2010年12月の日誌
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12 月 29 日 (水)  



今年一年の総括

23日のガイドが 今年の最終回になりました。
今年の特記事項 三つほど

1.ボラガイド 満10年を経過しました。
 初日2001年2月11日(日)寒気しい降雪で、本殿は修復工事中であり、豪華絢爛と説明出来る建造物は 涅槃門のみ。誠に厳しい環境でした。口火を切った第一号のお客様には「とうも ありがとう」と断られました。
 先達のEさんから 「どうでしたか ご苦労さんでした」と晩に、状況確認と激励の電話を頂きました。

 満10年瑞鳳殿でボラガイドが出来ました事は、
@.(財)瑞鳳殿の常務理事を初めとする役職員の皆様の暖かいご配慮とご指導を頂きました事
A.心優しい仲間に恵まれた事
B.私称 ボラガイド支援機構の支援があっての事
以上に尽きると思います。

(財)瑞鳳殿には、御礼を言上しましたところ、暖かい祝辞を頂きました。感激です。ひととき回想になりました。伊達泰宗資料館長と Sさん Mさん Kさんの4人が 10年連続のおつき合いでした。

政宗公墓室の石材の産地にて、私称ボラガイド支援機構理事長と内祝いをしました。

2.年間ガイド日数 85日と最多を記録しました。
これは、日曜日の他 祝日、黄金週間、白銀週間、仙台七夕期間の全日のガイドを目指し、又 JR、ANA等旅行会社の依頼にも積極的に応えた事によります。尚 85日は ガイド仲間では 3位でしょう。

 参考まで、01年51日 02年60日 03年65日 04年59日 05年69日 06年71日 07年74日 08年72日 09年82日 10年85日 合計688日 月平均6日(稼働月数119月)となります。1日は上限4時間を原則としています。


3.歴嬢さまとの交流があり 刺激を受けました。
 本表紙の「感想をお聞かせ下さい」の機能以外からの 予想外の経路でのご質問等を頂きました。
歴女と 持て囃し 商売に利用している向きがありますが、交流あった彼女達は 決して浮ついて居ません。小説で政宗公を知り、それが全てと勉強会で異議を唱えかねない歴爺より、遙かに 時間とお金の全てを投入し 政宗公を勉強し 正確に理解しています。 あかとんぼ には 有効な刺激になりました。 


読者 識者 仲間 仙臺藩志会会員 (財)瑞鳳殿 の皆様 本年も 叱咤激励 ご支援を頂きまして ありがとうございました。



12 月 26 日 (日)  



銀世界 雪の瑞鳳殿は 趣が異にし 一幅の景。 

先人は、桃山様式の豪華絢爛な御廟の雪景色を描いていないか。
発見出来ませんでした。
仙台博物館収蔵資料図録 5仙台藩の絵画 7仙台四大画家を紐解きましたが 雪の瑞鳳殿は皆無 雪景色は一幅のみでした。
何故 絵がかなったのでしょう。

絵画に代わる写真の撮影をと思いました。が ガイド同時刻にマゴトンボが武蔵國から飛来。あかとんぼ家では賓客ですのでガイドは中止しました。




12 月 25 日 (土)  



うわのそら

18日の日誌「K学芸員が懸命の説明も 「うわのそら」の状態」に見えたの記述は、残念と 「ゆき 様」からメールを頂きました。

学芸員の方の声はよく通るので、ちゃんと聞いておりましたし、数人の方が少し距離をとっていたのは、今回はじめて参加されている県外からのお客さんが 前に来て見やすいように、との配慮からです。私を含めツアー参加者のうち数人は、折に触れ瑞鳳殿を訪れては、花を捧げるリピーター達です。
「うわのそら」のように見えてしまったのは、テレビカメラを気にしての事。当日、事前説明も、承諾を得る事もなく テレビカメラが勝手に入り 気にするなと云われても気になり 集中して説明を聞けなかった人も居た。
よく説明を聴いていない、というように見えてしまったのは、せっかく説明をして下さった学芸員の方にも大変申し訳ない気持ちです。

以上の要旨です。

団体の参拝の場合、必ず何割かのお客様は 説明を聞かず私語を交わしています。老若男女 趣味嗜好の異なる方々ですから当然かも。
ガイド直前に、どちらからですか どのような団体ですか とお尋ねし 瞬時に 政宗公・伊達家・戦国武将・大名家等のキーワードを 割り出し 共感できる事柄等をガイドし、そして 100%の方に お詣りして よかった の気持ちでお帰り頂ける様に 努めています。

この事は ガイド仲間も 共通して認識している事で、常に 討議・研鑽に努めています。

今回 折に触れ瑞鳳殿を参拝されている皆様で 事情と配慮されての行動を ともするとの団体同様に誤認した事は 10年間 年間80余日 ボラガイドをしている 歴嬢ならぬ歴爺と自称している身にあって 不覚でした。

ゆき 様 
今回のご教示に感謝致します。
日曜・祝日の午前はガイドしています。瑞鳳殿 お詣りの節は 是非 お声をかけ 叱咤激励を ください。



12 月 24 日 (金)  



昨日の補遺

昨23日は、天皇陛下の誕生日で、国民 等しく祝うための祝日でした。
週の中日と1昨日の荒天の影響 故に 相当数の参拝があるか 内心懸念しました。結果は、午前フルタイムのガイドでした。

2001年からの 天候とガイド実績を検索整理しました。
2001年 天候 晴    家事都合 ガイド×
2002年 天候 晴    家事都合 ガイド×
2003年 天候 晴    孫台風来襲 ガイド×
2004年 天候 小雪   家事都合 ガイド×
2005年 天候 寒波・大雪 お湯持参 ガイド○
2006年 天候 雪    家事都合 ガイド×
2007年 天候 冷雨   参拝者僅少 1時間で切り上げ
2008年 天候 雪    参拝者皆無 1時間で切り上げ
2009年 天候 小雨   参拝者僅少
2010年 天気 晴・曇  9時から12時迄ガイド

昨日は天候に恵まれ 日本國内外(香港・シンガポール)から多数の参拝を頂きました。慶賀 です。

宮中の天皇誕生日宴会(昼食)に招かれた人の服装は次の通りです。
当日の服装は、男子はモーニングコート、紋付羽織袴これらに相当する制服など。女子はロングドレス、デイドレス、絹または絹風のワンピース、アンサンブル等。帽子、手袋は随意。又は白襟紋付、黒留袖も可。紋の数は随意。
河野太郎衆議院議員 メルマガ 「ごまめの歯ぎしり」 10年12月23日号による。

さて 正月2日の年賀拝礼式 伊達家御当主から お招きを頂いています。仙臺藩志会会員は 紋付羽織袴 を基本としています。これは、宮中儀式に倣ったものなのでしょうか。
2011年の拝礼式には 参列致します と連絡済みですが 紋付羽織袴では 「馬子の衣装」にならないか 悩んでいます。


22日日誌に 「大橋経由は 通行止め 閉鎖になり」と記載しました。当日の情報は「廣瀬川増水で大橋が危険となり閉鎖」でした。
「仙台市で10mmの降雨があれば 廣瀬川の水位は1m上昇する」と 識者の方から教えられていました。

大橋の標高は35m 橋付近の廣瀬川の標高は22m。その差は13m。最終的に130mmの雨量に至ったにせよ 夕方時点では その量に至らず 増水する時差からも 水位が13m迄上昇はしていない筈。情報に 誤り無かったか 思案していました。

「あかとんぼ さんが受けた情報に誤りがあります。大手門と扇坂を結ぶ路線の西側の山が崩れ流れて、道路を閉鎖したのです」とWさんから 昨日 教えられました。

現場を確認しました。仙臺城二の丸 駕籠ノ者居所から勘定所の在った所、現在の東北大学100周年記念萩ホールの前庭・緑地付近の法面です。目測30m程 ブーシートが貼られていました。なぜ 崩れたか。崩れた 履歴があるのでしょうか。

本項 下線は、「せんだい 市史通信 第21号 広瀬川を渡る 仙台市博物館発行」と「仙台城現代複合図 仙台市文化財課発行」によりました。



12 月 23 日 (木)  



昨日の荒天は、全国ニュースで流れたのか 遠くは 伊豫宇和島からも お見舞いの電話を頂きました。

境内の参拝者通路を重点に 杉の折損枝を 全職員で懸命にかき集めていました。全山でトラック何台分になるでしょう。昔は この杉枝で ご飯を炊き お風呂のお湯を沸かしたでしょうが その用途の無い現在は 後始末をどうするのでしょう。

昨日の「感仙殿・善応殿 床上浸水の恐れ」の騒動の現場を確認しました。 感仙殿と善応殿は それぞれ 約1m20cm高の土塁に囲まれています。屋根を含めて この四方内の降雨が 殿 四方の排水路に流れ込みました。卵代の白化粧石を敷き詰めていた事が 多少阻害したか 結果的に排水の能力以上の給水でオバーフローしたものでした。緊急避難で白化粧石を排水路から除去していました。 

いずれにせよ 常務理事 先頭になっての緊急対応が功を奏して 130mmの大雨による 床上浸水の被害を回避したものでした。ヨカッタです。
西日本で一晩200mmの降雨と報じられることがある最近、近い将来 仙台でも同様量の降雨があるかも。対策が急がれます(テレビのコンティナー的発言で恐縮です)

越後屋トラベルの団体が通過後 手水舎の龍を撮影していました2嬢に 横顔が素敵です と撮影ポイントを紹介しましたが スムースに通じませんでした。さて 外国の方か? 香港の方でした。龍とドラゴンの違い Fire Roof Waterの3単語で説明しましたら 理解してくれました。

この2嬢の周辺を回遊している1男 お仲間 香港と思い 拝殿の紅白の扁額を手許資料の3ケ語表示の頁を開いて説明はじめたら 反応が日本国語 日本人でした。シマッタ。服装だけでは 亜細亜系は区別が付きません。言語で初めて 違いがわかります。この1男も 2嬢が外国人とは知らずに回遊していたのでは。

続いて シンガポールからの小団体。英文パンフを手にしていました。
中国からのお客様の数が めっきり減少したように感じられます。その原因は何でしょう。

彫刻と日本画が趣味です とされる御夫妻。涅槃門の彫刻を見上げ 撮影していました。思わずお声かけしたら 「趣味は彫刻と日本画」と返ってきて、阿吽の龍を掘ったら 売ってくれ と頼まれたと自慢をし、此処の素材は何であるか等の質問をされました。

御夫妻とも 彫刻と日本画についての 知識・素養をお持ちと理解しました。ガイド仲間にも 彫刻が趣味の方がいます。今朝 マイクを持参され所要とか 早退されましたが このお客様と 対話されれば 盛り上がったろうにと 残念な思いをしました。



12 月 22 日 (水)  



大荒天 窓硝子を震わす雷鳴、豪雨、強風。
仙台市消防局発信の災害メールは、災害多発のため 大災害に至らない限り 個別の災害速報ほ中止との連絡。

JRバスのガイド依頼。
あかとんぼ邑は 昼既に薄暗黒 人も駕籠(車)も途絶えました。乗合駕籠(バス)は定時より大幅な遅れて 待っている間に、ズボンはずぶ濡れ、脚が冷たいです。城下は 豪雨・暗黒の視界不 故か 渋滞していて 通常より30分以上所要時間を超過して 瑞鳳殿に到着。

「感仙殿・善応殿 床上浸水の恐れとなり、職員一同と排水作業をした。雨合羽の下を着用しなかった故、下着まで濡れ、ストーブで乾燥させているところ」と スリッパにマスクをした常務理事。率先垂範 働く上司です。女子職員も ゴム長着用の臨戦態勢。

依然として 強風に豪雨です。境内は杉の折損枝が積雪の如く 路面一杯です。この悪天候でも 参拝者は お出でになります。有り難いことです。

JRバスは 予定より20分 通常より40分の遅れで到着 「ガイドさん 待っていてくれたのー ヨカッタ 帰られたと心配していた。ボラガイドとバスガイドが連絡出来る様に 携帯電話番号 会社に登録するシステムがあれば・・・」 ガイド同士で連絡出来るようにして欲しい と あかとんぼ も思います。民間の貸切バスが既に実行している事が なぜできないのかな。

瑞鳳殿でのガイド時間 昇降含めて30分の短時間である事と 豪雨で 資料を開らいての説明はは断念しました。 雨音で消える可能性が高く マイク使用で説明し、 仙臺城址に移動の車中で 政宗公肖像画等 資料を開き ゆっくり説明しました。

110m高の仙臺城址からの夜景をゆっくり楽しんで頂くつもりでした。傘が飛ばされかねない強風・豪雨に 土井晩翠先生の「荒城の月」を聞いて頂いたところで下城です。

廣瀬川は 水位が異常に上がっています。危険水位を超えたのか 仙臺城址から城下に至る 大橋経由は 通行止め 閉鎖になり 中ノ瀬橋を経由しました。

1週間前は 「光のページント」が 火災で突然中止。本日は近年にない悪天候と川止め。 仲間が経験しない経験に恵まれました。バスガイドのサトウさんと ベテラン運転手のヤマダさんとの 再会を約して かくて、今年のJRバスのガイドを終わりました。



12 月 19 日 (日)  



快晴・温暖 参拝者は続々と。久々に4時間のガイドになりました。

特異なご質問はありませんでした。記憶に残ったことは。

1.外国語の小団体です。「英語のパンフ差し上げます」に「日本語のパンフでよろしい」と日本語で返ってきました。中華民国台北市からのお客さまでした。

「台湾を一周した。楽しかった」と告げたら 「どこが 印象に残っていますか」と聞かれ 「花連と故宮博物館です」と答えたら頷いていました。
この方々 日本一周し、日本で印象に残った 良い思い出の地・施設に 仙臺と瑞鳳殿を 上げてくれればの思いから 涅槃門を説明しました。

20代のお嬢さんは 目を白黒にしています。親らしき方は時々頷いていもす。HPを印刷した資料を開き「麒麟」「透かし彫り」の文字を指しましたら、一発で頷きました。「文字 漢字なら」との返答。 そうです。漢字発祥の地 依然として伝統的書体の漢字を使用している國民でした。

2.1945年8月14日から15日迄、大東亜戦争最後の空襲を体験されたお客様が見えました。7月10日の仙台大空襲で焼失したの説明から、話しがそれ幼少の砌の空襲体験話となり、8月14日晩 親・兄弟と避難した先は異なりながら 歴史的に同地域で同時刻に同じ体験をした事から  何かしらの連帯感が醸し出され 長時間のガイドとなりました。

現在、伊達家10,000石の領地 龍ケ崎市の近辺にお住まいで、親が健在で8月14日には 帰省していますとの事。来年の8月14日の晩、彼地で、御高齢の親に 今日の出会いが語られるかもしれません。


夕方 ある会合で 仙台城本丸ガイドの役員2名と歓談する機会がありました。春まで冬休みで この間自己研修に努める。大崎八幡美宮の団体同様 事務局体制が確立している 等が語られました。

ガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」は代表に、「瑞鳳殿ガイドの会」は会長に 会の統括と事務の一切を仕切って頂いている事に 外部からの評でしょうか。



12 月 18 日 (土)  



羽前・上ノ山の歴嬢様。
09年に瑞鳳殿を含め仙臺城下の政宗公関連史跡を3度訪れ、2度ガイドしました。米澤・福島等の史跡も度々訪れたとメールを呉れ、仙臺城に居城を移した際の和歌「入そめて くにゆたかなる みどりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」を栞につくり、土産に持参された 熱烈な「政宗公」歴嬢です。

「18日友人を案内します。宜しく」と突然メールが入り、予定変更 午前一杯待機しました。が お見えになりませんでした。友人の希望で突然のコースの変更があったのでしょう。
熱烈な政宗公ファンなので 「政宗公灰塚」「母保春院のお墓」等 ご希望ならご案内しますと伝えてありますが、今年は実現しませんでした。都合宜しい時 ご連絡頂ければ。


「奥州仙臺 おもてなし集団 伊達武将隊」と称する 伊達政宗(表裏の2人)、伊達成実、片倉小十郎、支倉常長、足軽組2人、黒脛巾組(クロハバキグミ)計8人の道化集団(元締。仙台市観光交流課)が、観光客の評判が良く 巷で 密かなブームになっています。

朝一番 若い女性40余人が、涅槃門でK学芸員が懸命に説明しているのに、半数が 聞かないで 距離を置いています。TVカメラが入りました。「何の集団で 何で撮影するのか」の趣旨を尋ねましたら、「伊達武将隊フアン倶楽部と称するツァーです。伊達武将隊が 見学箇所の何れかで 突然現れる サプライズがセットされています」との事。

伊達武将隊との接触が目的なのでK学芸員が懸命の説明も 「うわのそら」の状態なのです。瑞鳳殿参拝の時間中  伊達武将隊は現れませんでした。TVカメラ いつの間にか 姿がありませんでした。忍者だったかも。


写真集を開いて、「ここは この写真の所かしら」と青年御夫妻。初めて見る 市内観光ガイドブックで写真集ではありませんでした。葉書大の美麗な景色は本殿でした。その旨を告げ 本殿前まで案内しました。

唐門に代わる「青海波」の門をご覧になり「素敵な青海波ネ」と賛辞。確かに絢爛な色彩の本殿の前に青い波間は マッチします。背景と一致します。でも ココで一言。「創建当時 焼失前には 日光東照宮の唐門と同様な豪華な唐門がありました。これです」と 手持資料をお見せしました。

「あら ホント」 内心 万歳の気分でした。現実 唐門が復元されたかった事が より参拝者に喜ばれているかなの 思いもあります。


午後 仙台市博物館に移動。
企画展 「仙台人物誌 江戸時代のあんな人 こんな人」を見学。仙台藩を縁の下で支えた人の項目もあり、多方面の人々を紹介しており、説明の表現も軟らかく 楽しみながら勉強になる展示でした。

市史編纂室長菅野正道さんが「仙台城下〔町人列伝〕」を仙台商工会議所広報誌飛翔に、連載(10年12月号22回目)していますが、この仙臺豪商が展示にさっぱり登場していないなと感じました。いずれ 企画展の構想があり 今回は控えたのでしょうか。
〔町人列伝〕は仙台商工会議所のホームページで読まれます。


博物館講座「仙台藩主の具足 当館所蔵の藩主具足について」 高橋あけみ学芸員の講座を聴講しました。政宗公や四代綱村公正室仙姫の具足と 歴代藩主・藩主正室の具足一式を 「電動紙芝居」と自称するスライドで丁寧に説明してくれました。これまた 勉強になりました。

講座の最後に
伊達政宗公の具足
1.伊達家寄贈 重要文化財 当館所蔵 
2.瑞鳳殿 埋葬
3.菅野重成拝領 当館所蔵 
4.駒形神社 蔵
5.湯村副幸拝領 当館所蔵

伊達政宗公が拝領した具足
1.豊臣秀吉所用 重要文化財 当館所蔵

があり、メトロ博物館にも政宗の具足があり、全部七具足がある。他博物館には「伝」と称するものがあるが子細は定かでは無いの趣旨の言がありました。

伊予宇和島伊達家は、政宗公の長男 秀宗公が祖です。市立博物館は 「伊達博物館」と称して、宇和島伊達家関連に特定化しています。ここに「伝 伊達政宗所用」と称する具足があります。由来として1916年に入手したとされています。博物館の正面に展示しており、宇和島伊達家伝来品図録の3番目に掲載しています。 

姉妹都市です。行政として 他の都市以上に緊密な交流・情報交換が行われていると思います。にも関わらずサラと流されたのは残念です。
09年3月 巷の隠居を1ケ月間櫻観測要員の名目で招待してくれました。この恩義から 一言 付記します。



12 月 15 日 (水)  



初雪。平年より23日遅れ。史上3番目。

午前、瑞鳳殿のすす払いが、例年のとおり伊達家ご当主が、大将で行われました。仙臺藩志会のUさんも参加されたそうで、「あかとんぼ さんも すす払いを体験されれば 本殿の天女さんの彫刻等を超至近距離で拝見出来る最高の機会でしたのに。(決して 天女さんの柔肌に触れる ではありません。誤解の無いように) 

15時30分からのJRバスのガイド開始前 小雪降り続ける中 綺麗になった門・本殿と撮影しました。小雪が流星の如く写り 我ながら 風情のある情景と 自己満足しました。

本日のバスガイド嬢、「16時25分発車でガイドを」 嬉しいお告げ。通例より15分プラスの55分です。ライトアップされた瑞鳳殿の美しさを堪能して頂けます。
16時23分運転手とガイド嬢と真剣な表情でヒソヒソ打ち合わせしています。このツァーの目玉商品の一つである「光のページェントが 昨日の2回の火災の原因探求のため 急遽中止の知らせが入った。お客様に如何に伝え 仙臺城跡以後のコースをどうするか」でした。

政宗公は、息女五郎八姫が 1606(慶長11)年12月24日家康子息松平忠輝に嫁す事に先立ち、6月に仙臺に呼び寄せました。盂蘭盆の際 五郎八姫は、本丸の北東に位置する艮櫓(ウシトラヤグラ)に登られ 城下領民の婚姻を祝して灯された幾多の燈火を楽しみ喜ばれた の故事をガイドし 五郎八姫の気分で100都市仙台の夜景を お客様に楽しんで頂きました。 

17時30分の光のページェント カントダウン 一斉点灯は無い故 17時の土井晩翠先生の荒城の月の音声を楽しまれました。

お客様 満足されたか「旅にはハブニングがあって旅です。駅ホテルに直行を」。 
であれば 青葉通りを直進 晩翠草堂を車窓ながらご覧頂けるかと思っていたら、「会社の掟です?」と称して 無点灯 暗黒の定禅寺を経由しました。お客様に 中止を納得して頂く 証明の為でしょうか。

300万人の観光客を目指した光のページェントの 突然の中止。バス臨時駐車場には10台余 駐車していました。瑞鳳殿参拝が計画に無く 光のページェントのみ 目的で来仙された お客様の失望と 世話等の関係者のテンヤワンヤ。影響は多大でしょう。




12 月 14 日 (火)  



昨日のお話です。

15時30分からのJRバスのガイドです。降雨で日暮れが早く、暗黒です。閉館30分前です。参拝者はお客様にバスガイドと私の5人のみです。全施設に点灯を、ライトアップしてくれました。闇夜の暗黒に、涅槃門の門扉黒漆の塗りは溶け込み、涅槃門の菊紋と金具が 黄金に浮き出て 輝いて いました。本殿も同様です。日中 太陽光線での輝きと異なる 美しさです。豪華絢爛ではなく華麗と表現する美しさです。お客様に数秒待って頂き 撮影しました。成功しました。会心の作です。

日中には決して見られない情景を 貸し切り 独占 拝観出来た 今日のお客様は 至福の一時であったと思います。そう 申し上げましたが 比較出来なかったか カメラを持参せず 彩色に関心が無いのか 歓喜の反応がありませんでした。残念です。あかとんぼ は お客様に 今日 この機会を頂いた事に感謝致します。


13時から 一般ガイドをしました。
1.仙臺東照宮の隣から来たと 自称される高齢のご婦人。「すす払い どうして今日実施しないの? 神様は今日やるのよ。ここ瑞鳳殿は15日11時からすす払いします。今、事務所で聞いてきました。当日の作業を具体的に説明しなさい」

この方、事務所での確認事項、作業の手順 などを、なぜ詰問調で、改めてボラガイドに尋ねるのでしょうか。15日すす払いに参加を希望しているのでしょうか。仙臺東照宮ですす払いされてから 参拝に見えたのでしょうか??
「ボラガイドなので 詳しい事は知りませんし、答えられる立場にありませんので 今一度 事務所で確かめてください」と返事しました。

事務所に報告しました。「例年同様 ご当主が絵筆で本殿の彫刻を、施設担当職員が竹箒で 伝統的な 道具・手順で作業をします。集塵機等の近代的道具の使用は 全く考えていません」との事でした。

「なぜ 13日ではないのか」には、「ここは、佛様であって、神様では ありません」と 予想の通りの返答でした。
朝刊によれば、昨日 大崎八幡宮で すす払いが行われたと報じています。

「すす払い 陰暦の時代 この日に行う事になっていた。大晦日までかなりの日数があり、早いが歳神(正月神)を迎える準備をするための信仰的な行事」と 365日行事こよみ辞典(三省堂)に記載してありました。

2.盛年ご婦人から「ここ三殿の格付けを教えて」。一般 現役社会では 全て即 格付けがなされているのか、その真意を理解できないまま「瑞鳳殿は 仙台伊達家初代政宗公を祀っており 焼失するまでは国宝でした。感仙殿は 二代忠宗公を祀っており 焼失するまでは国宝でした。善応殿は三代綱宗公を祀っております。感仙殿・善応殿は、焼失前の姿まで復元はされていません」と回答しました。是で満足されたか 更なる 質問はありませんでした。「三殿の格付け」なる 言葉に 内心驚きました。

3.「撮影してよろしいですか。建造物に興味があるの」お嬢さんからの質問です。建物と云わず建造物と表現するとは ただ者ではない かなと思いました。「ブログ程度なら自由ですが 本を出す等であれば 事務所に相談して下さい」

建造物には興味があっても 彫刻には興味がないらしく 涅槃門の彫刻を見上げることなく本殿に向かいました。

暫時経過 資料館内で携帯を操作しています。館内は撮影禁止です。モニターTVに写っている筈ですが なぜか 職員は駆けつけません。 あかとんぼ は注意をする立場にありません 注目していました。各 掲示・説明文を丹念に携帯に記録していたのです。携帯の使い方 知りました。 


15時から 山門前で待機しました。タクシーがやはり待機していました。雨が降って来ました。傘を持たないお嬢さん二人 券売所でポリ袋を貰い、一片を切り開き 蓑の形にして 被り拝観していました。でも タクシーに乗らなかったようです。

16時20分 あのタクシー2台がまだ待機していました。このバスのお客様が最終ですと伝えましら 走り去りました。15時前から待機していたのです。凄い忍耐力です。他人の懐を心配出来る身ではありませんが これで生活出来るか 心配です。

 



12 月 13 日 (月)  



一国一城。
「唯一の例外 伊達領の仙臺城と白石城。これは 政宗公の政治力の結果と理解していました」と9日の日誌に記載しました。

識者Aさまから、「少なくとも白石城の存在を「政宗公の政治力」に起因させる考え方は適当ではない」と ご教示を頂きました。

「一国一城制は西国を対象としたもの」の説が近年の研究で大勢を占めている。江戸時代初期に、東国の大名は居城以外の城を持つ事があり得た。奥羽の10万石以上の大名で、江戸期を通じて居城以外にも幕府公認の城をもっている。
盛岡藩(南部家)=花巻城
秋田藩(佐竹家)=大館城、横手城
米澤藩(上杉家)=大森城もしくは福島城 〔30万石時代〕
会津藩(松平〔保科〕家)=猪苗代城
仙臺藩(伊達家)=白石城
他の地域でも
藤堂家=津城、伊賀上野城
細川家=熊本城、八代城
以上の例から、伊達家=白石城は例外と言えない状況にある。

上記のご教示で あかとんぼ の理解に誤りがあった事 理解しました。仙台では 全て 政宗公に結びつけ 権威づける風習と申すか病に あかとんぼ も 陥っていました。今日のガイドから あらためます。

「何故 東國は対象外であったのかは、1590年8月9日の秀吉の奥州仕置きで 認められた大名の居城以外は破却を命じ 既に支城等が存在しなかった」の記載は、「伊達領では奥羽仕置の際に徳川家康や石田三成、大谷吉継らによって支城として残すべき城を豊臣政権が選択、認定、そして修築した後に政宗に引き渡しています。蒲生領や最上領にも多くの支城が奥羽仕置後に存在したことは明白な事実として認定されています」と ご教示頂きました。 あかとんぼ のはなはだしい事実誤認です。9日の日誌の本項を削除しました。


「一関田村家は3萬石の大名ですが、無城です。なぜ」について、「今後の重要な研究課題の一つです」と結ばれていましす。

識者・読者の皆様からの ご指摘・ご教示頂く事は 非常に励みになります。感謝申し上げます。



12 月 12 日 (日)  



寒くなりました。
コート 厚めに基準AからBに上げました。でも、暖かいと感じない気温でした。

垣根の外から「お寒いのに 毎日曜日 ガイドご苦労様です」白髪のご婦人が声をかけてくれました。「お元気ですネ」と返答したら「これから 仙臺城の登米・水沢の伊達家の屋敷があった所まで、散歩してきます。65歳には 丁度良い距離です」

瑞鳳殿に隣接する町内会の方の様です。ガイドに無関心の様にして 見ていたのです。でなければ「毎日曜日 ガイド」とは知りません。
激励に感謝致します。


お嬢さん 吐水龍の下の伊達家家紋を撮影しながら「3っもあるのかな」と洩らしていました。「伊達8家紋と申して・・・・」と説明したら、「私の家 橘の紋なの」 今一人「私の家には 無いワ」 両親や祖父母が使った家紋 伝承されていないのかな。埼玉のお嬢さんでした。


仙台市外の大手バス会社のガイド嬢から「瑞鳳殿は何故 西を向いているのか」と 問われました。
経ケ峯の地形を考察すれば、政宗公が指示した場所から 自然として現在の配置(西向)になると思います。プロの中には ボラガイドの知識をテストする方がいます。新顔ですので、それを内心警戒し「仙臺城を向いています」と答えました。そのまま ツァーのお客様にガイドしていました。テストでは無かった。真面目な質問であったのです。


秋以来 女性ガイドと 一緒になる機会がありませんでした。久々に美人ガイドのYさんが見えました。「1回20分から30分のガイド丁度よいの。10分と云われると 大幅な省略で思うように伝えられないの」と申されました。全く同感です。



12 月 9 日 (木)  



一国一城。
唯一の例外 伊達領の仙臺城と白石城。これは 政宗公の政治力の結果と理解していました。

元和元(1615)年閏6月13日 徳川幕府は年寄衆、連署奉書により 西國(サイゴク)國持大名に居城以外の支城の破却を命じました。
西國國持大名が対象で、肥前佐賀の鍋島氏、土佐高知の山内氏、薩摩鹿児島の島津氏、筑前福岡の黒田氏、長門萩の毛利氏宛のものが存在するそうです。

この布告は、中央政府から全国に発せられた理解し、全国の大名が対象と理解をしていました。ところが西國の大大名宛に発令されたもので、約400の支城が破却されたそうです。

では なぜ62萬石の大大名の伊達家領内で 1國2城となる白石城が、1615年の一国一城令の対象外となったか。
政宗公の政治力と推定する以外に、決定的史料に至っていません。

今一つ 一関田村家は3萬石の大名ですが、無城です。なぜ でしょうか。大名なのに城が無いのは。
伊達家62萬石の内 3萬石の大名だからでしょうか。はたまた 時代は平和となり城は不要であったからでしょうか。これも、決定的史料に至っていません。

どなたか ご教示下されば 幸甚の極みです。

以上は、「江戸大名のお引っ越し 居城受け渡しの作法 白峯旬 著 新人物ブックス」を 読んでいて涌いた疑問です。
なお、著者は「日本近世城郭史の研究」「豊臣の城・徳川の城 戦争・政治と城郭」「幕府権力と城郭統制」を刊行しているそうです。



12 月 8 日 (水)  



早朝 仙臺藩志会のUさんから「弔魂碑の基礎解体が始まった。1877年代のモルタルは、現在に比較し柔らかく、作業速度が速い。瞬く間に終わるかも」と親切な電話を頂きました。

たまたまの作業中を切り上げ駆けつけました。公共交通機関を乗り継ぎ駆けつけた時は、「昼九っ」を過ぎていました。でも 間に合いました。撮影しました。情報提供に深く感謝致します。

瑞鳳殿ガイドは当番制です。 あかとんぼ は本日は当番ではありませんが 当番不在でしたので、ガイドに入りました。

資料館で学習中、「ガイドさん 降り口は ここ1ケ所だけですか」と 極めて高齢で歩行に障害がみられるご婦人と一緒の高齢のご婦人に問われました。
急な階段を降りる事に、危機感を持たれてのご相談です。「ハイ 申し訳ありません 降りる階段は 今登られた階段だけです」と応えつつ 手すりは無いし困ったなと思いました。

最悪の場合 赤ちゃんの様に 後ろ向き 両手両足で降りて頂くのか。しかし、それは 高齢者の尊厳を傷つけるだろうな。最悪の場合 老老介護で 我が爺様が 片肩を背負わないといけないかと 覚悟しました。幸い 前向きでソロソロと下段されました。安堵しました。

(財)瑞鳳殿村井嘉浩会長殿 兼ねて鹿野事務局長にお願い致しております 手摺の設置 高齢者・身体障害者が 安全安心で参拝出来るように、人にやさしい観光宮城の為 計画の繰り上げ実施をお願い致します。

山形・尾花沢からのご婦人15人程、時間はたっぷりあるから。
尾花沢と云えば スイカ。当初 スイカの尾花沢から来たと 意気軒昂でしたが 最後には 作り手の高齢化と 仙台までのトラック行商の人手不足と 地場農業の前途の嘆きをポロリ。日暮れと寒気に里心ついたか 今晩の宿 作並温泉に急ぎたい人 資料館じっくり見たい人。

「お爺さん 寒いのに ガイドご苦労さん これで元気つけて」 咽飴 5個くれました。彼女は 留守をしている配偶者の爺様を 思ったのでしょうか。年寄りの健康は 年寄りが知る のでしょうか。


15時30分 JRびゅうバス「伊達な仙台浪漫号」が 予定時刻より10分早く到着、16時20分に発車する様にガイドをして欲しいと バスガイドから引き継ぎ、50分間でに62石段の昇降を含めて瑞鳳殿を中心にガイド。続いて16時30分から30分で仙臺本丸をガイド。15時20分定禅寺通りの光のページェント会場に到着。17年30分の点灯をお客様と 喜び 西公園側から勾当台迄を鑑賞し 流れ解散となりました。

本日 お客様の目的 一番は何であったでしょうか。鐘景閣・大崎八幡宮・瑞鳳殿・仙臺城址と 伊達家関連施設を巡っています。これらの施設が目的であった。よかったの反応は 一緒にいた限り 昼食の牛タン定食と笹かま試食でした。

本日は 寒気厳しく 懐中簡易懐炉 俗称ホカロンを10年間ガイドして初めて使用しました。



12 月 7 日 (火)  



ガイド仲間の忘年会が仙台駅前の居酒屋で 隠れた仙臺名物「瓦斯燈」が点る時刻に開催されました。この時刻故、高齢者と女性の会員に敬遠され、参加は僅か13人でした。

常日頃ガイドをしている者とEさんの講座参加者が参加しています。数々の情報が公開され、留まる事知らずに乾杯の際、ビールの泡はスッカリ無くなっていました。

話題と資料について
1.瑞鳳殿参道の石段は、何年頃 か。
  安永8(1779)年以前、7代重村公の時代と推定される。その根拠は、寛文(1660)から元和(1709)年間の瑞鳳殿御霊屋絵図(御修復帳所載)には参道の石段が記載無く、安永8(1779)年と記載のある「瑞鳳寺諸廟への藩主参詣図(伊達忠宗・綱宗の墓とその遺品)」には、石段が記載されている事から。Eさんの調査結果です。

3.地名の読み。
 仙台市主催の町中ガイド。今年2回担当しました。コースは仙台駅から名掛丁・新伝馬町・大町・芭蕉の辻です。この新伝馬町の読みです。シンデンママチと読み、その様にガイドしていました。

 現地古老からの伝承、宮城教育会「郷土の伝承」によれば 正しくは シンテンマチ であると知らされました。目から鱗です。さて、地元銀行の支店名、フリガナの 銀行協会届出  呼称は シンテンマチ支店なのか 楽しみです。


4.瑞鳳殿と老舗。
  瑞鳳殿の坂下に旅館「天龍閣」があります。仙臺藩志会の裃姿で、瑞鳳殿参拝の際の基地です。又、一般参拝者もここに宿泊される方がいます。それなりにご縁のある所です。
  廣瀬川の対岸に料亭「対橋楼春風亭」があります。戊辰の役の際、奥羽越列藩同盟の会議場になった場所で、戊辰の役140年祭の直会々場にもなった、それなりにご縁のある所です。

 Uさんが この2店の経営者である女将の対談集を配布しました。ガイド資料として興味ある内容が満載されていました。


5.伊達小次郎。
  11月3日の日誌に記載しました「毒殺未遂事件と小次郎殺害は、政宗公の人生の最大の暗部である。伊達小次郎は生きていたか? 「仙台市博物館前館長の佐藤憲一氏が、『Kappo』(カッポ)という雑誌の最新号に興味深い説を掲載しています。ご一読を あかとんぼ もお勧めします。」(要旨)

 本HPを見 雑誌を読まれた方々から それぞれの所見がが述べられました。


6.日光東照宮に。
  11月12日の日誌に記載しました「家康公は、日光東照宮刊行資料によれば、〔御遺言により天和3年4月御遺骸を日光に御遷し〕について、あかとんぼ の疑問は・・・・・」、NYさんから あかとんぼ と同様趣旨の発言がありました。 


飲酒後の発言は 聞き取れず 記憶されず 一切不詳です。



12 月 5 日 (日)  



朝一番 全職員で境内清掃です。昨日の強風で落下した折損枝の清掃です。

仙台城を見学してから瑞鳳殿に見えたお客様。「瑞鳳殿には風が吹かなかったのですか。仙台城は足の踏み場も無い程でした」
「気持ちよく参拝して頂きたいと 早め出勤し全職員が一致清掃しました」に、「みなさま は おもてなしの心を実践されているのですネ。素晴らしい」と絶賛されました。 清掃に参加していない あかとんぼ は恐縮し身を縮めました。

亜細亜系でない 若い男性が息を切らずに続々と登ってきます。バスガイド「宴会時間10:30」と表示し 息を切らせてた立っています。出発時刻の表示ですが「朝から宴会ですか」とチョカイしました。あわてて 指で隠しながら「漢字読めないから ダイジョウブ」
バス3台120人ほどのお客様に バスガイド3人 添乗員3人 他に通訳と世話役が付いています、手厚い布陣の団体です。

バスガイド1人「date masamune Mausoleum」と 一言ガイドしていました。是で全てを理解したのでしょうか。

お客様は、沖縄米国海兵隊員 との事。62の石段で息が切れないのは当然です。瑞鳳殿の他は、仙台城と松島を回るそうです。先日迄 隣町演習場で実施された 実弾発射訓練の要員で、基地に帰還する前の仙台観光でしようか。

あかとんぼ の背の「竹に雀」の家紋を撮影する余裕があり、統制のとれた 好感の持てる一団でした。


「ここ瑞鳳殿と瑞厳寺の関係は? この家紋の由来は?」等 立て続けて質問されます。「ハイご説明致します 今しばらく聞いてください」と 「伊達家発祥の地 家祖から現代まで、」と語りました。 途中 茨城県からと申されましたので「龍ケ崎領」まで語りました。

説明の課程で、伊達家江戸屋敷「松平陸奥守」と表示した地図をお見せしましたら「なぜ 松平の名乗るのか 外様でしょう」の発言を頂きながら
「お待たせ致しました 先輩 お話聞かせてください」  とうとうと語りました。水戸黄門の家来の末裔とのことでした。

「水戸徳川家の墓所 黄門様の墓所は、どこにあって どうなった」と供の方(奥様と娘)に聞いていました。気分はテレビの黄門様です。
お供の方 「水戸様の家臣でないの、黄門さまの家来の末裔でないの」と笑っていました。


あかとんぼ がお世話になった方の不幸があり 出羽國久保田で葬儀全行程に参列しました故に、28日のガイド29日のガイド関係会議を急遽欠席しました。その間 紅葉はすっかり 終わり、弔魂碑の鐵碑の部分は外されていました。時間の経過を感じました。 





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