台ハーフマラソンで交通規制、ループルバスも運行停止で参拝者は少なく ガイド出来なく 帰りました」

瑞鳳寺山門迄 降りました。タクシー氏 暇を持てあまし「マラソンで交通規制。市内は走れないし、お客さん来ないし、全く迷惑だ。秋保温泉等の郊外で開催してくれ」とブツブツ。同感。

14時過ぎ ループルバスも運行再開したのか 参拝者登って来ました。

凾館の中学生 修学旅行 4人男女の班単位で 何組か参拝に見えました。内1組に「10分でガイドします」とポイントを絞りガイド、市史通信をレポートの資料に上げました。写真も撮っていました。どんなレポートになるでしょう。

参道追分けで先生は「仙台と松島を一日で見学をする。色々な乗り物を使い 効率的に見学する事も勉強の内。先程はガイドして頂きありがとうごいました。悦び自慢していました」

「私達 仲間 この陣羽織を着用し 無料で土日にガイドしています。生徒さんの希望時間内でガイドします。孫と会話する気分でいます。来年 お出でになる節 〔陣羽織を着ているガイドは安心だから〕と 生徒に話され 活用してください」

続いて、苫小牧の中学生の一団が「ヒコーキで千歳から来ました」と ジャンボ機の様に駆け抜けて行きました。北海道には無い 桃山様式の廟建築美を見学し理解したのか。事前学習はどうなっているか 無関係の爺様が心配になりました。

久々(私にとって)に団体 バス3台入りました。印度で占有率NO1と聞く S自動車のユザー一行です。本殿前で記念写真されたらと思いますが 皇国日本の年代の方が多いのか、涅槃門の菊紋を背景に集合写真を撮っていました。
地元バス会社NO1のガイド嬢に、会社の担当者に、大手旅行会社の添乗員と 厚い布陣で案内していました。ボラガイトは プロの仕事の様子を勉強させて頂きました。

新潟からの母娘。小6年?「この子 歴史好きなの」 確かに母娘 同位置レベルで聞いていました。小学生の場合 相当に斟酌し ガイドしますが 消化不良気味になりますが この娘さんは その心配はなかった様です。
楽しんで頂いた様です。間もなく 娘さんが「オジサン これお母さんから」と お茶のボトルを持ってきてくれました。ありがとうごいました。「お母さんによろしく」と有難く頂きました。

竹杖を駐車場で借用し、拝殿等に放置して帰る方が 最近多く見かけます。今日は2本回収しました。
2本目回収中 涅槃門の石段を見上げている婆様。同行の婦人は手押車を持っています。階段には使えません。

「此処まで漸う登ってきたが、未だ石段があるのか。高そうだな。政宗公に会えないのか」 と嘆いています。
「お客様 この杖使って下さい。駐車場に回収箱がありますから」 「有難い。有難い。 地獄に佛 ついでにガイドをして」 年の功です。転んでも只起きない精神は見習なければ。

「お客さん 私のお姉さんのようですが 幾つですか」 「ハイ 90余歳です」 正確な年齢を教えないとは、歳をとっても女性です。お姉さんと呼びかけましたが 親子に使い年齢差 お元気です。

「山梨県は恵林寺の隣から来ました。瑞鳳殿をお詣りしたくて 娘に連れてきて貰いました。今晩は仙台に、松島・鳴子と4泊の行程です。政宗さんに会うのは今回 今生の別れかも。素晴らしい。お詣りできてよかった」

丁度 西日で竹に雀の家紋等が黄金色に輝いています。「カメラ忘れたのが 最大の不覚」と申されます。「撮しますよ カメラ持っていますから。住所にお名前をメモして頂ければ 送ります」に 「そこまで 迷惑かけられない。目に焼き付けます」

「お元気で 又来年櫻が咲いたらお出で下さい」 「はい ありがとう。お爺さんもお元気で。でも会えるのは あの世でしょう」 カクン

最後 記録すべき質問
瑞鳳寺の墓地に 卵を縦二等分した形のお墓がありましたが。
鹿児島縣 7士の墓とは なんですか。



5 月 5 日 (水)  



暑いです。半袖で 逞しい腕を披露しながらガイド見えた仲間がいます。
黄金週間 大多数の方は今日までです。参拝者も3日に比較し 少なくなりました。城下の車の混雑ありませんでした。皆様 生産・修学の場に帰ったのでしょうか。

あかとんぼ 4日目 12時て体力気力が尽きました。体重は1kg程軽くなりました。

ループルバス1番到着時刻 沢山の方々。手水所で順番を待っている壮年男性のズボン右ポケットの位置に「竹に雀」家紋が金色に輝いています。恐る恐る Uさんと一緒に 「伊達家の家紋でしょう」 「ハイ」出した手ふきも「竹に雀」家紋が。オドロキビックリです。静岡で購入されたそうです。家紋の使用に 伊達家ご当主の許可を得ているのか 定かではありません。

肥前名護屋から見えたそうで、Uさんは 名護屋城址探索に訪れた話 しきり。訪れ方 探し方を伝授されました。「今回のご旅行は?」と 問に 「政宗公の道順を逆に辿っています。昨日は岩出山に、松島で博物館も見学し 今朝 待望の瑞鳳殿に到達しました。 「あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌」熟読しています。今日いますか」

「はい 私です。佐賀・名護屋の方が読んでくださっていたとは感激です」とお礼申しあげました。
すべてご承知の方ですので 通常のガイドは抜きにして 本殿までご案内しました。暫く 拝礼していました。
胸中 如何なる思いで拝礼されたのでしょう。

新潟から御夫妻。「2人でもガイドして頂けますか」 「ハイ 喜んで」 涅槃門を潜った時点で 壮年夫妻が同行。ご夫人は なにか逸物持っている様子です。ガイド内容を絶えず 携帯電話で記録しています。そして色々と語ります。求道者で高野山をお詣りし、政宗公も伊達家も 何れの墓所もお詣りして来ました等です。配偶者は拝殿で休んでいます。人生相談をしています。HPを見てくだいとのことでした。HPもブログも 教えられたキーワードでは検索出来ませんでした。当初依頼の新潟から御夫妻には 手を抜かずに 中心に据え ガイドしました。

感仙殿地区までガイドして戻ったら11時50分 Eさん Uさん Nさん NNさんに あかとんぼ と5人の爺さまガイド 揃いましたが 参拝は一段落 コールがありません。黄金週間の活動を集約・反省し12時散会。かくて黄金週間は 終わりました。

全世界から訪れ いろいろご教示くださいました お客様 
情報提供叱咤支援してくれた 仲間 
陰陽となりサポートしてくださいました(財)瑞鳳殿の皆様 
貴重なご教示下さいました仙台博物館の菅野様 
日々ご多用の中 お読み頂きました延べ130余名のみなさま 
ありがとうごいました。



5 月 4 日 (火)  



8時50分から15時45分迄ガイド。10時30分から12時30分迄ご依頼ガイド。

8時50分の群馬県からのお嬢さんは単独。リックを背負って 歩くゾ の意気込みが溢れています。ループルバス到着時刻前です。どちらから と尋ねたら 路線バスと徒歩です に納得。

涅槃門前撮影ポイントを紹介したら、撮影後 ガイド依頼がありました。朝一のお嬢さんは 爺様ガイドを敬遠する傾向がありますが、この方は爺様を信頼してくれたのです。
透かし彫りの彫刻、彼女の希望するように撮影出来ない様子です。あかとんぼのHPの出力したものを披露しました。希望と一致の様子。HPのURLを教えました。参考になる資料があるのかな。

本殿で説明終わった所で、携帯の着信音。ご依頼あった方、仙台宮城ICに到着したとの連絡「ナビ使用していますか。設定を瑞鳳殿では無く瑞鳳寺に変更してください」「瑞鳳殿になっています」「はい それを瑞鳳寺 寺に変更して下さい。変更して頂かないと約束の場所に到着しません。後10分たらずで到着します」

群馬県のお嬢さんに、「お嬢さんの市外局番0276ですか」に 「私は027です、0276は群馬県の何処かです」と教えて貰いましたので、駐車場入庫待の長蛇の車から「群馬」ナンバーを探しました。7-8台目です。第2駐車場も満杯です。朝一のお客様が帰る時間です。そのまま待機して頂き10分程で入庫出来ました。

駐車場から駐車場まで普段ガイドしない資料館を含めて丁度2時間を要しました。瑞鳳殿地区を堪能された様子です。仙台市内地図 持っていないとの事で 手持市内地図を差し上げました。

今晩 秋保温泉に投宿との事で、「政宗公の墓室の石 秋保石とも言われています。ご近所の大谷石同様に加工容易で 瑞鳳殿の墓室の石材とも言われています。秋保温泉で採石場の跡が見られますから お楽しみに」と

境内の敷石を見て「これ玄昌岩ですね 宮城県が産地ですネ 東京駅の屋根がそうですネ」 石を知って居られる方です。秋保石も期待し見学されるのでは。


姉が北海道・留萌から、妹が札幌・白石区からの若い姉妹をガイドしました。昨日 片倉小十郎を尋ね白石まで行ってきたと。歴嬢でしょうか。奉納供養燈篭 これが片倉小十郎重綱が奉納したものですに 夢中・競争で撮影していました。

本殿前で家紋の話しをしたら「母は○戸です」 「岩手県 南部領の出身では?」 「そう思います」 「でも 祖父の蔵には 〔九曜紋〕の太刀とか ナニカがあり、九州・細川家と・・・・・ムズムズと語っています」それでは、お爺さんのお話しをよく聞いて、宝物が発見されたらメール下さいとお願いしました。


些か 疲れたので 終わりと 思った途端 「ガイドさん 待っていました。帰ってくるのを待っていました」と女性4人から大きいかけ声。断る訳にはいきません。祖母と母と娘2人で 茨城県から車でお出でになったそうです。

「伊達家の発祥は〔常陸の國 真壁郡伊佐の庄 中村〕と言われており、現在の筑西市・・・・・・」と語ったところ 「ハイ そこ筑西市から参りました。昔の下館市です。筑西市と改名には反対したのです・・・・・」 観音寺・遍照時・中村神社等 伊達家関連史跡をよくご存じでした。伊達家発祥の地からお客様です。ガイドは丁寧にかつ熱を帯びました。

五色水玉模様陣羽織 素敵なデザインの評を頂きました。政宗公も喜んでいるでしょう。あかとんぼ 着用のもので2万円。写真で見た本物 竹に雀の家紋を金糸で刺繍等で作れば 100万円すのではの値踏みでした。母親 和服関係の仕事をしているそうです。結城紬の産地で、関連業種の方 多数いるそうです。

職員駐車場に「つくば」ナンバーが駐車。皆様の車で、祖母が「これ私の車 ナンバーは生年月日です。長島さんと一緒なの」 なんと あかとんぼ の生年と同じです。再会を期して硬い握手をして別れました。孫達 年寄りに再会の機会あるかと怪訝な貌。一期一会です。皆無とは保障されたものでもありません。



5 月 3 日 (月)  



本日の参拝者 昨日150% 30,000?人の感じです。正確に何人のお詣りあったかは 明日事務所にお尋ねしないとわかりません。

本日は15時30分で気力体力が尽きました。9時にスタートして、この時刻になっても 怒濤の様に参拝にみえます。ガイトして上げたい の気持ちはありますが これ以上は 「年寄りの冷や水」になります。終わりにしました。

狭い道を通って 他県ンナバーが入って来て 立ち往生しています。原因はカーナビの設定誤りです。朝 交通整理、来客用駐車場の説明に時間を要しました。そうしない事には あかとんぼ も駐車出来なく ガイド出来ませんから 他人の為ではなく 自分の為かも知れません。

拝殿の音声ガイド 外国語を聞いている若いペアがいました。石段の途中で 一緒になりましたので 常の如く
「you from to china or coria」に 返ってきた言葉 「私達 日本人です」 いやー驚きました。「外国語の勉強していたのです」でした。亜細亜は一つ、顔では国籍が分かりません。言葉が頼りですが それで失敗しました。

熱心に聞いて下さる方には、五色水玉模様の陣羽織の背中を提供 ペアの写真のモデルになって、お礼に意を表しています。又、政宗公のご生涯・ご尊顔等に興味を示された方には 「仙台市史通信」を差し上げています。政宗公の像等のコレクションが掲載されており 市販図書には記載ない 貴重な資料です。今日も「ガイドを聞いて下ってお礼です。些少です」と差し出したら、喜ばれ・恐縮されました。

手持ち部数が少々になりました。先着順打切りかなと思っていました。仙台市史編纂室長の菅野様から、数十部程度用意出来ますと 誠に有難いメールを頂きました。ホットしました。欲しい方おりましたら 早めに参拝にお出でくだされば。

併せて、「九曜紋」についての参考書として、仙台市博物館学芸員 高橋 あけみ著「伊達家の家紋に関する一考察家紋の覚書と美術資料に見る伊達家の家紋及びその変遷」(『仙台市博物館調査研究報告 No.19』)を 教示頂きました。誠に有難いご教示です。購入・熟読致します。

瑞鳳殿で発掘された「黄金ブローチ」(国宝)や狩野永真安信筆「政宗公像」(馬上少年・・・)等を手持資料で紹介します。現物 本物が 現在 仙台市博物館の常設展に展示しています。又 政宗公の騎馬像は本丸にありますが、お顔は 肉眼では確と拝見できません。どうしてもなら 博物館中庭 3の丸に胸像があります。ぜひ お立ち寄りなれば と勧めています。初めから 博物館見学を予定していた方も いますが あかとんぼの話しで肯いてくれる方もそれなりいます。何人かは 真物を拝見してくれているでしょう。

博物館は この市の博物館のみ 念頭にありました。今日 初めてです。「歴史博物館はどこですか」と問われました。「東北歴史博物館は東北本線 国府多賀城 下車すぐです」とお答えしました。
仙台イコール政宗公は瑞鳳殿の観念でいました。 宮城県イコール国府多賀城もあります。天智天皇の御代、739(天平9)年の昔にロマンを求めてお出でになる方いるわけです。ハッとしました。
史跡多賀城でやはりボラガイドをしている友人に 報告しなくてはと思いました。

午前 仲間9人がガイドに努めました。
Eさんは少年と本殿前で2時間以上 話していました。少年は小説等から政宗公像を築いていたので 小林清治先生等の著書を読む事を薦めたいた所に、私が 上記「仙台市史通信」を差し上げたそうです。市史資料「伊達政宗文書1−4」を知り、買いに行きますとなったそうです。1冊4,000円と高価で且つ重量があります。おとうさんが納得してくれるかな。果たして お父さん 息子の為ならと 大金を叩いてくれたか。御子様手当を前払い投入したか 定かではありません。



5 月 2 日 (日)  



黄金週間の何日目かです。参拝者は大津波の如くです。

朝一番のお客様は、9時前です。福井県からで、境内のラドン温泉に宿泊され、昨日は松島と仙台城を見学、今朝は開門を待って登って来たと申される親娘3人。資料館を除き「御子様御廟」まで 案内しました。

表参道を登っていたら男の子 「おかあさん これ 龍のヒゲ 珍しいね」  母親「なによ それ 雑草でしょう」 「お兄ちゃん 偉い そのとおり珍しい植物です。何年生ですか。どうして知りました」 「小6です。近所のお婆さんに教えて貰いました」
何処の方か聞き漏らしましたが、親や学校で教えない事を近所の人々が教える、地域で子育てをしている地域からです。昔の日本が残っている所があったのです。
参道の石段と歩道との間に 新規に植採されています。

福島市からの若夫婦。「1189年伊達家の先祖は 松川トンネル付近の戦いで勝利し・・・・」に 「エッ・・・」 「福島市や伊達市には 伊達家関連史跡が沢山ありますね。松川に近い 城山(ジョーヤマ)も史跡です」 「ヒッー ウチ 城山なの・・・・・」

小5と小3の子連夫婦。栃木県から。あかとんぼのマゴトンボと同学年です。孫に説明するつもりで 噛み砕いて説明したつもりでしたが、「ワカラナイ」と言われました。お母さんは よく分かったと 「天女さんのお肌 スベスベしていて キレイー」と喜んでくれました。

横浜からの老夫妻。九曜紋は細川家の家紋でしょう。なぜ伊達家の8家紋の1なのか。瑞鳳殿寶華殿 なぜ 撮影禁止なのか の質問。

九曜紋についてご発言で
1.太陽系で一番大きい星は木星で、輪も計算の内であれば土星になるかも知れませんが?。
  帰宅し確認しました。赤道面での直径 木星は142,984km 土星は120,536kmです。土星の輪を計算にいれるのは通例では無いでしょう。九曜紋の中心は土星で紋の中で最大直径ですが 太陽系で最大では ありませんでした。ご指摘くださいました お客様に感謝致します。

2.九曜紋は細川家から使用を許されたのは 何時か。
1597年慶長の役での帰国以後と理解しています。正確な年月は確認しておりません。

「ボラガイド居ます」の標識 目に入らない人が多いですが、あかとんぼ も目に入らない人でした。昼食の焼お握りを アルミホイルで自分で包みました。 暫時経過 「お爺さん 貴方も目に入らない人ネ お握りの側にホイル用意してあったでしょう」 と支援機構理事長のご発言。 みたら ありました。マイッタね。

瑞鳳殿のお詣りを終わると感仙殿に廻らないで、表参道を目指す方が数見られのました。「此処で戻られると 見物半分です。感仙殿を廻られても駐車場に行きます」と ソフトに案内しているつもりですが 中には「出られないの」「出られます」「なら いいだろう」と啖呵を切られるお客様がいます。気の弱いあかとんぼ はシュンと小さくなります。

本日は14時16分で気力体力が尽きました。

カーナビで 狭い道を通って職員駐車場に入ってくる車多数です。帰宅時 進路妨害されました。「瑞鳳殿参拝ですか。此処は勝手口です。お客様専用の立派な駐車場はあちらです。誘導します、尾行してください」 2台の内1台が追尾してくれましたので 誘導しました。カーナビは 正確過ぎる結果です。



5 月 1 日 (土)  



5日連続休。休む人いれば働く人が居ます。ガイドする予定でしたが所用の為中止しました。明日から5日迄 体力・気力の続く限りガイドする予定です。

「仙台市議会たより」が過日配布になりました。
市議会は会計年度ではなく、暦年制であることを初めて知りました。2月議会が本年第1回定例会だそうです。
予算等審査特別委員会で「瑞鳳殿や大年寺山周辺の観光資源としての活用について」と題して質問されています。市長の回答が如何なるものかは記載されていません。議会議事録がWEB公開されるのを待ちます。

尚、質問した議員は、戊辰の役 殉難者数の市史記載の整合性を本会議で質問した議員です。

瑞鳳殿地区の環境整備・安全対策工事が着々と進行しています。例えば
1.表(東)参道の石段の両脇に通水性舗装がなされ、車椅子での昇降が可能になりました。
2.裏(西)参道の石段は、グラツキが留められ、手摺りが設置されます。
3.駐車場にトイレが設置され、手荷持の一時預かりを間もなく実施するそうです。

この様に、(財)も行政も 観光資源として 活用し喜んで頂けるように努力しています。ボラガイドと申せ 努力が求められていると痛感します。


過日の福岡のお客様の様に 「ここは何ですか。伊達政宗とは どんな人ですか」と 問われる。問わないにしても 知らないで「フー 綺麗」で 帰る人がそれなりにいるでしょう。

それで、あかとんぼ は
「此処は 仙台藩祖 伊達政宗公の御霊屋 お墓です。政宗公は永禄10年8月3日太陽暦1567年 9月 5日(金)、現在の山形県米澤市で誕生しました。
豊臣秀吉の小田原の北条攻めの際 その臣下となり、その後、徳川家康、2代将軍 秀忠 3代将軍 家光と4代の時の最高権力者と ほぼ対等に対応した、戦国時代末期の有名な武将です。

東西の対決 関ヶ原の戦いの前 1600年に、青葉山に仙台城を築城し 仙台の町を開いた武将で 現在の100万都市の基礎を作られた人です。

この廟は、桃山様式の豪華絢爛な建物で、日光東照宮以北 最大であり国宝でした。1945年7月10日の戦災で焼失、復元したものです。 それでは涅槃門に・・・・・」と ガイドしています。





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