2010年8月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




8 月 31 日 (火)  



瑞鳳殿ガイド 平日も

瑞鳳殿のガイドの体制を土・日・祝日に限らず平日も、そして自由ではなく 割り当て制で実施したい の提案の実施は 昨日の会合で保留になった。
「ガイド不在の日・時を無いようにしたい趣旨」には 賛成です。

あかとんぼ は昨年は82日回 今年は1月から8月末で 既に 52日回実施した。9月から12月迄 日曜・祝日が22日あります。今後の依頼ガイドを含めないで 74日回以上となります。年間日数の20%を占めます。

これに平日1日が加わると 年は52週の倍に 祝日15日 の合計119日回 33%の稼働となります。 3日に1日の割です。
余生と云われても ほかに行くところもあります。高齢者には 休養も必要です。 これは厳しいです。
 
総論賛成 各論反対 年寄りの典型と 云われますが 総論には賛成です。 日曜日プラス平日 週2日制の実施は 気力体力から厳しいです。 自由制で 気力・体力 時間に余裕がある時に是非 ならば 出来るが 、もし 提案のとおりの実施となったら 脱落するでしょう。 保留になり まずは安堵です。



8 月 30 日 (月)  



「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランティアガイドの会」の会則第9条4項に基づく定例会が開催されました。

冒頭 (財)瑞鳳殿常務理事から 「年間参拝者数は20万人を越えた。8月中の参拝者は日に1000人以上です。それには ボラガイドの常駐の効果もあるでしょう。尚、参拝者に好感を得るように環境整備に努めます。参拝者の生の声に接している皆様のご意見等を聞く会を9月中旬開催します。よろしく」と挨拶がありました。

E会長から 土・日・祝日にガイドする事で10年以上になる。平日の参拝者が数多く、一流観光地では ボラガイドが常駐するが定着してきた。当瑞鳳殿ガイドも 平日もガイドする様にしたい。ついては @賛成か A平日を割当制にする B現在同様自由制とする。いかがか。

あかとんぼ は B現在同様自由制に賛成である。 そもそもガイドは自由意志で行うべきで 割当 強制されるべきものではない。割当日が不都合の場合、交代要員を探して、依頼して、報告してと 時間的・精神的 負担が過重になる。現在 日・祝日はガイドをすると決め 万難を排しガイドをしている。さらに平日 1日増やす。ガイドを都合のよい曜日 申告制で実施す事にして欲しい。

E代表は 「割当 強制すべきものではない 調整し ガイド不在の日・時を無いようにしたい趣旨である」と説明。あかとんぼを含め 参加者一同 納得の様子。

1−3月の厳寒期 これまで 日曜日は あかとんぼ のみ か あかとんぼプラス1人の日が 往々あった。土日プラス平日と1週間に2日の出番 賛成した方々 厳寒期は大丈夫かな。

その他で
ア.写真・図面等の一目了解資料と指示棒を活用して欲しい。
イ.間違っても 「ご質問ありませんか」とガイド冒頭に お客に問い 「ご質問なければ・・・・・」とボソボソとガイドする様なことは 絶対に ここ瑞鳳殿ガイドではしないでください。

イ.についての E代表の注意に 一同 唖然とし 腑に落ちない表情でした。

意見交換で、
あ.タクシー運転手 バスガイドから ガイドを依頼されたら どうするか。
  1.彼らは 職業人である。対価を得ている。断る。
  2.依頼されたら 快く 引き受ける。

 あかとんぼ は
    県外からのバスや 新人運転手では 知識が十分で無い場合がある。その人々が不正確なガイドをされては お客様に失礼であり、地元としても不快である。地元精通者と理解して依頼あった場合は 快く 引き受けるべきである。
    依頼の無い場合は 一切 口を出さない。たとえ間違っている説明があっても。

い.ガイド途中に寄ってきた お客様が 割り込み質問されたら どうするか。対応していると本来のお客様が去ってしまった。

 あかとんぼ は
 「こちら お客様から依頼され 下からご案内しています。終わります迄 お待ちください」とはっきり 断る。 一段落したところで「先ほどのご質問は?」と 問い 対応する。
 本来のお客様をないがしろにしては 失礼です。契約違反の気分です。


金銭抜きで ボラガイドをしている人々です。会合案内も「研修」でした故、会合の冒頭 表題の発言に 全員 目を白黒していました。



8 月 29 日 (日)  



9時前に 涅槃門前広場から嬌声が響いて来ました。老若男女 多数です。聴き澄ますと 外国語です。続いての団体も 同じ外国語です。いずれの国か定かではありません。丁寧に参拝され、資料館もゆっくり見学していました。添乗員が迎えに来ました。それほど 丁寧に参拝された訳です。

テレビで 中国大陸から成田空港に入国し、東京・富士山・名古屋・京都・大阪と経由し 関西空港から帰国する5泊のコースが黄金行程と かの国の旅行会社のヒット商品だそうです。1ケ所の見学が30分程度 駆け足で お土産の予算が300万円とか。

30分の見学時間を超えそうになり 添乗員が叫んでいたのでしょうか。
成田から東京・富士山・仙台のコースの商品は 白銀行程として売り出されていないのでしょうか 。

9月15日から26日まで、仙台で 2010年日本APEC(アジア太平洋経済協力)第3回高級実務者会合と関連会合が開催されます。市広報9月号によれば 仙台駅・仙台空港で経験豊富なボランテイァグループが観光情報の提供を行うそうです。我がグループの経験は未熟 日本語専門では駄目と評価されたか 依頼は まだ ありません。

日本語と英語でも ガイド出来る「GOZAIN」グループに、仙臺城と大崎八幡宮の公式ガイドの依頼があったそうです。瑞鳳殿が 対象から外れている事について 「どうしてかな」と首を傾げていました。桃山様式の豪華絢爛な廟です。戦災で焼失し再建したものですが 忠実に復元しています。日本文化の神髄の一端を 外国の方々に紹介して欲しいものです。


本日も何組かのお客様をガイドしました。印象に残ったのは 三重県からの3世代4人連れです。高校2年生の男子。伊達家の家紋に興味を示されました。高齢の方は我が家自慢で家紋を語る人が多いですが、高校生では初めてです。手持資料の家紋の項 欲しいとのことで事務所にコピーをお願いし 差し上げました。

伊達家と政宗公についても 調べているとの事でした。奥州仙臺から遠い 三重の地で容易に資料が入手出来るか心配です。あかとんぼ で手伝い出来る事あれば します と約しました。 


昨日の愛姫の記述は 「紛らわしい 事実誤認? 正しくは」と Eさんからメールを頂きました。ご指摘のとおりです。昨日の日誌を修正しました。再読して頂ければ。
Eさん ありがとうございました。



8 月 28 日 (土)  



愛姫のお住まい と 夫婦関係

天正19(1591)年9月23日 政宗公は岩出山城に 米澤城から移転 入城しています。
同年 月日不詳 秀吉から京に屋敷が与えられ 2000人を動員し普請をしています。
翌年 文禄元(1592)年1月5日 岩出山を出発 京に向かっています。その儘 「文禄の役」につながります。

この政宗公の上京の際、愛姫も上京したと思っていました。

しかし 秀吉は天正18(1590)年7月28日宇都宮にての奥州仕置で南部信直、佐竹義宣、最上義光と共に妻子の京 在住が命じており、米澤から上京した事になります。同年10月16日からの大崎葛西一揆で 政宗公謀反の疑いが持たれた際 京都の人質は「政宗真実ノ御内儀ニテ無之」「カリノ女房衆」・・・・などと言われている事を(貞山公治家記録 巻之十六)で伝えています。 この項 Eさんのご指導を頂きまして 8月29日19時27分修正しました。
 

愛姫は 京において
娘 五郎八姫を 文禄3(1594)年に。 
忠宗公を 慶長4(1599)年に、 出産しています。


慶長7(1602)年10月 政宗公は京・伏見を出発 江戸に入りました。屋敷は、その生涯を閉じられた 外桜田の屋敷(上屋敷)です。

愛姫は 江戸において
宗綱を 慶長8(1603)年に。 
竹松丸を 慶長14(1609)年に、 出産しています。

政宗公の晩年 愛姫は 屋敷内の別棟に住まいしました。
京の時代 江戸の初期は どうであったかの 資料にまだ遭遇していません。わかりません。「俗世間的 江戸城大奥物語」と同様でしょうか。


慶長13(1636)年5月23日 愛姫は「お見舞いに行きたい。会わないのは特別に訳があるのか大殿と奥方との対面に格のある作法を定め 守る様にしているが 病気中ですから 別ではない」の文にをだしています。これに対し「病中 心身取り乱した状態で会うのは見苦しい。武士というものは、妻子を死の床に集めて死ぬのは本分ではない。あなたは〔家の母たる御人〕です。軽々しくふるまえるのはある程度以下のです」と返事し ついに面会していません。

武士というものは、妻子を死の床に集めて死ぬのは本分ではない これは 政宗公の戦国武将としての 心意気でしょうか。


現代の感覚では、熟年離婚の夫婦に 似ている様にみえます。「木村宇右衛門覚書」の著者木村宇右衛門は次の様に記しています。
1.愛姫の御座所と政宗公の御小書院とは、別格に建てられ、仕える局も別々である。
2.両方に使われる女衆の境に「間の仕切戸」があり、その中に老女格の局があった。
3.朔日、15日、28日の月3回 政宗公が愛姫に挨拶に伺う定めで、羽織・袴であり、節句行事には上下(カミシモ)姿であった。
4.愛姫は、征夷将軍坂上田村麻呂の子孫であり、女性であることから巫女性を崇めて、正面主人席に座し、政宗公は3間下がって座した。
5.お膳も御杯も愛姫より 先に手をつける作法であった。(毒味の意?)
6.政宗公を愛姫が饗応する時は、政宗公の「御相伴衆」を招いた。.
7.政宗公が愛姫の御座所に行く時は、愛姫は「お茶の間口」迄 出迎え。帰る際は 「御門送り」され 「御一礼」(お互いに深く一礼をする)をもつて終わりとする。が、その後「御名代」をして互いに礼を述べる。
8.五郎八姫が家康六男「忠輝」と離縁〔元和2(1616)年7月6日改易〕後、共寝はやめた〔政宗公50歳〕。が、布団は並べとり、寝巻はは年に一回 洗濯をした。
以上の様に記し「御ふうふの御中よく」と結んでいます。


征夷将軍坂上田村麻呂の子孫であり、戦国武将の正室である故に 統率力と男気を持たれていたようです。

昨日・今日と整理しましたところで、文禄元(192)年に上京し、後 江戸に住まいし、亡くなられて 松島・瑞厳寺に直行 埋葬されています。岩出山城も、仙臺城は見ることも無く 住まいすることも無かった訳です。愛姫の 現在の宮城県での生前のご縁は 小坂峠から二井宿峠迄の七ケ宿街道(113国道)を嫁入り道中で通過したのみと なります。

本稿 後半は 小林千草著「伊達政宗 最後の日々」 講談社現代新書によりました。



8 月 27 日 (金)  



陽コ院・寶華殿

陽コ院とは、
政宗公の正室 愛姫の菩提寺として創建された。松島・瑞厳寺の北隣に所在し、臨済宗妙心寺派に属し、山号を萬歳峰と号する。本尊は釈迦如来。

慶安元(1648)年 忠宗公の命により普請が開始され 
慶安3(1650)年1月17日 開堂された。
元禄10(1697)年12月 焼失。
元禄16(1703)年 再建。
明治8(1875)年 廃寺。
明治40(1907)年 寶華殿を残すのみ
大正14(1925)年 瑞厳寺専門道場として再建。現在に至る。
平成20(2008)年 庫裡 改築。伊達時代に遡る建造物は、寶華殿と山門のみ。

寶華殿とは、
政宗公の正室 愛姫の御霊屋。

愛姫は、福島・三春の田村清顕の娘で永禄11(1568)年に生れ、天正7(1579)年に政宗公と13歳で婚姻。
寛永13(1636)年 政宗公没後 瑞厳寺住職 雲居 に帰依 尼となり 榮庵壽昌 と号した。
承応2(1653)年1月 政宗公の没18年後86歳で 江戸で亡くなり、遺骸はは松島・陽コ院背後の山上に葬られる。
萬治3(1660)年 廟を創建 寶華殿と称す。
元禄10(1697)年12月 陽コ院の火災では焼失しなかった。 
昭和28(1953) 宮城県指定文化財に 観覧亭、円通院とともに指定になる。
昭和30(1955)年 伊達家 松島町に寄付。 町は瑞厳寺に「維持に努めるを条件」で無償譲渡。
平成21(2009)年3月31日 平成の大修理完成。


平成の大修理概要
1.修理方針 
  屋根葺替 および 部分・塗装修理
2.事業運営
  宗教法人・瑞厳寺 直轄工事。
3.設計管理
  (財)文化財建造物保存技術協会
4.工事施工
  松井建設
5.工事期間
  始 2006年8月1日 至 2009年12月20日
6.事業費
  145,791,150.
7.その他
  調査報告書300部刊行
  配布先 宮城県教育委員会と協議


以上は「宮城県指定文化財 陽徳院霊屋保存修理工事報告書」によりました。
本図書は 仙台市広瀬図書館で偶然 発見 借出。 

陽コ院・寶華殿の由来、工事前後の写真、工事箇所の詳細な工法・数値が記載されています。
瑞鳳殿でのガイド中 正室 愛姫の御霊屋に話題が飛ぶことがあります。その基礎資料として精読中。

以上まとめの最中に、愛姫の御生涯の年表が手元に無いことに気づきました。宿題です。



8 月 26 日 (木)  



秋冷の候とは申しませんが、約40日続いた真夏日は終ったようです。

瑞鳳殿ガイドのさなかは 暑さは感じませんでした。しかしながら 全身 汗ダクでした。下着も上着も 絞って 器に溜まる量の汗、顔面を汗が流れ目に入り 口に入り 塩辛く感じました。又 脇に抱えた 資料集のファイルの表紙上に水が流れ小川を形取っていました。ガイドの時間中 水 500mlのボトル 1本半は飲みました。塩飴をしゃぶりました。

体は、暑さを感じ 生命維持装置が稼働し 水分と塩分と糖分を求め 大量の発汗をしたようです。これで7月4日から今日まで14日回 無事ガイドが出来ました。

ボラガイド支援機構理事長の評は「あなたは、僧侶でも 武士でもない。滅却心頭火自涼 と天正10年甲斐・慧林寺で火中で没した 僧快川ではないでしょう。その気分で悦に入ってては 前途は無いでしょう。 高齢化熱中症の一症状です。 ○○は元気で留守がヨイの言葉ありますが △△の川を渡られると困ります。ほどほどに」と厳しいものでした。納得しました。



8 月 22 日 (日)  



暑さが戻りました。
9時 1番のお客様が石段を登ってきました。早速のガイドのご依頼。本日は出足がよろしいようです。
「どちらからでしょう」 「○○です」 「ひょっとすると ○○県○○ですか」 驚きました。○○川の上流の地です。 あかとんぼ家発祥の地です。あかとんぼ家の先祖は400年前に、川を下り 黒潮 白波に乗り 奥州は○○地に至ったのです。

お盆休み明け 一番のお客様が 祖先墳墓の地からとは なにか 御佛縁でしょうか。 両親に、年頃の娘さん2人 和気藹々です。 

拝殿の扁額の説明の際、若い人には「長持ち」を理解出来るかな、資料を開こうとしたら、「倉に長持ち 数々あります。娘達 見ています」
本殿で 埋葬状況の資料をみていたお嬢さん 「遺骨の配置状況がおかしい」 棺桶と棺箱と混同されているのです。資料の次頁で納得されました。 父親「30年前 祖父が亡くなった時 まだ土葬でしたから 棺桶でした」と 娘達も知っているだろうの推測で語っていました。昭和末期生まれの年齢と私は 推測しました。であれば 無理です。

以上から いずれにしても 豪農か 村役人か 肝入り の末裔ではないでしょうかと推測しました。
昨日は 松島・瑞厳寺を参拝され 政宗公正室 愛姫の御霊屋 寶華殿を参拝されたそうです。それでは 御当主に代わってのお礼と 五色乱星の陣羽織で 一緒の記念写真を撮影して頂きました。

中入り後 感仙殿地区に。
祖父母と一緒の中一男児。ご質問1.ここは瑞鳳殿と雰囲気が異なるがなぜか。 質問2.伊達家はなぜ 伊達と申すのか。

答え1.創建当時は 瑞鳳殿とほぼ同様な配置でした。140年前の不幸な出来事で 縮小され、さらに 65年前に空襲で被災 再建途上のためです。
答え2.源頼朝が関東一円の武士を集め 平泉に侵攻しました。常陸の国真壁郡伊佐の武士であった 伊達家の先祖が 従軍。奥州・藤原軍との初戦で勝ちました。これらの戦功で伊達郡を頂き 伊達姓を名乗る事になりました。

福島から お出でとのこと、福島大学の所在する松川。JR松川トンネル付近が 戦場跡です。山にそれを示す碑が建っています。また、飯坂・医王寺には、この時 藤原軍の大将として戦った 藤原氏の姻族・佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑がありますと伝えました。

祖母 「松川は松川事件のあった場所とは知っていたが 1000年前の事は 知らなかった。 ところで 私の生家の家紋は「竹に雀」です。なぜかは 知りません。今 聞いた 竹の葉、節、水玉の数 雀の口 羽根 の形 記憶にありません。今度 墓参に訪れた際 確かめて見ます。今日は孫の夏休みの宿題 整理に付いて来ましたが 勉強になりました。感謝です」

横浜からの若夫婦。板碑に興味を示されましたので、資料館の展示品をご覧になったか 確認の上 説明しました。感心しきりでした。妙雲廟界で足が止まりました。一応の説明をして、あかとんぼ は立ち去りましたが 立ち止まったままでした。不思議。

再び 瑞鳳殿地区に 涅槃門の前で 日本語で日本国の人に 英語で中華民国台湾の人に と2組同時進行でガイドが行われました。日本語と英語を理解する人には 同時通訳を聞いて 鑑賞している気分で楽しかったと 思います。
英語でガイド出来る日本人の方々が 多数 ガイドに近日 参加するそうです。心強いです。


福島美術館(仙台市所在)からの あかとんぼ宛の書状が シニアネット仙台に配達になり、本日 美人ガイドの誉れの高いYさんが 回収・持参してくれました。6月20日(日)に大年寺での4代綱村公回忌法要の際  同館O学芸員と刺を交換し 黄檗宗と綱村公について ご教示を頂きました。 秋には 綱村公と黄檗宗について展示をします。ご案内しますから ぜひ と申していました。その案内状でした。早速 仲間にチラシを配布したところです。

展覧会は 9月9日(木)から11月23日(火)まで。9時から16時30分迄開館。場所は 若林区土樋288-2 地下鉄 愛宕橋下車5分
タイトルは「書と絵画にみる 仙台と黄檗をつなぐもの」 です。綱村公の書もあるようです。是非 お出かけください。




8 月 19 日 (木)  



史実を、基本から外れないで如何に 現代の人々が容易に理解できる様に表現するか。それが小説家の手腕でしょう。

寛永12(1635)年1月28日 政宗公は江戸城二の丸に於いて 三代将軍家光を饗す。
将軍家光は政宗公に脇差を差したまま伺候するのを許した。感涙にむせんだ政宗公は将軍の前でことのほか酩酊し眠ってしまった。家光の近習が調べると刀身はは木でつくってあった。これは、誠意を示すものと智謀・権謀を示す挿話といえる。

以上は、 小林清治著「伊達政宗」の略年譜と人格(201頁)に記載されています。

対馬家の内紛を主体とした小説「国書偽造」 鈴木輝一郎著 鰹o版芸術社刊に、仙臺中納言伊達政宗が亭主となり、江戸城二の丸に於いて 三代将軍家光を慰める饗宴を催した。その模様が20頁余綴られています。最後に この脇差の挿話が 脚色され 「面従腹背と申すが 面背腹従ではないか」と 家光の信を得たとまとめています。

この著者は、政宗公フアンらしく 主題と無関係なのに 政宗公を黄門と呼び 好意的に描いています。
史実を調理すれば 調理の仕方でカクなるを知らせる小説です。ご一読を。

ガイド仲間の勉強会の新人に、小説のみを読み 史実を全く読まずに 講話の内容は・・・・と申す方がいます。上記2冊 読み比べてください。



8 月 18 日 (水)  



仙臺城 拝見

仙臺城本丸に所在する「青葉城資料展示館」から、本丸「大広間落成400年」記念し、登城路と大広間の全ての部屋を巡り、政宗公と家臣のエピードを綴る、16分間の新CG映像を完成させた。ついては、8月5日10時お披露目するからの ご案内を頂いておりました。

当日、伊達家御当主、仙臺藩志会幹部お歴々が参列し テープカット。佐藤巧東北大名誉教授の講演の後 披露されたそうです。当日 不都合の方は日を改めて「どうぞ」とご案内を頂いておりました。本日 拝見しました。大変 よくできております。同行者は このCDを欲しいと申しましたが 売店には 見あたりませんでした。

仙臺城本丸の見学に 時間とお金に 余裕がある方は是非 鑑賞されます様 お勧めします。

参考まで
見学所用時間は、1時間 (資料館30分、騎馬像・見聞館等30分) 入場料 700円 駐車料金 別途。
あかとんぼ は ご招待の為 全て無料でした。



8 月 15 日 (日)  



本日の瑞鳳殿ガイドは休みました。

お盆には、諸精霊は祭祀継承者宅に一時帰宅をする?と 聞いており、墓所・瑞鳳殿には 政宗公はお留守であるの発想であります。
一笑に付す方が大多数でしょう。

本日地元紙に8日 1591(天正19)年7月3日集結した 葛西・大崎一揆犠牲者2,500人の「首壇供養」が催されたと報じています。
事件は、秀吉によって領地を没収された葛西・大崎の両氏に代わった木村吉晴の圧政により蜂起した領民を、秀吉の命により政宗公が鎮圧しました。

この一揆の鎮圧は、「なで切り」であったと云われているが 小林清治著「伊達政宗」には その事は記載されていない。
政宗公は鎮圧後、謀反の疑いをかけられね死装束の出で立ち、金箔の磔柱の行列や、鶺鴒形の花押の眼孔の話が 巷間に広く知られていることが記載されている。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と ともに 戦国武将として 功成り名をあげた 偉大な人物と 説明をします。しかし 現代ではマイナスの評価につながる事は一切  説明・発言しません。これは、ボラガイドとしての礼儀と理解している故です。

65年前8月14日から15日朝に至る 米空軍の爆撃に 逃げまどった記憶は鮮明に残っています。この時の犠牲者254人。65年経過しても 419年前の事件も、142年前の戊申の役の殉難者の 供養祭は催されます。被害者側から 世代が代わっても後世に伝えられている訳です。「戦争と平和」難しい問題です。



8 月 10 日 (火)  



8月2日の日誌に 次の要旨を記しました。

「瑞鳳殿 本殿の全体図を説明する際 極楽が描かれています。曼陀羅図と同じです。と申して 「当麻曼茶陀羅」図 や 仙台・北山 昌繁寺所蔵 法師 空念 1692年作 「毛縫曼茶羅」を 公開する事があります。昨日 山口県からお客様 昌繁寺を訪れ 拝観したいと 強いお申し出があり 市内地図を差し上げました。お参りできたか。
さて、この空念の作  「毛縫曼茶羅」は日本に3帳存在するそうです 以下略」

ガイド仲間のNSさんから HP読みました。「青森県西津軽郡深浦町 円覚寺に 空念の志を受け、時の住職が1901(明治34)年 信徒84千人の毛髪を集め、1903(明治36)年12月、髪繍三十三観音を、また後日 髪繍釈尊涅槃図 を完成させました。 これらが 寺宝として保存 公開されています」と 教えて頂きました。

幼少の砌 参拝したが そんなに由緒ある有り難いものとは 知ららなかった。もったいないことをした。なお、昌繁寺を訪れ「毛縫曼茶羅」をお参りした 申しておりました。
NSさん の情報提供に感謝致します。





8 月 9 日 (月)  



伊達政宗の陣羽織(伊達者の装いと精神)と題して 濱田直嗣(前仙台市博物館長・現慶長使節船ミュージアム館長)氏の講演がありました。

先生とは、5月22日開催のサン・ファン祭りに仙臺藩志会で裃姿で参加し、昼食をともにして以来です。その節は 「慶長遣欧使節」が話題の中心でした。今回は、瑞鳳殿ガイド仲間の勉強会ですから、政宗公の美意識の変化、五色水玉模様陣羽織が中心となりました。写真で説明すべくパワーボイントを用意されましたが、PCが 暑さで ダウンし 見ることが出来ずにまことに残念でした。「画竜点睛を欠く」 

数枚のレジメと口演のみですが 興味深い 内容の数々でした。
1.政宗公の美学の変貌
  「さだめて我が家中を、東者(アズマモノ)とて世上にては笑ふべきが、こなたは、笑わるとも、まぬがよし。侍は生まれつきの姿にて、心をかぶかせたるが本意なり 伊達政宗言行録」であった。しかし、寛永12(1635)年正月の伊達政宗言行録に、晩年の美意識が記録されている。興味深い 鋭い解説がありました。その変化を「成長」と捉えるかです。

2.武具に託した 祈りと美意識
  日輪軍旗、弦月前立、諏訪・八幡・伊勢の各大明神の刻銘、黒ラシャ山形模様陣羽織等。これは 図・写真を見ないと理解出来ないでした。

3.羽織と胴服とは

4.「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織は、政宗公所用と言い切ってよいか。水玉模様と言い切ってよいか。
  明治後期 伊達観欄閣宝物目録には「紫地羅背板五色乱星陣羽織」と記載があった。昭和39年仙台市博物館収蔵品目録「「紫地羅背板五色水玉模様陣羽織」と変化した。それはなにか。

慶長6年の記録では「乱星」であり、家紋「九曜紋」も星である。全て 星 が用いられている。これから「五色」の意味は陰陽五行説による五色と考えるべきでは。
 青(緑) 木星  東   春
 赤(紅) 火星  南   夏
 黄    土星  中間 土用
 白    金星  西   秋
 玄(黒) 水星  北   冬

これまで 水玉で説明され 現代的・幼稚園的で十分納得していませんでした。星 なら全てと関連性があり納得できます。

政宗公所用かの結論として、家紋と生地の変遷から検討されている。家紋については、博物館高橋あけみ学芸員の論文「伊達家の家紋に関する一考察 家紋の覚書と美術資料にみる 伊達家の家紋およびその変遷」を参照されたい。

仙台市博物館 菅野 市史編纂室長から これまで ご指導頂き また ご配慮頂き 高橋論文を読ませて頂き これまで 日誌に記載した 内容が 浜田先生の結論と拝聴しました。

本日参加者38名 瑞鳳殿ガイドの仲間は、五色水玉模様陣羽織を着用していますので ある程度理解できました。その以外の方々は 幾ばくか理解されたでしょうか。残念でした。



8 月 8 日 (日)  



今日も猛暑です。仙臺七夕3日間 晴天。瑞鳳殿の七夕は 雨に見舞われる事無く 終わります。よかった です。

瑞鳳殿七夕ナイト。桃山様式の豪華絢爛なご廟 瑞鳳殿の御本殿や周囲の竹林や杉の巨木のライトアップ。そして参道・境内には手作りした竹灯籠に1200個ものロウソクを灯され、幻想的な雰囲気を醸し出しています。

恒例となった森のコンサートもあり、昨晩(7日)は、多数(具体的数字は聞き漏らしました)の方が参拝においで頂いたそうです。本殿前は お賽銭箱なしの一方通行にしたそうです。これは 夜間で足下がおぼつかない中、券売所から本殿まで長蛇の列となり、待時間を少なくし安全に参拝して頂く 危険防止の緊急対応だそうです。

暑いさなか参拝され、再度 いささか涼しくなつて、夕闇に生える 幻想的瑞鳳殿を 参拝される方が 増えたようです。数年来の試みが ようよう 市民権を得たのでしょうか。


飾り付け作業中に、券売所前に到達した60歳定年直後とおぼしきご夫妻。「ここは何だ 何かイベントをやっているか」  「はい ここは 仙臺藩祖伊達政宗公の御霊屋です。お墓です。どんなイベントをお望みでしょうか。日中は 古式仙臺七夕を飾っています。夕方からライトアップ、森のコンサートがあります」 「何だつまらん お墓だって。来た証拠にこの看板の前で撮影してカエロー」  この方 瑞鳳殿とは 遊園地と想像し、長い坂 汗を流し 登って来たのでしょうか。
 
この方 赤とんぼとの対話が無ければ 入場券を求めず 入場しょうとしていました。 券売所のお嬢さんに 追いかけられたでしょう。券売所のお嬢さんは 忙殺される発券の中で 不正入場者の防止に目を光らせています。すごい技です。

盛年夫妻に、青年2人。千葉から4時間で来ました。青年の一人は春から仙台在住と申しながら 地理に疎いところがあります。東北大生で、両親・兄弟が激励を兼ね観光に見えた様子でした。健全な家族関係が伺え、質問も頂ました。楽しいガイドの一時でした。

熟年のご婦人2人。「ガイド お願い 静岡・久能山東照宮の麓から来ました。忙しいから10分で 何でも知っているから」 これほど 念押ししての依頼も珍しいです。 涅槃門の彫刻 透かし彫りのすばらしさ も 拝殿の扁額 宝石の説明を省略。政宗公は 尊像付近の地下の墓室に現在もおいでになっています。・・・・・で10分経過。ガイド終了しました。

1時間後 涅槃門前広場で再会。資料館でビデオを2回以上 ご覧なるなら 涅槃門の彫刻の素晴らしさを 解説付きで確認されれば 久能山東照宮の見方の参考になっただろうと 思いつつ。

「政宗は 棺桶 どんな棺桶 箱か。丸か。膝の角度は・・・・・」のご質問です。 「棺箱ではなく 棺桶です 胡座の状態でしょう。束帯の装束です。棺桶の材質は調べていませんが、ご遺体は佐々若狭守が事前に用意していた 朱(シュ)と水銀(ミズカネ)と石灰(イシバイ)に、塩で詰め固め と記録にあります」  「ガイドさんに はじめから ゆっくり 聞けばよかったネ。  アノネ 聞いて。祖父母 祖祖父母は 村の共同墓地に土葬されました。それで・・・・・・・・・・」この方の墓地改葬事業計画を延々聞く羽目になりました。ボラガイドから傾聴ボラに転換した一瞬です。


「こらボラガイト 伊達家は何代だ?」  現在の御当主は何代目か のご質問と思い 確認したところ 徳川幕府倒壊した時は 誰で何代目か  がご質問の趣旨でした。 暑さ故か 瞬間で 答え 出て来ません 資料を捲る気力もありません。 ウー  現在は18代だから 14か15かな  「14か15か です」   「フー 徳川宗家と同じか」
仙臺伊達家最後の殿様は 慶邦公29世13代です。 

 
「忠宗 の忠は 徳川秀忠の忠か。 綱宗は綱吉の綱か」 「はい その通りです」
「支倉常長は羅馬に派遣された。帰国まで同行した部下に キリスト教信者が 居たか その氏名と最後はどうなったか。帰国せず 途中の寄留地に 留まった者が居るだろう それはなぜか 説明せよ」

このシッコイお爺さんは 孫を同行しているらしく 自己の学の表示の標的に あかとんぼ が狙われた様です。瑞鳳殿について質問や ガイド依頼もありません。暑さの中での 質問です 爆発寸前ですが E代表の普段からの教えが点滅しました。「冷静に」 次の様に答えました。

「お客様 大変難しい質問で 簡単にお答出来ません。仙台市博物館では〔慶長遣欧使節〕と題する支倉常長と遣欧使節について 総括した仙台市史特別編を発行しています。それをお読みいただければ。なんであれば仙台市史編纂室長の菅野先生をご紹介します」  これにて 一件落着。

このほか 爺様からみの案件として 3日間で ガイド中の 割り込み質問が5件ありました。周囲の様子の見えない 自己中心の爺様が増加しているのでしょうか。


盛年ご夫妻から「今日は楽しかったです。今度 ウチの方においでください」と誘われました。 「失礼ですが ウチの方とは どちらでしょうか」 「桶狭間の合戦場跡に近い 有松です」 「正確な所在 メモして頂けませんか。勉強不足です」 「名古屋市緑区有松町です。有松絞りの産地です。有松絞りはご存じでしょう」 「お客様は 有松絞りの生産・販売をされているのですか」 「父代で 終わりました。今 有松絞りとして売られている大部分は 外国産です。松島の売店でも 手ぬぐい が売られていましたが・・・・・」 「ウチの祭り も 絞りも有名です  知らない人がいるとは意外です」  「ヤー 勉強不足で申し訳ありません。 有松を訪れた際はよろしく」 「はい お待ちしています」

お互いの 氏名・住所も明かさないでの挨拶。帰宅し HPで 有松町と有松絞り 調べました。名古屋・東海地方を訪れた際 訪れる価値のある町とみました。
http://www.shibori-kaikan.com/shiboritowa.html


本日 最後のガイドは 沖縄からの20代の爽やかな好青年です。

12時30分 終了です。3日間で一番 体力的に応えました。Uさんも3日連続 奮戦しましたが さすが疲れた様子です。
Uさん と あかとんぼ の2010年仙臺七夕 3日連続瑞鳳殿ガイド奮戦は 終わりました。(財)瑞鳳殿のスタッフの皆様 ご支援ありがとうございました。



8 月 7 日 (土)  



盛夏です。結構です。

9時前 スタッフ一同 七夕飾り付けに懸命です。
朝一のお客様 仙臺七夕は 仙臺和紙で作られ 七種類七ツの願い事を 初めて知った。配列の順番は定められているか 学芸員に尋ねていました。答えを聞き漏らしました。
七夕と政宗公花押Tシャツ姿のスタッフの写真 表紙に記載しました。ご覧なられ いかがですか。

「仙臺七夕は期間中 一回は雨に見舞われるジンクスがありますが 今年大丈夫でしょうかね」 「家老はいやな事いいますネ」 降雨の無い事 祈ります。

あかとんぼ 邑間近から ポチリポチリ 巣に到着した途端 バケツをまかした様な大雨。洗濯物の取り込みは間に合いました。寸前で ずぶぬれです。脱水からやり直しでした。
さて、瑞鳳殿地区は 雨に見舞われなかったか です。心配で 電話確認しました。降らなかったそうです。よかったです。 あかとんぼ邑だけの ピンポイント爆撃型 雨でした。

宇都宮のご夫妻。
ガイドさん居てよかった。実は仙台市の観光パンフにボラガイドがいる事もあると記載あったので、昨日 瑞鳳殿事務所に確認したら 明日は居ます の返事。でもボランティアだから居ない事もあるかな と思いつつ来ました。観光・参拝は事前に勉強してきたも 現地で結びつかない。入場時のパンフは見学前に読み切れない。そうなると アー綺麗だで終わってしまい。肝心要 ポイントを取りこぼす事になる。それは 時間と経費の無駄使いです。よろしく お願いします。

涅槃門彫刻等 一般客が見逃すポイントを丁寧にガイドしました。このご夫妻は 事前勉強を きっちりされています。質問も的確です。楽しいガイドになりました。
最後に 「名刺ください」  名刺を請求されるお客様は普段いません。「孫が東北大生なのでまた来ます」  「日曜・祝日の午前はガイドしています。それ以外の日であれば メールくだされば 参ります」と返事しました。ガイド内容等 ご満足頂いたと理解しました。

今度は ご満足頂けなかった 不可解な事件の報告です。
若夫婦にガイド中、バスガイドが飛んで来て 「ボラガイド あなた一人ですか」 「はい まもなく 仲間が到着しますが お待ち頂けないでしょう」 「待てません ガイドして頂けません 徳島市長と阿波踊りの一行です」  「こちらのお客様にガイド中です。ご一緒で納得頂ければ」  若夫婦「そんな偉い人の一行ですか 私達 後方で聞いています」 バスガイドはお客様の気持ちよい 対応に感謝の一礼していました。 「所用時間は いくらありますか」に 添乗員は 「発車まで90分です」  「それでは トイレと売店に徒歩の時間を差し引いて 30分程で」  

阿波 徳島 蜂須賀176,000石。家祖は有名な「小六」です。 伊達政宗公について また 御霊屋について 知識皆無ではと重い 簡単に紹介し 時間配分をしながらガイドを始めました。 涅槃門で 徳島も産地でしょう。 扁額の珊瑚と真珠を説明しようとしたら 正体不明のお姉さんが 現れ 「マダルコシイ ガイド聞かなくともいい  急いで 急いで」と号令をかけ
まもなく 瑞鳳殿地区から一行の影は消えました。消える直前 添乗員も納得していない様子で 「ゴメンナサイ」と 最敬礼して去っていきました。

譲ってくれた若夫婦と 徳島から来ました と称するご夫妻の4人になりました。「あの団体 本当に徳島からかな 市長は居なかったぞ」と申していました。
確かに 仙臺七夕に徳島市長が招待され 来仙されたのであれば 仙台市幹部が案内し また瑞鳳殿の案内は ご当主が ご多用であれば 最低 (財)瑞鳳殿の学芸員が 説明するのが通例と理解しています。 市長等のvipに フリーでガイドしているボラガイドに 座敷がかかるはずがありません。
お客様は暑い中 眺めただけ 政宗公御木造と対面されたか 90分の所用時間ありながら30分で見学を済ませ、残り時間60分 どうするのだろう。本当に徳島市長と阿波踊りの一行であったのか。 真夏の夢のごとき 不可解な事件でした。

残った4人は 堪能・満足された様子でした。 岡山からの男性、倉敷からのご夫妻と 続きました。 「マダルコシイ」の批評はありませんでした。

陣羽織を着用したら 暑いです。2時間で1リットルの水分補給をしました。明日は 政宗公花押のTシャツ(黒)でがんばります。なお 政宗公花押のTシャツは昨日 午前で完売だそうです。人気があります。昨日のお嬢さん 買い占めたでしょうか。  また あした



8 月 6 日 (金)  



今日も暑いです。全国的に豊作である の予報が出ました。目出度いことです。

札幌白石区から。母親は96歳 城下二日町の生まれで 今朝もご飯 大盛りで食べていましたと語るお嫁さん(年齢は想像してください)は浦和から。父親は、支倉の出身と語るお嬢さんと 全国各地から沢山の方が 参拝に見えました。

「ご家老のおなりー」と大きい かけ声が飛びました。 (財)瑞鳳殿の職員で 「まさむね歴史塾」で活躍したスタッフ一同が 七夕を飾り付け作業しながらの 一声でした。
殿様であれば「ものども ご苦労」と申すところですが、ボラガイドの「おたすけ家老」では おそれおおく 申せません。「ご苦労様です 本日もよろしく」が限度です。
でも、スタッフから 「ご家老」と気軽にかけ声 頂けるとは 嬉しいことです。

涅槃門前に、アーチ型に古式仙臺七夕が飾られ、拝殿に 解説付きで飾られています。一番の目玉は 本殿の扉が開かれ 政宗公と直々のご対面が出来ることです。
ガイドの仕方に変化を持たせ ご案内しました。

98%のお客様は 大変な喜びです。2組の夫婦の5人連れの団体に 不愉快そうな様子の方が見えました。話半分にして資料館にご案内しました。クラーの効いた部屋で休めば ご機嫌がなおるでしょう。
この暑いのに、坂道・長い石段を登らされ、よその殿様のお墓参りさせられて 興味がないのに の表情と理解したからです。幹事役の方 ご配慮を。

支倉出身の末裔と語るお嬢さんは、政宗公 いや 伊達家 の歴史に詳しいです。
片倉小十郎 景綱と重永は親子である。1189年常陸国真壁郡伊佐の庄の住人朝宗が従軍し、戦功により伊達郡を頂き・・・・・、支倉常長を羅馬に派遣した事は 当然了知しており、政宗公の親書の署名 伊達陸奥守(花押)と同時に Idate Masamune の署名がなされていた等々 詳しく 正確に知っておられ、ガイドは軽い緊張の中で。

仙臺藩志會に入会したいので紹介して欲しい、。五色水玉模様陣羽織を購入したい等  一過性の歴女ではありません。
本日 着用しました 政宗公の花押 染込みTシャツをお勧めしました。帰路 売店にて求められたかは 定かではありません。

浦和のお嫁さんの一行の家には、世情で話題になっている高齢者の行方不明問題はないでしょう。爽やかな方々でした。

午後 ガイドが手薄になる心配がありましたが 水分補給1リットルに達しましたで お仕舞いしました。また明日。





8 月 5 日 (木)  



政宗公 米澤を本拠地としていた時代、その本拠地・生誕の地は現在の米澤城址とするのが通説です。

米沢市教育委員会は、これまでの現地調査の結果をふまえて、米沢市西部山間部の「館山城」を主張してきた。今後調査を継続し、将来 国指定史跡・歴史公園にしたいと している旨、東北のブロック紙河北新報の社会面トップで報じています。

1.米澤城と館山城の使い分けを示す決定的史料が現存しない。
2.館山城は1591年岩出山に移転する際に壊された。
3.伊達氏以降の蒲生氏、上杉氏が米澤城を築いた記録がない。
以上理由から、専門家の間で 米澤城が有力とされてきた。

これに対して、
1.1998年 城本体の発掘調査で、土塁、竪堀などの充実した防御設備を確認した。
2.2001年 北側に 晴宗・輝宗・政宗の3代支配時の16世紀と推測され、長期的に9回の増築がなされた大きな武家屋敷群の遺稿を確認した。
  屋敷群が共存する大規模な山城は全国的にも珍しい。
以上から、今後3年間で5000万円で28万平方を調査するです。


先般 歴女の母娘から、「次回は 政宗公生誕の地 米澤訪問を計画しています。政宗公生誕を示す 史跡など、また 米澤を統治していた時代の史料・史跡が どれほど残っていますか」と 訪ねられ 正直 言葉に詰まりました。

上杉家270年の統治が 強烈に浸み 残っています故、「政宗公生誕の地」と記載された標柱が1本 城址に立っているのみで、博物館の展示も 伊達家関係は仙台市博物館から借用展示しています。

今回、米沢市教育委員会の調査の進展が楽しみです。

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/08/20100805t15031.htm



8 月 4 日 (水)  



余韻

昨日の「政宗公誕生イベント 「まさむね歴史塾」・・瑞鳳殿 親子でクイズウォークラリー」は、実に楽しかった。

(財)瑞鳳殿から代表に「猛暑の中の協力に感謝。子供たちが楽しく過ごせる定番イベントにしたい」旨のメッセージがありました。

Uさんからは、「楽しく過ごすことが出来た。今日は自分から解答を探す生き生きした子供、子供をそっちのけで親が夢中になっておる姿
子供はぼやっとしている姿を見ると将来覇気の無い大人が見え残念です。
親が子供に何事も自主的に挑戦させる姿が望まれます」のメッセージを頂ました。

あかとんぼ には小学校教師の経験が無い故か、はたまた 60余年前 「小国民」ともてはやされた故か、18代伊達家ご当主の「歴史は過去から現在に そして未来につながっています」に共感しており、 その意識がでる故か 学童との対話には、実に楽しいものがあります。

昨日の親子の行動には いろいろな類型がありました。Uさんの分析は鋭いと感心しました。感想の一節 特に下線を伏した箇所に 強い共感を感じ 了解を頂き 趣旨を転記しました。

 「まさむね歴史塾」 の継続開催を期待します。老骨で役立つなら いくらでも お手伝いします。



8 月 3 日 (火)  



永禄10(1567)年8月3日 政宗公は 羽州置賜郡米澤(現山形県米沢市)で、父・輝宗、母・義姫の長男として生まれ、幼少は梵天丸、元服して藤次朗政宗と名乗りました。
本日は、政宗公の生誕記念日です。

(財)瑞鳳殿では、政宗公誕生イベント 「まさむね歴史塾」・・瑞鳳殿がだす おもしろクイズ 親子でクイズウォークラリー・・を開催しました。
広報は、知る限りでは 「瑞鳳殿公式HP」のみでしたので、参加者がいるか 心配しました。新潟県からの参加もあり、15−6組45−50余人の参加があり、盛会でした。

設問は20問 「瑞鳳殿のある山「経ケ峯」の中を歩くと、クイズの答えがかくされています。順番に歩きながら答えを探したり、考えたりしよう。案内しているガイドさん(お助け家老)にも話しかけてヒントをもらおう」です。

第1問、瑞鳳殿は、伊達政宗のかかわりが、とてもふかい建物です。瑞鳳殿は、なぜ建てられたのでしょう。次の答えから選んでください。
@政宗が住むために建てられた。
A政宗のお城として建てられた。
B政宗のお墓として建てられた。

以上の様な設問で、毎日曜日にガイドしている Eさん、Uさんと3人で 例の陣羽織を着用し、拝殿・涅槃門・感仙殿の3ケ所の「家老席」にて待機しました。
3・4・5年生が多く、麓の「御霊屋幼稚園」の卒業生と自称する何組も おりましたが、大方の皆様は初めてと申され 「親として 答えが悩む」と 申して 「お助けカード」でヒントを聞くに来た方もおりました。

あかとんぼ にヒントを求められたものは、
1.涅槃門の上 青い色の動物の彫刻は何ですか。   全く見当つかない。龍ですか。麒麟ですか。
2.菊紋は誰からもらったか。織田信長か、豊臣秀吉か。
3.涅槃門の黒くて、ツヤのある塗料となった 植物はなにか。
4.伊達家の代表3家紋を図で表示してあるが その名前は。
5.仙臺は政宗公がつけた名称で、違う文字で「せんだい」と書いた。それは 川内 千代 千台のいずれか。
6.5人の殿様はこの山にお墓があります。ほかの殿様のお墓の場所はどこでか。 ズバリ 瑞厳寺でしょうと確認を求めたお父様がいました。
7.東参道にある杉の大木の樹齢は。 ズバリ 1000年でしょうと確認を求めたお母様がいました。

「お助けカード」は青・黄・赤の交通標識の3色1セットで、青から使いなさいのルール故か、10数枚の内7割が青色「お助けカード」でした。


最後に、18代ご当主から「瑞鳳殿ミニ講座」がありました。
50年前 東京・麻布の伊達屋敷で生まれました。幼少の際、訪れた旧家臣の末裔の方々から、伊達政宗公・伊達家についての話を正座して1−2時間の聞いた。
1974年発掘調査の開始時、中学生で父親と立ち会った。露天掘りの発掘調査で 政宗公のご遺骨と対面した時の印象は強烈であった。宮内庁等で勉学を重ね、心に堅く決意していた仙臺に戻ってきた。政宗公は戦いで死なないで70歳まで生きた。からこそ 現在の仙台の繁栄の基を築かれたと思います。
歴史は過去から現在に そして未来につながっています。

講座開始時の講師紹介に「18代ご当主てなんだ」と与太っていた子も途中から真剣に聞いていました。さすが 伊達家ご当主の話法です。
参加児童全員に 18代ご当主自ら 優秀賞「政宗賞」を親授されました。

3人の(お助け家老)は、「梵天丸賞」を頂きました。ボランティアガイドとして、孫の年齢の学童にガイドをするが目的の一つで、こちらも楽しませて頂きました 上に 賞を頂き恐縮です。
老いては子に帰ると 申す方もおります。そのとおり 賞を頂き 感激し 普段のお礼ですと ボラガイド支援機構理事長に上納しました。
 



8 月 2 日 (月)  



極楽と天国

最近は八十路の敬虔な仏教徒でも 天国に行くらしい。
ある会合で、八十路の爺様が 「あかとんぼ さん  天国に行ってきました。船賃700円でした。是非 」と奨めてきました。
普段は敬虔な仏教徒です。彼岸に渡って帰ってきた人は 皆無です。極楽でなくて天国に700円で行き そして厳正に帰ってくるとは 奇特な体験をしたのか。認知症の始まりかと聞いていました。

話の正解は「宮城県北 伊豆沼の蓮の花を観賞に行き、沼を小舟で巡航する。その様子 感触は まさに 曼陀羅図と同じ これが天国か」と思ったと云うものです。
天国にも蓮池があり 天女さんがいるのか。

瑞鳳殿 本殿の全体図を説明する際 極楽が描かれています。曼陀羅図と同じです。と申して 「当麻曼茶陀羅」図 や 仙台・北山 昌繁寺所蔵 法師 空念 1692年作 「毛縫曼茶羅」を 公開する事があります。
昨日 山口県からお客様 昌繁寺を訪れ 拝観したいと 強いお申し出があり 市内地図を差し上げました。お参りできたか。

さて、この空念の作  「毛縫曼茶羅」は日本に3帳存在するそうです。
他は、1.大分県宇佐市南宇佐 金蓮山極楽寺
    2.青森県南津軽郡藤崎街 摂取院

「毛縫曼茶羅」と「法師 空念」について 詳しくおしりにないたい方 次の図書がお勧めです。
毛髪で縫った曼茶羅 漂白僧空念の物語  日沖敦子著  新典社刊  1500+税金


月曜日は あかとんぼ 休養日で、整理と読書の日です。本日は、
「伊達政宗、最後の日々」小林千種著 講談社現代新書 と 「毛髪で縫った曼茶羅 漂白僧空念の物語」を読んでいます。 



8 月 1 日 (日)  



暑さは峠を越えました。夏 暑い 正常な天候で 政権が崩壊した記録には 未だ接していません。
逆に 冷夏は 不作 凶作と連なります。伊達家の江戸末期は まさにその状態です。藩政の停滞をもたらし 明治維新といわれる政治改革に乗り遅れ 悲惨な状態に陥りました。
この様に暑い夏 豊作が 江戸末期も続けば 伊達家は安泰であったろうと 思いつつ ガイドをしました。

珍しいお客様が見えました。 山口県から車で来ましたと親娘3人です。車で山口県からおいでは初めてです。伊達家・政宗公について それなりに勉強されている様子で、ほぼ 1時間のガイドになりました。感仙殿に移動の際 再見しました。その際 「あそに見える碑はなんですか?」と弔魂碑を指されました。 「140年前の戊申の役でなくなられた・・・・・」 「あっ そうですか」で終わりました。

本日の特異な質問は
1.ここをなぜ 財団で管理しているのか。政宗公の墓所であるからに 伊達家で管理すべきではないか。所有権はどうなっているか。
2.墓所は菩提寺の境内にあるべきでないか。なぜ 菩提寺・瑞厳寺と別 離れているのか。下にあった瑞鳳寺との関係は なにか。

知る限りで 丁寧にお答えしました。納得頂きました。お答え内容を是非知りたいと申されます方は 恐縮ですがメールをください。

8月3日10時から (財)瑞鳳殿 主催で 「まさむね歴史塾」親子でクイズウェークラリーがあります。参加費無料で 政宗賞・梵天丸賞がもらえます。親子先着25組50人です。ご希望の方 022-262-6250 又は zuihoden@zuihoden.comに お申し込みください。子供の学歴についての制限条項は要項に記載ありません。小学低学年ではないでしょうか。
あかとんぼ と仲間が 五色水玉模様の陣羽織を着用 お手伝いに参上します。 本ページをご覧なり参加された方 お声をかけてください。「オタスケ丸」になります。


仙臺七夕の涅槃門前の飾り付けの準備が始まりました。
涅槃門の斜め上 御供所跡・資料館前の竹林から 太くて 長大な 竹が2本切り出され アーチ型にセットされました。
「地産地消ですネ」 に 「あら あかとんぼ さん 初めて気がついたのですか。竹は境内で 飾りは職員の手作りです」
飾りを取り付けしたら 撮影し 巻頭に飾りたいと思いましたら 先手を取られ 取り付けは本番の6日です。お待ちください」の返事てした。内心 和紙で作られている故 雨が怖いようです。
6・7・8日の仙臺七夕の期間中 是非 おいでになり 楽しんでください。あかとんぼ ガイドしています。


本日から 日本語できますが 外国語 何語でもシャベレル 外国語専門のガイドが仲間として参加しました。 早速フル操業です。日本語しか理解できない お客様を 「たのみますー」と振ってきました。 後で 「ボラガイド 何年なります」と 問いますので 「ハァ 10年のカケダシです」 ・・・・・なんと評価されたか?





inserted by FC2 system