2011年2月の日誌
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2 月 27 日 (日)  



ご城下はお嬢様が、春のコートに美脚て闊歩しています。爺様は依然として厚いコートです。

参拝者からのガイド依頼切れることなく 孤軍奮闘。流れが途絶えたのが12時30分。

長野からの親娘。政宗公の身長・血液型等 全て調査の上の参拝。「チョット待って」と克明にメモをされました。

東京からの三嬢。若くて綺麗なので 寶筐印塔で 「平成生まれですネ」に。ニッコと笑って「イヤ」。最年少者は数えの22歳と説明したら 当初の質問の意味を理解され またニッコリ。

お爺さんと云わず 「オジサン 記念写真を」と云われて オジイサン ニッコリと 一緒に撮られました。


特記すべき質問はありませんでした。
珍しい風景として「屋根の上の落ち葉掃き」がありました。参道の大木の落ち葉が券売所の上に積もったのです。



2 月 26 日 (土)  



出入司

伊達家の職制の一つ。格式500石。
「藩財政をつかさどる役」義山公治家記録 正保元(1644)年3月20日条に 「山口内記重如を出入司に仰付らる。此時いまだ出入司の名であらず。金穀財用を司るの職なり」と記載されている。

出入司は伊達家の職制での位置です
奉行・・・・財用方取切奉行1人・・・・出入司五人 内1人 金穀取切・・・・・・郡奉行ほか7奉行となっています。
(仙臺郷土研究 仙台藩歴史用語事典)

山口内記重如の経歴と子孫が如何がなったかが主体で、出入司の職務内容 伊達家の財政状況の変化等は語られませんでした。

仙臺藩志会主催での講演会です。伊達家一門・一家のお歴々の末裔の面前で一家臣の経歴と子孫を語らせるとは、開放的団体です。



2 月 22 日 (火)  



大名家の道具

南部家ゆかりの道具(含 茶道具一式全23点、弁当重全7点)計14点が、盛岡市に市民から寄付され、7月に開館する「もりおか歴史文化館」で展示をすると河北新報は伝えています。

瑞鳳殿資料館は、霊廟の発掘調査の展示が主体で、その余のものが展示されていないことは当然です。(財)瑞鳳殿の所蔵品の目録が公開されていませんから、いかなる品が所蔵されているか不知です。

仙台市博物館には、伊達家で所蔵した道具類が相当数あると思います。で、仙台市博物館展示図録1986版、仙台市博物館総合案内1997版を開きましたが、皆無に近いと表現できます。

宇和島市立宇和島伊達博物館 宇和島伊達家伝来品図録を開きますと、「調度」の項50頁にわたって記載されています。

東西の伊達家、博物館の格差の起因はいずこに由来しているのでしょうか。

南部家の財産が競売された際 購入したものと付記されていました。各 お家の事情があったでしょう。


南部家の墓所をお詣りしたことはありません。観光パンフに記載されていません。
伊達家墓所 瑞鳳殿等は 観光パンフに記載され、全世界から参拝にみえます。「仙台市民と伊達家が羨ましい。こんなに大切にされていて。それに比べ 我が○○は」と 嘆かれる方がそれなりにいます。

仙台市史特別編に美術工芸 があります。博物館図録より進んでいると反論されるかもしれませんが、博物館での収蔵と展示の機会を増やして頂きたいと思います。

伊達62万石の仙台が 20万石の南部・盛岡 10万石の宇和島伊達の風下は 御先祖に申し訳ないのでは。



2 月 21 日 (月)  



実は

仙台市博物館の皆様は、開かれた市民の為の博物館を実践されています。相談に丁寧に応答してくれ、又 我々仲間の勉強会にも 薄謝にもかかわらず時間を都合され 分かり易く 講義・指導をしてくださいます。 

濱田直嗣、菅野正道、船戸崇、齋藤潤の各先生には、会員の要望が強く 度々講義をお願いしています。

齋藤潤先生には、06年2月「仙台藩の台所事情」、07年2月「伊達吉村の治世」、08年8月「伊達家の家紋と由来」と題して講義を頂きました。09年の講義直前 訃報に接しました。「なぜ」が会員間に走りました。

御尊父より「博物館の皆様が遺稿集を作ってくれました」と便りを頂きましたが、肝心の 市売されたのか 書名 版元は知らされませんでした。
探索しました。「伊達氏 仙台への道 大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書 特別編」として 大崎八幡宮から刊行されていました。

ガイドを目指さなくとも、政宗公と伊達家についての 入門書として 最高の図書と実感しました。
御尊父に、「ご子息には生前 宜しくご指導頂きました。遺稿集は購入しました。座右の図書に加えました」と伝えましたら、「実は・・・・・・」と返ってきました。


10年11月17日Uさんが講師で「三居沢不動尊・発電所」と題し、現地で勉強会を開催しました。その際、紹介された 先人・偉人の一人に「太田千之助」なる人物がいました。

「伊達氏の源流の地」等の図書を数発刊されています仙臺藩志会理事の土生慶子先生が「太田千之助の資料集」と題する図書を刊行されました。
「太田千之助」は、三居沢発電所の建設に関わった技術者で、先生の御祖父。1945年7月10日仙臺大空襲の際、女学生であった先生は妹の手を引いて設計書等が格納されたトランクを背負って 火炎の町を逃げまどい 命と荷 無事に守り通した。命をかけて守った資料が 歳月の藻屑と消えるのは残念と 自費出版されました。

土生先生に 「図書館から借用、拝読しました」と伝えましたら、「実は・・・・・・」と返ってきました。 


各人 皆 実は・・・の事情を抱えています。現物配布の一次選考に漏れたとして 情報を頂き、購入・借用出来ました。満足です。

此処まで 記した時点で、西南の役研究に転じた Kさんが 「西討戦没之碑」に関わる資料をご持参くださいました。感謝するとともに その調査能力に敬服します。 



2 月 20 日 (日)  



お日様は春の足音を告げています。
臥龍梅の蕾は 幼稚園児くらいに、ふくらみました。

9時大団体が。続いて 香川県からの10人程 「仙台は寒いですね タクシー待たせています 見所絞って10分でガイドして」
本殿までの間 「政宗公はどんな人物か この建造物の特徴は」を説明しました。
男性10人の団体は、ともするとアルコール臭する方がいますが、この人々には全くなく 聞き逃さないぞ の様子で聞いてくれました。

「ガイドお願いします」 「ハイ どちらからお越しですか」 「群馬県」当てずっぽうに「高崎ですか」 「ハイそうです どうしてわかりますの」 次の住所を云うと また当たりそうなのでストップ 「ハイ オジサンがいますので」

レンターカーで市内を無作為に観光している様子。仙臺城本丸には登って 瑞鳳殿にまっすぐ。政宗公には 当然詳しく無く 政宗公の略歴・桃山文化を説明。松島は これからとのこと 瑞厳寺と 愛姫 寶華殿をお詣りされますよう 奨めました。

時速300kの新幹線「はやぶさ」の勇姿を印刷した手提袋 さげたお客様 目に付きました。昨日・今日の試乗会に招待され多方でしょうか。あかとんぼ も応募しましたが 60倍の倍率に破れました。
ハイスピードの列車に試乗された方故か ハイスピード参拝です。ガイドの余地ありませんでした。

手洗鉢の吐龍を見た親娘 「この龍 オカシイ」  「ハー」 「龍は ナ 玉を持っているべきだ」 「ハー ギョクとは」

あかとんぼ の先輩 「人生始めての80代になりました」と申していながら 急遽 旅立ちました。午後から告別式なので お昼前にガイドをお仕舞いにしました。



2 月 17 日 (木)  



にっぽんの名城「仙臺城」NHKTV教育放映を見ました。

満足でした。列記します。

1.ガイド相役 「美甘子ミカコ」歴史・戦国武将に相当の知識をもっているのは、当然として、おごり高ぶらず、政宗公に敬意を表して の敬称をして 終始発言していたこと。

 彼女は1982年生まれ、歴ドル(歴史アイドル)として活動中。歴女・歴嬢とは ひと味違う様です。著書に「歴女 私の愛する戦国武将」外数冊とHPがある

2.我々ガイド勉強会でも説明しない箇所を丁寧に解説したこと。
  @廣瀬川底に残る大橋の橋脚跡
  A本丸東側崖を、下の馬場跡から見上げる様に 急峻である様子。
  B巽門からの登城経路 酒造場を含めて解説したこと。
  C天守臺は造ったが天守閣は建てなかったことを画像で説明したこと。
  D政宗公時代の石垣はこれだ、西國との相違点を説明したこと。

あかとんぼ 通例の如く 録画に失敗しました。テキストで復習し、再放送 2月24月(木)13年05分に希望を託します。



2 月 15 日 (火)  



西討戦没之碑

西南の役の際、鎮圧に参加 尊い命を落とした 伊達家旧家臣等の弔魂碑です。
この人々は、靖国神社に祀られているか です。

祀られた と理解しています。

碑文に 「天子親臨東京招魂社祭西討戦将士宮城縣仙臺藩人列名壇上者一百四十有二矣・・・・・・」と 明治初め大政復古の際・・・・天子 罪を許され  斬悔感激・・・・・とあります。

靖国神社の祭神はウィキディアによれば

戊辰の役・明治維新(1868-1869年) 7751柱   新政府軍側のみ。
遊就館の靖国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。(彰義隊や新撰組を含む)旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となる。

西南の役(1877年) 6971柱 政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。

海軍省編纂「西南征討志」に、戦死者6,843人 陸軍5,662人 海軍40人 警視庁834人 熊本県322人と記載あり、敗者の死者は 約5,000人と大雑把に数値です。

以上から あかとんぼ は 警視庁834人に含まれている 祀られた の結論に達しています。

なお、戦死者数は、碑文には、142名 裏面記載は、警察関係117人 陸軍関係40人合計157人です。案内板141名です。宮城県史(第7巻西南の役)には、警察関係109人 陸軍関係32人合計141人 と 資料により異なります。

西討戦没之碑は、瑞鳳殿の西参道登り口右側に建立されています。当初 躑躅岡に建立が計画された様です。歩兵第3旅団司令部、歩兵第4連隊が1877年に設置されていたか未確認のため、この関連性等 何故 この地になったか解明出来ていません。


本HPの「資料館」の〔西討戦没之碑〕の頁がトラブリ この修理と 〔鹿児島県七士の墓〕の頁の新設が 昨日完成しました。
愛読者K様から ご心配と照会を頂きました。感謝致します。 



2 月 13 日 (日)  



3連休最終日、9時参拝者は続々と。昨日は降積雪の悪条件ながら1000人に近い方々が参拝されたそうです。本日は、1昨日位の方の参拝はあるでしょう。

境内には 残雪が見られません。淡雪 溶けたのでしょう。屋根には 僅かに残っていました。

暖気になった10時過ぎ、本殿で 懸命にお祈りしている男性の後頭部から背にかけて 約2秒ほど 落雪が走りました。「雪 よけて」と声をかけましたが間に合いませんでした。怪我はありませんが、圧力と冷たいのに 驚かれた様子。
この方 政宗公の霊気が移り 幸運に恵まれると思います。年間20万人程の参拝がありますが、まともに落雪に見舞われた方は 貴男だけです。
以後 全て落下する迄 注意を喚起しながらガイドしました。 


「あかとんぼ(戸籍上の本名を)さん しばらく です」 と振り返り ズボンの尻に輝く家紋(竹に雀)を披露しました男性。
「アッ 肥前名護屋のYさん」 

2010年5月5日に 肥前名古屋から遠路参拝に 見えた方です。こんな出来事がありました。

「手水所で順番を待っている壮年男性のズボン右ポケットの位置に「竹に雀」家紋が金色に輝いています。恐る恐る Uさんと一緒に 「伊達家の家紋でしょう」 「ハイ」出した手ふきも「竹に雀」家紋が。オドロキビックリです。静岡で購入されたそうです。家紋の使用に 伊達家ご当主の許可を得ているのか 定かではありません。

その後 メールを頂いております。又 再訪があり 今日が3回目と記憶しています。

「静岡に転勤になり、名取に用事があり、本日 ズボンを履き替え 参拝に参上しました。家紋の使用は 伊達家ご当主の許可を得ているそうです」
「ガイトする余地無いようです。ガイドしません。ゆっくり参拝してください」 「ハイ」

時計の針が進み 歴嬢をガイドし 登壇しましたら 参拝者の切れ間を待って お詣りしていました。
お詣り後 ゆっくり 語りたいと思いましたが ガイド中すれ違いとなり 再度 お話をする機会を失しました。残念です。

昨日は 積降雪・寒気と 足下条件不良の中で、多数の参拝者を NMさんは 唯一人で 終日ガイドされた様です。ご苦労様でした。



2 月 12 日 (土)  



天気予報は当たりました。あかとんぼ邑で10cm余(公認記録9cm)の積雪となり、屋敷前を町方のブルが除雪してくれました。中日で参拝者か多数と予想しましたが、城下に通ずる峠での難渋を懸念し、在宅 お調べに専念しました。

先般 宮城県立図書館から、次の内容のメールを頂きました。

<質問>
 将軍や当主などの字を名前につけてはならぬ,という趣旨の規程が仙台藩にあったはずだが,その資料を得たい。

<回答>
『仙台藩歴史用語辞典』p.18「おとめな〔御留名〕」およびp.30「きんじ〔禁字〕」の項によると,「仙台藩では「御留名(おとめな)」「御留文字(おとめもじ)」といった。」とあります。

『仙台市史 通史編5』pp.176-179に「禁字」の項目があります。

『仙台市史 資料編3』pp.100-135「御用書法并相定文体等」が掲載されています。
p.109には「 実名相付候儀被相禁候文字
家 宣 治 基 竹 朝 政 正 忠 綱 吉 宗 久 国 村 温 惇 年 淳 方 義広 義広と続候而実名付候儀被相禁候事
右ハ安永七年四月 御先代より被相禁候分並此度御
吟味之上此末共ニ被相禁候段被相触候事」
との記録が収録されており,名前に用いてはいけない字を規定している箇所があります。

さすれば と 『仙台藩歴史用語辞典』(仙台郷土研究,2010.6刊行)と『仙台市史 通史編5』(仙台市史編さん委員会,2004.3刊行)を紐解きました。

通史編5の177頁に1844(弘化元)の禁字通達が掲載されています。驚き あかとんぼ の名前の1文字が 13代慶邦公の初名として禁字になっています。

禁字は 文字のみならず 読みも禁止の対象になっていた。女性の名前は人数改帳に「仮名」で記載され、徹底する為。徹底されれば、10代齊宗の正室カタヒメ(金編に比・白)姫のカタを名乗る女性は、領内に姫 唯一人になった。

「宗」の文字は歴代用いられ 理解していましたが、それ以外の文字で 通達の都度 改名をさせられた 民・百姓は大変だった。また、戸籍に代わるものとして「人数改帳」があった。

以上が本日の学習の成果です。 



2 月 11 日 (金)  



祝日 建国記念の日です。

その昔 紀元節といい、日本書紀にある神武天皇が即位した日を陽暦に換算した日(生活歳時記・1978年三宝出版刊)
紀元前660年神武元年1月橿原宮にて即位された。天照大神の子孫で、大和を征服、天皇として即位したされている。しかし、実在性が低いとされています。(古事記と日本書紀 2009年刊坂本勝監修) 祝日制定の際 議論となり 建国の日 とならず 建国記念の日 となった。(行事こよみ事典1991年三省堂刊)

本日から3連休です。お客様の出足は快調です。

奈良・橿原生まれの京都・大学の女子大生2人。臥龍梅の蕾を撮影していたら 質問されました。「政宗公が朝鮮半島から持ち帰ったと云われる梅です。蕾はまだ硬く 3月末には咲くでしょう。お宅の方は咲きましたか」 「はい 咲きました。奈良は雪が降りませんから」

「この家紋は、伊達家一番古いもので、1189年(822年前)から使用しています」 「奈良では 昨年平城京還都1300年のお祝いをしました」
お嬢さんは 古都からお出でになりましたが 若々しいですネ。仙臺は ようよう400年です。奈良 大雪の模様をTVが伝えています。独り言


福島から来ました。 中通りですか。イエ 浜通りです。相馬ですか、この九曜紋は相馬家でも使っています。この話はココマデ。
寶筐印塔で、殉死者の気持ちを理解できるのは 私たち年代にならなくては と申されました。さて、このお二人 盛年なのか 熟年なのか 謎のまま。

「私 徳川なの」・・・・拝殿の扁額の説明で 「長持」(松島町博物館所蔵)の写真を開いた途端 葵の家紋を見ての発声。
伊達家6代宗村公に、1735(享保20)年6月 紀伊・徳川宗直公娘 温子(利根姫)様が将軍吉宗の養女の身分で輿入れた際 296棹持参された内の1棹です。  「私 紀伊なの」  となると御三家 紀伊の徳川のお姫様となるわけです。

「ヘヘ−」と畏まることになるのか TVの水戸黄門見過ぎです。でも 一緒のお友達 表情を変えません。爺様をからかったのか。
この嬢様が 黄門様なら 助さん 格さんの役になる一人 平成生まれとか。寶筐印塔の最年少者と同じ年齢。お嬢様達は これから人生を楽しむでしょう。

政宗公について 知っています。明日は白石を訪れるとか。片倉小十郎重長 寄進の灯籠を紹介しました。この歴嬢さまは、京都・大学の女子大生3人でした。

今日は、建国記念の日ですが なぜか 京都・大学の女子大生の日でした。

12時天気予報の通り 雪が落ちて来ました。明日は連休の中日。でも大雪の予報。お客様の出足は 如何でしょうか。



2 月 10 日 (木)  



宇和島伊達家御当主

4日 愛媛県知事、宇和島市長と共に仙臺を訪れました。
宇和島伊達家の祖は秀宗公で、政宗公の長子です。その後の姻戚関係も密であります。仙臺を訪れたからには、大本の家祖の祖政宗公の御霊屋・瑞鳳殿を参拝されるものと推察していました。参拝されたの確認がとれていません。諸事情があったのでしょう。

宇和島伊達家13代御当主 伊達宗信 さまの略歴・素顔が 「きずな」と題する宇和島をリードする大人の情報誌(10,000部無料配布)に掲載されています。

略歴として
1971年 東京都で生。
2008年 13代を嗣ぐ。
現在 (財)宇和島伊達文化保存会理事長。(財)南豫奨学会理事長。和宗紀業椛纒\取締役。

素顔紹介 興味深い談話があります。
「さびしい話しですが、今でも東京で〔宇和島〕と云うと〔どこの島?何県?〕と云われるんです。そして〔伊達〕と云うと〔何で宇和島なの?仙台じゃないの?〕と何度説明したか分からないくらい聞かれるんです。でも、やっぱり世の中は仙台なんです。でも、宇和島にある伊達の文化遺産は決して負けていない。だからこそ仙台もあって宇和島もあって伊達なんだよと云う事を発信したいと思っています。時間がとれれば、是非仙台に行ってみたいと思います。当面は東京と宇和島両方で仕事をする。」


思いは竜頭蛇尾に終わったようです。
仙臺藩志会の会報は「藩報 きずな」です。宇和島の情報誌も ひらがな表記の「きずな」です。思いは共通しているのでしょうか。



2 月 8 日 (火)  



「伊達政宗とキリスト教」と題して 濱田直嗣氏の講演が、ガイド仲間の勉強会でありました。

濱田先生は、仙台市史特別編「慶長遣欧使節」の総括執筆者です。支倉常長と慶長遣欧使節についての研究の第一人者です。
詳細な資料と映像での110分の濃い講義でした。

1.支倉常長は、動機としては 方便で帰依したかもしりない。常長は仏教へ立ち返ったかは不明である。結果的に、キリシタン禁止により支倉家は断絶した。

2.政宗公のキリシタン観は、文書記録として「伊達政宗言行録」に2本あるのみで子細は不明である。

3.政宗公個人のキリスト教に対する姿勢は、徳川政権との確執の中で変転しているが、あくまで施政者としての判断に重きが置かれている。

4.瑞鳳殿の墓室から発見された「常長が欧州から持ち帰ったと云われる金製のロザリ−」を、どのように理解するか。


付録として 武将の陣羽織とは なんぞや の説明が 画像を用いて説明されました。
仙台市指定有形文化財の「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」は、家紋の〔竹に雀〕からして 政宗公所用は疑問であり、家臣等の陣旗に描かれた模様等から (水玉)では無く(星)と見るのが妥当であると締めくくられました。

今回 開催日のお知らせに齟齬があった為か、会員の欠席が数多くありました。逆に 新聞広報で「濱田先生のお名前と演題」に惹かれて参加された方が10名程 おりました。

私らガイド仲間の勉強会でありますから 案内板は 会の名称「ぐるーぷ・よっこより」で掲記しています。先生のお名前や演題に惹かれた方々は、主催の会の名称を全く記憶しておらず、案内がないと会館とトラブルとなりかけ、玄関に立ち 案内しました。始めての事例です。



2 月 7 日 (月)  



瑞鳳殿には、春休みに 祖父母にと共に 小学校5年生から6年生の学童が訪れます。
学科で歴史を学ぶのが5年生のようです。日本史 郷土史 どのように学ぶのか定かではありませんが 政宗公に関心を持つ学童が数多いようです。家庭で 祖父母に語るのでしょう。マゴバカと揶揄されても 孫の為ならと 飛行機・新幹線にホテルと多額の旅費を費やした祖父母とともに訪れます。さすが勉強しています。知っています。 私は真剣にガイドします。

本日は、大崎八幡宮を学区とする 八幡小学校5年生6人から、四ッ谷用水が造られた目的、維持管理、活用、現状等を遺跡を辿りながら教えて欲しいと依頼で、市街地の遺跡 大崎八幡宮太鼓橋から 東北大学歯学部構内に残る支倉堀跡まで 2時間を要して案内・説明しました。

女児は熱心にメモを録り 撮影しています。男児はブラブラしています。「君たちはダイジョウブか?」と問いました 「ウン 頭がいいから」 マイッタ。記憶力の衰えた爺様は 即 メモが必要です。60歳の年齢差は恐ろしいです。

「頭がいいから」の発言のとおり 「工事はいつ始まり いつ終わりましたか。総工事費はいくらでしたか・・・」等の厳しい質問がありました。
あかとんぼ 小学5年生の時 このような質問出来なかったと 思い返し 今時の学童に感心しました。

担当の先生 ご多用であったらしく、出発時 途中も お見えにならず 学童のみ対応でした。FAXのみで学童を託された 私共の信用は絶大?。学童と学校を訪れ 教頭先生に 「安全に しっかりと伝えました」と報告しました。



2 月 6 日 (日)  



朝一番は、「県北から」の若い御夫妻。県北の何処とは申しませんが〔佐沼の首壇〕を知っているところから登米市民かなと推察しました。資料館を含め 丁寧に参拝・見学されました。

2番は、ハワイからの4世のお嬢さん。日本語のパンフを持っていましたので 理解できるか案じまして問いましたら「頑張ってみる」 かけ声だけでは無く 努力されるでしょうが無理な感じ。英文パンフをあげました。日文と英文と対照され 瑞鳳殿と政宗公を正しく理解して貰えれば幸いです。

涅槃門の彫刻等 丁寧に撮影されました。
手水鉢の吐龍 正面から撮影していましたので 「横顔も素敵です」 とアドバスしましたら  丁寧に「ありがとうございます」と返ってきました。涅槃門を背景に撮影したら「笑顔が足りませんでした。私のセイです もう一度シャッターを押して頂けませんか」 誠に鄭重な語り口です。一瞬宮家のお姫様かと 思いました。

昭和の初めの日本の良い風習が伝わっている家庭の子女でしょう。ガイド中の あかとんぼ に手を振って感仙殿に去って行きました。これは 現代ハワイっ子と表現すればよいのでしょうか。歴嬢には 見られない 優雅さがありました。

宇和島市産業経済部K部長から 「只今到着」の電話。
仙台駅前百貨店で開催中の「宇和島物産展」の責任者として来仙、「今日は博物館と仙臺城を 明日は是非 瑞鳳殿をお詣りしたい」と 昨日電話を頂いていました。

(財)瑞鳳殿の主任と次長に挨拶・歓談されました。名刺交換され 「アレ?」の発言。
アレの真意は尋ねませんでしたが、宇和島では 秀宗公をはじめ伊達家の墓所、天赦園は 伊達家の所有で 伊達事務所 で管理しているところから、仙臺でも同様  伊達事務所 で管理も予測していたのに (財)瑞鳳殿管理事務所であり 意外 のようです。

四国横断自動車道が完成した2013年 松山から宇和島まで1時間で結ばれます。その記念に 「大・伊達展(仮称)」を開催します。昨日 仙台市博物館を訪れ 資料の借用をお願いしてまいりました。こちらも あらためてお願いします。よろしくのご挨拶をされていました。

瑞鳳殿の参拝には、姉妹都市の幹部ですから (財)瑞鳳殿の学芸員が案内をするのが筋かも知れませんが、09年櫻観測隊でお世話になつた際、宇和島伊達家史跡を詳細に案内して頂いております ご縁で 僭越ながら あかとんぼ が お子様御廟迄 ご案内しました。

まずは、瑞鳳殿再建時の寄付芳名録表示版で「愛媛県宇和島市300万円」を確認、順次 涅槃門から。「シリーズ藩物語 現代書館」の依頼で 宇和島藩を執筆中との事、瑞鳳殿発掘調査報告書等も既に読まれて、宇和島と吉田と仙臺の各伊達家の出来事・歴史に精通されています。

通常の観光客様に対するガイドとは異なり、K部長が目の前の史跡と あかとんぼ所持の資料と確認 納得される この手順で 約3時間を要してご案内しました。この間 有意義なお話 情報を頂きました。詳しい方をご案内することは 緊張はします しかし 理解が早く 沢山返ってきます 楽しい一時でもあります。

ご教示頂いきました御礼に 仙台の郷土料理「おくずかけ」を昼食にとお誘いしましたが、物産展会場を長時間留守に出来ないとの事で、駅前百貨店迄お送りしました。

本日も 有意義 得るところある日でした。 



2 月 5 日 (土)  



伊達事務所

宇和島伊達家13代御当主の名刺。 竹に雀の家紋とともに「伊達事務所」と14P程の大きい文字でされています。

伊達事務所 ???
思い出しました。天赦園 入場券に 伊達事務所と記載ありました。

天赦園 国指定記念物(名勝)。指定理由は、「徳川末期における大名庭池水回遊式庭園として意匠技法に見るべきものがある」です。
寛文12(1672)年2代伊達宗利公が宇和島城の西南の海を埋め立て造成した濱御殿の一部で、周囲607m、面積16,303uの内、周囲489m、面積12,778uの池庭が(名勝)に昭和43(1968)年5月30日指定されています。

政宗公の 馬上少年過 世平白髪多 残躯 不楽是如何 の詩から 名付けられたもので、7代伊達宗紀(ムネノリ)は、一角に隠居所を造り、過ごされ100歳の長壽を全うされました。

名勝であり、長壽の目出度い所でもあり 昭和天皇は皇太子の時代大正11(1922)年と昭和41(1966)年と 行幸されています。

入場券の伊達事務所との記載 あらためて資料を確認しました。所有者 伊達家とありました。宇和島伊達家の所有で 宇和島市の所有ではありません。

愛媛県指定記念物(史跡)伊達秀宗の墓(夫人と殉死4人の墓を含む)〔所在 等覚寺〕、伊達宗城(ムネナリ)と夫人の墓。宇和島市指定記念物(史跡)宇和島藩主伊達家墓所〔所在 等覚寺・大庭寺〕、山家公頼の邸宅後、 これらが 伊達家の所有です。

寛文事件に関係する 伊達兵部一族の墓は、吉田町・大乗寺の所有です。吉田・伊達家の墓所は何らの指定が為されていないです。

指定記念物の項は、2009年12月宇和島市教育委員会発行「新宇和島の自然と文化」によりました。


今ひとつの肩書きに 財団法人宇和島伊達文化保存会 理事長 とあります。12代伊達宗禮様も本財団理事長の職にありました。

宇和島市立伊達博物館は、政宗公所用と伝えられ 具足をはじめ 宇和島伊達家伝来の品々を展示しています。所蔵は伊達家と財団です。幕末の維新と敗戦の混乱の世に よくぞ持ちこたえられたものと 敬服します。

仙臺伊達家は 諸事情がありました。



2 月 4 日 (金)  



宇和島伊達家御当主 来仙

政宗公から数える事 14代目 宇和島伊達家御当主 伊達宗信 様が 来仙されました。
御用の向きは、「愛媛県宇和島市フェア」に知事・市長と共に 宇和島10万石・吉田3万石の観光宣伝と特産品の販売促進です。

石橋宇和島市長に09年3月の櫻開花観測隊で1ケ月お世話になりました お禮を言上したところ、愛媛県知事と御当主をご紹介してくれました。

続いて、仙臺藩志会役員S様と市長と御当主と4人で歓談いたしました。藩志会員のU様 何故かこの時点に忽然と消えていました。

歓談の主な内容
仙臺は発展著しい 人口は100萬を超えた、宇和島は8.5萬人。政宗公の縁で 一番に姉妹都市の契りを結んだ。

あかとんぼ の感覚では、城下であった都市の人口は 禄高に比例・同数であるのが普通であった。仙臺は62万石なれど 俗に伊達j100万石と云われ 現在のj103万人に一致。盛岡・秋田も一致していた。であれば 宇和島は吉田と合算 13万石で 13萬の人口が居住して妥当なれど 減少しているは ・・・・・

宇和島は 現在13代目(起算は秀宗公) 仙台は18代目(起算は政宗公) 5代の差。7代宗紀(ムネタダ)は大変に長命であったが それだけかナ

宇和島の御当主は、江戸詰め(現在東京に職と住がある)と聞いていますが。
伊達事務所・財団法人宇和島伊達文化保存会の理事長で、月に1回は東京から帰っています。

政宗公の御霊屋をお詣りし 仙臺伊達家御当主にご挨拶したい気持ち 山々ですが 所用あい詰まり この後江戸に帰ります。

2012年 松山・宇和島間の自動車道 前線開通します。この機会に伊達展を盛大に開催する計画です。仙台市・仙台市民の皆様にも ご協力 宜しくお願いします。

1614年12月28日 2代将軍徳川秀忠は大阪にて、政宗公の勲功と秀宗の忠義を讃え、伊豫国宇和郡10万石を与え、国持格大名にしました。2014年にも 伊達家 入部400年祭を開催するのかな。


宇和島市フェア会場には、観光ポスターの展示、パンフはもとより、真珠・ジャコ天・柑橘類等 特産品の販売も行われています。6日までです。お出かけください。



2 月 2 日 (水)  



昨朝 10cm程の積雪でした。除排雪が終わる頃 晴天青空になりました。ガイド仲間のSさんから 西南の役に関わる鹿児島七士の頁新設を要望されています。絶好の撮影日和と瑞鳳寺墓地に向かいました。撮影は、雪を使用しては失敗し、伝統工法であらためて撮影しました。

隣接の駐車場は除雪されていますがガラガラ。杉の大木に覆われた本参道は、路面が凍結しております。お婆様が5・6人 スクラムを組み ソロソロと歩いていました。

晴天ですが寒気が厳しく 参拝者も少ないので 昇段しガイドする事なく帰巣しました。
相続いて 宇和島から 今季4度目の積雪 10cm程の積雪と 数々の写真と共に伝えて来ました。昔は こんなもの のコメントもありました。



2 月 1 日 (火)  



昨年10年11月2日の日誌の内容について、『仙台真田代々記』の著者小西幸雄様から 有り難いご教示を頂きました。

1.「証人奉行とは、初耳です。あかとんぼ も初聞です。室町幕府には この職名があり、裁判が公平に行われるように訴訟人の対決に立ち会った役とあります。徳川幕府では 見あたりません」との記述について、

☆「留守居年寄ともいい、大目付や町奉行などの重職を歴任し、年功を積んだ者が就任した旗本の極官で、証人(人質)は留守居の専管事項で、大名側からは証人奉行と呼ばれていた、寛文5(1665)年大名家中証人制が廃止されて、その仕事がなくなった」と〔徳川幕府事典・竹内誠編 2003年東京堂出版〕に記載ありますと、頁写しを添付、ご教示ありました。

2.「牧野内匠頭信成の履歴〔天正6(1578)年生、正保1(1644)年下総関宿17,000石に転封、慶安3(1650)時73歳で卒〕を確認しました。しかし、幕府証人奉行 なる職歴は見あたりませんでした」との記述について、

☆寛永3(1626)年留守居に就任しましたとご教示ありました。

3.「家中御親類家老の親族調書とあるが、伊達家の職制に家老職は無く 奉行と称したのではないか」との記述について、

☆寛永12(1635)年9月1日幕府の命として、御家中御親類家老の老母・兄弟・子供、男女、年齢まで委細に書き上げるべき旨、伊達家に命じた。ここの「家老」は幕府側の表現ですとご教示ありました。

4.「片倉家は 御一門ではありません、一家の格です」との記述について、

☆片倉家が一家に昇格したのは、慶安4(1651)年で、当時は「準一家」でした。白石城主であった為、大名の重臣から証人を取る趣旨から対象になったと思われますとご教示ありました。

このあかとんぼのHPをお読み頂き、確認調査の上 以上のご丁寧な内容に、更に資料を添付して (財)瑞鳳殿事務所気付でご教示頂きました。
小西幸雄様 厚く 御礼申し上げます。 





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